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2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-07

anond:20240607143200

理想たけぇー物事そんなに上手く働かないんだから

生活レベルを下げるしかないんじゃない?

長男小学校三年生くらいになったら、次男と2人で留守番させてお昼ご飯代1200円を机において勝手コンビニとかで買ってもらうとかさ

母親パートで、父親パチンコ行ったり競馬行ったり楽しそうだったよ。

最近世間一般からするとダメ親父なのかもしれないけど、親たちの精神は保たれるよね。

中華スマホゲー強い

ブルアカ一般女性名前で、下の名前がみんなカタカナから判りやすいし打ち込みやすいんだよね。FGO変な中二ネームばかりで本当に打ち込んでてキツイ。変な漢字ばかりだし。

名前の時点ですでに差が付いてるもん。そりゃ中華スマホゲーに勝てる訳ねえわなって思う。

統計で話してるときに「自分の周りに」とかやめろ

数字持ってこい。こう言う奴がノイズになって統計ベース政策がすすまねえんだよ。

その傾向が実際にマクロとして現れているのか、それとも自分思い込みかを統計当たって調べてから一般しろ

頂き女子りりちゃんマニュアルというのは、極めて恋愛工学的な発想で、実践の中からまれボトムアップ理論により構築されており、効果も高かったわけだ

それはおぢから金を搾り取るという目的最適化されていたわけだが、人間関係コントロールして、リスクを軽減しながら目標を果たすための技術だったわけだけど、おそらくチューンアップ(ダウン?)すればもう少し汎用的な使い道もある

一般的な交友関係恋愛を、道義的問題がない範囲でこなすための、りりちゃんライトマニュアル改訂して一般書籍として販売すれば、一山あるで

業務用のUIと、一般用のUI絶対に違う

なんじゃこりゃ

https://zenn.dev/nobkz/articles/46d25288a3727e

 

小脳レベル使用できるUIと、大脳レベル使用するUIがあると思う

前者は学習コストが高いが速く自由自在に使える、後者学習コストが低いが誰でもすぐ使える

業務用のUIは時には前者を目指すべき時がある

最近は圧倒的に後者が幅を利かせていて、業務を非効率にしているシーンが多くある

 

前者、後者で違うところは多いが、特に違うのは、アクションをした時の結果がいかに固定されているか

専用の画面・ボタンが沢山用意されていて、常に同じ結果を返すならば、非常に安定したUIになる

ただしそれぞれどういう結果をもたらすかを覚えるのに時間がかかる

後者にとって良いのは、今必要な画面・ボタンのみを、必要なだけ用意することだ

これは分かりやすいんだけど、配置も沢山変わるし、複数回実行した時にどうなるかというのが曖昧だったりする

なんなら、実行して、結果を見てようやくアクションが正しかたか判断できるようなUIも多い

 

こういう後者向けのUIを前者に導入すると当然オペレーションが遅くなったり、ミス不明な結果につながる

(許されるのは、全てが基本的自動で処理され、結果や判断のみ人間がする場合、この場合後者でよくなる)

 

前者で一番わかり易いのが飛行機コックピット

あと、券売機なんかも最近後者になりつつあるよね、前者でいいのに

前者はちなみにハードウェア親和性が高い

今は「ボタンを何回押すかで結果が変わる」みたいなものも多いか後者になりつつあるけど

テレビリモコンとかもね、今ポインターやらせたりするよね

 

こういう、スマホ以降に幅を利かせているUI信者がちょいちょいいてビビる、というかきつい

スマホ画面でさえ、前者の考え方が重要なシーンは沢山あるのに

「よりシンプルに、ボタンを少なく、インタラクティブに」を目指しすぎて、複雑さを押し込めた結果使いづらくなっているUIが沢山ある

それ誰が実装すると思ってんだ、ほんとくたばってほしい

2024-06-06

anond:20240606132102

こういうのってまず歪みに気付くことが大事なんだろうけど気付いても止められないときはどうしたらいいの

過度な一般化してる…でもそうとしか考えられないよ…ってなる

anond:20240606195840

男のホモソーシャル批判してるのであって

男全体は批判されてないんだよなあ

ミソジニー一般化するなよキチガイ

anond:20240606172306

一般のマチアプでは不可とされる人は登録してくるだろうけど、その人達だけにはならないのでは?

かに余るかもしれないけど、別にひとり一個しかチアプ駄目ってルールは無いんだし。

  警部補が設定する補題には概して次の3種類がある。

   要点補題   要点を絞ったもので、簡単証明できるもの。  東京大学問題でも設問になっていることはなっている。

   簡潔補題    異常に簡単補題で、多少のきつい計算を要する証明

   完全補題   完全無欠なもので、証明が多少ハードであるもの

    国際数学整数問題は、 警部補が、 完全補題を設定して証明し、巡査がinductionによってやるか、別解では、連結誘導合法が用いられた。ただし、連結誘導合法

  一般にめんどうくさいと言われている。

       ちなみに、 稲泉健一警部補(46)は亡くなった。

anond:20240606162345

シンクタンク仕事一般に思われているのと順序が逆で、、既に作られた政策方針に対して、それに併せて資料を作るんだよ。

から政権側が信じてるってのは色々と逆なんだよ。

anond:20240606154823

一般庶民子育てを丸投げするのって明らかに効率が悪いよな

時代にあってない

これからもっと効率的な集団育児に移行すべき

anond:20240606082230

自分体験を話しているだけの(一般化していない)人に対して意味不明書き込みをする馬鹿

anond:20240606103333

双葉山呉清源がジコーサマに入門したという。

呉八段は入門して益々強く、日本の碁打はナデ切りのウキメを見せられている。

呉八段が最近しきりに読売新聞碁をうち、バクダイな料金を要求するのも、ジコーサマの兵タン資金を一手に引きうけているせいらしい。

僕も読売のキカクで呉清源と一局対局した。そのとき読売の曰く、呉清源の対局料がバカ高くて、それだけで文化部の金が大半食われる始末だから

安吾氏は対局料もベン当代も電車チンも全部タダにして下され、というわけで、つまり私も遠廻しにジコーサマへ献金した形になっているのである。南無テンニ照妙々々。

双葉や呉氏の心境は決して一般には通用しない。

然し、そこには、勝負世界の悲痛な性格が、にじみでゝもいるのだ。

文化高まるにしたがって、人間迷信的になるものだ、ということを皆さんは理解されるであろうか。

角力トリのある人々は目に一丁字もないかも知れぬが、彼らは、否、すぐれた力士は高度の文化である

なぜなら、角力技術通達し、技術によって時代に通じているからだ。

角力攻撃の速度も、仕掛けの速度や呼吸も、防禦の法も、時代文化に相応しているものであるから

角力技の深奥に通じる彼らは、時代の最も高度の技術専門家の一人であり、文化人でもあるのである

目に一丁字もないことは問題ではない。

高度の文化人、複雑な心理家は、きわめて迷信に通じ易い崖を歩いているものだ。

自力のあらゆる検討のあげく、限度と絶望を知っているから。

すぐれた魂ほど、大きく悩む。大きく、もだえる。

力士双葉山、大碁家呉八段、この独創的な二人の天才がジコーサマに入門したことには、むしろ悲痛な天才苦悶があったと私は思う。

ジコーサマの滑稽な性格によって、二人の天才の魂の苦悩を笑殺することは、大いなるマチガイである

太宰治情死考 坂口安吾

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43137_30135.html

2024-06-05

副業解禁が広まらない理由


30代増田である世間では一応、公務職場市町村役場)で働いている。

最近ふと、副業解禁について思ったことがある。幣役所では残念ながら、副業に関する人事当局方針説明はなかった(国の機関では文書で通知があった)。

当然、今までと同じルールだ。労働系の副業は、農業を除いて厳禁である

それはさておき、世の中の流れとして副業OKになりつつあるけど、世間一般会社では浸透していないように思える。

その理由で感じたことがある。「職場の外で自己実現されると困るから」ではないだろうか。

私はイベント広報企画最前線で働いているのだが、周りから評価が低い男性職員がいる。私と同じ30代である

その人は、ほうれんそうができない。人が傷つく言葉遣いに気が付かなかったり、上司から休日の緊急電話にも出なかったり、仕事中に「私は能力が低い職員ですが、そのことに向き合って認めています」などと開き直りをしてる。

私もそこまでの社会人ではないが、それにしても彼はひどい。仕事中にも「信頼がなくても別にいいです」とかほざいてる。マジで意味がわからない。

でも、その彼は、どれだけ上司に怒られても、同僚から聞こえるように影口を言われても、平気なのだ

気にかけてないように見える。

実は彼は、学生の頃に剣道国民体育大会に出場したことがある。会社内の運動イベントの時に、私たちが住んでいる県の国体ジャージを着ているのを見た。今でも剣道をしていて、市内の有名な道場指導してる。

追記だけど、彼とは中学校高校が一緒である。ある程度のことはわかる。

まり彼には、自己実現をするための環境があるのだ。そこでの自信が凄まじいので、別に経済社会通用しなくても別にいいのだ。いや、彼の心理はわからないが、多分そんなところだろう。

正直、この職場はただの腰かけで、アルバイトのようなものなんだと思う。

いや、アルバイト公務員の正規職してるって、なんかもう笑いを通り越してしまう。

世の中で副業を推進していくと、彼のように会社仕事を離れて、自己実現ができる分野で活躍する人が増えるのではないか

すると、その会社にとってはダメージになる。本業から心が離れてしまっては困る。

そんな可能性があるから、どの会社副業推進に足踏みしているのではないかな~と最近思った。

皆さまはどう思われるだろうか。

状況認識:今後10年の展望 -- はじめに

X (twitter) で SITUATIONAL AWARENESS: The Decade Ahead https://situational-awareness.ai/ というのが回ってきて非常に示唆に富むものだったので、DeepL (無料API経由) で訳してみた。

レオポルド・アッシェンブレナ2024年6月

サンフランシスコに行けば、まず未来が見える。

この1年で、街の話題100億ドルコンピュート・クラスターから1000億ドルクラスター、そして1兆ドルクラスターへと移り変わってきた。半年ごとに、役員室の計画にまたゼロが追加される。その裏では、残りの10年間に利用可能なすべての電力契約と、調達可能なすべての電圧変圧器を確保しようとする熾烈な争いが繰り広げられている。アメリカ大企業は、アメリカ産業力を結集させるために、何兆ドルもの資金を注ぎ込む準備を整えている。ペンシルベニア州シェールフィールドからネバダ州太陽光発電所まで、何億ものGPUが稼働する。

AGI競争が始まったのだ。私たち思考し、推論できるマシンを作りつつある。2025年から26年にかけて、これらのマシンは多くの大学卒業生凌駕するだろう。10年後までには、これらのマシンは私やあなたよりも賢くなり、本当の意味での超知性を手に入れるだろう。その過程で、この半世紀には見られなかったような国家安全保障の力が解き放たれ、やがて「プロジェクト」が始動する。運が良ければ、中国共産党との全面的競争になり、運が悪ければ全面戦争になる。

今、誰もがAIについて話しているが、何が自分たちを襲おうとしているのか、かすかな光明を感じている人はほとんどいない。Nvidiaアナリストは、まだ2024年ピークに近いと考えている。主流派評論家たちは、「次の言葉予測するだけだ」という故意盲目に陥っている。彼らが見ているのは誇大広告といつも通りのビジネスだけで、せいぜいインターネット規模の新たな技術革新が起こるのを楽しむ程度なのだ

やがて世界は目を覚ますだろう。しかし、今現在、状況認識を持っているのはおそらく数百人で、そのほとんどはサンフランシスコAI研究所にいる。運命不思議な力によって、私はその中に身を置くことになった。数年前、このような人々はクレイジーだと揶揄されたが、彼らはトレンドラインを信頼し、過去数年間のAI進歩を正しく予測することができた。この人たちが今後数年についても正しいかどうかはまだわからない。しかし、彼らは非常に賢い人々であり、私がこれまでに会った中で最も賢い人々である。おそらく、彼らは歴史の中で奇妙な脚注となるか、あるいはシラードやオッペンハイマーテラーのように歴史に名を残すだろう。もし彼らが未来を正しく見ているとしたら、私たちはとんでもないことになる。

私たちが見ているものを教えよう。

目次

エッセイはそれぞれ独立したものですが、シリーズ全体として読むことを強くお勧めします。全エッセイPDF版はこちら。

はじめに 【このページ】

歴史サンフランシスコで生きている

I.GPT-4からAGIへOOM(Orders of Magnitude)を数える

2027年までにAGIが実現する可能性は極めて高い。GPT-2からGPT-4までの4年間で、私たちは~未就学児から~賢い高校生までの能力を手に入れた。計算能力(~0.5桁またはOOMs/年)、アルゴリズム効率(~0.5OOMs/年)、および「趣味のない」向上(チャットボットからエージェントへ)のトレンドライントレースすると、2027年までに再び未就学児から高校生サイズ質的ジャンプが起こると予想される。

II.AGIから超知能へ:知性の爆発

AI進歩人間レベルでは止まらない。何億ものAGIがAI研究自動化し、10年に及ぶアルゴリズム進歩(5以上のOOM)を1年以下に圧縮することができる。私たちは、人間レベルから超人的なAIシステムへと急速に進化することになる。超知能の威力危険性は劇的なものとなるだろう。

III.課題
IIIa.兆ドルクラスタへの競争

驚異的な技術資本の加速が始まっている。AI収益が急増するにつれ、10年末までに何兆ドルもの資金GPUデータセンター、電力の増強に投入されるだろう。米国の電力生産を数十%増加させるなど、産業界の動員は激しくなるだろう。

IIIb.研究所の封鎖AGIのセキュリティ

米国の主要なAI研究所は、セキュリティを後回しに扱っている。現在、彼らは基本的にAGIの重要な機密を銀の皿に載せて中国共産党に渡している。AGIの秘密とウェイトを国家機関の脅威から守るには膨大な努力必要であり、我々はその軌道に乗っていない。

IIIc.スーパーアライメント

我々よりもはるかに賢いAIシステムを確実に制御することは、未解決技術問題である解決可能問題ではあるが、急速な知能の爆発が起きれば、物事簡単にレールから外れてしまう。これを管理することは非常に緊張を強いられるだろう。

IIId.自由世界勝利しなければならない

スーパーインテリジェンスは、経済的にも軍事的にも決定的な優位性をもたらすだろう。中国はまだゲームから抜け出してはいない。AGIをめぐる競争では、自由世界の存亡がかかっている。我々は権威主義的な大国に対する優位性を維持できるのか?そして、その過程で自滅を避けることができるのだろうか?

IV.プロジェクト

AGIへの競争が激化するにつれ、国家安全保障が関与してくる。アメリカ政府は眠りから覚め、27~28年までに何らかの形で政府によるAGIプロジェクトが立ち上がるだろう。どんな新興企業も超知能を扱うことはできない。SCIFのどこかで、終盤戦が始まるだろう。

V.おわりに

もし我々が正しかったら?

――――――――

私はかつてOpenAIで働いていたが、これはすべて一般に公開されている情報私自身のアイデア一般的な現場知識、あるいはSFゴシップに基づいている。

Collin Burns、Avital Balwit、Carl Shulman、Jan Leike、Ilya Sutskever、Holden Karnofsky、Sholto Douglas、James Bradbury、Dwarkesh Patel、その他多くの方々の有益議論感謝する。初期の草稿にフィードバックをくれた多くの友人に感謝する。グラフィックを手伝ってくれたジョー・ローナン出版を手伝ってくれたニック・ウィテカーに感謝する。

イリヤスーツバーに捧ぐ。

続き I.GPT-4からAGIへ:OOMを数える(1) https://anond.hatelabo.jp/20240605203849

anond:20240604185549

『モテたければ人として接しろ』というアドバイスはまちがい。正確には『個人として接しろ』 - 自意識高い系男子

これ読んで、日本語の「人」はpersonの意味human意味の両方があるんだな、と気付いた。

元増田は、暗黙に、人をperson、人間humanという区別をしていると思う。

ただ、日本語の「人」はどっちの意味でも使えるので、誤解が生じるような文脈で、

personの意味で人と言いたい場合は、個人人格と言った方がよいのだと思う。

別の増田で、

・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)

・「人間扱い」とは、性差意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)

個人的には「人間扱い」といったら人間一般適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが

まずはこの二つを呼び分けられるようにならない限り「人間扱い」の情報量ゼロだわ

anond:20240603112336

ってのがあるけど、まさに前者がperson、後者humanだと思う。

いずれにせよ、「人」は多義的なので、「個人」や「人格」と言い換えた方が正しく伝わる、というのはその通りだと思うけれど、

「人」にはpersonの意味もあるので、「人として扱う」という言い方もまちがいではないと思う。

実際、自分もpersonの意味で読んでいて、上述の記事を読むまで、その多義性に気付いていなかった。

さっき「誤解が生じるような文脈で」と書いたけれど、

個人的には、恋愛人間関係についての話のなかででてくる「人として扱う」が「personとして扱う」以外の意味を持つとは思ってもみなかった。

しかし、実際には解釈がわれているので、そんなに当然視できることではなかったのだなと省みている。

先祖への詫び

兄弟姉妹の無い一人っ子、35歳、もはや結婚して子供を産むという選択肢には遅すぎる。

20代時間モラハラ男と共依存になって食い潰した。

30ちょうどで結婚相談所を頼った結果結婚できたが、相手子供を望む温度感に大きな差があり、夫側レスの状況に未来を見出せなくなりすぐ離婚した。

そもそも顔面偏差値も大して良くない、性格根暗、そういう女は誰にも望まれずにこうなる運命だったのでしょう。

連綿と続いた一般家庭の家系図は私で途切れることが確定したわけで、実家帰省するたび、父母に対して面目無いという気持ちがよぎる。

父母も特に強く言わず、好きに生きてよしと温かく言ってくれるが、その果てにあるのが天涯孤独と考えるとなかなか悲しいものがある。

最近特に祖父調子が悪いようなので、近いうちに見舞いにいく。

縁起でもないことではあるが、これが最後覚悟して会いにいかなければならない。

いつも優しくしてくれる祖父が幼いころから大好きだった。

ああ、ごめんなさい、あなたの孫は以降の家族の構築に失敗しました。この血は私で終いです。

一家代々先祖の皆々様、申し訳ない。

とりあえずは、祖父にどんな顔をして会えばいいのかわからない。

anond:20240605114901

ハッタショ増田AIのことしか調べてないか

世間一般と違う言葉を使ってる自覚がないんだよ

「なんでそんなおかし言葉を選ぶの?」

って聞いても「アメリカでは普通からw」

とか帰ってきて、普通じゃねええよって思ってるんだけどさ

言っても無駄なんだよ

anond:20240605080748

時間旅行タイムスリップタイムトラベル

将来的に出来るかもしれないけど現時点では出来てないということで。

すっかり一般にも浸透した結果、一時期恋愛モノドラマでもタイムスリップしまくってたな。

anond:20240604223053

内閣府統計では

既婚の夫婦の仲が良い率は半数超え

配偶者と大変仲が良い+仲が良いは

20-39歳男で65% 女で70%

40-69歳男で54% 女で51%

世間一般に言われるより仲がいい率が高いとは思うけれど

恋人いる独身の方が仲がいい率が高く

20-39歳男で76% 女で78%

40-69歳男で69% 女で69%

子供持つかどうかが大きいのかなと思う。

教育方針違ってくるほどギスギスしやすいし

子供一人育てるのに大学出すなら2000万以上と言われていて余裕も無くなるだろうし

(内閣府調査 p34)

https://www.gender.go.jp/research/kenkyu/pdf/hyakunen_r03/03.pdf

anond:20240605104335

うそう、ぶっちゃけ材料調達スーパー宅配に任せれば自動化はできる(人力だけど)

届いた荷物から調理器具までの間が問題だけど、ここがまあむずかしいわな

台所自動機械占拠させるってのは一般家庭では中々難しい

AI全然関係ないw

anond:20240605104019

子供持つ前/子供と深く関わったことがない人間感覚及び過剰な一般化の

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