はてなキーワード: ジャズとは
http://www.music-an.com/entry/composition/major
http://www.music-an.com/entry/composition/diatonic-chord
http://www.music-an.com/entry/chord-progression
上のような記事がブクマを集めていて喜ばしい一方で、少し心配になることもあったので書いときます。
こういった音楽理論の手ほどきは、小説で言えば「字の書き方や原稿用紙の使い方」、絵で言えば「画材の使い方や絵の具の特性」を教えているだけで、これを読んだだけで即座に楽曲をクリエイトできるようになるかというと、そうではない、と私は思っています。
したがって、もしこれ「だけ」を読んで曲を作れなかったとしても、あなたに才能がないとかあなたが作曲に向いてないということには必ずしもならないので安心してください。
辞書にはたくさんの言葉が載っていますが、それを全部丸暗記したとしても小説は書けません。本をたくさん読んで、いろいろな言葉の実践的な使い方と効果を知り、生きたものとして操れるようにならないと文学表現とは言えません。
絵だって、どんなに豪華な画材を揃えても、どんなに高機能なソフトを買っても、気が遠くなるほどのデッサンや模写や習作を通じて表現技術を自家薬籠中のものとしないと「うまい」と言われる絵はきっと描けないと思います。
作曲にもこの読書、デッサン、模写に相当する実践的な訓練プロセスが不可欠だと私は思っています。
もちろんそれなしでも作曲はできるでしょうが、1曲作るのにやたら時間がかかるわりにちっとも説得力のない、どこか不自然な素人っぽいものしかできないと思います。それでハッとするようなものができちゃうのはきっと一部の天才だけで、ふつうは語彙の足りない子供が書いた文章のように幼稚で深みのないものになってしまうでしょう。
具体的には「耳コピ」です。100冊の理論書を読むよりも1曲の全パートを耳で完コピするほうがずっと力になります。
もちろん、音楽理論の知識があるとないとでは耳コピの効率が段違いなので、できれば上の連載は頭に入れておいたほうがよいでしょう。上の連載がどのくらいまで続くかわかりませんが、たぶん四和音はやると思いますし、調と四和音までわかっていれば世の中の軽音楽の大半はおおむねコード進行を把握できます。
ただしジャズはいろいろ複雑なのでいきなり耳コピに挑戦しちゃだめです。「JPOPだけどジャズっぽくてステキなやつ」もだめです。ふつう「ジャズっぽくてステキな要素=複雑なコード進行」だからです。コードを複雑化させずにジャズっぽさを醸し出すことはできません。ここでは一般的なJPOPやアニソンを想定しています。
さて、コード進行を学ぶとっかかりとして、まずは好きなアーチストのアルバムまるまるひとつの「ベースラインだけ」を耳コピしてみましょう。ベースラインは基本的にはコード進行のルート(根音)の移り変わりをそのままなぞっています。コード名の頭の字のところだけ(Cm7であればCつまりド)を弾いているのです。「コードの動き方」をおぼえるには最適ですし、ベースという役割の楽しさも感じることができます。
中には忙しいベースラインもあると思いますが、そういうのはカッチリとコピーする必要はありません。こまごまとフレージングされているベースでも、ひとつのコードの「中」で動いている場合と、コード進行に「合わせて」動いている場合があります。前者の場合、たいていは小節の頭で弾いている音がルート音なので最低そこだけとれていればよいです。
何曲も何曲もベースラインを拾っていると、ベースラインの動きって意外と単純で、しかもおぼろげながら法則性のようなものがあることに気づくでしょう。もともと鍵盤などの素養がある人なら、そのうち「次はこう来るかな」とベースラインの先読みすらできるようになっていき、やがてふだん好きでよく聴いているような曲ならぶっつけでいきなりベースパートを弾けるかもしれません(ベーシスト諸氏、わかるよね笑)。
鼻歌まじりにベースラインをコピーできるようになったら、そこでコードに挑戦です。一般的な軽音楽の曲で使われているコードは、大部分がトライアド(三和音)か四和音です。上の記事で概要をつかんでおいてください。上の記事に出てこないような凝った和音は曲中に出てきてもせいぜい1、2箇所です。乱暴ですが、ベースがCを弾いていたら、「C」「Cm」「C7」「CM7」「Cm7」のどれかがまず当てはまります。曲に合わせて当てずっぽうで和音を弾いてみて違和感がないのが当たりです。
調(キー)を理解していると、当てずっぽうの精度が飛躍的に向上します。曲の調とルート(ベース)が決まると、和音はなかば自動的に決定されるからです。キーがCメジャーの曲でベースがAを弾いてたら、コードはふつうAmです。なぜなら、A(メジャーコード)の構成音であるC#はCメジャーというキーの曲には出てこないからです(たまに使うけど)。あとは7th(ソ)を足してみてしっくりきたらAm7だよね、というふうにコード名を絞り込んでいきます。話が難しくなってきたかな?
コードもベースのときと同じで、数をこなしているうちに法則やお約束、パターンが見えてくるでしょう。定石とでも申しますか。そうなればしめたものです。このとき、上の三番目の記事で説明しているⅠ、Ⅳ、Ⅴなどを意識しながらコピーしていると「違う調でも同じ動き」が見つけられるので、パターンに気づきやすくなります。たとえばキーがCの時のAm→Dm→G7→Cと、キーがFの時のDm→Gm→C7→Fは同じコード進行なのです。大丈夫ですか? ついてきてますか? まあこのへんは上の連載が説明してくれる/くれているでしょう。
こうやって、様々なタイプのたくさんの曲をコピーすればするほど、あなたの「コード進行の引き出し」は増えていき、もっとも適切なタイミングでもっとも効果的なコード進行をメロディに与えられるようになります。
どのくらいの経験を積めば満足にそれができるようになるかは、あなたが目指している音楽のタイプにもよりますし、あなたが今までに積んできた音楽の経験にもよります。エレクトーン習ってた人なんかはアッという間だろうし、クラシック畑の人はちょっと苦労するだろうし、「未経験。今カシオトーン買ってきた」みたいな人は地道に取り組んでください。
あ、上に書いたようなことができるようになるまで作曲するなと言っているわけではありません。球技でも、グラウンドに出てボールを使ってする練習だけじゃなくて、走り込みや筋トレもやるでしょ? そのノリで。
エレキギターとかは好きだけど安らぎのイメージと遠いな、アドレナリン
意外にニューウェイブ?に多い気がする、違うかもしれない
J-POPって疲れる、話し声みたいだし飽きるでも英語POPも聞き飽きたら同じなんでしょう?
だから増田お勧め欲しい自然とかジャズとかテクノとかあたりでもいい何か落ち着ける曲やテンション地味アゲれる曲がいい
あーヒッポホップも聞く、良い曲多いと思うリズムを取ってるのがいいと感じるうるさいのは好きじゃない
ちゃんと左右に揺れてる曲が好き楽しませる曲が好きジェットコースターの曲が好き静かな怒りみたいなのも好き
だから聞き続けることが大事?みたいな自分の内在意識が変わることで認識が変り新しい曲が古くなる
でもJ-POPも聞く色々いってて聞くやっぱり良い曲はいいからでも何度も聞けない人の声
世の中には一概には言えないことが多い。
いろいろなニュースを読み、一概には言えないと思いつつ他の人のコメントを見ると、「これはひどい」などのタグを使って断定的に語っている人などもいて、「この人は一概には言えないとは考えないのか」などとぼんやり思ったりする。何か自分もコメントを書こうとする。しかし一概には言えないと考えて書くのをやめる。その繰り返しだ。
一概には言えないのだから無責任な100文字コメントなどするべきではないと考える。ただし私のこうした態度についても一概に言えないところがあって、一概に言えないとはいっても態度を保留するのではなく何らかの立場から積極的にコメントしておくことも必要であるという考え方もあるだろう。しかしこれについてもやはり一概には言えず、一概には言えないということだけは私は言うことができるが、何らかの立場からのコメントは私にとってやはりどこまでいっても一概には言えないものでしかなく、私はその意見について100%の責任を持つ自信がない。そういった無責任な参加がどこまで許されるのか。
ある一概には言えない事象について断定的なコメントをしたとする。そのとき私は他の人から「一概には言えない」と批判される可能性がある。そして私はその批判が一概には言えないとは言えないだろうということを知っている。何か発言するたびに私は「一概には言えない」と他の人から批判を受けるだろう。そしてその批判は正しいだろう。一概には言えないのだ。
そこで私の選択肢は以下のとおりだ。
一般的には3番目を選ぶ人が多い。自分が考えたことをある意味で無責任に書く。もちろんその行為には「一概には言えない」という批判がつきものである。
すこし注意深い人になると4番目を選ぶ。一概には言えなさに自分は気づけるだけの知能を持っていると示すことができる。しかしこのときもまた「一概には言えないとわかっていて、さらにわざわざ〈「一概には言えない」と書く〉というアリバイ工作のごとき責任逃れをしてまで発言するべきではない」という批判を受ける可能性がある。「一概には言えない」と書いておくことによって批判をかわしつつ言いたいことを放言するというこういった手法はあまり紳士的ではないだろう。
2番目にも問題はある。「一概には言えない」というコメントにどこまで価値があるのか。多くの場面で多くの人は一概には言えないということに気づいている。仮に多くの人が一概には言えなさに気づいていない場合に「一概には言えない」というコメントをすることには価値がある。明白な真理だと思われていたことに対してそれが実は一概には言えないのだということに気づくこと自体に価値があるからだ。ただしこういった状況はかなり限られる。多くの場合「一概には言えない」にはほとんど情報としての価値がなく、そういった場合「あなたは何が言いたいのか」「あなたの意見はどういったものであるのか」と聞かれることもあるだろう。その場合「一概には言えない」という態度の保留を放棄することをせまられる。つまり「一概には言えない」とあえて書いたことによって、そこから自然なコミュニケーションの流れとして踏み込んで断定的なコメントをするように求められるという逆説的な状況が生じる可能性がある。
そういったわけで私は1番目を選ぶことが多く、一概には言えないと考えている場面では「一概には言えない」とも書かない。私は何も書かないのだ。私が何も書かないということは私がその場に参加していない、存在していないことにほとんど等しく、私は他の人から私を発見されて、一概には言えなさの放棄をせまられることはないだろう。ひとまず安心する。ただし私が思うのはこういった態度が賢明なのかどうかということである。もちろんこれ自体も一概には言えないだろう。誰にも発見されず、自分の頭の中でただ「一概には言えない」と考え続けることに価値はないと考える人もあろうし、誰にも発見されずとも一概には言えなさを貫くことによって自分が一種の偏見によって堕落することもなかろうと考えることもあるはずだ。
私はうなってしまう。一概には言えないのだ。しかし私は語るべきであるのか。「一概には言えない。しかし……ということは部分的に妥当するように思われる」などといった語り方がどこまで有用であるのか。多くのことは一概には語れず、つねに例外はあり、何かを語ることはむずかしい。「一概には言えないし、例外は無限にあるが……」
私は何かを語ろうとするとき一概には言えないということはよくわかる。私以外の多くの人もわかっているはずだ。それでも彼らは語る。そこにはリスクがある。彼らの語りが正しいかどうかは一概には言えないのだ。
「ある程度」「そういった傾向」「……の一部は」「かならずしも……というわけではないが」「何時何分何秒地球が何回回ったとき、そのときにおいてのみ」
私にはわからない。一概には言えないということだけはわかる。
ジャズの一回性というものが語られることがある。私は一種のインプロヴィゼーションに身を任せるべきなのであろうか。私はいつでもでたらめの神託をでっちあげることができる。だがやはり私はそういった風なことはやらないだろう。一概には言えないのだ。私は自己完結してしまう。むしろ自己未完結とでもいうべき状況かもしれない。私は一概には言えなさに拘束されている。私の翼は鎖で縛られている。
トラバやブコメをいただいたので、勝手ながら浮世絵を勧めてみる。
変な話だが、鑑賞と制作だったら、制作から入ったほうが鑑賞も楽しくなるように思う。
例えば、葛飾北斎の富嶽三十六景の、有名なところで赤富士と言われる夜明けに朝日で赤く染まった富士山、凱風快晴。
あれを見て、思うのだ。
それは、制作を齧ってみるとひしひしと感じとれること。
知っての通り、オリジナルの浮世絵には原画というものが残っていない。
それを版元、つまり出版社の企画担当に渡して、それを板木屋、彫師という職人に渡り、板に張り付けられてしまう。
板に貼りついた絵ごと、彫ってしまうので、原画は木屑と共にこの世から消えてしまってるわけ。
絵師というか、画工っていうイラストレータの地位というのはそれほど高くなくて、彫師が勝手にアレンジすることだってある。
そもそも、芸術家として心から沸き起こるものを表現するんじゃなくて、売れるものを描くのが至上命題。
彫り終わると、それがすなわち線画のコピーが出来るわけで、そこから「ここを赤、ここを青」って具合で、絵師の指示が入る。
具体的な色を塗るとかでなく、文字で書き入れる程度。
そんで、また色の版が出来上がって、今度は摺り師と呼ばれる職人の手に渡る。
そして、絵師立ち合いで、色合わせを行って、微調整されたら出版、という流れ。
で、その手の浮世絵の解説書なんてのだと、初摺りは手がかかってるけど、そのあとの後摺りは手抜きで改変されてるとかって書いてあり、実際初期ロットと後期ロットは色が違うってんだけど、いざ制作してみるとそれだけじゃないように思う。
明らかに自己主張がある。
摺り師の「俺上手いだろ?真似できないだろ?」
っていう自己主張をビンビン感じる。
いざ木版画を始めてみると、100人中99人はそれを目指す、ある種の技術、方向性というのがあって、それが超絶レベルで、過剰なまでにそれに拘ってるのがよくわかる。
彫師と摺り師の自己主張だけじゃない。
時代の流行、ある意味で街の声さえも作品に取り込まれてるのが、ありありとわかる。
彫師のエゴを、摺師のエゴを、江戸の流行りを、それを引き算してやる。
北斎という人はいい歳して「自分が一番!」と天狗になったり、「バカにされるのは嫌だ!」忙しくぐるぐる同じところを回っていて、とてもかわいい。
少なくとも、自分にはそう感じられる。
ちょっと大胆すぎる実験的な試みも、「褒められたい!」という意識が見え隠れする。
それを差っ引いてあげて、初めて、あの絵の本当のコンセプトが見えてくる。
あるいは、摺師、彫師、版元、江戸の空気と北斎とのジャズセッションがあの作品だったとしたら、今度は自分と北斎のセッションが出来る。
なんて楽しいことだろう。
技術が追い付いたら、いつかそれをやりたい。
前置きが長くなってしまったが、そろそろどうやって浮世絵制作を学ぶか書いてみる。
いざ木版画を学ぼうとしても、浮世絵方式の木版画を教える教室はほとんどない。
なにをもって浮世絵方式というのか難しいけれども、木版画においてかつてスタンダードだった、世界で最も優れてた技術体系と断言できる。
その答えはわからない。
俺も知りたい。
で、そもそもその技術を継承した人というのが少なく、浮世絵の職人がやってる版画教室、あるいはその流れを汲むとする版画家の版画教室は知りうる限りで以下の通り。
現役彫師が教える版画教室。
当然ながら彫りに詳しい。
第七回 朝香伝統木版画教室作品展 2017年6月26日~7月2日
摺師が教える版画教室。京都だが、関西を中心に出張講座や通信講座もやっている。
五所菊雄という版画家で、摺師の内川又四郎氏(ポールジャクレーの作品を摺ってた人)から学んでる。
NHK文化センター 川越教室・木版画講座・作品展 2017年8月21日~8月27日
入学すれば学べるんじゃないかなと思うけども、ちょっとハードルが高すぎる。
野田哲也の師にあたる小野忠重の著書は浮世絵の技法を知るうえでお勧め。
いったん情報収集を始めると、先に沈んだ先輩とつながれるので、芋づる式にオタと出会える。
有名なところだと、独学で浮世絵制作者に転身して、大学や企業との共同研究までしてた元ジャズマン(最近亡くなられた)。
職もビザもなく、浮世絵への情熱だけで日本にきて、浮世絵で飯食って浮世絵で家建てて浮世絵で子供育てたカナダ人。
そのへんは浮世絵バカ一代の二代巨頭で、ほかにもごろごろ、まあいるわいるわ。
みんな平気で仕事を捨て、家族を捨て、学歴を捨て、浮世絵制作沼へ沈んでいく。
自分なんか、趣味の範囲で、まだ片足だけだが、いつか完全に沈みそうな気がして怖い。
コピー機がある今だとありがたみがないが、同じものが何回もつくれるというのは、楽しい。
いまだって、コンビニでカラープリントが80円ってのに、当時はかけそば一杯の値段だったっていうから、江戸時代の印刷技術スゲーって思う。
小学校でやるようなローラーで油性インクを塗る油性木版と違って、水性の絵具で摺りあげるのだが、特徴をいくつか。
まるで、フォトショでみたいにね。
うん、フォトショみたいにね。
赤の上に青を重ねると紫になる。フォトショでレイヤーを乗算モードにしたのと同じ。
前段のほうで書いた、誰しもが目指す技術というのは、きれいなベタ、滑らかなグラデーション、計算されつくした重なり、つまり、フォトショやイラレ。
そういうことなら、原画だって、フォトショやイラレでつくったほうが、出来上がりイメージはしやすいだろう。
今日はここまで。
本格的に、道具の用意、構図の学び方等々の話に入れずに力尽きてしまった。
昔は業界用語(ジャズの人達が作った)や、2ch用語とかがあった。
べつに過去を懐かしんでるわけじゃない。良い感じに人がバラけて共通言語を使う必要があるからかもしれない。
アメリカ英語ではあまり見かけないが、イギリス英語には、驚くほどレトリックが多い。私の知らないマイナーな映画やイギリスのコメディからの引用である。これは悪い意味で教養を感じる。
同時にそんな世界がないのが、ちょっと怖い気がする。若い人達はスマホを片手に何を話しているんだろう。
自分達にしかわからない言葉が、仲間には必要なんじゃないか。誰かにはわからなくても、意味はなくても必要な言葉が約束という共通言語の代わりになる事があるんじゃないのか。
通勤中にiPhoneで聴くのは、最近はジャズばっかりだった。
前から好きな曲だったけれど。
つり革を握りながら、涙が出た。
そこでアルバム通して聴いてみると……。
全曲、泣ける!
「無罪モラトリアム」だけじゃなかったんだ。
「平成風俗」があったんだ。
気がつかなかったのは、鈍感だったからか?
いや、聴こうとしていなかったのだろう。
そうなのかもしれない。
唐突に終わらざるを得なかったあのバンドの、最高に洗練された、かがやく絶頂期。
それを知ったあとに聴いたからね。
眼が曇っていたかな、おれは。
じゃあ、より新しいものは、どうだろう。
中学校を3ヶ月で行かなくなって、不登校と呼ばれる部類に属した。毎日体調が悪かったので、病院へ行っていた。特に悪いところはなかったので精神系のなにかだということになった。家では音楽を聴いて過ごしていた。毎日同じCDばかり聴いていておなかいっぱいになってきたときは、FMのラジオを聴いた。親は音楽を聴いているだけじゃよくない、楽器を演奏するのはどうかと言ってきたが、やる気にはならなかった。中学時代はこうして終わり、高校は通信制に行った。高校の頃も音楽を聴いていた。聴いていたジャンルはふつうでヒットチャートに入っているものは聴かなかったが、変に通ぶったものも聴かなかった。ちょっと前に流行ったものや、ロックの名盤ガイドみたいな本を買ってそれに載っているもので気になるものを聴いていた。大学生になったても音楽を聴いていた。音楽系のサークルには属さずひとりで音楽を聴いていた。ロックの名盤ガイドに載っている多くのアルバムが揃ってきた。CDショップでたまたまジャズのコーナーに迷いこんだの機にジャズを聴き始めた。ここでもジャズの名盤みたいな本を買ってそれに載っているもので気になるものを聴いていた。それと前後して読んだ小説のなかでクラシック音楽がキーになっているものがあった。クラシックも聴いてみた。なんとなくピアノの曲がいいと思ったので、ピアノ曲やピアノ協奏曲を聴いていた。大人になっても音楽を聴いている。車に乗るようになって、信号待ちで隣に止まった車がズンズンズンと車体が揺れるような低音を振りまいていた。それに感化されてそういう電子的なダンスミュージックも聴いてみようと思っている。
小さいころから薄々感じてはいたんだけれど、自分には積み上げてきたものがない。
こだわりとか執着を持って、
周りを見れば、
とか、みんな何かしら好きなものがあるし、
普段は寡黙な人でも
facebookやtwitterやインスタで好きなものの話をし始めると
めちゃくちゃ深い内容のこと語ってるし、
心底うらやましくなる。同時に、
「この人たちみたいにはもうなれないのかもしれない」って、
今までの人生で明確に積み重ねてきたものがない自分は欠陥品なんだって
喉のあたりが詰まって苦しい。
偏愛してきたものが無いなら、せめて一般常識とか教養とかがすごくあれば
一定程度の自信も持てるんだろうけれど、
残念ながら、そういうのもない。
映画はジブリしか分からんし、音楽ものだめカンタービレで聞いたクラシックくらい。
でもいったいどうしたら「好き」を見つけて長続きさせられるんだ?
ずっとだめ人間の烙印を押されたまま生きていくしかないんだろうかって思ったら
人生辛くなってきて今これ書いてる。
やっぱり今まで通りもがきながら、好きなもの探し続けて苦しむしかないんかな。
想像を遥かに超えてコメント付いてて、ほとんどがあったかいものでびっくりした。
インターネットってもっと殺伐としてるところだと思ってたんだが。
「趣味がある自分が欲しいように見える」っていうのがあったけどまさにそれで、
もっと人と円滑にコミュニケーション取れるのにって思ってる節あるわ。
なんというか、
お互いを理解するためのフックがあったら、って感じ。
それから、「今からでも遅くない」「色々つまみぐいして楽しもう」って言ってくれる人たちがいて
何か1つこだわりがある人になりたい、ってゴールは変えなくてもいいから
そこに行くまで、1つを極めるのか、たくさんやりながら取捨選択していくのか
どっちのルートでもいいんだなって思えて気が楽になったわ。
はてな匿名ダイアリー使ったの初めてなのもあって、いろいろ記念になった!(笑)
音楽も、ストーリーもよかったと感じた。なのに引き起こされたのは罪悪感だった。
ララランドは、女優志望のミアが、ジャズピアノマンのセブと恋に落ち、別離するストーリー。
最後、ミアは女優として成功、セブも自分のお店を持っており、彼らは夢を叶えて終わる。
ミアはセブではない夫と結婚して子供もいる。セブは独身なのかどうかは不明だった。
*
大学2年から4年まで2年間付き合った元カノがセブと重なった。
自分から好きになって告白して付き合うことになり、こちらから別れを告げる形になった。
別れた理由は保身だ。
自分とは家庭環境も通ってきた経歴も価値観もなにもかもが違った。でも好きだった。
相手の方が「なんで自分のことを好きなのか」と疑問に思うくらいに。
終わりを恐れながら付き合っていた。
こんなこと、いつかは終わると思いながら付き合っていた。
ふつうの幸せがほしい。同じような家庭環境で経歴で価値観が合うひとと
ふつうに祝福される付き合いがしたい。
このままこの人と付き合い続けたとして、ふつうの幸せは手に入らない。
だから、別れたいと言って別れた。もうやめたい。詳しい理由は言えなかった。
終わりを恐れながら終わりを待っていたなんて矛盾しているし最低である。
*
私は結果的にヘテロの女で、相手はノンセクシャル(と思われる)の女性だった。
多感な時期のセクシャリティの揺れを引きずって彼女と付き合い、
最終的に保身のために切り捨てた。
今は落ち着いて、同じような家庭環境で経歴で価値観が合う彼氏がいる。
付き合って2年経ち、同棲の話が出た。欲しかった、祝福される付き合いだ。
家族と友達と世間一般から、なんの障害もなく祝福される恋と結婚のことなのだ。
*
ミアとセブはお互い夢を叶えている。
でも、私の人生は映画ではないので、彼女と偶然出会って目配せと微笑みで夢が叶ったことを
確かめ合うことはできない。
元カノに対するこの罪悪感は消えることがないだろう。
http://president.jp/articles/-/21969?page=1
『ラ・ラ・ランド』のように、もっと日本映画が世界でヒットするには
読んでみた感想→内容ないまま終わった。。
茂木健一郎がララランドを見た後に、監督がセッションと同じだと気づき、セッションとララランドの違いを説いている。
茂木氏いわく、
物語の目標も高く、はじめから世界を対象にし、成功を収めている。
ララランドを見ながら、世界という大きなテーマの話なので、世界でもヒットしている。日本もそうするべきでは?と述べているのだが、つかみに入る文章がなく、具体性のないまま話が終わってしまっていた。
茂木さんが過去どういう話を読んで微妙だと思い、日本が世界に出ないことでどういう欠点が生まれ、その結果今回の文章を書くに至ったという経緯がまるで書かれていないので、なんだか不完全燃焼である。
個人的な考えだが、
アニメーションはどちらかといえば世界向きだが、日本という土壌の居心地のよさが、日本で成功したい!という気持ちを強くし、製作段階で世界まで至らない場を考えない環境をつくりだしている気がする。(ただの私の主観だけなら申し訳ない)
ガンダムから始まるロボット文化とか、マンガ文化とかのサブカルチャー文化が深く根付いていて、日本の歴史的作品との対抗、あるいはオマージュという形で話を作り上げているように感じられるのだ。
あともう一つ、言葉の問題もあると思う。日本語は英語などと違い、「俺」「私」「僕」のように一人称が多数存在することは知られている。表現とは気持ちを伝えることだ。日本人が気持ちを表現するときに、小さなニュアンスや感情を正確に伝えるのに、そのベースは日本語でしか詳細を語ることができず、であれば、自分の気持ちを寸分なくくみ取ることができるのは日本人だけなので、日本というフィールドがベースになるということではないのだろうか。
最後この文章では日本ではなく、世界という広い視野でモノを見る必要、またその一環としての英語の重要さに触れている。
http://president.jp/articles/-/21969?page=1
『ラ・ラ・ランド』のように、もっと日本映画が世界でヒットするには
読んでみた感想→内容ないまま終わった。。
茂木健一郎がララランドを見た後に、監督がセッションと同じだと気づき、セッションとララランドの違いを説いている。
茂木氏いわく、
物語の目標も高く、はじめから世界を対象にし、成功を収めている。
ララランドを見ながら、世界という大きなテーマの話なので、世界でもヒットしている。日本もそうするべきでは?と述べているのだが、つかみに入る文章がなく、具体性のないまま話が終わってしまっていた。
茂木さんが過去どういう話を読んで微妙だと思い、日本が世界に出ないことでどういう欠点が生まれ、その結果今回の文章を書くに至ったという経緯がまるで書かれていないので、なんだか不完全燃焼である。
個人的な考えだが、
アニメーションはどちらかといえば世界向きだが、日本という土壌の居心地のよさが、日本で成功したい!という気持ちを強くし、製作段階で世界まで至らない場を考えない環境をつくりだしている気がする。(ただの私の主観だけなら申し訳ない)
ガンダムから始まるロボット文化とか、マンガ文化とかのサブカルチャー文化が深く根付いていて、日本の歴史的作品との対抗、あるいはオマージュという形で話を作り上げているように感じられるのだ。
あともう一つ、言葉の問題もあると思う。日本語は英語などと違い、「俺」「私」「僕」のように一人称が多数存在することは知られている。表現とは気持ちを伝えることだ。日本人が気持ちを表現するときに、小さなニュアンスや感情を正確に伝えるのに、そのベースは日本語でしか詳細を語ることができず、であれば、自分の気持ちを寸分なくくみ取ることができるのは日本人だけなので、日本というフィールドがベースになるということではないのだろうか。
最後この文章では日本ではなく、世界という広い視野でモノを見る必要、またその一環としての英語の重要さに触れている。
可愛いというか、強い印象を与えるというか、単に気になる、ってくらいかもしれないけど
乃木坂がやってる、パソコンのマウスのCM見たことありますかね
乃木坂の5人がネズミをモチーフにしたワンピースを着て、踊って歌って、最後はネコに追いかけられるCM
これが妙に引っかかるんですわ
で、考えた
途中でね、表情のアップが映るんですよ、踊ってる女の子の
その表情が女の子によって様々
不機嫌な子もいれば浮かれすぎの子もいる
それが妙に気になってるんだなと思った
壁の穴からネズミが出て来て、マイナー調のジャズで踊るわけで、これってかなり後ろ暗い世界観だと思うんですよ
レミゼラブルの世界観というか、スラム街的なニュアンスを受け取ってしまう雰囲気もある
そこで踊る女の子になぜか軽蔑の目を送られたり、薬やってんじゃないかってくらい浮かれた恍惚の表情浮かべてたりすると、こっち側に脈絡がないから、戸惑うしかできないわけよ
やっぱり人間って、前後の脈絡から相手の感情を推測して生きているわけで、状況からして有り得ない感情を露わにしてたり、明るく踊るっていう行動と表情がマッチしてなかったり、同じ場にいる2人が全く違う感情表現をしていたりすると、それって場が読めなさすぎてストレスになってしまうんだと思う
アメリカに来た経験が無いと分からんと思うけど、restaurantの意味合いが日本語と結構違う。restaurantはほとんどあらゆる飲食店を指していて、日本では飲み屋にカテゴライズされるような店も含まれる。
あと、 http://anond.hatelabo.jp/20170418095244 の増田も言ってるけど、そもそも日本の居酒屋に対応するような業態があまりない。バーはある。ジャズバーみたいな奥まったやつだけじゃなく、日本にも最近は多いクラフトビールの店みたいな感じのオープンなバー。和民とかみたいなアホが醜態晒す専用の店みたいなやつは無い。
住んでても俺の検索以下の知識しかない癖に、ジャズやレゲェが横浜の文化?www
文化がないんなら高崎城址も金山箕輪も単なる廃墟かなんかか? 二子に堀越、観音山古墳、竹久夢二歌碑なんてのも出てきたぞ?
高崎駅近くに群馬ダルマの工房、製造店は何か所ある? 重要指定文化財は幾つあるか知ってるんだろうな?
楽しくないんじゃない、オマエが楽しめなかっただけだ。その内に電化製品についていけなくなって音楽もゆっくりしたものを好み、油っぽいものも食えなくなれば分かる。
何もないんじゃなくて何も見えていないんだ。先進的ではないかもしれないが、文化はオマエを楽しませるものじゃなくオマエが参加して一緒に作るんだよ。
――って、熱くなって書いたけどたぶん俺も若かったら同じこと思うわ。
LEDで光るダルマとかVR、ARで史跡と組み合わせたり、なんかやってくれよ。んでネット配信。食い物うまいんだろ?
自分で何かを作るってのは難しいよな。がんばってくれ。
スゲェ住みやすいのに、
駅前には大きなヤマダ電機(高崎が本社)もあるし、郊外にはもちろん巨大なイオンもある。
飯屋は多いし、コンビニも普通にある。車社会だから駅から離れても商業施設は沢山ある。
そもそも、関東から関西に移り住んで田舎の定義が変わったんだけど、
関西に越して「横浜は田舎っすよ〜」って言うとかなり失笑をくらった。
これはどういうことかって言うと、
小学生の頃、夏休みにじいちゃんばあちゃん家に行くと思うんだけど、
その時に夏休みどっか行くの?って聞くと「田舎に帰るー」って大抵答えるけど、
田舎=おじいちゃんおばあちゃんの家で、そもそもそこが横浜だったオレからすると、
たまにガチの田舎に帰省する友達がホント羨ましかったのと同時に、
けど、横浜→東京→関西→高崎に越してきてはっきりと言えるのは、
横浜はちゃんと知れば近代的な文化(ジャズとかレゲエとか)はあるし、
今思えば十分退屈しないと思う。
で、今いる高崎は生活する分には何不自由しないしないんだけど、
(美味い飯屋もメチャ多い!)ホント退屈なのよ。
何と言うか、ただ生かされているというか・・
これまで参加しなくても参加していたんだなと、副流煙的な・・
思う今日このごろ。
住みたいとも思わないよね。
世の中を担っていく必要があるんだなと
戒めと期待を込めて。