はてなキーワード: 授業参観とは
俺:30歳 東京
父が60、母が40の時に俺が生まれた
子供の頃、父と出かけると「おじいちゃんと一緒でいいわね」と言われたりした
授業参観に来た親たちと並ぶと、母はやはり歳を食って見えた
当時はすこし思うところはあったけど、今となってはそんなのは何とも思ってない
現状
父 : 現在90、老後資金が尽きて下流老人へ(諸事情で年金はほぼ無い)
いまは実家に両親2人、なんとか自活できている
しかし母のこともあり、父の年齢もあり、長くて数年、場合によっては明日からでも立ち行かなくなるだろう
はっきりとは言われてないが、実家に帰ってこいムードを作られてる
何者にもなれてはいないが、ようやく仕事面では自己実現ができつつある
そんな中地元に帰るという事は、少なくとも今の「俺」という人間は死ぬ
誰しもいつかは通る道だとは思う
が、それを30そこそこで背負わされるのは正直きつい
一般的な年齢の両親から生まれてきた場合、介護問題に直面するのは40代中盤以降だろうか
それなりに上手く生きてきた人なら、それを受け入れられる体制も整いつつあるだろう
けど俺の場合はそれが「今」来た
また仮に、全く予定はないのだけど、
結婚しようと思った人が居た場合、俺の両親はどのように映るだろう
彼女未満の人が一応いるが、そのあたりのことは一切話していない
30そこそこの歳で相手の親が認知症だと聞いて、身構えない人はいるだろうか
40すぎて子供がほしいと願うのは構わない
https://anond.hatelabo.jp/20170622071604
近所の保育園で土曜日も子供が居るところがあるのだけれど、そういう保育園はほとんどないんだろうな。
認可保育園にやるのの何倍もお金がかかるプレスクールにやっている親が、保護者面談をこちらの自由な時間にできるところや、そのほかのメリットがあるのでたとえやすくても他にやるつもりは無いと言っていたけれど、そういうのもあるんだろうね。
土日対応して欲しいなら、それなりに金払えということなのかもしれない。
小学校になると、授業参観日を土曜日にして、月曜は学童保育で朝から預かってもらうというパターンがあるようだけど幼稚園、保育園はそういうのないね。
母は神経質で物に当たるし、他人の目を非常に気にした。
父は笑わせるつもりで言った言葉はモラハラ発言で、気まぐれで怒鳴りつけたかと思えばおもちゃを買い与える不安定な親だった。
私もネガティブになった。公園にいたら知らない年上の女に絡まれたり、小学校デビューから陰湿かつスパルタそうな教師に怒鳴られたり、同級生に物を盗まれたり、トイレに閉じ込められて出れなかったのを信じてもらえなかったり、散々な目にあった。
私が小4の頃、変わった教師にあった。ポジティブが素晴らしいという本を教室に置き、ゲーム脳というものを信じて学級通信にそんな話を書いたり授業参観で語ったりしていた。
私の家は手伝いや勉強をしても理由こそ謎だが怒るとゲームを捨てるといい出すので、母がそれに影響を受けないかとても心配だった。
母は口からゲーム脳とたまに言うがあまり変化はなかった。しかしこの時にポジティブという宗教にさらにハマってしまったのかもしれない。
この親は根が大変ネガティブなのだが、ポジティブを崇拝することでおかしくなったのだ。
誰かが悪事を働いてもそれを咎めず、むしろその人間のいい所を言うのだ。
テレビ上で悪人だろうと、実の娘を泣かせた相手だろうと、娘に唾を吐いたもの者であろうとだ。
私の前で私が名前を言ってる(方向が名前につくのでその度に言っていた)いじめっ子の名前を出して褒めた時に、私はとても失望した。今も私はそれを憎んでいる。
しかし身内にはそういうそぶりはなく、むしろ性格が悪いと言われたり、ちゃんとしろと言われたり、可哀想な人だと言われたりした。
悪事を行動で判断するのではなく、家族かそうでないかで判断する母の本で、自分を傷つけたものを否定してもらえず、受け取り方が悪いみたいな話をされ、言われたことを幻聴だと信じてもらえなかった。
常に無価値観と罪悪感が私の中にあって離れなくなった。
ポジティブというのは私を咎める凶器として昔から固定されてしまい、今の私は不安障害やフラッシュバック、パニックで泣かずに一日を終えることすらままならなくなった。
医療の場にあるポジティブな発言というものや、熱血という名の冷静さを欠いた医師に怒鳴られたり、否定してくるカウンセラーなど、足を運べば運ぶほど人がますます怖くなった。
ポジティブになれと言われるほど暗い気持ちになりポジティブを投げかける人間はみんな乱暴で冷たく、ポジティブを見てもネガティブな心境にあっても私は苦しむようになってしまった。
ポジティブに対してノイローゼになってしまった私には、ありきたりな物語も電車の広告も、格言も、自己啓発な発言も、傷つくもので、誰にも相談出来なくなった。
公立の小学校中学校では、年に数回、授業風景を公開するのである。
目的の中学校まで少し距離があるので、朝早く家を出て、9時前に着いた。
受付をすませて、さて、どこのクラスで何の授業をしているのかの案内がない。参観者にとって不親切だ。時間表のプリントぐらい、準備するのが常識だ。
ふとみると、下駄箱の横に、B4大で、授業の一覧が貼り付けてある。仕方がないので、それをメモして、まず、全クラスの雰囲気を知るために、足早に各教室を覗く。この時点で、学校の落ち着きというか、学習への意欲・雰囲気が、ある程度まで分かる。
2時間目から、20分程度ずつ各教室に居座って、じっくりと観察する。
我が子の顔さえ見れば満足という人は別格として、授業参観には、やはり見所のようなものがある。
授業では、まず教員(授業者)の技量を見る。力のある教員がいれば、その学校は一流に近づく。そのような教員は、多ければ多いほどよい。中学は学級担任制ではなく、教科担任制なので、各教科とも(国語数学英語に関しては特に)、実力のある教員をそろえる必要がある。
教員の実力は、一言で言うと、その授業が、子どもの学力を現実的に高めるものになっているのかどうか、という点で判断できる。
これを無視して、子どもに優しいだの、話が分かるだの、生徒指導がどうのこうのだのは、まったくもって、教員の仕事を誤解しているとしか言いようがない。
授業あっての教員である。それができなくて、他のことが満足にできるわけがない。
教員の技量を見分けるには、参観者自身が、20年以上の教員経験があり、その教科においても授業者以上の学力、識見、教授技術を持っていることが望ましい。だから、誰にでもできることではない。
しかし、そうも言っておれないので、見所のヒントをいくつか挙げる。
まず、子どものノートを横からちらりと見て、どの子どものノートもある一定の水準を超えていればよしとする(そのレベルについては、具体的なことは言えない。当該授業内容による。とりあえずは普通の字できちんと書いていればよろしい、とでも言っておこうか。ただし、良いノートというのは、知性が感じられるものである)。
ノートを見るには、 教室の後ろの壁に張り付いていてはダメだ。どんどん生徒の机の横にまで行って、覗かなくてならない。そんなあなたの姿を見て、授業者は嫌な顔は、しないはずだ(これは机間巡視と言って、教員の「いろは」である)。
次に授業者の声の大きさ、間合い、リズムを聞く。怒鳴り上げたり、いらいらしていたり、不必要な大声や、早口はいただけない。
うろうろと動き回ったり、逆に石のように一つ所にいたりするのも、よくない。
授業者の字が上手で、板書が多いと、参観者はすぐに感心してしまうようだが、これは大きな間違い。板書は少なければ少ないほどよい。板書なしでもよいくらいだ。
というのも、教員はすぐに板書に頼ってしまう。少なくとも板書していれば、間を持たせることができるし、黒板に書かれたものを、子どもがノートに写していれば、なんとなく時間がたつ。一見、授業をしているような気になってしまう。
板書がなくて、しかも生徒のノートがきちんととれているのが一番である。
それに、板書している間は、授業者は子どもの方を向けない。板書中に、子どもの発言を聞くなど、もっての他である。発言している子どもの顔を見て、聞いてやって、子どもの発言に対応するのが原則である。
板書は、ここぞと言うときにのみ、無言でするものだ。説明したければ、書いた後、子どもが確実にノートに書いたかを確認した上で、真正面を見て(黒板を背にして)するものだ。
続きはまた書く。
近くの自転車置き場を借りるは、駅から遠い場所にあるため、自転車置き場は借りる事ができない。周りは、幼稚園や古い団地。また、自分をよく見せようとしているのか、先生に逐一他の子の行動を伝える子もいる。
内申書、中学生でしょ?は、公立高校に入るため、ご近所さんが中学校で成績がよく、部活動をしてなかった子がいる。
実際に内申点で同じ高校に受験した子と比べて、入試がその子と比べ30点自己採点が高かったが、この30点で落とされるという事があった。その子は、よほど悪い事をしたのでは無いの?と思われるが、学校が遠いため、バスが一時間に一本の時間もあるため、歩いて帰宅する事があったらしい。その帰りにスーパーに寄った事もあるとか、勉強のため部活に入らなかった程度。とか。
学区外の子は、せいぜい多くて30名ほど。
授業参観や、運動会など、親や、先生が使う自転車置き場は、あるし、駐車場もある。特に広い場所は必要ないし、あちこスペースは、ある。
以前は、学区が広がった事もあり自転車通学があった。
ここに引っ越す前に説明があり、本来、新しい中学校が出来るはずでした。学区外の子は、二年内に中学校が出来るはずが、伸びて八年経つ。着工したが再来年に伸びた。
1 学年だよりはどこかに貼っておけ
特に行事予定と集金。学年だよりで重要そうなイベントはスマホのカレンダーかリマインダーに入れておく。
自分はGoogleカレンダーからGAS使って毎朝Slackにリマインダーが飛ぶようになってる。
学年だよりにはその月にやる単元がのっている。図工の用意なんかはそこを見て教科書を開けば一発で分かるし、最近の学校はちゃんと1ヶ月前には便りを出すか連絡帳で知らせてくれる。
そうじゃ無いと言うことはただの怠慢だから担任から校長に意見をあげてもらうか、2学期の終わりにある学校評価の保護者アンケートで書いておく。
2 お便りはとりあえず写真をとっておけ
あそこはペーパーレスとは無縁だ。おびただしい量の手紙が来る。特に1年生のはじめは毎日学年だよりが来る。
忘れるし、買い物行ったときに揃えるモノが分からなくなるから写真とっておけ。
あとは学年が始まった最初に配られる、年間行事計画は絶対に写真をとっておくこと。授業参観の予定が1年分出ている。さすがに半年以上前に出ていたら休みの調整は出来るだろう。
3 教科書を一緒に見ろ
子どもがやっている勉強を把握していない親はダメだ。教科書見ろ。国語は音読を聞けばよいが、他の部分は教科書を開かせろ。今日やったところを開かせるだけで良い。それ以上聞く必要は無い。
〇〇くん、さん、多く出てくる困りものはキーパーソンだから、その名前だけは覚えろ。そして1月くらいにそれとなく「来年度のクラスで~さんと一緒はイヤだって本人が言っています」と担任に伝えろ。6年も同じだ。中学1年のクラスを考えるのは小学6年の先生だ。
勉強の内容も把握できるから話はしっかり聞け。スマホ見ながら、夕飯作りながらではなく、面と向かって5分取れ。
連絡帳は子どもが見せないことがある。封筒に入れて大げさにして渡せ。
最後に一筆「校長先生にもご意見をお伺いしたいのですが、お電話差し上げても構いませんか?」と書けば絶対に校長には伝わる。
なお、ここで校長が「いつでも構いません」と返事をくれるか、担任から「校長がこういっておりましたので、お電話は不要です」と返事が来るかで校長のレベルが分かる。
いざという時はママじゃなく、パパが出動しろ。もしくは2人で出動しろ。2人で出たときはどちらかは騒いでどちらかは冷静になる役割分担をしろ。
子どもの一生に関係する6年間だ。真っ当な意見ならどんどん言うべき。ここで騒いでも仕方ない。あなたの子どもは画面の向こうでは無く目の前にいるのだから。
追記:
うおおおお何かバズってますね!
母親と暮らしていた。水商売だったから夜は一人だった。いつも男を家に上げていた。子供が寝ている横でセックスをしていた。
休日になっても夜型の母親はいびきをかいて寝るだけだった。友達は貴重な休日を家族で出かけて過ごしていたから、休日が辛かった。
一人で出かけて、時間を潰して帰るのがいつもだった。自分を害する気はなかったと思われるが、子供にとって放置が最も苦しかった。
およそ娯楽と呼べるものは家にはなく、しかしブランド物のカバンが複数あった。母親の男は決して長くはないスパンで入れ替わっていた。
父親に引き取られた。再婚していた。新しい母親には罵声を浴びせられた。出て行け、生きている価値がない、といったメッセージが多かった。
しょっちゅう折檻をされた。寝坊したときに15分以上の折檻を受けたこともある。今からだと余計遅刻するだろと思うがお構いなしだった。手足を縛られて押し入れに押し込められたこともあった。
父親も罵声を浴びせてきた。酒を止めようとしても飲み続ける姿は嫌いだった。
高校生の時、アメリカに1週間ほど留学できるという主旨のプリントが学校で配られた。
20万円ほどだったので安い方だと思うが、うちでは行けないと分かっていた。アルバイトをしても間に合わない。何とか策はないかとしばらくプリントを放置していた。期限が過ぎてプリントを処分した。
それから一ヶ月経って何かの拍子で父親と言い合いになった。プリントのことをなじられた。「あんなプリントを置いて、行かせてくれるとでも思っていたのか。うちの経済事情を考えることも出来ない自分勝手なやつだ」もう捨てたんだし期限も切れたんだから放っておいてくれよと思った。
母親からはお前の教育費は高いと言われた。自分は公立なので、私立の他の兄弟よりは圧倒的に安いのだが、高いと言われた。
小学校の時、○○病というのが流行った。女子の集団にやられた。
友人だと思っていたグループで実は嫌われていて、自分一人でそのグループの数人をイジメていたということで排斥された。傘でぶん殴ろうと脅す卑劣なやつ、という事実とは違う形で親に伝わっていた。
教師にもよく殴られた。隣の教室で先生同士の授業参観があって、自分のクラスは自習だった。みんな喋っていた。自分も喋っていた。先生が怒鳴って「騒いでいるのはどいつだ!」と言った。自分だけ手を上げた。自分だけ殴られた。おかしい。自分だけが喋っていたわけじゃないのは分かっているはずなのに。
また別のイジメを行っていると言われた。半年に及ぶということで6回全身を殴られた。
高校では、女に嫌われまくった。何かと指を指して笑われた。
クラスの出し物で、ダンスをすることになった。全員で手をつなぐ場面があった。隣が女子で、そいつは自分のことを気持ち悪がっていた。通し練習で初めて手をつなぐ場面をすることになった。その女子は友達の女子と「地獄がやってくる」などと言っていた。友達の方も「聞こえるよ!」なんて言っていた。聞こえていたので用事を付けて練習から抜けた。もう参加しなかった。
大学は途中から最低限しか行かなくなっていた。女に振られたからだ。その女はレイプされそうになったと周囲に言っていた。それまでの学校生活で女不信になっていたところに致命傷だったと言える。女を警戒して暮らすことになった。
家事ができなくなった。朝起きたらコンビニに飯を買いに行って昼になったら飯を買いに行って夜になったら飯を買いに行った。何もやる気が起きない自分は弱いと思って栄養ドリンクを飲みまくったが何もやる気にならなかった。留年はギリギリ回避して卒業した。
就職した。先輩は酒の席になると自分を罵ってくる。それも二次会で上司がいないとき限定なので、飲み会は一次会で帰るようになった。
親が死んだ。その数カ月後にうっかり二次会まで行ったら事情をお構いなしで詰ってきた。そうやって暮らして6年たった。去年に先輩は異動して会わなくなった。
今日も気分は晴れない。
親のことでしんどい
「じゃあ死なせてくれ。殺しに来い」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1609/23/news067.html
私20代後半。
母60代後半。透析歴13年くらい。
昔は週2回3時間で済んでいた透析も、いつだったか、何かのタイミングで週3回4時間になった。
ウチの母は生活習慣がどうこうっていう糖尿ではなくて、遺伝子レベルの問題なので
ハセガワなんちゃらさんの言う中には入らないんだろう。
「もう少し好きなもの食べてもいいと思うけどね」なんて担当医に言われたレベル。
だけど、ハセガワなんちゃらさんの物言いが不快なことに変わりは全く無い。
真に言いたいことは医療費がどうのこうのという感じなんだと思うけど、
とにかく過激だなと思った。
炎上芸なんて揶揄されてるから取り合わないほうがいいのかもしれないけど、
何ていうか残念だなあと、ただ悲しかった。
小学校に上がった頃にはすっかり「母は病弱である」というのが刷り込まれていて、
授業参観とかそういうものは、気がついたら全部父が参加していた。
目が見えづらいから手術するんだよとか、そんな風にしか理由を聞いていなかったけど、
今振り返ると糖尿病の進行が関係していたんだなあと、ぼんやりわかる。
なんで透析することにしたのかは単純で
宣告受けたのが私が13歳だったと思うから、7年か。
今年の冬で14年目に入るんだから、もともとの予定の倍は生きてるね。ありがたい。
一度だけ透析室に入ったことがある。
あとになって一緒に入った父に聞いても首を傾げられたけど、
あの匂いはもう感じたくないな、と頭の隅で思った。
(実際に死臭なんてものが存在するのかどうかは知らない。あくまでも私の感覚での話)
一番強くその匂いを感じた場所にいた人は、1年経たずに亡くなった。
母が透析をしているうちに作った友人だった。
仲良くしていた患者さんのうち、4人目が亡くなった時点で、母は友人作りをやめた。
ハセガワなんちゃらさんの記事ではなんかものすごい言い方されてたけど、
娯楽のために出かけることなんて年に数回あるかどうかってレベルなんだよね。
酷い日は透析から帰ってくるとそのまま寝込んで起きてこられないこともある。
手続きはまだまだ煩雑で、窓口に来るのは本人じゃなきゃだめとか、問い合わせのたらい回しとか、
お役所仕事いい加減にしろって思うことはあるけど、恩恵はありがたく受けてる。
透析に関して、「しんどい、やめたい」と零されると、なんて返したらいいのかわからない。
やめていいよとは言えない。「死んでいいよ」って意味になる。
でも、その一方で苦しみながら生きているのはどうなんだろうと思う。
正しい答えなんてものが無いことを抱えながら生きている大切な肉親に
「死んでくれ」なんて言えるわけがないんだけど、
ハセガワなんちゃらさんはそれにはっきり答えをくれるのかな?
安楽死とか尊厳死とか、そういう議論って今行政ではどうなっているんだろうなあ。
まあそういう意味ではありがたいってことにしておこうか。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。
-------------------------------------
追記。
技士さん。いつもありがとうございます。お世話になってます。
友達を作らなくなった母は、看護師さんや技士さんとお喋りするのがささやかな楽しみのひとつのようです。
中にはつらく当たる患者さんもいるだろうけど、ひとりの患者の家族としては感謝の気持ちしかありません。
言葉の強さが悲しかったけど、結果的に考えさせられたな、という感想のつもりで書いたら
母には聞かれたのです。透析患者がどうこうって何かニュースでもあったの、と。
その場で検索かけて記事読んで、どうしようかとは思ったけど、私なりの解釈で説明しました。
言葉の選び方は良くないけど間違っちゃいないとは思うのでね。だって患者が家族にいても、税金おさめて負担しているのは変わりないから。
ほとんどが私服になってる小学校も制服にしようとか思わないのか?(小中の校区は同じ場合多いから小学校で貧乏ってばれてたら中学から制服にしても無意味)
休日に私服で出かけるのは放置してもいいのか?(たいてい生活圏同じなんだから学校以外であったらばれるだろ)
授業参観等の親の服装でも可視化されるけどそれはいいの?(子供だけ同じにしても無意味)
住んでる家も経済格差あるけど家は共通化しないのか?(服装以外で経済格差が可視化されてるだろ)
黒い肌の人は差別されるから白塗りしようという発想は問題だと思わないの?(安い服を着てるからといっていじめるなと教えるのが本来あるべき姿)
社会に格差があるのにそこを放置して見えなくするのって妥当な解決策なのか?(社会問題の報道を規制すれば社会が良くなるといってるようなもの)
http://anond.hatelabo.jp/20160609151641
そんなモンキーを黙らせられる人が2人いたんだよ、クラスのKさんと4組の女教師。
今だったら体罰と騒がれるが4組の先生はこのモンキーが他人に暴言、暴行を加える度、殴っていた(今思うと多分手加減していた)。
めちゃくちゃ怒鳴って殴るのでモンキーも4組の先生が見ている集会では騒がなかったね。
親も相手が女教師だからなのか寧ろ感謝しているようで、授業参観で会った時、廊下で怒鳴られているのを見ても目をそらしているだけだったのを覚えている。
最初4月にモンキーが筆箱を持って襲いかかった時、椅子を持ち上げてモンキーを殴った。
「触んなやガイジ!死ね!」と良いながら反撃したKさんはかっこ良かった。
小学校を卒業した後、同じ中学校には進学出来なかったのかそのモンキーは居なくなったが、結局モンキーを黙らせるのは暴力しか無いのかもな。
うちの家系で俺の父だけが唯一経済的に一定の成功を収めていたということを最近知った
そして俺の親類縁者の多くが、俺が生まれてすぐくらいの時期に大きな借金を背負っていたようだった
そのため、父は路頭に迷いそうになっていた親類縁者の世話をそれなりにしていたらしい
俺の子供時代の母親の記憶が非常に曖昧なのもそれが原因だと知った
俺の母親は父と共に今も健在なのだが、俺自身の「母親」の記憶に実母の印象はあまりない
何故ならば、当時の俺の家には母と同年代の女性が何人も住んだり出入りしたりしており、全員が何らかの形で俺の母親の役を演じていたからだ
母の姉妹、父の妹(要するに俺の叔母)、父の従姉妹と、時期や期間にばらつきはあるが、俺が「母親」と認識していた女性は(実母も含めて)5人か6人いたと思う
幼稚園の卒園式、小学校の入学式、毎年行われる運動会や授業参観、小学校の卒業式、中学校の入学式あたりまでは常に前述の女性陣の誰か一人か二人が出席していた記憶がある
あるとき親しい友人にそれを話したら「まるで現代の一夫多妻制だな」と呟いてなるほどと感じた
もっとも、父と母以外の女性達の間には特にこれといったものはなかった
実際のところ俺が十歳になるまで父と母と俺は同じ部屋で川の字になって寝ていた
居候していた女性も一人は最初から既婚者で、残りは俺の家から離れた直後に結婚していた(むしろ、結婚が決まるまでの間だけ俺の家に住んでいた、というべきか)
何となく今思い出したのでここに書いてみた
当時俺は小学1年生で、事件は初めての授業参観が終わった後の授業の合間の休み時間に起こった。
同級生が楽しく親と談笑している中、母が俺に「好きな女の人はいる?」と聞いてきた事が発端である。
俺は子供ながらに「お母さんかな」と少し照れながら答えたが、母は期待していた返答を得られなかった様で不満げにもう一度聞いた。
俺は別段他人に恋愛感情を抱いた事がそれまでなかったので「いないよ」と答えたが母は「嘘でしょ」「正直に答えなさい」としつこかった。
すると母はいきなり激昂して「いやらしい事を考えるな!」と叫び俺の顔を殴った。
人が異性を好きになる事について何がいやらしいのか全く知識がなかったので本当に困惑したし、
唐突に繰り出された理不尽な暴力と意味不明さにその場で泣いてしまったが
ぎょっとこちらを見つめるクラスメイトやその親に対して母は「この子ちょっとおかしいんですよ」と告げ口して回った。
挙句の果てにはAさんとその親に「この子Aさんが好きなんですよ。気持ち悪いですよね」と言う始末だし
俺はどうして母がそんなろくでもない言動を取ったのか理解できなかったので(今も理解できないのだが)混乱して何も言えなかった。
他人にとっては笑い話だろうし20年も前の出来事なので今更騒ぐ気にもなれないが、
小学 + 中学の9年間で異常者というレッテルをはられ信頼を失ったまま生活しなければならなかったのは俺にとって深刻なトラウマだ。
ㅤ
ㅤ
(創作だろ、と思うくらいで読んでくれれば幸いです)
ㅤ
ㅤ
私のことを愛していると言った。
ㅤ
ㅤ
母親と会うのは、月に一度。
住んでいる場所は遠くはなかったが、なぜ一緒に暮らしていないのか、幼いながらにタブーだと知っていたのか、きちんと確認したことはなかった。
ㅤ
小学四年生の頃の運動会では、全身を私のチームの色のジャージで手作りのポンポンや旗を振り揃え、クラスメイトや保護者たちの失笑を買っていた。
半年に一回の授業参観でも、私が発表するたびに「私の子です!」と周りに伝え、悪目立ちしていた。
ㅤ
私を愛していると言っていたお母さんは、私が高学年になったあたりから回数が極端に減った。
月に一度が、長期休みの間に一度と、年3.4回へと減っていた。
ㅤ
ㅤ
「お母さんね、整形したの。」
突然の告白に動揺を隠せず、「なんで?」と聞いた声は震えていたと思う。
その日の電話は、とても長かった。
あまり内容をハッキリ覚えていないけど、「お母さんがそうしたくて、そうしたのならいいと思う。お母さんが幸せになるならいいよ。」と返したと思う。
本心かどうか分からなかったが、唯一の肉親だった母親に嫌われたくないための、建前の方が強かったと思う。
ㅤ
ㅤ
ところが、私の人生は一転する。
瞬時に「やばい。」と感じた。
少女漫画で見たことのある、いじめの始まりのシーンが自分の身に起きていた。
ㅤ
それまでの私は生徒会の一員で、友達も決して少なくない方だった。
そもそも、一学年1クラスしかないような小さな学校だったが、男女ともに仲が良く、学校生活は充実していた。
ㅤ
原因がわからず、一番の親友だった女の子に話しかけると「わからないの?!」と言われた。
怪訝に思っていると、担任に呼ばれた。
担任から聞かされたのは、自分の身に起きたとは思えない、現実味のない言葉だった。
ㅤ
「あなたのお母さんがテレビに出て、クラス中で騒ぎになっている。」
ㅤ
その日は早退した。
担任から電話があったらしく、私よりも詳しく事を把握していた。
ㅤ
番組では、母親がどれだけ容姿にコンプレックスを持っていて、その容姿によってどんなに不幸な人生を歩んできたか。
そして、番組内で整形手術をし、ダイエットをし、美しくなった。
後日、別の学校だった親友に録画してあった番組を見せてもらった時、母親が誰か分からなかった。
ㅤ
番組内では、母親がメインとして扱われ、美しくなり、大物タレントに「幸せになってね!」と励まされ、スタジオ号泣の美ストーリーだった。
自分の身内でなければ、第三者だったら、感動で泣いていたと思う。
ㅤ
番組内のVTRで流れた母親が受けた不幸エピソードを準えるようなものが主流で、傍観している生徒もクスクスと笑う。
小学校はその後すぐ卒業したが、中学校でもすぐに噂は広まり、上級生がわざわざ私を尋ねて顔を見に来ては囃し立てるくらいだった。
話しかけてくる子はみんな、二言目には母親のことを聞いてきた。
中には、母親のことを聞くことを罰ゲームとして、好奇の対象になった。
初対面で会う人が、みんな大嫌いになった。
初対面で会う人と、うまく話せなくなった。
ㅤ
ㅤ
友達を作ることもできず、何か別のことに打ち込むこともできず、転校もできなかった。
ㅤ
私のためだ、私を愛してるからだと言っていた母親も、住みにくくなり、すぐに遠くに逃げた。
東京で夜の仕事を始めたところまでは把握していたが、その後連絡を取ることを禁じられた。
ㅤ
ㅤ
怒る対象を失い、頼る友達を失い、安らぐ場所を見つけられず、中学時代は孤独だった。
ㅤ
高校に入り、流石にいじめはほぼ無くなり友達もできたが、一緒に笑っている友達が、心の中では私のことをバカにしているのではないか、陰で笑い者にしているのではないか、好奇で一緒にいるだけではないかとずっと怖かった。
ㅤ
ㅤ
結局高校時代の友達には、私の母親のことを知っているかなどハッキリ聞けないままだったが、心の中で抱いていた疑心を気にしなくなるくらい仲良くなれた友達もいた。
ㅤ
ㅤ
保護者だった人が、念のためと母親に私の連絡先を伝えたと言った。
「もう幸せに暮らして、私のことを子どもだとも思っていないんじゃない」などと冗談めいて言ったが、心の中ではそうに違いないと思っていた。
ㅤ
ㅤ
ㅤ
美しくなったはずの顔は、数年で元に戻ったらしく、段々と失われる美貌や居場所が原因で、重い心の病気になって入院していた。
母親から掛かってくる電話で「幸せ?」と聞いた時に「全然幸せになれなかった」と言われた時に、初めて明確な憎悪を自覚した。
せめて幸せになっていてくれれば、母親を怒鳴り罵り、私がどれだけ嫌な思いをしたか伝えられた。
でも「幸せになれなかった」とハッキリ言う母親を、責めることなんてできなかった。
「そっか、私もだよ。」と伝え、その後母親からの電話に出なくなった。
ㅤ
ㅤ
ㅤ
未だに、目の前にいるこの人は母親のことを知っていて、心の中では嗤っているんじゃないかと思う。
未だに、初対面の人とうまく話せない。
ㅤ
この先、結婚するような相手が出来たら、必ず母親のことは負荷になる。
母親が生きている限り、隠すこともできないだろうと思う。
事の顛末を聞いて、手のひらを返すような人はこちらとしてもお断りだが、結婚相手は受け入れても相手の家族がどう思うかわからない。
ㅤ
ㅤ
「どれだけ親と仲が悪くても、産んでくれたんだから感謝しやきゃいけない」
という言葉を聞くたびに、虫酸が走る。
ㅤ
ㅤ
ㅤ
今では母親が近くに住んでいなくてよかったと思う。
近くに住んでいたら、危うく殺しかねない。
ㅤ
ㅤ
私が一番楽しい青春時代を奪われた分、幸せになってくれなければ割に合わない。
美しくて、幸せに楽しく生きる母親に、自分をぶつけ転落させたい。
ㅤ
ㅤ
ㅤ
なぜ今これを書こうと思ったのかはわからない。
ちょうど10年が経ち、自分の中で一つのケリをつけたかったのかもしれない。
ㅤ
ㅤ
当時の知り合い以外に、自分からこの話をしたことがなかったから、他人の見解を聞きたいのかもしれない。
私の考え方は間違っている、私の不幸の原因は母親ではなく私自身にあるのだと叱って欲しいのかもしれない。
つらかったね、頑張ったねと慰めて欲しいのかもしれない。
こうすればよかったのに、こうすればいいのにとアドバイスが欲しいのかもしれない。
お前より不幸な人間は他に五万といる、と鼻で笑って欲しいのかもしれない。
ㅤ
ㅤ
ㅤ
私の人生は、私が身動きを取れない間に、唯一の肉親に壊されてしまった。
こう言って私は、この先もずっと母親を恨んで、母親に全ての責任を転嫁し続けると思う。
ㅤ
ㅤ
お母さんへ、私のために幸せになってください。
なんかあれだ。授業参観とか運動会で妙に張り切って周りの友達に対して恥ずかしい思いするようなそんな感じだ。。
完全に仕事関係のリンクのshareとか、絶対父には理解できないような内容にまでとりあえずfavしてくるんだが、一体何を思っているのか。
自粛してもらおうにも、どう伝えていいかわからずに結局何もできないでいる。
大体、自分の息子から「お父さん、いつも見ててくれるのは結構だけど恥ずかしいからSNSストーカーしないで」とか言われたら父親はショックで立ち直れないであろう。
とはいえ、「favしてくれるのはいいんだけど内容わかってないでしょ?」みたいなこと言うのも憚られる。
父親は自分が小さい頃から単身赴任やら出張やらで家を開けている事が多く、まともに会話した記憶がない。父親がどういう人間なのかずっとわからないまま、気がつけば30をを目前にする歳になった。
父親は今でも海外で働いており、めったに日本に帰ってこないので顔を合わせる機会もない。SNSだけが彼にとって息子とつながる手段なのかもしれないが、俺がshareするweb系ニュースの記事とか、ネタでつぶやいたtweetとか、そういうの全部favしてくるのはさすがに恥ずかしいのでやめてほしい。
最近ではfavされるのがしんどいのでネタっぽいことは何も書けなくなった。ただ淡々と自分の会社のプレスリリースをshareしたり、自分の仕事に関係があるリンクをshareするぐらいしかできなくなった。
ぐるぐる来てたのはもちろん気付いてたが、油断してコンビニなんかに寄ってしまったのがいけなかった・・・
おうちまであと200mのところで出てしまった。
悲しかった。
おうちに着くなりもちろんトイレ。
そしてそのまま服を丁寧に脱ぎ、もらしたうんちの付いてるパンツからウンコが落ちないようにゆっくり風呂場まで行って、風呂場でパンツをこれでもかと洗いまくり、体もそのまま洗った。
これで人生三回目だ。
授業中にもらしてしまい、そのまま家まで帰っておばあちゃんに処理してもらった。
二回目は数年前、仕事中にトイレにあと数メートルのところで漏れてしまい、パンツは捨てた。
そして三回目。
みんな漏らしたことある?
息子が悔しそうに「学校で叩いてくる人がいる」と訴えてきた。
話を聞くと、何度「やめて」と言っても叩いてくるのだそうだ。
息子だけでなく、息子をかばってくれた仲の良い友だちも叩かれる。
逆に友だちをかばっても叩かれる。
ちゃんと謝った時でも、次の日には何もなかったかのように叩いてくる。
息子も友だちも優しい性格で、自分から叩くことはもちろん、仕返しもしない。
今までは話せば通じていた。なのに今回はやめてくれない。
ついつい仕返しをしてしまいそうになるけど、暴力は絶対にダメだからしない。
なのに、相手は平気で暴力を振るってくる。それが悔しいのだそうだ。
先日授業参観があったので、この件をまず先生に相談するつもりでいた。
授業中ずっと落ち着きなく話している。時折立ち上がっては、補助教員に注意されて座らせられる。
これは先生に言っても無駄(既に何度も対応しているのは分かるので)だし、
ご両親に言っても解決しないどころか、無駄な心労を与えるだけなので、
何も言わずに帰ってきた。
息子には
「世の中にはいくら話しても仲良くなれない人もいる。
もしそういう相手が意地悪をしてくるときは、逃げてもいいんだよ」
と言った。
休み時間になるとすぐに、その子がいないところに行って遊ぶようにしているそうだ。
(それはそれで楽しんでいるようだ)
人はみんな少しずつ違うところはあるけど、同じ仲間だと教えられている。
そのために差別意識など全く持っていない息子や友だちが、
毎日逃げまわっているというのは、納得がいかない。
3人で打ち合わせをすることになった。俺とA、俺とBはそれぞれ知り合い。AとBは初対面。
話が始まるか始まらないかというタイミングで、俺に電話がかかってきてしばらくその場を離れた。
電話を終えて戻ってくると、AとBがけっこう打ち解けていた。
A曰く「うちとBさんのお子さん、上も下も同級生なんですよ」
なんたる偶然だろうか。Bは知らないが、少なくともAは車で30分かけて今日の場所に来ている。
その二人の子どもが同じ学校の同じクラスに。しかも兄弟ともだ。
軽く興奮して「そうなんですか!?世の中狭いですね」と驚いた。
(もしかして以前から知ってたのか?)と思い「授業参観なんかで会ったことあります?」って聞いたら、
それ『同級生』って言わないよ~。『同学年』だろ~。