はてなキーワード: 呪縛とは
ある人間に「死にたさ」が上がってきたときに、それを打ち払う便利な思想を自分の人生経験から編み出したので、それを紹介したいと思う。
これは自分はリアルでたくさん言っているのだがなかなか言うべき機会も少なく、普及しないので増田にも書いておく。
いってみよう!
「仮に10億円あってもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
「死にたさ」が上がっているときは「そんな夢みたいな荒唐無稽な話を聞かせてくれるな」などと言い出す人が多いが、それはすなわち「それが叶うなら生きてもいい」という証である。
ほとんどの問題はこれに帰着する。金があっても死のうとする場合は衝動的なものか、金持ちの道楽のようなものである。
「もし10億円あるなら死なない」という答えになった場合、そこから「5億あったら死なないか?」「1億あったら死なないか?」「2000万あったら死なないか?」などのように逆算する。
ここでたとえば「200万あったら死なない」のような結論が出た場合、死にたさの答えは明らかである。金がないことが問題であり、その金を稼げないこと、どのようにして稼げばいいのかを知らないことが問題である。
金があるなら仕事を辞めることもできるし、一時的に1年休むだとか、転職活動をすることもできるし、広い家にも住めて生活にゆとりとハリが出て、喧嘩も減り、やりたいことにも挑戦できる。
以上によって、死にたさの問題は金に帰着した。あとは這いずり回って稼げばよい。守銭奴のように金を求めれば救われる。
生死の問題だと思っていた人に「あなたの問題は200万円の問題ですよ」と示したとき、衝撃を受けたその人の顔を見るのはなんとも痛快である。
「死にたい」という思考が出てきたとき、通常は「望んで死にたい!!!!!!!」という朗らかポジティブるんるん思考ではないはずだ。
「自分は生きることは全然余裕綽々なんだけれども、でも、自分は絶対に死ななきゃならないんだ!!!!!自分は死ぬために生まれてきたんだから!!!!!死にたい!!!!!!!!!今すぐに死にたい!!!!!!!高らかに!!!」
のような気分ではなく、たいていは「死にたい…………(絶望)」のような気分になっているものだ。
重要なことは「本当は生きたいのだけれど、なんかうまくいかなくてめちゃくちゃ苦しくてもう無理……せや!! 生きるよりも死ぬことの方がマシなのでは????」という消極的な選択をしているという事実を認識することである。
「叶うことなら、本当はハッピーにしあわせに生きていきたいのだ」という自分の心を解放すると、周りの環境から「お前はハッピーでいてはいけない」「苦しみに耐えればいつか幸せになれるよ」などと教化されて、いつしか「苦しむことこそが自分の幸せなのだ!」という信念が強固になってゆく。
冷静に考えてみると何かおかしくないだろうか。
「なぜこの俺様がこんなに我慢を強いられているのか???俺様をお前らは殺そうとしているのではないか。鞭を打てて、かつ虐げることができる生贄として、ギリギリ生かされているだけなのではないか?」などという外に向ける凶暴で凶悪な怒りが実はあるはずなのだ。
死にたいのではなく、「周りの環境からの抑圧によって殺されつつある」という自覚がただひたすらに重要である。
ただ弱い、ただ無力、ただザコなのである。弱いから死にたいという気持ちがあがってくる。無力だから虐げられる。ザコだから一方的に攻撃される。
「仮に健康的で体力があって自分が笑顔でるんるんでもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
そのような気分にはなれないかもしれない。いや、そのような気分に、なりたくないのである。
なぜならそのような気分になっていた場合、周りから不審な目を向けられるからだ。
「お前には人の心というものが無いのか」「悲しまなければならないときになぜお前は悲しんでいないのか?」「絶望すべきときに、なぜ絶望しない?」「お前は人間ではなく、化け物だ」と扱われることの甚大なる恐怖によって、お前の感情は規定されている。
さて、通常、肉体が健康的な状態になっているならば死のうという気持ちが起こることはない。
つまり死にたさがあがったとき、そのような肉体を保持していることに原因がある。これは運動・睡眠・食事などの、肉体的なもので解決する問題である。したがって頭でこねくり回しても無意味である。
つまり外に出れば良い。
また、外見によって人は態度を大幅に変える。病的な人間には人は苛烈に対応する。とてもか弱い歯向かってこないひよわな人間に、人は優しくなどしないものだ。一見味方のフリをして、本当は支配したい人間も寄ってくる。支配したいのに「あなたの味方ですよ」という顔をするからたちが悪い。
所詮、手のひらの上で転がされているだけなのだ。飛び立とうとしてみろ。奴らは足を引っ張り出す。いつまで籠の中の鳥の気分でいるつもりだ。お前はインコか。
人生は不公平なものであり、なかなか思うようにうまくいかないものだ。どんなに言葉を取り繕ったとて、自分より明らかに楽をしていい思いをしている人々が多くいる。
自分は苦しい思いをしていて、呪縛され、どうにもならない、人生とはそんなものだという無力感を持っている。
「こんなにやったのに」「こんなに頑張ったのに」「でも自分はだめな人間だ」「もうどうしようもない」という自責の念・罪悪感を持っている。
「だから自分など、苦しんだほうがよいのだ」というふうに考えているのだ。仏教的、儒教的、アジア的、日本的な価値観である。
これは苦しんでいるようでいて、実は楽をしており、快楽を得ている。「苦しめばおっけ〜!」という甘いスイーツに酔いしれているのだ。
お前は簡単に苦しんではならない。もっと、より、高度に苦しまなければならない。お前の苦しみなど苦しみではない。せいぜい最大でも1人分の苦しみだ。
より苦しめば楽になるのである。
にもかかわらず、楽になろうとすると恐怖が湧く。見えている苦しみ、どうせ人生はトータルでいうとこれぐらいの苦しみだろうという予測以上の苦しみを得ることに恐怖を感じているから、現状の苦しみで安定する。
「自分が苦しみさえすればいいんでしょ?」「自分が全部悪いんだよね」という攻撃性をうまく覆い隠して、悲劇のヒロインを演じている。男も女も変わらない。お前はシンデレラか。
より苦しむべきである。
この世に期待などするな。それでももし諦めたくないのであれば、自分がその希望になる他ない。お前が無条件に他者に愛を注げ。
お前が他者に愛を注ぐような利他で無私の心で、その一部を証明せよ。愛はお前が与えなければこの世に存在しない。
だいたい、他人も生きていて、他人もその人の人生で手一杯である。どうしてお前を救えようか。
死にたいなどと思っているうちは、お前は利己的で自己中心的でわがままなのである。死にたい人間に生を与えろ。誰かの希死念慮を打ち払え。
人の価値を金銭で考えるべきではないといううぶな考え方を抱いている人が多いが、人命は金と交換可能である。
建前上、人命は金に変えられない高価なものだとされている。もちろん、この精神自体は素晴らしいものだ。理想として、そうあるべきだ。
しかし、現実はそうなっていない。200万円が無いことで死にたさが湧いて、そして実際死んでしまうというのは、命の値段が200万円であるということだ。
金を誰かがくれるわけではない。なぜ俺が赤の他人の、しかも俺に攻撃を仕掛けてくるような精神性の持ち主に金をやらねばならないのか?
お前の人生だろう。俺の人生ではない。なぜ俺だけがお前を一方的に助けなければならない?お前だけが生きているのではない。
誰も無償で助けてはくれないのだ。お前が助けてくれとヘルプを出さなければ誰も助けることはできないし、ヘルプを出したからといって必ず助けてもらえるとは限らない。
自分で自分を助けるしかない。他人に縋るな。絶望が足りない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
世の中は不平等だ。それを改善しようとする動きもあるが、全然追いついていない。
なぜそれを待つのか。待って待って待って、待って耐えれば満足か?そんな日は来ない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
優しくがんばれがんばれと言われたらそれで満足か?それがお前の人生か?そいつはお前の人生に責任など持たないぞ。
まずは自分で自分を鼓舞しろ。なぜ他人に身をまかせるのか。「どうにかしてくれ」ではない。お前がお前でどうにかしろ。
お前は死にたいのではない。生きたいのだから生きればいい。努力してもしても無理だったんだろうが、まだまだ絶対的に足りないのである。全く足りない。やってないのだ。
俺がお前のことを何もわかってないことが憎いか?殺したいか?怒りがこみあげたか?万能薬でないことに絶望したか?
逆にお前は俺の何を知ってるんだ?
クソザコに生きる術を伝えてるんだ。お前の無知の範疇で理解した気になるな。ちゃんと全部読めてんのか?眺めてるだけでは何一つとして読めんぞ。これはそういう文章だ。ありがたく精読して頂戴しろカス。
大したこと言わないよ。
大昔だ。ブラウザがNetScapeでWindows2000からXPに移行し始めたみたいな頃。
MS SQLにMS AccessをUIにしたクラサバシステム。それなりに需要があったんだ。
んで、データベースが何なのかすらわからない新卒の自分が参考書どおりに作って言われたことが
DoCmdは使うな!
最初なんで?と思ったが、確かにこれはある意味正しかったと思う。
全ての処理をVBAで組むことになるので、VBでも同じような処理を書けるようになった。
レコードセットとかカーソルとか、DoCmd使っていたら理解できなかっただろう。
後々ASP(.netじゃないほう)での開発やら、OracleDBの…なんだっけ?oo4oか、とかの操作がイケたのもそのおかげだろう。
その後の勉強不足で、VBの呪縛から抜けられないまま現状に至るわけだが。
なのでもし、仮に、万万が一Accessで恒久的に使うかもしれない何かを作ることを迫られたら断れ!
俳優兼インフルエンサー、技術者、消防士、スタントマン、トラック運転手、
様々な業種の人が猫とのふれあいで癒され、生きる糧と語られている。
猫の愛らしさにほのぼのしていると、冒頭のインタビューで「猫を飼う男性は変わっていると思われがちだ」と語られまず驚く。
その後も「友だちに猫を飼おうと思うんだ」と相談すると「ありえない!」と言われ
「猫が好きっていうことも、人に話すことはなかった」と語る人、
あるカップルは猫好きが高じてパートナーになったが女性が語ったのは
「猫が好きで一緒でもいいという男性を見つけるのは難しい」ということだった。
この映画は猫を飼い始めてから夫が猫を愛し、より柔らかく、思いやりのある人に変わったのをみて
同じようにポジティブな変化をした人の記録を残したいというところから始まったそうな。
猫は犬のように懐かない、という固定観念から猫の多様性を知り、
弱音を吐いては「男らしくない」という呪縛から解かれた人たちのストーリーだった。
というカルチャーショックを感じつつも、観ている方も猫に癒される良い映画だった。
映画の軸になっている路上生活者デヴィッドとラッキーという猫が波乱万丈で
彼の支援者から、こういう人が居ると連絡があったが既に撮影に入っており迷っていたが
映画では2022年までの情報しか得られず、その後がどうなっているのか気になる形で終わっているのだけど
監督は度々連絡を取っているらしく、2週間前に連絡した今も元気でやっているということもきけました。
良かった。
直接聞けて面白かった話がもう一つ。
ゴロゴロ音に並々ならぬこだわりを感じる……と思っていたら、録音・編集担当もした監督の夫が
「撮影中はやっぱり難しかったので、うちの猫のゴロゴロを録って編集をね、しました」って
流暢な日本語で話してて笑ってしまった。その話して大丈夫なのか?と思っていたが
些細な感想でもRTしていた公式アカウントが、この内容を含めた感想ツイートには
いいねだけしていたので、やっぱりあんまり言っちゃいけない事だったのかもしれない。
それにしても、「猫が好き」も言えないレベルだったとはなあ。
私はアメリカ在住のハーフなのだが、この前書いた日記を書いた時に「日本人的な感覚がある自覚があるなら日本に行きゃあ良いじゃないか」と指摘されたり、ついでに「弱者男性だな」とか言われたりしたので、自分なりに何故そんな奴が日本に行かないのか書いてみる。
ただ、結構色々な気持ちが混ざり合った故の結論なので、かなり自分語りをさせてもらう。
まず、私は大学に入るまで家庭的に日本に行ける様な環境ではなくて、それが変わった大学入学当時はアメリカ社会に馴染めず結構病んでて自分は英語のコミュ力がないと勝手に思い込んでいた。
今思うと、周りに日本人がいない状態でアメリカのテレビやゲームに全く興味を示さずにただひたすら日本のメディアを堪能していたわけだから、他人と趣味が全く被らずこうなるのは必然だった気もするが、当時は日本ツイッターのオタク文化に感化されて自分の好きなものに正直に向き合うのが正義というメンタリティーだったのである。
このオタクの方向性が深夜アニメとかだったらまだWeeb(日本かぶれ)と話が合うのに、私の場合は藤子不二雄とか主に任天堂系のレトロゲームという日本でも同世代じゃ結構珍しい趣味をしていたので、この方向に突き進めば突き進むほどアメリカ人と何の話をすればいいか分からなくなっていった。
別に趣味が合わなくても話術で話を合わせる事は全然可能なのに、当時の自分はそれがわかっておらず、勝手に遠慮して勝手に世間から孤立していた。
高校時代の私の陰キャっぷりの凄い簡単な例をあげると、ある時ウメ星デンカの文庫版(おすすめです)を授業の自由時間に読んでいたら、向かいの女子に
「それなんの漫画なの?」と聞かれ、私はこんな英訳もされてないクソマイナーな漫画をどう紹介すればいいんだとテンパり、あと読むの邪魔すんなって感じで
ちょっと不機嫌気味に「50年前の漫画だ」と言ってそこで会話が終わった(笑)。我ながらこんな奴と絡んでしまった彼女が気の毒である。
今なら「これは凄い昔の漫画なんだけど、今読んでも結構面白いんだ。君も漫画とか読むの?」という感じで、上手くはなくても最低限のコミュ力と礼儀は取れるが(まず前提として公の場でウメ星デンカなんて読まないが)、この当時の私は本当に自分から周りを突き放すダメダメな奴だったのである。
そんな感じで生活していると当たり前だが友達もあまりできず、自分は既存の日系人の友人数人としか自然に話せないコミュ障なのだと思っていた。
そして、その少ない友人等を失うのが怖くてどこか遠い場所に行く留学に対する勇気も夢も抱けず、実家から車で20分程の距離にある州大へ入学した。
こんな感じの入学経緯だったので、学業自体は真面目にはやっていたが、コロナ禍もあり大学デビューのチャンスもなく、ただ無気力に生活していた。
が、去年の春にコロナ禍授業が終わり、冬に日系人サークルが自分の大学にできて私の大学生活は大きく変わった。
このサークルの人とあっという間に仲良くなれた事で自分は日本語ならマジで誰とでも喋れるって事がわかり、そこから皆と頻繁に飲みに行ったり、春休みに男女グループで旅行したりと普通の大学生に少し近づけた。
後に、出会った時はそういう目で見てなかった女子に気づいたら初恋を抱いたりしていて、最終的には(告白したら本人如く半年後に日本に引っ越すという理由で)振られたけども一緒にデートも何回か行ったりした事で無気力が結構改善されて、人生もっと頑張ってみようとか思えた。
大した事ないかも知れないが、この学期の前学期に「おお、俺女子と普通に喋れてるよ」と思ってたレベルのヤバイ奴だったので、そう考えるとこれでも大躍進なのである。
それ以外にもちょくちょく日本に行っては普通にリアルな日本人とかと知り合って楽しんだりしているので、今の自分なら日本に留学したり一人暮らしする勇気は全然あるしその方が楽しい気もすると思うんだけど、決定的に今の自分に日本はまだ早いと思える出来事があった。
それは、この前彼女を含んだ大きなグループで英語を話すことになって、その時に全く参加できないのはカッコ悪いなって理由で自然と話す勇気が出て、その時に自分は英語ができないという思い込みの呪縛から抜けられたのだ。
そして、その時に私はこのまま日本に行ったらそれは英語ができないダメな奴のままな自分から逃げる事になると解釈し、ここで終わっては勿体無いと思えたのだ。
こういう理由から今の私は日本には行かずに、呪縛も解けたしで、アメリカでもう少し頑張ってみようって感じなのである。オール英語のバイトでも周りとカジュアル面である程度馴染めているし、大学は今夏休みなので何もないが、過去の自分にはできなかった、「大学が楽しみ」という感情まである。
それに、留学するなら日本という慣れている所ではなく、中国とか韓国とかに行って語学留学した方が辛かろうがよっぽどタメになりそうだ。
最近の趣味は語学勉強と読書で、過去の趣味はまだ普通に好きだが実質卒業したと言っていいくらい触れてない。
そして、これはあくまでも個人なりの解釈だが、私はもうオタクではない。
本当のオタクは趣味の分野が取り上げられたり禁止になったら死ぬ程抵抗するという認識だが、私は必要ならば趣味を切り捨てられる。
娯楽は自分のアイデンティティ自体では無いし、それよりも私の心を動かすものがある事を知れたからだ。
最後に、世間一般から見れば私は所謂弱者男性に該当するのだろうが、私としてはだったら強くなれば良いという考え方だし(そもそも今の私は強者とはいかずとも自分を弱者だとは思っていない)、無気力ながらこれまで真面目にやってきたおかげで積み上げる為の土台はしっかりしている。それに、世間からそう思われているからという考えを言い訳にして行動を躊躇していたら何もできない。
初期のTwitterは収益化なんて到底無理なサービスで人気を博した。
そりゃそうだ。余計な広告を挟まず、基本的には知り合いと交流しつつそれ以外の広い世界とも自分の意思で関われる。素晴らしいサービスだった。
投資家の投じた金を食い潰しながらここまで生き残ったのは奇跡と言えるほどのサービスだ。
でも規模拡大するにつれ収益化出来ないことが呪縛になっていった。
最終的にはユーザーの反発を受けながら広告を捻じ込んだりしたものの根本的な解決には至らないまま、迂闊に手を出したイーロンマスクに全ての責任を押しつけて旧経営陣は逃亡した。
そりゃそうだ。このままどれだけ頑張っても真っ当に収益化出来る目処なんか立たないんだから。
しかしながら、一度初期のTwitterを味わった人達はその甘美さを忘れられない。
イーロンマスクにTwitterがグチャグチャにされても、模倣サービスがいくら立ち上がっても、「あの頃の甘美なTwitter界隈」を求めて愚痴を吐き続けるし、漸減するTwitter界隈にとどまり続けるだろう。
そして、彼らの吐く愚痴に汚染されて模倣サービスは悉く腐っていくだろう。
今後のショートテキストSNS業界の展望としては、規模の小さなTwitterフォロワーが乱立する中、Twitter改めXが腐りながら最大規模を維持し続け、業界全体としては萎んでいくんじゃないかと思う。
某社会学者が「男らしさから降りろ」「男らしさの呪縛から自由に」という「正論」をぶっていてまた嫌な気分になった。はっきり言って腹が立った。
あのね、「男らしさ」って別に俺たちの中にあるんじゃないんだよ。社会や世間の中にあるんだよ。決して自分で自分を縛っているじゃなくて、世間が縛ってくるんだよ。社会学者も「ジェンダー」という言葉でそういう話をしていたんじゃないの?
たとえば「30代非正規」という場合、女性と男性で受ける印象は大きく違う。全然違わない、と言っているやつは嘘だからね。男性の場合、その人に侮蔑感が湧き起こってくるのは、日本社会で生きている場合は当たり前のこと。たとえば企業で採用する側だった場合、同じ35歳でそれまで非正規の仕事しか経験のないという人が来たとして、女性の場合は特になんとも思われないけど、男性の場合は「この年まで何やってたんだ?絶対やばいやつだろ」ってなるでしょ。
「男らしさから降りろ」ではなく、「私たち」(もちろん男女関係なく)が男性に「男らしさ」を要求するのをやめようとか、中年男性が無職や非正規だと知った場合に無自覚に見下さないように気をつけよう、という話をするならわかる。しかし「男らしさから降りろ」は精神論と自己責任論による説教でしかない。社会学者は説教する前に分析してくれよ。
リトルマーメイドは人魚が女だから受け入れられたんだ!ポリコレというなら歌が上手くて天然で世間知らずの半裸の人魚王子と人間の王女のラブストーリーを描いてみろ!
……って言ってる人を見掛けたけれど、
でも、そういうのって寧ろ日本のコンテンツではとっくにやってる気がするんだよなあ
例えば「きみはペット」とか、女性の方がしっかりしてて男性の方が可愛げある役割だったし
女性向けの恋愛ものコンテンツだと社会的地位はないけど可愛げがあって癒されるイケメンってそんなに珍しくないと思う
人魚姫をそのまま性別逆転したラブストーリーって、日本でだったら普通に出てくるし多分受け入れられると思う
鳥羽さんならともかく広末さんの仕事まで奪われるのは、日本社会特有の「母だから」という呪縛があるからだとしか思えない。
キャンドルさんの会見にほだされた人はよく考えて。
ドイツでは子どもの片親が違うのも普通だし、子どもの父親が全員違う女優さんだって受け入れられてるよ。
誰も可哀想だなんて言わない。
父親はみんな近くに住んでいるというから、徒歩距離内で顔を合わせることだってあるかもしれない。
でも、それが当たり前のこと。
たとえばドイツで人気のテレビドラマに数多くの出演歴のある女優ムリエル・バウマイスター(Muriel Baumeister)さんには3人の子供がいて、全員父親が違いますが、同氏は「子供たちの父親は3人とも育児を積極的にしている。手伝うだけではなく本当の意味で子育ての役に立っている。3人と良い関係が築けていることを幸せに思う」と語っています。
彼女は子供たちの父親と同居していませんが、子供たちがいつでも父親に会えるように全員が近場に住むようにしているといいます。子供たちの父親は全員ドイツの芸能関係者ですが、ドイツのメディアはそのことを特に批判的に取り上げてはいません。世間から「子供がかわいそう」という声も聞こえてきません。
一方で、表面だけ見て批判してくれるなよとも思うのよね
それに伴う社会の価値観の転換とハイティーン〜就活の時期がかち合ってしまったんだよな
氷河期世代の親って団塊世代でバブル初期の上昇気流の影響モロに受けてるからさ
俺らはその価値観の中で育ったわけ
「男は受験勉強死ぬ気で頑張れ、そして大企業に入れれば終身雇用で一生安泰」
「そのうちお嫁さん貰って家事育児はやってもらって、より一層仕事に注力してお金を稼ぎましょう」
簡単に言うと「上手にレールに乗れよ、脇道にそれるなよ」って強く言われて育ったのが俺たちの多数派
それで社会に出る直前まで育ってきたのに、
社会が急に「レールに頼るな、自分の頭で考えて自分の足で歩け」
って言い出すわけ
道はぬかるんでて水たまりだと思ったら底なし沼だったりするんだけど、俺たちはその見分け方を習ってない
一度足を踏み外して沈んだら一生沼の底でもがかなきゃいけなくて、そうなったらそれは自己責任だという
誤解を恐れずに言うと、俺たちは心の準備ができてなかったわけ
「ウソだろ…」ってポカーンとしたままトコロテン方式で背中を押されて沼地に放り出されたわけ
でも大多数が幼少期からの教育の呪縛を逃れて現実を見られるようになったのは、
俺らの学生時代なんてmixiが一般公開するかどうかって時期だからな
人生設計を考えるなら上の世代を参考にするしかなかったのだが、それが突然何の参考にもならなくなったわけ
だからやっぱり嫌いだわ
沼の底を覗き込んで虫けらが勝手にもがいてるみたいに嘲笑ったり
お前らみたいなやつらのことは
https://comic-action.com/episode/4856001361287348513
■何もしないことの正義
https://note.com/japotify/n/n3c5fce254553
興味深く読ませていただいたが、私の解釈を書いておこうと思う
特に最後の部分については解釈が大きく異なっているので、みんなの意見も聞きたいところだ。
何も悪い行動を起こしていない。
‐ぶつかってスマホを叩き割る
→その割ったスマホとの対話(ネットでのレスバトル)が妄想として始まる
十分なほどの制裁を受けたが、結果的に女性の乗客を守ったので、最後に救いのフェーズがやってくる
→無意識下で恨み続けていた母を許す
→それに伴い呪縛(自分を今まで苦しめてきた、そして人生をどん底に叩き起こしたミソジニー思考)からの解放
→よかった、よかった、による涙、だけどこの体、どーすんねん、、、
確かに90年代後半の自分は毎日精神の天気予報が「曇り時々晴れ」だった。今の自分のネガティブ思考もあの頃がコアになっている。
ただ、バブルの頃の余韻も忘れられず、うまくすればまたあのバブルが戻ってくるのではないかというささやかな希望はあった。
1999年にはノストラダムスの大予言とかもあり、世紀末感はあった。
ただ、コロナ以降の世界情勢やニュースの内容の方が終末感やら世紀末感がある。
もうエヴァの呪縛からも開放されたが、自体はもう首が回らない状態まで悪化している。
少子化も挽回できない程に進んでしまい、輸出大国だった過去はもう無い。
今の日本政府にもなんら期待は出来ない。
中破した船が沈まないようにだましだまし浮いている。けれど、水はどんどん船に入ってきて、あとはいつ轟沈まで椅子取りゲームをするのかみたいなのが今。
色々考えたけど、まぁ素直に元夫の件で気に病んでかつ、元夫側の親族から増田の件も含めて総攻撃された手前、増田を両親に合わせるのは無理よな。
この話たぶん、元夫親族、彼女両親からすれば「増田自身がど真ん中の加害者」と化してる可能性がある訳で、彼女さん側からしたら自分の件で巻き込み増田分のダメージを負ったご両親のフォローを最優先にしようとする気持ち理解できる。
そんな訳で迷惑をかけた実家とその要因となった増田って優先順位があるとしたら圧倒的に増田はムゲにされる側でおかしくない訳で、そら増田が何言ってもご実家最優先となるのも理解できる。
推測やが「彼氏バレが嫌」なのでは無くて、「自分の可愛い娘をたぶらかした憎き真犯人と思ってる両親と引き合わせる事ができない」が正しいのでは無いか。
紹介されない両親を理由に使う彼女さん、紹介してない増田を悪者にしている可能性もあるんじゃないか。
増田が彼女さんに依存してるのも理解できるけど、これは第三者から見ると幸せにはなれんカップルな感じがする。
離婚前に彼女さんが増田を好きになって色々画策して離婚成立させたってのはマイルドな不倫であろうし、結局その呪縛で元夫が亡くなり彼女さんがすべて背負ったのだとしたら…
それはもう増田の介入余地無しの特級呪縛よ。こんな誕生日なんて序の口で付き合っていく中で彼女のご両親が亡くならない限り続く呪縛。
故に最低限幸せになれるとしたら両親納得の上での再婚が最善解であろうし、増田では絶対に成就しない(ゆえに増田との結婚願望はない説)
それを彼女さんが分かってるなら他の男に救いを求めてる可能性もあるんじゃないかとも考えてしまう。
正直、父親と3日前に飲みに行ったも誕生日当日に家族で飯も五分五分で他の男と飲んでるもあるんじゃないかと悪い方に考えてしてしまうかも…
子どもの時から母親に溺愛されマザコンになり、進路など色々なことの決定権を母親に委ねながら、母親からの「あなたは頑張り屋さんだから」の言葉に頑張ることを強いらされてきた。
その結果、どうしてか他人とのコミュニケーションはへりくだること以外の方法を知らず、そのくせ、親子関係の様に、他人に自分がただ好意を向ければその分ちゃんと相手からも愛されるという単純な世界観でしか考えられないので、端から見れば付きまといのような距離感でしか人との距離を埋められず、人間関係に失敗し「何故?」と世の中を呪いながら母親に泣きついてしまう自分になった。
そしてそんな自分は、水星の魔女最新話ラストにおけるスレッタの境遇が自分の人生のようだと感じている。
一期の最終話までは不穏な空気が漂いながらも、プロスぺラの教え通りに進めば二つを実現していくスレッタの描写にはどこか自分が肯定されているような気分がしていた。
しかし最新話のミオリネからキーホルダーを突き返され、現実に起こっていることを理解できず混乱するスレッタをみて自分が過去何度も繰り返したことのトラウマがよみがえってしまった。
自分はこういう人間でしかないとあきらめてしまっているのだが、作中のスレッタはきっと親の呪縛をとけるようになるんだろう。
その時に水星の魔女という作品が自分への救いになるのか、それとも今までの自分のアイデンティティを崩壊させてしまう呪いになるのかはわからない。