はてなキーワード: 授業参観とは
子供が通う幼稚園の生活発表会に行ってきた。園児がこの日のために一生懸命練習した歌や踊りを保護者に披露するのだ。ここの幼稚園は園児数が多く、市で一番大きなホールを借り切って行う。
自分の子供の出番はそれはそれは楽しいもので、涙さえこぼれそうになるほど感動的なのだが、他人の子の舞台は正直苦痛でしかない。
合計3時間の会で自分子供が出るのが姉妹合わせて30分ぐらい。残りの2時間半は、他人の子。ホント辛い。どうも感情的にフラットではなく、マイナス側に振れるようだ。去年もそうだった。
終わった後、知り合いのお母さんに、「○○ちゃん(うちの子)上手やったねー!」といわれても、こっちは相手の子がいつ出てたのかさえ知らないもんだから、あははは。と言うしかなくて、ちょっと気まずい思いをした。
人の親としてどうなのよ。と自分でも思うが、実際そうだから仕方がない。
いったいなぜなのか?ちょっと考えてみた。
まず、全く興味のないものを強制的に観せられるのは苦痛。というのは誰もが思う事だろう。
では、なぜ全く興味が無いのか。
切り分けたいのが、これが例えば大物演出家が園側にいて、エンターテイメントとして完成されたものであれば、それは誰が出ていても楽しいだろう。当然だ。
でも実際は知らない子供が歌ってるだけだ。お父さんお母さんに見せるため一生懸命練習したんだろう。でも他人の子というだけで全く響いてこない。自分はこんなに冷酷な人間だったのか?
そして、長い。ひとつの演目で長いものだと30分とかだ。こういう事はこの会の趣旨として違うとは思うし、求めてもいけないとも思うのだが、もう少しテンポよくやって欲しい。
ひとつ、ホールでやっているのも原因なのかもしれない。舞台と客席。上で書いたように観る側はつい自然と興味や楽しさを求めてしまうのではないか。
いったい誰の子なら楽しいと思えるのか。友人、兄弟、会社の人の子ならどうか。
わからない。
他の方はどうなんだろう。特に父親の方に聞いてみたい。
来春、息子の小学校就学を控え、地元の公立校に足を運んだ。一人授業参観である。
授業を見てどうなるというわけでもないが、全く知らない場所に愚息をホイっとやるのは快いものではない。
職員兼来訪者用玄関で受付を済ませ、1年生の授業を参観した。
おそろしく退屈であった。
教師は教科書に書いてあることをそのまま板書し、教科書に書いてあることをそのまま読み上げる。
子供たちはおとなしく座っていたが、私の集中力はすぐに切れてしまった。
算数の授業では、持参したノートPCでYouTubeを観ていた。私が。
ネットに転がっている解説動画の方が授業より分かりやすいのだ。
ほんの少し検索しただけで、授業よりはるかにマシな動画が見つかる。
通信教育、有料サービスならもっと多くの、高品質な""授業""を受けられるだろう。
授業の質が低いこと、Google先生の方が優秀なことくらい、子供でも理解できる。ネタは割れているのだ。
学校が終わったあと、青いバックを背負って塾に通う子ならなおさらだろう。
バカバカしくなって、親に良心的登校拒否を宣言する子供が8割くらい存在してもいいはずである。
しかし私が見た子供たちは実におとなしかった。席を立つ子、大声でおしゃべりする子はいない。
日本の学校制度は軍隊をモデルにして作られたが、授業で得られるものはまさにディシプリンしかない。
ひょっとしたら、子供たちは規律を身体に叩き込んでいることを自覚しているのかもしれない。学校のデタラメさもググれば分かる。
さて、どうしたものか。
私学? 同じでしょ。
木村くんのお母さんは25歳なんだって、なんて話を聞いて、自分のお母さんが40代だなんて言えなかった
小学校高学年になって、中学生になって、高校生になって、そんなくだらないことに劣等感なんて覚えなくなったけど、少しだけ気にしていた
でも、小学校、中学校の友達よりも、高校の友達のご両親は、年を取っている人が多かった
それに気づいたときは、私のお父さんお母さんはとくべつ年を取っているわけじゃないんだ!と思ったけど、そうじゃなかったみたい
木村くんを始めとして、ご両親が若いと、子どもはちゃらんぽらんになる傾向があった
というか、ご両親がちゃらんぽらんだから、子どももちゃらんぽらんになったんだと思う
そういえば木村くんのお母さんは授業参観にヘソ出しルックで来ていた
ああ
もう遅いし寝よう
明日書き直そう
私立の中高一貫校に通っていた人が恵まれていたと思う理由は授業のレベルの高さにある。
私は公立の中学に通っていたのだが、父は有名私立中学に通っていたらしい。その父が授業参観に来て、授業のレベルの低さに驚いたそうだ。公立の中学にはいろんな子がいるから、平均が低くなりガチであることは言うまでもないだろう。私自身、中学時代はよく授業中に居眠りをしていた。授業を真面目に受ける必要はないと思ったからだ。授業中は無為に過ごし、自分で教科書を読んで勉強していた。
私立中学の授業を受けたことはないが、勉強してはいった頭のいい子が授業についていくのに苦労しているという話は聞く。本人からしたら、勉強を頑張っているわけだから、勉強の成果は自分の努力の成果だと思うのは自然だ。でも、その環境は「東大とかに入るための勉強をする」という観点からすれば、恵まれているものなのだ。そこは自覚して欲しい。そして、その私立の授業料を払えないという家庭があるということも知っておいて欲しい。おそらく、私立中学の中にいれば、より恵まれた環境で勉強している人がいるから自分がどの程度恵まれているかはわかりにくいのだろう。
この文章はあくまで、大学入試に関することだけで、人生の諸々に関しては、また別の話があるが、余白が足りないので割愛させてもらいます。
まず子供アニメの主要顧客は子供な。親じゃなくて。それが大前提。
「両親がいない」って、昼間いないだけだろ。朝のドタバタとか、週末をどう過ごすかとか、少ない時間でいかに家族の絆を保つかが、共働き家庭のキモ。
そもそも小学生の子供って親より友達の方が興味あるもんだろ。なのに友達との時間が学校(と学童)に限定されてしまうのは大きなマイナス。
親が参観に来るかどうかが重要な年齢の子だったら仕事の都合なんてよく分からんだろ。もっと大きい子ならどーでもいいだろ。
現代は核家族が圧倒的に多いので、サザエやちびまる子のようなノスタルジーを売りにした昭和アニメならともかく現代舞台ならじじばば同居は「不自然」。
つーか増田は全体的に「共働き家庭を対象としたアニメを作れ!」と主張してるっぽいけど、
ただでさえ少子化なのにその中でも更に少数派を対象にしたアニメなんて商業的に作れるわけないだろ。
そもそも共働き家庭ったって大抵は子供が学校行ってる間だけのパートだからな。放課後も子供預けたり家に放置で夜までがっつりってのは少ないからな。
・たしかにヒロシが働いている描写はないが、家事をシェアする描写もない気がする。あと、母は結婚前は看護師だったけど結婚(女は結婚したら仕事を辞めて主婦になる、という価値観)の設定だったと記憶するが。
両親ともに働いている家庭が一般的ではないという思いが作者にあったのでは? と言えなくもない。
「忙しい親が有給とって授業参観これるかこれないか」とかは片親の話でたくさんあるだろ。
共働き設定は父・母・子供が別々の場所にいるからストーリーにしづらい。
二人・二ヶ所と三人・三ヶ所の差は大きい。
・「萌えアニメ」なんて一般的な家族アニメじゃないだろ。お前がいうように「邪魔」だからいないことにしている、なんて、そもそも家族なんざ描く気がないってことだ。
・「両親がいない」って、昼間いないだけだろ。朝のドタバタとか、週末をどう過ごすかとか、少ない時間でいかに家族の絆を保つかが、共働き家庭のキモ。忙しい親が有給とって授業参観これるかこれないかとか、そういう葛藤は十分アニメになるだろうに。
・「じじばばばっかり出てくるのは不自然」って、実際がそうなのであれば、それこそが「自然」なのであって、それを「不自然」と決めつけるのは、お前の偏見。クレヨンしんちゃんでは、みさえが家計に困っている描写があったと記憶するが、今どき、家計に困っているのにパートにも出ようとしないのは、そっちのほうがよっぽど「不自然」。
・『「実は親が共働きで放置子状態で寂しがってる」というむしろ共働き親が怒りそうな描写されてたけど、あんな描写でいいなら他アニメでもそのうち出て来るんでない?』って、だからそれだよ。そんな描写しかできないだろうと考えてるのが、偏見。
・たしかにヒロシが働いている描写はないが、家事をシェアする描写もない気がする。あと、母は結婚前は看護師だったけど結婚してやめた(女は結婚したら仕事を辞めて主婦になる、という価値観)って設定だったと記憶するが。
・わざわざ作者が意図して八百屋の設定を削除し、自営業の描写もしない以上、わざわざ「「夫婦両方(八百屋として)働いているけど描写されてない」とか勝手に脳内補完するのは、むしろ作者にとって迷惑では? 両親ともに働いている家庭が一般的ではないという思いが作者にあったのでは? と言えなくもない。
もっといろんな艦これを経験したほうがゲームにとってプラスじゃないのか、と
そう、アニメの一話を見て思いました。
端的に言えば満足できない、この先満足するのは難しいかと思ったのです。
とはいっても、アニメスタッフが手を抜いているとか、まじめに作ってないんじゃないかと
非難したいわけではありません。
私が艦これアニメ1話を見た時の印象は、下記のようなものでした。
@ham1975: 艦これアニメ、めんどくさい顧客相手に慎重に書かれたパワーポイントのプレゼンのようだった
https://twitter.com/ham1975/status/552972215201718273
ただその頑張りの方向が『最大多数の最小不幸』を目指している感じであり、
かつそれが視聴者にも伝わるがために、「あ、うんまあ悪くなかった……んじゃないかな」
と褒めることもできないが文句を言うには忍びなく、
結局出た出ないを話題にする授業参観アニメになっちゃったのかなあと思います。
まあ、5W1Hすら設定しないというのはどうかと思うんですが、いろいろあったんでしょうね。
What(何を) 敵の深海棲艦を(ただし何者かよく解らない)
ノベライズやTRPGでは、艦娘が人ベースなのか転生なのか、どちらかに決めた上でやっていますが
コミカライズだとボカしているものもあり、誤魔化せる表現が可能なら曖昧にしていくという指針でもあるのかもしれません。
ただ、ぼかさずに済むHow、戦闘手段もアニメに落とし込めていないのは大変気にかかります。
水上スキーはまだしも、あのサイズあの形態で戦うのであれば、艦の戦闘に準拠する必然性はありません。
だからこそ、水雷戦隊クロニクルの天龍は剣を振るいヲ級はその頭部で噛み千切ろうとし、side金剛の金剛は敵戦艦を投げ飛ばすという表現になったのでしょう。
言ってしまえば、魚雷の有効性だって人型であることと相反しちゃうんですよねえ。
巷でどうこう言われてる弓の話も、どちらかというとなんで矢が艦載機になるのか、
弓の鍛錬をする意味がどの辺にあるのかをアニメ世界の中できちんと説明できるか、理由づけられるか、の方が大事だと思うんですけどね。
現状初見さんが素朴な疑問を抱きそうな点はいくつかあるんですが、その殆どがゲームユーザーも慣れただけで説明できないわけで、
アニメでその辺の説明がされることを期待していた向きもあるんですが、こうも「そういうものだから」で流していくのをみると、
むしろ「設定に触る部分は説明しない(できない)」という意思表示にも思えます。
説明しないことによるメリット、というよりすることによるデメリット、というものに心当たりがなわけではありませんが
そこまで厳しく語ることを制限されていると、何のためにアニメを作ってるのかよくわかりませんし、
配慮もうれしいのですが、まず面白くするために考えて、そのあとで可能限り配慮を尽していく形であればなあ、と
ところで、本当に巷でいわれてるんですかね弓の話。
指摘された! 弓道やってるやつはめんどくさい! と範囲を限定しない中傷はざらなんですが、肝心の指摘はあまり見ません。
おそらく今回の発端はこのツイート
https://twitter.com/shockn55/status/553844214698504192
の画像だと思うんですが、わざわざ掲示板あたりで使われていた画像を引っ張り出してきて、
面倒な人たちに目をつけられたと主張、拡散されていくのを見ると「面倒ってなんだろう」と考えてします。
しかも、(別の方ではありますが)「キービジュアルに対する指摘を受けて直しても(註:但し指摘を受け入れてたという根拠はない)、結局突っ込まれる。テロリストに譲歩しちゃダメってことだ」
という主旨の呟きも目に入ってしまい、比叡カレー吹いてしまいました。テロリストってお前。
と思ったら、2か月前の時点ですでにテロリストに準えるコメントがあるまとめブログ記事があり、
http://kantama.net/archives/16344385.html#comment
指摘が入ると「仏の提督さんでもキレました」と闘争に入るスタイルの確立、
および艦これへの言論によるテロに対する、高い意識の存在が伺えます。
また、件の記事自体が今日を予期した念入りなシャドーボクシングであり、
どちら側が原因かはさっぱりわかりませんが、元々開戦の機運が高まっていたのだなあと感じ取れます。どちらが原因かはさっぱりわかりませんが。
長くなりましたが、あくまでアニメに対する懸念は一話時点での懸念であり、今後の十一話で払拭してくれることを期待していますし、
不惑に至って尚、新しいことであるシナリオライディングや作詞に手を出す挑戦心を忘れない、
長いです。そして大部分が「自分語り」です。そんなの読みたくないよ、と言う人はブラウザのバックボタンを押してください。
で、なぜ自分語りをするのかというと、結論部分の教育に関わる人たちや、子供の「親」となっている人、もしくはこれから「親」になる人たちに伝えたい事につなげる為なので、時間がない人はその部分だけ読んでもらっても構いません。
それでは、物好きな人はどうぞ……
20代も後半になってくると、「結婚しないの?」とよく聞かれるようになった。「相手がいない」、「仕事が忙しくて相手を探す余裕がない」と言うと、たまに「いい人紹介しようか?」と言われることがある。
しかし、私にとって友人や知り合いや同僚から相手を紹介されるというのは、最も避けたい出会い方だ。「自分のようなつまらない人間を紹介することで、相手の評価を下げたくない」「紹介してもらったところで、うまくいくはずがない」と考えてしまう。
「自分には価値があり尊敬されるべき人間であると思える感情」のことを自尊感情と言うが、私はこの感情が非常に低く、一日一回は「死にたい」「この世から消えてなくなりたい」と考えている(これでも回数は減った方。昔は一日十回は死にたいと思っていた)し、友人と遊んだり飲んだりしていても「自分なんかのために時間を使ってもらって申し訳ない」と考えてしまう。自分と実際にあったことがある人の中には「自分の話ばっかりするから、自尊感情高いんじゃないの?」と言う人もいるかもしれないが、それも自尊感情の低さの裏返しだと思う。自尊感情が無いからこそ、他人から褒められたり、認められることを期待して自分の話を頻繁にしてしまうのだろう。私が「知り合いからの異性の紹介」を避けているのも、この自尊感情の低さからきているのだろう。
それでは何故私の自尊感情は低くなってしまったのか。色々な原因が考えられるが、一番大きいのは、私が「普通の人が出来ることを、出来なかったから」だと思う。
まず、私は小学生時代、「普通の子供と同じように授業を受けることが出来なかった」。静かに、教室の椅子に座って授業を受けることができない。授業中に教室を抜け出し、先生を慌てさせる。教室にいても、授業い集中できず、本を読んだり他の子供にちょっかいを出す。
そんな子供だったせいか、小学生の一時期、いじめられていた。いじめは「異質な存在」が標的にされやすいことから考えると、自分がいじめの対象になったのも自然なことで、意味もなく殴られたり、筆箱を窓から投げ捨てられたりしていた。そこまで酷いいじめではなかったので、不登校になるほどではなかったが、自分は人と交流することに臆病になってしまっていた。
未だによく覚えているのが、隣に住む一学年下の友人の家のチャイムを押すのに一時間以上ためらった挙句、押せずに自分の家に帰ってしまったこと。小学生の時点で、私は友人の家に遊びに行っても、「そろそろ帰らないと鬱陶しいと思われるのでは」と考えてしまう、人間関係を形成することに臆病な人間となっていた。
小学生低学年の時のこの問題行動は、ADHD(注意欠陥・多動性障害)によるものであり、診断後、月に数回、大学の研究室に通うことになった。そこに行くと宝探しゲームやパズルなどをさせてもらえるので、私は「遊びに連れて行ってもらっている」という感覚だったのだが、今では「あれは行動療法の一環だったのだ」と理解できる。
大学での療法の結果、私のADHDの症状は目立たなくなっていったが、中学校入学後、私に新たな「普通の人が出来るのに、自分には出来ないこと」が出来てしまった。
それは、「普通の人と同じように起きていること」。
授業参観、テスト、学校行事、時と場合を選ばず、どんな時でも居眠りをしてしまう。その眠気は尋常ではなく、拳で太腿を殴りつけても、ペンで血が滲むほど掌を突き刺しても、消えることは無く、結局は寝てしまう。なんとか地元の公立高校には入れたものの、いくつかの授業にはついていくことが難しくなってしまった。そして三年生の時は難関大学を目指していたのにも関わらず、文系の一番下のクラスへ。一部の教科の成績と授業態度(よく居眠りをする)を考えれば当然のことではあったが、授業のレベルが大学受験レベルではなかったのは困りものだった。居眠りをしているのに教師のところに「わからないところを教えてください」と行くことなんて出来ないし、独学もなかなか難しい。そんな時に自分を救ってくれたのが予備校の配信授業。自分が通っていた塾では予備校が衛星配信する授業をビデオに録画したもので受講することができた。ビデオなら途中で居眠りをしてしまっても居眠りをする前の段階まで巻き戻せばいい。そうして90分の講義を毎回120分以上かけて受講し、なんとか受験に対応できる学力をつけていった。
結果として、第一志望の大学に合格することはできなかったものの、国立大学に進学することが出来た。自分の居眠りは怠けからきていると思っていたので、大学に入れば、環境が変われば少しは改善するとおもっていた。……だが、そんなことはなかった。
自分が受けたいと思い、はりきって教室の一番前の席に座った講義で寝てしまった時の絶望感。サークルのミーティングで居眠りをしてしまった自分への冷たい視線を感じた時のこの世から消えてしまいたい気持ち。大学に入れば何かが変わると期待していただけに絶望感は大きかった。ずたずたになっていく自尊心。
自尊感情が低い故に人間関係を構築するのに臆病なのは相変わらずで、自分から食事や飲みに誘うことなど殆ど出来ず、昼食も一人で食べてばかり。
大学院に進学してからも居眠りは止まらず、二年次に受けた公務員試験も当然のことながら不合格に。修士課程だったので二年で修了できたのだが、自分では働きながら試験の勉強はできない、とわかっていたので、親に頼み込んで一年間留年することにしてもらった。
留年時は相も変わらず寝てはおきてを繰り返しての勉強生活。一日十時間勉強しても、実質的に集中して勉強できているのは六~七時間なのだから効率は非常に悪かった。
二回目の受験でなんとか公務員試験に合格し、就職。このときはまだ自分の居眠りは自分の怠けからきていると思っていたため、さすがに就職すれば意識が変わって居眠りも無くなるだろうと思っていた。しかし就職してからも止まらない居眠り。会議で、行事で、起きていようとしても寝てしまう。当然のことながら、同じ居眠りでも学生と勤め人ではその捉えられ方は大きく異なる。面と向かって厳しく注意されることも増えたし、必要以上の会話をしてくれない同僚も増えていった。完全に自信を無くし、せっかく合格できたのに、退職しないといけないかな、と思い詰めていた時に、上司が睡眠障害外来の受診を勧めてくれた。
休みを取って「睡眠ポリグラフ検査」というものを受けた。体中に脳波、体の動き、血中酸素濃度、呼吸などを計測するセンサーを付け、一晩眠り、起床後は二時間ごとに横になって検査を行った。
検査の結果、入眠直後にレム睡眠期があること(普通の人は入眠直後はノンレム睡眠らしい)、前日に十分睡眠をとっていたのも関わらず、横になると数分で入眠してしまうこと、夢見や脳波などから、「ナルコレプシー」と診断された。ナルコレプシーとは非常に強い眠気の発作を起こす脳疾患(睡眠障害)の一つで、私の居眠り癖は自分の怠けからではなく、睡眠障害からきていたものだったのだ。
睡眠障害というと、「眠れない」障害ばかりが注目されがちだが、実際には「眠りすぎてしまう」「眠気が強すぎる」睡眠障害というのも数多くあるらしい。しかし、後者はあまり知られていない為、私のようにそれに気づかずに、発症後も長く苦しむ人が多いそうだ。
根本的な治療法はないが、薬物により日中の眠気が抑えられるということで、「モディオダール」という薬を処方された。早速薬を飲んでみると、劇的に症状は改善された。仕事の効率も良くなり、「普通の人はこんなに起きていられるのか」と驚いたと同時に本当に悔しくなった。もう少し早くこの障害のことがわかっていれば、これまで人間関係や学業でここまで苦しむことは無かったのに、と。
私はこのように二つの他人から理解されにくい障害をかかえて生きてきたのだが、それによる自尊感情の低さは、原因が分かった今もなかなか解消できそうにない。三つ子の魂百までではないが、一度形成された人間性というのは、なかなか変わらないものなのだ。
自分の体験を通して、教育に関わる人たちや、子供の「親」となっている人、もしくはこれから「親」になる人たちに伝えたいことは、「自分の教え子や子供に、何か気になるところがあったら、ためらわずに専門機関で検査を受けさせてほしい」、そして「もし自分の教え子や子供が何らかの障害をかかえていたら、その子に合った教育、療法を受けさせてほしい」ということだ。
自分の教え子や子供がそんな障害を抱えているとは思いたくない気持ちはよくわかる。しかし、障害を持つ子は検査を受けて診断を貰えなければ、自分にあった治療や教育を受けることもできずに成長することになってしまう。
さらに、「普通の人が出来るのに、自分には出来ないこと」があるということは、自尊心を大きく傷つけてしまう。自分がそうであったように。
一般の人が想像する以上に、発達障害や、睡眠障害を抱えている人間は多い。「他人事」だと思わずに、教育に関わる人たちや、「親」、これから「親」になる人たちには、発達障害や睡眠障害について学んでほしい。
昨日、やっとうちの小4と小2の夏休みの宿題が終わった。親泣かせといわれる、読書感想文と自由研究もばっちり終わった。今年も自分と旦那のこれらに対する熱の入れようは半端じゃない。
・作者、課題図書の選者の意図、テーマを読み取り(親:子=99:1)、
・一度物語を分解し(100:0)、
・それに対して自分の心情を描画させ(50:50)、
・作文にまとめる(50:50)、
自由研究も、
・テーマ決め(親:子=50:50)、
・観察結果(50:50)、
・考察(70:30)、
・まとめ・感想(30:70)、
のような割合で親が関与している。なおかつ自由研究の大テーマは兄弟ともに毎年同じにして、前年度までの研究に対しての積上げ研究にしているので年を追うごとに深みのある内容になり、こちらも毎年何かの賞に入れている。
こんなに親が係われば、賞に入るのなんか当たり前だろうと思うかもしれないが、実際、市区町村を勝ち抜き、県レベルの賞に入ってくるのは、小学生とはいえかなり高度なものが多く、自分で発想~アウトプットまで親の関与なしにそのレベルまで仕上げられる子供はほとんどいないだろう。
うちの子たちも含め、かれらはそこそこの教育レベルの家庭にあり、考える力(=生きる力)を身に着けて社会に出ていくことは予想できる。なぜなら自分たちの親がそうだったからだ。教育に関心のある親の元で育ち、夏休みの宿題は嫌々ではあるが、親によってきちっとした仕上がった作品を夏休み明けに持っていくと、先生やクラス中から羨望の眼差しでみられ(その後の授業参観の時には、県へ出品しているため自分の作品だけ展示されないという小さい問題はあったが)、大きな自信につながったことも言うまでもない。現在社会工学系の研究を仕事にしているダンナについては、(我々凡人は)研究は自分一人だけでやるものではないという持論があるらしく、卒論~博士論文、現在に至るまで指導者や同級生、同僚からのアドバイスを、仲間と一緒に確認してまとめただけだ、といっている。
ところで、子供の宿題を親がやるのはおかしいという意見がある。「自分の事は自分でさせる」「親の勉強してどうするんだ」「子供のためにならない」等々。主義として本気でそう思って、そういう方針で子育てしている人はそれでいいと思う。けど、忙しくてできない、という理由で子供に目をかける暇がないという人は、夏休みのうち、週末ぐらいは子供の宿題を手伝ってあげれば、勉強の方法に触れることによって、新しい発見があるかもしれないし、高クオリティーの提出物は、子どもの自信につながると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20130619155006
子育て論よりも気になったのは、18年前の主夫って立場に偏見の目はなかったのかってことだ。
今でこそ主夫も家庭の在り方の一つとして認められつつあるけど、それでも結構奇異の目で見られるなんて話はある。
ましてや今より多様性を認められなかった18年前は、もっと偏見の目があったのではないかと。
近所でヒソヒソされるのは無視できても、学校の教師が偏見丸出しだったりするのもよくある話。母性信仰っていうの?
授業参観とかPTA活動とか面談とか、小学校に上がると親の出番が増えるしその辺どうだったか知りたい。
そもそも、小学校以降のことがまったく書かれてないんだよな。
長く離れて暮らしている弟から、「自分は注意欠陥障害で、薬を処方してもらうことになった」という電話がありまして。
兄の自分としては、はあ、でもお前俺よりはずいぶん落ち着きがある子だったよと言いたかった。
授業参観の日に頭を振ったり椅子をガッタンガッタンと揺らしたり、立ち上がったり、授業時間のほとんどの間そんなことをしていた自分をみて、母はえらく恥ずかしかったそうだ。
話を聞いてない疑惑は担任が変わるたびに持ち上がったが、成績自体は悪くなく、聞けばちゃんと答えるので、そのたびに疑惑は晴れていた。
今でも数年に一度は財布をなくすし、ヘルメットを被り忘れてバイクに跨るし、ケータイ電話を圧力鍋にかけてしまったことがある。
弟はどちらかといえば、一点に集中して他が見えないようなところがあった。
いまでも左右を確認せずに道に飛び出そうとする。
その手の病気というのは健常と異常の差は明確じゃなくて、治療の開始は日常に支障が出るかどうかというラインで決まるだろうから、薬を飲むことに関しては口はだすまい。
俺はいままでなんとかなってきたし、これまでも、これからも、ペーパーテストと、技能で居場所を勝ち取っていけばいい。
それはいいんだけどね、
「これは遺伝的な問題だから、一生子供は作らない。兄ちゃんもそうしたほうがいい」
というような旨のことを言われたのです。
俺は、自分自身が発達障害だとか精神病だとかは思っていないが、「子供は作らないほうがいい」ということは薄々感じていた。
なんとなく、なにか欠けてるような気がするのだ。
配慮や空気を読むということが。
相手がどうしたら気持ちいい気分になれるか、全員の幸福量を底上げするにはどうしたらよいか、そんなことを考えてばかりだが、嫌われてばかりだし、嫌われていたことを何年も後に第三者から聞かされるくらいに、表情が読めない。
まだ結婚もしていないし、年齢=彼女いない歴だから悩む以前の問題だ。(弟にはちゃんと恋人がいるし、今の彼女が初めてはない)
とにかく、弟が自分と同じ事を考えていたということにびっくりした。
なんか、何だろ、この気持ち悪さ。
例えばヤフーのトップに出てるビデオカメラの動画広告。こども撮り三原則ー! とかやってるやつ。
なんか小学校低学年くらいの女の子がクラスのみんなの前に立ってビデオのいいとこアピールしてる的な。
あれきっとシチュは授業参観に学級討論ぶつけた感じで「わが子らの! ちょっといいとこ見てみたい!」な親の欲望を「見るだけじゃなくて撮っときたい」っていう風に持ってくつもりなんだろうけどでもなんだろうなんなのこのもやもやする感じ。
あれターゲット間違えてね?
あるいはモノを間違えてる。
あの広告って子ども宛だよね、本来。「子どもでも撮れる! ビデオカメラ」みたいな。
いやその路線でビデオカメラが子どもの興味を引くかは別として、そういう文脈じゃね?
作った側が想定する主な商品使用者層(=購買対象層)と同じ属性のキャラクタを使ってアピールする手法でしょ。
何でそこで背後に親置いちゃったの? っていう的外れ感がすごい。不快。
「わが子の活躍をキレイに!撮りたい」という親の欲望はある程度共通だろうけど、じゃあそいつがそのままひっくり返って子どもから発される声であるかってそんなわけないやん……っていうのがすがすがしくも無視られてる感じが不快。
あとヤフーの広告と言えば新築マンションの動画広告もキモイです。「結婚!」「子どもが生まれる!」「頭金が貯まった!」「もういいトシ!」みたいなやつ。