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2020-07-20

1990年7月18日世代

anond:20200719124707

ここまで来たら1970年までさかのぼってみようと思います

(なお、データはけんゆう様作成の「将棋棋士成績DB」を参照しています。けんゆう様には感謝を申し上げます

年齢棋士
67大山康晴A級/27位)
66
65
64
63
62
61
60
59
58
57
56
55
54有吉道夫(A級/22位)
53
52
51
50加藤一二三(B1/13位)内藤國雄(A級/17位)
49
48
47米長邦雄A級/8位)
46
45
44
43
42中原誠名人/3位)
41
40淡路仁茂(B1/18位)
39
38真部一男A級/50位)
37青野照市A級/7位)
36
35
34
33
32
31
30高橋道雄(A級/12位)福崎文吾(B1/20位)
29
28谷川浩司A級/1位)
27南芳一A級/5位)島朗B2/14位)
26神崎健二(C2/19位)
25塚田泰明(A級/11位)中田宏樹(C2/16位)
24森下卓C1/2位)
23
22阿部隆(C2/10位)
21
20佐藤康光C1/5位) 先崎学(C2/15位)
19羽生善治B2/6位)
18屋敷伸之C1/9位)

タイトルホルダー

中原誠名人棋聖王座:この直後8/1に屋敷伸之棋聖位を奪取されます谷川浩司王位羽生善治竜王米長邦雄王将南芳一棋王

縦長の表

このシリーズで一番の縦長ですが、その原因は言うまでもなく大山康晴です。この2年後69歳でA級在位のまま死去。ほんの数年前までは羽生善治ならそれに並びうるのではと思われていましたが、さてそれが達成できるかは見ものです。私も健康に気をつけてせめてその歳までは健康に生きていたいと願っております。あと、有吉道夫・内藤國雄の西の両巨匠もまだまだ指し盛りですね。ご両名はそれぞれ74歳、75歳まで現役を務めました(内藤規定による引退を待たずの自主引退)。このお二人が関東在住でしたら、2020年において長老格として加藤一二三けがメディアを独占する、ということもなかったのではないかなあ、とも。

55年組

この表だけ見ると谷川浩司の周りにずらっと名前があって多士済々。しかタイトルホルダーやタイトル経験者、A級在位者が多い。特に南芳一にいたってはこの前後数年でタイトル5期を重ねるなど最充実期といっていい活躍。にもかかわらず「谷川世代」という呼ばれ方はついにされず、しかもその後の歴史を見るに多分それは正しかった。1991年最後に、福崎文吾まで含めてこの年代棋士谷川以外誰一人タイトルに届きませんでした。そういう意味では、棋界の「見る目」というのは冷徹なほどに的確です。また、もしかしたら2020年における30歳前後棋士たちへの評価に重なる部分があるのかもしれません。

森下卓

この表だと塚田泰明とは1つしか年齢が違いませんが学年では2つ、プロ入りでは3年度下なので、55年組よりは「羽生世代」に近い位置づけをされる森下卓。昨年木村一基が初タイトルを奪取するまでは「無冠の帝王といえば森下木村か」と言われる存在でした。この年24歳、C1在籍ながら準タイトル戦格の全日本プロトーナメントを制しています。棋界一の律儀者とも称される物腰の柔らかさとじっくりとした矢倉を得意とする棋風で人気も高く、一般棋戦優勝8回、タイトル挑戦6回を数えながらついに54歳の今日までタイトルに手が届いていません。そのことについては本人の口からも幾度か語られてはいますが、それを判定できる人はだれもいないのでしょう。書かずもがなの無内容なことながら、それでも一筆書かずにおれないところがあります

羽生世代ポスト羽生世代

はい、30年前にもうこうやって出てくるわけですよ。この表の中には名前ないですけど村山聖森内俊之はレート的にはすぐこの下にいますし、郷田真隆丸山忠久はこの年の4月に新四段になったばかり、翌91年4月には藤井猛が、同10月には深浦康市が四段に上がってきます。そして屋敷伸之上記の通り、2回目のタイトル挑戦中で中原から棋聖を奪取し史上最年少タイトルホルダーに輝く。上は大山から下は屋敷まで、そして中原谷川羽生の3人のスターを抱えるこの時期の「幅の広さ」はその前後には見られない豊穣さといえましょう。

若き羽生善治、そして藤井聡太

レーティングという指標で見るなら、実は羽生藤井聡太よりもほんの少しだけ早い17歳6ヶ月で全棋士中1位になっています(88年3月藤井聡太20202月17歳7ヶ月。この比較こそ数字遊びに過ぎませんが羽生のほうが藤井よりプロ入りが遅く勝率も低いのに対局数と勝数の要素でこうなっています追記eloにせよglickoにせよ「将棋棋士場合は」全体のレートがマイルドインフレする(対して大相撲力士レーティングは目立ってインフレしない)ので攻略する頂の高さは羽生より藤井の方がずっと高いのでした。その分藤井のほうが増やしやすくはありますが)。この時期は、ちょうど羽生にしては珍しい「不調」といえる時期で、もしかすると当時史上最年少でのタイトル獲得に伴う環境の激変の影響が出ていたのかもしれません。この年の秋には谷川の挑戦を受けた竜王戦で防衛を果たせず、年明けの棋王戦で南から棋王位を奪取してすぐにタイトルホルダーに復帰するものの、「前竜王」の呼称がなくなった現行の方式であれば、この4ヶ月弱ほど「羽生七段」になっていたということになります。そういう意味では、藤井聡太のここから1年ほど、あるいは高校卒業したあとの1年くらいの動向には注目すべきでしょう。これまでは学業優先で免除されていた普及活動将棋連盟主催イベントタイトル主催企画シンポジウム講演会の依頼、単著執筆依頼、テレビ出演への依頼などがそれでなくても多い対局の合間に豪雨のように降ってくるわけですから

2020-07-12

anond:20200710030004

かに、今更1970年言論なんて持ち出してどうしちゃったんだろうとは思った。

2020-06-16

EXPO'70 の呪縛

大阪万博会場3Dと、当時の写真が見れるサイトみつけて、ノスタルジックエモおしゃすぎて死にそうなのと、

1970年に生まれていなかったことを激しく悔やんだので、HP感想と、私のEXPO70の呪縛について語る。

https://www.asahi.com/special/expo70/#3d

(朝日新聞の回し者ではありません。政治思想とかもないので、あしからず)

こんなにエモちらかしたイベント、今やっても大盛況になるに決まってるじゃない。

しろ、今の日本経済状況で、こんな大規模に各国のパビリオンを作れるとは思えない。それが悲しい。そして1970年代の、生き生きとした日本ノスタルジックに語るかつての日本人たちと同じテンションで話せないのが悔しい。1970大阪万博テーマにした作品は数多くある。20世紀少年しろクレヨンしんちゃんのオトナ帝国しろ万博世代でなくてもノスタルジックに浸れるが、当時を経験している人々と同じ熱を持てるわけがなく、見聞きした情報脳内補完するしかないのだ。

これはクリエイター作風にも影響すると思う。共通言語で語れる何かは、その世代の時を生きる人たちに対して、何らかの影響を人生に及ぼしたるものであり、共感を与える。語らずとも全国民が共有して認識している事柄、そして気持ちを揺さぶる何かに1970年があることが、とても羨ましいのだ。

翻って、我々の世代での共通言語とは何か。私が物心ついた時から記憶では、地下鉄サリン阪神・淡路大震災9.113.11、そしてコロナだ。これらは、世界レベルでの共通言語かもしれないが、ちっとも、たのしくない。わくわくしない。ノスタルジックを感じさせるものではない。なんなんだろう。

大阪万博のに関連したキーワードは、とっても心が踊る。「エキスポ」「パビリオン」「人類進歩調和」どれもなんか楽しそうで、なんかかっこいい。インターネットもなく、情報が少ない時代に、情報がとんでもなく詰まった、夢のテーマパークが、現れたらそりゃ楽しいよね。現代は逆で、情報過多な社会と言われている。取捨選択しないと自殺まで追い込まれるくらいに情報が多い。

楽しい自由は、ある程度の不自由の上に成り立つと思っていて、制限がある中でその隙間をぬって自由を見つけるから達成感があるのかなと思う。授業中にマンガ読み放題だったら、多分読まない。今は情報が多過ぎるがゆえに、しんどいニュースがいっぱい拾い上げられやすいのかなと思う。誰かを叩いたり、妬んだりのほうが視聴率アクセス数が稼げて、キラキラした未来の裏を暴露して足引っ張ったり、前向きなことやるより後ろ向きなことを世に出したほうが短期的にお金稼げるのかなと思う。

あとは勢いが出なくなってる。でけーイベントやろうと思うと、ある程度頭空っぽにして、イケイドンドンで進めていく人がいないと、周りの意見ぜーんぶきいてたら企画倒れすると思う。岡本太郎太陽の塔、当時だって反対する人が沢山いたというのだから、今だったらできてないかも。後世から見て賞賛されることも、現世で叩き潰されたら、なんも残らんなと。保守的に立ち振る舞うのが今のSNS社会処世術だけど、破天荒やばい人が拾い上げられなくなってる気がして、なんでも世論に問いかけて同意を得るのは違うんじゃねーか、と、渋谷駅岡本太郎の絵を眺めながら、思った次第であります

2020-06-03

anond:20200603180557

うそう、そういう読み取りでもいいんよね!

実際わからんけど、少なくとも現状においては、正の相関関係にあるし、1970年1980年現在と働き方も違うし、単純に比較もできないから難しいんよね。

https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s3_1_2.html

経済的基盤やらなんやらが安定しないと結婚できないし、結婚しないと子供を産まないのが日本の現状だから女性経済力つけて男性経済力への依存を減らせば結婚へのハードルは下がると思うし、結婚が増えれば出産も増えると考えられる。

自民党婚活に力を入れたりして、結婚を増やすことによる少子化へのアプローチ始めてるんだよね。

2020-03-29

去年の11月三島由紀夫Twitter辞める辞めないと騒ぎになった時、バイトの先輩から「あの人ああ見えて乙女から慰めてやんな」と言われたけど、その時はその意味が分からず「それは絶対ないですよ」と笑って退けたのを今でも後悔している。あの時自分三島由紀夫に何かしてあげれていれば、1970年市ヶ谷駐屯地での彼の行動も変わっていたかもしれない。

2020-03-17

氷河期世代って2700万人位いるらしい

1970年1982年または1984年までに生まれた人のことを言うらしいので

非正規が多い女性地方民入れてもこの世代の平均は466万ある模様

大半が普通に就職してるね?

 

anond:20210811205735

anond:20200317100559

氷河期氷河期うからググってみたが期間めっちゃ長いじゃん

30ー40代(1970年から1982年または1984年までに生まれた人)に生まれた人のことらしいで

anond:20200317080913

1年で区切ることもなかろう。

1970年1月1日午前0時0分0秒からの経過時間だけでいい。

2020-03-01

ふと思った事の備忘録(本文中敬称略

Until Strawberry Sherbet林原めぐみ https://ja.wikipedia.org/wiki/Until_Strawberry_Sherbetにおける「作詞:Mamie D. Lee 作曲編曲大森俊之」の

作詞:Mamie D. Lee

RHYMESTER日本ヒップホップグループhttps://www.rhymester.jp/ https://ja.wikipedia.org/wiki/RHYMESTER メンバー

Mummy-D https://www.rhymester.jp/bio-mummy-d/ https://ja.wikipedia.org/wiki/Mummy-D

との関係性について、ちょっと気になって調べて見たので備忘録代わりに記録。

◎「Until Strawberry Sherbet」はシングルCDとして「1994年5月25日リリース(https://ja.wikipedia.org/wiki/Until_Strawberry_Sherbet)」

Until Strawberry Sherbet作詞者「Mamie D. Lee」で検索するとアメリカ?の学校が出てくる。

RHYMESTERの「Mummy-D」は

1970年横浜市まれ。(https://www.rhymester.jp/bio-mummy-d/)」

1989年、「早稲田大学ソウルミュージック研究会ギャラクシー」にて、当時2年生であった佐々木士郎(現・宇多丸)と新入生として入部してきた坂間大介(現・Mummy-D)がRHYMESTERを結成。(https://ja.wikipedia.org/wiki/RHYMESTER)」

1993年アルバム『俺に言わせりゃ』でRHYMESTERデビュー。(https://ja.wikipedia.org/wiki/RHYMESTER)」

●これらの名称および時間的経過から個人的に推測してみたこ

Until Strawberry Sherbet作詞者「Mamie D. Lee」は、RHYMESTERの「Mummy-D」じゃないのかな?

1994年当時に英語日本語混在のラップ作詞出来る人物となると相当人数が絞られると思うけど、それって1989年グループ結成1993年デビューしたRHYMESTER所属している「Mummy-D」であれば可能な事なのかも?と希望的観測を含めた推測をしてみるw

もしこの推測が正しくてUntil Strawberry Sherbetシングル発売当時は様々な事情で言い出せなかった事を言える環境になっているのであれば、どこかでその辺の話をしてもらえると嬉しいし、有りがたいなぁ、と思う。

2020-02-07

anond:20200207154500

にほんきゅうけつじゅうちゅう 

変換でないとおもったら

にほんじゅうきゅうけつちゅうだった

ちがった

にほんじゅうけつきゅうちゅうだ

利根川流域(埼玉茨城千葉県)はかつて有病地で、1970年河川敷で放牧されていた乳牛に再発生した。このため千葉県自衛隊に依頼してミヤイリガイ生息地を火炎放射器で焼き払ったうえに客土で覆い、放牧地として使わなくする措置をとった

2020-02-02

なあ、この団地1970年築でもう50年なんだけど、後何年住めると思う?

この部屋に住めなくなれば、間違いなく人生詰むんだけど。

2020-01-31

お笑い芸人世代分けを再考する

多くの人はこちらのWikipedia記事を参照していると思われる。

日本お笑い史 - Wikipedia

この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。

芸名活動開始人気が出た年代備考
横山エンタツ花菱アチャコ1930年1930年しゃべくり漫才元祖コンビとしては1934年解散するが、それから60年代までラジオ映画などで活躍アチャコ吉本看板芸人となる。
夢路いとし・喜味こいし1937年1950年代1949年ごろからラジオ番組上方演芸会』に出演して名をあげる。いとしが亡くなる2003年まで漫才を続けて「上方漫才の宝」と称される。
中田ダイマル・ラケット1941年1950年代1957年開始のテレビ番組ダイラケのびっくり捕物帖』はテレビの「上方コメディ番組元祖
ザ・ドリフターズ1956年1960年代1963年開始のテレビ番組大正テレビ寄席』に出演したこからコントを中心とするようになり、1969年開始のテレビ番組8時だョ!全員集合』にて大ブレイクする。
てんぷくトリオ1961年1960年代大正テレビ寄席』などへの出演で人気を博す。「トリオブーム」の中心的存在三波伸介1970年テレビ番組笑点』の司会に就任するなどしてテレビスターに。
コント55号1966年1960年代1968年開始のテレビ番組『お昼のゴールデンショー』『コント55号の世界は笑う』などで支持を得てドリフと人気を二分する。1975年以降は萩本欽一がピンで活躍する。
横山やすし・西川きよし1966年1960年代60年代後半に演芸ブームに乗って人気を獲得、80年代前半までバラエティ番組の司会などで活躍する。「漫才ブーム」では大将格となる。
B&B1972年1980年代実力は評価されつつ関西でくすぶっていたが、吉本芸人としていちはや東京進出したことで人気を得て、漫才ブームを牽引した。
ツービート1972年1980年代漫才ブームに乗って「毒舌」を武器に台頭。特にビートたけしは、1981年開始のテレビ番組オレたちひょうきん族』などへの出演からピンで大人気となった。
明石家さんま1974年1980年代70年代後半から関西で人気を獲得、東京進出してのち『オレたちひょうきん族』でブレイク。たけし・タモリと合わせて「お笑いBIG3」の一人と称される。
タモリ1976年1980年代キワモノ芸人としてマニアックな人気があったが、1982年開始のテレビ番組笑っていいとも!』の司会を務めるなどしてお茶の間の顔となる。
島田紳助松本竜介1976年1980年代漫才ブームに乗って「ツッパリ漫才」で若者の支持を得る。『ひょうきん族』にも出演して人気を博す。1985年コンビ解散して以降は、島田紳助がピンで活躍した。
とんねるず1980年1980年代お笑いスター誕生!!』に素人ながら出場して知名度を高める。ラジオ深夜番組若者からの支持を獲得する。1984年楽曲『一気!』がヒット、1988年に冠のテレビ番組みなさんのおかげです』を開始する。
ダウンタウン1982年1990年代1987年開始のテレビ番組4時ですよーだ』の司会をきっかけに関西若者から爆発的な人気を得る。80年代末に東京進出深夜番組夢で逢えたら』を経て、1991年に冠のテレビ番組ごっつええ感じ』を開始する。
ウッチャンナンチャン1985年1990年代結成当初に『お笑いスター誕生!!』に出場している。1988年開始の深夜番組夢で逢えたら』で知名度を上げ、1990年に冠のテレビ番組『誰かがやらねば!』『やるならやらねば!』を開始する。
爆笑問題1988年2000年代1994年開始のテレビ番組タモリのSuperボキャブラ天国』で人気を博す。90年代後半から深夜帯を中心に冠番組が増えはじめ、2000年ごろからゴールデンでもレギュラー番組をいくつも抱えるようになる。
雨上がり決死隊1989年2000年代1991年に結成されたアイドル芸人ユニット吉本印天然素材」のリーダー格。2000年開始のテレビ番組ワンナイR&R』や2003年開始の冠番組アメトーーク!』などで人気を博した。
さまぁ〜ず1989年2000年代90年代前半に「バカルディ」名義でいちど人気が出たが、2000年ごろに「さまぁ〜ず」に改名して再ブレイク、多数の冠番組を抱えるようになる。
ナインティナイン1990年1990年代吉本印天然素材」出身1994年開始のテレビ番組ぐるぐるナインティナイン』、1996年開始の『めちゃ×2イケてるッ!』など、早くから冠番組を持ってブレイクする。
くりぃむしちゅー1991年2000年代タモリのSuperボキャブラ天国』にて「海砂利水魚」名義で人気を博す。2003年ごろから再び人気が出はじめ、2000年代後半には多数のレギュラー番組を抱えるようになる。
ロンドンブーツ1号2号1993年1990年代ダウンタウンナイナイに続く、若者人気の高いコンビとして早くからプッシュされ、90年代後半から『ぷらちなロンドンブーツ』『ロンドンハーツ』など多数の冠番組を持つようになる。
ネプチューン1993年2000年代タモリのSuperボキャブラ天国』で人気を博す。1999年開始のテレビ番組『力の限りゴーゴゴー!!』で司会に抜擢されるなどしてブレイク2000年代には多くのレギュラー番組を抱えるようになる。
バナナマン1993年2010年代あえて『ボキャブラ』への出演をせず、ライブ中心に活動したことで売り出しが遅れたものの、2000年代半ばから徐々にテレビに出演しはじめ、2012年ごろから冠番組が急増してブレイクした。
有吉弘行1994年2000年代『進め!電波少年』の企画1996年に「猿岩石」としてブレイクするもまもなく停滞。2004年からピン芸人として活動を始め、2007年ごろから毒舌ネタ再ブレイク
タカアンドトシ1994年2000年代札幌で結成されたコンビで、2002年東京進出2005年ごろから笑いの金メダル』などで披露した「欧米か!」というツッコミ流行り、2000年代後半には複数冠番組を持つようになる。
ブラックマヨネーズ1998年2000年代2005年M-1グランプリで優勝する。2006年東京進出し、2010年ごろから冠番組を持ちはじめる。
チュートリアル1998年2000年代2006年M-1グランプリで優勝する。2007年東京進出し、2010年ごろから冠番組を持ちはじめる。
サンドウィッチマン1998年2000年代2007年M-1グランプリで敗者復活から優勝する。2010年代後半からレギュラー番組が増加し、2018年芸人好感度ランキングトップに立った。
オードリー2000年2000年代2008年M-1グランプリで敗者復活から2位となりブレイク
オリエンタルラジオ2003年2000年代結成してすぐの2005年ごろに「武勇伝ネタブレイクし、まもなく冠番組を含むレギュラー番組を持つことになった。
霜降り明星2013年2010年代2018年M-1グランプリで優勝する。

まず画期としては1953年テレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこいダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。

次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語漫談漫才コントコミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフ萩本欽一コント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。

続いて、1980年放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし明石家さんま山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。

その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成出身の若手が、小劇場ライブで腕を磨き、夕方番組深夜番組きっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴であるとんねるずダウンタウンウッチャンナンチャンがこの世代代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。

次に来るのが「ボキャブラ世代である1992年から1999年まで続いた『タモリボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人ネタ見せ番組に移行。この番組登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題くりぃむしちゅーネプチューンあたりが代表格となる。

2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組スタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人レベル底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年M-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算番組が増加した。(2010年までの)M-1ブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。

2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代バラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか2020年現在芸人の主戦場YouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。

2020-01-08

[]Time::Localのバグっぽい仕様

My Y2020 Bug | Tom Wyant [blogs.perl.org]

http://blogs.perl.org/users/tom_wyant/2020/01/my-y2020-bug.html

以下のコードを実行すると、1970-01-01が欲しい所に、2070-01-01が返ってくるという問題

https://ideone.com/OOD6yU

#!/usr/bin/perl
use 5.028;
use warnings;
use POSIX qw(strftime);
use Time::Local;

my $t = timegm(0, 0, 0, 1, 0, 70);
say strftime("%Y-%m-%d %H:%M:%S", gmtime($t));

2070-01-01 00:00:00

https://metacpan.org/pod/Time::Local#Year-Value-Interpretation

Years in the range 0..99 are interpreted as shorthand for years in the rolling "current century," defined as 50 years on either side of the current year.

(snip)

Whenever possible, use an absolute four digit year instead.

Time::Localの仕様として、年数に2桁の値を与えた場合19xx年と20xx年、現在時間から近い年を取るらしい。

70を与えた場合、今は2020年1月8日なので、1970年ではなく、2070年が取られる模様。

対策としては、ドキュメントにあるように、年数は4桁で与えるようにするのが良いと思う。

2020-01-05

1970年が50年前って怖くね?

なんか怖い

2020-01-03

2020年から来ました」って1970年タイムスリップしたら

絶対うそやん、今とそんな変わってないじゃん」

と言われそう。スマホ以外たいした未来感なくてすみませんと謝ってしまいそう。

2020-01-02

生モノ存在できない時代になりつつある

日々生きてると実感しづいかもしれませんが、現代社会は日々向上しています

とくに科学技術テクノロジーレイ・カーツワイル指数関数的に伸びてるとか言ってますが、それを信じるしんじないにしろ今の所確実に成長を続けています

なにか買っても数年後にはテクノロジーの向上で、価格が大幅に下落したり飛躍的に向上した製品が出現するので、現段階の商品サービスを無理して買う必要はありません。

かに今までもテクノロジーの変化のせいで過去遺産がだめになることがありました。レコードからCDへ変わったりVHSからDVDへ変わったり。その変化にかかる期間が狭まってます

歴史適当なのでずれてたらメンゴ

企業コンピューター利用が始まる


家庭に電子機器が入ってくる

一般家庭にPCが入ってくる

個人PC匹敵する無線端末を常時持ち歩く

動画コンテンツストリーミングで消費し始める

無線通信で動画コンテンツストリーミング消費、発信するようになる

人体の動作バーチャル空間アバター表現するようになる

社会の動きも目まぐるしく、当たり前だと思われていた年賀状を書く文化ももうありません。携帯ストラップをジャラジャラつけていたのさえほんの10年前だし、物理鍵や財布など、今まさになくなろうとしているものもたくさんあります

自動運転が出来るっていうのに免許を取るだとか、電気自動車が主流になるかもしれないのにガソリン車を買うだとか、新しい断熱材や最新の施工技術が出てくるかもしれないのに家を建てるだとか、日毎変化しているなかでものを所有するリスクが日々高まっている。

2020-01-01

1970年から50年経ったらしい

あのころ未来に僕らは立っているのかなあ…

と言いたくなるくらい字面だけはマジの未来だな2020年

いやでも本当に「未来っぽいな」って思うのインターネットスマホだけじゃん?

宇宙開発自動運転VRAIサイボーグもぜんぜん初期段階じゃん。

街並みもそんな簡単には更新されねえなあ。

案外、未来ってこんなものなのね。

50年後は2070年。

カウボーイビバップかあ。

未来想像するときは「街並みは大して変わらん」「技術進化にはムラがある」ってことを考慮すべきだな。

2019-12-14

プログラマージョーク 世界の始まり

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