はてなキーワード: 納棺師とは
おじいちゃんが亡くなって、もうすぐ2年なので二重の意味で供養する
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更には、大金かけて入学させてもらった私立大を中退して実家に帰ってくる親不孝でもあった。
5歳下の弟は国立大へ入学後、大学院へ、卒業後は隣の県で、地元の有名企業に新卒採用された。
私はというと、実家から通える職場に何とか腰をすえて、朝から夜遅くまで働く毎日。
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絵に描いたような出来損ないの姉と優秀な弟だが、おじいちゃんとおばあちゃんからみれば、どちらもかわいい孫だったようで、平等にかわいがってもらっていた。
あと、他にも孫は5人ほどいて、同じ歳の従姉妹たちは20代で赤ちゃん生んで若いママとなり、従兄弟たちは実家の事業継いだり、東京で仕事したり、そんな感じ
親戚の集まりでも、叔父さんたちから、アネちゃんは…とりあえずいい人見つけて、早く赤ちゃん生まなきゃね…😅みたいに言われて、しんどかった。
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そんな鬱屈した30代を過ごす私のもとに、祖父の訃報が届いた。
深夜、両親は先に実家へ、私は夜が明けてから、会社に忌引の連絡と荷物をとりに行き、車で向かった。
夜のうちに看護師さんたちが、着替えさせてくれたそうで、いつものシャツにニットベストを身に付けたおじいちゃんが布団に横たわっていた。
すごく綺麗な姿をしていた。
おばあちゃん「これもう、目も口も閉じないのかね」
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伯父伯母たちは「もう死後硬直してるから無理でしょ」と諦め
葬儀屋さんは「半眼半口(はんがんはんぐ)といって仏様と同じ成仏の相で、ありがたいお顔なんですよ」とかなんとか、祖母をなだめてくれている。
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「じゃあ目と口閉じるね。ピンセット使うから、危ないから頭元から離れて見守っていてね」
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葬儀屋さんによって、故人の死化粧とか納棺師さんがいるところもあるんだろうけど、おじいちゃんの葬儀を依頼した葬儀屋さんにはいなかったようだ
専門の道具を持ってきた私をみる目が、完全に変わるのを感じた
私の勤め先は、隣町の老舗葬儀社で、何だかんだ8年ほど勤めている
親や親族が取り囲んで見つめる中、15分程でおじいちゃんのまぶたは閉じ、口元は含み綿で自然に閉じることができた
半目半口の考え方も、もちろん知っているが、喪主が閉じてほしいといってるのなら、私ならできるだけ善処する。
とりあえずおばあちゃんが喜んでくれたので、よかった。
どうやら私が葬儀社に勤めていることは、あんまり知られてなかったようだ。
…うちの親は、親戚間では基本弟の自慢で、私の話してないだろうからね。
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その後も、率先して納棺させてもらったり、式場の御供えの順番を、おばあちゃんの相談受けながら決めたりしてお通夜を迎えた。
直前に伯父さんから、遺族代表挨拶を考えてほしいと言われた時は、さすがに焦ったけど、それっぽい文面作って渡したら、大層感謝してもらえたよ。
そして、本当にそれをそのまま読み上げてて、内心、それでいいんかい、とツッコミを入れてしまった。
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翌日、伯父が今度は、告別式で7人の孫を代表して、誰か弔辞を読めと言い出した。
この時点でだいぶ嫌な予感はしていたが、まあ皆、人前で話したくないわ、文章考えたくないわで、押し付け合いになるに決まっている。
孫代表になったことを母に話すと「初孫でもないし、祖父といっしょに住んでたわけでもない、孫代表はあんたじゃないでしょ」と否定的。
そうは言っても他の孫たちはやりたがらないし、母にとっては、いらん恥かかされたらたまったもんじゃない心境だったんだろう。
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そんなこんなで、本番。
今まで、仕事でみてきた何百という葬儀の、いろんな感動的な弔辞や孫からの言葉を、いい感じに繋ぎ合わせて読んでいるだけだが、なかなかどうしてサマになっているらしい。
最後に、自分たち孫のことだけでなく、親族一同をあげるようなことを入れれば、完璧。
振り向いたとき、揶揄ではなくまじで式場にいる全員が泣いていた。
葬儀屋さんも泣いていた。
私はまるで、世界一おじいちゃん想いの孫で、傷心の中想いを込めて言葉を送った、そんな空気だった。
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葬儀後、会う人会う人とにかく褒められまくった。
あんなに素晴らしい弔辞きいたことない、こんなに素敵なお孫さんがいておばあちゃんは鼻が高い。
まあ、素直にうれしいよな。褒められたらさ。
否定的だった母も、周りの評価で手のひらクルっとなり、親から手放しでこんなに褒められたの初めてなんじゃないかレベルで褒められたよ。
なんだか、ありがたい経験だった。
弟からは「こういう時にしか輝けない仕事」と言われたが、この先「こういう時」が増えてくるんだから、大人しく、お葬式は姉に任せなさいね。
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3年前の夏、私は実家に帰った。お仏壇のある部屋には、認知症の祖母が寝たきりの状態でいた。
その以前から遅々として認知症の症状が進んでいたが、その頃には私と弟の区別がまるで付かない状態でいた。
「誰かね。(弟)かね」「(私)だよ」
あれほど大好きな祖母が、私の事が分からないのが不思議だった。
「そうかね。(私)はオートバイで死んだよ」「ふふふ、おばあちゃん、違うよ。(私)はまだ死んでないよ」
その時、ふと目が覚めたように、祖母は私に気付いたようだった。
「ああ、(私)かね。(私)はいつからそこにいたのかね」「さっきからずっとここにいたよ」「元気かね。今、何をしてるのかね」「東京で仕事をしているよ」「ああ、東京でなんてね。大変だ、大変だあ」
私は、一瞬だけ元に戻った祖母の声を聞いて、涙を流した。声色を正すのに、精一杯だった。その後、意識が混濁した祖母は、弟の名前を叫んでいた。認知症の人は、いくつかのパターンにかなり明確に分けられるという。祖母は、火やガスの心配をしきりにするパターンであった。
祖母が死んだのを知ったのは、ある日の金曜の22時前であった。数人で残業していた時に、突然、母親から電話がかかってきた。母は涙声で、祖母が死んだと言った。私は部長に、祖母が死んだので今日は帰らせてください、と言うと、全員が弾けたように帰り支度を始めた。駅までの帰り道、先輩と上司が、自分たちの身内が死んだときの話をしてくれた。私はふわふわとした気持で、それを聞いていた。アパートに付くと、軽い食事だけして、すぐに寝た。化けた祖母は、夢の中にも出てこなかった。
実家近くの斎場に着くと、親戚が集っていた。祖母の死に顔を拝むと、瞼は空き、顎は開いた状態であった。濁った眼球は乾き、辛く天井を向いていた。まるで恐怖で引き攣ったようだった。肝臓が止まった状態で、2週間も祖母は生きた。凄い執念であったか、薬の力であったかは分からない。苦しかったかも、案外楽であったかも分からない。生きるのも死ぬのも勝手に選べなかったのは事実だと思う。
私は祖母の横で、父と一晩を過ごした。守りの番である。
会社のパソコンを持ってきたので、祖母がいる横の部屋で仕事をしていた。それが終わると、祖母の横たわる姿を眺めていた。夜の2時を過ぎたころ、ようやく眠れた。怖いとか、悲しいとか、そういう気分ではなかった。夜が長いことが辛かった。
親戚一同は、ふすまで区切られた横の部屋で待機していた。2、30分もしたころ納棺師の方に呼ばれると、祖母は見違える状態で眠っていた。見開かれた瞼はすっかり閉じられ、顎はしっかりと閉じていた。口に綿を詰めて頂いたらしく、化粧もあって、何歳も若返ったように、生き返ったようだった。
「お母さん、お化粧されたのね」
鬼の様の怖かった叔母が泣いていた。みんな喜んでいた。あの顔で焼かれちゃっじゃ困るな、と叔父が笑っていた。
私は祖母が、本当は生きているのではないかと思い始めた。
「あら、いつからそこにいたの。すっかり寝ちゃってたよ」
そう言いながら、起きるんじゃないかなあと思っていた。そうしたら、目が乾いてるから痛そうだし、すぐにお医者さんを呼ばなければと考えていた。
葬式が終わり、焼却所に行くことになった。たくさん人がいた。毎日、たくさん人が死んでいるのだなと思った。
祖母が、大きなオーブンに入ることになった。お坊さんがお経をあげながら、それに従い我々も手を合わせていた。葬儀場のコーディネータの人曰く、焼却所までお坊さんが来てくださるのは珍しいらしい。確かに、最後の最後までよくして頂けた素晴しい方だった。
私は、祖母が焼かれるのを少し待って欲しかった。本当は死んでいないのではと思っていたからだ。
まるで病院の待ち合いのような LED ランプの番号が光ると、我々はぞろぞろとオーブンの前に並んだ。
これが(祖母)様の喉仏のお骨です、こうして見ると仏様の形をしているようですから、喉仏と言われます、と説明してくださる方がいた。祖母の骨は、お棺の中に入っていた何かとくっついたかして、青い色が移っていたのがあった。
斎場に戻ると初七日を行い、御飯を食べた。豪華でとても美味しかったが、焼却所で軽く食べたおいなりさんのせいで、あまり食べられなかった。その後、実家に帰り、支度をすると、すぐに東京のアパートに戻った。その次の日から、また残業の毎日であった。
先日、一周忌があった。祖母の住んでいた離れが綺麗に掃除され、そこで親戚が集まり御飯を食べた。
私は親戚が自分の家で揃って、一緒に御飯を食べるのが好きだった。子供の頃は、それがお祭りみたいで楽しかった。それがこういう形で集まるのが寂しかった。ただ、祖母もこういう集りが好きだったから、喜んでくれたのかなと思う。
アカデミー外国映画賞を受賞したおくりびと、映画内で登場する職業が納棺師であります。簡単に仕事内容を説明すると、遺体をきれいにして棺に収納し清める仕事。俗にいう「遺体に触れるサービス」ですね。この納棺師という仕事、実は葬儀屋の下請けで嫌な仕事をアウトソースされているにすぎないのです。
で、問題はこの葬儀屋、利益率は5割ともいわれ、ぼろ儲けの商売だそうだ。(今はだいぶ緩和されているが) 主な葬儀ビジネスの裏側といえば固定客の獲得。人が死ぬ場所は基本的には病院で、事故をすれば警察、その処理を葬儀屋がキックバックを払い固定客を獲得しているのです。
それから、葬儀ビジネスで欠かせないのは坊主の存在、今では仕事も減り、御布施の金額も減少しているという貧乏坊主。私の葬式のときにも顕著に営業トークしていて若干ひいた記憶があります。昨今では、そんな貧困坊主は葬儀社にキックバックを支払い仕事をもらってるという。
一般の人にはまだまだブラックボックスの多い葬儀ビジネスの世界だが、一番驚いたのがエンバーミングという遺体保存方法だ。遺体というのは、死んでから 2,3日で腐敗が始まり肌も土色になり無様な状態になります。それを遅らせる既存のやり方は、顔や体にドライアイスを横に置きクーラーのきいた部屋で腐敗を遅らしている。そして、死化粧で塗りたくる。これがメジャーな方法なのですが、エンバーミングとは、遺体の血液を抜き取り、その代わりにホルマリンを多く含む固体液を入れ保存する方法だ。
エンバーミングをすることで、何週間も生前の状態に保たれ感染症の予防にもなる。海外ではメジャーなやり方で、他国で戦死したときなど一般に使用され、綺麗に保蔵された状態で帰国させ遺族に渡す。エンバーミングをしないと腐敗した遺体を渡すことになるので、遺族の溜飲を下げる役割も果たしているのだろう。
では、なぜこんな良い方法が日本ではあまり聞かないのだろうか。それはというと、エンバーミングをするには、機械の初期費用と、エンバーマーという技術者の費用が高額になるがゆえに、日本ではまだまだ広まっていないのが現状だろう。遺族側も料金が高くなるので微妙かもしれない。しかも、葬儀側からすれば、ドライアイスというぼろ儲けアイテムが失われるので、それが嫌で導入していないとも言われている。ドライアイスのからくりや、葬儀屋の儲けどころなどは