はてなキーワード: 自戒とは
https://www.huffingtonpost.jp/entry/unwritten-rules-black-man-follow_jp_5edb3ee5c5b6a80a46d465f7
・一緒にいる相手がどんな人か確認する。たとえ路上で会った人でも
・遅い時間まで外で出歩かない
・買わないものを触らない
・たとえガム一つだったとしても、何かを買ったらレシートかレジ袋なしで店を出てはいけない
・誰かと言い争いをしているように見せてはいけない
・ドゥーラグ(頭に巻く、スカーフのような布)をつけたまま運転してはいけない
・タンクトップを着て、もしくはドゥーラグを巻いて出かけてはいけない
この間年上の窓際上司に「最近の社員は劣化している」とドヤ顔で言われてめちゃくちゃ腹立ったから吐き出す。
この話、勘違いしている人間めちゃくちゃ多いから気をつけろよ。
もうはっきり言うわ。
君たちが常々「劣化」だと思っているものは、全て環境の変化による「変化」なのよ。
そうなるとお前らに求められることは、「劣化」という評価をすることではなくて「変化」に対して対応することなわけよ。
それをせずして「自分は今でもできるのだから周りが劣化」というのは、もう取り残されている以外の何物でもない。
価値がないからやらなくなったことを、未だにできると偉そうにしたってそんな人間に価値があるわけがない。
つまるところ、周囲の大多数に「劣化」と感じている事自体が、自分自身の価値観がアップデートできていないことを証明してるにすぎないってこと。
ここまで話をしてもわかんないやつはわかんないのは仕方ない。
でも、それはもう破滅への一方通行でしかないってことだけは理解してくれ。
簡単にいえばさ、価値観というものは常に流れ続けていて、同じものを維持することのほうがエネルギーがかかるよっていう話なのよ。
その場所に居続けるためには泳ぎ続けなきゃいけないのだから当然エネルギーが必要で、一番エネルギーがかからないのは流れ続けることでしょ。
流れ続けるということはつまり、変化し続ける価値観を受け入れ続けるということ。
ましてや昔のほうがよかったなんて言い出したら、流れを逆らう必要があるのだからそれだけエネルギーが必要になる。
そうまでしてコストを払ってもいいというなら別に止めないけど、そういうやつらに限って「自分は贅沢を言っていない」という。
そのスタートラインが間違っていることに早く気づいて。
めちゃくちゃ贅沢言ってるから。
なんでお前の要望を叶えるためにコストを周りが負担しなきゃならんのよ。
話が戻るけど、部下の行動が変わったのは世の中の変化が理由。
それをもとに戻したいなら、コストを払うのは他の誰でもないお前なのよ。
それもしない。
でも評価だけは偉そうにしたい。
しかもこの価値観の変化が、年々早まってるっていうんだから老害にはつらい世界だよな。
とりあえずテクノロジーの断絶だけには取り残されないように最新ガジェット情報だけは追いかけてるけど、ガジェットの向こう側にあるサービスまでは流石に断絶を感じ始めている。
雨の日で電車が少し遅れていた。
ものの数分だったが、帰宅ラッシュも相まってホームにはかなりの人。
奥まったところに隙間を見つけたので細心の注意を払いながらサーセンサーセンと移動して落ち着く。
するとその手前に居たおばちゃまから「みんな並んでいるのよ」と一言いただくこととなった。
自分は我先にと乗る気はなかった。だからわざわざサーセンサーセンしてまで奥まったところへ移動したのだ。割り込む気なら前方の空きスペースに堂々と並ぶよ。
マナー厨とかそういうことではない。こういう変なのに絡まれたくないからそうしている。
「(すぐには)乗らないので安心してください」と返せば居心地悪そうに「あ…そうなの…」と目をそらす。
「割り込みするような人と決めつけて申し訳ありませんでした」そこまでいかずとも「やだごめんなさいね」くらい言えないものかと。
そもそもお前この周囲にいる人の並んだ順番全部覚えているのかと。
あとお前の年代のおばちゃまらこそこういう時「しょうがないじゃない」って顔して堂々と乗り込みに行くけどな。
ちょっと周囲見りゃ居れる場所がほとんどないこともわかるだろうが。
(自己紹介:絵描き&物書き&AIエンジニア(画像系ではない)。アタリをAIに通して下描きの助けにするのがめっちゃ便利で使い倒してる。)
・AI絵で金を稼いでる奴が嫌
ってところですか。
嫌だと思う人の数や声のデカさによっては今後何らかの対応(法律なりシステムなり)があるかもしれませんので、声を上げること自体は大事だと思います。
…で、一応聞きますけど、そういう人ってまさか何も考えずGoogleとかTwitterとか使ってたりしないですよね?
絵どころか写真やら文章やら個人情報やら、なんでもかんでも学習素材になってますけど。何年も前から。
今どきインターネット使ってて「学習素材にするな」は正直かなり無理があると思いますよ…。
(良いか悪いか好むか好まざるかはともかくとして、あくまで実態として)
そしてそれによって、誰しも普段意識すらしていないところでAIの恩恵を受けているはずです。
AI技術がここまで進んできた現代で、絵だけは収集するなっていうのはだいぶ無理があるんじゃないでしょうか。
著作権や作風がと言う方もいらっしゃいますけど、それ、別に絵にしか発生しないものではないですし…。ほんとになんで今更?しかも絵だけ?
すみませんが正直、これが嫌って言ってる方のことは「これだから絵師は自分を特権階級だと思ってるとか言われるんだよ…」という目で見てます。
「絵だけは収集するな」と同義の意思表示が大半ですもん。絵以外の著作物は軽視されてるな、という印象です。
嫌だと感じる気持ちを否定する気はありませんが、もうちょっとAIのことを理解した上で嫌ってほしいです。
これは本当に嫌すぎる。わかる。
ただ、オールドインターネッツな時代から何故か勝手に絵を改変する輩はいました。
あくまでAIはただのツールであって、それを叩くのはおかしいのではないでしょうか。
「アナログ画材で苦労して改変」「デジタルのフィルター乗せてパパっと改変」「AI通して改変」に違いあります?
アナログで頑張ってくれるなら自由に改変オッケー!とはなりませんよね?
個性のなさとか手指が変とか癖(へき)が感じられないとかいろいろ聞きますけど、まあそこは好みの問題なので嫌なら見るなですね。
好きだと感じている方々がいらっしゃるからこそ、↓の問題もあるわけで…。
>AI絵で金を稼いでる奴が嫌
他人の絵を改変したもので稼いでる奴についてはギリ死なない程度の不幸に見舞われないかな~と日々祈っていますが、
自分でプロンプト組み立てて生成した絵については別によくないですか…。
アレ、思ったような絵を出力するのは結構難しいですよ。さらっと出せたけど?って方は一種の才能があると思います。
何度か挑戦してみましたが全っっ然自分の癖に刺さるものが出てこず、結論は「自分で描いた方が爆速な上にシコい」でした。
正直、普段見かけるAI絵は「こんなの出せるのかすごいな~!!」と感心して拝見しています。
自分で描くのもプロンプト組み立てるのもそれぞれ別の技術だと思いました。
そもそも絵を描く方でも絵師という呼称が嫌いなケースもありますし、名乗りたいもので名乗ればよくないですか…
この先自動車に自動運転(=AI)の導入が進んでいって、タクシーにも組み込まれて、とはいえ完全自動はまだ怖いのでってことで人間が運転席に座っているとします。
その人はほぼハンドルに触らないとしたら運転手さん(AI運転手さん?)とは呼ばないってことですか? わざわざ新しい呼び名作らなきゃだめです?
…ところでTwitterで「作曲界隈でのボカロPみたいに独特の呼称があったら受け入れられやすかったかもしれないな~」的なツイートをお見かけしてなるほどと思ったのですが、
作詞作曲歌指導って明らかに一般的なプロデューサーの仕事ではないですし、これは逆にだいぶ慎ましい呼び名ですよね。もっと自己主張してもいいのよ。
それは今更すぎる
ただ、「具体的にどうしてほしいのか」を一切言わずただただ叩き続ける人は一旦落ち着いてほしい
で。
そういう『嫌だと思うポイント』が人によって違うのに、論点違う同士の謎口論がそこかしこで見られてきっついな…というのが最近の感想です。
それがエスカレートして、AI憎しで滅茶苦茶言ってる奴やAIなんでもかんでも正当化する奴が出てくるし。
もうちょっと冷静になれないものですか。お互いに。議論になってないのが大半。お気持ちバトル。
…で、そのお気持ちバトルTwitter会場にうっかり乱入しかけたので、ここで自戒というか、自分に特大ブーメランぶっ刺して去ります。
どの項目も「絵描きで物書きでAIエンジニアの自分」からのお気持ち表明なので、別にどれが正しい正しくないと言う気はないし、全部嫌だと思ってる人もそれはそれだと思うのですが、
タイトル通りだけど、これ、何故?
当方男で、婚約後、住む場所とか、金銭管理の方法とか、家事分担とか、結婚式どうるとか決めてるんだけど、
釣った魚に餌はやらない的な?
てか、俺何かした?
相手の希望通りにしてあげたいのが本音だけど、いかんせん態度が一方的で、こんな人だっけ?って。
女性ってこんなもんすか?
(追記)
「女性ってこんなもんすか」は言い過ぎでした。
ただ、書いてしまった以上、自戒も込めてそのまま文章は残します。
クリティカルな決め事の段階だから…というより、口調も態度も違うんですよね。
何というか、超がつくほど拘りが強いのを感じてる。え、こんな性格だったっけ…と思うほどに。
労働条件の話ばかりに終始している人は、
自分自分の自分ばっかりでそれと合わない周りやら影やらを呪っていても惨めな気持ちになりませんか。
いやいや、大上段から何か言いたいのではなくて、自戒と自分への叱咤の意味で書くのですけれど。
働き始めるとどんな仕事でもそうなのだと思っているのですけれど、自分が日々を行っている仕事は苦役よりなのか祈りよりなのかってぼんやりでもわかってくるように思います。
公立学校の教員って祈りよりで割と濃い目の仕事なんだとわかってきました。
この仕事は、祈りの部分で言うと、目の前のこの人がどのような人になっていくのか寄り添いながら幸を祈ったり、祈った上で最善を尽くせたり、
尽くせず歯がゆい思いをしたり、そんな日々です。それを何かのせいにしたり、誰かのせいにしてしまったり、誰かのせいにした自分を情けなく恥ずかしく思う日々です。
苦役なんだとしか思えず、不貞腐れたり、苦役だからと居直ったりしている人からは何か学びたいと思う人は少なく思います。
そのため、陰では汚物みたいに扱われたり、避けられたりするのをよく目にしてきました。度がすぎると卒業式終了後に保護者に怒鳴り込まれたりしていました。
その怒鳴り込まれた本人は強がってましたが、職場の同僚からも好かれてはなかったようで、より一層惨めな人だなあと思っていました。
自分がそうなると、ただただ悲しいです。そこでキレ散らかしたとて何か事態が良い風に変わるわけではありません。
労働条件整備については、組合の中堅以上(青年部でなくなったあたり以上の人たち)に任せるのが肝要だと思います。
自分がその順番になって初めて先輩からのバトンを受け取ればいいのだと思っています。
私たち現場の労働条件が良くなるかどうかは、勤務校の管理職や自治体の教育委員会で決まることが多くその鍵を握っているのが組合です。
入ってない人は、組合に入った方がいいですよ。組合費かかりますけれど、必要なお金なのかなと折り合いをつけています。
入ってないのに労働条件について何のかんの不満を垂れたり、全世界に発信してもあなたの目の前の労働環境は変わらんです。
組合は確かにイデオロギーの癖が強く、何言ってんだろこの人たちと面食らうこともあります。
でも、組合があるから労働条件が長い変遷を経ながら向上してきた側面はあります。
組合の出入り(お抱え?)の学者もいて、労働条件については、声をあげてくれています。
組合の中での活動員の活動的に、twitter上で労働条件のことをイキリ散らかしているのならば、お勤めご苦労様です。ありがとうございます。
そうでもない非組合で未成年がやっているウラ垢的にイキリ散らかしているのなら、慎みましょう。
保護者や児童生徒はイキリ散らかしてるの見てるし、そこからトラブルを招きます。
デジタルタトゥーになっても構わないようなつぶやきを心がけましょう。
修学旅行の見積もりについては、私は数社見積もりを依頼して業者を選定しています。
数社投げても半分くらいは音信不通です。年々ゆるやかに回答が苦しくなり渋くなってもいます。
業者さんの方に旨みがないし、抱えるリスクの方が年々大きくなっているのだという話は中にいて聞くことがあります。
旅行会社の方を詰めるというよりもどうしても納得いかないのであれば、自身に縁のある地元の議員さんに陳状にいく案件だと思います。
私が属する自治体では、全額を負担されているご家庭は少ない印象です。
自治体から補助が出るご家庭も多いです。どうしても、経済的に負担が難しければ自治体に相談しても良いのかもしれません。
おそらく件のツイートの方も、
もしこの前のバレンタインジャンボで1等当選していれば業者を詰めようという思いに駆られたり、
全世界に発信してこのおかしさを糾してやろうなどどいう思いに駆られることはなかったでしょう。
もし、そうなのであれば、地道にゆかりのある地元の議員さんに陳状に通ってください。
労働条件が悪いからと不平を言ったり、そっち(保護者サイド)がいちゃもんつけるなら止めましょうと
その中を覗いていると、修学旅行について業務的な視点でしか語らない人ばかりで、
修学旅行の意義を真摯に門外漢の人に自分の言葉で話している人がいなくて残念でした。
私は修学旅行は教師が意義をブレずに持つことが大切だと感じながら日々を過ごしています。
この意義は自分の中でブレずに持っていないといけなくて持っていて、
自分がブレないものであれば何でもいいと思います。でも、持ってないとダメです。
それを持った上でどのように一つ一つの体験活動を教材化するかです。
このあたりを教えてくれる先輩がいないまま権利権利、〇〇ハラスメント〇〇ハラスメントと真顔で言っている人は、
本当に不幸な日々だと思います。
生徒や保護者目線であれば「旅行代高え、金ねえよそんなに」「ですよねー」で構いませんが
教師であればそれしか言葉を持っていないとなると日々が辛かろうなあと思います。
公立学校の教員としては「ハイハイ、意識が高くて本当に素晴らしいですね」でいいです。
そんなのは現場からほど遠いお役人や現場を知らないどこかの大学教授が己の欲望を叶えるために勝手にやってくれます。
大事なことは目の前のこの児童生徒にしてやれることが本当に少ない惨めさを噛み締めながら前に進もうとすることと
この人のことで自分は真に祈ることができるかどうかです。
えらく長く時間がかかっていた同僚のアウトプットのレビュー作業をずっとしているが、どうしてこうなっているのか理解できない点が多々ある
アウトプットの質という以前に、各所に「なんとなくボタンを押してみたり関数を入れてみたりして、なんか思った感じじゃなかったけど、まあとりあえず置いておく」みたいな放置物がたくさんある
たぶんソフトウェアに対する向き合い方の違いなんだと思う
どういうふうに動作するのか、その原理に向き合うことができる人は意外と少ない
家庭教師に「答えがAなのはどうして?」と言われて「やっぱりB」と言い出す子供の話が話題になっていたが、そういう大人も案外たくさんいるんだろう
確かに大人の仕事は子供のテストと違って答えがないし、何度も再試行するのは自由だが、その原理をわかっていれば使わずに済む時間もある
ソフトウェアに限らず、大人になってから小手先のテクニックばかりを手に入れようとしがちだが、原理に向き合うことが大事なのかもしれないと自戒も込めて
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
アラフィフの自分はタイのドラマにハマっている。俳優のファンミーティングなどのイベントに参加すると、ギブアウェイという、ちょっとしたものをファン同士が交換したり、プレゼントをする文化がある。寡聞にして存ぜずK-popから流入した文化らしいのだが、出会うタイドラマファンの年齢層は同世代か少し上であることが多いためか気になることがある。
ギブアウェイはお菓子だったり自作のグッズだったり様々なのだが、貰ったものは全て捨てていることを告白する。
お菓子は、包み紙に俳優の写真が入ったチロルチョコであったり、数種類のお菓子を小分けにラッピングされたりしているのだが、衛生管理してない人が触ったと思うと食べる気がしない。コロナに罹患した時に辛すぎたので、口にいれるものは敏感になりすぎてるせいかもしれないが、飴やチョコなど開けて舐めて戻してもわからない包装のものもあり、より分けるのが面倒で全て捨てている。
自作のグッズは、前述のチロルチョコやポストカードやキーホルダーなど様々なのだが、ほとんどが著作権を考慮していないので所持していたくなくて捨てている。スタイリストが関わった衣装や、デザイナーが関わったロゴや、商標登録している文言を使わず、自分でイラストを描いたポストカードを自宅で印刷するならまだ良いが、より分けるのが面倒で全て捨てている。
他人の権利に抵触しているものを貰うたびに苦々しい気持ちになるが、イベントは楽しむためにお金を払って参加しているので極力面倒を起こさないために断ったり注意はせず頂く時は普通に貰ってはいる。話しかけるきっかけとしてのギブアウェイだと思うが、むしろモラルに欠ける人なのだと判断材料になってしまっているのが本音だ。
このエントリーを読んで自作グッズの境界線に不安を覚える人は、もうギブアウェイは作らない方が会話がはずむ人数は増えるかと思う。これは自戒だが問題があったとしても私たちの年代を相手にその場で丁寧に注意したり教えてくれる人はおらず、曖昧に微笑んで去っていかれるのだ。
覚えられないというか、覚えてた人の名前が思い出せない。
テレビとかで見る芸能人なんかで、明らかに知ってる人で顔は覚えてるのに名前が出てこないことがしばしばある。
いわゆる認知症の初期症状だろうか。
あと、いつもオキマリのルーチンワーク的な動作が、なにも気をそらせる要素(電話が鳴ったりとか、誰かに声かけられたとか)ないのに、たまにポっと抜け落ちてポカミスすることが時々ある。
自戒の念だよ、そっとしといたれ