はてなキーワード: 壮年とは
俺から見たらよくいるうんちくおじさんと良妻(男)って感じの二人だ
原因はおじさん側のワンマンっぷりが度を越しているせいだと聞いた
ゲイカップルが長続きする秘訣は結局のところ一つで、相手を束縛しないというその一点に尽きると俺は思ってた
もっと踏み込んだ言い方をすると、自分以外の男との性行為を黙認するってことね
アホはその黙認に乗じて相手にわかるように他の男にセックスするからそれで破綻したりするけど、
もちろん何でもOKって意味合いではなく「セックスしてもいいよ、ただし俺にわからないようにやってね」という黙認
そこらへんに転がってる平凡な容姿のお兄さんでも、多少体型と清潔感と自撮りの盛れ具合に気を使えばヤり放題である
まわりのゲイがやり放題なのに自分だけ…というのはなかなか難しい話のようで、
浮気を許さない男女カップル風のお付き合いは3か月が賞味期限になりがちなのだ
だから、二人でセックス相手をシェアするほどオープンな二人が10年持ったのは頷ける話なのだが、
逆にこのやり方だと10年で限界が来るのか、という妙な納得感があった
何しろおじさんと良妻(男)の組み合わせだから、釣れる相手が全然違う
良妻(男)が釣ってきた相手におじさんががっついたら逃げられる率は高いだろう(たぶん)
10年という月日は二人の関係性を壊さなかったのかもしれないが、二人の立場を変えていったのだ
ダンディな壮年がわりと普通のおじさんになり、繊細そうな青年は良妻(男)になった
お相手のシェアというやり方がうまくいかなくなるのはもはや当然とさえ言っていいかもしれない
それにしても、10年。
どんな日常だったんだろう?
※これはフィクションです。
ネタがない。
正確に言えばネタがないわけではない。使えないのだ。
風刺したい、あるいはオマージュしたいテーマはそれなりにある。
しかし、自分の好みであるネットミームの揶揄は、悪意の第三者から「私人を侮辱するとは何事か」と物言いがつく。
オマージュにしたって、まず最近著作権が小うるさい。最近だと約十万歳の某悪魔に纏わるトラブルなど、その面倒臭さの代表例ともいえる事件だ。
自身だって、ネットでカルト的人気を誇るパペットキャラクターのイラストを公表したところ、悪意など表面上は欠片も見えないにも拘わらず元の作者(?)からクレームが入り、下げたくない頭を下げる羽目になってしまった。
それにそもそも、際どいパロディは概ね編集からボツを食らう。そして面白いパロディは大体際どい。
PC画面に、真っ白のハコが縦に四つ並ぶ。いや本当は真っ白ではいけないのだ。
少し旬を過ぎたが、淫行で最近解雇された壮年アイドルはどうか。あるいはアメフトの件。あるいは例のあの殺人事件は?
いやどれも明確な被害者がいるため、どうせ不謹慎だと担当が許さない。
8万円のシャンパンタワーを皮肉るのはどうか。これはいけそうな気がするとネームを描いてみる。
描いては消し、描いては消し……
だめだ。面白く描こうとするとどうしてもディスり芸になり、角が立つ。
途方に暮れる。
こうしていたって埒が明かないと、気晴らしやネタ探しを兼ねてネットの海を漂ってみることにする。
そうしているうちに、既に知っているネタでも頭の中でうまい具合に整理できて、使えるものになるかもしれない。
スタイラスをマウスに持ち替え、まずは yahoo ニュース、つぎに5chのニュース速報、と思いつくままにリンクを辿っていく。
そうやって十分、二十分と経ち、そのうち話題になっている事象に対する巷の反応が気になり、ツイッター上の様々な呟きを閲覧するようになっていた、そのときだった。
あるウェブメディアのデスクと肩書がある男のアカウント、彼の最新のツイートに目が留まった。話題にしているのは自分の漫画である。
絵が苦手。
まずそう書いてあった。続けて、より詳しく、作風そのものもそうだが、特に「目」に嫌悪感を抱くとも。
そして極めつけは、締めの一文である。そのような苦手意識に対する共感の意思表示を促すような、そんな問いかけがなされていた。
初めは戸惑いだった。そして、次第に、わな、わな、と、怒りが込み上げてきた。
なんだこれは。俺が毎日どういう苦労をしてどれだけ悩んで漫画を描いているのか知ってんのか。何年かけてこの画風、目の表現を身に付けたと思ってる。アレか? 逆張りか? 同人上がりのカジュアル漫画家が気楽にチャチャッと描いたように見える作品モドキがこれだけのムーブメントを巻き起こしている、そのことが気に食わなくてこんなことを言ってんのか? 大体、俺が他人様ディスるのをこれだけ我慢しているのに、よくもこいつはこんな好き勝手に他人のコンテンツを苦手だの怖いだのいけしゃあしゃあといえるな。ウェブメディアのデスクってのはそんなに偉いのか? こんな理不尽があるか。
憤りは沸々と激しく煮立ってゆく。目の前が真っ赤に染まっていくような錯覚。
いったいどんな奴がこんな糞みたいなツイートをしているのかと、bioに目をやる。
そして、彼のウェブメディアの発行元の企業名を見て、更に愕然とする。
これは仲間殺しだ。それも共感者をまず集め、そいつらと背後から一斉に俺を撃ち殺そうとしている。
怒りは留まることを知らないが、その中で彼はふと、妙案を思いつく。
かつて自分も同様のことをやらかしかけたことが何回かある。そしてその度に担当編集などから怒られてきた。
「嫌い」「苦手」というネガティブな感情をあからさまに言うのは、後で面倒なことになるからウチではタブーなのだ、と。
ましてそれが自社コンテンツやスポンサーに係わりそうなことであれば猶更である、とも。
だとしたら、この鼻持ちならない高学歴意識高い系野郎も、この件でこっぴどく怒られて然るべきではないか。
社会人かつ公人たるものが、ステークホルダーと少しでも係わりそうなものをネガティブにいうのは、然るべき人から怒られるべき愚かな行為なのだ、と。
そしてこの業界は、どこで誰が繋がっているのかわからないのだから。
俺は怒られた。オマエも怒られろ。
おばさんは家にいて欲しいんですよみんな。
幼い子どもを託児所なりベビーシッターなりに預けて社会で活躍したりどこかへ冒険したりする女性は滅多なことでは描かれない。
30歳から40代前半の壮年女性は働き盛りで実社会では保育園が足りないぐらいなのに
女性作家の育児もの以外のマンガやアニメではそうしたお母さんが主役や準主役級になることは非常に稀。
たまに主役級になってもテーマが不倫だったり母性のあり方だったりと妻あるいは母という役割を当然のように押し付けられる。
壮年男性のキャラクターは父であったり夫であったりということとは切り離されて
主人公の上司であったり先生であったり仇敵であったりとさまざまな役割を与えられるのに
レギュラーキャラの壮年女性が妻や母といった役割から逃れられることはほとんどない。
実際には30歳以降の女性キャラクターが主要な役割から排除されているのにも関わらず
マンガやアニメで活躍の場を与えられていないおばさん=中年と決めつけてかかっている人が多いのも
女性の壮年と中年を区別することに意味がないと思っている証左。
主要キャラクターは若いほうが華があるということに男女の区別はない。
にも関わらずおじさんと比べておばさんが物語の深い部分に関与することができないのは
要するに30歳以上の女性がその女性性とは無関係に家の外で活躍することを拒絶してるってことなんですよ。
美醜だけの問題じゃないんです。
できれば劇的に人生がマシになると思うんだよな。
まず「キモイ」を取ると「キモくなくて金が無いオッサン」になる。
地元の工業高校卒の工場勤めや現場職のマイルドヤンキーなどがこの人種だろう。
金は無くともキモくないのでとりあえず適齢期前後で嫁は捕まえられる。
ダブルインカムで「金が無い」という問題はある程度カバーできる。
コミュ力も問題ないので旧来の友人や快活な同僚たちと狭く深く付き合うこともできる。
派手な暮らしはできないだろうが嫁と粛々と働くことで人並みの幸せは手に入れられるだろう。
ただし地方に蔓延するパチンコ沼や風俗沼に嵌ると生活が瓦解するので注意が必要。
次に「金が無い」を取ってみよう。
「キモくて金のあるオッサン」、中小企業の成金社長やB級病院長などだな。
このタイプは人格破綻しているパターンが大半だが、いかんせん金だけはある。
東南アジア出身の若くて可愛い娘を囲うなど醜悪な金の使い方をする。
ダサい高級セダンを乗り回し、コンクリ張りの要塞に住む。厳つい玄関に自動開閉シャッター、セコムのロゴ。
キモイので身の丈にあった幸せは掴めずに壮年期で悲惨な最期を迎えることが多い。
ただ金に物を言わせてやりたいことはすべてやるので案外楽しそうに暮らしている。人生に一片の悔いなしだろう。
そして「オッサン」、3つの要素のうちで最も重い十字架である。老いとは不可逆であるからだ。
「キモくて金が無い若者」、なんというありふれた響きだろう。こんなの理系界隈ならゴマンといる。
正直「若さの持つバイタリティーとポテンシャル」+「行動力」があれば「キモさ」も「金が無い」も超克できる。
KKO諸兄は若い時分にここに気が付けなかったからみっともないKKOに落ちぶれてしまったのだ。
ということでKKO予備軍の皆さんはKKのいずれかを全力で除去することに注力されたし。
体力・気力・精魂が残っていれば、の話だけどね。
男尊女卑がなぜ起こるのかは、生物学的な配偶システムが大きく関わってきます。
動物社会には男尊女卑(オットセイなど)、男女平等(トキなど)、女尊男卑(アンコウなど)のいずれのタイプも存在します。
なぜそうしたいろいろなタイプが生じるのかというと、♂と♀との間に繁殖適齢期までに生き残る数(これを生物学では「第三次性比」という)にあまり差が出ないタイプや大きな違いが生じるタイプの動物があり、少ない側の性に希少価値が生まれるからです。
ではそもそも、性別によって適齢期までに生き残る数に差が生まれるのかというと、少し専門的な話になりますが潜在的繁殖スピードに性差が生じるからです。潜在的繁殖スピードが他方の性より遅いと、出産や育児によって次の繁殖までにかかる時間が長くなり、配偶者獲得の場面であぶれにくくなります。逆に、他方の性は配偶者獲得の場面であぶれやすくなるので、配偶者獲得競争が生じやすくなります。そこで、大きく筋力の強い体を作って同性が繁殖するのを邪魔したり追い払ったりして配偶者を独占しやすくなるのです。しかしながら、大きく強い体を作るのにはそれなりのコストがかかるので、生存率が犠牲になります。
例えば、トラは♂が♀より体重が1.5倍近くあり、テリトリーの広さで♂が♀の3倍ほどありますが、♂と♀とのテリトリーの広さの違いはそのまま生存率の違いによるものです。独立して自分のテリトリーを獲得するときに同性同士で争って死んでしまうことが♂は♀と比べてはるかに多く、♂は♀と比べると壮年期までの生存率が1/3程度になります。つまり、♂の方が体が大きくて力も強く、支配できる土地が♀の3倍ほどもあり、♂のテリトリーには数頭の♀のテリトリーが重なる形になります。このため、生き残った♂一頭当たりの経済的資本と繁殖機会は生き残った♀の3倍ほどもあるということになります。
つまり、生き残って次世代を生み出す年齢帯で♂♀一頭当たりの食糧獲得機会と繁殖機会に格差が生じる動物は、男尊女卑(女尊男卑)タイプといえます。
ライオンなども同様で、繁殖適齢期まで生き残る確率は♀の方が高く、少数の♂が多数の♀を従えるという構造の群れを成します。
オットセイやアシカなどはこの傾向が非常に強く、数頭の♂が数十頭から百頭もの♀を従えるハーレムを作り、配偶者獲得競争に敗れた(不戦敗も含む)十数頭のあぶれ♂がハーレムを奪うか、ボスが狩りに出かけたり睡眠に入った隙を狙って♀と交尾する機会をうかがうためにハーレムの周りを取り巻くという形態が生まれます。
人間はトラやライオンほどではないにしても、♂の方が潜在的繁殖スピードは速く、構造的にやや男尊女卑になりやすいタイプの動物だとは言えます。
また、文化人類学の見地からは、ジョージ・マードックによる無文字社会の研究から、結婚適齢期における男女比(生物学では第三次性比という)が1:1から大きくずれてしまうことが一夫多妻制や一妻多夫制といった複婚制ができる土壌となることを明らかになりました。
ヒトの一夫多妻制社会は、無文字社会では狩猟や戦争などで死亡率において男性の方が高いこと、女性は性成熟した15歳付近で結婚する人が多く、男性は社会的自立を確実なものにした25歳くらいで結婚する人が多く、婚姻年齢に差があるため、15~25歳の年齢帯で男性の死亡率が高いことが多い無文字社会では結婚適齢期の男女人口比で女性の方がはるかに多くなることが原因で形成されるとされています。
ヒトの場合も、第三次性比が偏ることが配偶機会の性差をもたらす点で、他の動物と基本的相違はありません。また、経済資本の争奪戦も異性間より同性間で強くなる傾向があり、これに勝った少数の男性が多数の女性を経済的にも支配し、敗れた多数の男性が排除されることから、経済面でも男女格差と男性間格差が顕著になる点も他の生物と同様です。
そして、富や繁殖機会の偏在は狩猟社会より農耕社会の方が顕著になりやすいです。こうして富や繁殖機会をより多く占めた男性が権力をふるうようになり、男尊女卑社会が形成されるのです。
また、文明化の恩恵によって男性の死亡率が下がり、結婚適齢期の男女人口比が1:1に近くなって性別による経済的利得と繁殖機会の不平等をもたらす生物学的基盤が失われても、一夫多妻型婚姻制度や男尊女卑が文化社会制度として強く根付いてしまうと、なかなか解消されずに継続されてしまうことが多くなります。
ツイッターでとあるカップリング専用のアカウントを作っていて、そこで細々と二次創作を楽しんでいる34歳の壮年の男。
下は10代から上は50代まで様々な年齢が入り乱れているが、数年前から「さぎょいぷ」という言葉を目にするようになった。
さぎょいぷとは誰かと話しながら絵だったり勉強だったり何かしらの作業をしながらスカイプすることを指す。
これを知った時、新しい感覚だなぁと凄い感心した。スカイプで話しながら何か作業するなんて自分にはとても出来ないなと。
でも、ちょっとやってみたいと思った結果、36歳壮年男性とすることになった。
「さ、さぎょいぷします?」
「し、しちゃいます?」
と文面でもキョドりながらお互い照れながらさぎょいぷをしたが、
「あ、あれいいですよね」
「かわいいですよね」
「「デュ、デュフフwwww」
会話の半分以上がデュフフを占める非常に耳障りの悪いさぎょいぷとなった。
それを経て今ではたまに会い、居酒屋でデュフフ笑い合う関係になった。
さぎょいぷ(手は完全に止まっていたけど)は一度きりで終わった。
さぎょいぷ出きる人が羨ましい。
https://anond.hatelabo.jp/20170827163748
〉行動を変えれば、運命は変えられる
〉凝り固まった考え方では運命は変えられない。花火は平面の場合もあれば、丸い場合もある。
〉のような、能動的なメッセージを伝えようとしているあたりが違うところですね。
本作品では、遡りを繰り返すたびに世界が変形し(変化ではなく)、事実が歪められていっている。
その状況を、しかも決して肯定的に描いているように見えなかった。
(口にすれば陳腐だが、儚い夢を経て現実に帰る物語のように見える)
そのことからして、「行動を変えれば運命は変えられる」なんて強権的なポジティブさよりも、むしろ「人生、どんな状況であれ選んだ場所が真実。腹を決めてその状況を生きろ」という明るい諦念を自分は読み取った。
ロスジェネが壮年を、バブル世代が中年をもがきながら手探りで生きているなかで、過ぎていく人生の夏を惜しむ気配も感じた。
そのあたりは、製作者自身の感情も反映しているのではと想像するし、作品選びからして、壮年・中年の心の琴線に触れたいという意思を感じた。
だから、ブコメの「キモくて金の無いおっさん向け」というコメントは、案外良い筋だと思っている。
まあ見方は人それぞれ。どれが正しいとかは無いのだけれど。
(追記)
whkrさん
誤読すまない、お恥ずかしい限り。
かつて、いろんな作品にあらわれる魔法少女あるいは変身少女の類は、比較的長い時間をかけて変身していた。
特定の掛け声の発生のもと身体が光輝に包まれ、一瞬身体をさらけ出す。昔のお宅はここに興奮したのだという。
これは、魔法少女のグッズ販売という商業主義への兼ね合いのもと、20世紀後半から21世紀初頭にかけての常套表現として、当時人口に膾炙していた。
こうした風潮を自覚的に打破したのが、オベリスク護国寺という制作会社にいた田町ボラギノール監督である。
氏の壮年期の作品『魔法少女平塚★ハル』では、主人公の平塚らいてうが、裏切り者の転向者を誅殺する場面がある。
裏切り者とアジトで二人きり。コーヒーを飲みながら他愛のない会話。
一瞬にして平塚ハルは変身し、魔法少女がよく持っている戦術ロッドを相手にたたきつける。
相手も隠し持っていたグロックをハルに向けようとするが、魔法少女の魔術的スピードにはかなわなかった。
共産主義と女性解放運動との兼ね合い、共産主義者の転向とをからめた悲しい裏切りの誅殺シーンである。
『魔法少女★平塚ハル』の興行的な成功もあって、次第に無詠唱で変身する魔法少女が増えるようになった。
増田諸賢もご存知の通り、2050年代では、場面の切り替わりや、一瞬柱や扉に隠れた間に変身し、急襲する魔法少女が当たり前になっている。
こうした表現の変化にどのような意義があるだろうか。
一つは、詠唱変身時代の不自然な時間超過を回避することができる。
21世紀においてもさんざん議論されたことだが、なぜ敵は魔法少女が変身中に攻撃しないのか。
当時の魔法少女モノは、この問いに対する有機的な答えを用意することが、ほとんどできなかった。
田町ボラギノールはこの問題を鮮やかに解決する。すぐ変身しちゃえばよかったのだ。
詠唱変身時代から風潮のあった、かわいらしい魔法少女がシリアスな展開に巻き込まれる、という物語の構造がある。
ここでは、華やかな詠唱変身は、作風に全くそぐわなかった。誰が裏切り、誰が殺されるのか? そんな作風の中で、かわいらしく時間をかけて変身するのは文脈的ではなかった。
だから、速攻で変身して速攻で相手に攻撃を仕掛けるという無詠唱変身時代の魔法少女は、シリアスな作風から歓迎された。奇襲を仕掛ける、さまざまな手段がアニメや漫画でなされた。
また、魔法少女モノのお約束で、自分が魔法少女であることを露見させてはいけない相手がある。
こうした相手に対する、「ばれないようにする表現」も、素早く変身することで色んな可能性を持つことが可能になった。
近年、回顧主義なのか、詠唱変身する魔法少女が再び見られるようになっている。
ただし、なぜ詠唱変身から無詠唱変身へと至ったのか。どの時期にだれがそうした変化をもたらしたのか。変化した結果、どのような効果をもたらしたのか。
性犯罪の被害率などから、一般的には男性より女性の方が性の対象として見られる比率が高いと思われているが実際はどうだろうか?
確かに、性犯罪の被害にあったことのある女性は、性犯罪の被害にあったことがある男性より遥かに多いが、
「性の対象にされる」というのを性犯罪などの「行為」を行う対象ではなく、いわゆる「性的なまなざし」を向ける対象という意味で捉えると、
男性が女性に向けるまなざしよりも、むしろ女性から男性に向けられるまなざしのほうが広く深い用に思える。
例えば、男性向けのアニメや漫画、アイドルなどのコンテンツで出て来る女性の多くは若く、目が大きく、髪が長い。
年増キャラなどにおいても、見た目は現実の女性に比べてだいぶ若くがかれている。
一方で女性向けのコンテンツに目を向けると、そこで消費される男性像は少年から壮年まで幅広く、
ハゲやちびやデブといった一般的にマイナスと言われる要素もある種の清潔感がある前提ではあるが許容されている。
近年で言えば星野源のようなイケメンとは言えない男性が人気を集めていることからもそれは伺える。
これらのことを考えると、性的対象とされる比率を単純な数で表したならば、そこに有意の差はないと思われる。
むしろ結婚などの社会的な状況においては、年齢や容姿などの変えられない資質を努力次第で美点に変えられる男性の方が有意であり、
タイムリミットが存在し厳しい、ルッキズムにさらされる女性の方が不利と考えられる。
いくら需要となる容姿や年齢の幅が広くても、男性自身の対象範囲が狭い以上、小さいパイを奪い合うことになるのは必然である。
まして若い女性は同世代の若い女性のみをライバルとしていればいいのに対し、男性はほぼすべての同性がライバルということになってしまう。
役得って書いたとおり、いっぱい勉強してたご褒美にそれくらいのものはあっていいと思う。
底辺の生存権を保障するのはまあ勝手にすればいいけど、進学校に通って旧帝大入って国政に携わり続けて天下りありませんって、無慈悲すぎる。
というか他のトラバすんのめんどくさいからココに書くけど、生産性低いとか茶啜ってるだけとか、どうでもいい。
そういう奴らよりトータルで使えてこれなかったのが悪口言ってる連中なんだよな。
ガキの頃に勉強しないで甘ったれてばっかりでボーナスステージ使い切ったくせに、壮年期にボーナスステージ始める人達を叩く資格なんかないから。