はてなキーワード: 腱鞘炎とは
とてもとても好きな人がいた。
けれど一つだけ、たった一つだけ引っかかることがあった。
いまになってみると、その人は私のことなど大して好きでもなかったんだと思う。
苦しくて苦しくて何度も突発的に死のうと思った。死ななくてよかった。
けれど当時はきっとわかってくれると希望を繋いでいた。
会って話すと泣きそうだし、LINEだとその人はすぐ怒るしで、手紙を書くことにした。
論文書くときの感覚が染みついているからか、1つのことを主張するのに10000字くらい使ってしまう。
研究者の皆さん、そうですよね?
手紙はめちゃくちゃ長くなった。
返事は来なかった。
同じ腱鞘炎になるのなら論文を書いてなる方がよかった。後悔していないというと嘘になる。
研究者ではない友人にこの話をすると尋常でないくらいにウケたので、ここでお焚き上げして新しい年を迎えたい。
研究者の皆さん、いくら感情的にならないようにしようと思っても、論文のノリで恋文を書いてはいけません。
■長っ 引くわ
□いやこれでもう別れるんやったら、アレもコレも伝えときたい思うて
□〇〇をやめてほしい理由 で3節 1章ある
□何が君にダメージになるねんって言われたから、「ダメージのかたち」で1章
■面白すぎる
□「どうしてほしいか」でもう1章やねんけど
なんで
ここ泣くとこやん 泣きながら書いたのに
■ええー 声出して笑うたわ
□そんなに受ける?
■真剣やのにごめん
□渡したら受けるかな
封筒に入らへんねん
■あたりまえやん
□赤入れられて書き直し言われたりして
かわいそう
温野菜の方だったんですね。嬉しい。
首をつりたくなるの、私の場合当時は赤ちゃんの象みたいな、ぱやぱやの毛しか残ってなかったので飛び降りるとヅラがずれてかっこ悪いな、と思ってしまったせいもあります。
あとはヅラをむしって、全裸で奇声を上げて近所中を走り回りたいという衝動にも駆られました。
体力ないなかで追いかけられたらすぐに捕まってしまうなということがネックで実行に移さなかったことは賢明でした。
世の中にはストレスで露出に走るタイプとそうでないタイプの2種類の人種がいるのだなと学びました。
自分がそっちのタイプだったかと、がんになるまで知らなかったので、気づきを得たときは何とも言えない心境でしたね。
リュープリン、打った後の不眠がすごくてしばらくしたら落ち着くのですが当時は抗がん剤の日にリュープリンも打っていたので何が何やらでした。
元々の婦人疾患者でも不安定になりがちだったので、ホルモンの変動にすごく敏感なタチなんだと思います。
その後のタモキシフェンという飲み薬でリュープリンの非ではない尋常でない鬱になり、即腱鞘炎になったので、確信しました。
タモキシフェンの副作用がほぼないとか言ってるやつにはオラオラオラってしてやりたいです。
ほぼないとされる副作用にことごとくはまっていくタイプの患者だったので、病院スタッフもあんまり真剣に取り合ってくれないのがもどかしかったです。
めっちゃ下痢するって言っても、フーン、みたいな。化学療法室の師長さんだけが副作用と言ってくれて、〇〇ちゃん、もう限界なのよね。と同情してくれ生理食塩水打ちながらこっそり泣きました。
ステロイド、私は体力なしのぐったり期に使っていたのですがぽっぽしました。
精神的には食欲以外そんなに作用しなかったのですが、あなたがDIO様になるくらいなら相当お辛いのでしょうね。
抗がん剤とステロイド併用すると、何故かみんなカレーに行き当たるようです。
みんな吐き気が治まったらカレー食べてやる、って思うみたいで。
乳がんで死ぬ人はそんないないけど、治療中に生活が乱れたのを引き摺って糖尿病とか生活習慣病で死ぬ人は結構いるんだよね、とお医者さんに言われてぞっとしてます。
お母様と仲直り、よかったですね。
うちの母は自分の非を一切認めない困ったちゃんなので、自業自得はないでしょって言うとお前がピルを飲んでたせいだから間違ってないと言いまくるので永遠に埋まらない溝です。
病気のこと以外では概ね仲は良好なので、昨年父を亡くしてからはたくさん電話をするよう心がけています。病気話地雷。
大学病院の治験、ちょっとワクワクしますよね。私も抗がん剤の副作用に鍼治療がいいかもという研究に参加しました。
鍼の先生優しくて好きでした。
二十代後半で乳がんが見つかった。
乳腺症のひどい胸をしていて、二次性徴が見られるころからずっと胸が痛かった。
二十代半ばをすぎたころから何となく胸全体が柔らかくなった気がしていたけれど、
よく触ると固い部分があるからやっぱり自分の胸はこういう胸なんだと思った。
巨乳にあこがれて、理想はEカップだったけれど、長い間Cカップだった。
がんが見つかる2,3年前に下着屋さんで測ってもらったらDカップになっていた。
Dカップも小さくはない部類だなとのんきに考えてはいたけれど、
しこりが大きくなってきているのは薄々感づいていた。
自然と乳がんの話になり、乳がんは肉まんの中に梅干しのタネが入っているみたいな触り心地らしいよ、と、年上の同期が言った。
肉まんの中に梅干しのタネ入ってるのなんか触ったことないですよね~、と、呑気なフリをしていつもの通りおちゃらけて私は返事した。
実は私の胸にもしこりがあるんですよ~、触ってみます?と、いつも通りの雰囲気で、しかし内心焦って続けた。
胸のしこりは、想像の中にある肉まんの中の梅干しのタネに触り心地がそっくりだった。
彼女たちは触らず、微笑みながら言った。
帰国して約一か月、土曜日にトイレでぼんやりしながら、そういえば、と思い出した。
何となく人気らしい病院を選んだ。院長が講演活動なんかもやっているらしい。
電話がつながったものの、案の定、初めての患者は一か月くらい診てもらえないと応答した女性は言う。
「しこりがあるようなら、うちじゃなくても良いんで、一刻も早く診てもらってください」
あまりにも真剣な声だった。電話で問い合わせただけの相手に言うにはあまりにも真剣だった。
予約がとれなければ面倒だからやめとこう、そう考えていた私に次の病院へ電話をかけさせるには十分すぎる熱量だった。
仕方なく次の病院に連絡をしたら、その日のうちに検査ができた。
マンモグラフィーは痛いものだと健診で受けたことある友人から聞いていた。
それにしても痛すぎるのではないか。
それまでの人生、私は自分が痛みに強いのだと思って生きてきた。根拠があるわけではないのだけれど。
しこりのある胸を挟まれた時、あまりの痛みに体が震えて、冷や汗が出た。
検査技師のお姉さんに肩を抱かれて、一旦休憩しようかとベッドに座らされたときにパニックになりそうだった。
こんなに痛い検査が侵襲性のない検査とされているのがおかしい、どうかしている、
痛みを我慢できなくて恥ずかしい、情けない、あまり働かない脳みそを使ってぼんやり考えた。
しこりの少ない胸を検査された時も痛かった。だけども反対側より随分と楽に思えた。
自分の名前を呼ばれて診察室に入った時に、お医者さんからかけられた第一声は「大丈夫?」だった。
大丈夫ではなかった。血の気が引くとはこういうことをいうのかとしみじみと考えた。
そういう知識は持っていた。普通の会社員として働いてはいるけれど、学校で習った。
エコーでお医者さんが見せてくれたしこりは、もこもこしたクリームパンのような形をしていた。
お医者さんは、難しい顔をしている。モデルのように美しい女医さんだ。
良性の腫瘍の表面はつるりとして、悪性の腫瘍はデコボコしている。
そういうことも学校で習った。
これがもしも何ともなければ、がん保険に入ろう。
だから大丈夫だ、言い聞かせるように胸の中で何度もつぶやいた。
医師の友人に連絡をとった。
友人はマンモグラフィー読影の講習を受けたばかりだから何でも聞いてくれといつになく自信にあふれていて、
エコーがこうで、というと、段々と友人の返信に元気がなくなってきた。
当時、転勤になったばかりで、それまでとは全く別の職種にコンバートされていた。
それまでは暇で仕方なかったのだけれど、打って変わって忙しく
新しい職場は単身赴任のおっさんばかりで、慣れない環境に日々翻弄されるばかりだった。
登録していない番号に胸騒ぎがする。折り返すと病院に繋がり、すぐにお医者さんへと代わった。
電話で細胞診の結果を言うことはできない。でも詳細に検査がしたいので予約時間を変更してほしい。
結果を言うことができないも何も、それは告知のようなものではないのか。
人生を揺るがすほどの言葉を、私は残業中に、会社の非常階段で受け取った。
診察室で細胞診の結果を見た。
あまり詳しくはないけれど、学校で見たことのあるような悪い顔をした細胞が並んでいた。
バコラ生検といって、皮膚を切って漫画のような太い針をした注射器のようなもので組織を吸い上げる。
局所麻酔を打つ。痛みがありますよ、なんてお医者さんは言ったけれど、マンモグラフィーの方がよっぽど痛い。
検査をしてくれた個人病院ではなく、大学病院へそのまま紹介状が書かれた。
色々な説明を受けた。
詳細な検査なしにはわからないけれども推定されるステージ、予後、タイプによる治療方法の違いや色々。
がんのサイズは3cmあったので、ステージⅡ以上は確定だと、悲しい顔で告げられた。
「先生、すぐ治りますか」お医者さんにバカみたいな質問をした。
「うん、すぐに元気になるからね」お医者さんは、今思えばとんでもない嘘つきだった。
大学病院での検査の結果、私はホルモンレセプター陽性、HER2タンパク陽性だった。
簡単にいうと、乳がんの治療薬に対して感受性が良いから治療しやすいタイプだ。予後も非常に良い。
その時は、結果に対して良いことだと感じた。
しかしそれが不幸なこととだと後々思い知る。
術前に二種類の抗がん剤をし、術後に放射線治療とホルモン療法をする。
卵巣の保護とがんの発育を防止するために女性ホルモンを止める注射を打ち
手術は、温存できそうであれば乳房は温存、シリコンは30年で入れ替える必要があるからおすすめはされなかったので
術中にすべてが終わる、同時再建となる。
私の乳がんは治療効果が出やすい。出やすいということは、可能な限りの治療法をすべてやってしまうということだ。
予後が良いことと、元気に余生を送ることは違う。
若いから体力がある、回復が早い、とあまり知識のない周りは言う。
元々同い年の友人と比較しても筋肉痛になりやすく新陳代謝の良かった私に副作用はてきめんに出た。
2,3回の抗がん剤でがんは柔らかくなり、一種類目の抗がん剤を終えるころには触れることさえできなくなった。
それでも、標準治療という、乳がんに決められた治療は命に関わる副作用でもない限り続けられる。
味覚障害にならなかったことで体重はどんどん増えていってしまった。
病気のストレスでどんどん食べる。抗がん剤の副作用の吐き気がおさまれば、
副作用止めのステロイドのせいで食欲がとどまることを知らない。
乳がんです、と職場に言えば早期と言った覚えもないのに早期のがんの扱いをされる。
実際に早期の分類ではあるものの、どうせ早期なんだろ、と軽くみられるのは納得いかない。
咳が止まらない風邪のおっさんが、俺もガンかな、と独り言を言う。
病人扱いはしない、と言われたけれど、仕事は当たり前に1人分用意されていて
懇願しないと手伝ってもらえない。
確定診断の前、がんかもしれないと連絡したらいつもお前は私たちを驚かせてばかりだとなじられた。
そのあとに、あんたが落ち込んでると思って、と電話をかけてきた母に優しさは感じたけれど
最終的にはがんは自業自得だと罵られて終わった。
突然健康と容姿を奪われてしまって、なおかつ職場と家族の理解が伴わない、そうなると当然頭がおかしくなる。
手術はうまくいった。乳首も残せた。傷跡も自分ではそれほどは気にならない。
少しずつ萎縮しているようで、元々がん抜きにしても健側の乳房より大分おおきめだった乳房がかなり小さ目になっている。
それでも医療機関で新しいスタッフに出会うたびにきれいだと褒められる。
術後4年とそろそろ半年がくるが今はがんのためには何もしていない。
時期的にはそろそろ寛解といっていい。
手術痕はきれいなものの、剥がれた背中の筋肉や、弄り回されて傷ついた神経は軽い疲れや天候不順で大いに痛む。
この手術がうまくいっていないようで周辺のスジがひどく痛むし、こうしてキーボードを打っていても
薬指や小指のあたりに力が入らない。
抗がん剤で傷ついた手の表面の神経はいまだに感覚が怪しく、ざらざらした布を撫でると奇妙な不快感を覚える。
足も不意に菜箸でつつかれるような痛みを覚えるときがある。
私は元々婦人科系のホルモン疾患があって、ピルを飲まなければ日常生活を送ることすら困難だった。
しかし、ホルモンがエサになるタイプのがんだから使用することができない。
ホルモンの乱れ、心身に蓄積したダメージ、見た目が元気そのものだからこそ理解されないタイプの不調を抱えている。
こんな体調だし、あまり弱みを他人に見せることが好きではないから彼氏はいない。
太ってしまったものの、髪の毛は生えてきているし、我ながら顔は普通レベルには整っている方だと思う。
だけれど、結婚して、子供を産んで、ということは私には夢物語だ。
人生で一番色恋にうつつを抜かさなければならない5年間私はひたすらに体調が悪くて自分の世話さえままならない。
がんが連れてきた不調によっては死に至ってしまうかもしれない。
幾度も孤独な夜を越え、みじめさと苦しさと痛みに、毛のない頭を抱えてもだえ苦しんだ。
粘膜が弱って、鼻が蛇口になったのかと思うほどの量の鼻血が出たこともあった。
ホルモン療法を始めてすぐはひどい鬱状態に陥り、首を吊りたい欲求を抑えることに必死になった。
それと比べれば瞬間最大風速は今の方がぬるい。
でも、終わりもないし先が見えない。
次にがんができたら、そう、一度でもがんを体験したことのある人間なら頻度はともかく頭に浮かぶだろう考え。
できれば死にたい。
何もなくて、安心を得る人もいる、見つけて、切って、はいおしまい。で済む人もいる。
でもそうでもない人もたくさんいることだろう。
そもそも私は乳がん検診適用の35才より若くに自分で病院にかかったから
がんサバイバーがエネルギッシュな姿をさらすことは勇気を与えるかもしれない
でもサバイバーがエネルギッシュにならなければいけないという無言のプレッシャーがある。
現に、私の母は新聞で見た乳がん患者はこんなに元気なのに、あんたはいつまで病人気取りなんだと叱責してきた。
元気がない人にも声を上げさせてほしい。
下手にがんが見つかるとこういう辛い思いをして、死ねずに生きる羽目になる。
だからそれでも生にしがみつきたい人だけが検診をする覚悟を持てと。
やさぐれて、どうしようもなくて、地の底を這いずり回って泥水すするような気持ちで毎日を送る羽目になるぞ。
末期で見つかっていれば、大事な人にありがとうと、嫌いな人へ呪詛を伝えて心軽く天国だか地獄へ行けていただろうに。
病気になる前よりずっとずっと性格が悪くなってしまって悲しい。
長い長い、そろそろ自分を乳がん患者と呼ぶのにためらってしまう三十路女の独り言。
たくさんの方に愚痴に付き合っていただけたことに、少し気分がすっきりしました。長くてすみません。
Amazonの欲しいものリスト!?公開したら物をいただけるの!?さもしい私は飛びつきそうになりましたが、三十路レディなので澄ました顔で見ない振りができます。
お肉食べたい!不眠改善のために良い寝具欲しい!楽して痩せるダイエット器具!
…物欲は止まることを知りませんが、あなたの周りの少し元気がない人に美味しいご飯やおやつをごちそうしてあげて下さい。
回り回っていつか私がご相伴に預かることになるかもしれません。
◆母のこと◆
クソ!母親が!!うちひしがれている娘に!!!そんなことを言うだなんて!!!と、当時発狂しそうに悲しんだんですけど、母も恐かったんでしょう。
恐がりなんです、恐がってる自分を受け入れられなくて、私に当たることしか出来なかったんだと思います。
今も、私が一刻も早く普通に戻れることを期待しています。私の体調が悪いこと、気持ちの落ち込みがあること、すべてを気の持ちようで片付けようとしています。
私は、母の中では病人であってはならないのです。あって欲しくないのです。
だからと言って、娘に言って良いことと悪いことの区別がついていない理由にはなりませんが。
母は、母なりに私に愛情を持っていることだけは誤解されたくなくて追記しました。
内弁慶で臆病なおばさんなんです。
ちなみに、近親者で乳がんは父方の祖母(60代発症)だけで、姉も、おばや従姉妹、その他男性、他に誰も乳がん患者はおりません。
◆職場について◆
国家資格は取得しているものの、勤めている会社ではその資格を使ったお仕事はしていません。
ですので、デリカシーのないおっさんらもあんまり医療知識がないです。
とは言え、どう考えても非情な対応をされたことは間違いありません。
もっと貶してください。
叩いて下さい。
あの頃耐えて笑っていた私が報われます。
今は優しい人達の多い職場に転勤しています。仕事にも人にも恵まれています。
泥水をすすりすぎて、濾過した雨水うめぇ!水道水最高!って言っている状態なのかもしれません。
分子標的薬で心不全症状がガンガン(乳がんだけに)出ていた最中に引越しを伴う辞令を出した会社には多少わだかまりはあるものの、結果オーライで職場環境は確実に改善されています。
それでも体が辛いものは辛い。
そうなんです、八つ当たりなんです。
わかっているんです。
気軽に乳がん検診に行こう、それで簡単な処置で助かる命がある、それは尊いことなんです。
ファッション感覚でピンクリボン、ウェーイ!としている女子が妬ましいんです。
ウェーイしている女子がいるからこそ気軽に検診が出来る、それが本来の目的なんでしょう。
ただ、若年性乳がんって、乳がん全体のほんの数%なんです。貧乏くじ引いてしまった感が否めないんです。
元々ちょいちょいツイてなかった私が、こんな所でもツイてなかったかー、と。
妬ましく思っても許して下さい。
エネルギッシュに闘病体験を語って、良い感じの活動をしている先輩サバイバーを見て、そうはなれない(なりたい訳でもないけれど)不定愁訴がしんどいんです。
残っている後遺症のようなものも障害レベルではなくて、1個1個は誰しもが抱えている何らかの不調なのかもしれません。
不調の数が多すぎて、歯車がガタガタで、支える気力も尽き果てた状態が今の私です
ぶっ飛ばさせて、レッドリボン軍だか、クリボーだか、びっくらぽんだかのアイツを。匿名のこの場でくらい。面と向かっては、きっと吐き出せないので。
優しい言葉をありがとう、長い愚痴に付き合ってくれてありがとう。
嵐のような感情の発露は鍵付きのTwitterだけで行っていました。
初めて書き散らしたこの場で、思いもよらずたくさんの方に見ていただけて、嬉しく思います。
大好きなアーティストに懇願して(服の上から)触って貰ったことあるので、本体の私は乳のせいで地獄のクソ煮込みをわんこそばで注ぎ込まれている割に、乳だけは世界で1番幸せ者かもしれません。
ゲップだしとか寝かしつけとかで、休みの日は何時間でも抱っこしたり、
仕事から帰っても赤ちゃんがぐずってたらご飯食べずに抱っこしたり、
仕事場が育児用品専門店と近いので服とか色々買って帰ったり(お金は親です)
自分としては単なる手伝いと言うより、育児に関わってるって勘違いしちゃっていて、
赤ちゃんの抱っこの仕方が下手でうまくあやせないのを見て、
もっとこうしたらどうですか?こうしないと!って感じで抱っこの仕方について強く言ってしまったんです。
そしたら妹が「まだ首がすわってないからうまく持てなくてもしょうがない。ウンチのオムツ変えとか良くやってくれてるし、お父さんの抱っこは首がすわってからして貰えば良い。抱っこしなくても赤ちゃんは死んだりしないから大丈夫なんだ。それにもう1ヶ月は実家にいるし、ここではお母さんと抱っこ大好きおばさん(私が自称してました)がいるからそれでいいんだ」って言って、
私はそれを聞いてすごく腹が立ったんです。私が抱っこしてたのは、産後体が辛い妹(腱鞘炎で手に力が入らない)や腰の辛い母に代わって一番体力がある自分が引き受けていたと思っていて、本来ならそれを担うはずの父親が楽をするためではない、私は抱っこがすごく大変で、でもすごく重要なことだって思っているので抱っこしなくても良いって言う言葉がショックでした。
この人は父親なのに、抱っこから逃げてるって思ってしまったんです。
それで「抱っこしなくても死なないなんて赤ちゃんがかわいそうだ。首がすわってからって言うけど早いうちに抱っこしないとパパ見知りになるかもってネットで見たよ。自分は確かに抱っこ大好きおばさんだけど、そんな風に言われたくない。お父さんの抱っこが一番幸せなはず。抱っこがうまくできないならうまく出来るまで練習しないと。自分が見るから明日ちょっと時間をくれないか」
妹は嫌がってましたが、私はちょっとだけだから!と強引に話しました。
と妹に言って、次の日の朝、妹と母が整体に行ってる時に、抱っこの仕方について旦那さんにもっとこう持った方がいいです!って口を出して持ち方について厳しく言いました。
私は父親ならこうあるべきって自分の考えを押し付けてしまっていました。
あとで妹に「あんなことされたら普通は離婚されてもおかしくない!お前のせいで離婚されたらどうするつもりだったんだ!」と怒られ、私は妹に自分がひどいことをしたと思いました。
妹に様々なことを含めて「お前は自己愛性人格障害だから言葉が通じない。普通じゃない」と言われてそうなんだろうなって思います。
今この日記を書いたのも、自分が悪いって思いながらも、誰か1人でも私の辛い気持ちをわかってくれないかと思っているからです。
けれど、つらいです。
ごめんなさい。
やってやった!やっと引越ししてやった!!
あなたは一足先にここを離れたというのに
習慣というものは恐ろしく1年をすぎてようやく
ようやく穏やかに過ごせるようになったと思いきや
慌てて電源切ったけど これからこういう事が
増えるのかと思うとやるせないなあ
どうしたらいいんだろうね?なんて前回もここに
(かなりぼかしたのにすごいよね もしかして身内?)
そのうち◯されるんじゃないか、ヒヤヒヤしたよ
超失礼なメール、当時は混乱して悲しくてただ
落ち込んでいたけれど、冷静に見返したら言ってること
最低なんだろうと思うけど 我慢した方だよね?
"◯◯ちゃんもね〜 本当はこうした方がいいと思うんだけど
言わないよ でも君には言うよ 君だから言うんだよ"
って言うこときかせようとしてきたよね よく。
その◯◯ちゃんと仲良くしているあなたを、私はどう
私も優しくしてもらう側になりたかったなあ ああ告げ口したい
酷い事はいくらでも思いつくけど
こうやって、やっぱり君は嫌な奴だったんだって
もちろんいい所もあったけど(たぶん)
上手に隠していただけなんだって思い込もうとしているんだ
それと同じこと君に全部されてるなあって思ってたよ
血は争えないんだなって、結局こうなる運命だったんだな
って 諦めようとしているよ
触れることがありませんように
あの子元気?と聞いてくる友人たちにも
ちゃんと無理って 伝えれますように
地雷踏んだらまたきまーす
特に猛烈なファンというわけでもなく、何気ない気持ちで観てみたんだけど、アラフォーの自分にはじわじわ刺さる作品だった。
ネタバレに触れるかもしれないが(そもそもドキュメンタリーにネタバレがあるのかわからないが)、簡単に感想を書く。
「90年代に活躍した伝説のバンド」みたいな扱いになっているが、イエローモンキーって当時の日本の音楽シーンでは、どメジャーって感じでもなかった気がする。
カラオケでJAMを歌うやつはたくさんいたけど、GLAYとかラルクに代表されるような90年代に流行ったV系バンドほど人気があるわけでもないし、MICHELLE GUN ELEPHANTとか、エレカシほど硬派で骨太なイメージもない。
当時流行ったUKロックとか、グランジとか洋楽が好きなやつからはダサいと馬鹿にされていた。そんな立ち位置。
でも見た目は日本人離れしてかっこよかったかな。だから女子のファンが多かった。
2001年、人気の絶頂といわれた時代に突然活動を停止して、その約3年後に解散。理由は明らかにされていない。
映画は、2016年5月の代々木競技場での再結成ツアー初日から年明けのカウントダウンライブまでのステージと楽屋裏を淡々と密着していて、それにメンバーそれぞれのインタビューと彼らの原点であるという渋谷のライブハウス「La mama」の無観客ライブを織り交ぜて構成している。
過剰な演出もなく、シンプルに追ってるだけなんだけど、たいしてファンでもなかった自分が引き込まれてしまったのは、きっと映し出されている人の「人間臭さ」なんだと思う。
皆50を過ぎたおっさんだというのに、メンバー同士アホみたいに仲が良さげである。トランポリンを跳ねたり、リーゼントにしてみたり、ライブ前後の楽屋風景はさながら中学校の昼休みだ。
そしてアホみたいに化粧が濃い。深い皺の刻まれた50男の顔にファンデーションを幾重にも重ね、アイラインを引き、口紅を施し、頭皮マッサージをされている姿は、ある種のおぞましささえある。
そしてその年齢ゆえ、過酷なスケジュールのツアー中に起きる、体の不調。
ぎっくり腰や熱、腱鞘炎に加え、ステージ中にボーカルの吉井が声が突然出なくなるという、最悪のアクシデントもある。ライブが中断され、騒然とした客席、ピリピリとしたバックステージもカメラは追っている。
ライブのリハやレコーディングでの音作り風景も興味深かった。「こんな細かいところまで?」「そこまでして客はわかるのか?」というくらい綿密で、本番ギリギリまで試行錯誤している。
それなのに、ステージの上では、煌びやかな艶とオーラをもつ、ロックミュージシャンの魅力をまとうから不思議である。
上手く表現できないが、そんじょそこらの30代、40代のミュージシャンには出せそうにない「凄み」があるのだ。
これまでの日本のロックシーンで、音楽に地道かつ真摯に向き合いながらも「華のあるビジュアル」の中年ミュージシャンは存在しなかったのではないだろうかと思う。
90年代、20代の頃はさほど魅力を感じることができなかったが、自分も不惑を迎えた歳となって、素直に「かっこいい」と思える年上のおっさんが世の中に存在するのは有難いことである。
「オトトキ」ってタイトルは最後まで意味わからないうえ、めちゃめちゃダサいし、キャッチコピーは「4Pしようぜ!」だし、ポスターのビジュアルはクソスベってるけど、この歳に出会えてよかったな、と地味に思った作品だ。