公立の小学校中学校では、年に数回、授業風景を公開するのである。
目的の中学校まで少し距離があるので、朝早く家を出て、9時前に着いた。
受付をすませて、さて、どこのクラスで何の授業をしているのかの案内がない。参観者にとって不親切だ。時間表のプリントぐらい、準備するのが常識だ。
ふとみると、下駄箱の横に、B4大で、授業の一覧が貼り付けてある。仕方がないので、それをメモして、まず、全クラスの雰囲気を知るために、足早に各教室を覗く。この時点で、学校の落ち着きというか、学習への意欲・雰囲気が、ある程度まで分かる。
2時間目から、20分程度ずつ各教室に居座って、じっくりと観察する。
我が子の顔さえ見れば満足という人は別格として、授業参観には、やはり見所のようなものがある。
授業では、まず教員(授業者)の技量を見る。力のある教員がいれば、その学校は一流に近づく。そのような教員は、多ければ多いほどよい。中学は学級担任制ではなく、教科担任制なので、各教科とも(国語数学英語に関しては特に)、実力のある教員をそろえる必要がある。
教員の実力は、一言で言うと、その授業が、子どもの学力を現実的に高めるものになっているのかどうか、という点で判断できる。
これを無視して、子どもに優しいだの、話が分かるだの、生徒指導がどうのこうのだのは、まったくもって、教員の仕事を誤解しているとしか言いようがない。
授業あっての教員である。それができなくて、他のことが満足にできるわけがない。
教員の技量を見分けるには、参観者自身が、20年以上の教員経験があり、その教科においても授業者以上の学力、識見、教授技術を持っていることが望ましい。だから、誰にでもできることではない。
しかし、そうも言っておれないので、見所のヒントをいくつか挙げる。
まず、子どものノートを横からちらりと見て、どの子どものノートもある一定の水準を超えていればよしとする(そのレベルについては、具体的なことは言えない。当該授業内容による。とりあえずは普通の字できちんと書いていればよろしい、とでも言っておこうか。ただし、良いノートというのは、知性が感じられるものである)。
ノートを見るには、 教室の後ろの壁に張り付いていてはダメだ。どんどん生徒の机の横にまで行って、覗かなくてならない。そんなあなたの姿を見て、授業者は嫌な顔は、しないはずだ(これは机間巡視と言って、教員の「いろは」である)。
次に授業者の声の大きさ、間合い、リズムを聞く。怒鳴り上げたり、いらいらしていたり、不必要な大声や、早口はいただけない。
うろうろと動き回ったり、逆に石のように一つ所にいたりするのも、よくない。
授業者の字が上手で、板書が多いと、参観者はすぐに感心してしまうようだが、これは大きな間違い。板書は少なければ少ないほどよい。板書なしでもよいくらいだ。
というのも、教員はすぐに板書に頼ってしまう。少なくとも板書していれば、間を持たせることができるし、黒板に書かれたものを、子どもがノートに写していれば、なんとなく時間がたつ。一見、授業をしているような気になってしまう。
板書がなくて、しかも生徒のノートがきちんととれているのが一番である。
それに、板書している間は、授業者は子どもの方を向けない。板書中に、子どもの発言を聞くなど、もっての他である。発言している子どもの顔を見て、聞いてやって、子どもの発言に対応するのが原則である。
板書は、ここぞと言うときにのみ、無言でするものだ。説明したければ、書いた後、子どもが確実にノートに書いたかを確認した上で、真正面を見て(黒板を背にして)するものだ。
続きはまた書く。