はてなキーワード: 現実逃避とは
フィクションの物語は現実逃避にうってつけだった。自己肯定感が低い私は自分自身を応援することができず、代わりにアイドルを応援するようになった。中学生の頃の話だ。
二次元に描き出される世界は魅力的だし、アイドルたちはきらきらとした輝きに満ちている。けれど、私が精神的に強い人間だったら、ここまでのめり込むことはなかっただろう。
違った。
ツイッターで今はまっているゲームについて調べるとき、推しのアイドルについて調べるとき、あまりの情報の多さに目眩がする。見ていて気持ちがいいものばかり拾えるわけではない。というか、検索し終えたあとはどっと疲れていることのほうが多い。愚痴垢、アンチ、学級会、厄介報告、晒し……
二次元やアイドルがもたらしてくれる麻薬めいた幸福感。それと引き換えに削れていく精神(私の自衛が下手、と言われたら返す言葉もない)
これなら友達とスタバでくそ高いフラペチーノをすすりながら他愛ない話をしていたほうがいい。瞬間的な幸福度は低いだろうけれど総合的な幸福度はこちらのほうが圧倒的に上だろう。
ネットで嫌われるのが嫌なら匿名性の高い2chなどにいれば良い。コテハンを付けるなど目立つことしなければ、書き込みは嫌われるかもしれないが、少なくとも明確な個人として「自分」は嫌われない。
それでもツイッターのように明確な「自分」のある場所にきて、なおかつ出来るだけ嫌われたくないと言うのなら少なくともできるだけ他者を貶めないよう努めるべきである。これはネットだけではなく実社会でもそうである。
生きていればみんな例外なくなにかに不満を持っており、みんなそこに折り合いをつけて他者と関わっている。それが社会で生きるということだからだ。それを我慢せずに不満を吐き散らせば嫌われるし避けられるし叩かれる。当たり前だ。誰もそんな奴とは関わりたくない。肩を持つ人間もだんだん減っていくことだろう。
自分を叩いてくる奴がいるからこんなに不満があるのだ。自分は悪くない。自分は正しい、とするのはとても楽なことだ。
ただ、果たして「なんの罪もない」「なんにも責められることをしていない」「汚点一つない潔白な」人間を好き好んで叩く奴がそんなに多くいるだろうか。
「炎上」というものは「燃料」があって初めて起きるものであるはずだ。火のないところに煙は立たないのだ。大勢の人間の非難が集まった場合、それが多くの人間の共謀や上位の地位の人間による圧力、情報操作によるものでもなければ、根本的な非は、それに対する非難の仕方に是非はあれど、「火種」にあるはずなのだ。
自分がこんなに責められるのはなぜか?本当に自分に非はないのだろうか?他者から叩かれている時ほど、そういう点を考慮する必要があるだろう。
もし自分に本当に非はないと思うのなら、そういった人間と関わるのをやめるべきである。幸いネットでの付き合いはそういったことがとても容易だ。
自分がなにをしようと文句を言う人間はいる。致命的に自分と合わない人間はいる。そういった人間のために精神的に辛い思いをするのは至極馬鹿らしい話である。人の噂も四十五日という言葉もあるように、関わることをやめればそれらの人間も飽きるだろう。炎上に対し一番効果的なのは燃料を渡さないこと、とどのつまり「無視」なのである。
ただ、少しでも自分に非があると思える所があるのなら改善するべきであるし、少なくとも改善しようとするべきだ。明確な短所を含めても好きでいてくれる人間は非常に少ない。人は一つの短所だけで嫌われうる。
自分の非を認め改善しようとしても叩いてくる人間がいるのなら上述の通り縁を切るべきだ。なにをしても文句を言う人間は付き合うに値しない。自分の非を咎める人間も必要ではあるが、その上で付き合うべき人は自分が正しいことをしている時に応援してくれる人なのだ。
そう思うのは楽であるし、実際にそういうケースは腐るほどこのクソッタレな現実にはある。
ただ、それが事実なのか、それとも現実逃避なのかというところはきちんと見極める必要がある。完璧に正しい人間が存在しない以上、絶対に自分が悪くないケースなどそう多くはない。
もちろん自分だけでそういったことに気づくことは大変難しいことではあるが、だからこそ、もし助言をくれる人がいるのなら、その言葉に耳を傾けるべきだろう。
それでも耳を塞ぎ他人の言葉を受け入れず自分の正しさだけを盲信するのならば、残念ながら君の居場所は人間社会にはないだろう。
これから先、社会に出て、つらい仕事をやり続けて、しかもそれが50年も続く。
リストラ倒産はあたりまえ、新しい仕事を探せばスキルが通用するケースは少なく、警備員や倉庫でみじめに働くしかない。
そんな人生を他人である子供に味わわせたいと思う?っていうことなんじゃないの?
人生はツラいのがあたりまえ!貧困なのは自己責任!(おまえの今までの人生なんか知る気はないけどwww)最近のゆとりは頭が悪い!
その上、お金がないんだとしたら、尚更産まないのは当然だ。
そういうことを考えたことがないのは、優秀でお金持ちな人か、なんにも考えずに産みたいから産むって後先考えない人かのどちらかで、
子供のことをちゃんと考えれば、産まないという選択肢はそういう人たちにとって必然なんじゃないのかな。
追記
戦後世代が貧しくても産んだのは子供のことなんか考えてなかったからだよね。
遺伝や環境なんて最近わかったことだし、生きづらい社会になったのは最近だから、
負け犬の親が悪いとは思ってないけど、
今わかってる以上は産まないのが正しい選択だーって思ってる人はある程度いるんじゃないの?
総意ではない!とか言ってる人いるけど、俺は総意だなんて言ってないよ?
こういう人が増えてるんじゃないのって話だから。
「お金がないだけでほんとはみんな産みたいに違いない!」はただの幻想じゃない?っていう。
何を言ってるのか意味不明すぎて笑える。
生きづらい世の中+能力は環境や遺伝によるのだから能力が低い子供が生まれる可能性が高い
=産んだら子供は不幸だなー
負け犬だから作れないだけ!って罵倒してすっきりして現実逃避っすかw
成功した人以外は努力してないってことになるお前の論理では努力しても無駄だった連中は子供を産まないのは当然だと思ってるってことだねw
努力不足を子供のせいにーに至っては遺伝や環境の影響や世を生きづらいと感じてる人がたくさんいる現実を無視して、無理やり産んだ子供にすべての責任を負わせようとするクズの思考だよねw
たぶんこいつ、好き勝手産んどいて、子供が大人になって生きづらそうにしてるから、俺のせいじゃないもん!って言い張りたくて仕方ないんだろうなw
現実見えてなさすぎの意識高い系はこの人とスターつけてる人じゃないの?
今まで基本的にタバコ臭いのが嫌いな人間として生きてきたが、最近の仕事の辛さに耐えかねてメンタルがやられてきたので、タバコに興味が出てしまった。
死んだ爺さんが10年前ぐらいまで吸っていたが、母親と婆さんは嫌煙家だったので自分はタバコを毛嫌いして育った。
コンビニでインド系っぽい店員さんに番号を伝えると機械的に持ってきてくれた。なんとなく悪いことをしてるような気分だったので、おばちゃんでなくてよかったと思った。
いま自分のポケットの中にはタバコとライターが入っている。これでいつでも思い立てば喫煙者の仲間入りだ。
でも家を臭くしたくないから外に出てきたが、散歩がてらどこで吸おうか迷っているところ。
さて、どこで吸おうかな。
沢山の洋服が掛けられたラックの中で甘ロリ系のジャンパースカートに惹かれたけれども、
なんとなくもう自分には似合わないんじゃないだろうかと思って結局買わずに帰ってきた。
それからしばらくロリィタは卒業しようかと考えたりもしたがやっぱりまだ諦めがつかない。
私がそこまでロリィタにこだわる理由は多分冴えない現実を忘れられる手段だからだと思う。
仕事もずっと非正規で正社員求人にも何度も応募したけどいつも不採用。
友達も高校卒業してからおらず、ツイッターでもフォロワーはほとんどなし。
そんな誰にも必要とされていない私の現実逃避の手段がロリィタファッションなのだ。
この服を着ている間だけなりたくてもなれなかった理想の自分になれるような気がする。
http://www.iwatsuka.jp/komeplus/product03.php
これの塩バター味を食べた。
とても美味しかった。
それはそもそも期待してなかったからというのも大きいだろう。
食べたことが無かったので買った。
日々悩ましい仕事を抱えていて、プライベートくらいファンタジー要素が欲しかった。
ホームページの更新がされてなくて専用ページが存在しないやる気のない菓子を買ったのだ。
ファミリーマートで買ったのだ。
そうだ、ファミリーマートだ。
コンビニだ。
自分は普段チョコレートやポテトチップスにばかり目が行っていた。
だからこんな訳の分からない菓子は認識すらしたことがなかった。
しかし世の中の人達はこういうものを食べて人生楽しんでるのだ。
自分の知らない事を知って楽しく生きてるのだ。
「昔の日本人」って言う奴、本当に無知なんだなって、可哀そうになるよな。
いや、軽い意味でつかってんならいいんだ。
問題は、「昔の日本人は~だったのに今は…」って、昔の日本は偉大だったんだぞ!って言う奴。
「昔」っていつのこと?明治?江戸時代?戦国時代?それに、その「昔の日本人」って誰のこと?武士?僧?紫式部?
記録に残ってたり教科書に載ってる人物なんてその時代でも珍しいくらい偉大だったり上流階級だったりするから俺らと比べたら失礼じゃね。
教科書に庶民の考え方とか生き方とか載ることってめったにないべ。俺は飢饉で人喰ってる庶民しか思いつかねえぞ。あと、米くれーって言ってるのとか。
そもそも、明治時代より前って「日本人」って言う考え方って国内にはわずかだったし。庶民は長州人とか、陸奥の者とか、それくらいの認識だったし。
だから「昔の日本人は…」っていう奴見ると、「ばーかばーか!何も知らねえでんの~wwww」ってのと「ああ、本当に何も知らないんだべな」って可哀そうだ。
2年前の3月。自分は就職が決まらないまま卒業式に臨み、そのままフリータールートへ突入した。
就職課をはじめとする大学関係者には「某生命保険会社の営業に内定が出た」と嘘をつくことで、表向きは「社会人生活へ向けて巣立ちを迎えるフレッシュな若者」になりきった。
就職が決まらないということが何より恥ずかしかったし、周りには心配をかけたくなかった。
今思えばそんなクソみたいなプライドで嘘をついた自分の方が恥ずかしいのだけれども。
早くこんなつまらない地方都市から抜け出して、レインボーブリッジでシーマ転がす業界人になってやる。
なんて時代錯誤でクソダサい動機を孕みつつ、鼻息荒く就活がスタートした。おったまげ。
エントリーシートは通る。筆記試験も通る。しかし面接でことごとく玉砕。
気づけば残り弾数はゼロ。そして静かにマスコミの就活シーズンは収束。
就活の良い思い出?履歴書の文字が綺麗って褒められたことくらいかな。ファック。
「まあそれでも?どこかには決まるし?ドンウォーリービーハッピー的な?」と楽観的に考えていたのと、内定承諾までの返答期限という事情から、他企業は内定を辞退してしまっていた。
その後は流石に「転がすのはライトエースでも小型セダンでも、なんでもいいから、もうシーマなんて言いませんから…助けて…」と、ブットビまくってた理想をかなぐり捨てた。
どこでもいいから拾ってくれと地元の中小企業などを血眼で受け続けたが、軒並みお祈り。
自分はシーマどころか社用車にも乗れない人間。この事実を認めざるを得なかった。
冬ごろには就活をする気力も、今までの根拠のないプライドも、全て灰燼と化した。ぼくの心を就活は奪い去った。俺は空洞。でかい空洞。
全て残らず就活は奪い去った。
俺は空洞。面白い。
さすがにYami Yami Day(※病み病みの日のこと)を送って震えるのは嫌だったので、バイトを詰め込みまくり、卒論を夢中で執筆することで現実逃避をしていたら、春なんてすぐだった。瞼閉じればそこに。
こうしてひとり、職無しのまま社会へ放流された死んだ目の若者が完成した。
卒業式後の飲み会で友人とフジファブリックの「若者のすべて」のサビを肩組んで歌った辛すぎる思い出。何年経っても思い出してしまうなあ。
毎晩内定のない人が見るまとめ速報を見て「自分マヂクズだゎ…ッラィ…」とか思いつつ、マンマのご飯はススムくんな、ナンダカンダ健やかなニート生活を続けていたある日。
「金を入れられない人間はこの家を出て行け。とりあえず働け。」
と母に某アルバイト情報誌でアタマをシバかれ、ぱみゅぱみゅしてしまった私。渋々実家から激近の某企業でアルバイトを始めた。
そこにいた先輩アルバイトのK氏は、大学を中退後、様々なバイトを転々として、今に至るらしい。「条件がかなり難しいから正社員にはなれないだろうけど、ずっと別にこのままでいい」と言っていた。
確かに仕事は楽だし、地元にしては時給もいいし、定時でしっかり帰れるし、人は優しいし、社食はおいしいし、福利厚生や社割もあるしで、バイト先にしてはマチャアキも文句なしの星3つだった。
しかし、そんなK氏を見ていると「自分はずっとアルバイトという立場でいいのだろうか?」という疑問が首をもたげてきた。
パン酵母か?というくらいに、その疑問は日に日に膨らみ、(マンマのご飯と社食で体重も膨らみ)ついにバイトを始めてそう日が経っていない初夏のある日、母にこう言った。
「は?東京?行ってどうすんの。」
「どうしましょ、どうしましょ、どうしましょったらどうしましょ」
[2]に続かせてください。
なんどもなんども書き直して何がしたいんだろう。現実と向き合いながら現実逃避してる感。創作臭をどんどん覆いかぶせていっているだけ。匿名日記なんてものを小町みたいにして使う方が間違っているのに、勝手に凹んでバカでしかない。
気持ち的にもう離婚しかないかなと思うけど、添い遂げるのがとうぜんじゃないか?とも思う。逃げるは恥でしょうどう考えても。役にたつのだろうか、もうやだ。
ファブリーズの件もそうだが、今の日本は「超潔癖主義」に蝕まれすぎではないかと思う。くさやが臭いのは誰がどう考えても事実なので、地元はこのCMに便乗するくらいでいいと思う。
何かにつけて「地域差別ガー」というバカにはあきれてしまうが、つまるところ地域の抱える不都合な事実を外部が指摘することを拒絶するけつの穴が小さい子供である。それこそ、彼らの好きな言葉を借りれば「言論弾圧愛好家」ではないか。文化や社会には二面性がある。
私が生まれて間もない頃の話だが、1980年代~1990年代の鉄道文化が洗練されていたという話題がSNSや掲示板で流行している。はっきり言って、不良が巣を作りそうな文化がそこにあったわけだが、それでも鉄道ファンは誇らしく思う。「鉄道王国」も日本文化だと自尊心を持っているはずだ。
本来文化・社会性とはそういうものではないか。2000年代の新自由主義旋風だって文化や科学技術などの高度化の裏に犯罪の高度化や富裕層人口のインフレの問題もあった。2010年代も1960年代の再来のようなのムードの裏に貧困問題があった。オートバイブームの裏にはシビアな封建もあった。
オタクが今日社会全般で受け入れられているという。あれといえば、昭和の負の遺産にもかかわらず迷惑者が誰も輩出しなかったことを「世界に誇る日陰者」と自画自賛する書き込みが拡散されたことが多くの人に衝撃を与えたものだった。案の定、オタク自身の努力で出世が実現するとスゴイ発言まみれになった。
冷静に考えてほしいのだが、同じ大衆の同胞であるべき人達がそれと村八分にされる時点で、そもそもすごくなんてないのである。そもそもオタクとは昭和時代の学歴社会化実験の失敗に伴いヤンキーと共に発生した負の遺産である。本来ここで必要な発想は、負の歴史として再発防止策を考えることであり、恥かしく思うべきことである。
仮にもしオタクがすごかったとしてもそれは個人個人がすごいのであってオタクはすごくないのである。社会が立派だったとしても、それは日本人の寛容性のことである。もしあなたが大衆の一員であれば、さほど無関係ではないか。
私は「オタクスゴイ」とそっくりな問題を抱えているのが「マイルドヤンキー」ではないかと思っている。地方のリア充の話題が出ると、なぜか不良とこじつけた話題が出てくる。不良とは縁のない人でもヤンキーのように扱われる、あの変な社会の空気である。
当たり前だが、リア充すべてが悪人なわけではない。大体ヤンキーの本来の意味は実は汚い。もともとはアメリカ人の白人を罵る言葉として生まれたものだ。ジャップと同じ意味合いでアメリカ人が「ヤ○○」の言葉を使うものとしてとらえてほしい。
マイルドヤンキーに代わる言葉はあるだろ。とんでもなくダサそうな文化を謳歌しているのは一握りの地方民のうちの一部とか、不良経験者だけではないかと思う。あのグダポンの撒き散らす固定概念への批判としてもいうが、私は地方を何度も見てきたが、北関東でもマイルドヤンキーなんて一握りの数しかいなかったよ。
そもそもマイルドヤンキーの言葉の根底に都会人による地方人への偏見がある。車好きを例に挙げるまでもなく、外国には日本人が思い浮かべる都市部の人間は殆どいない。むしろマイルドヤンキーの特徴として挙げられる、「買い物先でショッピングセンターに依存している」人は日本を出れば都市部ですら腐るほどいる。国土全体で鉄道依存社会が成り立つ国は、日本を除けば、オランダみたいな地形に恵まれる地域やシンガポールのような都市国家以外にない。
私はこの潔癖の究極が「子供」至上主義だと思う。日本人はみな車嫌いで鉄道好きというおかしな風潮も、子供のために嗜好を装う仕草だという。必死すぎる。大人な人は、それが普通ならしょうがないと受け入れるべきではないか。一番ひどいのは私鉄だ。
子供は日本人の美徳だと、道徳的な人を表す言葉として普及しているが、これはあの押しつけがましい「道徳」と同じうさん臭さを感じて、私は不気味に思っていることである。子供って要は非現実的理想の追求であり、病気だ。
そもそも日本の私鉄社会の根源は鉄道の公有化の失敗だとか戦争の連続による財政難だとか、歴史上におけるネガティブなものの副産物である。今でも「幼稚」とかいう。それはつまり堂々とした対等な存在としてリスペクトするものではなく、結局これは子供なる年齢を使った言葉で「恵まれない現実にある人達」を見下している、前時代的な、差別を連想する表現である。
欧米圏を見ればわかるように、鉄道は弱者というか、つまりよそ者、あるいは貧乏人や弱者のためにある公共施設であって、所得関係なしに使うことをよしとする、ましてや商売の道具としてみなす日本はおかしいのである。
一昔前ですら日本ではここまで「子供」はうるさくなかった。子供は大人らしい事由で成熟した男女を目指した途上段階であり、気づけば加齢で大人になっていた、あるいは10代ですでに見た目も中身も大人同然という人もごろごろいて、それがわずか15年ほど昔までの常識だった。
あるいは「リア充な美しい大人は好きですか」というように、青年性を脱した兄や姉であるべきだった。正しさではなく「美しさ」が評価された。この美しさという言葉自体清潔を意味するもので今の異常な潔癖主義に通じたのも、もちろん事実ではあるけどね。
特定の環境を聖域化し、あるいは特定の人を「聖人」化してみなし、それを潔癖性を極めた発想とともに崇拝し、潔癖と反する不都合な事実を見て見ぬふりをしたり、あるいは無理してでも隠蔽させようとしたり、それを指摘する存在を許さない、あの感覚。グダポンの言葉を借りればこれは畳精神である。
昔の高校を題材にした作品から黒髪すっぴんさんの描写を削減し、わざとそうでない人を代わりに差し替える。これも聖域を作る発想に由来することではないかと思っている。
その点、例えば私が韓国の学生をみて感動をしたのは、日本において学生というと黒髪が少ないイメージなのかもしれないが、実際には黒髪のおりこうさんが多くいたこと、そういう風潮がそこかしこにあったため、他人に緊張することがなかったからである。
バスの停留所で会話したローカルの若い女性は、なんかお茶目で、自分の生活圏にやってきた外国人を楽しませようというホスピタリティがあって、ものすごく魅力的だったが、やっぱり大人でオタクで、至上主義のない国のほうがよほど大人も魅力的だなと感じたのだった。
これは地方にも言える。マイルドヤンキーの連中なんてありゃ「普通のリア充か重度なオタク」だ。オタク?ってくらい偏執的で、大衆らしさに欠けている。いわゆる元ヤンさえ良くも悪くもリア充らしさがない(事実、彼らが外国に行くとサブカルオタク扱いになる)広い意味での問題なのだ。
日本に出てくるテレビのタレントには個性らしさがない。オタクがいない(例外はあるが)。根っこからのおりこうさんであることを売りにした俳優・声優がいないし、変わった趣味を売りにする者もいない。誰もがそうなるありのままもないし個人差もない。
これは、日本人の一定割合。どちらかといえば韓流ファン経験のある人たちで、同じくマイルドヤンキーか学がありそれなりに品格のあるような人が、ものの感じ方の成熟が遅れたことにあるんじゃないか、と私は思っている。子ども時代や貧乏なときは誰もが感性が幼稚で極端な理想を抱くものだ。
しかし、大人になり、10代になり、豊かになれば、あらゆる体験を通して現実を知るというか、様々な存在を知って、自分自身の肉体と考えの成長もあって、そういう非現実な理想を一度捨てることになると思う。代表が大学生における運転免許取得ラッシュだ。「免許取得者は学のない人のほうが多い」とか「都会人は一生免許と無縁」の虚構に気づく。
私達ネット原住民的には中二病とか高二病とも揶揄される、つまり冷笑主義にも陥るのだが、その現実・実在、不都合性を含めた事実の中にある魅力に気づき、そこから新しい夢を見出だしたりするのが、普通の諸外国ならハイティーンか遅くても20代で経験する段階で、日本人もかつてはそうだったのではないか。
そういうわけで、高学歴だろうと、立派な社会的地位にいようが、年齢が中高年だろうと、マイルドヤンキーと変わらないような潔癖主義の理想を振りかざして現実を拒絶したり自由な創造表現のユーモアを叩くあの感じは非常に納得がいかない。幼稚な人が多すぎる日本の現実がほんとつらいです。
(韓国などの例外を除く)外国のコンテンツは、優れた表現ほど徹底的に不都合な現実・事実に向き合っている。だが、それをただそのまま描いたり、不穏に誇張するだけではなく、そこから楽しさや夢を見出だそうとする傾向があると思う。その際にはお堅い因習を破ることになる。
だがその独創性の第一段階にある「お堅い因習を破ること」を全力否定するのがグダポンのいう「畳精神」であり、右派や私の言う「コリアニズム(文化的右傾化)」である。つまりどんな理不尽でもそれがしきたりで、その空間では聖域性を守るために自分が屈しなきゃいけないし、適応しない他者は咎めなきゃいけないという枷を兼ねた同調圧力も発生する。韓流ブームにものすごく親しんだ人ほど危ない。
ティーンエージャーになる前の現実離れした理想主義(と、それを理想を向けられた側がそのまま受けとめなければいけないということ)に畳精神やコリアニズムはとても相性がいいのである。新しい幼稚な感覚と、古い老いた因習をコラボさせると、アニメや漫画か特撮ドラマかビデオゲームまがいな、子供だヤンキーだという狂うジャパンがあふれるのである。
私が現代の日本はともかくとして一昔の韓流・華流コンテンツを敬遠したのは、アメリカのコンテンツとは違い、理想主義を極めたあのディズニーでさえ、そのテーマパークや映画などに「不都合な現実を受け入れた上でのイマジネーション」がないからだ。理不尽なものを批判的に描くこともなく、拒絶せずにそれを受け止めることすらしない。現実逃避ありきなのだ。
私の記憶する限り韓国や中国のテレビドラマやアニメには、日本人がネガティブ過ぎるとして驚いた自転車乗りの姿が描写されていない。1990年代や2000年代(2010年代)に日本型の暴走族が話題になったが、それを風刺するような作品は出てこない。当たり前だが韓国人や中国人のオタクを風刺するような作品もない(日本ですらオタク風刺作品はあるが)
そういう子どもたちはこうしたコンテンツの変わりに漫画や小説(ライトノベルを含む)やゲームのいかれた様子を見ることで、それを教訓にすることができるわけである。日本の作品で言えば喧嘩番長や龍が如くに出てくる「不都合な現実を誇張した」不健全で卑猥な日本の風景も、実は意外にも理想や夢とどこか通じるものがあるし、その中にもやはり社会に対するメッセージもある。
そう考えると、欧米程でないにしても自由な創意工夫性は日本においてはなんとか健在であり、その自由表現の娯楽を通して成長につながることもできたりし、その上でまた新しい夢が見れるというのが、本当にすごいと思っていて、韓国や中国にもそういうクリエイティビティを獲得するには、まず日本同様に現実至上主義と畳精神の解体を加速させることが必要なのだ。
なんだよ……こちとら現実逃避の為にネットやってんのにさぁ……どこにでも出てきてさぁ……
数が多いし声も大きいからどこに行っても見掛けるんだよ……空気読めねえし……
しかも「政治に興味がない」って言ったらめちゃくちゃ嫌そうな反応するしさぁ……
確かにそれは問題かもしれないけどさぁ……でも場所も弁えずに政治の話する方も悪いじゃん……
それとも俺が悪いのか? 政治の話はどこでしても許されるほど重要な話なのか?
でもさ……俺一人が政治に興味持ったって何も変わんねえだろ……
勘弁してくれよ……俺が駄目人間であることは知ってるけどさ……説教は聞きたくねえよ……
なんで娯楽でやってることですら説教されなきゃいけないんだよ……本当に……
まず第一に、NHKがクローズアップ現代のように過去の過ちを反省せず番組内容をねつ造していたら俺はキレる。
していないということを前提で感想を書く。
あらすじ
福島県から原発の影響を受けて東京へ避難した人の自殺率が発生後の2年で急激に伸びたことが欧米の調査機関によって明らかとなった。
本文
高齢者の生きがいの喪失、孤独による自殺については意味はわかるしよくある話だと思ったのだが
家族で地元に戻って米農業で安全なお米が取れて順調に生活が営めている夫婦ですら米の値段が以前の2/3または1/3の値段になり
作っても赤字という状態からいつの間にか自殺していましたというエピソードについては首を傾げた。違う事業をやればいいのに・・とか
色々考えられる余地はあると思った。そう簡単に自殺しようと思うところも不思議に思う。考えないという選択も出来た。
とりあえず人間にとって「生きることは最低条件」であり命を無くしては何もできない。
命なしに 考え、行動することはできない
1998年当時、皆が大手企業を中心に就職活動するなか、東京勤務と大企業にだけは就職したくないと、中小企業狙いで就職活動していた反抗期の自分。
今では、ネット界隈で「新卒は教育が充実している大企業か、即戦力が鍛えられるベンチャーか」という論争が盛んだが、当時はネットでの就職情報さえなかった時代だ。当時の俺は、即戦力をつけたいという思いから100人くらいの会社に入社した。仕事は徹夜続きでブラック企業だったが、成長実感が感じられ、働き甲斐も大きかった。
その後、数社のベンチャー企業を転々とした。プロジェクトや会社に与える自分の影響が強いことに働き甲斐を得られる反面、このタフな働き方をずっとは続けてはいけないこともわかった。社長とビジョンを信じ、給与が出ない生活にも耐性がなかった。
働き始めて17年後、いくつかのご縁と幸運が重なり、今は、大企業の東京本社で勤めている。
だが、組織システムが硬直化し動きが遅い上、現場は遠く、自分の仕事なのかどうかも実感できない日々が続く。
社内調整が重視されるため、若いころに培った伸び盛りある現場仕事のノウハウが活かせるような職場でもない。
大学生のころ、絶対に行きたくないと思っていた大企業の東京本社で勤めている。
現実逃避で友人のベンチャー企業を手伝っていると、いつのまにか自分が大企業病に罹っていたことを知る。
やはり、給与がいつ出るかわからない環境に身を置けるほど、若くもなくなってしまった。
リスクばかりを気にするようになった。
韓国・日本領事館前に設置された慰安婦像、10億払ったのにまた設置されました。
色々見解はあると思いますが個人的な意見はピーナッツ事件、バッテリー発火、朴槿恵と韓国国内で様々な問題が起こり一区切りしてターゲットが日本に戻っただけなのではと。
普通の人間(特に社会人)は自分のことで精一杯、過度に政治に目を向ける人なんてごく一部です。
自分の現実逃避に政治を利用している人って結構いると思います。社会が悪いと批判してる方が楽ですからね。
SEALsが学生ばかりだったことも裏付けます。エネルギーのはけ口が欲しかっただけでは。結局ターゲットなんてなんでもよかったのではないでしょうか。
明日は我が身、日本でも国内の問題があらかた片付いたら次のターゲットとして他国へ過度な批判をする連中が現れるかもしれないと感じました。