はてなキーワード: コモディティ化とは
http://anond.hatelabo.jp/20141022235641
上記についてもう少し考えた。
エントリ群がそろってコモディティ化しているこの状況は、バイラルメディアのそれではないかと。
しかも個人エディタによる収集/選択を行わずに多数のブクマカーによって自動的に生成される。
前のエントリではどちらかというと個人ブログを対象に考えていたけど、もう少しマクロな視点で考えると、アフィ,まとめ,キュレーション,バイラルなど、個人/組織を問わずコモディティ化したエントリを多数吸い込んでいる。
エントリ群は自動生成されるとはいえ、共通の意図をもったブクマカーがある程度いるか、あるいは複数アカウントがあれば、意図的にエントリをbuzzらせることが可能なので、ネタ/エントリの面白さは重要ではない。結果、ネタ/エントリはコモディティ化する。
さらに、そうしたエントリのアクセス数を向上させるには炎上要素を加えるのが簡単なので、読む人に嫌悪を与える要素が加えられる。
正しい要素を加えることは難しい。調べたり考えたりする必要があるからだ。内容によっては専門的な知識も必要だろう。
嫌悪を与えるのはセンスが無いとできないが、多少のセンスがあれば調べたりする手間がなくて簡単だろう。
こうした環境によって出来たのが今のはてぶではないかと。
・料理
・育児
・食べ物屋紹介
・英語教材紹介
・はてな村論
この手のネタってホッテントリしやすいから毎日のようにはてぶで見かけるけど、エントリ作るために手垢のついた話を繰り返す人や、誰でも知りえる話に終始しているエントリが多くてコモディティ化してる。書いてるほうもわかっててやってるんだろうけど、そういったエントリが増えたせいで面白いものまで埋もれてしまうのがいまのはてぶ。
タイトル見て「よくあるネタだけど、新しい要素があるかも。」と思ってクリックすると、「いつものヤツ」でガッカリすることが多い。ひどいと差別化をはかるために炎上要素を一つまみ追加してたりして。
つい数年前まで、おててつないで全員でゴールする徒競走、個性重視採用、ナンバーワンにならなくてもいい等の甘言が踊っていたような気がするが
社会の生産性の低下と景気悪化、コピーの横行と物量作戦によってオンリーワンは破綻した。
AKBはメンバーを揃えて各々の個性の幅を広げ、各メンバーが客をつかむことで人気と金を得る。と、思いがちだが、総選挙というイベントで全てのオンリーワンが否定される。
順位付けと金儲けをつなぎあわせたことでソーシャルでは格差が顕著化し、個性>順位の図式は覆ることはない。圧倒的に魅力的な個性は、順位の下位カテゴリに成り下がった。
説明する必要もないほどのコピーゲームの中で、イベントと称して順位付け+金儲けの定式が顔を出すことでキャラクターの個性は否定される。
順位=金が全てで、お前の大好きなキャラクターに見せかけた小さなデータは、ソーシャル上の話題で消費されるためにある。これを否定するにはソーシャルを否定しなければならない。
そうすれば、そのキャラクターは消滅するパラドクスを内包するため、プレイヤーには絶対に否定出来ない歪な存在だ。
・SNS
SNSとしての規模が大きくなればなるほど、ユーザーの個性は死ぬ。多数の同調圧力と罵詈雑言によって、個性は簡単に屈する。そんな炎上が今もどこかで起きている。
広がりつながることを目的としているSNSは、広げなくていいことを誰かに教える場として有用だ。
では使用しなければよいのではないか?しかし現実はそれを認めない。「同調しない者には死を」これはリアルに起こった複数の事件を的確に表している。
ソーシャル要素は人間ボーリング装置であり、地ならしだ。全世界を海抜ゼロメートル以下へコモディティ化しようとしている。堤防は各々のリテラシーと理性だが、ゆっくりと小さな穴が開き始めている。
ここから逃れるには、早々にコンテンツの価値基準を上げるか、金の価値を落とすしかない。
ソーシャルを賑わすだけに与えられる射幸心を捨て、己の中に確固たる判定基準を持て。その基準を培う経験と好奇心を求めろ。
オタクになれ。今のヘラヘラ笑ってコンテンツを食いつぶし、話題の奴隷である情けない人間ではない。論と経験と様々なコンテンツを受け止める度量を持つ人間になれ。
教養という言葉が死語になり、誰かの言葉が無いと自我を保てない人間が大勢いる。
それを良とせず、自分がオンリーワンであるという意識を、「アイデンティティ」を確立したいのであれば、1つ意識を変えて見るのも悪くないだろう
最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと-例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。
また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。
また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えている。そのように、私(のみているパースペクティブ)としてはそう思います。それがニートであり、そこからさらに抑制された状態で、いわゆる「無敵の人」なのだと考えています。
彼らは社会のハイコンテキストな空気に適応出来ず、社会の無言の圧力に抑制された存在なのだと思います。社会の倫理に虐げられた人間に今更、社会の倫理で説得しようとするのは無駄なことでしょう。しかしながら、刑罰という面において従順なのが不思議なのです。それは、おそらく、日本の教育、〜しなければならない(must be)が蔓延している結果なのでしょう
最近、永井均や中島義道に興味を持っています。私がその気になれば、すこしくらいなら直接話ができるくらいの距離にいます。
彼らになぜ興味を持っているかと言うと、恐らく彼らも、哲学という手法を用いて意味や価値、生、死について問いづづけた人だからでしょう
今、自分自身がどうしたらいいかわからないのです。社会的には休養して仕事をするという回答をえられるでしょうが、今の仕事は、マニュアル化しコンサルタントによる効率化によって、(世界的も含み)社会がコモディティ化されている。それを経営者はわかっているので、マスメディア的にも経済社会的にも、現在の若者をゆとり世代といい、多くの問題を最近の若者的な問題にすり替えて押し付けている。俺たちの時代もそうだったと昭和世代はいうのだけれど、無縁社会化、監視社会化、昭和的なあなあさの消失、失われた10年、年金問題等々、当時の社会とは違い成長や豊かさという大きな物語が失われたのに関わらずのに同じもの、いやそれ以上のものを求められている。
また、就職活動においてもビジネス化が進み、自分の世代もそうだったが、もはや、通過儀礼(イニシエーション)ともいえるものを乗り越えなければならない。しかも、この通過儀礼は文化人類学的な単純なものではなく、ホンネとタテマエが入り混じり、時にはそれが入れ替わる。欲望、または純粋な希望。そう言ったものが入り混じりそれを通過するにも。とてつもない精神的苦悩のあるものである。
その通過儀礼を通過したとしても、ビジネスモデルとしての使い捨て、いわゆるブラック企業が跋扈している。厳しい競争を勝ち抜いても、その後に、さらに厳しい社会へと放り込まれるのだ。
今の会社はグローバルな競争に向かわざるをえず、主要企業の行っていたビジネスモデルが一年たらずで崩れてしまう。
企業倒産による、失業、リストラ、些細なミスによる解雇、これらは社会においては自己責任であり、手を差し伸べるものでは無くなってしまった。
生活保護を受けるのは非国民のような扱いを受ける。そもそも生活保護を受けるのも役人によるしぶとい駆け引きに勝たなければならない。
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
障害を持つものも、内臓疾患であれば甘えと言われ、精神疾患も同じく。足がなくとも、同じ状況にある人間ががんばっているんだといい、目の前にいる人間の言葉を無視する。
たとえ儲けが出なくても、働かざるは食うべからずという圧力で仕事が作られる。
駅でお菓子を売っている障碍者たちは働かざるは食うべからずの精神で駆りだされ売っている。全く売れなくても「そうしなければならない」のだ。
彼らの中にはそういった欺瞞性に気付くものもいるが、どうすることもできない。運営してる福祉ですら、その欺瞞性を飲み込んでいかなければならない。
初めは人を救うという意志があったものの、欺瞞性や政治の結果、福祉の人として道を外れてしまい、いわゆる「腐った福祉」になってしまう
しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している
朝。そこには雀の気持ちいい鳴き声すら気づかない。
昨日の疲れが取れなかった苦しみだけが残る。
痴漢冤罪にならないことを恐れなければならない。
1点特化型は、そのスキルが必要とされている間は、重用されるけど、
これよく言われるが、実際はジェネラリスト(というかこれと言って何もできない)側の人が「そうであって欲しい」と強く願っているだけのことだよね。
そりゃ○○のウェッブフレームワーク一本で食っていきます!みたいなのはダメだろうけど、コンピュータサイエンスの基礎とか、
ファンダメンタルな数学スキルとかは取って代わられたりするようなもんじゃないし、応用範囲超広いし、コモディティにもならないからね。
これくらいが「当然」になれば、残業代ゼロでも文句はでないんじゃないの?
ちなみに、なんでこんなことができるかって理由の一つに、(B to B企業で一般消費者を相手にする「店」がないこともあるが)、
「安売り競争やコモディティ化した分野には手を出さず高付加価値なものだけを売る」ことで高い利益率を維持していることがあると思う。人手に余裕があるんだよね。
男子の話を聞いていると、小学校高学年の頃に学年で一番可愛い子を好きになって、
モテ力の格差が大きすぎて諦めて以来、一方的に熱烈に人を好きになることが無くなったという話が多い。
そして「頑張って口説こうと思うほど好きではないが、告白されたら付き合う女子ゾーン」が思っていたより広い。
話を聞くうちに「彼女候補のコモディティ化」というワードが頭に浮かんだ。
「告白されたら付き合う」と言う男子は、似たようなスペックのスマホが量販店に並んでいて選べなくなっている消費者に似た気持ちなんじゃないか。
「告白は男からするものみたいなジェンダー風潮うぜえ、女から告白してくれよ」という要求は、
みんな似たように見えて選べないから差別化戦略をとってくれ、というお客様精神なんじゃないか。
似たような女の子が大量に並んでいるなかで目を引くのは「学年で一番可愛い子」か「自分のことを好きと言ってくる子」の二種類になる。
そんなことを思いました。
池田氏はまだブログ論を述べたり、はてな村がどうとか言ってるが、私はそういう記事には興味が無い。
むしろそういった話題ではない、上に挙げた2つのエントリのようなものにとても魅力を感じる。
これらの記事は全く「かっこつけていない」。何かが氏の中で吹っ切れたのだろうか。ナルシズムが見えない。
モヤモヤグネグネしていながらそれでいて切り良く終わる自己省察。
大胆に開示される彼の心と、大胆に使われる言葉(他者を理解する気も無いし、他者に期待しない。全部の努力を他者にアウトソースしていきたい。等々・・・)。
サッパリした(正直になった)村上春樹、もしくは、すねた松本人志、とでも表現したらいいのだろうか。
格段に文章に魅力が生まれている。
こういった文章や、こういったブロガーこそ、私が求めているものであり、間違ってもミーアキャットのような人物は求めてはいない。
★家の近くの図書館で、何万冊蔵書があるのか調べてみたが、9万冊もあった。
いわゆる中央図書館でなく、ブランチの図書館なのに、9万冊もある。
1日1冊のハイペースで読書しても、全部読破するのに247年掛かる計算。
自分も247年も生きる自信もないので(せいぜい40年?)、
全蔵書の読破は断念せざるを得ない。
逆に言うと、今図書館に並んでいる本の中で、生きている間に読破できるのは
★因みに、日本国内の年間出版点数は6万点とも9万点とも言われている。
いわゆる「書評家」というのは、200点/日を全部読破しているとも思えないが、
いくら速続が出来ても、1日に5冊も読破できるとは思えないのだが、
書評家の「第一次選考」から外されてしまって、読んですらもらえなかった
残りの195冊/日は、そのまま日の目を見ることなく、国会図書館で死蔵されるのか?
(因みに、献本制度もザル制度なので、献本されてないケースも結構多い)
★自分が子供の頃の出版点数って、せいぜい2万冊/年程度だったんだな。
今はその頃の3~4倍のハイペースで、出版点数が積みあがっているんだな。
当時(70年代)の図書館とかなら、「そこにある蔵書を、一生掛けて読破する」ことも
可能な程度の蔵書量だったのか?
★現代が、40年前の3~4倍のハイペースで出版されている、というのは、
ある意味で、我々の文化文明が成長した証、ということだと思う。
現在の大卒者人口は、当時(70年代)の大卒者人口の3~4倍はあるだろうから、
その分が年間出版点数の増大に繋がったと思う。
(見方を変えれば、大卒者がインフレ化した、コモディティ化したともいえる)
あと、70年代だと、有閑知識人が少なかったが、現代だと有閑知識人が増えて、
本を書く時間的余裕が増えた、というのもある。
団塊の世代がリタイアのタイミングだし、現役世代だって、週休2日制のおかげで
「週末に本を書ける」環境になってきた。
ちきりんがベンチャーでつくって言ってる技術力がたいしたものではない(コモディティ化されている)のはその通りだと思うけど、
大企業に入れば専門的な研究開発ができる、みたいな言い方もミスリードじゃないの。
大企業でもそういう部署は一握りでしかないし、カネになりにくいからこのご時世どんどん縮小していってる。
大企業にいる大部分の人たちに関しては、ちきりんの言うように、糞みたいなエクセルこね回ししかやってないのは悲しいかな事実だよ。
初アノニマス、ども
やれ最近は、
伝える技術、であったり
ナンパ術、であったり
文章のルール、であったり
一端の社会人であるためには、一端のライティング技術が求められています。
伝わり易い文章を書くことが出来ます。
それは、
歌詞を書くように、文書を書くことです。
リズムを意識して、歯切れの良い文章を書くようにしてください。
一文を短く。
適度に句読点を打つ。
歌うように。
主語述語を探さなければ行けない文章を書くことは極めて読みにくく、
私たちは学校教育で作者の気持ちを考察することを第一と教化されてきていることから、
ぜひともコモディティ化したジャパニーズカスタムからブレイクスルーしカタルシスに酔って欲しい。
奈良時代までに発明された和歌は、日本語を美しく表現する最上の方法です。
私たちは、気付かないうちに日本語のリズムに影響を受けているようです。
ここまでの文章は、一部を除き、5・7・5のリズムでつくられています。
嘘です。
ぜひ詩を歌うように言葉を紡いでみてください。
以上です。
全部嘘です。
事業環境は厳しいです。ドル箱だったiモードの栄華も今は昔、「ただの土管になりたくない」という強い意志も、いまや具体的戦略のないただの願望になってしまいました。通信インフラはコモディティ化していて他キャリアとの差別化はできなくなったどころか、LTEのカバレッジでは最も出遅れている始末。他キャリアへの流出が止まらなくなり、キャンペーンの甲斐なく何度も純減を繰り返しています。もはや減収減益の構造が定着しつつあるといっていいでしょう。
そこでiPhone導入が取り沙汰されるわけです。
確かに、まだiPhone人気が十分に高い日本では、短期的にはiPhone販売がMNP流出防止&純減ストップの切り札になることはわかっています。それでもiPhone販売に踏み切れない一番の理由は、これまで株主総会でも日経記事でも繰り返し観測気球を出してきたとおり、Appleが課す高い販売シェアノルマ---一説には50%---がドコモの負担になると予測されるからです。
でも、「販売ノルマ率を切り下げてくれればウチも採用しますから、そこは何とかお願いしますよ」というドコモからの数年越しのメッセージに、Appleは反応しませんでした。確かに中国・インド・アフリカといった途上国の巨大市場に比べれば、ドコモはたかだか6000万契約の極東のいちメガキャリアでしかありません。最後発のドコモに対して契約条件を緩和したら、当然ソフトバンクやauも最恵国待遇を要求するでしょう。Appleからすれば、各社に販売ノルマを緩和したらトータルではツーペイになってしまうし、利益率を緩和したら、まだiPhoneが高い競争力を持っている地域の市場を自らスポイルすることになってしまいます。Appleがドコモに妥協してやる意味は今のところないのです。
だから、ドコモにはもう後がなくなってしまいました。とにかくiPhoneの販売ノルマをクリアできる体制を整え、iPhone販売契約に踏み切るのが喫緊の課題です。そのためはどうすればいいか? iPhoneを豊富な選択肢のなかのワンオブゼムにしてはだめですよね。実際に数を捌かなければ、Appleが課すペナルティで今度は営業利益率がガタ落ちしますから。となれば、今は1シーズンに10機種も出しているAndroidスマートフォンの投入ラインナップをせいぜい3〜4機種程度に絞り、それらとは別格の位置づけでiPhoneを売りまくらなければいけなくなります(ソフトバンクやKDDIは実際そうしています)。「業績回復のためにやれるべきことは全部やっている」と株主に説明するためのステップとして、これはもう必須の条件でしょう。
さて、では実際にラインナップのどこを整理して、誰にiPhoneを売ってゆくのか。ドコモの既存ユーザーのうち、特に重視すべき移行見込層は、1)フィーチャーフォンのユーザーと、2)Androidに乗り替えたものの、その機能や操作性に不満があるユーザー…ということになるでしょう。1)はかつてブランドだった「ドコモのN」や「ドコモのP」などを長年ご愛顧戴いてきた層。2)は、Android機種のなかでも差別化に失敗しているコモディティ的端末、すなわち、N・P・F・SHのユーザー。これらのユーザーを「わかりやすいですよ」「使いやすいですよ」とiPhoneに誘導してゆくためには、これらのセカンドラインのメーカーが作るスマートフォンは、むしろ、選択肢から消えていてくれたほうがいいですよね。
こうして事前にキャリア内の浮遊層を作っておき、適切なタイミングでiPhone移行キャンペーンを投下すれば、そこは衰えたりとはいえ国内最大の契約者数を誇るキャリアのドコモですから、その数字的なインパクトはかなり大きいはずです。
だから今回話題になった「ツートップ戦略」は、巷間言われているように、スター機種のXperiaとGalaxyを重点的に売り込むための、攻めの施策というだけではありません。それは、来たるべきiPhone時代を見据え、長年ドコモと蜜月関係にあったメーカーたちと縁切りすることを意図した、非情な身辺整理の作業でもあります。今般報道されているNECカシオやパナソニックモバイルのスマートフォン撤退は、ドコモの販売奨励戦略の「失敗」ではなく、はじめからの狙い通りの「成功」だったというわけです。
ネット世界では投資家、ゲーム開発者、ラノベ作家、企業探偵、ベルロックメディアシニアマネージャーなどの華麗な経歴で知られる山本一郎さんという人に拙文へのリンク貼っていただけたようで、恐縮至極、汗顔の至りです。
【悲報】ドコモ関連で「いかにも」な与太記事が増田に掲載され局地的に話題に(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース
はい、もし上の文章からそんな経緯を想像する人がいたら、企業経営には向いていないでしょうね。山本一郎さんがドコモの経営陣だったとしても、当然、Appleと今期以降のiPhone販売契約について話の筋道をつけてからの「ツートップ戦略」で年末大水計に打って出るのではないでしょうか? 見込みベースで話を進めて裏目に出たら、ツートップ転じてオンリーツー状態になってしまいますのでね。もしここまでの話がすべて机上の空論なら、それはすなわち、「ドコモは次の機種サイクルから事実上ソニーとサムスンだけでスマートフォン市場を闘い続けることを選んだ」という話になるわけです。
しかし、本邦のモバイル業界のフラッグキャリア格ともいえるドコモが、たった2メーカー×1〜2機種の最新スマートフォン・ラインナップで次の秋冬商戦に挑むなんてことがあるでしょうか? この会社は今年に入ってからの一連の動きのなかで、どんなコストを払い、何を仕込んでいるのでしょうか? 山本さんが並べているリンクの数々も、ツートップ戦略が「単体では」純増の切り札として奏効しなかったことを示していますが、それは本当は「切り札」ではなく、さらなる戦略転換のためのひとつの手段だったのではないでしょうか? 予定では2013年中に市場投入され、サムスンとの密な提携関係ならびにモバイルOSの第三極戦略の礎となるはずだったTizen派筆頭の永田氏をいきなり傍流に追いやってしまったことには、果たしてどんな意味があるのでしょうか?
さまざまな状況証拠から考えて、今のドコモがその機種戦略・プラットフォーム戦略の中に、何か大きなパズルのピースがはまるための「スペース」を作っていることを全否定できる人はそういないのではないでしょうか。そして、その巨大な空白に当てはまる商品は、現状では1つしかありません。
もう、おわかりですね?
http://anond.hatelabo.jp/20130608135515
飲食店5年間での廃業率は9割を越えるようです。
お店の継続性について>
継続だけの観点で見ると、固定費と変動費が収入を上回らなければ大丈夫です。
初期投資額、日々の運営経費が大きければ、どれだけ売上ても継続しづらいです。
繁盛していない店なのに、潰れない店があるのは、別ルートの収入があるか、収入を多く得る必要がないからです。
お店に足を運ぶ理由>
多様な回答があると思うので、一部
自宅から遠い店は行きにくい。観光地の店は価格をそこまで気にしない。
事業を行う商圏内に競合が少なければ、なんとかなったりします(需要の方が多い)。
コモディティ化した製品は価格競争も大事ですが、商圏が重要だと思います。
・その他
追記:
TPPに参加するって事は、今後関税を掛けることも出来なくなるってことだからなあ。
俺は、もうちょっと関税強めて守ったほうがいいと思ってるんだよ。日本の家電は。このままだと詰む。
ガラパゴスにしないと、コモディティ化した商品開発には必要がないくらいの技術的優位しか今の日本にはないんだから。
もうちょっと価格競争が出来る体勢にしなきゃいかん。性能だけで物が売れる時代は終わった。
多分貴方も、農業について同じ事を言われれば納得すると思うんだけどな。
日本の農業の労働集約性は高いので有名だ。かなり効率が悪いということ。
今の低い自給率を達成するのにさえ、生産高でトヨタ程度の農業に人口の3%を投入している。
トヨタ自動車の連結での従業員数の7倍以上だね。
インターネットを常用するようになってからこっち、SNS(と言うかWebの流行みたいなもの)は、常に存在し続けてきたような気がする。日記サイト、2ch、mixi、blog、はてな、モバゲ、Twitter、Facebook、LINE、もっと以前からしたらばやあやしいわーるどパソコン通信でも何でもいい。とにかく何かしらアツいサービスは常に存在していたという皮膚感覚がある。
現在、LINEが新しいソーシャルかと言うと別にSkypeと変わらないじゃん、と言うのが正直な感想であり、特に何かが優れていたから流行ったとも思えない。みんなが使っているから、という理由(しかしそれは重要な理由だ)以外には。
電車でのスマホ使用者を見るに、大体、Facebook、LINE、Twitter、2chを見ている人が多い。次点でmixiだろうか。
全く個人的な印象として、2chは昔からあるのでこなれた感じがあるし、LINEは先に書いたとおり新味はない。Facebookはリア充ツールという揶揄もあるように「意識の高い」ツールに成り下がり、有益な人生を送っていることを主張する人たちが溢れウンザリさせられるばかり。Twitterはバカッターであり悪ふざけのバカを可視化するためのツールになった。はてブはメタぶった意識の高いヘイトスピーチが蔓延し新規参入ユーザーには敷居が高い。つまり、どのツールも、使うに値するインセンティヴが働いていないように思う。強いて言えば連絡を取るのにLINEが(実用上)便利、という程度。
用途に応じて使い分けるフェイズが訪れているとか、スマホ普及でネットがコモディティ化してマジョリティ層が大量に流入した事によってネットそのものが変質したからむしろ今の状態こそあるべき状態だとか、それなりに理由は付けられるけど、そういう事ではなくて、やはりその時その時に「このサービス使いたいなあ」とか「これ新しいな、使い方よく分からないけどスゲーな」と思わせるワクワク感を感じさせるサービスはあった訳で、今後そういうサービスって出てくるのかな?出てくるとしたらどんなものなのかな?と薄ボンヤリと考える今日この頃。出会い系的な要素(インセンティヴ)って観点もあると思うけど、それはTwitter、LINEあたりで補完されていそうなので、省略する。
昔はよかった、今のネットはつまらないというアーリーアダプター気取りの自意識過剰なアホの繰り言。別に誰もそんな風に感じていない。そうかもしれない。ならば、もっと簡潔に言うなら「私をアーリーアダプター気取りにさせてくれる新しいサービスないですか?」という事なんだろうと思う。