はてなキーワード: 小説家とは
人気のある映画でありながら、同時に「見たけどよく分からなかった」という感想が多い。
ホッテントリにもなった岡田斗司夫の解説(http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html)を私なりに要約(ややネタバレあり)するなら、
その内容は「戦争をはじめとした外界の醜い現実には興味を持たず、飛行機のような美しい世界を追い求めた人の物語」、
という事になるのだろうけど、そこまで読み取れずに「よく分からなかった」となってしまう。
(敬称略。私自身も説明されて、はじめて「ああ、確かにそういう話だ」と思った。)
こんな感じで視聴者にあまり理解されない作品になってしまった理由について、自分なりに考えてみた。
それを説明する為に、まず、私がこの映画を見たときに思った不満について述べる。
(後述するように、実はこの不満が、映画が理解されない理由と直結する。)
その不満とは、技術系の研究者の映画であるにもかかわらず、研究者がうまく描けていない事だ。
私は技術系の研究職を生業としているのだが、そんな職業であるためか、この映画を見て、
いかにも技術に詳しくない素人が想像したリアリティの無い研究者像が描かれていると
思ってしまったのだ。
そう思ったシーンはいくつもあるのだが、特に気になったのが、サバの骨から飛行機に関するアイデアを思いつくシーンだ。
このシーンで気になった点はいくつかあった。
例えばサバの骨の曲線がどんな数式で表されるのか分からなけりゃ飛行機の設計に生かせるはずないんじゃないかとか、
飛行機に関して膨大な知識と経験を持つはずの主人公がいまさらサバの骨くらいで何かを思いつくのは考えにくいとか。
(例えて言うなら、小学生のちょっとした一言で大学受験の数学の難問が解けてしまったような荒唐無稽さを感じたのだ。
ちなみにニュートンのリンゴも事実かどうかかなり微妙らしい。)
しかしこのシーンでもっとも気になったのは、(技術系)研究者が描けていない事だ。
研究者が本当になにか重要な事を思いついたのなら、突然場の雰囲気や目つきがガラリと変わるだろう。
さすがにその場で研究のためにサバの骨をいじくり倒したりはしないかもしれないが、
少なくとも心の中ではそうしたいと思っている事を隠しきれないはずだ。
だって思いついたばかりの感覚的なアイデアをその場で言語化できるかたちに落とし込まなければ、
あとで考え直したときに感覚が失われてアイデアが何だったか分からなくなってしまう危険があるから。
だから本音を言うと、私はこのシーンを見て、本当に飛行機を作りたいと思ってるのか?と感じてしまった。
さて、本論に入ろう。なぜ「風立ちぬ」はあまり理解されなかったのか。
岡田斗司夫の解説が正しいとすれば、この映画は芥川龍之介の「地獄変」や映画「アマデウス」の宮崎駿版だという事になる。
しかし「地獄変」や「アマデウス」に対しては「分からない」という声はあまり聞かれないのに、
なぜか。それは前述の研究者が描けていない事と関係しているのだと思うのだ。
「地獄変」や「アマデウス」は、小説家や映画監督という「芸術家」が「芸術家」を描いたものだ。
だから鬼気迫るシーンや天才故の生き辛さが印象的な形で活写される。
しかし宮崎駿は軍用機を見る方のマニアではあっても軍用機を作る研究者ではない。
もちろん、ただ技術系研究者を活写すればよいだけなら、簡単にできる。
例えば先ほどのサバのシーンで、周囲に目もくれずサバの骨をいじりつづけ、「おいおい君大丈夫か?」と
周囲に言われてしまう、なんてのを付け加えればいい。
しかしそれをやってしまうと、ほとんどギャグになってしまい、作品の雰囲気をぶち壊してしまう。
つまり、宮崎駿は作品の雰囲気と研究者を活写する事を両立できなかったのではないか?
岡田斗司夫によれば本作の主人公=宮崎駿であるが、なら素直に芸術家を主人公にすれば良かったのに、(軍用機を描きたいから)そうしなかった。
結果として研究者でない宮崎駿が雰囲気を壊さずに研究者を描くという相当困難な作業が必要になった。
だから本作の主題であるはずの「周囲を無視して飛行機を追い求める」という部分が説得力をもって描けず、
結果として「分からない」という感想のでる物語になってしまったのではないかと思うのだ。
追記:
「風立ちぬ」が理解されないのは「物語」がないからじゃないかという、とても的確なトラバがついた。
人をdisる前に自分の書いたこととその前の増田の事をちゃんと見なおそうよ?
といって、あなたは
と言ってるよね?で、自分が
と言ってるんだが?あんたはそんな専門学校なんて無い、情報工学科しか無い、と間違った事を言ってるが、それは認めてくれませんか?
これもおかしいよね?専門学校だったら学べるってのはあなたも認めたよね?
これもおかしいよね?そもそも情報工学科で学ぶのはプログラミングに関して、ではないので、そこを繋げる事自体がおかしいと。その前の増田は別にそこを繋げてるわけではないですし。
一方、あなたは、他の文学部の人が小説を書くための基礎を学んでる、と同様のことを、プログラマーが情報工学科で学んでる、と言うような論調ですが、これは根本的におかしい、というのはいいですよね?
さらに言えば、あなたは、物理や数学は大学で学んだら基礎体力で勝てるが、小説家やプログラマーは勝てない、と言っているが、
物理や数学もそこで学んだ事を元に自分で新たなことを生み出して行かない限り生き残っていけませんよ、その世界で。
つまり、余りに多くのことが矛盾し、おかしなことを言っているので、あなたが何をどう理解してるのかすら不明で、間違いだらけだったので、
1つ1つあなたの間違っている可能性を考えて先の様に書いたのですがね?
> 専門教育を受けた人間と、タダで手に入る情報だけで経験を身につけた人間では、基礎体力で前者が勝つのではないだろうか。
この発想は多くの分野では正しいが、プログラミングに関しては当てはまらない。
でもプログラミングは違う。
この人が想像しているプログラミングの「専門教育」とは、おそらく大学の情報工学科のことだろう。
でも情報工学科の授業を受けたからといってプログラミングができるようにはならないし、
情報工学科の研究室で研究したからといってプログラミングができるようになるわけではない。
情報工学科は、プログラミングを学ぶ人にとって、恵まれた環境だと思う。
情報工学科に入ったことが、自身のプログラミング・スキルを向上させるのに有益だった人は数多くいるだろう。
でもそれは、専門教育を受けたからコードが書けるようになったという話では全くない。
良いプログラムを書く能力というとは、例えば、良い小説を書く能力に近い。
芥川賞作家を多数輩出した小説の専門教育機関なんてものは存在しない。
強いて言うなら有名大学の文学部だが、大学の文学部が(教えて|研究して)いるのは、
http://anond.hatelabo.jp/20130812003347
どれくらい一般的かは知らんが、
「八百屋に林檎が売ってありました。その林檎は普段は300円なのですが、隣にあるみかんとセットで売ることになり」
で映像をぽんと思い浮かべる人は多くはないにせよ少なくはないんじゃないか、と思う。つうか俺もだ。
「そうですね、その八百屋は細い路地にあってちょうどサザエさんのに出てくるような八百屋で奥さんと旦那さんと二人で経営してると思います、一人娘もいてたまに手伝っています。多分八百屋で林檎が売ってあるは娘さんの影響かもしれません、娘さんが果物も取り扱ったら?とかアドバイスしたとか。林檎は三個セットで何かのザルに入っているのではないでしょうか?一つは青いかもしれません。」
俺もどこの八百屋でどんな人が売っててってことは想像するけど、イメージの中で自分が買い物してる想像をしながらきくだけで、細かいところは見えるけど言語化はしない。理解力は早いほうだと思う。結構抽象概念でも基本的には抽象的な絵で理解するし、単なる文字よりそっちのほうが情報量は多いので理解が早く進む場合もある(ただし最初に方向性を間違えると修正に少し時間がかかる)
あと理解が基本的に図なので、説明は全部図。パワポづくりは得意な方。
単語を全部ちゃんと聞いているわけではなく雰囲気とかイメージから入るので、あんまよくわかんない外国語でもなんとなく理解できる(喋れないけど)みたいな特典はあるかな。
増田は単純に物事を頭のなかに入れることを覚えるより、気になった瑣末なことを追っかけ過ぎるのをやめれば良いと思うよ。普段の生活だって見えてるもの全部に目を凝らしたりしないでしょ。
なお小説家になれるとかあおってる人々がいるが、小説家になるなら、相手に見せるべき景色をポイント絞って説明しないといかんので、増田のようにマイルールでひっかかったところだけ説明するようだとたぶんぐだぐだ長い上によくわからんものになると思う。いや、娘が伏線とかならいいんだけどさ。青いリンゴが伏線とか。
はてなってワタミ以上に嫌われていると思うけど、なぜここまで嫌われるのか考えてみると、大まかに3つあることが分かった。
1. 社長が権欲・金に汚い
ご存じの通り株式会社はてなはネットでの抜群の知名度に関わらず2012年まで上場の意図すら見せていなかった。
これはひとえに社長である近藤淳也が株を自分の株を持ち影響力を保ちたいという守銭奴ならぬ守株奴的精神を持っていたからであろう。
一転して2012年には上場を狙っていることを発表したけど、おりしも現在はプチバブル期。ドリコムの内藤裕紀社長を超える20億以上の売り抜けを狙う様も見ていて痛々しい。
ま、それも近藤の趣味が自転車ってところで全て集約されていると思う。自転車と言えば、ランス・アームストロング。アームストロングと言えば…。もうね。
ただ、両社ともアメリカ人はだましきれないようであり、サンフランシスコでベンチャーキャピタルから金もらって豪遊プランは阻止されました。
2. 技術力・独創性が皆無
最近目を引いた新サービスがはてなブログの開設だったってところでお察し。ブログって笑。10年くらい遅れているんじゃないだろうかこの会社。
この十年で世間は、ブログに飽きて、mixiに飽きて、twitter、facebookに飽きかけているんですが、何を以てブログをし始めたのか謎にもほどが。
しかし、この企業、はてなブックマークを生み出したってことで技術力があると勘違いされている。残念、それ、deliciousのパクリですから(古い)。
ま、そこは割り引いたとしても、その技術は今は会社を去った元CTO・伊藤直也のおかげでしかないんだよね。
唯一独創的であったぽい人力検索事業はもはやそんなサービスあったことを思い出せる人すら少ないんじゃないかレベルであり、この会社、正直何もありません。
人気芸能人も使うアメブロとかと違って、はてなダイアリー・はてなブログの利用層で有名人なんかほぼ皆無。
ま、そこらへんでやばさがにじみ出てるんだけど、その皆無じゃない少数の有名人ってんのが小説家とかだから性質が悪いんだよね。
小説家っていえば、昔は太宰治(ヒロポン中毒者かつマルキスト)、今は村上春樹(ランナーズハイかつ金持ちなんて・みんな・糞くらえさでおなじみ)と
反社会的でサヨクと相場が決まっている。こうした少数の著名人に代表される属性は、はてなユーザー層に共通しているものと思われ、はてサなんて呼ばれてたりする。
ってことで、技術力がなく社長が権力・金に汚くて信者が臭そうとかそりゃ嫌われるのも納得ですね。
システム障害があまり起こらないのもワタミもびっくりなブラックさに支えられているのかもしれません。
「京都と東京それぞれのオフィスにあるTVの上に設置されているカメラが、365日24時間社内をモニタリングしています」とは、はてな公式HPにある語句。怖すぎます。
490 名前:メロン名無しさん[sage] 投稿日:2013/07/25(木) 17:23:58.24 ID:???0
http://b.hatena.ne.jp/TakahashiMasaki/
TakahashiMasaki (わしの アニメ監督=kz説(偏見)がまた強化された 2013/07/24 Twitterでのツイートを閲覧10 clicks Add Star
"小説家ってアレな人率高いよね"(あ,なるほど(わしの中の「クリエータ連中はkz」という偏見が強化された
TakahashiMasaki 4 hours ago 2
――
@TakahashiMasaki さんは先のPC遠隔操作事件で誤認逮捕されたアニメ演出家北村真咲さんをはてブで誹謗するような事を書いて、
(http://b.hatena.ne.jp/entry/jin115.com/archives/51894073.html)誤認逮捕発覚してからはそのまま謝罪も訂正も無く今までスルーしてますよね。
Douron1211 3 hours ago 6
―――
【速報】 アニメ演出家・北村真咲さん(ガンダム00等)、大阪市のホームページに無差別殺人の犯行予告を書き込み逮捕! : オレ的ゲーム速報@刃
http://b.hatena.ne.jp/entry/jin115.com/archives/51894073.html
どこが小説家らしいんだよ。
誰が見ても途中からずっと逃げ腰&不機嫌なのに
揚げ足取りにすらなってない、相手の挙借に意味不明な言いがかりをつけて
お前の言う「小説家らしい幼さ」って具体的に何?
適当に言ってんじゃないなら具体的に言えるよね?
何がどう「相手を追い詰めて」て、何がどう「理屈バカ」なんだよあれが。
っつってるだけじゃん。
一応、ラノベの歴史に関わる事実について正否を争ってるんだから
「橋本先生の顔を立てて」「そういうことにしちゃおう」というような話題でもない。
むしろ何度逃げを打たれても威嚇されてもなあなあにせずにこの一つのことを聞き続けたのは偉い。
だいたいこんなの橋本が
「私の印象違いでした、ごめんちゃい」で終了じゃねーか。
なんでそんなことについて、
「事実と違うんじゃないですか?」と突っ込んだだけの奴が
追い詰めただの理屈バカだの言われなきゃならねーんだ。
この場合、追い詰めてねーし理屈なんかどこにも捏ねられてねーし。
はっきり言って悪い印象しか持ってなかったし、
ぶっちゃけバカだと思ってたし今もまだ思ってるけど、
あのやり取りでカイエン側に落ち度は一個もねーよ。
随分前の話だが、その界隈では著名という劇作家が某大学で公開講座みたいなのをやってた
テーマは、大衆も専門家も「ストーリー」との親和性の呪縛から逃れるのは難しい、というもので、古今東西いろんな物語が存在するが、人が好む王道パターンは大体決まっていて、それに合致するかどうかは政治の世界にも当てはまる、というもの
覚えてる範囲では、嫌われる政治家には大体の共通点とパターンがあり、大まかに分けて「ストーリーにおける悪役・悪玉的な個性の持ち主」か「キャラクター自体が破綻している人」のどちらかに分類されるそうな
典型例として前者は小沢一郎、後者は鳩山由紀夫(名前を出した時聴衆も「あーなるほど(笑)」とちょっと苦笑していた)
もっとも、どんなストーリーにも悪役に共感を覚えてる人はいるもので、そういう人達が小沢一郎を今も健気に支持し続けているが、存在自体がストーリーを破綻させるような個性の持ち主である鳩山由紀夫には、大衆は不快感しか覚えないんだとか
・主義主張が脈絡無くいきなり変わる(読み手が納得するようなエピソードや演出があるなら変わっても良いが)
・困難な状況に直面しても挫折も成長もしない(行動に対して結果を用意するというストーリー構成の原則を無視している)
・行為に対する相応のペナルティが発生しない(今も日本有数の大富豪)
この辺が駄目なんだそうな
後半は、映画監督や小説家、劇作家と護憲思想との親和性の高さに関する分析
まずは憲法改正に否定的な思想を持つ上記の職種の有名人を羅列していき(今をときめく某アニメ映画監督の名前もあった)、彼らには世界がどのように見えているのかを分析するというもの
これも大まかにしか覚えてないが、こんな感じらしい
・民族としての日本人、もしくは日本国を主人公と位置づけている
・主人公は弱いまま勝利しなければならない。強くなったら勝つのは当たり前なので駄目(反自衛隊的な思想との親和性)
・武力や暴力によって問題を解決するのは駄目。知恵や人徳といった非暴力的な要素で克服しなければならない(それが物語における作家の腕の見せ所なので)
・主人公は過去の過ちに悩み、けじめをつけなければならない。悩みもなく失敗もしていない主人公には魅力が無い(戦争責任や慰安婦問題との親和性)
他にも色々あったけど、こんな感じだった
で、彼らがアメリカの横暴には敏感で、中国・北朝鮮・韓国等の不条理に鈍感な理由としては、
・アメリカは最初から強者であり、また主人公を過去に打ちのめしている存在。これは物語においては主人公がいつか倒すべき敵であり、悪逆非道な存在でなければならない
・中国・北朝鮮・韓国はかつて日本が自らの過ちにより傷付けた相手であり、そういう相手と和解をしないまま主人公はストーリーを完結させることは出来ない(この劇作家も弟子がそういう粗筋を提出した際は必ず注意するという)
・そんな敵が主人公と手を組んでいる状況(日米同盟など)は、ストーリー的には「主人公を騙して利用しようとしている卑劣な敵」に合致するので、アメリカに批判的になりがち
・そして前項のように主人公は弱い(強大な力を持っていないという意味)ので、打ちのめされた相手はさらに弱くなければならない
・中国、北朝鮮、韓国が日本に敵対的なのは「ストーリー的には」「しっくりくる」ので、言動の理不尽さもあまり気にならない
・そんな「主人公より弱い被害者」が、主人公(日本)や敵(アメリカ)より強大で非道な存在であるのは「ストーリー的には」「しっくりこない」ので、無意識あるいは本能的に思考から排除してしまう傾向がある
というような話を、古典文学から最近の漫画、アニメを引き合いに出しつつ、約4時間かけてやっていたが、あっという間の時間だった
https://twitter.com/tm2501/status/333595265816739841
人の名前、本の名前を間違えるクセをマジでなんとかしたい。…republic、草壁と続いて、この人もやっちまったよ 「小説家志望者にありがちな失敗・挫折」 http://togetter.com/li/501635
まず書いた文章を推敲する癖をつければいいのにね。基本なのにね。
「誰だっけその人?」という人は批判されない。褒めても貰えないけど。
日本人で読書好きな人の多数は多分 新井輝 という小説家を批判しないだろうが、それはおそらく
「好きだから」とか「面白いと思うから」ではなく「誰その人?」だからだろう。
なので村上春樹のファンは心無い批判は「有名税」なんだと思って流すべし。
とりあえず『ノルウェイの森』には「何故日本の学生運動は同世代も含めた多くの人の賛同を得られず尻すぼみになってしまったのか」の
理由を知ることが出来たので名作だと思ってる。
でも、ノーベル文学賞がとれるような作品書いてる小説家だとは到底思えない。
村上春樹に思うことはそれだけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130428211703
村上春樹の作品が一般には受け入れられていないと言ってしまっているのは、どういうことなんだろう?
思うに、ちょうど自分にしか理解できない、こんなヘンテコリンな物語は自分にしか受け入れることができないんじゃないかな?と思わせるようなバランスが絶妙なのだろうと思う。
ゲームの謎解きで、この宝箱は俺にしか見つけられないのでは?と思っていても、8割くらいのひとは同じように思いながら見つけているというあのバランス。
それも彼の小説がある意味で、あくまでも個人の思索の幅を出ておらず(いわゆる私小説)、かつそれについて解説を加えるようなことをしないからなのでしょう。
この人「ファン」じゃないですよ。
大衆に見られる場に文章を置く場合は、もっと作品と向き合って下さい。
作家は命削って書いてるのです。それに対する答えを大衆に向かって発する場合、せめてももっと作家と作品に真摯に向き合うべきだと思います。
以下この方の意見に対する個人的な疑問と意見です。長文ですので気が向いたら読んでみて下さい。
村上春樹、段々、一般的な感覚の人々には理解されないようなことを延々と書いてる作家になってるよねーというのは、私も思うなあ。だから、まあ評価が低くなるのもわかるなー。
結構、「純粋」な方向に、ふってきちゃってるよね。そういう(純粋すぎる)のは、狂気というにはわかりにくいんだけど、なんかなあ、真実というところからはずれてきている気がする。うーん。難しいのだけど、一般にピュアであればあるほど、正常といえる水準を超えちゃう確率は高いから。うーん。多分、あまりにも、抽象的なものってちゃんとすればすごい威力あるけど、間違えちゃう可能性は高いよね、という例と似てると思う。
>文章を読んですぐに理解できるのが良作、分からないから駄作なのでしょうか?
しかも、小説ってもともと、正しさ(これも微妙な表現だが)がわかりにくいからさ。その上で、村上春樹は、小説の中でも、あえて正しいかどうか(さらに難しい)がよくわからない方向で、突き詰めようとしているんだと思う。そしてそれが、微妙に少しずつ、本当のところからずれてきてしまっている気がする。なんとなく。
>小説に正しさはあるのでしょうか。あるとしたら、作家が伝えたいことが読者に伝わっていることくらいではないでしょうか。
Aを書いたから正解、Bを書いたから間違い、という問題ではないと思います。
新作について触れると、このタイトル、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルを見た時、私は、これが、作者自身の慰めのために書かれたことがわかったよ。いや、だって、村上春樹、巡礼、絶対すきだもん。その他もろもろ、このタイトル、考えられないくらいわかりやすいよね。疲れた作者本人の心情と合致していそうだなという意味で。なんかびっくりしました。
曲のタイトルの一部としてですか?それとも純粋に単語としてですか?
でもさー。。。。こっからは、愚痴だけど。この人は、今まで、すっごい孤独なタイプの小説家にもかかわらず、いつも、大衆に向けて、つまりノーベル賞を狙って、書いてきた人なのにね。それで、うまく大衆受けするものがかけないなーってずっと悩んできた人(推定)なのにねえ。。。。
もう少し、わかりやすく説明するために、まず、村上春樹の小説家としての才能について書く。幸いなことに、小説を書くというのは、技能を向上させるための課題の発見が、その他の技能と比べても最も難しい技能だと思う。要するに、どうやって練習すれば、小説が上達するのかわからないという、あの課題ね。でも、実は、この人の才能の出発点はここにある。つまり、ある意味で、ものすごくわかりやすいところに、いつも課題があったこの人は、小説家としての技術を「磨く」才能には、ものすごく恵まれていたともいえるのだ。つまり、一般的にヒットしそうな小説が全く書けないという課題。本当に村上春樹ってなんで、こうなんだろうねえ。
>「賞について関心を持たない」
大衆受けするものがかけない、とどこで悩んでいたのでしょうか。
そのような悩みを打ち明けたインタビューに興味があるので、出典を教えていただけませんか。
しかもさー。その上で、この人、ひたすら(下手でも)、小説を書くことに対して、わけわかんないくらいの努力家なんだよね。(これは本人の日記やエッセイによる。なんでも毎日マラソン練習のようにストイックに小説を書きまくっているそうだ。)
>ランニングは日課として行われているそうですが、
小説を書かない時期があることは「遠い太鼓」などではっきり明記されています。
むしろ小説を書かない時期を蓄積させ、小説を書くことに飢えた状態に持って行くことを大切にしているようです。
はっきりいって、その他の、突如現れる霊的なものに対する本筋から見て不必要で余計な感受性だとか、また作者の孤独に対する鈍感さからくる主人公の孤独の無意味さとかは、小説家の適性からみると、もうどうしようもなくだめだと思うのだけど。とにかく、その課題(大衆受けしない)は誰の目にも明らかなのに、本人は全然それが達成できなくて、その上でなぜかこの人は、小説を書くことに対して非常に努力ができた。または、してきた。これが、村上春樹の成功のポイントじゃないかなあ。他の人には色々な意見もあると思うけど、私は、この主張は非常に的を得ていると思うね。
スピリチュアルブーム、パワースポットブームがありましたし、どの雑誌にも占いのページがありますよね?
また需要の無いものに対して努力をしたことが、どうして成功につながるのでしょうか。
さて、その上で、今回の小説に話を戻すと。この作品が珍しく作者自身の慰めのために書かれたことと、村上春樹の小説家としての持ち味をちょっと考えてみると、即座にこの作品が駄作であることがわかる。だって、この人は今まで努力してきたことを捨てたわけだから。なんとか、人に受け入れられるようなものを書きたいという課題を捨ててしまった訳だから。
>どの点で「努力をしてきたことを捨てた」のかが分かりません。
多分、去年ノーベル賞とれなくて悲しかったのと、もっというと、ノーベル賞を目前にして色々な欲がでて、自分の持ち味とバランスを崩しているのだろうね。なんでも本屋の誇大広告によると、この小説は、ほとんど筆をとめずに書かれたそうだ。そんな、当人が趣味でだらだら書いた作品が、これだけバカ売れするんだから、商業小説家としては大成功だね。
>こだい‐こうこく【誇大広告】 商品やサービスの内容・価格などが、実際のものより優良または有利であると消費者に誤認させるように表示した広告。
ですが、どうしてタイトルと作家名と発売日のみ明記した出版社からの広告が、誇大広告に当たるのでしょうか。それとも書店員の手描きポップを指しているですか?
また、「筆をとめずに書かれた」=「趣味ででだらだら書いた」とはならないのではないでしょうか。
画家のスケッチも、ミュージシャンの即興演奏も、俳優のエチュードも、即興的な表現はすべて否定されるのですか?その瞬間にしかない力や勢いに、魅力はないのですか?
まあー。村上春樹にとって、例え自分がとんでもなく寂しいことに気づいたからって、それで純粋な方向に振り切っちゃうのは、はっきりいってよくない戦略じゃないかなあ。というか、それ、青豆と天吾のストーリー、ひきづってるだけだよねー。いや、1Q84は恋愛がテーマじゃないから、奇跡的に、ああいうのが物語になったけど。もし恋愛をテーマにするんだったら、青豆と天吾のような主人公では小説がかけないでしょー。。。。というかですね。
はっきりいって、もういい加減、孤独をつきつめた作品ではなくて、大恋愛について書くべきなんですよ、村上春樹は。だって、この人が孤独でも、全く悲しくないんだよね。もともとが孤独に鈍感な人なんで。なんとか、もうちょっと、大衆とコミュニュケーションとるために努力して下さい。それができないなら、今後は、本当に人に認められたいなんて思うのはやめて、出家してくださいなー。
(終)
>村上春樹の作品は「アンダーグラウンド」以降どんどん社会性を帯びていると思います。
インタビュー集や読者との交流を何冊もの書籍にまとめていることからそれは明らかです。
私見を述べるならば、今回の「色彩を持たない〜」は、「孤独をつきつめた作品」ではないと思います。
今回の作品の主人公は具体的な地名と風景の描写を付け加えられた最後のシーンの描写からも、内面はどうであれ、外面としてはしっかりと社会性を持った人物ではないかと考えられます。
その意味で「ノルウェイの森」の主人公が最後に感じた、「僕はどこにいるんだ」という感覚と、対比される作品と考えられます。
そのため、「色彩を持たない〜」は、「孤独をつきつめた作品」には少なくとも作家の作品群から位置づけする分に該当しないと考えられます。
とありますが、
「村上さんに聞いてみよう」シリーズで読者からの何百もの雑多な質問に答えたり、
「少年カフカ」で特定の作品に向けられた読者からのフィードバックや質問に真摯に向き合ったり、
「アンダーグラウンド」「約束された場所で」の中で地下鉄サリン事件の被害者加害者の内面をインタビューした作品を出したり、
その他に京都での講演を企画したり、海外では朗読会を行ったり、
十分に大衆とコミュニケーションを図ろうとする姿勢があると思うのです。
ここまで大衆とコミュニケーションを図ろうとしている長編小説家が私には挙げられません。
その成果も、以前は若い独身男性の視点で一人称で描かれていた作品が、三人称になったり、また1Q84の牛河のように、全く違う立場の人物の内面を描いたりと、
どんどん小説の中で反映されていると思うのです。
すっごいだらだらしてた時に、なんとなーく村上春樹の新作についてAmazonのレビューをみながら愚痴ったメモが、翌日みたら意味不明だったので晒す。まとまりない上にばかっぽいです笑。
↓
村上春樹、段々、一般的な感覚の人々には理解されないようなことを延々と書いてる作家になってるよねーというのは、私も思うなあ。だから、まあ評価が低くなるのもわかるなー。
結構、「純粋」な方向に、ふってきちゃってるよね。そういう(純粋すぎる)のは、狂気というにはわかりにくいんだけど、なんかなあ、真実というところからはずれてきている気がする。うーん。難しいのだけど、一般にピュアであればあるほど、正常といえる水準を超えちゃう確率は高いから。うーん。多分、あまりにも、抽象的なものってちゃんとすればすごい威力あるけど、間違えちゃう可能性は高いよね、という例と似てると思う。
しかも、小説ってもともと、正しさ(これも微妙な表現だが)がわかりにくいからさ。その上で、村上春樹は、小説の中でも、あえて正しいかどうか(さらに難しい)がよくわからない方向で、突き詰めようとしているんだと思う。そしてそれが、微妙に少しずつ、本当のところからずれてきてしまっている気がする。なんとなく。
新作について触れると、このタイトル、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルを見た時、私は、これが、作者自身の慰めのために書かれたことがわかったよ。いや、だって、村上春樹、巡礼、絶対すきだもん。その他もろもろ、このタイトル、考えられないくらいわかりやすいよね。疲れた作者本人の心情と合致していそうだなという意味で。なんかびっくりしました。
でもさー。。。。こっからは、愚痴だけど。この人は、今まで、すっごい孤独なタイプの小説家にもかかわらず、いつも、大衆に向けて、つまりノーベル賞を狙って、書いてきた人なのにね。それで、うまく大衆受けするものがかけないなーってずっと悩んできた人(推定)なのにねえ。。。。
もう少し、わかりやすく説明するために、まず、村上春樹の小説家としての才能について書く。幸いなことに、小説を書くというのは、技能を向上させるための課題の発見が、その他の技能と比べても最も難しい技能だと思う。要するに、どうやって練習すれば、小説が上達するのかわからないという、あの課題ね。でも、実は、この人の才能の出発点はここにある。つまり、ある意味で、ものすごくわかりやすいところに、いつも課題があったこの人は、小説家としての技術を「磨く」才能には、ものすごく恵まれていたともいえるのだ。つまり、一般的にヒットしそうな小説が全く書けないという課題。本当に村上春樹ってなんで、こうなんだろうねえ。
しかもさー。その上で、この人、ひたすら(下手でも)、小説を書くことに対して、わけわかんないくらいの努力家なんだよね。(これは本人の日記やエッセイによる。なんでも毎日マラソン練習のようにストイックに小説を書きまくっているそうだ。)
はっきりいって、その他の、突如現れる霊的なものに対する本筋から見て不必要で余計な感受性だとか、また作者の孤独に対する鈍感さからくる主人公の孤独の無意味さとかは、小説家の適性からみると、もうどうしようもなくだめだと思うのだけど。とにかく、その課題(大衆受けしない)は誰の目にも明らかなのに、本人は全然それが達成できなくて、その上でなぜかこの人は、小説を書くことに対して非常に努力ができた。または、してきた。これが、村上春樹の成功のポイントじゃないかなあ。他の人には色々な意見もあると思うけど、私は、この主張は非常に的を得ていると思うね。
さて、その上で、今回の小説に話を戻すと。この作品が珍しく作者自身の慰めのために書かれたことと、村上春樹の小説家としての持ち味をちょっと考えてみると、即座にこの作品が駄作であることがわかる。だって、この人は今まで努力してきたことを捨てたわけだから。なんとか、人に受け入れられるようなものを書きたいという課題を捨ててしまった訳だから。
多分、去年ノーベル賞とれなくて悲しかったのと、もっというと、ノーベル賞を目前にして色々な欲がでて、自分の持ち味とバランスを崩しているのだろうね。なんでも本屋の誇大広告によると、この小説は、ほとんど筆をとめずに書かれたそうだ。そんな、当人が趣味でだらだら書いた作品が、これだけバカ売れするんだから、商業小説家としては大成功だね。
まあー。村上春樹にとって、例え自分がとんでもなく寂しいことに気づいたからって、それで純粋な方向に振り切っちゃうのは、はっきりいってよくない戦略じゃないかなあ。というか、それ、青豆と天吾のストーリー、ひきづってるだけだよねー。いや、1Q84は恋愛がテーマじゃないから、奇跡的に、ああいうのが物語になったけど。もし恋愛をテーマにするんだったら、青豆と天吾のような主人公では小説がかけないでしょー。。。。というかですね。
はっきりいって、もういい加減、孤独をつきつめた作品ではなくて、大恋愛について書くべきなんですよ、村上春樹は。だって、この人が孤独でも、全く悲しくないんだよね。もともとが孤独に鈍感な人なんで。なんとか、もうちょっと、大衆とコミュニュケーションとるために努力して下さい。それができないなら、今後は、本当に人に認められたいなんて思うのはやめて、出家してくださいなー。
(終)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151101012
SFの古典であると言われる本書でありますが、そうでなくとも昔に話題になった作品なんじゃないでしょうか。ちょっと前に日本でもなぜかドラマ化されてユースケサンタマリア辺りが主演でやっていたようなかんじ。
海外SFを読み始めようと思って有名作品を手当たり次第よんでるねんけども、これも読みたいなぁと思っていて、ふと家の本棚を見たらあった。誰や買ったの。
内容としてはSFといえば宇宙だのタイムマシンだの思い浮かべる方が多いでしょうが全然そんなのではなく、純粋な空想科学小説であり、且つ、知能とは何かを問いかけるような哲学的な思想もふまえた作品である、とかいう感じでしょうか。
話は主人公であるチャーリー・ゴードンの手記(というか報告書)によって読み進められていくという形式になっている。
知能が高いと言うことは、果たして良い事なのか、等考えさせられる作品。そしてとても切ない気持ちにさせられます。
途中中だるみする部分もありーの、最初の方は読むのがしんどい部分もありますが、名書であると言えるんじゃないでしょうか。悲しくはなったけど、泣けはしませんでした。映像作品なら泣いてるな、と思った。SF初心者の方々は是非読みましょう。
なんか「○○に××を」みたいな題名ばっかりですが、筒井康隆の中期くらいの長編作品です。別にまだ生きてはるんで、中期もくそもないんですが。筒井康隆の名前はちょくちょくあがりますが、確実に言える事としては、短編やジュブナイルは読みやすいが、長編は読みにくい、という事。短編やジュブナイル(中高生の若者をターゲットに絞った小説のこと)が読みやすいのは辺り前といえば当たり前なんですが、筒井さんの長編は難解な事で有名でありまして、それが逆にファンを作ってる見たいな所があって、結構どたばたな内容で、よくわからんまま終わってしまうこともあるわけなのです。よくわからんってことも別に無いけど、想像力を最大限に働かせないとついていけないって所はある感じ。まあ普通の人が読んだら、何これ意味わからん、といって切り捨てるでしょう。「残像に口紅を」はそういった筒井長編の中では、かなり実験的な試みがなされている内容になっていて、有り体に言えば「一章を進む事に、1文字ずつ使える文字が減っていく」というトンデモな内容となっているのである。
当然文字が消えれば小説なので、その文字で表す事のできる事象、物、人物名などすべて表記が不可能となり、作中からは存在そのものが消えてしまう。消えたものは意識化では思い出せるが表現ができないので、それこそ残像のような形になってしまうのだ。
また、作中はメタフィクションな構成になっており、作中人物が、自分がいるのが小説の中であると言うことを認識して、文字の無くなった世界でこういう事をやってみるのはどうかなど、提案したりしてより実験度が明るみになるような内容になっておりおもしろい。
しかし、使える文字が半分以下になっても、しっかりと文書を構築できる筒井さんの語彙の深さには恐れ入るばかりなのです。小説家を目指す人はこういう事ができるようにならないと行けないらしいので、一度読んでみましょう。
これかなああああああああああああああああああり前から気になっていて、映画化されたやつも見たかったけど、見る機会なくてやっと文庫買って読んだってやつ。前にも書いたよね。よね。ですよね。でもないんですよね、どこにも。
内容は松本清張や宮部みゆきが書きそうな感じのミステリって感じで、二転三転する展開構成はおもしろいです。話もうまいこと出来てます。後は、現在の日本の死刑制度とか裁判制度とかそいうった所に焦点をあてていて、まあ社会派サスペンスって部分も兼ね備えている大人のミステリって感じですね。
読んだ後少し陰鬱な気持ちになるような感じかしら。そうでもないけど。
しかし、話はようできていておもしろいです。一度読んでみる価値はあり。二度は必要なし。
これはなんとも新しいというかなんというかな設定の本です。この西澤さんという人は、SF的な設定での「縛り」を設けて、その設定の中でミステリを書くというすごい人らしい。本作の主人公はパラレルワールドを関知できる、というと語弊があるが、時間の繰り返しを認識する事ができるという能力を持っている。これは同軸時間上に異なる次元が平行で存在するという科学的概念があってこそ成り立つ仕組みなんでしょうが、要は同じ日が何度も繰り返されてしまい、その事に気づいているのは自分だけであるという設定になる。このSFばりばりな設定上で、主人公の祖父が殺されてしまい、祖父を助けるべく時間が繰り返される度に試行錯誤を繰り返す、といった物で、まあミステリといってしまうと、そんな物でもないんですが、ラストには驚くべき謎が残されていたりして、そんなこととは思わず読んでいたらびっくり、てな具合でした。
設定もおもしろいが、話も計算されていて、尚かつヒントや複線はそちこちにちりばめてあるという素晴らしい構成。いや、こういうのすごい好きです。SFとミステリが同時に楽しめるのだから二倍お得。文章はちょっとライトノベル風って感じではありますが、さらっとギャグがはいったり、随所で笑わせてもらえます。
他の作品もそれぞれ違った縛りが設定されているので、今後西澤さんの本も読んでいきたい所。
いや、これはすごい。この作品はメフィスト賞受賞作品の中でも評価が高く、所謂叙述トリックものである、という前評判を知っていながらもまんまと騙されて、頭が混乱させられた。
まあミステリたくさん読んでる人からしたら大したことないわって感じなんかもしれませんが、これは京極夏彦並、とまではいかんけど、宮部みゆきよりはすばらしいです。あ、比較対象がわるくてあんますばらしくないかも。
設定も斬新で、「ハサミ男」とマスコミから呼ばれている連続殺人犯である主人公が、次に殺人しようと狙っていた女学生を、別人に自分がしてきた手口とまったく同じやり方で、先に殺人ををされてしまい、真犯人を見つけるべく捜査を開始するという、トンデモ設定であります。
「ハサミ男」というとジョニーデップのシザーハンズなんかを思い出しますが、こちらの方はハサミをのどに突き立てて惨殺する連続殺人犯という設定なのだから、いったいどう収拾つけるのか、展開がまったくよめずハラハラドキドキで、最後にドーン、みたいな。
綾辻行人とか、本格推理系が好きな人は一度読んでみて下さい。これは絶対読み返したくなる。ざったい。はざみ。すみとみ銀行。
言わずと知れた、待ちに待った京極夏彦です。発売当日に買って、一ヶ月もかけてやっと読み終わりました。
いやはや、うーん。何はともかく京極ワールドといった所なんでしょうが、やはりこの京極堂シリーズは少し迷走しているというか、方向性が変わってきてる感がぬぐえない。
ただ、今回は「小説」としては楽しめるんじゃないでしょうかね。毎度の妖怪うんちくや、蓄積された謎と複線の解明とか、そういったモノがないといえばないんで、京極ファンとしてはちょっと肩すかしって感じでしょうか。
話にしても構成にしても、人間がたくさん出てきて、時間軸が読めなくて、不思議がもわもわ沸いてくるという辺りは毎度のごとく、さすが京極というような内容ではありました。どちらにせよ京極夏彦のすごい所は単発の話のおもしろさは当然の事ながら、内容の連鎖制というか繋がりというか、壮大的な世界構成といった所にあると思うので、やっぱり最初から読んでるファンじゃないと楽しめないよなぁとつくづく思うわけである。
でも、巷説百物語シリーズとかはほんまに名作だと思うので、まわりに薦めて行きたいけど、それを読むには前知識として、他の京極堂シリーズ等を読んでいる必要があるので、少しハードルが高めなのが残念。
なんかたくさん書いたよ。まったく。書く意味あんのかな。
それはそうと寿司が食いたい。すししししししし。
握るやつでもまわるやつでもなんでもええわ、と思ってしまうあたり
空気の読めない文系なんて東大だろうと全く使いもんにならんよなあ。アカデミア以外。
世間が東大卒文系に求めることは最高の空気読み師であることであって、それ以外はない。
そういう意味で、空気読み力テストとしては日本のシューカツシステムはそこそこよくできてると思うよ。
元増田は就活とかやめて小説家とか漫画家とかを目指すとまだマシなんじゃないか。
レールを外れるのは楽しいぞ。
追記
twitterで噛み付いてきた人がいるのでレスしてみよう。君の「空気を読む」の解釈は間違っている。
ここで言っている「空気読み力」とは、一般企業に雇用され組織の歯車として生きる際に要求される「空気読み」のことだ。
その違いがわからないのはある意味幸せだが、その絵描きとかなんとかで食っていけるだけの才能がないんだとしたら、君はその違いを理解できるようにならなければならない。
念のため言っておくと、会社に雇用されていても、簡単に転職なりなんなりして組織を渡り歩けるだけの能力がある人にはここで言う「空気読み力」は必要ない。
「吉牛の玉ねぎは中国で生産してカットして日本にもってくるらしい」って聞いた。ほんとかどうかしらないけど。
そういえばコンビニのカット野菜も中国産だ。カットして詰めまくったら、輸送コストも下がるだろうし、どうせ中国産の野菜つかうならそのほうが理に叶ってる。
輸送コストと生産コストのバランスが取れてる限り、すべての商品は国外で安く作られるようになるってわけだ。石膏ボードは原価が安価で殆ど輸送コストだから、日本の各地に工場があって消費地近くで作るらしい。似たようなのは飲み物とか生鮮食料品か?でも生鮮食料品も保存技術あがれば日本の外で作ってもってくるようになるよね。
ってなると次に下げられるのは輸送コストってことになるのか。でも輸送という仕事は当分国内でもなくならないだろうな。海外で作っても日本で消費するかぎり運ばないといけないし。
地方に住んでる事自体が日本に不利益だ、みたいな地方を批判する人最近目につく。自分自身地方に住んでるからこの手の言い分はあんま気持よく聞いていられないんだけど、本気で東京以外に住むやつは損しか生んでないって言う奴いるからなー、うちも自治体収支ワースト側だしおもいっきり反論はできないんだけど人の住む所ってそういう理由だけでどうにかできないだろ。
自分はプログラマなんだけど、この仕事も国外にでていってるわけで、いずれは国内に仕事なくなるんだろうなーって思ってぼんやり考えてる。
デザインなんかも変わりがきかないほどのデザイナーじゃないかぎり国外になっていくんだろうな。漫画家や小説家みたいな製造ではなく創造をする仕事は代わりがきかないから国内の人がやるだろう。でもアニメを作る下の現場は国外に既になってる。デザインも同じ事か。製造か創造かという。
直接人とかかわる仕事はなくなりそもうないけど、販売はあやしい、Amazon や他の通販に吸われてるし。ってなると、殆どすべての仕事が日本からなくなっても日本に人が済んでいたら存在してる仕事って、創造をする代わりのきかない仕事、公務員、道路水道ガスのインフラ系、建築とか、直接なにか提供するサービス業、運輸旅客、それらの仕事のための管理と創造をする仕事、うーん…報道、広告は無くなりそうでなくならないと思う。
って考えてたら友人のこと思い出した。
そいつは、高校卒業して運送会社に務めて遠距離トラックで頑張りながら貯金して自分のトラック持って、結婚して、子供二人いるんだけど最近すごく勝ち組に見えてる。自分普段あまり勝ち組負け組って考えないし、そういう言い方好きでもないんだけど他にいい言葉が見つからない。劣等感じゃなくてなんか単純に、みんな老人になったころに一番幸せそうなのはあいつなんじゃないかなーって。まだ 19 の頃、何度かトラックに一緒に乗せてもらったけど、ものを届けること、ライフラインに関わってることの大事さをすごく自信もって話してくれた。あのころは、そんな泥臭い仕事って馬鹿にする人もいたけど、今思うとあれはつえーなーって感じ。
なんか話変わっちゃった。
結局さ、自分のやってる仕事が世界の何かを幸せにすると思えないと限界のところで気が続かないんだよね。俺かっこいいーってならない。やっぱさー俺かっこいーこの仕事してる俺かっこいーって思えないと、なんかスカスカになってく。自分なにやってんだろって。
そしたら多分自信もって、自分にこそ出来る仕事だから自分に仕事くれって高い金要求しながら胸張って言えるようになると思う。そらー集団で何か作るには突出した能力だけでどうにかなるものじゃないけど、そういうんじゃなくってさ、誰かと仕事するからって、仕事の質落として、平均的な "ライン製造" に貶める必要はない。
プログラマだって本質的には創造をする代わりのきかない仕事でもあるはずで、でも仕事でそう思えるにはきっとどっかのミスを喜んで隙間から吸い取るような考えの社長の元でしょうもない当て逃げの企画をやってるよりは、世界の何かを幸せにするような胸はっていえるものにかかわったほうが、胸はって金くれ俺だからやるって言えるよなって。
モヤモヤ考えてた。
そろそろ転職かなー
なんていうか今まで何も出来なかったけど文章くらいは書けるだろって小説家を目指すようになった。
文章なめすぎワロタwwwww