はてなキーワード: 推理小説とは
http://www.sakuranbo.co.jp/special/narou/info.html
>> 1回受講 大人1,500円、大学生700円、高校生以下無料
※12回一括払いの方は、15,000円となります。<<
質問の件に触れる前に前回の補足と今回の質問に関係する部分をお話ししたいと思います。話が長くなって申し訳ないです。くどかったら飛ばして下さい。
ものには何でも「値ごろ感」とでも言うべきものがあり、それはその値段の歴史でおおざっぱに決まっているようです。原価や需給のバランスというのは経済学的には価格決定の要素として解説されるのですが、マクロにはともかくミクロや日常レベルではそこまでビビッドは要因にはなりません(人間の目は店頭で需給バランスが可視化して見えるというわけではないですからね)。書籍で言えば文庫本って500円から1000円弱くらいだよなあ。ハードカバーって2000円から3000円くらい? そういう肌感覚です。もちろんこれは永遠不変のものではなく、値上げしたり値下げしたりがおこなわれ、受け入れられ日常化する繰り返しです。いまから10年ほど前、おそらく文庫本の平均価格は50円ほど安かったと思いますし、僕たちが子どもの頃(というとばらつきがありますが)週刊少年ジャンプは200円を切っていました。
前回はなした「ハードカバー3000円ほどで売り出して、後に廉価版で700円ほどの文庫で出し直す」というのも、この値ごろ感が関係した結果です。最初から3000円の文庫でだし、部数が伸びるに従って値段を下げることは(少なくとも法制上や原理上)不可能ではありませんが、みなさんの「値ごろ感」が邪魔をして、3000円の文庫は購入してもらえないのです。なかには「いいや俺は本棚圧縮のために喜んで金を払うね」という方もいらっしゃいますが、それは少数派です。
さて、値ごろ感の話ですが「ハードカバーって2000円から3000円くらい」の本は売れます。多くは売れません。しかし少なくとも、その規格の本が現在でも毎月出る程度には、世間に受容されているわけです。「この大きさの商品に2000円から3000円くらいは払うよ」というのが一定読者層からは理解を得られていると考えられます。それは文庫も同じです。文庫サイズで500円から1000円弱(じりじり値上がりしています)は世間に「まあ、そんな値段のアイテムだろう」と思われているわけです。パッケージと値段のセットはセットであって、たとえば「ハードカバーと文庫の間の大きさで、値段も真ん中くらい」とか自由に決めてもなかなか浸透しません。書棚のサイズの問題や整理の問題もありますし、なにしろ値ごろ感は皆さんの内部の常識ですからそれを固定化するのに時間やコストがかかります。
角川ホラー文庫とかあとハヤカワとかの、
さてやっとこの話が出来るのですが、「B6程度のソフトカバーで1000円~1500円程度の小説を売る」というのは、最近「発明」されて「根付いた」新しい値ごろ感なのです。
いやいや昔からあったよ、という指摘もあるとは思いますが、いまほど安定できたのはごく最近のことだと思います。(さらに以前はカッパノベルスなどのノベルス判型があった地位なのですが、仮想戦記没落のあたりで徐々に廃れて行ってしまいましたね)
この新しい値ごろ感は、Web小説などをきっかけに広まったように思います(ここは私見です。きちんと統計などを蒐集すれば別の経緯かもしれません)。
新しい値ごろ感の発見というのは、そのまま、新しい読者層の発見でもあります。いってみれば「文庫しか買ってくれないと思っていたライトノベルユーザーが、少し大きめの判型であれば1200円だしてくれるのだ!」というエウレカでした。はっきりとした統計データなどはもっていませんが、現場の肌触り的な感覚で言えば、a)初期ラノベを読んでいた読者の皆さんが年齢を重ね可処分所得が増えた結果、1200円程度のレーベルでも購入してくれるようになった。b)すべての国内大衆小説が多かれ少なかれラノベの影響を受ける中で、文庫判型ではないライトノベル(の隣接したなにか)が要請された――などの実感を持っています。
日常的に書店に行く皆さんであれば判ると思うのですが、ここ数年の間に書店ではB6判型ソフトカバーのライトノベル的な書籍がふえていませんか? Web小説が主流ですがそれ以外の参入や、ボカロ小説と呼ばれるものや、自動文学的なもの、推理小説とライトノベルのハイブリットのようなものも見られると思います。それはこの「新しい値ごろ感」=「新しい判型と価格のバランスポイント」が皆さんに受け入れられ、希望があると出版社が判断したからです。もちろんそれが全面的に善だとはいいません。まだ固まっていない規格でぼったくってやれ、というような出版社やレーベルがあるかもしれませんし、読者的には「文庫で良かったのに」と思われるかもしれません。
とはいえ、新しいチャレンジなど10して1つか2つ成功すれば万歳ですから、この「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジは、最近の出版業界では(かなり)成功した部類だと言えます。
武雄のTSUTAYA図書館の話とか聞いても思うんだけどそもそも図書館ってこんなに必要ですかね?
私は毎朝都心を抜ける地下鉄で通勤してるんだけど50代60代くらいのサラリーマンが
そんなの買えばよくない?
図書館は重くて1万円以上するような、本屋ではなかなか売れないけど残したい本でも所蔵して、
あと本当にお金がない人達の文化的生活や学習をサポートするための絵本や児童書とか、
何十年経っても色あせない文学書だけ置いておけばよいのでは。
500万円以上もらっているであろう正社員サラリーマンが金も払わずくだらない娯楽小説を読み
はてブホットエントリーの30選(http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1141321068543131601)がイマイチ感性に響かなかった(普段読書しない人向けか?)ので、俺選してみる。
【反省会】
本当に推理を楽しみたいんだったら、書いてあることを全部記憶・整理してかないといけないと思うんだけど、凡人には無理だよね。だってそんなことができたら人生苦労しないもん。東大とか余裕で受かりそう(というかそれくらいの地頭が無いと東大は受からない、というべきかも)。
少なくとも俺は無理。だから俺はラブコメを読むような感覚で漠然とした展開だけ追っていって、結末がどうなるかってのを見て楽しんでる。その過程とか伏線とかトリックとかはようわからん(覚えてない)。
推理小説で推理を楽しめる人はよほどの天才なのかな?それとも俺がバカすぎるだけ?
俺の読み方でもとりあえず楽しめてはいるけど、なんか損している感が半端ない。天才しか読めないというのなら諦めきれるけど、凡人でも読めるものだとしたら、俺も読めるようになりたいなあと思ったり。
その前に俺の作品論について語らせてくれ。
まず俺の作品論の結論は、作品は作品の中で語れ、というものだ。
作者の情報は不要なばかりか、もはや有害な情報だとさえ考えている。
デザートは最後に食べるべきだ。
で、面白ければ作者は誰なのか調べる。
作者がどういった人物でどんな思想があってどんなことをしているのか、などを調べる。
JKローリングが自分の素性を隠して書いた本が全然売れなかったのに、
素性晒した瞬間に爆売れしたことがあったじゃん。
作品名は忘れちゃったけど。
そういうのをみると、ああ、ねえな。って思う。
みんな本の内容なんてどうでもいいんだと。
作者のプロフィールは作品を鑑賞する上で一切必要ないはずだし、
必要であってはならない。
その点で増田は作者の情報が常に不詳だから作品論のあるべき形だと言えるね。
お分かりの通り、作者の素性が読む前から既にわかっているからだ。
推理小説を読む前から表紙に犯人はヤスだと書いているようなもんだ。
その本が面白いかどうかではなく、どこに殺人に至った思想があったのか、そのパズルピース探しに必死になってしまうことが読む前からわかってしまっているからだ。
あれを購入しているやつらは、
あれが一体どんな本なのかなんて心底どうでもいいと思っていて、
異常者が異常であるという理由のカケラを作品から拾い集めたいだけなんだ。
仮にあれを殺人鬼でもなんでもないごく普通の俺が書いたとして、お前ら買う?
買わないだろ?じゃあそれはその程度の面白さってことだ。
あの本は読んだのか?読んでないのか?どう思うか?どんな考えを持っているのか、と。
はっきり言おう。どうでもいい。心底、どうでもいい。
あの本に一切興味はないし、興味を持つつもりもない。
いいか、作家っていうのはな、
殺さずして人殺しが書けるし、死なずして死人が書けるもんなんだよ。な?
その点でいうと、あれは俺的によくなかったので手をつけないんだ。
サラリーマンが書いた、主婦が書いた、作家が書いた、素人が書いた、老人が書いた、子供が書いた、日本人が書いた、外国人が書いた、金持ちが書いた、貧乏が書いた、警察が書いた、殺人鬼が書いた。
どうでもいい。誰でもいい。
面白ければ、それでいい。
殺人鬼がどういった思考をしているのか気になるからという理由で売れてるとのことだが、俺はそういった不純な理由が嫌いだ。
人殺しなんてたまたまタイミングと状況の関係で人を実際に殺しただけであって、その他は通常の人間と一緒だろうが。
作者の情報は作品には何ら影響を及ばさない。及ぼしてはいけない。
普段彼がムカデを食ってるとでも?
痰壷に入っていた白濁して塩味のする痰のかかったご飯をとろろかけご飯と称して人に食わせるととでも?
違うだろ。
まあ、アレを購入する人たちはそういう答えは求めてないんだろうけどな。
異常者は常に異常である。
その答えだけを求めて買っているんだろうけどな。
サイコパスの異常な考え方を知ることで、
自分はそれとは違う考え方を持っていることを知る=異常ではないという安心感が得られる。
あるいは、同じような考え方を持っていることで危険な香りに心躍る。
本気で自分がサイコパスだと考えている人など一人もおらず、みな、サイコパスの異常な考え方は娯楽の一つであるとだけ、考えている。
彼らにとって異常者はピエロなんだ。自分達とは違う存在なんだ。
メイクを落として日常生活にごく普通に存在していて欲しくないんだ。
常に、いつ見ても、同じ時に、同じ場所で、同じように、異常であり続けて欲しいんだ。
だから、殺人鬼が自分はごく普通の人間「です」と言っても誰も理解してくれない。
読んでも読む前と同じ感想になっていることがわかっているなら、
実際に読んでも実質読んでないのと一緒じゃん。
推理小説の売れる条件のひとつが、「間抜けなアシスタントがいること」らしい
推理ものの主人公は超絶頭が切れるという設定でないといけないが、それだけしかいないと読者は同じ目線でストーリーに入り込めないんだと
そこにちょっと間抜けなアシスタントみたいな別の登場人物がいると、的はずれな推理をしたときに「なわけねーじゃんばーか」とつっこみながら自分でもものを考えて読める
情報の受けっぱなしじゃなくて自分でも考えながら話を読むので、最後の主人公による謎解きの意外性がきいてくるというしくみ
で、考えたんだけど平凡ハーレムものの主人公のさえなさってのも同じようなもので
間抜けだったり取り柄がなかったりすることで、読者が自然に「こいつより俺のが勝ってんな」と思うんで
「そこはそうじゃねーだろばーか」と思いながら話に入っていくことができる
娯楽もののフィクションなんて読んだあとにいかに気持ちよくなれるかが話のできを決めるんだから
リアリティがあるかじゃなくて読者が妄想しやすい環境を提供できるかってことなんじゃね?と思うわけ
まあハーレムものとかにリアリティを求めてる時点で、「さえない俺がもっと自然に入れる妄想環境つくりやがれ」って意思表示だと思うし
普通のラノベ読者なんて根拠なくても自己評価の高い俺がモテるのが当然と思ってるから、リアリティなんてなくてもモテ妄想余裕よ
だが俺はもう5年以上恋人がいない。
「お前にこのサービス作れんのかよ?」
的な目で俺に話をしてくる。
だが良く考えてくれ。
推理小説を書いている奴らは、一度でも人を殺した事があるのか?
FPSを作っているゲームクリエイターな奴らは、銃を握って実弾を撃った経験があるのか?
ゾンビゲーを作っている奴らは、一度でも実在するゾンビに出会った事があるのかと。
例えば、ドラゴン。
そうだ、雌のドラゴン。
世の中はドラゴンなんとかとか、なんとかドラゴンとか、とにかくまあ、
だが、そんなドラゴンなんとかを手がけている連中の、
…雌のドラゴン、ドラゴンのま◯ことか想像すると無意味に興奮するな。。。
おっと、俺は変態ではない。
話を戻そう。
つまりあれだ。
話を戻そう。
つまり、その、あれだ。
以上、異論はないはずだ。
結局は「誰が」「どうやって殺した」だと思うんだけど、話を読む限り教えてくれた作品は「誰が」だけ明らかにして、「どうやって殺した」を明らかにしていく推理小説ってことでいいのかな?
「誰が」「どうやって殺した」の両方を知っててもなお推理小説って楽しく読めるの?
おお! まだ続ける闘志! 燃え尽きるほどヒート! (訳:続けていただいてありがとうございます)
さっきの強調ポイントやら伏せるポイントやらの話の、延長になるけど。
そして、一分の隙もないような推理小説みたいな舞台の築き上げられたお話に、妄想が十分に遊ぶ余地なんてあるの?
それ話が成立しないから。もうちょっと、ユルさというものを楽しまないと、読書も人生も大きく損をするよ。
というか、人様のただの日記に顔真っ赤にして十時間もケチつけ続けて、それ本当に楽しいの?
他の話題とかないのお前ら?
いや、私の方としてはとても有難いというか、アクセスが増え…ゲフンゲフン。いや何でもない。
とにかく迷惑だ!
一応最初に言っておくが、ロイド探偵事務所に居るもじゃもじゃ頭の真音嬢ことマーニーとは関係が無い。
喘息の発作持ちで、引っ込み思案で、うまく周りと関係を築けない絵を描くのが好きな女の子、杏奈が主人公だ。
そこそこの漁村であり、どうやって生計を立てているか良く判らない家具職人とか、地域の顔役になってる上がりかまちがある家のPTA会長っぽい人がいる街で、主人公の杏奈は絵を描いて静かに過ごす。そして洋館で金髪の少女、マーニーに出会う。
アリエッティの監督が描きだす、間違いなく日本の田舎でありながら、それでもなお美しい。
招待されたパーティーで、マーニーが男の子とダンスを踊ると、なんだか面白くない。
そうして過ごしていく杏奈は、現実と空想とが入り交じったような、不思議な体験を繰り返す。
自分が必要として、必要とされ、友情ではないような、約束のような、愛情のような、そんな純粋な少女の心の機微。
静かで、美しく、そして、ほんの少しだけ現実が入り交じる、結論のない成長の物語。
ほんの少しだけの成長と、ほんの少しだけの奇跡のような出会い。
日当五千円プラス必要経費で初恋の相手を探すもじゃもじゃ頭のマーニーとは関係のない、そんな物語だ。
個人的には、じゃもじゃ頭で友達思いで、仕事に誠実なマーニーは個人的にはかなり好みのタイプだ。
ハッキリ言ってあの水着姿は反則レベルで可愛い。ミーハーでイケメンに弱いのも女の子っぽい。
推理小説では無く、殺人事件もなく、それできて探偵小説ではある。
幸せな気分に浸るために他人の結婚式に参加する趣味のあるゆりかちゃんに振り回されながらも真摯に仕事をこなすマーニーは、とても可愛らしい。
名探偵マーニー、週刊少年チャンピオンで絶賛連載中だ。是非一度目を通して、彼女の魅力に心を打ち抜かれて欲しい。
あ、思い出のマーニーも凄い良かったですよ。なんと言っても映像が綺麗だ。
仕事の合間にエロゲをやりつつ無聊を慰める日々のなかで、ふと疑問に思ったことがあるので、この場を借りて聞いてみたい。ちなみにいまやってるのは「くるくるくーる」だ。けっこうおもしろい。
エロゲには数多くの定番シチュが登場する。たとえば水着イベントだが、俺にはあれがよくわからん。どうせエロシーン出てくるわけだし、水着ごときで抜くわけにもいかぬ。そもそもだ、俺は学生時代を通じて彼女と呼べるものは一人もいなかった。つまりエロゲで出てくるたいがいのシチュエーションは経験したことがない。エロゲのなかには実在が疑わしいイベントも多々ある。そこでだ、以下のイベントに関して、実際に経験がある人がいるのかどうかを知りたい。
海、プールを問わずだ。そもそも中学生や高校生の男女がグループで、あるいは2人で海とかに行く状況というのがまったく想像できない。どこの国のお伽話だそれは。
・サンオイル塗る
これはもっと実在性が疑わしい。おかしいだろう。公衆の面前で、その、異性の肉体に粘度の高い液体状のものをにゅるにゅると塗りつけくすぐったいけど我慢したりときどきくすぐったいのでは済まなくなったりそれはなんというか端的に言ってセックスなのでは? いや、むしろセックスだろう。
あるのかこれ。そもそも俺は自宅に幼なじみがメシ作りにくるシチュエーションにも懐疑的だが、これは家族同然のつきあいがある幼なじみがいるとするなら理論的にはありうる。しかし弁当は。「買わなくていい」「学食を利用しなくていい」以外にあんまりありがたみを感じないんだが。しかし自分が女の子になったらやってみたくはある。
・「あーん」
これもわからん。つーかこれこそは実在を疑う。魅力に関しては、自分が食わせてやる側ならばなんとか想像が追いつくが、食わせてもらう側としてはよくわからない。楽しいか? あとスプーンならともかく、箸だと、おかずはともかくごはんについては食わせるのにかなりの技術が必要なのではないか。落下の危険性が高い。ここで実際に試されているものは愛情とか恋人どうしとしてのアレとかではなく、箸を使う技術なのではないか。
最近のエロゲはぱんつ見えるまでの時間が短い。どうかすると初登場からぱんつ見える。まあそれはいい。場合にもよるが基本的にぱんつはありがたい。しかし実際になんらかのハプニングによりぱんつが見えたとか、おしっこしてる現場に出くわしたとか、空から女の子が降ってきてお尻から顔面に着地とかはそうそうあるものとは思えない。あれ見るたびに頚椎とか無事なのか気になってしょうがないんだが。まあ実際は作劇上の必要性によって生じたものだろう。しかしどうなんだ、扉を開けたら女の子がおしっこしてて「いやぁ、止まんないよぉぉ!」とかリアルに存在するのか。
・お医者さんごっこ
これについては、どうやら都市伝説ではないらしいという傍証を過去に得たことがある。一例がある以上、ひょっとしたら人の記憶の闇に葬られたお医者さんごっこは無数にあるのかもしれない。なお、せっくすごっこは後藤寿庵先生がマンガで実現してくれた。思い残すことはない。
以上、実在するかどうかを問うのが野暮なことはわかっている。また上記のシチュに自分が興味がないからといって、だれもがそうではない、ほかのだれかにとっては「あーん」がかけがえのないイベントであることだってもちろんありうるだろう。もとよりフィクションの話だ。
しかし推理小説における「殺人」などとこれらのイベントが違うのは、恋愛関係の表現として描写されていることだ。そして世に恋愛関係は腐るほどある。物理的にも倫理的にも可能である。ならばどこかでだれかがやっているのではないか。俺はそれを知りたい。知ってどうなるものでもないが、知りたい。