はてなキーワード: 迫害とは
歴史は大の苦手で全然勉強しなかったんだけど、大人になって海外に行く機会が増えたのを機にちょっとずつ日本&世界史を学びなおすようにしている。
そんな中「北海道がcolonizationを経ていかに日本の一部となったか」という記事(英語)をredditで見つけて「???」となった。
植民地っていうとイギリス-インド、スペイン-メキシコのように、ある国が遠隔地を支配するっていうイメージ。
日本と北海道の関係は隣り合った民族同士が戦った結果、アイヌ民族が負け日本に吸収されて一つの国になった→それってだいたいどこの国でも、国が生まれ発展する中で起こることじゃないの??ある国が異民族を打ち負かして吸収し、大きな一つの国になるという過程は「植民地化」なの?
と思いつつ、記事中でされているアメリカとの比較だとたしかに共通点がある(交易目的で流入してきた移住者と原住民が交易を通してお互いに頼りあっていたが、徐々に移住者が原住民を圧迫・迫害)。
元記事 (The Colonization of Hokkaido: How a "Foreign" Frontier Became Japan):
さらに自分なりに北海道の歴史について調べてみたんだけど、日本語だと「植民」という表記は見つからなかった反面、英語だと意外とcolonizationとして言及されてる(以下、和訳はざっくり)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ainu_people
「Meiji Restoration and Later」セクション
「(明治政府時代)当初は拓殖 (colonization) と呼ばれていたが、のちに開拓 (opening up or reclamation of Ainu lands) と言い直されるようになった(While at the time, the process was openly referred to as colonization ("takushoku" 拓殖), the notion was later reframed by Japanese elites to the currently common usage "kaitaku" (開拓), which instead conveys a sense of opening up or reclamation of the Ainu lands)」
https://en.wikipedia.org/wiki/Colonization
「Modern "Colonial Era" colonialism」セクション
「19世紀初頭に大日本帝国が北海道への植民地化を行った(Beginning in the late 19th century, Imperial Japan also engaged in settler colonization, most notably in Hokkaido and Korea)」と言及あり
特に拓殖→開拓の言いかえの歴史をみると、たしかに北海道の日本への組み込みは「colonization」と言えるのかなという気もしてきてるんだけど、歴史に詳しい皆の意見を聞きたい。
"そこそこ話題になった作品"を切る能力より、"ネット的なバズ要素がなくて埋もれがちだが良い作品"を確実に拾い上げる能力が欲しい。
が、それには数段上のオタク力を求められる。自分はその域にないから不確実だし、ネットの集合知も痒いところに手が届かないと感じている。
# 先期でいうと個人的には色づく世界の明日からがその枠だったかな。
# 多分制作会社とかの属性で予め注目してた人しか出会いづらそうな作品だった。
こき下ろすのは簡単だし、そういう記事はバズ力さえあれど情報としての価値はほぼゼロだ(単なるNot for meだし)。
一方、面白さを臆面なく語れる熱量ある文章が書ける人はなかなか居ない。
そういう文章に出会うと、自分の守備範囲外と思われた作品でも観る気になって興味を広げてもらえる。
# 先期でいうとSSSS.GRIDMANがまさにそれで、ネットのおかげで出会えた作品だった。
まあアニメを観ること自体が、その作者の展開する世界観を受け入れて趣味を広げてもらう行為ではあるのだけど。
そう思うと、「アレ切ったコレ切った」という話が盛り上がるのはなんだか心の毒だなという感じがする。
かくいう自分も青ブタは作品名とキャラデザに第六感を働かせてパスしたクチなんだけど、SF的に面白いという話はネットのみならず友人からも伝え聞いていたのでいつか見たいという気持ちはあった。
でも他人の評価がどうあれ、自分が直感で一旦パスして機会を逸したものを見るのって相当難しいんだよね。すごく意志力がいる。へたに評価が高いと余計にいる。
今期見てるのが少ないという好機ですら、"見ようと思ってた過去のアニメ"よりも目の前のスマホゲームやVtuberなんかを優先してしまう。
だから色々理由つけて「切った」ってことにしちゃうのが人間の心の弱さなのかもね。
0話切りとなるとまさにそんな感じで。実際数話見て「合わないな」ってなるのなら普通のことだけどね。
まあその場合も言いふらしてアピールすることではないと思うけども。
誰かに対するエクスキューズという訳でもなく好みマウントとしての「切った」アピールは業が深いよね。
自分の好みを知ってほしいクセして、どんどん興味も理解者も狭めていこうとする矛盾。
オタクになるほどそういうひねくれた性質を獲得していってしまう人とそうでない人の違いはなんだろね。
オタク趣味な自分を受容できなくて、迫害が怖くて、自分の好み自体を権威づけして強くみせなきゃという強迫観念。
あるいはその箔付け思考は単なるヤンキー気質と同じもの。とか言ってみるとそれっぽいのかな。
どうせなら博識で人柄も良い、堂に入った、素直なオタクになりたいよね。
全話見てない人に説明してもな
メイン視聴者に夢と希望与えるアニメだから、みんな幸せでいいの
そういうのは要らないんだよ
そもそも、敵幹部たちも自分たちの時間線に戻ってどうなったかは不明だし、あちらの未来の時間線がどうなったかも不明。挙げ句にこちらの未来もこの後どうなるか不明
もしかすると歴史の修正力で結局主人公は迫害され、ラスボスは絶望するかも知れないし
そういうのも要らないんだよ。子供向けだし
ワクチン接種をよいことだと教え込む、学校やマスコミが登場したのは、日本でいえば明治時代以降に可能になったこと。それをしているのは、すばらしい人たちではなく、そうすることで支配者として君臨しようとしている人たち。現実は、現代社会そのものが一種の宗教なようなもので、それに気づいても信者たちに迫害を受けることになる。
ワクチン接種をよいことだと教え込む、学校やマスコミが登場したのは、日本でいえば明治時代以降に可能になったこと。それをしているのは、すばらしい人たちではなく、そうすることで支配者として君臨しようとしている人たち。現実は、現代社会そのものが一種の宗教なようなもので、それに気づいても信者たちに迫害を受けることになる。
https://forbesjapan.com/articles/detail/25073
あまり言うと反感を招きそうなのですが、国の色んな統計データ等を見る限りだと、エンタメ業界で国外と繋がっているのはオタクカルチャーだけです。
実写邦画もバラエティもドキュメンタリーもぜんぜん売れていません。放送コンテンツの売上高の海外売上比率で2017年は77%がアニメでした。ドラマとバラエティがそれぞれ10%でドキュメンタリーは2%位だったと思います。しかもドラマは特撮が込みの数値です。
こんまりメソッドが話題になりましたがgoogleでトレンドを調べると"konmari"より"Dragon Ball"の方が検索数がはるかに多いです。今ドラゴンボールの映画が海外で上映しているからです。既に全世界興行収入が日本円相当で約95億円に到達しており2018年公開邦画としては1番になります。これはコードブルーより上です。しかもまだ数値が伸びます。
これが「日本に対して、日本人がかっこいいと思うことと海外の人がかっこいいと思うことが違う」の理由です。
オタクカルチャーはその産業規模的にも文化的にも常にマイノリティーとしての抑圧を受けざるを得ない立場にありました。様々な作品でもそういった要素が表出しています。悟空はサイヤ人の移民だし、ナルトは人柱として迫害されていました。今アメリカでプチHITしているヒーローアカデミアの主人公は無能力者のマイノリティでした。そういう要素に引かれてアニメに嵌った黒人やヒスパニックの方が大勢います。自分と重ねあわせていたんですね。また、日本のアニメ製作側も昔からアフロアメリカンカルチャーを積極的に引用し答えてきました。こんど実写ドラマ化されるカウボーイビバップやNujabesと呼ばれるアーティスト参加したサムライチャンプルーはその典型です。
でも日本でも海外でもあくまでマイノリティのサブカルチャーに過ぎません。ゲームもアニメも漫画も。私にはそのギャップを果たして日本人に克服できるのか疑問に思います。彼らはweeb(日本かぶれ)と呼ばれて馬鹿にされることすらあります。そういうコミュニティの複雑な事情を理解することができるんでしょうか。
BLではないですが、好きな作品のファンアート(二次創作)も描きます。
友人には腐女子の方も、そうでない女オタクの方も居ます。腐男子も男オタクも居ます。どちらの性別にも属さない方も。即売会にもほそぼそとスペース参加しております。
今回において「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~(COMIC維新りあら)」という漫画作品に脅迫的な批判をするつもりはありません。法律や条例に抵触するかどうかを語りはしません。ただ少し倫理的に問うことは一つ二つあります。
また、各配信サイトで無料試し読みで設定された話数が、出版責任者が「つかみ」と判断した範囲とみなし、その中で感じた所感だけにとどめることを事前に断っておきます。
匿名の場所にこうして文書を上げるのも、私自身の「顔」や「作品」や交友関係などのプライベートを見たがる人達に対する、防衛だと了承していただければ幸いです。いかなる名品名作であっても、つつけば必ず「粗」が見つかり賛否がわかれる物だと私は考えております。私は自分の作品を愛していますが、悪意をいちいち気にしてしまう繊細さも自覚しておりますし、大事な友人達に迷惑はかけられません。
なのでこの文書は、ある漫画書きの、ごく個人的な感想として見て頂ければと思います。
誰にでもわかるようにと書いた結果長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。
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同時に読者は面白くないと思ったものを面白くない、酷いと思えるものを酷い、ノットフォーミー(自分向けではない)な作品はそうだと言える自由も有ってほしいと思います。彼らの感想もまた創造性を持つ表現行為だからです。
そして作品が流行することによって起こる「意見の封殺」と文化の断絶は、人々の自由に害を与え、文化を停滞させるものであるため、避けるべきだと思っています。
この文章は、それが起こってほしくないがために出す私の意見なのです。
以下の諸々の前提について、あなたが再確認する必要がないと思ったなら3.まで飛ばしてください。
今やWEBでの作品公開は、電子化された過去の名作や現代の人気作と同じ土俵で戦うことになるため、無料公開しても「時間と電池がもったいない」と思われては不利です。戦略的に失敗に陥りやすいです。時事ネタについても個人の公開速度には叶いません。
ただただ露悪的な本はただただ露悪的で、熱心ではない、無駄なお金を出したくないライト層だけに消費されて消えていきます。私自身がそれを好んで読み、染まっていた時期が長らくあったために、それらの寿命が如何に短いのかをよく知っております。
外側に居ても内側に居ても不明瞭です。
その文化の多様さや精神性、変容の歴史を、長く迫害を受け分化してきた巨大宗教のようなものだと今の私は捉えております。
そうした点と、物語を見る目が肥えていることも含めて、漫画で描くには「気を付けるべき題材」であると考えています。
今回の作品「腐女子カースト」にはエッセイというジャンルが振り当てられています。
もしも仮にあなたが「作品ジャンルが実録エッセイなら、ヤマ・オチ・意味のない物語でも成立するのだ」と考えているのであれば、それは読者への甘え、ひいては全てのエッセイ作家への侮辱となることでしょう。
そのように考えて行動した時のリスクを、自身のために想像しなくてはいけません。
エッセイとは自らを省みる内観であり、自らの魅力でもって読者を個人的生活に惹き込むものです。『私小説』『ドキュメンタリー』『ノンフィクション』に連なる伝統的なジャンルです。
そこに登場人物を増やすのであれば、名前を出さない通りすがりの人であっても、存在しない架空人物であっても、最大限に配慮しなければなりません。
エッセイ漫画は「画力が伴わずとも描ける」としばしば思われていますが、それ以外の部分での構成力と魅力を問われるものなのです。
エッセイだからと言って、醜い本音を受け入れてもらえると思ってはいけません。空費させてはいけません。
エッセイだからこそ『第一話』の初対面で『印象良く』見えるように、深く考えなければ、思った通りに読んでもらえないのです。
それは化粧にも似ています。化粧に作法手順があるように、漫画の第一話にも作法があるのです。
現実とずれた部分、主人公の欠落した部分、作者個人の主観があるなら、それもまた、納得を得て面白くするために、最初のフックの時点で、注意深く描写するべきなのです。
共感できる相手だけを狙って描くのも間違いではありませんが、共感できない者でも楽しめる工夫、そして+αで得る物が無ければ、買って読むまでもない孤独な見世物的な内容になってしまいます。結果的に長続きはしません。
誰もが作品をアップロードできる現代では、心の底からの叫びを見つめ続けた尖った『自主制作作品』が作者本人の手によってすぐに届けられるのです。それと競争することを考えても、エッセイはますます難しいジャンルになっています。
足すべき部分は足し、引くべき部分は引かなければなりません。本当に面白い漫画はたったの1コマでも、読者を満足させるのです。
技巧や経験とは必ずしも正比例しません。作家が描くべき時に描いた時に輝くのです。
面白くないと感じながら、面白くないと言われながら描くのはとてもつらいことです。それは作家がするべき我慢ではありません。感覚が麻痺してしまいます。
最初から捨てるつもりの名義だったとしても、それを描いたという傷は全人類が記憶喪失でもしないかぎり一生描いた本人に残ります。
本当に面白い作品で、届くべき人の所に届けば、口コミで売れていくという強みが電子書籍にはあります。
そのためには、読者の目を甘く見てはいけませんし、読者の声を額面通りに受け取らないように注意すべきです。
作品と作家が自由であるためには、正しい戦略を立てなければ、生き残ることは難しいのです。
作品内の第一話、即売会イベントへ向かう電車内で、ノーメイクの女性二人連れに主人公が心の中でツッコむシーンがあります。
この時の主人公の思慮の浅さは、エッセイ漫画としても致命的ではないでしょうか。
表情や服装から即売会という目的地を同じにしていると確信しているからこそ、ノーメイクの女性を「同志だ」と確信して、その気を抜いた姿と能天気な様子に、イベントへ向けて気合いを入れて来た主人公は憤慨しているのかもしれません。
しかし、続くコマはただただ妄想の中で、相手が言いそうな言葉を言い訳だと否定し、持論を展開するだけで、相手のことを考えていません。
取材力・想像力ともに範囲が充分でありません。狭いのです。自分の中で完結してしまっています。
たとえば化粧を禁止されている、お小遣いもギリギリの学生かも知れない。
遠征で電車や高速バスが遅延して時間がなかったのかもしれない。
身バレの可能性があり、恥を忍んで素顔に近い顔で来たのかもしれない。
経済的に苦しくて、自分に合う化粧品やファッションに出会えずにいるかもしれない。
家庭事情も経済事情もさまざまです。また、障害を持つ場合もあります。
化粧をしない理由はそれぞれです。
それぞれが努力によって対策可能だったとしても、皆がそれを完璧にこなせる訳ではありません。
私が考え過ぎで、素顔で出歩くことに特に理由がない人もいるでしょう。普段から化粧をする必要がない仕事に就いているのかもしれない。それを「ろくでもない仕事」だと考えることは職業差別です。
もしかしたら彼女達は「ノーメイクで行く」という行動と、互いの美醜を互いにイジらないという暗黙の了解によって、目に見えない友情を確かめあっているのかもしれません。私はそれを尊いと感じます。決して馬鹿にはできません。その感情に、外見も性別も関係ありません。
素顔で出歩く女性を、腐女子というだけで見下してしまうのであれば、もしも、彼女達が会場前の駅に降りず、手前で降りたなら、あるいは過ぎ去ったならどう感じたでしょうか?
腐女子について話すためにここまで考えなければならない理由がわかるでしょうか?
「格好がバラバラな集団がいたら高確率で腐女子」という有名なネット上の言説があります。これはオタバレの指摘でありながら、腐女子文化を捉えることができる好ましい例なのです。
化粧やお洒落そのものが大好きで趣味とする女性は居ます。それと同じくらい、化粧とお洒落をしない、できない女性は決して珍しくありません。この二者は普段の生活では交わらない存在です。それでありながら、ただ「腐女子」「オタク」「アマチュア作家」であるというだけで、同じものが好きというだけで、SNSや作品を通して同志となり話し合えるのです。
本当に「腐女子カースト」は存在するのでしょうか。色眼鏡をずらして、少し観察すればわかることです。実際に腐女子の集まりを見て、外見の美しい人にそうでない人が付き従ってるように見えましたか?
なぜ、かような形で消化してしまったのでしょうか? なんのフォローもなく、嘲笑して終わってしまったのでしょうか?
私は想像力が狭いまま物を作り続ける人間に対して「そのままでは続けられないよ」と教える以上のことはできません。
想像力を鍛えるには『違う価値観』と対話しインプットしなくてはなりません。他人との会話でもいいです。怖いなら文学でも好きな漫画でも、アニメ、ドラマ、映画、音楽。なんでもいいです。時間がある時に良質だと思う作品に、幾度も視点を変えて触れてみてください。でなければ、他人を知ることが出来ず、それゆえに自分を正しく見つめることも出来ず、自分だけの世界に閉じこもってしまいます。
インプットをしないまま作品を描けば、描くほどに、ただ自らが傷つき続けることになるからです。
また作者は最低限の身嗜みを礼儀と捉えているようですが、その最低限ラインも上記の理由で人それぞれだと想像できなければなりません。好みの服装もそれぞれ、地域文化、仕事もそれぞれです。
主人公が綺麗でかわいいと感じた『神』の多くも、自分や買いに来た人の姿を気にしていません。コスプレイヤーだって、キャラに入っていない時の自分の姿は出来れば注目されたくないのです。懸命に作って共感を求めた作品ではなく、日常の延長で作った「最低限の礼儀」の姿を褒められても、彼女達は嬉しくありません。そこがそういう場だからです。
腐女子やオタクが「恥ずかしい趣味だ」という感覚も最近では少なくなってきています。
オタク向けのイベントに行くなら、張り切ってグッズを身に纏って「オタクの姿」をすべきだと判断する人もきっといるでしょう。それもやはりその人なりの身嗜みなのです。
またイベント外なら、服装の奇抜さだけでオタクかどうかを判断する材料にはなりません。ゴスや原宿系等、日ごろから周りに迎合しない、自分自身を出したお洒落を好む人々が存在します。似合うか似合わないか他人の判断基準で彼らは服を選びません。オタク文化と重なる部分も多いですが、その文化をオタクと一括りにするのは、私は違うと思っています。
そもそも即売会は『交流』のためのものです。街の本屋さんとは違います。売り手と買い手の信頼で構成された、本来は技術の見本市なのです。この辺りは運営委員会のガイドラインなどにも書いてある範囲でしょう。
会場において相手の姿を気にする時間はありません。イベント会場はまさしく「戦場」なのです。時には顔すらも覚えておりません(これまで自分のスペースに来てくれてる方、すみません)人気壁サークルでなくとも、友人に頼んで売り子を立てる作家さんも居られます。
時間が限られているのに、車の試乗会で車を見に来たのに、同時にディーラーの外見をいちいち品定めしてチェックしますか?
自社のために技術を持つ小さな会社と契約したあとで、社長のブログに自慢が書いてあっただけで「そういえばあの社長不細工だったな、嫁さんも不細工だろう」などと、いちいち思うのですか?
それらを書いた冊子を、彼らの職種を冠したタイトルで売ったらどうなるでしょうか。
まさにそれこそ、礼儀を欠いた行動ではないでしょうか。
表現の自由の下であっても、不快になった当事者には怒る権利があります。
ここまでの説明によって第一話のあの一連の流れが如何に的の外れた低俗な「笑い」であるか、理解できたでしょうか。
ありとあらゆる多様な価値基準を無視して、己が良しとするものだけに迎合する。そこを頂点に据えて妄想の中でカーストを構成する。
腐女子を冠して発表するには、あまりにも浅く、無防備なのです。
そして、何分の一か、ほんの一部だけ、この作品の主人公のように他人を品定めしてしまう人間も、腐女子は間口が広いがゆえに存在しているのです。
主人公と同じ悪意を秘めた女性達は、この作品を読めば共感するでしょう。
ひっそりと楽しんでいた人もいたのかもしれません。
しかし、この「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~」はつい最近、無料公開分がツイッターに投稿されました。現在はアカウントごと消滅しております。
広範囲の誰もが評論できる場所に出してしまえば、本を共有してしまえば、彼女達の罪悪感を無理矢理抉り出すだけの結果になってしまいます。
安易な形で発表し、コントロール不可能な批判を浴びたことによって、彼女達は愛想笑いを続けて、怒れる友人と一緒になって作品を叩かなければいけません。作中で一般人に擬態する主人公のように、怒れる腐女子としてその社会の中で信頼を維持しなければなりません。腐女子という世界の中にカーストが存在しなくても、社会は存在しています。愚痴垢や捨て垢で陰口を叩いて共感しあうのとは全く違います。
そうして作品を叩くうちに作者を、版元を本当に憎悪していくか、あるいは交友関係を切って何もかも忘れてしまうというような極端な行動しか取れなくなります。
作品は、発表の仕方まで気を使わなくてはいけません。これもまた貴重な顧客を失う『失敗』なのです。
この主人公のように、見た印象だけで人を判断して遠ざけて来た記憶が、私にもあります。作家デビューした相手に嫉妬したこともありました。自分と交わらない人間の人生を、いかに踏みにじってきたのか。それを考えるたびに私は後悔と反省を繰り返しています。
「はいどうもー」
「僕らなんで漫才やってるか、って言うと、端的に言えば、大金持ちになりたいからなんですよね」
「《芸能人》、夢があるわな。おれはベタやけど、漫才で大金を稼いで、ええクルマに乗って、タワーマンションの最上階でシャンパンあけたろと思ってるんです」
「《イケメンじゃないと着こなせない服》って世の中にはあるじゃないですか。それと同じで、僕の好きなファッションって《お金を持ってないと、できない服装》なんですよね」
「たしかにあるよね。《ヤンキーじゃないと着れないし似合わない服》とかね」
「そうなんです、それと同じで。僕も本当はこんなスーツじゃなくて、ターバン巻いてマントを着たいんですけど」
「……」
「どうした?」
「おれの思ってたお金持ちのファッションと違うけど、続けて?」
「あと、お付きの人もお揃いのターバンとマントをつけてもらって」
「石油王やん!一瞬考えたけど、完全に石油王やん!そんな一国の王のするファッションがしたいの?たしかに、大金持ちにしか出来ん格好やけど!」
「そんな風に言われるでしょ?世間は、異端を迫害するでしょ?…だから僕ははやく大金持ちになりたいんですよ」
「いや流石に、それは、常識的に考えて」
「……」
「……」
「…ダメじゃないけど」
「でしょう?」
「せやな」
「せやな」
「大金持ちになって」
「応援するわ」
「なりたい自分になる」
「……」
「腕が折れたら、千切って、再生して」
「…ピ…コロ…?」
「嘘つけ!絶対知ってるやろ!たしかに一国の王というか、それ以上の、神的な存在やけど!」
「(無視して)まあとにかく、そんな風になりたいんですよ」
「お付きの人の名前は?」
「ピッコロやん」
「いや違う」
「じゃあ何なの?どんなロゴ?」
「(ドヤ顔で胸を指差して)《I don’t use mortgage deductions》」
「《住宅ローン控除は使いません》」
「どんな自慢やねん!」
「いやだって住宅ローン控除で返ってくる所得税額ってすごいですよ?今なら住宅ローンの年末残高の1%の所得税額が返ってくる。仮に所得税額よりも返ってくる金額のほうが場合は、さらに住民税からも返ってくるし。最大限活用したい場合は、あえて夫婦で別々にローンを」
「そんな饒舌になられても!」
「だって、各年最大40万、10年間で400万が返ってくるんだよ。それを使わないってことは」
「…そうやって細かな節税を蔑ろにする日本の金融リテラシーの低さは問題だよね」
「そんな話してた?そもそも、そんなに有利な節税なら、なんで(住宅ローン控除を)使わんの?」
「それは」
「お、わかった!大金持ちやから、不動産は現金で買う、だから住宅ローンは借りない、借りないから住宅ローン控除は使えない!」
「いや違う。合計所得金額が、3千万円を超えると、住宅ローン控除は使えなくなるんです」
「常識でしょ」
「マニアックすぎへん?」
「(ヒソヒソ相談して)このネタを書いてる33歳既婚子持ち・こないだマンション買ったおじさん曰く《常識》だそうです」
「設定めちゃくちゃやん」
「とにかく、僕はタワーマンションの最上階でシャンパンをあけて神戸ビーフを食べたいんですよ」
「なんや結局おれとかわらんやん」
「いや違う」
「何がよ」
「全部ふるさと納税」
「税金の話ばっかりか!もうええわ」
見たくないものを個人的に見ようとしないのは勝手だが、それを事実だと思いこむのは認知の歪みだぜ。
イスラーム圏ではどこもトランスジェンダーへの迫害はとてもキツイ(身近なとこではインドネシアとかマレーシアが悪名高い)
wikipediaの英語版に豊富に記事があるから適当に眺めといて。ここで僕が例を列挙しても君は認知が歪んでいるので現実を直視できないようだから、例示するのは無駄だと思いますので。(あくまで個人的な感想ですが)