はてなキーワード: 消費社会とは
https://asagei.biz/excerpt/17942
誰でも判る事だけど、こんなものペットボトルがそれまで主流だったガラス瓶に比べて軽量且つ割れにくいからだよとしか言えない。
しかしこの手の短絡的な規制論こそ経済社会活動全ての衰退を招く事にいい加減気づいてほしいもの。
そもそも海洋汚染に関してならば、ペットボトルに対してならば、ゴミ箱なり回収箱を増やす方が余程対策になる。
これら短絡的な規制論自体が、経済、社会、場合によっては技術の発展や文化活動すらの衰退すら招き、逆に業務自体への弊害をも与えるのは事実だしねぇ…。
それはこの手の環境問題に限らず、ドローン規制やダガーナイフ規制、そして当時の児童ポルノ禁止法や青少年条例等の創作物規制またはネットカフェ規制やネット規制、著作権問題におけるネット規制、それこそ民間においてはフェミニストや特定の団体が行ったコンビニに対するエロ本の販売規制や近い所では赤十字やJAに対する業務妨害とかバイク界隈に対する3ない運動等々例をあげればキリがないものだからね。
それと少し前に問題になった、農家に対して規制をしようとしている種子法とかの問題もある意味ではその規制による弊害そのものの問題だしね。
本当、特定の団体や業界、議員や官庁とか自身のプライドや利権関係だけを見て、その後の弊害があると言う声すら聴く耳を持たずに短絡的に規制し続けていたらそりゃ日本もここまで落ちるのは必然だよねと思う。
何にしても今回のレジ袋有料化自体悪手であり、最悪なタイミングでやらかした事は間違いなく、これは世間一般に対して、環境対策と言うもの自体、消費者に不利益や負担をもたらし、不潔で、消費活動を停滞させた結果、経済的衰退をも招く碌でもない代物であると言う認識を一層強めさせただけの結果に終わる事だろうね。
これまでも環境性能を謳った余り、価格は上がったけど自動車やバイクの性能を落としたり、電球や蛍光灯の廃止を強行しLEDを強引に普及させた結果、少なくない人達に多大なる迷惑ばかりかけ続けたのは事実なのだから。
https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/06/3e864d496ae32141.html
普通にトランプ大統領が経済的視点からパリ条約の離脱を決め、環境問題から距離を置いたのはある意味正解だと昨今の状況を見ていて思うよ。
昨今の環境問題とやら自体、やっている事は消費抑制ばかりであり、結果、国家そのものに対して、経済的衰退や社会活動の停滞を招くだけの代物であったのは明白だったし、排出権辺りから本気でおかしな方向に向かい始めたからね。
少なくとも国家の経済活動を重視するのならば離脱するのは正解であったとは思うよ。
何しろ今の俗にあの方々の言う環境問題に対する活動自体、生産、消費抑制から来る経済衰退活動でしかなかったから。
こう言うのを見ていても消費社会は豊かさの象徴であるのに対し、環境問題は国家を貧しくする象徴であるよなと思う。
それから日本は経済云々言いながら、コロナの流行っている時期にも関わらず、この手のレジ袋有料化と言う経済衰退策を平然とやらかしたり、普段は偉そうに言っているくせにいざコロナ禍においては企業に対しての支援もまともにしなかったせいで多くの倒産を招く結果になったりと色々な意味でかっこいいポーズだけがしたい口先だけの人達しかいない中途半端な人達ばかりだなと見ていて思うよね。
事実これにしてもタイミング的にどう見ても五輪のポーズでしかないのは明白だったしね。
確かにトランプ大統領自体おかしな側面も少なからずあるけど、最近はそれ以上にあの界隈が黒人デモ以降世間に対して、自らの権利を盾にして、逆に表現や言論の抑圧をしだしたり、環境問題にしてもグレタ氏以降、あの手の団体の方々が更におかしなことをしでかしたりした結果、相対的にまだまともに見えだしているのも皮肉だとしか言えないよね。
https://asagei.biz/excerpt/17942
そんな天下の愚策をこのコロナの時期にやってしまうのが今の日本の政府及び官庁なんだけどね(笑)
しかしコロナ問題抜きにしてもエコバッグやらマイバッグやら呼ばれるものって衛生面の観点で問題点も多いよねと思う。
そもそもエコバッグ自体何枚も持ち歩く人なんて少ないだろうし、そうなると食品と薬品その他の等が同居する状況になってしまい、その点からも非常に非衛生的。
もし何かあった場合には袋内が大惨事になるのも判り切っているよね。
それとマイバッグとやらが今や店舗内に持ち込みやすく動きやすい状況を見ても海外で万引きが増えたのも何となく判るし、予想通りクレーム対処等で店員の手間ばかり増えているのも笑えないけど草。
どう見てもこれを強行した人達って普段自分で買い物をしない人達だろうね。
マイバッグやらを持ち上げる提灯記事が多いけど、問題や反発も多いのはそれこそニュース記事を見ていれば判る事だし、そもそもレジ袋貰わない人が増えたのは要は金をとられる様になったからだよ。
皆その辺シビアだし、それは回り回って店舗の売り上げにもそのうち影響し始めるよ。
しかし色々見たり、レジ袋有料化以降を体感していて、(消費者に対して)負担を増大させ、(衛生面に関しては)不潔で、(ただでさえ消費増税やコロナ禍で冷え込んでいる所を更にこの一件で消費動向が冷え込むと言う意味では)不景気すら招きかねないから、3密ならぬ3ふを招く事だろうなと思ったりしているよ。
ただ世間の反応やニュースを見ていても不満も多いからそれこそ4ふにも5ふにもなりそうだけどw
https://www.j-cast.com/2020/07/04389468.html
今度は風呂敷か。
風呂敷って地味にお値段がお高いんだよね。
それに使いこなすにも結び方を知らなければ無用の長物になってしまうのも事実。
しかし古新聞をゴミ袋にするだの風呂敷だの少し前の消費増税に関した日経の人参の皮まで食べろと言い、いよいよこの国は戦中か何かなのかなと思えるような所まで来ているよね。
客観的に見て俺は保身的だし優しくないし面白くないし表現力もないに情熱もないし頭も悪いしでダメダメなんだけど、主観的にはそんな自分がけっこう好きだったりする。
増田文学100選なんかを読むと、語るべきエピソードも読ませる表現力もない自分がどうしようもなく惨めに思えて胸のあたりが痛くなったりするんだけど、一方でそんな自分が結構魅力的に思えもする。
何もない人生を送ってきたのは他でもない俺自身の選択の結果で、この何もなさこそが俺のアイデンティティーなわけだ。他の奴らがついつい自分を磨いたり何かを探したりしてる間に、俺は何も考えずにただ流されて消費社会で惰眠を貪ってきたわけだ。どこにも行ってない・誰にもあってない・何も読んでない・何も書いてない・何もしてない・何も得てない・何も生んでない。
でもそうやって本当に何もしてないことに誇りすら覚えちゃったりするんだよなあ。ダメ人間を自称する人間が意外と優秀だったり心揺さぶる作品を生み出したりしてるのを見たとき、劣等感と同時に優越感も覚える。「ああ、お前はダメでいることに耐えられなかったんだな」「いいものを生み出してしまったねえ」と。
クズで才能のない人間が開き直っているだけといえばそれまでだけど、俺が俺をクズであるがゆえに愛していることに嘘は一切ないんだよな。今後も花を咲かせるどころか芽吹きすらせずに腐っていくんだろうけど、その腐っていく俺を目撃するのがこの俺だけであるという事実はなんとなく甘美だ。世間に知られてやるものかと思う。世界は俺という才能を全く気づかないうちに失えばいい!とちょっと矛盾した気持ちを抱いている。
この増田は、転売はわるくないと言っているがそれが本質ではない。
今回は、どこかで買い占めも同時に起きていたのでわかりにくくなってるが。
この増田には重度の花粉症でマスクがないと困るという恐怖が最初にあるんだよ。だから自分で使いきれないほど買い込んでしまう。
そして使いきれないほどマスクが手元にあると恐怖が収まり安心する。
なんで、そんな恐怖が起こるのかと言えば、花粉症の辛さをやわらげる方法をもってないからだ。
ふつうの家族がいれば、家で花粉症つらいと会話しながら、家族と他のことを話しながら他のことにも神経を使うので花粉症の恐怖にばかりに怯えてばかりいない。
お前らのその恐怖も、何もなければ大量消費社会が許容できるぐらいの供給で解決してる。
お前らがいくら買っても市中にはマスクはあふれ、それをみてお前らは安心する。
家族に会話する相手もなく知り合いに話して気を紛らわすこともできずに、辛い事や困ったことがあるとそれを解消する方法はその対策品を大量に手元に持つことしかなくなる。
恐怖があるので値段も目に入ってなくて、市中から少なくなればパニックを起こしてあきらかに一般人が高額だと思っても買い止まらないでいつもより高いものにまで買ってしまう。
例えば、いつも使ってる安売り店で買えない事があると自分では気づいてないけどパニックになり、高額なものでも買える店を探して買い込んでいまう。
そうやって市中から、誰もが買えるべきものがなくなってしまう。
今回は花粉症の時期に起きたのが不幸で、ティッシュについても同じことが起きた。
ティッシュがなくなっているのをみて、パニックを起こしたお前らが、ティッシュの代用品としてトイレットペーパーにも手を出した。
市中からなくなれば、お前らのような潜在的な恐怖をもっていない一般人にまでパニックが伝染し始める。
いま、街のスーパーで起きていることは、始まりはお前らのような、自分の中にある過剰な恐怖に気付かずに大量買いしてしまう人達から始まってる。
もちろん転売がそれをさらに悪化させてる点はあるし、外国から同じようにパニック起こした買い占めがきてるのもあるから
すべてがお前らの大量買いが原因だとは言えないが、マスクがなくなったことと花粉症への恐怖この騒ぎを起こしてる。
もう1点よくない仕組みがある。
こうやってパニックを起こした人達がネットで注文しようとすると、マスクやトイレットペーパーは単価が安いので必要な分だけでは送料がかかってしまう。
どうしても必要になって買っているのだから送料ぐらい払えばいいのに人並みにケチなので、送料がかからなくなるまで数量を増やす。
パニックを起こしてるので使いきれないということも考えないし、あるいはありもしない友人にあげればいいとまで妄想してるのかもしれない。
そうして、使いきれないほどのマスクやトイレットペーパーがお前らの手元に供給され、使いきれなくなったマスクがメルカリで高額販売されてる。
純粋に転売はそういう現象に乗っかった小銭稼ぎの卑しいの別の種類の人達で、それはそれで追及するべきだが転売そのものは2次的なものだ。
日赤の宇崎ちゃんのポスターや、JA のラブライブ!のポスターが
「過度に性的」なため批判されているということになっていますが、
アレを見て不愉快に感じる人の「不愉快がどこからやって来るのか?」
というと、ああいうスタイルのポスターが、なんとく、特に深い意味もなく、
制作され、採用され、流通してしまう現状にたいする苛立ちや絶望が
源泉になってるんじゃないですか?
「令和にもなって、水着グラビアのカレンダーを、なんとなく、無邪気に、
貼ってしまう《昭和サラリーマン》みたいなことをまだやってるのか…
つまり、「水着グラビアとは、大衆消費社会という枠組みにおいて、
女性の肉体美を誰でもわかる形で謳い上げるための重要なメディアである」
という思想なり価値観なりを《表現》するために公共空間である職場に貼った、
というのなら、賛否はともかく《表現の自由》を確保する必要があるでしょう。
ところが実際には、JA のみかんのポスターについてたびたび指摘されたように、
描き手は、なんとなく、何も意図もなく、手癖で、余計な線や陰を描き、
(あの手の絵柄の常連=ターゲットである)受け手も目が慣れてしまって
無感覚になっているだけ。
批判する側は、「なんとなく職場に水着グラビアを貼れる世界」を掘っていくと、
つまり男性優位が確固としていた時代」という遺跡が出てくることを
直感的に気付いて反応(あるいは結果的に《表現》されてしまったことを批判)
してることにのにたいして、
擁護する側は《表現未満》のものを、あたかも自分にとって大切な《表現》が
みんなこのパターンだった気がする。
批判する側も、自分の違和感を深掘りせずに「性的だから問題だ」
と早合点する人が実際に存在するからややこしいのですが、オタクの皆さんも、
自分が「目の肥えたオーディエンス」「うるさ型のお客さん」だと思うなら、
自分の好きなコンテンツを(好きだからこそ)突き放して眺めてみるような
視点を持ってみてもいいじゃないですかね?
エンターテインメントの質は、結局のところ《お客さんの質》に依存するので、
「手癖でなんとなく描いてんじゃねーよ」
「オタク文脈を共有しない人にはこう見えるぞ。わかってやってるんだろうな?」
という面倒なお客さんが増えると、日本のアニメ・ゲームのレベルも上がると思いますよ。
ちょっとアニメが好きなだけの自称「オタク」には歯ごたえが有り過ぎる
くらいの作品じゃないと満足できないでしょ?
民主主義のもとで管理すればいいんだから、「民主主義的な資本主義(なにそれ?)」と管理は、別に矛盾し合う関係じゃあないだろ。
民主主義ってのは、多人数がバラバラに動く状態のことじゃあない。民衆の意思の集合である一個の一般意志が、統治を行う仕組みのことだ。今はまだ人類がバカだからそれが出来てないだけ。
資本主義・消費社会ってのは、利益の増大のために動くんであって、管理したほうが利益大きかったら当然のように管理するわ。
たぶん自由主義と民主主義と資本主義をごっちゃにしていると思う。
ファイトクラブを見た。いろいろ突き刺さる所がある映画だ。内容も、画も古臭さを感じさせない。
やはり暴力とセックスというものは、いつの時代においても色褪せないテーマなのだろう。
現代で北斗の拳を見た時のような、むしろ新しいものを感じる。しかし安易で陳腐になりがちなテーマでもあるが、
男の性という観点から見た、大量消費社会への批判という切り口で、単純な暴力とセックスの話で終わらない事に魅力がある。
「俺たちは広告を見せられて、欲しくないものを買い、買った物に奴隷にさせられる。外に出て闘え」
20年前の映画だ。正直、『大量消費社会への批判』という切り口は古くさすぎて陳腐でもある。
10年前の受験期の評論でよく見たテーマでもあるが(今でもそうか?)
今の時代は寧ろ、精神的なもののつながりを大切にする社会になってる感じはある。
若者は古着屋で服を買い、それぞれのオシャレを楽しみ、車やバイクなんて必要のないものは買わない。
キャンプを好み、自然を愛し、ゲームをするにしても人とのつながりを重視する。平和主義で、アニメやドラマ等の芸術を愛し、しかし引きこもらず、
現実にもしっかり還元する。見えるモノより、見えない人とのつながりや精神的成長を大切にする。批判されていたことを着実に解決した、さながら僧侶である。
正直言うと、この状態には裏がある。その理由は二つだ。一つ目は、よく言われる「若者は金を持っていない」という事。
現代の若者の多くは、中流階級に育てられている。金がないと言っても、実家に帰れば飯は食えるし、車も借りる事もできる。
先ほど僧侶と言ったがまさにそうだ。安定した生活基盤を持ちつつ、毎日平穏に生きる事が出来る。
大量消費社会真っただ中の世代は、実家に行っても車はないし、服も無い。兎に角欠乏していた世代だったので、大量消費をせざるを得なかった世代なのだ。
「若者は金を持ってなく」「親も持ってない」のがデフォルトだった。そこに付け込まれ、広告を見せられ、欲しくないものを買っていた。
「俺たちは広告を見せられて、欲しくないものを買い、買ったものの奴隷にさせられる」
これが正しいなら、現代はどうであろうか。幾分親の世代には失礼だし、恵まれているのに傲慢だとは思うが、「買ったものの奴隷にさせられている」のが今の世代だと思う。
親が金を持ち、子供はその手綱の中で夢を追いかけるよう調教されている。親の持つ車の行ける範囲で動き、親の買ってくれたスマホでソシャゲをし、インスタをみて、
広告欄の隅っこに表示される大して欲しくないものをamazonや楽天で買い、
スマホの中で夢を語る、大して面白くないyoutuberの動画を見て笑い、アプリを使って出会い結婚する。
世間に出回る映画は20,30年前の続編。ポリコレまみれの子供向けに進化して、大して面白くないのに以前買ったからという理由で、有難がって見る。
ネットで見た病名を精神科に買いに行き、医者に言われたように生きる。
権力者が語る夢は本物か。本当に自分が欲しいものは何なのか。目の前にあることが本当にやりたいことなのか。
「消費」というのは現代の大量消費社会のイメージからくる概念で、〈一方向的な都合によって使い尽くすようなモノとの向き合い方〉を意味する語なのね。継続的な協働・使用関係みたいなのとは反対の概念。
それが、〈自然や事物と対話しつつ向き合ってきた〉という、仮想の「前近代」へのノスタルジーって言えばそらそうなんだけど、たとえば現代でも、職人さんが自分の道具や加工する素材と丁寧に「向き合い」ながら物作りをしているとき、その職人さんが道具や素材を「使用している」とは言っても「消費している」という言い方はしないんだよ。同じく、たとえばその製品を「購入して使用して」も、職人さんのスタンスを知りその製品を大事に使う人の行動は「使用」であって「消費」ではない。しかし、たとえば同じ製品を「購入し使用した」人が、単に自分の好みでデコったりインスタにアップして、飽きたらポイと捨てるような使い方をしたら、それは「消費」だと言えるだろう。その場合、消費しているのが商品なのか、職人ブランドによる商品というイメージ(記号)なのかは、また微妙な議論が必要になると思うけど。これはあくまで余談ね。
だから、子作りをしたフェミニスト(ちなみに、フェミニストには男性も女性もいる、というのはいいよね?)が相手を「性的に消費」したかどうかは、一般的には、人によるとしか言えないんだよ。相手のセクシャリティや相手自身と向き合いつつ継続的協働的に関わり続けているなら、それは「消費」ではないと判断していいだろうからね。もちろん、ただ「子供を作る」ためだけに相手と関わったりしたのなら、あるいは、短い一定期間の性的な関わりだけが目的で子供はその生物的な帰結に過ぎないのなら、「性的消費」と呼ぶに値することがあったかもしれない。それなら確かに批判はされるべきだろう。だが、それを判定するのはなかなか難しいよ。たとえば、結果的に離婚していたとしても「当時は真剣に向き合っていた」と言われたらそれを否定するのは難しいのだからね。
もし、以上のことを理解した上で「性的消費」と言っているのなら、それはあなたの性の価値観に「消費」以外の性的な関わり方がない、つまり他者と継続的に向き合う性的な関係を想像できてないということを意味してしまうだろうね。それはなんというか、なかなか不幸なことだとは思うけど。
はてなユーザーもやはり人との交流に飢えているということだろうか。もはやインテリ気取りすら存在せず、群れてわーきゃー戯れたい大衆しか残っていない。由々しき事態だと私は思う。
たしかにアンケート増田という安易な交流手段によって手軽に孤独感を紛らわすのは気持ちがいいかもしれない。人と繋がっている気がするし、スターをもらえれば自分を認めてもらえたような気持ちになるだろう。しかしこういった行為は徐々にはてなユーザーからなけなしの知性をもぎ取っていく。ネット上で比較的知的なSNSというイメージのあるはてなだが、アンケート増田によって確実に知性が剥ぎ取られていっている。
アンケートの内容はどうだ。ほとんどがアニメ、漫画、映画、ラノベ、アニソン等々、オタク好みの話題ばかり。まるで専門性がない。大衆にヒットするというのは非専門的であるということだが、知的なSNSというスタンスのはてなでこの程度のアンケートしか盛り上がらないのはどういうことなのか。「海外サイトがブクマされてないはてなで今更何言ってるんだ」たしかにそうかもしれない。はてなにはインテリなどほとんどいない。ウィキペディアや入門書、新書で得た知識で知ったかぶるような知的コンプレックスを持った落ちこぼればかりだ。
なぜか知的なSNSはてなでもアニメや漫画やラノベに詳しい人たちが知識人として尊敬されている。専門性を持たないただ大量消費するだけのオタクがもてはやされている。彼らは専門性を持たないからネットのどこかで見たような誰かの受け売りでしか語れない。サブカル知識だけは大量に吸収しているが、彼らは考えが浅い。というか考えることを完全にやめて知識を吸収することだけを続けている。物事の皮相しか捉えることができない。彼らは広大な表面で生きている。世界の深みに触れようとしない。すべては一問一答式の知識の配列でどうにかなると思っている。すべてを軽く捉える。すべてを冷笑する。なけなしの知性を大量消費社会に捧げてしまった人間にとって世界に謎は存在しない。すべてが解決済みだ。だが、世界は解決していない。それが真実だ。大量消費という麻薬によってオタクは考えることをやめ、現実の世界から目を背けた。
アンケートに意味はない。なぜならアンケートとは大衆による人気投票だからだ。真の知識人と考えることをやめたオタクの一票が同じ扱いをされる世界だ。そんな世界に真の知識人がいつまでも残っているだろうか。ばかばかしくなってそんな世界からは去ってしまうだろう。結果的にアンケート増田の流行によって、考えることをやめたオタクだけが選別され残ることになる。はてなは何も考えない空間になるだろう。「これはひどい」「炎上」タグをつけて勝った気になり、世の中を冷笑してかっこつけるオタクだけが残るようになるだろう。そこは考えることをやめたオタクにとって最高に居心地の良い世界だ。はてなにおいて「小説家になろう」が一定の評価を受けているのは、はてな自体が「俺TUEEE」的言論空間になっていることと相性がいいからだろう。大量のサブカル雑学を摂取して、膨れ上がった脂肪を見せ合って、「俺たちすげー」をやっているわけだ。ますます考えることをやめたオタクが熟成されていく。その一体感は危険なのだ。
アンケート増田には参加するべきではない。一歩離れて、アンケート増田に参加しているはてなユーザーを観察する側に回ってみることをおすすめする。最初は彼らの一体感に憧れを感じるかもしれない。自分もそこに混ざりたい、スターもらいたい、そう思うかもしれない。そこでぐっとこらえてしばらく安易な一体感から離れてみてほしい。そうすると見えてくるものがあるだろう。そのとききみは人間として考え始めるのだ。
まずこの手の質問をする初心者は「ファッションについてはよく分からないがとにかくユニクロはダサい」という価値観に染まっていることが多い。
「ユニクロはダサい」という書き込みをネットでよく目にしてるからだ。また、こうした価値観を持たない人はそもそもこんな質問をする前にさっさとファストファッション店で買ってしまう。
しかしその「ダサい」ユニクロでさえ、一週間分の着回しを揃えようとすると結構な額になってしまう。
このことが分かっていないため、いっちょ前にユニクロ以上の服が欲しいと希望するものの予算は数万円という心細いことになる。
*ちなみにユニクロのすべての服がダサいわけではない。着る人間のスタイル(顔ではない!)が良ければユニクロでもお洒落に見える。また、アイテムによっては質が良いものがあったりする。「ユニクロは~」という言説は所詮主語がデカい議論だ。
この無理な相談に対して次に起きるのは、消費社会の価値観に踊らされ狂ったファッションキチガイ達が次々と降臨し、意味のないアドバイスをし続けるという現象だ。
彼らは降臨するや否や、「初心者はBEAMS、SHIPS、nano・universeで買うと良いよ!」などとアドバイスをし始める。
だがこれらの店で一週間分の着回しを揃えようとすると軽く10万円は超える。ユニクロさえ揃えられるか怪しい予算しかない質問者のリクエストに全く沿っていない。
(しかもなぜか廉価なHAREやRAGEBLUEなどは紹介しないことが多い。何でだ)
動揺する質問者を尻目に彼らは解決策を示すどころか、勝手にマウント合戦を始める。
曰く「安い服ばかり来ていると見下される」「街を歩いている人びとはほとんど服に大変な金をかけている」などなど。
こうした手合いは、ファッションだけで他人の人格を判断する自分の下卑た価値観をみんなが共有していると思っているらしい。
ファッション業界が仕掛ける消費主義に踊らされているだけだと気付けキチガイども。
あまり初心者向けファッションサイトなどでは言及されませんが、①「周囲に引かれない程度のこざっぱりとした格好」と、②「女ウケを狙う格好(いわゆる清潔感()ある格好)」と、③「ファッションキチガイたちとマウントをとり合う格好」というのはそれぞれ違います。
本来①②レベルの格好しか求めていない人たちが、さまざまなファッション誌や「アドバイス」に煽られて③を目指してしまうのは悲しいことです(これがホントに多い!)。この結果、本来買わなければいけない物が買えなかったり、買わなくていい物を買ってしまったりするので、目的ははっきりさせましょう。
昔と違い、最近は初心者向けに1週間の着回しに必要な物を列挙したサイトが沢山あります。
それに従い、必要なものと予算を財布と相談して決めておきましょう。余計な物を買わずに済みます。
最初はユニクロなどのファストファッション店で良いです。いきなりBEAMS、SHIPSなどに行くと自動的に上記③コースに乗るため気を付けましょう。
基本はユニクロで揃えるつもりで見て、数点だけセレクトショップで買うという気構えで行くとちょうど良いと思います。
一通り揃えた上で、あとはコツコツアイテムを増やしていくことです。
統計を見ると、日本では平均して大体月5千円程度を服に費やしているようなので、だいたい月5千円を目安として買っていけばよいでしょう。
たとえば増田が男、20代、女の子と仲良くするためにきれいな格好をしたい、とかなら結構かかる。
スニーカー8千円、革靴1万円、白シャツ6千円、Tシャツ&チェックシャツ各4千円、パーカー6千円、テーラードジャケット1万円、ジーンズ1万円、チノパン&フォーマルなパンツ各6千円、で7万円か。これでも足りない!って人は全然居る。
モテたいとかじゃなくて本当に普通の格好ができればいいとかなら、この半額ぐらい。でも露骨に生地の質とかが低下する。
服の価格が決まるメカニズムは理不尽だし、高い服着たところで消費社会に踊らされてるだけじゃねぇかってのは確かにその通りなので、目的と財布事情に応じて妥協していくしかない。
それがし、同人活動を始めて幾星霜。数多の同人誌を生み出し、数多の修羅場を潜り抜けて来た。
名を、感想来ない侍と申す。
来ても「萌えた!」の一筆では判断つかぬ。萌えたなら嬉しいが、何処がでござろう?全部であれば狂喜乱舞するのだが。あぁ、心に巣食う承認欲求の化け物を飼い慣らせぬ。この未熟な剣を一体ぜんたい何に向ければよいのでござろうか。
さりとて人様の原作をしようが此度も感想は来ず、来ず。来た!無論、漫画描いてくれた侍の所にでござるよ。微妙な面相をしていると思ったら、なんと中身はストーリーの感想であった。えぇっっっ!?絵の感想は無いのでござるか?頒布数、それがしと本気で桁違いなのに!?こんなに魅力的であるのにぃ!?ていうかこれ感想ちゃう、あらすじにござる…丁寧にあらすじを追ってくれた、その心意気を有り難く頂戴した。
斯様なことがあり辿り着いた境地がタイトルにござる。前までは「感想ないのが感想」みたく思ってたそれがしであったが、そうではなく。
皆、感想、下手。
感想を抱くのが下手なのであろうか、言葉にするのが下手なのであろうか。シャイなハートすぎるのであろうか。何処から何を感じたか、その一筆だけでそれがし、喜んじゃうが。これは高望みでござるか?この世の日本語教育に問題があるのでござろうか。それとも消費社会のせいか?
エゴサもマシュマロも解せぬ。何故それがし自らクレクレ行為に身を投じなければならぬのか。そのような時間は制作に充てさせてくれでござる。「俺の趣味じゃなかった」と噂されているのを見て以来、それがしの中ではエゴサご法度なのでござるよ。それがしガラスハートだから。
時代劇は東西を問わず体制批判の手段だったというから、そういう方法がまず考えられるのでは。過去を舞台とすることで一旦クッションを置いて検閲を逃れる、または客が事前に持つ政治思想などの偏見を拭い去るやり方。
同じように未来SFなどもそういう趣向がある。管理社会を描いたディストピアものがわかりやすい。
ストレートな体制批判はあまり見かけないが、歴史的に見ると都市化とともにサイコパスやストーカーや連続殺人鬼ものが増えるなど、社会状況の変化があらわれやすい。
デスゲームものも若者たちの閉塞感やゲームを仕掛けるものへの反抗心と取れる。
最近人気のゾンビものも政治や文明批判の題材としてはよく使われるジャンル。
世界中でゾンビ映画が量産される理由には低予算で作りやすいことの他に、メッセージを込めやすさも挙げられる。元々現代ゾンビの産みの親であるロメロは、ベトナム戦争の時代背景を参考にしたり消費社会文明を批判する意味も込めて作ったと語っている。
ちなみに攻撃したい対象をなんの工夫もなく出してしまうと、百田尚樹先生のカエルの楽園のように左右両方からも「あほか」と一蹴されて終わってしまうので注意。