はてなキーワード: リメイクとは
https://anond.hatelabo.jp/20201013101726
6から初代まではさすがに最近やないやろとはしょった。すまんな。
とはいえ、昔のFFナンバリングはヤバかった。どうヤバかったのかまとめていこうと思う。
6はまじヤバい。まず値段がヤバい。定価1万1400円。シーズンパスとか付いてない。ドットもヤバい。最高級のドット打ちだ。ゲームのドットのクオリティでいうと国宝レベル。主人公が固定されてなくてプレイヤーそれぞれ思い入れのあるキャラが違う、多様性がある意味でもヤバい。この作品から剣と魔法だけじゃなくて機械や銃とかガンガン出てくるようになる。純粋なファンタジーでなくてもいいよなとFFらしさを方向付けたような作品。
5はジョブシステムがヤバい。後続の作品でも5のジョブシステムをマジ超えられてない。モノマネとか乱れ打ちとか青魔法とか全部ここが初見。あとラスボスのエクスデスの知名度がマジヤバい。時間が経っとるから遊んでない人も多いのにめちゃくちゃ知られとる。歴代で一番有名なFFラスボスだと思う。ファファファ!
4が音楽がマジヤバい。ファミコンのイメージが抜けてないところに重厚な音楽が脳味噌直撃する。オープニングから赤い翼の重厚な音楽がどうだスーファミすごいだろ!期待していいぞ!と黄金時代を告げる。舞台もヤバい。地上、地下となってスケールはぁすっごいなあと思ったところに月だ。月の静寂感もヤバい。音楽で月!って感じを訴えてくる。とにかく4は音楽がヤバい。
3はクリスタルがヤバい。クリスタルはだいたいFFにはある。だけど、ここのクリスタルが一番ヤバい。それがクリスタルタワー。全部キンキラキンに光っとる。意味がわからん。クリスタルのタワーである必要が全くわからん。とにかくラストダンジョンだと視覚的な格を見せつけてくる。このクリスタルタワーの何が一番ヤバいかというと休憩できるところが正攻法では一切ない。裏技使わんとセーブポイントも休憩ポイントもない。まともにやったらしんどくてたまらん鬼畜ダンジョン。
2はシステムガラッと変えてくるのがヤバい。成長システムがレベルアップや経験値じゃない。実際に行動したアクションに則って対応したステータスが上がる。ロマサガの前身となったシステム。1で成功したのに2ではシステムをガラッと変えてくる大胆さがヤバい。ブラッドソードがヤバい。ラスボスも一撃で倒せる。あんまりにヤバかったのでリメイクでは弱体化されたり、入手できる場所が変えられたりしとる。FFナンバリングで最強の武器は2のブラッドソード。
1はストーリーがヤバい。昔の作品だから大したことないだろと思って甘く見てるとマジヤバい。意表をドンと突かれる。歴代のFFナンバリングで一番ビックリした覚えがある。昔の作品なのにインパクトがめちゃくちゃある。そりゃこんな作品の続編やったら買って遊びたくなるよなと納得するインパクトがある。
さすがに1から6やってない人も多いから、あんまり昔の話してもしょうがないか懐古厨と思われるからやめとこかなと思ったけど、昔のFFナンバリングのヤバさが伝わってくれたら嬉しい。
10年ほど遊戯王のかなりマイナーな分野を探求してきた者です。元々はアニメ2作目の最終盤をみて、そのなかのCMであった遊戯王オンラインにハマったのがすべてのきっかけでしたね。そこからシンクロモンスターをテーマにした5D'sとZexalと来て、たどり着いたのがかの有名なArc-Vです。記憶を掘り出しているのでかなり偏りがありますが、思い出補正込みで書いていきます。
さて、この作品は賛否両論どころか、おそらく日本の糞アニメ史上の末席を汚すような作品です。遊戯王OCGという列車を運ぶ車輪の一部でありながら、その実態はとうもろこしのようにグズグズな有様です。ですがそこらのアニメ作品とは一線を画すのは、その尺の長さに加えて「主人公以外が素晴らしい」という点でしょう。脚本全体が酷いのですが、なぜか主人公に関連しないところばかりに光るものがあります。にもかかわらず、その逸材達がことごとく主人公にとっては噛ませ犬であったりするため、酷評に至っていると思われます。そのアンバランスさが、同時期に放映されていた鉄血との相乗効果も相まって、実に刺激的です。
主人公の榊遊矢(以下、遊矢)はデュエリストとしてはとても平凡な少年。彼は行方不明になった一流デュエリストの父親の言葉を受け継ぎ「エンタメデュエル」なるものを心情としている。ある日、彼は謎の力「ペンデュラム召喚」を身につける。それはその世界の誰も知らない召喚方法で、未知のカードで構成されていた。彼はその力と仲間と共に4つの世界を渡る旅に出る。
このアニメでは、過去作品のリメイクカードや召喚方法、スターシステムを採用しています。正直これでコケること自体が難しいのですが、それでもコケました。
この作品の最大の売りにして最大の失敗は、遊戯王OCGで採用されたペンデュラム召喚そのものだと思います。遊戯王ではアニメの新シリーズが出るたびに新しい召喚方法が登場しますが、中でもこのペンデュラム召喚は曲者です。
簡単に言えば「どんどんモンスターを手札やエクストラから出す」というものです。制約はありますが、後半は主人公補正でほぼ無双状態。
ただでさえ何をしているのかさっぱりわからない遊戯王で、このペンデュラムは本気でよくわからない。モンスターが魔法カードになるとかエクストラから出てくるとか、OCGをちゃんと理解していないと多分無理でしょう。それにカードの絵柄がごちゃごちゃしているので本気で見ずらい。視聴者の中には、最後までペンデュラムが何なのかわからない人もいることでしょう。まあそれは過去作品も似ていますが。
最終的に他の召喚方法と比較してペンデュラムを持ち上げようとした結果、単なる無双状態を引き起こしたあげく、他の召喚方法ででかいモンスターだすだけのよくわからない戦い方となってます。別に面白いとは思えませんが。
この作品の価値低下を最大限補助しているのが、よりにもよって主人公とは。声優の演技力が低いとかではありません。むしろちゃんとしているから困るんです。
主人公の遊矢は「エンタメデュエリスト」を自称しています。彼いわく、「デュエルで笑顔に」が心情です。この言葉、100回は聞きます。そして一度たりとも実行されたことはありません。
遊矢のいうエンタメデュエルとは、どうやら華やかな演出による楽しいデュエルらしいのです。全員ボコボコにするだけですけどね。
前述のペンデュラム召喚は遊矢が得意とする戦法ですが、これはモンスターの大量召喚を可能します。そこから各種の強力なモンスターへと繋げるのが遊矢のスタイルなのですが、別に笑顔にする要素なんてありません。視聴者にとってのみ新カードのお披露目があって嬉しいとは思います。しかし対戦相手からすると大量のモンスターがでてきて、さらに極悪なモンスターで壊滅させられるという経験をするのみ。エンタメを自称するためか遊矢は「レディース&ジェントルメン」と声高に叫んでから、えげつない展開をするのですが、視聴者にとっては「これから対戦相手をフルボッコにします」としか聞こえません。
例えば、敵役として登場した融合次元のエド(GXの人気キャラ)に対しても似たようなことを叫びながらフルボッコにして、なぜか負けたエドは遊矢のデュエルに楽しさを覚えた様子で改心してしまいます。視聴者からしてみればこのデュエルのどこに感銘を受けるのか、皆目検討がつきません。素晴らしい展開とか考えつくされた伏線とか、驚きの勝利方法とか。そんなのではなく「力こそパワー」で殴ってくるだけの遊矢に共感する人っていたんでしょうか?
あと、度々登場する父親との思い出の「スマイル」(?記憶おぼろげ)というカード。実際なんの意味もないカードです。使う場面も限られるし、使っても意味がないことが殆ど。でも遊矢はたまに使いますし、スマイルが切り札のような雰囲気を出します。でもなんの価値もないカードなんです。演出目的としても不自然すぎて気持ち悪い。
この作品では実態を持つフィールドを生成して行われるアクションデュエルが多用されます。まあそれがどうでもいい。ようは街なかに溶岩が出現したりするんですが、別にそれがなにかおもしろいわけではない。確かに空中を移動したりする要素はあっても、面白いとはいえない。作品の骨子の一つであるのに、その要素が殆ど生かされていない。5D'sのライディングデュエルとは正反対なんです。その中でも特に不評なのはアクションカード。
アクションカードはフィールド上に無作為に落ちているカードで、拾った人が誰でも使用可能。大抵はダメージ軽減の「回避」です。そしてそれを最も多用するのが主人公の遊矢。
遊矢の切り札はほぼこの回避です。ただ落ちているカードを拾うだけ。それまでの主人公にあった、あっと驚く回避方法はありません。
「ちゅどーん」
こればっかり。面白さを心情とする主人公が、劣勢では常にワンパターン。なにこれ?ちなみにこのシーンは本当に飽きるほど出てきます。というか遊矢のデュエルでこれがない回はあまりありません。ようは勝ち筋がなく、その場しのぎでしかないデッキと脚本なんです。
恐ろしいことに主人公が直接絡まないデュエルはめちゃくちゃ面白い。そのデュエルを盛り上げる登場人物も個性豊かで際立っています。
主人公が何考えているのかわかりませんが、それ以外はちゃんと自分のスタイルが存在します。黒崎は復讐と妹のため。社長は世界を救うため。権現坂は仲間のため。ジャックは王者であるため。
例えばジャック・アトラス。5D'sでは主人公のライバルであり天然な面もありますが、今作では一貫して王者です。主人公の遊矢が「自称エンタメデュエリスト」であるのに対し、彼のデュエルは本気で面白い。「キングのデュエルはエンターテインメントでなければならない」という台詞がありますが、全くぶれない。遊矢と似て圧倒的な力で対戦相手をねじ伏せるスタイルであるにも関わらず、付け焼き刃ではないきちんとした王道を行きます。デッキ自体が自分の象徴であるレッドデーモンズを中心に組まれており、それを展開しつつ防御や攻撃を丁寧に処理していきます。大げさな演出も含め、ちゃんとデュエルできる数少ない逸材です。
ジャックVSセルゲイとかいいですよね。ジャックの堂々としたデュエルと、セルゲイの偏執的なまでの美学がぶつかります。自分が一番、自分が勝ちたい、絶対に負けない。そういう自我がはっきりした同士がきちんとデュエルして勝敗を喫するという、ひどく一般的な構図が、この作品には殆どありません。それが叶う場面が時々あるから評価が難しいんです。
まあ基本的にその全てが遊矢にとっての噛ませ犬でしかないので、最高の材料を使って泥団子を食べている雰囲気を味わうのには最適です。
酷い脚本だって短い期間なら許せるものです。でもこのアニメは3年間続きました。アホみたいな脚本に3年間です。それに付き合った自分はもっと馬鹿ですね。
最初の2クールで異世界に行く人員を選別する予選みたいなものが行われますが、これがムダに長い。こんな2クールかける意義が全然わからないほど内容が薄っぺら。そしてシンクロ次元編が異様に長い。まあこれは監督やスタッフが元々5D's作っていた関係なんですが、それにしても長い。おかげで融合やエクシーズが薄い薄い。融合次元が敵の総本山なのに、結局尺が足りないのか飛び飛びな印象でしかないんです。
最終的に遊矢は世界の敵として君臨します。ペンデュラム自体が忌むべき存在だったというオチですが、アニメの質も同時に呪われていました。
ただ、主人公が悪になってしまう経緯ってもっとキチンとしてほしいんですが、当然この作品にそれを望むことはできませんでした。各種の伏線はあるものの、遊矢の戦いが世界を救うための行いという側面があってこその悪堕ちなわけです。はっきりいえば遊矢は声のでかいだけのモブ。それが悪堕ちしても虚無感しかありません。
主人公としての信念は他人の言葉をただ繰り返すだけ。中身が本当にないんです。しかもそれを劇中のジャック・アトラスから「誰かからの借り物の言葉でデュエルをするな」と言われている。いや本当に視聴者が思っていることをずばっといってくれるキングです。素晴らしい。そう、作品自体が遊矢を主人公と認めていないんです。にもかかわらず遊矢は一切成長することなくそのまま悪堕ちします。成長した末にではありません。なんとなくです。
本当に何がしたい作品なのか見当がつきません。
まあ他にも、顔がそっくりではないそっくりキャラとか、悪役としては随分小物なハゲオヤジとか、同時期放映の鉄血でも散々な社長役だった細谷さんとか。ツッコミどころ満載ですが、そこそこ面白い作品ですよ。Arc-V。
月姫のヒットで、プロのクリエイターの権益が脅かされると言われたのが20年前。
結局、その後進であるFGOは"プロの権益を脅かして"頂点を獲り、マインクラフトは世界一になった。これは最近の話だ。
才能ある個人と資金力のある大手企業が組むことが当たり前になったことで、
その中間である"プロのクリエイター"は苦しい立場に置かれることになった。
EAや任天堂、あるいは中国資本による大作、過去の遺産によるリメイク、続編。インディーゲーム。
何か一つでも、これらより優れた価値を提示できなければプロとしてやっていくことができない。
グラフィッカーやコンポーザーが頑張ればゲームの中身なんてどうでもいい、
そんなことにならないように、今、作り手の力が試されているんじゃないか。
サブカル全般に明るいライターというイメージだったけど、以下の記事が酷かったので本当に失望してしまった。
ドライブなしのPS5やXbox、クラウドゲーミングの興隆……ゲーム業界に漂う「次の時代」の雰囲気(さやわか) - QJWeb クイックジャパンウェブ
なるほどなー、と思わされるのは、ソニーとマイクロソフト、今回はどっちの新機種にも「ディスクドライブのないモデルが発売される」ことです。
要するにCDとかDVDとかBDとか、ああいうディスクを読み込ませるドライブを搭載しない(そして安価な)バージョンを用意しているわけですね。
このあたりはややミスリードで、PS5のデジタルエディションは本当に「ディスクドライブが無いだけ」だが、XSSはそれに加えてGPUやメモリの性能が低い。廉価版として同じコンセプトの製品ではない、ということに言及しないのは不親切。
Xbox Series X/Sなんて、なんと2001年に発売された初代Xboxから今まで発売されたすべての機種のゲームが動くそうです。すごい。
こちらも少々ミスリード。XSX/Sの後方互換はホワイトリスト方式で、確かに「すべての機種のゲーム」は動くが、「すべてのゲーム」が動くわけではない。
一方、PS5のほうは新機種と同時に発売される新作タイトル(いわゆるロンチタイトルってやつ)のラインナップが若干しょぼいんじゃないのという噂がある。というわけで、発売前の下馬評では、わりとXboxのほうに注目が集まっているようです。
これは何を根拠に言っているのか謎(本当にどっかの誰かの放言だけを信じて記事にしてんの?)。『スパイダーマン』新作や『デモンズ』リメイクのあるPS陣営と、大看板の『Halo Infinite』の発売を延期したXbox陣営とで、そこまでローンチタイトルに差があるようには見えない。Xboxの後方互換を言うなら、主だったPS4のヒットタイトルを追加費用なしで遊べる「PSプラスコレクション」もかなり強力だと思うが…。
だけど、さっき触れたソニーやマイクロソフトがやってるゲームのサブスクは逆で、基本はダウンロードなんですよね。そこがまだ、SpotifyとかNetflixとは違う。
前述したマイクロソフトも負けてはいなくて、すでに『Project xCloud』というスマホ向けクラウドゲーミングサービスを開始したみたいです。あと、ソニーもプレステ旧型機のタイトルを大量にラインナップした同様のサービスを整備するという噂があります。
今回いちばん驚いた記述。PS陣営はいちはやく2015年からクラウドゲーミングサービス「PlayStation Now」を提供している。PlayStation Nowは後にダウンロードにも対応したが、基本的にはストリーミングのサービスだと言える。いくらなんでもゲーム系ライターでPS Nowの存在を知らないとは信じられない。
そもそも新型ゲーム機ですら、今ではほかの国で先に発売されて、日本での発売は数カ月以上経ってから、みたいなことが当たり前になりました。
こちらも酷い。PS4やXbox Oneは確かに日本での発売が遅れたが、PS陣営は「あれは間違いだった」とインタビューで語って、そのとおりPS5は世界同時発売になったし、Xbox陣営も前世代の最上位機種であるXbox One Xから(もちろん今回のXbox Series Xも)世界同時発売になっている。特にXboxは、Oneの国内販売が振るわなかったにもかかわらず、それでも遅らせることなく発売してくれている。そうした関係者の労苦を踏みにじる発言だ。
フェミニズムのために、創作物が改変されるかもしれないことに、言いようのない恐怖を感じている。
女性が女だからという理由だけで不当な扱いを受けるのは当然嫌だし、男性が男だからという理由だけで不当な扱いを受けるのもおかしいと思う。
そういった、現実に蔓延る性差別を無くしていくためのフェミニズムは、支持している。性による違いは出来る限り理解し合い、なおかつただ性別のみによって差別されることのない世の中になっていってほしいと思っている。
でも、そのために創作物を捻じ曲げるのは、恐ろしいと感じてしまう。
ここで言う創作物は、フィクションを取り扱ったエンタメ作品くらいの意味合いだと思ってほしい。エンタメ作品にも色々定義があると思うけど、「こうしなければならないというような教材ではなく、視聴者読者プレイヤーといった受け手が『楽しむ』ことを主目的とした作品」くらいの気持ちで、この文章を書いていることを念頭に置いてほしい。
ジェンダー観が見直されつつあり、従来の慣習に対して、こんな扱いは不当である、性差別である、という声が上がるようになった(これは良い)からか、創作物に対して向けられるこんな声が目に留まるようにもなった。
「この作品の○○という表現は、ジェンダー観が古いからやめるべき」「この作品内で女性を活躍させるために□□するべき」「この登場人物の△△という価値観は男尊女卑だ」etc.
自分には少し理解が出来ない考え方であるため、あくまでも想像だが、このようなことを主張には「この創作物を真に受けて、現実に同じ考えを持ち込む奴がいるから、創作物を正した方がいい」という考えや、「この創作物内の女性を不当な差別から救わなければ」、「この表現によって自分あるいは他者が傷付く」というような考えがあるのではと思っている。間違っていたらごめん。
私は、前者の意見には「正すべきは創作物ではなくて創作物内の話を現実に持ち込んだその人本人や、世間のの考え方だ」と思うし、後者であるならば「救うべきは架空の存在ではなく現実の人間だ」「誰も傷付けない表現は無い」と思っている。
フィクション内の誤った価値観が創作物に氾濫することで、現実への影響を危惧する気持ちは分かる。
よく議論される題材として「暴力及び性描写のある創作物の影響で、犯罪が誘発されないか」という話がある。この辺の話はこれまでにも散々議論されているので割愛するが、私自身の個人的な見解は「影響があろうがなかろうが、最終的にやってはいけないことをやった人間が圧倒的に悪い」だ。
暴力も、性犯罪も、性差別も、やってはいけないことをやった人が悪い。その行為が現実に可能かどうか、その難易度を問わず、やってはいけないことをやってはいけないのだ。その責は当人にある。
所謂良くないジェンダー観に基づいた描写で、傷付く人がいるのも理解できる。
フィクション内の人物に対して「こういう扱いはこの人物を蔑ろにしている」と言う人に対しては「なんでお前がこの人の感情や幸せを決めつけるんだそれこそ偏見だろうが」くらいの気持ちで憤るが、例えば同じような扱いをされた経験がある現実の人間が辛い感情を追体験して傷付くことは想像に難くない。
それはもう、「この人物は貴方ではない、この扱いや言葉は貴方に向けられているものではない」と言う他ない。出来れば誰にも傷付いてほしくはないが、正直、「誰かが傷付くから」という理由で表現を止めさせることは非常に難しい。
誰もが傷付かない表現は無い。私自身、「こんな表現で傷付く人はいないだろう」というような表現が、一度見ると尾を引くレベルで苦手であるため、創作物で傷付く人の感情も理解できる。
世間的に評価され、CMで何度も流れるドラマの感動的な一台詞が、しばらく脳にこびりつくくらい嫌だった。でもだからと言ってそれを無くしてほしいとは思わない。
世間的に認められているドラマだからではない。自分の感性が少数派だからではない。
私が苦手だから、嫌だから、という一個人の感情で創作物を捻じ曲げたり、押しやったりすることが認められてしまえば、この世から創作物が消えてしまう。
誰も傷付かない表現、創作物は無い。どんなに「誰にとっても傷付く要素の無い、正しい物語」に見えたとしても、傷付く人はいる。少なくとも、私はそれに傷付いたことがあるから。
文句は言ってもいいと思うけど。嫌だと思う気持ちを抑圧してほしいとは思わない。それを理由に創作物を変えたり無くしたりしようとすると、キリが無いのだ。
思ったよりも長々と書いてしまっているが、要は「それがどんなに正しい思想であっても、現実の人間の思想のみを理由に創作物を改変することが認められれば、創作物の世界は完全に変わってしまうのでは」という恐怖を感じているということが言いたかった。
「現実と照らし合わせたときに正しい表現、正しい倫理観である」ことが、創作物の良し悪しを決める価値観となってしまうことが恐ろしい。
これは何もジェンダー観に限った話ではない。
ジェンダー観的に正しい表現であることが、正しい創作物の基準であることになれば、きっと、創作物の世界は一変するだろう。性や暴力、争いを扱うような創作物も、正しく、倫理的で、現実世界のお手本となるようなものであることが求められるようになるだろう。
ジェンダー観を正す思想がどんなに正しいものであっても、それに基づいて創作物を改変することが認めれれば、それ以外の分野においても、基づくものが正しい思想であれば創作物を改変可能になるからだ。
きっとそれが、これから先の社会に求められる「こうあるべき創作物」なのかもしれない。そういう創作物に満ちた世界が、正しいものなのかもしれない。
そして私が愛した創作物は、私を楽しませてくれたフィクションの世界は、おそらくそこには無い。
それが正しい世界だと言うのであれば、私が好きになったものが間違った創作物で、それがあるべき姿になったのだと言うのであれば、私も淘汰されるべき間違いなのだろう。それが正されるということなら、仕方がない。
ただせめて「ジェンダー観の正誤が創作物の価値基準であり、創作物は現実の手本となるよう正すべきという自分の主張は正しいものである」と思っている人達が、ほんの少しでも「本当にこれでいいのだろうか」と考える切欠になってくれたらいいなと思う。
例え真に「創作物を、現代的な正しいジェンダー観に合わせること」が正しい思想であっても、自分の思想が絶対に正しいものであると信じ込むことは恐ろしいことであるから。
私は、現実世界のお手本になるようなジェンダー観の作品も、そうではない作品も、平等に創作物という舞台に上がってほしいと思っている。全ての創作物が、現実の見本になる必要はない。だって創作物はフィクションなのだから。
勿論フィクションなら何をやってもいいという話ではないが、フィクションなら必ず正しくあるべきだという話でもないだろう。私は、そう思う。
偉そうに書いてしまったが、私も自分の考えが絶対に正しいものだとは思っていない。きっと間違っているだろう(そもそも、良い方向に改善しようという思想に反発している時点で、間違っているのは私の方だろうという不安も当然ある)し、もっと良い考え方もあるだろう。
だからこれを見て、「こんな考えは杞憂だ」「間違いだ」でもいいから、現実の思想のみによって創作物を改変することの是非を考えてみてもらいたい。正直滅茶苦茶に叩かれて炎上してでもいいから、一石を投じたいとさえ思う。
私一人が、自分の中でぐつぐつと考えを煮えたぎらせても良い結論は出ない。ああでもないこうでもないと、考えを走らせてくれる人がいてくれればと思う。
そして、現実のジェンダー観がより良いものになることと同じくらい、創作物の未来が少しでも良いものになることを願っている。
<9/22追記>
反応ありがとうございます。
言いたいことが上手く伝わっているような反応も、いないような反応もありますが、とにかく少しでも誰かに考えてもらえたり、考え方のヒントをいただければと思っていたので、どれもありがたい限りです。
私の書き方が悪いために、認識の齟齬がありそうな反応に対する擦り合わせは、大変申し訳ありませんが割愛いたします。(まだ見てくださっているかどうか不明なので……)
>銀英伝
すみません、銀英伝は未読・未視聴のため、その話ではないです。でも件の騒動は話に聞いていて、自分の不安に近い話だなと感じました。
元になる原作がきちんと残されていて、時代に合わせて物語表現のレパートリーが増えるのは私も良いことだと思います。でも現在進行形未完の作品の変容だと、これで本当にいいのだろうかと思わざるを得ない部分があります。
例えば「主人公の男の子が、幼馴染の女の子を救うために戦う」という話があるとして、「戦う力を持たない女の子を守りたいという、単純な動機のために懸命に戦う少年の姿を描く作品」だったものが、やがて「女の子だから守りたいという動機は不純だ、女の子に戦う力が無いのは女性軽視だ」という声を受けたことで「幼馴染と主人公が平等に戦う作品」へと変容していくのも、時代の価値観に合わせた変化なのでしょう。(勿論、元々物語の構成として、やがて後者へ変化する予定だった場合は別です)
「戦う力を持たない女の子を守りたくて戦う男の子の物語」も、「女の子と男の子が平等に戦う物語」も、どちらも素敵なストーリーであって、どちらもあっていい物語のはずだと思うのですが、前者のストーリーは現在の価値観的に間違っているからという理由で、後者に方向性を修正していくべきであるという変容の流れを、受け入れ難く感じてしまいます。私の考え方が凝り固まっているからなのかもしれませんが。
前者の物語が前者の物語として完結していて、リメイクなどで後者バージョンの物語が展開されるなら、単純に「リメイク後もいいけど、私はリメイク前の作品が好き!」で済むんですが。難しいですね。
>ジェンダーだけじゃない
私もそう思います。たまたま私の周りでジェンダーに関する話題が活発だったので、ジェンダー観に関する理由を元に表現やストーリーを変えてほしいという声が多く見られただけで、どこにでもある話だと思います。
切欠はジェンダーに関する話でしたが、それを元に「どんなに正しい思想であろうと、それを理由に創作物を現実のお手本のように整えていくことを、まるで創作物を正しく直してやっていることのように認識していて、本当に大丈夫なのか」と、少し立ち止まって考えてみたかったのです。
>正しいアップデート
必ず、全ての創作物を問答無用で正しくアップデートさせなければいけないのでしょうか。正しいアップデートであれば、創作物に現実世界の正しさという価値基準で手を入れてしまっていいのでしょうか。その必要が本当にあるのだとしても、その改変の先がどうなってしまうのか、私個人としは少し不安に思ってしまいます。
そうですね。批判も自由ですし、それを元に表現を変更するかどうかも自由ですが、表現を変更しなければ「現代の価値基準において正しくない、誤った作品」として評価され続けてしまうのは、なんだか勿体無いと感じてしまいます。創作物も商売の一つなので、売れるためには大多数の評価を取り入れないといけないのも理解はできるんですが……
私が好きな創作物も、「価値観が古い作品」「男尊女卑の作品」「誤った価値観を推奨している作品」というレッテルを貼られただけで終わっているので、そういった現実に照らし合わせた基準にとらわれない評価もなされたらいいなと願っています。
現代の人間にである私には充分魅力的な人物(ただし現実にいたら嫌な奴だと思いますが)に思えるのですが、現代の人間にとって魅力的な人物とは「現実の現代的な価値観において、現実にいたとしても魅力的に思える人」なのでしょうか。
フィクションでしか存在しえない魅力的な人物も、現実の正しい思想においては認められないからという理由で消されてしまうのでしょうか。創作物上でしか愛せないような登場人物が好きな人間としては、少し不安に思ってしまいます。
全くの杞憂かもしれない私個人の思いに対して、忌憚ないお話をいただけて大変助かりました。
自分の考えを一つの文章のみで齟齬なく伝えることの難しさも痛感しましたが、これだけ沢山の方に多角的なご意見をいただく貴重な機会となりましたこと、重ねて感謝申し上げます。
ちなみにこの件で増田投下は初だよぉ。他の増田諸氏とは違うから(目の裏原っぱじゃなきゃ読んでで分かるぞ)、よろしくねぇ~
んじゃ、今日は表題通り、津田教授があの時感想をどう言えばセーフだったかを考えていきたいと思いまーす。
大学で教えている、少なくともアカデミックな権威であることを誇示しています。「?」がついてるから無効なんてぇ言い草は通りません。しかも、リンク先を見れば、教授であることはすぐわかる。
さらに本人の言では「匿名でやってたけどこっちに変えた」との供述があり(https://twitter.com/brighthelmer/status/1305058021031030785)、
https://twitter.com/brighthelmer/status/1304248768896921603
銀河英雄伝説のリメイク。3期以降も続くのかな。もしそうなら、男女役割分業の描き方は変更せざるをえない気がする。旧アニメのままだと、さすがに時代にそぐわない。作品として大変に面白いのは踏まえたうえで。…なんてことを書いたら炎上するかな。
まず注意したいのはこの時はまだ、3期情報が来てないんだよねぇ(後日3期発表有)。でもキリがついたから発表は間近そうでもある。
もしそうなら、男女役割分業の描き方は変更せざるをえない気がする。
「変更せざるを得ない気がする」。これ、主語は何なんですかね。気がしている主語は津田だけど、津田に思わせているナニモノか、即ち教授様より「大きな力」が示唆されているわけです。さらに「変更せざるを得ない」先は直近で割りに見えてる代物なんですな。
この「旧アニメ」が何のことなのか(OVAなのか、2期までのノイエなのか、津田の頭の中にだけある架空劇なのか不明)ですが、時代にそぐわないと断言。時代ですよ時代。つまり、国民ひいては世界の総意にそぐわない、そう断言するわけです。エビデンス?社会学にそんなものねぇよ!
これが個人の感想、なんですかねぇ。
ただの感想に見えるが、そんな簡単なものをわざわざ置く訳がないじゃないですか。ツイートを見たファンに「面白いものの続きがあるかどうかは、国民総意に背かないかどうかにかかってるんだぞ?」という念押しです。そうと思うならば、変えろ、さもなくば突撃隊を出してお前らを蹂躙する、お前らそれ守る価値あるよね、じゃあおとなしく城下の盟を結んで屈服しろよ?という言外の恫喝のためにわざわざここに置かれているといっていいでしょう。ここだけ取れば個人の感想ですが、全体を通した場合、意図のある発言で感想ではありません。
津田もかつて
https://twitter.com/brighthelmer/status/1169101430797389824
ヤクザに「月が明るい夜ばかりだとは思わないほうがいい」とか「お子さん可愛いですよね」と言われて、それは純粋に事実の表明であるから脅迫にあたらないと考える人が世の中には多いのだろうか。言葉の意味は文脈によって強く左右される。
ま、ヤクザじゃなくたって、「月夜ばかりじゃない」っつったら、普通恫喝ですけどね。お子さん可愛いも見知らぬ人間が何の文脈もなく言ったら、害意の告知でしょうよ。
で、津田は銀英伝に「可愛い子だねぇ」と言って納得できるほどの仲だったんでしょうか?検索すると
あれれ?一っ言とも触れてませんねぇ?
つまりは、おしめを変えて飯を食わせ好みも嫌いもよっく知ってる知り合いの小父さんが言った「可愛いねぇ」ではなく、通りすがりのおっさんがニソニソしながら言う「あの子、可愛いねぇ。さらわれないか心配だねぇ(ニチャァ」なんですわ。これ、文字通りの可愛い=「面白い」ですか?
…なんてことを書いたら炎上するかな。
これがまた小狡いから、燃料を投下してるわけ。しかも炎上する主体がどっちだか書いてないよね?ノイエが燃えてもこの予言は実現される。上手いなぁw
これこそチェーホフの銃で、ここに炎上と書くことによって、炎上を起こす意思があることが明確なのです。ただの感想を素人さんが言う時にわざわざこんなこと書かないよね?
つまりこいつは、燃えるか燃やされるか、完全な決闘モード宣言ですよ。勝った気になってますけど。別してパブリックエネミー「社会学者?」を名乗る以上はねぇ。放火の意図は、津田をファシストにしたい意図より明瞭にダダ洩れなのであります。
承認欲求もあろうから相互フォローと同アイコン使用までは認めます。さらに言えば、いっちょ噛みでないことを示すためにせめて何を視聴してるのか常々感想垢に一言書けば「ああ、初回から見てるな」というのが分かります。
さらに、時代とか大仰な主語を持ってくるようなことは止めましょう。お前の感想はお前の脳からしか出てなくて、それはお前ひとりの意見です。
そうすると、まあこんな感じすかね
銀河英雄伝説の新作。3期以降もあるといいな。
もしそうなら、僕としては男女役割分業の描き方は変えてほしい。2期のままだと、ヤンとフレデリカとかちょっと違和感があった。面白かったんだけどそこだけ残念。3期が早く見たい最終回だった
社会学者の津田氏による「リメイクが続くとしたら、男女役割分業の描き方は変更せざるをえない気がする。」というツイートを批判していたが、作者の田中芳樹先生も同意見であった事が分かり、梯子を外されてしまった批判側。
一方津田氏は9月13日、「今回の騒ぎで「作り手が無理に変更を強いられた」というような印象を一部のファンのあいだで作り出すのであれば、それは非常によろしくなかったし、謝罪したいと思う。」と謝意を示した。
興味深いのは津田氏が示した「同じ変更をするにしても「外から押し付けられた」か、「制作者が自発的に取り込んだ」かでその意味合いは全く変わってくる」という見解だ。
これは田中芳樹先生の意見が判明した後、批判側が食い下がっていた際の意見にかなり近い。田中芳樹先生やアニメ製作スタッフが自分の意志で変えるのと、外部が変えさせるのは違う、という事だ。
これにより「田中芳樹先生も津田氏と同じ意見じゃんw梯子外されてやんのw」と喜んでいた津田氏擁護側も津田氏本人により梯子を外された形になる。
津田氏の謝罪文は理知的に状況をとらえて振り返り、分析しているのでどちらの陣営も読んでみる価値があると思う。
例えば彼の発言について、「ネット上のただの発言を重く捉えすぎ」「影響力を大袈裟に考えすぎ」といった意見があったが、
彼は謝罪文で「ネット言論がある種のプレッシャーとして機能してしまう部分はある。「ネットで炎上してるけど、気にしなきゃ平気」というのはなかなか難しいのではないか(体験済み)」と今回の自身の体験を含めてネット言論の無視できなさ、プレッシャーを振り返っている。
制作者の自発性を尊重しようという態度はなるほどと思わされた。
彼の発言を以って「これだから社会学者は」といったリアクションが見られたが、今回の彼の謝罪文を見れば、むしろ社会学者を見直す者も出てくるのではないだろうか。
追記:
リンクを貼ってくれとコメントがあったが、ツイッターのリンクを直接貼っていいか分からなかったので(ツイッターの引用って面倒臭い規約があった気がしたが、記憶違いかもしれない)ツイートへのブクマのリンクを貼っておく。ここから辿ってくれ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/brighthelmer/status/1305033407043231748
また、誤解がありそうなので追記しておくが、私は津田氏の当初の発言が「田中芳樹先生に対して修正を求めた」ものとは解釈していないし、その解釈は津田氏批判側の中でもマイナーだと思っている。
修正を求めているとしても明らかに対象は「リメイク(アニメ)」でありその製作スタッフだ。
そして彼の謝罪文は、そのアニメ製作スタッフに対して自分の発言が「「作り手が無理に変更を強いられた」というような印象を一部のファンのあいだで作り出すのであれば、それは非常によろしくなかった」という趣旨である。(加えて、その影響について「ネット言論がある種のプレッシャーとして機能してしまう部分はある」と影響力を軽く見ない事を宣言している)
一度作ったものではなくこれから作られるリメイクに対しても、「変更」は発生し得るし、その変更の受け止められ方に対する懸念と反省なのである。