はてなキーワード: 生業とは
描いて描いて描きまくった。と言う程には描けなかった。
しかし、明らかに普通の暮らしをしていたらとても描けない量の絵を描いた。
絵描き、というのは、「絵を描くことを生業にする人」という意味で絵描きと書いている。
私は絵描きになれなかった。
人とは違う道を進み生きていくということは修羅の道だ。
私は筆を折った。
その後、一切絵を描いていない。
私は会社員になり。
日々の暮らしには困っていない。
だが、明日のことも分からないまま絵を描いていた、あのヒリヒリ感を感じることはもうない。
おそらくもう、会社が潰れそうになっても感じることはないだろう。
絵描きになりたくてなりたくて。
それでもなれなかったあの日々を思いながら。
そう言えば文章を書く時に悩んだことはなかったなあ、と。
何か羨ましくなってそれを伝えてみたくなった。
ものまね芸人とひとくくりにしているが、どちらかというと一人の著名人のそっくりさん的な武器一本で
闘っているものまね芸人についてである。プリティ長島とか春一番とかジャッキーちゃんとか。
若いころはああいう人たちをみると「よく誰かのそっくりさんと偽物であることを生業に生きていけるよな」
とか「あんなプライドのない生き方は嫌だ」なんてひどいことを思っていた。
でも歳を重ねるにつれあの人たちの生き方に感じるところが出てきた、だれもそっくりさんとして生きてく人生など
最初は望んでいたわけではないだろう、流れ着いた挙句にあの芸が生まれたのかもしれない。
不本意も不本意でそういった仕事をしてる人もいるのかもしれない。
しかしながら、「自分が出来ること」「自分が必要とされている場所」で闘って生きていくことは凄く尊いこと
なんじゃないかと感じてる。スターや成功者になれる人間はごく一部で大半は主役とは程遠い人生かと思う。
歳をとるにつれ、自分の適正や限界、能力がわかってくるし、若いころは無限に思えた可能性が狭まっていくのを感じる。
私は今まで一度もまともな「お付き合い」をしたことがない。
女漁りを生業としている男に二、三回捕まったことがあるだけだ。
どうすれば普通の男性と「お付き合い」ができるのか、私は真剣に考えていた。
「モテるための十か条」みたいな本を何冊も読んで実行したけれど、特に効果は無かった。
更に化粧や髪型にも凝ったけれど、寄って来るのは体目当ての男ばかりだった。
そんな私に転機が訪れたきっかけは、恋愛マニュアル本の横に置いてあった自己啓発関連の本。
そういった類の本は、どこか宗教臭くて嫌悪していたのだけれど、
軽い気持ちで手に取ってみたら、見事にハマった。
そしてそれが、私をモテの道へ導いてくれたのだ。
私はその本の教えを実行するよう心がけた。(男女関係なく)
その内容は以下。
1.人の名前を覚える
2.誕生日もセットで覚える
4.どんな相手に対しても、「私はあなたの存在を認め、尊重していますよ」というスタンスを取る
それ以外に自分で考えて心がけたのは以下。
2.話を最後まで聞く
3.汚い言葉は使わない(「~ねえよ」のようなヤンキー言葉?っていうの?とか)
cancamなどの雑誌を見てみると、「愛され系」などの言葉が頻繁に出てくるが、
まさにそれとなる。
(友人の方は断り、先輩の方は保留にしている)
正直、これ程効果があるとは思わなかった。
外見ばかり磨いていたあの頃が馬鹿らしいと思った。
今は薄化粧で、髪も一本でまとめているだけ。
だけど自分でもわかる位、表情は生き生きとしている。
鏡の中の自分は、間違いなく楽しそう。
男女関係なくね。
オタサーの姫に確たる定義があるのか知らないけれど、私が10人ほどの某趣味のオフ会で4年前に会ったオタサーの姫は、プロでした。
当時年齢は31歳だったと思います。
・衣住食の全てを男から貰うプレゼントやお金のみで暮らしている
この辺りは、メンヘラにありそうな妄言で片付けられそうでしたし、とりあえず話半分に聞いていました。
しかし、飲み会が進むに連れて、姫の言葉の数々は確信を帯びてきました。
姫は私の目の前に座っており、隣の男性に対して
「なんか酔っちゃったかも…」と言っていました。
しかし、場のタイミング、目線、ボディタッチ、声色、すべてが完璧でした。
「お酒に弱いことを隠して飲んでたけど思わず零れた本音をたまたま隣にいる男性に聞かれてしまい、体制を崩して触れてしまった」という状況を、見事に作り出しています。
前評判が無いと本気で信じてしまうところでした(童貞みたいな書きぶりで恥ずかしいですが、素直な感想です)。
言わば、処女っぽさを持つAV女優のような、そうした空気を感じました。
姫は、その場にいた男どもの中でもまともそうな人の連絡先を手に入れ、消えました。
ちなみに、今は年収1500万程度の中小企業社長の奥さんとして暮らしているそうです。
下品で気持ち悪い技術も、生業とすればあの領域に達することに感動し、そろそろ特定もされない頃だと思い文字に起こすことに決めた次第です。
何も分かってない。
フェミニストが根拠もなく、破綻した論理で人権を侵害するから立ち上がったのがアンチフェミ。それに対してフェミが貼ったレッテルがミソジニストであるというだけ。
端的に言って、これまでの女医の貢献不足が原因。
こんなのはアホかガキのいうこと。
男にしてもスーツ・革靴等、それなりの身だしなみを求められるもの。(ドレスコードは男の方が遥かに厳格)
つまり、「女性だけ」ではない。にもかかわらず「女性だけ」と噴き上がり男叩きに走った時点でkutooは死んだ。ヒールが履きたくない、化粧したくないならドレスコードいらない会社を自分で建てたら?
この件に限らず、フェミは求める・喚く事だけに労力を使いすぎ
女性側が「通報する」という最低限のアクションすら碌に取らないのに、他人にばかり何を求めてるんだ?
男の慈悲で頂いてる女性専用車両をもっとぎちぎちになるまで使えば?
総じて、女性側の言ってる事とやってることが違いすぎる。口で言ってる危機感が行動に全く反映されておらず、説得力皆無。
・フェミニストが行っている、実力行使を伴う表現弾圧についてどう思うのか。それによって生活や生業を破壊される人間のことを考えたことはあるのか。
・フェミニストが数字や論理を持ち出すことができない体たらくについてどう思うのか。結果からの妄想や感情論だけしか出来ない状態でいいと思ってるのか。
・あからさまな男性差別である女性専用車両についてどう思うのか。男性差別を放置或いは推進しておいて、「男女平等」という言葉に説得力があると思っているのか。
でもさあ、国に関係ない言葉とかまでカタカナ変換している人の知性に本当に疑問を感じる。
日常の職場とかでそういう痛い人がいるのはもう避けられないから我慢できる。
しかしだ、よく本を読むんだけど、そんな情報を伝達することを生業としている輩ですら、カタカナ語だらけ。
なんだよ、スポイルするって、デマンドだのサプライだの、なーにがエビデンスだ。
イギリスの大学出身で、授業を受けていてわかったことがある。クラスは多国籍な構成であることが多く、自分みたいに英語が母国語ではない人間もいることを理解していて、教授は難しい言葉や言い回しを使わないし、伝達することのプロフェッショナルでもあると思った。
カタカナ語で聞き手の理解度が上がるのであれば、納得できる。そうでないケースで使う人って本当独りよがりの公開オナニー野郎だ。
私がTRPGというものに触れてから、もう8年近くが経とうとしている。
元々幼少期から存在自体は知っていたものの、それはダンジョンアンドドラゴンズなどに代表されるファンタジー系のものだった。当時愛読していたライトノベル「フォーチュン・クエスト」の影響もあるのかもしれない。
だが、ニコニコ動画でクトゥルフ神話TRPG(以下CoC)のリプレイ動画が莫大な人気を博したあの瞬間、それまで見向きもしなかったであろう層が、斜陽であったTRPG界に一斉に興味を示した。
それはとても素晴らしいことだと思う。前述のとおり、私もその流れに乗って本格参入したクチだ。消費税が8%になる直前にはいろんなシステムのルールブックやサプリを買い漁った。
発展したインターネットとTRPGの相性もすこぶるいいもので、遠く離れた人ともツールを使えばリアルタイムにロールプレイしあえてダイスの結果を共有できる。冬の時代を現役で感じていない私のような若輩者が口にするのは何様だともなるが、いい時代になったなと今でも痛感する。
とりわけメインで参加しているシステムはやはりCoCだ。人智を超えた生命体への恐怖という題材が好きというのもあるが、それよりも大きな理由は「プレイ人口が多いから」だ。界隈が違えばまた変わってくるのかもしれないが、私の周りには大体みんなCoCを知っていて、それ以外のソード・ワールド2.0やピーカーブーなどに目を向けるとプレイ人口は冗談抜きで半分を下回る。なんなら「CoC以外はやりたくない」と言う層もいるので、布教すらさせてもらえない。チャイム越しに追い返されるセールスマンの気持ちがなんとなくわかるような気がした。
そんな弊CoC村だが、ここ数年でやたらと所謂うちよそタイマンが流行りだした。KP側の作成したPCと、PLが用意したPCが濃密な関係を組み、愛と勇気の力で宇宙的恐怖を退けるアレだ。
TRPGの遊び方というのは千差万別、卓の数だけ物語がある。それは重々承知しているつもりだ。
けれど、私にとってのCoCは本来特別な力を持たない(ほんの少しだけ生業への専門知識を持っているかもしれない)ただの人間の探索者が知恵を絞り不可解な謎に挑み、その先で神と呼ぶのもおぞましい存在に圧倒され自らの矮小さに慄くシステムだと自己解釈しているために、どうも首をひねらずにはいられない。
pi●iv製のシナリオを見てみると「突然意識を失い、目が覚めたら見知らぬ空間にいて、そこには囚われたor記憶を失くしたKPCがいた。脱出するにはKPCを犠牲にしなくてはならないが謎を解き明かせば二人揃って無事に生還できついでに二人の絆を証明するアーティファクトが手に入る」的なものが5件に1件くらいの確率でねじ込んである。その中でもシナリオ背景に「ニャル様が暇つぶしに二人を試しました☆」だけしか書いてないものを目にしたときは頭を抱えた。
いやもうそれクトゥルフ神話要素ほとんどないやん????バッドエンドで視界暗転する瞬間に「やれやれ、君たちにはがっかりだよ。さて、次のおもちゃを探しに行こうかな」だけ言い残すニャルラトテップ御大の化身だけでは????
いやそれだけでも出てくるのならまだいい方だ。中には「自作世界観を再現したので神格も宇宙的恐怖も一切関係ありません」なんてシナリオもゴロゴロ転がっている。それなら“クトゥルフ神話TRPG”のタグを付けないでほしいし回すKPも事前に告知してほしい。こっちはいあいあしにきてるのだから。
なんだか本題からずれてきている気がする。
うちよそ自体は否定しない。最初はそのつもりじゃなくても幾度か同卓をして交流を積み重ねた結果恋仲や相棒になったPCたちもいることだろう。
ただ、うちよそありきでキャラメイクをしシナリオを選びとなると正直もっとうちよそに適したシステムは世の中にごまんとあるわけで、ただでさえロスト率や後遺症を貰ってくる確率の高いCoCに向いた遊び方ではないと思ってしまう。
例えばネクロニカやダブルクロスなんかはPC同士でロイスや未練といった感情を伴った絆を結ぶことでクソデカ感情生成システムを生み出している。これらはファンタジー色が強すぎるが、現代日本ステージであるならばインセインはPCそれぞれに「秘密」が割り振られ、その内容がPC同士密接に絡み合っていたりする。
これら以外にも、もっとうちよそに向いたシステムがあるのに彼女らは尚もCoCに拘っている。神話成分が微塵も残っていない話でオタク好みする都合のいい展開にエモいエモいと泣いて有難がっている。億が一ロストの道を辿っても、今度は「ロスト探索者専用シナリオ」を用意してきて死の淵から蘇ってきてまでうちよそをしようとしている。もはや執念だ。
結局のところ、システムは二の次なのだと思う。感動的なロールプレイをしたためたいだけなのだ。そこまできてしまったのなら、もう“テーブルトークRPG”というジャンルよりも“なりきりチャット”の方がいいだろう。私も中学生の時にオリキャラなりきりチャット掲示板で長ったらしい割にはわかりづらいロルを回してはよその子と交流を深め恋愛関係を結ばせていただいたことが何度かある。あちらにはほぼ“判定”というものがない分、よりPLにとって都合のいい展開に持ち込めていいんじゃなかろうか。
ここまで書いて、ただの自分の好き嫌いで解釈違いというだけのクレームまがいな文章になっていることに自分で引いた。
タイムラインに流れてくる「CoCタイマンしてきた〜♥恋仲になりました♥」と心底嬉しそうな報告ツイートに、ふぁぼも祝電リプも送れない意地悪な自分に嫌気が差すし、かといって界隈から離れるには横の繋がりが多すぎて村八分状態になってしまうのが寂しいと抜かす、ただのかまってちゃんで我儘なプレイヤーだ。
あれからすっかり参ってしまって、TRPG用のアカウントにログインしない日が続いていたら10月頭あたりに学級会になってたらしくびっくりです。たいたい竹流さんまで言及する事態になってるとは…。
2ヶ月越しに意見を漁りまくってたんですが、賛同や理解を示してくれる人もいれば口出しせずに放っといてくれって人もいて賛否両論でした。そりゃそうだ。タイトルが攻撃的だったのが燃え広がった原因なのかな?
「合わないなら離れればいい」という意見をとても多く目にしたのですが、当記事に言及ぶら下げてくださってる方が仰ってる「居場所が侵蝕されたがそれだけを理由に切れるような浅い間柄ではない」ってのがまさにその通りで、だからこそ苦しかった。こんなグチグチした恨み言を書くような性格してるから必然的に友達も少ないし、その少ない友達がそんなことになってさらに孤立してしまったような気分になってしまったというのが本当のところで。
一度恨んでしまえば対象が何を言っても気に障ってしまう性分で、そんなタイムラインを見続けるのも精神衛生上良くないと思ってひっそりミュートしてたら今現在その界隈とは疎遠になり、晴れてぼっちになりました。万歳!!
いやね、元から書いてたんですけどシナリオを経た結果うちよそに発展するのは全然いいと思うんですよ。それも一つのロールプレイだと思ってますし、なんなら私にもそういうルートを辿ったPCがいます。
過激派繊細ヤクザすぎて言語化がひどく難しいんですけど、うちよそすることを大前提にキャラメイクしたり、ただダラダラと中身のない会話をするだけで生還報酬1d10貰ったり、初対面から仲良くなり喧嘩したりなんだりで段々と惹かれ合い告白し愛を深め身体を重ね合わせプロポーズして結婚式!って流れを全ッ部「クトゥルフ神話TRPGのシナリオ」にして経験してて、お前は24時間365日神話的事件に巻き込まれてんのか?っていうようなやつが本当に本当にダメで…そこまで神格に寵愛を受けてるのなら今頃ドリームランドか外宇宙へご招待されてるのでは?ってなってしまうんですよね。
言ってしまえばこれもただのいちゃもんです。私が嫌いだから見たくない!っていう近頃流行りの“お気持ち案件”です。当時元身内たちに言いたくても言えなかったフラストレーションが積もり積もってキレ散らかしながら書いた散文だし、こうやって拾い上げられて学級会の議題に据えられることなんて想定してなかったし。
けど、こうやって苦しんでたのが私だけじゃなかったことがわかったことはちょっとだけ安心しました。
書かれそうだから先に書いとこう
「燃えるごみ」「プラごみ」「缶びんペットボトル」「紙類」で分けてる区域なんだけど、特にこのプラごみってもう意味ないんじゃないか?
てか、プラごみって分けてるんだからちゃんとリサイクルされたりしてるもんだと信じてた。矢印に囲まれたプラマークついているやつは全部リサイクルされてるから。
なのに、あぁ、適当にうそこいて他国に売っていたなんて。まじかー超分別してたのに意味ないのかよー。
缶は出しておけば収集車が来る前にそれを生業にしてるオッサンが回収してるから、おーリサイクルされとるなーと安心しているのだけど、実際それ以外はほとんどされてないんじゃないか?
自治体ごとに数値が異なるので…的にお茶を濁すなよ。ちゃんとリサイクルしてくれよ。
子供のころからエコエコ言われて育った世代なんだよ。ちゃんとリサイクルして環境を保ちますって政党あったら投票するよ。
頼むよ国。
父はPC98の時代からパソコン通信をやっていた。通信中に動かすと回線が途切れるだかで、よく近くではしゃぎ回っては叱られていた記憶がある。
それからwindows95が出た。私が高校生の頃だ。父は相変わらずオタクだったから、地元のケーブルテレビの常時接続のサービスを探し出して契約していた。ISDNの出回る前からネットが使い放題だったのはかなり贅沢な高校生だったと思う。
仲間はテレホマンが多かったので深夜から明け方まで毎日交流した。自然と学校は寝る場所と化したがなんとか卒業させてもらった。
遊んでいた人達には大学生が多かった。研究室という場所から接続している人も多いらしかった。またプログラマーを生業としている者もいた。当時よく一緒に同じゲームをしていた奴の一人は院で大層な論文を書き、今はグーグルに勤めていると聞いた。
もちろん中には普通のOLなんかもいたが、今から思い返すと今ほどには普通の人はいなかったと思う。あの頃、インターネットにたどり着くだけでかなりのふるい落としがあった。PCも高価だったし、普通の人がなんとなくインターネットをやれることは少なかったように思う。
それから10年が経って、インターネットはかなり一般化したように思っていたが、今から振り返ればまだまだそんなことはなかった。多くの人はガラケーを通じてimodeという閉じた世界に隔絶されていたし、それが紛い物であることにも気付いていないようだった。
思えばインターネットがたしかに存在していたといえるのは、このあたりまでかもしれない。我々は明らかに隔離されていて、その状況を好ましく心地良いものとして享受していた。
そしてスマートフォンが現れた。ジョブズの大発明は全てを変えた。ジオシティーズやxreaを借りてhtmlを書き、自分の書いた文章が世界に発信される感動を知ることもなく、普通の人がごく当たり前にツイッターやインスタグラムを使うようになった。
もはや、ネットで通じ合うのはそこら辺ですれ違う普通の人たちだ。かつてあったインターネットは消滅して、代わりに現実社会の写し鏡が出来上がった。
ネット空間で人々は毎日諍いを起こしている。口を開けば論争になる。承認欲求や共感がより鋭い言葉を生み出す原動力となり、思想は狭量の免罪符に取って代わり、主義主張は単なるコミュニケーションの手段に成り果てた。
ウェブ空間はアフィリエイターが占拠し、ブログビジネスは大量生産されたゴミの山の大きさを競うゲームに変質した。SNSでは情報商材のようなマイルドな詐欺が横行し、それをインフルエンサーが後押しする。
製品はマーケティングの付録に過ぎなくなり、人々のコンプレックスにはターゲティング広告が容赦なく食い付く。今日もまた、データ至上主義の起業家が全能感を振り撒いている記事が流れてくる。
集合知に感激し、Wikipediaに感謝していた頃、インターネットにはすべてがあると思っていた。だが必要な情報を得るコストは際限なく膨れ上がり、グーグルという神の掌の上にいる我々にはもう何が真実なのかを知る術もない。
インターネットに雷鳴を受け、人生を大きく揺さぶられたあの頃に若者だった人達に問いたい。あなたたちが夢見た世界はこんなものだったのかと。
もしかすると梅田望夫さんはとてつもなく未来が見えていた人なのかもしれないと今更にして思う。
このインターネットに対する深い失望が、日本の困難な時期と重なってしまったことは本当に悲劇だ。分断と先鋭化を生み出すこの装置によって、我々は団結することを阻害されている。
この一、二年でインターネットが有害なものであることはかなり認識されてきたと思う。でも、そこまでだ。問題の存在がわかったところでこのひどい現実を変える方法は見つかりそうにもない。
日本がまだ保っている間に、人々はインターネットの正しい使い方を学び、この地獄から抜け出すことが出来るのだろうか。もう残された時間はほとんどない。
むかし、2ch のスレに書き込んだら、それが火に油をそそぐことになって後悔したことが
あるのだけど、その反省がきっかけとなって、今はウェブアプリケーションの脆弱性診断
を生業にしている。
この十年いろいろあったけど、振り返ればあっという間だった気がする。
http://b.hatena.ne.jp/entry/4668266855964355810/comment/ringomoon
上のブクマ、カメラについて語る増田に対して、何で撮ろうが編集で決まると返しているのだが本当だろうか?
私はしがない映像の編集者で、撮影素材を一本の映像として繋ぐパートを担当している。ばらばらのセグメントを文章に組み立てるような仕事だ。
その立場から言って、そんなわけはない。編集作業は基本的に素材に左右される。
たとえ、ジャンプカットのみのYouTuber編集だとしても、
人物のサイズ感、レンズの歪み、露出、ボケ足、照明、フレア、粒度、ノイズの有無、背景から人物までの空間の広さ、人物をど真ん中にするのか端に寄せるのか、素材の音声にノイズがのっているのか、どんなノイズか、
たぶんもっとあるが、これらを加味して編集すると言うのが前提である。
そして、これらの要素は基本的に不可逆で、編集で変えることはできても、あくまで擬似的。そして、完成品のビジョンによって、必要な要素は変わるわけで、
例えば、
話者の背景にある小物をボカすかで何に集中してもらうか変わる。
生っぽくするのか、フィルム風にするかで生じる説得力が変わる。
もちろん編集を生業にしてるのだから、素材の状態にあった編集はできる。ただ、それが元のビジョンにどれだけ近いのか、映像の中で主張しているもの、話者のキャラクターにあっているか、というのを考えると、成立できるかどうかといえば、あやしい。
どう料理するかはもちろん要だが、そのどう料理するかは食材に左右されるし、意図した料理にするには、意図した食材を用意しなければいけない。
なのでカメラだいじ、超だいじ。