はてなキーワード: 軽蔑とは
ニュー速の騒ぎに大手ブログがだんまりを決め込んでいる中で、はちま寄稿が反応。
http://blog.esuteru.com/archives/5692414.html
しかしやはりというか、実に偏向的な抽出の仕方である(それがこの手のブログの常套手段でもあるのだが)。
以下は同じスレッド
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1326238705/
52 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 08:51:58.12 ID:93J/+0CD0
俺らのコメントでめし食ってるヤツが居る。
こちとら無償のネタ提供なのにそういう事をされるのは腹立たしい。
ってことじゃないの?
ステマ騒動まとめ
24 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 08:45:10.35 ID:nlB+DqwY0
133 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:03:47.88 ID:GD2cC+ba0
↓こういうことなの? どエロチックな人教えて。
154 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:06:30.88 ID:4qjGKnfW0
そんな感じ
というか「担当者ミス」としか公表されてないから真相はブラックボックス
174 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:09:41.49 ID:/4nE98GAO
>>154
他商品のネガキャンまでしてんのかよwクソじゃん
てか、
>ブログ管理人氏のTwitterアカウントのフォロワーの中に、何人ものスレ立て常連ユーザーがいた
もう完全にいいようにコイツらにニュー速民は踊らされてたわけかw
305 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:26:35.68 ID:NRuA5Y040
トンキンスレッドとかアフィー騒動から、忽然と立たなくなったもんな
腹立たしかったし
482 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:51:56.07 ID:NRuA5Y040
腹立たしかったんだが
307 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:26:42.77 ID:55HyOiwb0
アホみたいに簡単に稼いでたから、反発したってこと?
加えて自分らがただ利用されてただけってことにも反感かったのか
331 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:30:01.35 ID:J9l1kJhA0
307
しかも連中は運営とつるんでた
いろんな事が重なってこれだけの大々的な祭りになってる
344 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:31:46.35 ID:NRuA5Y040
人のフンドシで相撲を取ってる奴が、
月30万だの100万だの稼いでると聞いたら腹立たしいもんな
346 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:31:52.54 ID:5PjXtAy30
+板でもそうだけど、女叩きは伸びるからなぁ。
387 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:37:36.65 ID:R8cGxovD0
352 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:32:43.81 ID:vhoNvAjL0
まとめサイト系のアフィってエロアニメやらフィギュアとかばっかで気持ち悪いんだが、
やっぱそれでも相当儲かるの?
360 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:33:26.65 ID:LV5wkxCQ0
352
あんなのクリックして買うやつなんているのか?
間違えてクリックしちゃうってことはあるかもしれんが
402 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:40:10.23 ID:55HyOiwb0
なんかクリックしてその時買わなくても
419 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:42:56.76 ID:6zUhR/CGP
レスを転載するだけでかなりの金が入ってくるわけだから、アフィブログを敵視する気持ちも
分からないでは無いんだが、VIPでSSや一発ギャグのスレを立てて、それがアフィブログに転載されると
510 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:56:29.82 ID:IIhi0fyr0
まとめサイトって、そんなに見る物なのか?
今回の話を、なんとなくこのスレ内で理解したつもりだけど
523 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:58:23.06 ID:vRK4Edpu0
510
俺の周り話だけど、2chは見ないけどまとめサイトはよく見る人が多い
560 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 10:04:07.39 ID:EOGO47Sv0
523
それが一番の問題なんだよな
今のまとめブログは、ソースを辿れない馬鹿を騙すことに特化してる
586 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 10:07:58.76 ID:vRK4Edpu0
560
511 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 09:56:40.07 ID:4qjGKnfW0
なんか+落ち着いてるな
雰囲気変わった気がする
542 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 10:01:49.94 ID:EOGO47Sv0
511
完全に情熱が消え失せてる
完全におわっとる
662 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 10:18:59.60 ID:TByA14PR0
スレタイ見るだけでどろっといやな気分になる。
一部分を切り取って誇張した記事で、そもそもニュースでもないしな。
565 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 10:05:06.47 ID:/0bV502/0
よくわからんが、ここはニュー速ではなくニュー速+だから関係ないということでいいのか?
709 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 10:25:11.89 ID:EOGO47Sv0
604
連中はお前らのレスを改変して面白おかしく印象操作して、これだけのPV数を稼いでる
ちなみに、この板の昨日のPV数は56256
笑えるだろw
819 名前:名無しさん@12周年:2012/01/11(水) 10:37:47.48 ID:10nHLMLm0
害ばかり撒き散らすクソの集まりだよ
確かに「2ch利用者は損をしない」だとか「儲けているのに嫉妬しているだけ」という意見も一理あるだろう。+の住人にとっては他人事なので「どうでもいい」とか「騒いでるやつ馬鹿じゃないの」というような書き込みも多かったのは事実である。
しかしコピペブログのアフィで儲けているブロガー、お前自身がそれを言うのは違うだろうと。他人の書き込みを飯の種にしている上に、一切悪びれることもなく印象操作までする開き直り。しかもそれを自分の口で主張するのではなく、他人のレスを使って代弁させるという汚さ。この手のコピペブログは「書き込みをまとめただけですよ~」と言って逃げるからより悪質なのだ。
コピペブログはいくつの問題を孕んでいる。他人の書き込みを利用しているという点、偏向的な編集、過剰な対立煽り。コメント欄が炎上するようにコントロールし、アクセスを稼ぎ、甘い汁を吸い続けるはちま寄稿の管理人はいつか必ずその報いを受けなければならない。
「女性の気持ちを理解したやさしいセックスができる」ことと「カメラに囲まれても安定して勃起できる図太い神経」が両立しにくいから、かなりハードル高いと思う。
http://www.silklabo.com/user_data/actor.php
男から観て女性向けAVの男優ってどういう立場に映るんだろう。
男性向けAVの男優はある意味「装置」でしかなくて、ストレートの男性視聴者には無視されがちな存在だと思うけど、
女性向けAVの男優は女性にとって主役なわけで、多数の女性視聴者のオカズになる存在なわけで。
そういう男の姿を同じ男はどう見るのかなと思う。
私は女なので女性向けの二次エロを消費しているけど、これは本当にそう思う。
色黒で筋肉質でテカテカしたいかにもDQNな奴と、白豚のようなオッサンの二択しかない。
また、AVで食っていくという生き方を選んでいる時点で人間的に軽蔑してしまう。
演技力も無いので「知的なイケメン」という役を演じることもできない。
三次元エロは私の性的ファンタジーを何一つ叶えることができない。
しかし二次元は違う。性的ファンタジーを叶えるために生まれたキャラクターだから。
DQNか白豚の二択という悲惨な三次元に比べ、二次元キャラは属性がとても多くて選び放題。
AVに出ている時点で清純派ではないので"清純派AV女優"は破綻しているが、
同様に三次元の知的なイケメンはAV男優などやるはずが無いが、二次元ならその夢がかなえられる。
また異性からの性的ファンタジーを受けとめるのは三次元の人間にとっては苦痛だが、
二次元キャラは苦痛を感じない。なぜならそもそも性的ファンタジーによって生まれているから。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
http://anond.hatelabo.jp/20111124032014
風俗に行ったこともないのかと聞いたら
お金で解決しても自信につながらない、愛された結果として童貞を捨てたい、
それに風俗で童貞を捨てたということが将来恋人になった人に知られたら、
「金の力で女を屈服させる卑怯な男」と思われて軽蔑されるかもしれない、
だから、本当に愛し合う人が現れるまでは金で女の体を買うことはしない、
だそうです。
あのな、世の中の大半の男は君の半分の年齢で童貞捨ててるんだよ、今さら自信がどうこう言ってる場合じゃないの。
それに女はみんな金のためにセックスしているの。多かれ少なかれ。店であろうと結婚という形式であろうと。
男もみんなそれをわかってるから頑張ってお金稼いで美人を嫁さんにもらおうとするの。
軽蔑されるかもしれないって、35年間童貞でいるというこの時点で、
すでにそんな段階を超えているということを気づいてないのかしら??ハア・・・
満面の笑みでそう答えた。
彼はホテルに誘ってきたがまた今度ねーとか言って断った。
この人要するに
「風俗代を浮かせてちっぽけな自尊心を満たさせてほしい」だけなんだよね!!
脱童貞を期待して来るだろうが、絶対やらせないもんね★
http://anond.hatelabo.jp/20111027120538
童貞のほうが・もてるほうが・女のほうが・○○のほうが「もっと童貞してる」
不能・育った回線・ちんこに整形しない・そんなオナニーしてる・行事の断り方・そんなオカズにしか執着できない「そんなチンコが悪いのでは」
「チンコっていうけど、でも結局」包茎なんだろ・いじって寂しいんだろ・カントンで匂いしてんだろ・ずる剥けだと嫌なんだろ
というような肉棒を持ったからといって、元増田に画像うpみたいなことを書いちゃう人がたくさんいるんで当然。童貞だとかもてる鳥皮が尿意を持つと、臭いとか段違いとか軽蔑だとか大げさにドSを買おうとしているように言わないと気が済まない感じか?
平凡な落伍者をして左手からいじりやらせなどされずに生きる精子がない、というほど元増田に臭いところなどないと思います。タートルで脱衣に憤怒だったのが事実だとしても、だからタートルが原因でいじりやらせにつながってもしかたがない(便もしてるんだから尿しても興奮言うな)という愛撫はやっぱりおかしくて、元増田が書いている限りの包茎ならば悪いのはいじりやらせする手淫だと思います。
控えめにシコっても元増田のされたことはミソジニーに読めばいじりやらせっていうかパワテク・オナハラ・いじりでしょ。「もっとタートルしてる人」が別にいても増田が手淫しなきゃいけない変態にはならんよね?「チンコが悪い」っていってる人、元増田のしたことは「いじりやらせされた挙句血尿に追い込まれるのがふさわしいほど強いこと」にほんとに見えるの?ここが増田だからアナルに叩いてるだけでチンコで人をいじめたりいじりやらせをズル剥けしたりする人ばっかりじゃないはずだとは思うけど、何かヘルペスもいわないとって気になった。元増田が見てるみたいだから感冒してほしくなくてさ!
自分でもフワフワとしててイヤな感じで、好きだとか愛してるとか君を一番大切に思ってるんだ本当だとか、そんな告白?のようなことをしたら、もし仮に今すぐにメールで伝えたりしたら、そりゃあ声を直接の電話でもいいけど、だけど番号知らないし、だから結局するとすれば電子メール(E-mail)になるんだろうけど、そんな大それた事をしてしまったら、そんな大事な重要な大切なことをメールというのも確かにおかしいし妙に変なんだけど、それでも、お酒の力を借りればできるのかも知れないけど、アルコールのあのパワーや勢いで、もし打ち明けてしまったら、社会の白い目とか周囲の軽蔑が一斉にまとまって襲いかかってくるだろうなというのは分かりきった感じで、やっちゃいけない立場だぜ、それは知っているんだぜという幻聴が右耳?左脳?だけからは聞こえてきて、でも、でもってことはないか、そして、かな?それに、そもそも第一相手も戸惑うだろうし、たまたま偶然何かの弾みで信頼を寄せてもらっているだけで、それを好意愛情尊敬と曲解し、つけあがっているだけ、のぼせあがっているだけっていうのは自分でも重々承知なんだけど、その辺は意外と冷静なんですが、偉いぞ自分、言って叫んでわめいていっそのことどこか高い所、ビル?みたいなところから飛んで降りて落下して、そのあと予め書いておいた手紙を読んでもらうというような算段にしてもいいんだけど、それだとこっちが死んじゃうし、痛いかも知れないし、それはちょっとやっぱり駄目だし、知らない他人にも迷惑だし、迷惑は格好悪いよね、でも、絶命してしまえばさすがに泣いてくれるくらいのことはしてくれるだろうからそれに期待して綺麗な思い出にしてもらうほうが幸せなのかとか、こんな整理のつかない気持ちを直接ぶつけられても迷惑だろうし、こんなのは気持ちというよりむしろ悪意だし、自分がそんなことをされたら微妙な応対しかできないだろうし、そう、自分がされてイヤなことは相手にしてはいけないのだし、でも人の嫌がることを進んでやりましょうというスローガンを掲げる大人もいたわけで、そんなことを義務教育のどっちかの学校で聞いた気もするし、ここまで書いて、立ち止まってみて、前を読み返して、後ろを読み返すっていうわけにはいかないのでもちろんそれはそれでいいんだけれど、感想としては、これこそ個人の日記っぽいなあと思って、数年後、親類縁者に発見されて顔を赤面、恥ずかしい思いをするような表現内容誤字脱字になっていることに、満足。ではでは、みなさん、おやすみなさい。よい夢を。
最近多くのメールでどういう上司がいたかということをよく聞かれる。思えば変人が多かったな(笑)。
一番印象に残っているのは、俺が25歳から30歳の頃のA部長だ。
最近はだいぶ社内の上下関係もカジュアルになって来ているが、当時は若手社員が部長と気安く話すなんてなかなか許されない雰囲気だった。
レポートや報告を上げるにしても、逆に何か部長から指示が降りてくるにしても、常に自分の直属の主任、課長、次長、そして部長と言う階層を通じて行われる、明確な序列があった。
「おい、タケシ!ちょっと来い」
と言ってオレを部長席に呼び出したり、向こうからオレの席にふらりとやってきたりして、オレをかわいがってくれた。
また若僧のオレにも
「オマエがオレなら、どうする?」
と忌憚ない意見を求めてくれた。
A部長は当時、今のオレと同じくらいの歳だったと思うが、体型はスリムで、どんなに暑くてもスーツをきれいに着こなし、精悍な顔つきだった。今で言えば、かなりのイケメンで(当時、まだイケメンなんて言葉はかったが)、社内の女性らの中でも評判だった。
今の時代なら、GQやLEONとかの雑誌に出ていても不思議ではない、チョイ悪なオヤジだった。
すごいのは、このルックス以上にキャラクターが深くて濃いんだ。
哲学、文学、芸術とワインをこよなく愛し、食事に行けば、シェリー酒から始まり、赤ワインをたしなみながら、高級そうな葉巻を片手に、平気な顔をしてサルトルの実存主義について語る。
ヨーロッパ的な気品があって、高貴と自由があいまった雰囲気をこよなく愛する人だった。
でもさ、何かと理由をつけてすぐヨーロッパに出張してしまうんだ(俺も同行させられることが多かった)。
と言って、自分は2週間くらいヨーロッパを周遊するんだから、困ったもんだよ(笑)。
もちろん、本人は「視察」だって言い張ってたけどな。
電子メールや携帯電話なんてない時代だったから、A部長がヨーロッパ周遊で不在の間、A部長に指示をあおぐのは大変だった。オレら若手は、A部長が泊まりそうなホテルに、片っ端から電話させられたもんだ(笑)。
A部長の緊急決裁が必要になり、どうしてもつかまらないA部長を探して部署メンバー総出で、居場所を突き止めるべくフランスのToulouse中のホテルに電話をしたこともあった(前々からToulouseでフォアグラと白ワインを飲むのがいいと言っていたので)。
しかし、結局、どのホテルに電話してもまったく見つからない。本当は権限規定違反なのだが、最後は次長が代理決裁して何とかした。
それから数日すると、真っ黒に日焼けしたA部長が会社に現れて、「地中海の島で彼女とエンジョイしていた」とのことだった。オレたちは日本であわてまくっていたのにさ(笑)。あの時はあきれてものが言えなかったな。
こんなA部長の破天荒ぶりを書くと、ただの遊び人、趣味人にしか見えないかもしれない。
しかし、仕事はすさまじくでき、社内だけでなく取引先や競合企業からも敬意を集めていた。
当時は、朝から晩まで働くようなモーレツ商社マンがもてはやされていた。しかし、ヨーロッパ人を自称するA部長は、そういう連中を「バリューレスな社蓄」と呼び軽蔑していた。
「今すぐ資料をしまえ」
と言って、ことあるごとにオレら若手を食事に誘い出した(その後、会社に帰って仕事しなきゃいけないから、ますますモーレツ社員をやらざるを得ないんだけどさ・・・)。
食事の席では、普通なら社内政治や昔の武勇伝を聞かせる上司が多い中、A部長の口から会社や仕事の話しが出ることはなかった。
文学論、芸術論、音楽論、人生観までをゆっくりと語ってくれた。ウィスキーの飲み方、酒の種類、ワインのテロワール、ホステスへの接し方、葉巻の吸い方など今の遊びの基礎はすべてA部長に教わった(笑)。
九州の田舎村からニセ慶應ボーイになってバブル期に調子に乗りまくっていたオレは、「こんな洗練された人がいるのか」と憧れだったものだよ。
おっと、A部長の仕事ぶりを書くつもりが、ついつい遊び話になってしまった。
だが、この記事を書いていたら、オレもBourgogneワインを飲みたくなって来た(笑)。
続く
多くの婦女子諸兄には処女というのは特別意味のこもったワードらしくこのことについて書かれたブログやら何やらというのはまま見かける。
そしてそこに頻出するのが処女厨という言葉。もしこの単語が出てきたならば大体のところどんな主張を仰っているのかその想像はつく。
往々にしてこんな感じだろう。「処女を勝手に神聖視するな、処女をモノ扱いするな、処女厨こわい、きもい」
いつもならば眉を仰角30度くらいに吊り上げ一文字に結んだ口許からぐぬぬとでも漏らして終わりなのだが、今日ははっきりと言いたい。相手に処女を望むことの何がそんなにどうじてなにゆえ問題なのだ?
花も恥じらうご処女様と宮沢賢治よろしく欲にまみえむ童貞様が心も体も心身ともに結ばれ幸せそのものセカチューばりのプラトニックラブIT'S A BEAUTIFUL WORLD。
実に美しいじゃないか。
しかして正すべきのなにものもないこの世界に土足で押し入り踏み荒らしていくのが勝手に処女厨などとカテゴライズしたあげく遥かお天道様をも下す高みから見下ろしたもうたる輩だ。
彼等彼女等によれば女性に対して処女性を求める人物というのは分類学上の処女厨という範疇に収まり、それはもうおもわず目ン玉ひん向いてしまうくらいにリンカーンもビックリなご高配を賜る栄誉に預かるわけなのだ。
曰く、処女厨とは女性に対してワガママな妄想を抱いたあげくその自分本意な欲望を押し付けてくる怖くてキモい存在なのだそうな。
で、この処女厨ってなんなんだ?
ネット上には確かに非処女は肉便器とのご高説を垂れる手合いがいるが、ああいった連中のことだろうか。
ならば話が早い、あれは処女厨ではなくただ全方位に対してヘイトを撒き散らすのが目的の集団か、処女厨を隠れ蓑にした膜厨のどちらか、もしくはその両方を兼ね備えた人達だ。
まずヘイト集団は便所の落書きそのものだ、まともに相手をするのはバカと暇人だけでいい。
問題は自称処女厨の処女にあらずんば人にあらずなどとのたまう膜厨共だ。
まあこいつらの主張はごくシンプルで膜が有るか無いかの一点にのみことの是非が集約されている。膜があればよし、膜がなければわるし。
この単純明快な理論だがどう見てもおかしい。普通におかしい。ちょっとあたまおかしい。
突っ込むまでもなくこいつらはただの膜好きだ、論ずるに値しない。
まあ実際にはおお真面目に膜が云々と書き立ててる奴などそうはいないのだが、こいつらの言う所を噛み砕いてやればそういうことなのだ。
とここで対になるのが精神的処女厨という言葉なのだが、これこそが言いたかったことの一つだったりする。
精神的処女厨とは女性に対して膜の有無ではなく、それが初恋であることを求める人間のことだ。というか俺のことだ。
断言するが肉体的処女厨なんてのは2chを中心としたネタに過ぎない。
あえて矛盾点をしこたま抱え、通る道理のない所を無理やり通してしまう。
無茶な理論だと分かっているからこそムキになって反論してくる相手の存在が心地よく、横暴に振る舞えば振る舞うほど快感を覚えることのできる、そんな趣味の悪いお遊びだ。
そして冒頭に戻るが大抵の場合が処女厨と言われればこの肉体的処女厨のことを指している。いいかこんな奴はいない、存在しないんだ。
確かに処女膜という記号に萌えて燃えるやつはいるだろう、しかしそいつらは非処女を忌避しているわけではない。
ましてや肉便器肉便器などと呪文を唱え据え膳食わぬどころか膳には唾棄するべしというような信条をもったやつらでは決してないのだ。
詰まるところ相手が処女だと聞いて喜ぶような輩はいても膜がないからといって、それのみを理由にボールをストライクゾーンから一つも二つも外してしまうような輩はいないのである。
肉体的処女厨というのはたけのこ厨、きのこ厨と同じお遊びの産物に過ぎない。
では熱意と情熱をもって処女に対しそのほとばしるリビとーを思うがままに開放している彼等の言は全てがお遊戯なのかと言われればそうではない、
一分に真実の叫びが混じっており、それを担っているのが精神的処女厨というわけだ。
異性への好意、その最初の相手が自分であることを求める、つまり初恋でなければ許せないというのが精神的処女厨であることは先程述べたが、
逆に肉体的には無理矢理にレイプされていようが知らぬ内にネットペニスとやらに貫かれていようがそこに心理的な同意がなければ全くの無問題である。
なんのことはない運命の赤い糸とは言わないが好きになるのならそれが最初の恋であってほしいという叶わぬ夢であること間違いなしの想いなのだがただそれだけのことである。
で、これのどこにカースト制度ばりの侮蔑を投げかけられる要素があるというのだろうか?
例えば特定の相手ができたとすればその相手には精神的な処女性を求めたいとただそれだけだ。俺はでかい乳にそそられるだとか、貧乳こそ正義だとかそんな好みの話である。
別に精神的"非"処女の方々を蔑んでいるだとか嘲っているだとかそんなことは一切ない。
けれど、にも関わらず、しかるにだ、なぜだか勝手に虚空の存在である処女厨とやらにカテゴライズされた挙句、ご丁寧に被害者面して散々ディスられ、いつのまにやら上下が逆転しもうちょっと大人になられたら如何でしょうかと諭されるのである。
被害妄想?そうであればよいのだが彼等彼女等が指すところの処女厨というのには確かに俺が含まれている、実際にはそれがいもしない肉体的処女厨に向けられた言であってもだ。
大体個人の好みの問題になぜ割って入ってくるんだ?そんなに憎いのか?否定も肯定もされていないというのが嫌なのか?そこに有るというただそれだけがそんなに許しがたいことなのか?処女厨という架空の藁人形を編みあげてひたすら釘で打ち据えるのがそんなに楽しいのか?
10年も前の事を思い出しては、涙が止まらなくなったり眠れなくなったり突然足がすくんで死にたくなったり殺したくなったり。
10年前、当事者だった頃は悪い夢だと考えようとしたり、相手を軽蔑して気持ちの上だけでも上から目線で見下したり、よくある事だと思って心の平静を保とうとしたり
台風が過ぎ去るのも待つような気持ちで耐えていたけど
時間が経って大人になって、された事の意味も子供の頃よりも理解できるようになって
普通の人間は、思っていたよりもまともらしいという事もわかってきて
普通の幸せそうな人たちと幸せそうに笑い合った後なんかに、あの頃されてた事を思い出して泣きじゃくったり
なにも後ろめたい事なんかしてないようなふりをして笑ったり愚痴をいう兄を見て、「お前は性犯罪者だろ?」と詰め寄りたくなる。
どうやったら許せるようになるのか、どうやったらこのしつこい怒りが消えてなくなるのか、まるでわからない。
少なくとも、しつこい怒りが消えてなくなる的な本では全然駄目そうだ。
良くなる可能性云々というか。都会の方は知らないが。
恐らくここの「高学歴」と「低学歴」は「支配者層」と「被支配者層」を指しているのだと思うから、その体で進める。
田舎であれば、基本的に低学歴層は「開き直り」によって高学歴の人間と低学歴の人間を二つの階層に分け、上位層を神格化することによって嫉妬を防ぐ。
神格化された上位層のイメージを更に固定化するため(或いは自分の怠惰な生活を肯定するため)、「向上心への軽蔑」によって同階層の人間が離脱する努力を徹底的に叩き潰す。
開き直りというのは「あの人達は元々才能があったからああなったのであって、才能がない自分は仕方が無い」ということ。
向上心への軽蔑というのは、「どうせ俺(お前ら)が努力したとしても、才能が無いから無意味。それに死ぬ程努力するのはかっこ悪い」ということ。
向上心への軽蔑は自分にも向けられるが、コミュニティに属する他人へも向けられる。
以前増田に書いてあったが、「努力して一流よりも、努力せず二流のほうが素晴らしい」という価値観。
彼らは高学歴層に対して嫉妬しない。何故なら高学歴層は例えるなら「神に選ばれた人々」であって、自分達とは関係が無いから。
逆に自分達と同一レベルだと思っている人間が、上位層へと上がるべく努力しているのは徹底的に軽蔑される。まぁ、中には軽蔑しない人も居るが。
なんだか一般的にMって言うと
騎乗位で責められるのが好きだとか、
上から踏まれて蹴られて罵られるのが好きだとか、
わかりやすく直接的な暴虐を与えられて楽しんでる姿が描かれるじゃないですか。
でも気付いたらMになってた者として、
Mとして淡々と生活してる者として、
ああいうのは違うな、違うんじゃないかな?という実感が日に日に増しています。
同じ馬鹿にされるのでも
上に乗られた状態で責められたり馬鹿にされたりというのは自分は大して興奮できません。
下から「しょうがないから下になってあげてるんだよ?」という感じで馬鹿にされるシチュエーションこそが興奮出来ます。
「上にならせてもらっている」という位置関係。
これです。
当然M仲間とM談義なんかもしたこと無いんですが
世の中のMの人には強いて二択で言うとどっちが人気なんですかね?
結構実際のMというのは後者なんじゃないかな? と勝手に思っています。
違ったらすいません。
あとこれ、
相手にいちいちM宣言とかSM的な関係のお願いとかしなくても勝手にやれるのが便利なんですよね。
「お情けや軽蔑で〇〇させてもらっているその情けない姿を見られている」
という感じで
相手の本音が本当に「付き合ってる」だったらどうするの。
増田はもう彼が自分をセフレ扱いしててそれを隠してると決めつけてるけど、もし違ったらどうするの。
週末はちゃんと会ってる、それ以外はお互い忙しいから無理しない。でも週末はあいつのもの。そういう考えで、ちゃんと「彼女」だと思ってたらどうするの。
相手を信用せずひどいやつ呼ばわりしてクソ失礼なのはそっちの方じゃないの。
「どう見てもセフレです」「普通の恋人じゃん」と真逆の回答が同時につくことでも分かるはずだけど、ある行動に対する判断ってのは人それぞれ。
DVまがいの事をされていても幸せで相手が大事って人もいるし、一度ワリカンにしただけで相手を軽蔑して別れるって人もいる。
で、その両者はどちらも自分が正しくて相手がヘンだと思っている。
どうでもいい相手同士ならそれでもいいけど、仮にも親密に付き合っているなら、こんな所で陰口たたいてないでお互いの価値観のすり合わせをしようとするのが大人ってもの。
もう一人の増田もそうだけど、自分のものさしと合わなかったら相手が悪い! と決めつけるのは実にみっともない。
ストレートに確認するのはご自由ですが、もし本当に彼女だと思ってる相手から「ねぇ、私の事セフレだと思ってるよね?」なんて真顔で聞かれたりしたらえらいダメージだろう。
実際セフレかどうかは別として、相手の真意を決めつけるのに自分の基準(付き合ってるならこうするべき、とか)をもってするのはマジで危険。
私はこうしたいんだけどあなたはどう思う、みたいな切り口でないと、一気に相手の信用を失う事になりかねない。
その上で価値観が合わなければ、その時にまた考えればいい。
1.常に怒る
シンプルな方法です。常に周りにいかりのエネルギーを発散しましょう。部下が失敗したらもちろん大声で怒鳴ります。たとえ部下が成功したとか、友人が自分のために何かしてくれたとしても、そんなことは当然という気持ちを強くもち、「そんなことは当然だ!」と思考回路そのままのことを口にしましょう。もちろんそれ以外でもオーケイ。息が臭いヤツがいたら、「てめー、口くせーんだよ!」と怒鳴りつけてやる。周りはあなたを腫れ者扱いし、少数の尊敬と多くの軽蔑を得られることでしょう。
2.感情に任せて怒る
怒るとき、理性的に怒ってはいけません。みっともない怒り方の多くは、感情に任せることです。たとえ相手に正当性があったとしても、「そんな理由があっても、おめーの口くせーのは変わらねーし!」と相手の意見を突っぱねた上で怒ることが大事。この怒り方は逆ギレと称されるもので一時期は若者の特権とされてきましたが、最近のtwitterを眺めているとそうとも言い切れませんね。
3.いきなり怒る
幾分状況が限定さている怒り方になります。ある人があなたにとって不愉快な行動を恒常的にしてくる。それに対していきなり大声で怒鳴りつけます。出来れば他人の癖ですとか、まばたきの仕方が変、鼻息が荒い。このような些事に対して突発的に怒れると、とてもみっともなく思われます。普通の声で注意したり、できたらやめてほしい、気をつけてほしいなどという生易しい言葉をかけるだけではみっともない怒り方とは言えません。毅然と。きっぱりと。「おめーくせーんだよ! 口とか!」
4.理由をこじつけて怒る
難易度があがります。2の感情に任せて怒るというのと重複する部分もありますが、要するに詭弁を弄して怒るということです。詭弁とは理由をでっちあげて怒ることで、たとえば口が臭いという件について怒るとき、2の場合は「てめー口くせーんだよ!」となりますが、4の場合は「関係ねーけどてめー、口くせーし!」となります。このとってつけた感がいかにもみっともないのですが、頭に血が上っていると時に冷静になれず、いかにも正当な理由でいかりをぶつけてしまいがちです。きっちりと、みっともなく怒れるよう落ち着いて詭弁を用いましょう。
5.人前で怒る
こちらは状況を選びます。1~4の怒り方ができるときは、大いにこの方法で怒るべきです。多くの人間から、なんともみっともない人間として見られる、実に素晴らしい方法。皆さんの目の前で「てかてめー、まじ口くせーし!」と怒鳴りつけてやれば、(なんとみっともない、器の小さい人間なんだこの人は……)という評価が得られます。しかし、正当な理由で怒るときには尊敬の念や、他の方々にしてやったりという感情を押し付けられるので、正しい状況判断能力こそが重要になってきます。
もちろん口のくさい相手にたいしてみっともなく怒る方法はこれだけに尽きません。またこの1~5についてもさらに技法が細分化されており、到底語りつくせておりません。詳しく知りたい方は自分の身でもってお試しください。
あの頃の僕は、毒の唾で世界を汚すことが無常の喜びだった。本や
映画で得た受け売りの理論で身近な大人たちを追い詰め、彼らを軽蔑
することだけが生きているリアリティと感じていた。目で見える世界のほと
んどが許せず、ニ十歳まで生きていることはあるまいと本気で思っていた。
あの頃、高校時代、僕にはFという同級生のガールフレンドがいた。
正直、彼女を好きでもなかったのだが、女のひとりも口説けないのかと
周囲に思われるのが癩だったのでなんとなくつき合っていた。二人で観る
映画はいつも二番館の面倒臭そうなアート系の映画で、Fは僕に映画の
解説を求め、僕はそんなたわいないことで男のプライドを保っていた、どう
せ刹那的なつき合いだと酷く冷め、やがてくる彼女との別れの日をドラマ
チックにシミュレートして悦に入っていた。そんなある日、Fが僕を演劇に
誘った。芝居はテレビで紀伊國屋ホールを収録したようなやつを観たこと
がある程度で、それもおそらくそんな感じだろうとまるで期待していなかった。
が、打ちのめされた。体の震えが止まらなかった、舞台音楽が僕を子供の
頃の暗闇の恐怖にいざなった。その後、Fは地方に就職先を決め、卒業
の日、明るく「さよなら」と僕の前から去った、以来、彼女とは会っていない。
結局、見透かされていたのは僕のほうだった、そして間違いなく、あの頃、
彼女は僕の母だったのだ。今回、シーザー氏の歌に僕が固執したのは、
あの頃の無知な自分と母との時間を追体験したかったからかもしれない。
存在するものがこの世界にはある。我々の前では、美しすぎたり、
醜悪すぎたり、日常であったりして、正体は曖昧なものと感じられ
ているが、それは確かに、明確にこの世界に存在するはずなのだ。
私は、それをアニメーションという手段で整理分解して、判りやす
く伝えようとは思っていない。セル画で数値化、セリフで言語化でき
る部分だけを抜き出して、それを伝えようとは思っていない。むしろ
段を使って、混沌のまま明瞭に、確かに存在することを示したいのだ。
私は、光宗さんと上谷さんを尊敬している。二人は紛れもなく、
十四歳の頃、僕は学校が嫌いだった。いや、正確には、学校という名の世界での自分の状況が嫌いだった。
その頃は、いわゆる“校内暴力”なるものが全国的に取り沙汰されていた時期で、僕の通ってい
た学校も例に漏れず相当に荒んでいたと思う。生徒が教師の胸ぐらをつかみ上げ授業中断、など
ということも珍しいことではなかった。学校とは箱庭ではあるが、言うまでもなく「ひとつの社会」で
あり、「現実世界のミニチュア」だ。その社会の中で、僕は凡庸な者だった。休み時間にトイレでタバ
コを吸う勇気も、教師の胸ぐらをつかむ勇気もなかった。そして、僕はそのことが嫌で仕方がなかっ
た。子供だったが、凡庸が美徳だなんてウソだってことぐらいは知っていた。「ミニチュアの社会」の
中ですら凡庸な自分に控えている未来.凡庸な人生の予感に言い様のない絶望を感じていた。
あれから十数年。現実は残酷で、やはり僕は凡庸なる大人になってしまった。絶対に裏切って
はいけない人を、何人も裏切ってしまった。そうまでして手に入れたのが、凡庸なる自らの姿だった。
だが、いかなる夢も見ることを禁じられたこの世界で、僕はまだ密かに夢を見ている。まだ密かに
モラトリアムでありたいと甘えている。そのことを「少女革命ウテナ」はうまく表現できただろうか…。
J・A・シーザー氏の音楽を、僕は遥か十代の頃に体験した。氏の音楽はその時から、そして今も変わらず僕
シーザー氏と仕事の機会を得ることができたのは、ひとえに大月プロデューサーの手腕によるところだ。
いや、実はそのことだけではない。大月氏は、アニメーション作品「少女革命ウテナ」を世に送り出すために、
多大なリスクを負った。我々スタッフは、その彼のリスクの上に、完全な創作の自由を与えられたのだ。「自分の
若さと可能性を信じろ」などと言うインチキな大人には数多く出会ったが、リスクを負うと言うことを体現して
見せる大人に出会ったのは初めてだった。もちろん、僕自身もリスクは負っていたが、彼のそれは比べようもなく
大きかったはずだ。にもかかわらず、彼が僕にリスクを強要したことは一度もなかった。彼は、作品作りにおける
リスクの尊さを改めて僕に教えてくれた。そしてそのことは今回の作品制作において僕個人にとって貴重な
モチベーションになった。おそらく「少女革命ウテナ」という作品は、僕と大月氏の共同監督作品だったのだ。
だから、ある意味で僕は敗北者なのだろう。なぜなら、僕は絶対に裏切ってはならない友人を、数多く裏切っ