はてなキーワード: 1970年とは
(なお、データはけんゆう様作成の「将棋棋士成績DB」を参照しています。けんゆう様には感謝を申し上げます)
年齢 | 棋士 |
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67 | 大山康晴(A級/27位) |
66 | |
65 | |
64 | |
63 | |
62 | |
61 | |
60 | |
59 | |
58 | |
57 | |
56 | |
55 | |
54 | 有吉道夫(A級/22位) |
53 | |
52 | |
51 | |
50 | 加藤一二三(B1/13位)内藤國雄(A級/17位) |
49 | |
48 | |
47 | 米長邦雄(A級/8位) |
46 | |
45 | |
44 | |
43 | |
42 | 中原誠(名人/3位) |
41 | |
40 | 淡路仁茂(B1/18位) |
39 | |
38 | 真部一男(A級/50位) |
37 | 青野照市(A級/7位) |
36 | |
35 | |
34 | |
33 | |
32 | |
31 | |
30 | 高橋道雄(A級/12位)福崎文吾(B1/20位) |
29 | |
28 | 谷川浩司(A級/1位) |
27 | 南芳一(A級/5位)島朗(B2/14位) |
26 | 神崎健二(C2/19位) |
25 | 塚田泰明(A級/11位)中田宏樹(C2/16位) |
24 | 森下卓(C1/2位) |
23 | |
22 | 阿部隆(C2/10位) |
21 | |
20 | 佐藤康光(C1/5位) 先崎学(C2/15位) |
19 | 羽生善治(B2/6位) |
18 | 屋敷伸之(C1/9位) |
中原誠(名人・棋聖・王座:この直後8/1に屋敷伸之に棋聖位を奪取されます)谷川浩司(王位)羽生善治(竜王)米長邦雄(王将)南芳一(棋王)
このシリーズで一番の縦長ですが、その原因は言うまでもなく大山康晴です。この2年後69歳でA級在位のまま死去。ほんの数年前までは羽生善治ならそれに並びうるのではと思われていましたが、さてそれが達成できるかは見ものです。私も健康に気をつけてせめてその歳までは健康に生きていたいと願っております。あと、有吉道夫・内藤國雄の西の両巨匠もまだまだ指し盛りですね。ご両名はそれぞれ74歳、75歳まで現役を務めました(内藤は規定による引退を待たずの自主引退)。このお二人が関東在住でしたら、2020年において長老格として加藤一二三だけがメディアを独占する、ということもなかったのではないかなあ、とも。
この表だけ見ると谷川浩司の周りにずらっと名前があって多士済々。しかもタイトルホルダーやタイトル経験者、A級在位者が多い。特に南芳一にいたってはこの前後数年でタイトル5期を重ねるなど最充実期といっていい活躍。にもかかわらず「谷川世代」という呼ばれ方はついにされず、しかもその後の歴史を見るに多分それは正しかった。1991年を最後に、福崎文吾まで含めてこの年代の棋士は谷川以外誰一人タイトルに届きませんでした。そういう意味では、棋界の「見る目」というのは冷徹なほどに的確です。また、もしかしたら2020年における30歳前後の棋士たちへの評価に重なる部分があるのかもしれません。
この表だと塚田泰明とは1つしか年齢が違いませんが学年では2つ、プロ入りでは3年度下なので、55年組よりは「羽生世代」に近い位置づけをされる森下卓。昨年木村一基が初タイトルを奪取するまでは「無冠の帝王といえば森下か木村か」と言われる存在でした。この年24歳、C1在籍ながら準タイトル戦格の全日本プロトーナメントを制しています。棋界一の律儀者とも称される物腰の柔らかさとじっくりとした矢倉を得意とする棋風で人気も高く、一般棋戦優勝8回、タイトル挑戦6回を数えながらついに54歳の今日までタイトルに手が届いていません。そのことについては本人の口からも幾度か語られてはいますが、それを判定できる人はだれもいないのでしょう。書かずもがなの無内容なことながら、それでも一筆書かずにおれないところがあります。
はい、30年前にもうこうやって出てくるわけですよ。この表の中には名前ないですけど村山聖と森内俊之はレート的にはすぐこの下にいますし、郷田真隆と丸山忠久はこの年の4月に新四段になったばかり、翌91年4月には藤井猛が、同10月には深浦康市が四段に上がってきます。そして屋敷伸之が上記の通り、2回目のタイトル挑戦中で中原から棋聖を奪取し史上最年少タイトルホルダーに輝く。上は大山から下は屋敷まで、そして中原・谷川・羽生の3人のスターを抱えるこの時期の「幅の広さ」はその前後には見られない豊穣さといえましょう。
レーティングという指標で見るなら、実は羽生は藤井聡太よりもほんの少しだけ早い17歳6ヶ月で全棋士中1位になっています(88年3月、藤井聡太は2020年2月に17歳7ヶ月。この比較こそ数字遊びに過ぎませんが羽生のほうが藤井よりプロ入りが遅く勝率も低いのに対局数と勝数の要素でこうなっています※追記:eloにせよglickoにせよ「将棋棋士の場合は」全体のレートがマイルドにインフレする(対して大相撲力士のレーティングは目立ってインフレしない)ので攻略する頂の高さは羽生より藤井の方がずっと高いのでした。その分藤井のほうが増やしやすくはありますが)。この時期は、ちょうど羽生にしては珍しい「不調」といえる時期で、もしかすると当時史上最年少でのタイトル獲得に伴う環境の激変の影響が出ていたのかもしれません。この年の秋には谷川の挑戦を受けた竜王戦で防衛を果たせず、年明けの棋王戦で南から棋王位を奪取してすぐにタイトルホルダーに復帰するものの、「前竜王」の呼称がなくなった現行の方式であれば、この4ヶ月弱ほど「羽生七段」になっていたということになります。そういう意味では、藤井聡太のここから1年ほど、あるいは高校を卒業したあとの1年くらいの動向には注目すべきでしょう。これまでは学業優先で免除されていた普及活動、将棋連盟主催のイベント、タイトル戦主催者企画のシンポジウムや講演会の依頼、単著の執筆依頼、テレビ出演への依頼などがそれでなくても多い対局の合間に豪雨のように降ってくるわけですから。
大阪万博会場3Dと、当時の写真が見れるサイトみつけて、ノスタルジックエモおしゃすぎて死にそうなのと、
1970年に生まれていなかったことを激しく悔やんだので、HPの感想と、私のEXPO70の呪縛について語る。
https://www.asahi.com/special/expo70/#3d
(朝日新聞の回し者ではありません。政治思想とかもないので、あしからず)
こんなにエモちらかしたイベント、今やっても大盛況になるに決まってるじゃない。
むしろ、今の日本の経済状況で、こんな大規模に各国のパビリオンを作れるとは思えない。それが悲しい。そして1970年代の、生き生きとした日本をノスタルジックに語るかつての日本人たちと同じテンションで話せないのが悔しい。1970大阪万博をテーマにした作品は数多くある。20世紀少年にしろ、クレヨンしんちゃんのオトナ帝国にしろ、万博世代でなくてもノスタルジックに浸れるが、当時を経験している人々と同じ熱を持てるわけがなく、見聞きした情報で脳内補完するしかないのだ。
これはクリエイターの作風にも影響すると思う。共通言語で語れる何かは、その世代の時を生きる人たちに対して、何らかの影響を人生に及ぼしたるものであり、共感を与える。語らずとも全国民が共有して認識している事柄、そして気持ちを揺さぶる何かに、1970年があることが、とても羨ましいのだ。
翻って、我々の世代での共通言語とは何か。私が物心ついた時からの記憶では、地下鉄サリン、阪神・淡路大震災、9.11、3.11、そしてコロナだ。これらは、世界レベルでの共通言語かもしれないが、ちっとも、たのしくない。わくわくしない。ノスタルジックを感じさせるものではない。なんなんだろう。
大阪万博のに関連したキーワードは、とっても心が踊る。「エキスポ」「パビリオン」「人類の進歩と調和」どれもなんか楽しそうで、なんかかっこいい。インターネットもなく、情報が少ない時代に、情報がとんでもなく詰まった、夢のテーマパークが、現れたらそりゃ楽しいよね。現代は逆で、情報過多な社会と言われている。取捨選択しないと自殺まで追い込まれるくらいに情報が多い。
楽しい自由は、ある程度の不自由の上に成り立つと思っていて、制限がある中でその隙間をぬって自由を見つけるから達成感があるのかなと思う。授業中にマンガ読み放題だったら、多分読まない。今は情報が多過ぎるがゆえに、しんどいニュースがいっぱい拾い上げられやすいのかなと思う。誰かを叩いたり、妬んだりのほうが視聴率やアクセス数が稼げて、キラキラした未来の裏を暴露して足引っ張ったり、前向きなことやるより後ろ向きなことを世に出したほうが短期的にお金稼げるのかなと思う。
あとは勢いが出なくなってる。でけーイベントやろうと思うと、ある程度頭空っぽにして、イケイケドンドンで進めていく人がいないと、周りの意見ぜーんぶきいてたら企画倒れすると思う。岡本太郎の太陽の塔、当時だって反対する人が沢山いたというのだから、今だったらできてないかも。後世から見て賞賛されることも、現世で叩き潰されたら、なんも残らんなと。保守的に立ち振る舞うのが今のSNS社会の処世術だけど、破天荒なやばい人が拾い上げられなくなってる気がして、なんでも世論に問いかけて同意を得るのは違うんじゃねーか、と、渋谷駅の岡本太郎の絵を眺めながら、思った次第であります。
そうそう、そういう読み取りでもいいんよね!
実際わからんけど、少なくとも現状においては、正の相関関係にあるし、1970年~1980年は現在と働き方も違うし、単純に比較もできないから難しいんよね。
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s3_1_2.html
経済的基盤やらなんやらが安定しないと結婚できないし、結婚しないと子供を産まないのが日本の現状だから、女性に経済力つけて男性の経済力への依存を減らせば結婚へのハードルは下がると思うし、結婚が増えれば出産も増えると考えられる。
災害 | 年 | 犠牲者数 |
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スペインかぜ | 1918年-1919年 | 1700万-5000万人 |
アジアかぜ | 1956年-1957年 | 200万人 |
香港かぜ | 1968年-1969年 | 100万人 |
唐山地震 | 1974年 | 24万-80万人 |
サイクロン・ボーラ | 1970年 | 30万-50万人 |
ハイチ地震 | 2010年 | 22万-31万人 |
新型コロナウイルス | 2020年- | 30万人+ |
タイフーン・ニーナ | 1975年 | 22.9万人 |
海原地震 | 1920年 | 20万-24万人 |
スマトラ島沖地震 | 2004年 | 22万人 |
関東大震災 | 1923年 | 14.2万人 |
サイクロン・ナルギス | 2008年 | 13.8万人 |
バングラデシュ・サイクロン | 1991年 | 13.7万人 |
東日本大震災 | 2011年 | 1.8万人 |
伊勢湾台風 | 1959年 | 0.5万人 |
Until Strawberry Sherbet/林原めぐみ https://ja.wikipedia.org/wiki/Until_Strawberry_Sherbetにおける「作詞:Mamie D. Lee 作曲・編曲:大森俊之」の
と
RHYMESTER(日本のヒップホップグループ) https://www.rhymester.jp/ https://ja.wikipedia.org/wiki/RHYMESTER メンバーの
Mummy-D https://www.rhymester.jp/bio-mummy-d/ https://ja.wikipedia.org/wiki/Mummy-D
との関係性について、ちょっと気になって調べて見たので備忘録代わりに記録。
◎「Until Strawberry Sherbet」はシングルCDとして「1994年5月25日にリリース(https://ja.wikipedia.org/wiki/Until_Strawberry_Sherbet)」
Until Strawberry Sherbetの作詞者「Mamie D. Lee」で検索するとアメリカ?の学校が出てくる。
「1970年横浜市生まれ。(https://www.rhymester.jp/bio-mummy-d/)」
「1989年、「早稲田大学ソウルミュージック研究会ギャラクシー」にて、当時2年生であった佐々木士郎(現・宇多丸)と新入生として入部してきた坂間大介(現・Mummy-D)がRHYMESTERを結成。(https://ja.wikipedia.org/wiki/RHYMESTER)」
「1993年、アルバム『俺に言わせりゃ』でRHYMESTERデビュー。(https://ja.wikipedia.org/wiki/RHYMESTER)」
Until Strawberry Sherbetの作詞者「Mamie D. Lee」は、RHYMESTERの「Mummy-D」じゃないのかな?
1994年当時に英語と日本語混在のラップを作詞出来る人物となると相当人数が絞られると思うけど、それって1989年にグループ結成1993年にデビューしたRHYMESTERに所属している「Mummy-D」であれば可能な事なのかも?と希望的観測を含めた推測をしてみるw
もしこの推測が正しくてUntil Strawberry Sherbetのシングル発売当時は様々な事情で言い出せなかった事を言える環境になっているのであれば、どこかでその辺の話をしてもらえると嬉しいし、有りがたいなぁ、と思う。
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
ピエール中野(ピエールなかの、1980年7月18日 - )は、日本のスリーピースロックバンド「凛として時雨」のドラムス、ギター担当。
浜田ピエール裕介(はまだピエールゆうすけ、1975年12月15日 - )は、大阪府門真市出身の音楽プロデューサー、作曲家、アレンジャー、ギタリスト、ピアニスト。
杉浦 理史(すぎうら まさふみ、1977年9月6日 - )は、日本の俳優。ピエール杉浦の名義で、放送作家・脚本・演出・ダンス振り付けも行う。
松原 秀典(まつばら ひでのり、1965年11月15日 - )は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、イラストレーター。別名義に、ピエール松原やヒデ松原がある。
My Y2020 Bug | Tom Wyant [blogs.perl.org]
http://blogs.perl.org/users/tom_wyant/2020/01/my-y2020-bug.html
以下のコードを実行すると、1970-01-01が欲しい所に、2070-01-01が返ってくるという問題。
#!/usr/bin/perl use 5.028; use warnings; use POSIX qw(strftime); use Time::Local; my $t = timegm(0, 0, 0, 1, 0, 70); say strftime("%Y-%m-%d %H:%M:%S", gmtime($t));
2070-01-01 00:00:00
https://metacpan.org/pod/Time::Local#Year-Value-Interpretation
Years in the range 0..99 are interpreted as shorthand for years in the rolling "current century," defined as 50 years on either side of the current year.
(snip)
Whenever possible, use an absolute four digit year instead.
Time::Localの仕様として、年数に2桁の値を与えた場合、19xx年と20xx年、現在の時間から近い年を取るらしい。
日々生きてると実感しづらいかもしれませんが、現代社会は日々向上しています。
とくに科学技術やテクノロジーはレイ・カーツワイルが指数関数的に伸びてるとか言ってますが、それを信じるしんじないにしろ今の所確実に成長を続けています。
なにか買っても数年後にはテクノロジーの向上で、価格が大幅に下落したり飛躍的に向上した製品が出現するので、現段階の商品はサービスを無理して買う必要はありません。
確かに今までもテクノロジーの変化のせいで過去の遺産がだめになることがありました。レコードからCDへ変わったりVHSからDVDへ変わったり。その変化にかかる期間が狭まってます。
家庭に電子機器が入ってくる
無線通信で動画コンテンツをストリーミング消費、発信するようになる
社会の動きも目まぐるしく、当たり前だと思われていた年賀状を書く文化ももうありません。携帯にストラップをジャラジャラつけていたのさえほんの10年前だし、物理鍵や財布など、今まさになくなろうとしているものもたくさんあります。
自動運転が出来るっていうのに免許を取るだとか、電気自動車が主流になるかもしれないのにガソリン車を買うだとか、新しい断熱材や最新の施工技術が出てくるかもしれないのに家を建てるだとか、日毎変化しているなかでものを所有するリスクが日々高まっている。