はてなキーワード: 映画史とは
心を漂わせながら電車に乗っていると、BGMだった環境音が突如として鋭利な情報をもって脳を揺らしてくることがある。
吊り革を持った僕の向かいに立つ、マスクをした中年男性(以下おっさん)が、友人であろう斜め向かいに立つ同じく中年男性(以下友人)に放った”ファニーゲーム”とは、きっと映画史上最も不快な作品と謳われているホラー映画のあれのことだろう。10年ほど前に鑑賞した記憶が大脳から引っ張り出されてきた。
ところでファニーゲームにオリジナルとリメイクがあったことを知らなかった。僕が観たのはどちらだったんだろう。いずれにせよ、確かに記憶ではファニーゲームはなかなかに癖の強い映画だった。主人公に一切の救いがなく、作中大半は虐待行為で構成された終始バイオレンスな描写。あれはひどく人を選ぶような作品だろう。
おっさん「リメイクもまあまあなんだけどさ、オリジナルはほんっとにやばいよ」
おっさんがマスク越しに強く、しかし控えめに放つ言葉は、不特定多数が空間を共有するー車両内にも関わらず、この三人の耳にしか届いていない。他の人からは、3分前の僕と同じようにBGMとして処理されている環境音なのだろう。
この事実が、今いる空間の限定性をより一層と深めていく。コトラーはこれを述べたかったんだなと近代マーケティングの父の顔が頭をよぎる。
しかし、僕が当時に観たものがオリジナルなのかリメイクなのか気になって仕方なくなってきた。正直なところ、たしかに癖は強かった内容だが、僕の中ではそこまでの衝撃を残した作品というわけではなかった。
おっさんの感受性がよほど豊かなのか。または、僕が観たものがリメイクで、オリジナルは本当に脳裏に焼き付くほどの衝撃作なのか。
話を盗んで聞いているだなんて決して察せられないように、客観的には次の予定を確認するような素振りで、ポケットからiPhoneを取り出してファニーゲームを検索する。顧客は本心をそう簡単には見せない。
そうやって二人にiPhoneの背を向けるようにしてリサーチをしてみると、二つの事実を入手することができた。
一つは、僕が当時観たファニーゲームはリメイク版であったこと。
もう一つは、ファニーゲームは、オリジナルもリメイクも、どうやら大して内容が変わらないようであること。
なんだそういうことか。つまりこの話は、おっさんの感受性がよほど豊かだったというだけだったようだ。
こんな刹那的な他人と偶然的に感性がマッチすることなんて、そう簡単にあるわけがない。マーケティングがいつ何事にも通用する銀の弾丸だなんて勘違いしてはいけない。
iPhoneをポケットにしまい、活性化した脳を落ち着かせ、また心を漂わせる姿勢に戻ろうとする。
おっさん「ネットで調べると、リメイクもオリジナルもほとんど変わらないと出てくるんだけど、それは台本の話。オリジナルは、全然違う部分でほんっとにやばいよ」
驚くべきこのコトラー、ものの見事に僕の懸念を払拭してきた。漂おうとしていた心は銀の弾丸によりぶちのめされた。
友人の相槌はとても控えめで、それは話の主導権を委ねることに決めたことを意味している。この山手線内回り3両目2扉前は、いつの間にか彼の手のひらで転がされていた。
なんならマスクをしているのも、口元が見えない為になんか謎めいているように見えて特別感を感じてきた。右手に付けたでかい数珠も魔術師みたいでかっこいい。
全然違う部分って一体どこだ。それは自分の目で確かめろという示唆であろう、僕の考察力への期待さえ込めてくれている。
https://ohtabookstand.com/2024/08/kansosaiko-3/
かいつまんでいうと、北村紗衣という大学教授がダーティハリーをつまらないと感想を述べたのだ。記事はつまらないという結論から始まり、公開当時の映画界の潮流やダーティーハリーの立ち位置などを説明し、彼女がなぜ本作をつまらなく感じたかという分析をするという構成であった。
この映画評に対して、須藤にわかというブロガーが反論記事をnoteに投稿した。
https://note.com/niwaniwaniwaka/n/nf5fd97890657
北村の記事内容を「ウソ」と言い切り、反論記事を書いたものだが、これが北村の目に留まったのだ。元々のタイトルが「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」という完全に喧嘩を売ったものであったので、北村が反応するのは当然であった。こうして戦いの火蓋が切って落とされた。対戦はTwitter上で繰り広げられた。
両者の記事を読んでいただくとわかるが、北村の記事からウソを見つけるのは難しい。というのも、彼女の論はこれまでのニューシネマ研究にそったオーソドックスな説明の引用に過ぎなかった。北村はニューシネマに対する専門家ではないため、自論を述べることに慎重であったのだろう。ちなみに北村はシェークスピアをはじめとした芝居や演劇の専門で、映画に関する論文や書籍を執筆していることは補足しておく。いずれにせよ、須藤が北村にたいしてウソというなら、これまでのニューシネマや映画史と対峙することに等しかった。
一方須藤の記事はニューシネマに対する熱量と敬愛は感じられるが、感想と意見と事実とが混同していて、素人目から見てもツッコミどころが山ほどあった。北村は須藤のロジックのほころびをみつけては、ボコボコにしていった。はっきりいって、ロジカルな勝負は数回のラリーでついていた。
ここから戦いは違った様相をみせていく。Twitterでの論争に苦戦したためか、須藤およびその周りのアカウントは北村を映画評以外の部分で攻撃。直接的な攻撃だけでなく、スクショでの晒しや別SNSでの陰口大会が始まった。中には露骨な女性蔑視を匂わせるものもあり、ロジカルな議論とは程遠かった。
しかし、北村はそれらを全て捕捉し仕留めていった。陰口がバレて「北村さんのことじゃないですよ〜」と言い逃れをしようとしても、ロジックで詰めていってトドメをさした。
興味深いのは北村を攻撃していた男たちの中には、日頃はどちらかというとリベラルな考えの持ち主もいた。いつもは保守派の女性蔑視を嘆いたり、女性の地位向上を望んでいるアカウントも、女性に論争で負けること自体は気に食わなかったようだ。
ここ1年で初めてはてなブックマーク日毎の総合人気エントリ入りしたドメインからのホットエントリ、ブクマ数順トップ30
ブクマ数 | タイトル | ドメイン |
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1355 | ブラウザの履歴を操作して「戻る」ボタンで広告を出すやつについて – コーヒーサーバは香炉である | blog.maripo.org |
1074 | Haystack | haystackeditor.com |
1021 | とある博物館の売店を運営することになった話 - icoro | www.icoro.com |
813 | Stable Diffusion呪文集(プロンプト)完全ガイド。これで美少女AI画像が生成できる! - 画像生成ドットコム | kindanai.com |
627 | 須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について - Commentarius Saevus | saebou.hatenablog.com |
626 | セキュリティ監視入門 | mztn.notion.site |
592 | ニンテンドーミュージアム | 任天堂 | museum.nintendo.com |
584 | 「無課金おじさん」じゃない方、金メダルの人について | あきゅらぼ Accu-Labo | accu-labo.com |
563 | 「寝ても取れない疲れ」原因はガチガチの背骨にあり!座ったまま背骨全体をほぐす簡単ストレッチ | ヨガジャーナルオンライン | yogajournal.jp |
555 | 「無課金おじさん」に幻想を持ちすぎないで | あきゅらぼ Accu-Labo | accu-labo.com |
514 | 性別騒動の女子ボクサー、五輪初戦46秒で勝利 棄権の相手は激怒、米紙は問題視「鎮静にならない」 | the-ans.jp |
508 | 運転の練習、どこでどうやる?安全に練習できる場所、環境、方法を解説!|マツダ|マツダのある暮らし | www.mazda.co.jp |
504 | 神谷貴行氏の除籍と解雇について | 日本共産党福岡県委員会 | www.fjcp.jp |
474 | 半神ー萩尾望都短編集ー 半神 萩尾望都 | フラコミlike! | flowercomics.jp |
470 | Docker入門資料「入門 Docker」を5年ぶりにアップデートしました。 - y-ohgi's blog | y-ohgi.blog |
468 | 南海トラフ地震臨時情報発表(気象庁) キーワード【巨大地震注意】 | weathernews.jp |
467 | 彬子女王殿下 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! | intojapanwaraku.com |
459 | 落合陽一さんの手法には明確に反対するよ、という話|けんすう | kensuu.com |
447 | ウー・ウェンの炒めもの | 高橋書店 | www.takahashishoten.co.jp |
446 | ITがつまらんとか言ってるのは老害だけ | さにあらず | blog.satotaichi.info |
420 | 日本共産党を除籍・解雇されました - かみや貴行のブログ 1%でなく99%のための福岡市政を | kamiyatakayuki.hatenadiary.jp |
419 | 「掛け算の順序問題」について思うこと | blog.oimo.io |
407 | 【今日の10ページ】再雇用勇者 - 永田礼路 / 今日の10ページ『再雇用勇者』永田礼路 | マグコミ | magcomi.com |
397 | 「割り込みタスクが多くて困ってます」と相談を受けたらマネージャーはどうするか - るさんちまん | naopr.hatenablog.com |
395 | 嫌な記憶よ、さようなら~記憶を意図的に忘れる~ | 企画展 展示室 感情 特集企画「過去と未来の記憶の心理学」 自分 記憶 | 心理学ミュージアム - 日本心理学会 | psychmuseum.jp |
389 | Microsoftが『コントロールパネル』廃止を明言。40年近い歴史に幕? | gazlog.jp |
380 | 異世界WANT TO BE - 安村洋平 / 特別読切 | マグコミ | magcomi.com |
372 | 【訃報】「はれときどきぶた」シリーズの著者、矢玉四郎先生が逝去されました。 - 株式会社岩崎書店 この1冊が未来をつくる | www.iwasakishoten.co.jp |
367 | (訃報)松岡正剛 逝去のお知らせ | 編集工学研究所 | www.eel.co.jp |
364 | 『フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)』について | ニッポン放送 ラジオAM1242+FM93 | www.1242.com |
「論破」しているのは北村氏だけど、心情的に共感できるのは明らかに須藤氏だな。
一つ一つの作品に思い入れのある映画マニアが、通説だとしても映画史研究の一般論的な枠組みでまとめられたら、それに違和感や抵抗感を覚えるのは当然のことで、もう少し一つ一つの映画の個性や独自性を尊重してほしいと思うのだろう。
それに対して北村氏は「私は映画史研究に基づく通説や一般論しか話してません」の一点張りで、そもそもの通説や一般論の妥当性については一言も触れない。確かに須藤氏の議論には粗が多く、そこをついて見事に「論破」はしているけど、ひろゆきと同様の誠実ではない論法という印象は否めない。
須藤氏は映画の知識でマウントをとっているというが、北村氏も映画史研究でマウントをとっている。マウント合戦についてはお互い様だろう。
そして指摘している人もいるが、不当な絡まれ方をしたとは言え、知識の専門家である大学教員のインフルエンサーが非専門家の素人(非インフルエンサー)をタコ殴りにしていいと思っているとしたら、プロのボクサーが素人から一発殴られたらボコボコにして返していい、というレベルでヤバいと思う。
つくづくこっちの意図が伝わってないことにびっくりだけど
・おれがびっくりしたってのは、ニューシネマは映画史的には重要なルッキズム(スターシステム)へのテーゼと評価されてる文脈をまるっきり無視してニューシネマは白人男性中心主義的と出てくるのにびっくりしたって話。それはおれが映画史的なものの見方をしているのに対して、フェミニズムの人間はそれが先に来るのかと驚いたってことで、なんでおれまでフェミニズム的な視点で納得しなきゃいけないの?
・それは別に痛くもなんともないんだけど、映画史的には圧倒的に重要なルッキズムへのアンチテーゼは無視して、フェミニズム的な文脈では白人男性中心主義が先に来るのかということに驚いたという話。なんでおれまでフェミニズム的な視点で物を見て納得しなきゃいけないのって話。
・「前の時代と同じだと特徴だと言わない」のは、『特徴』とは他のものと比べてとりわけちがって目立つ点をいうから。従来どおりのものをあえて特徴と言う必要がない。ルッキズムへのアンチテーゼはスターシステムとは真逆のテーゼなので特徴と言える。
・>比較対象が前の時代に固定されているのはなぜ?別に「現代の作品と比較したときに男性中心主義である」とか言えるよね?
以前の傾向から変化して男性中心主義から脱したというのであれば特徴というが、従来どおりであればわざわざそうは言わない。辞書どおり、言葉の定義通り。
・スターシステムの崩壊について語る目的は、スターシステムの崩壊がルッキズムはもちろん、白人男性中心主義からの変化と関係しているのをわかってなさそうだから。ルッキズムが崩壊したのであれば、白人男性中心主義が失われつつあるのも結局スタジオシステム、スターシステムの崩壊が元だということ。
意味不明どこに根拠が?おれが先に男性役者しか例示しなかったのは別に挙げる理由がなかっただけで、女性役者にだって同等にメリットがあった。
・>やっぱり何にびっくりしている・キレているのか、北村氏を腐す必要があるのかわからないんだよな。
これだけ説明してもわからないんだったらほんとこっちは絶望だよ。王道映画史的な見方とフェミニズム的な映画史の見方がコンクリフトしたってだけ。いいかげん君も陰謀論的な透視能力発揮しないほうがいいんじゃない。まるきりのバカと思われるよ。
読解力読解力と連呼する人ほど読解力がない現象だ。こわい。コンプレックスがあるからなのか。誰のどの主張に対して反論しているのかまず自分で整理してほしい。
・主張を自分の都合のいいように途中で変えるな。「白人中心主義であるとでっかく出てくる」から「白人男性中心主義が""最初に""特徴として出てくるのはおかしい」という順序の問題にすり替わっている。
・そもそも、北村氏も俺も誰も「ニューシネマの最初の特徴として白人男性中心主義は挙げていない」。わかる?元記事読んだか?「白人」とかのワードが出てくるのはかなり後半だ。最初に特徴として挙げているとかは普通に嘘だ。
・北村氏はお前も認めた「ニューシネマは白人男性中心主義」だと言及しただけで、別に「これが一番の特徴です!」とか言っていないよね。特徴って話はどこから出てきたの?
・発端の映画レビュー自体「フェミニストの立場から感想を述べる」って企画なんだから男性中心主義が「でっかく」でてくるのは当然だろ。馬鹿かよ。そりゃフラットな場でいきなりすべてをすっ飛ばして「ニューシネマの特徴は白人男性中心主義です」とか言い出したら俺もおかしいと思うよ?でも今回の企画の趣旨的に男性中心主義にふれるのは自然だよね?そしてその扱いもいうほど「でっかい」か?
映画史的にはルッキズムに支配されてたスターシステムが崩壊して、ダスティン・ホフマンやアル・パチーノやデニーロみたいなちびっこでも主役張れるようになった革新的な時代
・↑お前も「革新的な時代」と言う割には例として挙げている俳優は男性だけだよね?この点から見ても「男性中心主義」について言及するのは自然だと思うけど。
・前の時代から大きく変化がないことは特徴ではない、という点も意味不明。「一番の」特徴ではないという意味であれば首肯できるけれど。
総じてお前が何に怒っているのかわからない。ニューシネマの特徴としてスターシステムの崩壊を上げるのも別に否定しない。繰り返すが北村氏もスターシステムの崩壊に触れている。
「スターシステムの崩壊を差し置いて、ニューシネマの一番の特徴は白人男性中心主義であると主張した人」をまず屏風から出してくれ。
白人男性中心主義だっていうのがニューシネマの特徴ってのがでっかく出てくるのがびっくりだわな。
映画史的にはルッキズムに支配されてたスターシステムが崩壊して、ダスティン・ホフマンやアル・パチーノやデニーロみたいなちびっこでも主役張れるようになった革新的な時代という認識があったが。
「須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について」で
https://saebou.hatenablog.com/entry/2024/08/25/080602
北村紗衣さんが、須藤にわかさんを色んな映画史文献を上げて見事に論破してるわけですけど、
そもそも話の元はといえば話の発端はこんな記事で北村さんが「ダーティハリー」をボロクソ言ったこと
https://ohtabookstand.com/list/series/kansosaiko/
でも、この連載は
と映画に詳しくない人でもわかるような注目ポイントを挙げて、初見感想を述べるという主旨の記事だったはず。
須藤さんは映画をいっぱい見たけど多分映画史はよくわかってないらしいくて、そういう人に非難されて北村さんもカッとなったのかもしれないけど、
実のところ北村さんはそういう人の感想を最高だとは全然思ってないし、映画批評を遊びだとも思ってないですよね。
今からでも
「映画史を踏まえた感想って重要ですよね! 学びながらやる映画批評」
に改題したほうがいいんじゃないでしょうか?
https://note.com/niwaniwaniwaka/n/n42e060bfa955
https://saebou.hatenablog.com/entry/2024/08/25/080602
ひっでえな、と思った。
論争の内容に、ではない。いや、論争の内容もかなり程度が低いのだが、ブコメ欄が輪を二重にも三重にもかけてひどい。
誰一人として「映画史的に妥当な”アメリカン・ニュー・シネマ”の定義」に興味がないのだ。
その定義こそが論争の争点になっているはずなのに。
ブクマカたちは、オープンレターがどうの、ミソジニーがどうの、女がどうの、男がどうの、そんなクソどうでもいい話しかしていない。
「実際どうなのか」についてだれも興味を示さない。
発端となった記事を読めば、にわか氏が致命的なまでに映画史についての知識体系を持ちえていないことは明らかだし、blueskyの言い訳を見れば超絶ダサいヘタレであることもわかる。
一方の北村氏も無謬の聖人というわけでもない。この件に関してはともかく、普段はちょくちょく間違いを犯すし、それを指摘されればふてくされるなどして態度が悪いところもある。
だが、このふたりは少なくとも共通して「映画の話」をしてはいる。
だが、このふたりの記事にブクマをつけている数百人のブクマカたちのうち、「映画の話」に興味がある人はせいぜい数名程度にしか見えない。
彼ら彼女らにとって「映画の話題」とは、気に入らない対立陣営を叩く道具でしかない。
おそらく、こういうことは他の分野でも絶えず起こっているのだろう。
クソである。
おまえらが憎しみ合うのは構わない。
だが、やるなら自分らで直接殴り合ってくれ。
@niwaka-movie.com
だってその人なんか俺に対する引用RTで「家にある本を読み返したらやっぱりにわかさんがおかしい」とか言ってたんだもん。映画を見るんじゃなくて映画の本を見るんですよ、反論のために。こっちは映画の話をしてるんだからそんなの話にならないじゃないですか。
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
男性向け性玩具で「2年間痴漢しない努力した」 被害対策団体に「使用済み」送り付け…代表女性「性犯罪に問えないのおかしい」
今度はアンフェが研究者に喧嘩を売って反論でボコボコにされる事件が起きた
北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事
https://note.com/niwaniwaniwaka/n/n42e060bfa955
おいおいアンフェちょっとは控えろ
後者は喧嘩を売ったアンフェを脳死で支持しちゃったアンフェ達のコメントもあって、大量のアンフェが恥を晒す結果となった
もうね、アホかと。バカかと。
お前らな、頭のおかしい屁理屈垂れ流して世間や他人に迷惑掛けてんじゃねーよ、ボケが。
特に喧嘩を売ったアンフェのnoteのコメント欄で発狂して連投してるアンフェは酷い
とか言ってるの。もう見てらんない。
でも子どもに胸を張って勧められるイッパシの業界なのか疑っている。
まともな職業なのか。
大変失礼ながら実は、持続可能性なんて無視した、道楽の延長なのでは——?
ラピュタ2 を作ればいいのに、といつも思ってる。
もし封切られればラピュタの続編は、某少年探偵やら某無限列車編やらを確実に上回る、それも大きく上回る、映画史を塗り替える歴史に成るだろう。
マーベルを見習ってほしい。マーベル作品群は原作漫画にたくさんの作家がたずさわり、映画も複数の会社が展開する大規模なシリーズだ。
スターウォーズもそうだ。およそ50年弱でどれだけの劇場作品が、ドラマが、ゲームが作られただろうか。
メディアミックスして手広く展開すれば収益が生まれる。たくさんの人々が好きな作品のまわりで暮らしていける! 飯を食えるようになります。
なのに、確実に莫大なカネになる資源が目の前に落ちてるのに、どうして平気なんだろう。
重ね重ね失礼だけど、金儲けに本気になっているとは、とても思えないんです。
インドラの矢とも呼ばれているラピュタの雷は、どんな国に対抗するために作られたのか。
過去の世界にタイムリープして在りし日のラピュタ城を探検できたらどれほど楽しいだろう。
賭けてもいいけどラピュタの視聴者のほとんどはラピュタってブロッコリーの周りに収まる建物のことだと思ってるよ。
まわりに崩れ落ちて無くなってしまった城下町がくっついてたのを知らない。チラッとしか出てきてないからね。
権利者が死去したら、後世の人はリスペクトのためにコンテンツに軽々しく手を入れようとはしないでしょう。
飛行石が失われればラピュタ世界の豊かさは、竜の巣の中に隠された謎は、手の届かないものになる。
ツイッターや各種SNSがまだ機能してる今しかチャンスがない。声を揃えられるのは、今しかない。