はてなキーワード: 仮想世界とは
スキルに使えるポイント(AP)とか。お金も最低何ギルまでは持ってないとだめとか決めちゃう。
毎月かなりの枚数交換できるのにするだけして使ってない。プレボに溜め込む。
キャラの育成は曜日クエストのやつでなぜか何とかしようとする。
好きなキャラしか育成してないからQPもうすぐカンストしそう。
配布石と配布呼符。やってるひとならわかるとおもうけど、ログインするだけでかなりたまる。
どんなピックアップ着てもだいたい石150と符10枚は必ず残してしまう。
いつかなんとしてでもほしいキャラが来るかもしれない、そのときのために、とかいって。
で、たぶんそのうち飽きてそのままになる。
絶対石0になったり、アイテムがんがん使って強くしたほうが楽しいとわかっているのに
頭でストップがかかる
いやまてこのあと、もっとほしくなる、もっと育てたくなる子がくるかもしれない・・・!とかおもって。
思い切りが悪い?
ケチ?
小心者?
全部なんだろうなとおもう
肉体の加齢は避けられないものだから、ファッションとして少女性を表現することはスッパリ諦めた方が楽かな。
そのかわりに、バーチャルYouTuberになるとかどうでしょう?
少女の身体を手に入れて、仮想世界に生きる自分を創り出すって作戦で。
ハードルが高いのなら、PCでやるMMORPGにいろいろ手を出してみて、理想のかわいいアバターをつくるとか。
女性率高めでアバ弄りが深いと思ったのはマビノギだけど、最近のだとTree of Saviorとか黒い砂漠とかAIONとかTERAあたり?
作品ごとに造形のクセはあるけれど、ほとんどのネトゲにロリータファッションはあるので。
そうやってキャラとして他人と遊んでいると、不思議と「リアルの自分像」に影響されない無邪気な自分が出せたりする。
それもきっと救いになる。
長く遊んでいるとキャラが自分の一部になる感覚があったりして。
するとオフ会とかしても意外にキャラ寄りの人格を出せたりする。
ギャップがあったとしてもだいたい好意的に面白く受け取ってもらえる。
ネット仲間にだけは本当の自分を晒せるという人もいるし、ゲーム内結婚してリアルでもって人がいるのも頷ける。
そうやって、「リアルで社会生活してる自分」以外の別の自分をもつのが精神的にいいと思う。
狩りとか育成とかレアアイテム収集を楽しめたのは、当時のMMORPGが未知の体験だったから
制作側がコンテンツを追加するスピードは、客がそれらを消費するスピードに絶対追い付けないし
サービスが続く限り終わりのないコンテンツの追加を求められるから
提供されるゲームとしての要素はどうしても水増しされた薄いものになってしまう
「仮想世界」を謳っても人間が作っているコンテンツである以上はどうしても限界がある
これって要するに「ゲームに時間を費やす権利」を月額で売ってるわけで
結局は「金を払った上で時間も費やす」ことを要求してるんだよね
「金さえ払えばかかる時間を短縮できる」モデルを主流にしたスマホゲームが主流になったのは当然の流れ
まあスマホゲームも究極のレベルを目指すなら金だけじゃ無理だけどさ
解放されて楽しんでる様子を見ると良かったねって思える。
新技術でしがらみや抑圧を脱ぎ捨てることができたんだね、素敵な癒しだねって。
ただ理不尽だとはわかりつつも微妙に気にくわない気持ちもあるのだ。
生まれつき女性の型で世に出た人々はその外見ゆえにセクハラされたり軽く扱われたり「女は控えめに」「女は小綺麗に」という規範を押し付けられたりもっと直接的に危険を感じたりするけど、仮想美少女はあくまで仮想なので好きなときに着脱できる。美味しいとこだけつまめる。
そして女性が仮想男性になったところで、仮想美少女になる男性と同じような解放感はおそらく得られない。仮想世界でまでセクハラされたくねぇやと男性アバターでネトゲする人はいるようだが、それは防衛であって、男体になった自分に満足というわけではないように思う。
だからね、批判ではなくただの愚痴だし、微笑ましく祝福したい気持ちもあるのだけど、「けっ」って思ってしまうのも抑えられず複雑な心境です。
伸びるかなと思ってたら伸びたな。
観測者が「テセウスの船であることを認めない」と主張した場合は、その観測者にとってその定義が有効とされ、
別の観測者が「テセウスの船であることを認める」と主張した場合は、別の観測者にとってはその定義が有効とされる。
この場合、部品を置き換えられた結果の船を周知していながら関連者はテセウスの船であると認識しているため、
ただし、これにはオリジナルのテセウスの船自体に主観性がないとする。
日常において構成物質が変わっているのにも関わらず同一個体として認識されているものは「人間」である。
物体としては焼け落ちた城を再建させた城についても同じことが言える。
この場合も周りの観測者が大阪城と認めるから大阪城と定義できる。
◆水槽の脳
これは仮定としては十分成立する。
反論として現代科学において脳にこのような仮想世界を作り出すために必要なコンピュータを作り出すのは物理的に不可能だというものがある。
しかしこれは現実世界の科学技術や物理法則を元に論じられており、
「水槽の脳が実在する世界」においては別の物理法則や遥かに進んだ科学技術を持っているという仮定をするだけで条件をクリアできる。
そのためこの世が仮想現実であるという主張に対して、完全な反論は存在しない。
その説そのものが、科学的な進歩において何の有益性もないという科学者や論者がいるが、
◆哲学的ゾンビ
人間とまったく同じふるまいをする、主観的意識を持たない哲学的ゾンビを作り出すために必要な構成物質が定義できないから、である。
例えば魂と言われる霊的存在、主観的意識が人間のようなふるまいに必要不可欠であった場合、哲学的ゾンビは成立しない。
魂の研究に関してはまだ発展途上の段階であり、最近になって発見されたクォーツなどのように、
仮に未だ見つかっていない法則や粒子が主観的意識を構成する物質であり、必要な要素であった場合は哲学的ゾンビは成立しないからだ。
つまり、主観的意識の有無が哲学的ゾンビの成立に関与するかどうかを科学的に証明できない限りは反論が可能である。
地球が平らであると信じられていた時代においては端にいくとその先に何があるか、という論議は成立するが現代では成立せず、
仮に魂の構成物質と機能の発見が終わった後にもまた、この問いかけは成立しなくなる。
私自身は魂がまだ未発見の粒子により構成されているという説が正しいと信じている。
ある男が沼の傍で突然雷に打たれて死んでしまう。
その時、もうひとつ別の雷がすぐ傍に落ち、沼の汚泥に不思議な化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一形状の人物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。
スワンプマンは死んだ男と全く同一の構造・見た目をしている。記憶も知識も全く同一である。
沼を後にしたスワンプマンは死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と話をし、
死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら眠りにつく。
そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
これは素人が本物とよくできた贋作を見分けることができない程度の認識問題となる。
また、仮に最初の落雷がある男に落ちずに沼に2度落ちた場合は、スワンプマンを含めた男は計3名となる。
その点だけをくみ取ってもスワンプマンたちに同一性は成立していない。
よって沼にはじめて来た男とスワンプマンは同一存在ではないと定義できる。
これは魂・霊的存在・主観的意識が科学において未だに解明されていないことを意味している。
科学的に解明されていない余地があるからこそ、思考実験のバリエーションが多く組まれる。
また、観察者の能力についても、人類は正確に把握できていない。
そのため主体性意識を持つ存在の認識や定義について論じない、触れない哲学も多くみられる。
観測行為は観測する者の不在では論じれない量子力学や最先端物理学においては必要不可欠であり、
哲学が未だ観測者の能力と機能性について、正確に学問体系に組み込めていないというギャップが引き起こしている問題だと考える。
昔っからお前はそうだよ。そういうとこだよ?
http://info.nicovideo.jp/base/declaration.html
第四宣言 ニコニコはネットサービスをユーザと双方向につくりあげる作品として提供します
ニコニコが提供するネットサービスは人格と世界観をもちます。われわれが提供したいものは便利なインフラではありません。ユーザーと対等の立場で相互にコミュニケーションをすることにより完成されるひとつの作品です。われわれがつくりたいものは万人が受け入れるサービスではありません。われわれがつくるネットサービスは個性をもち、新しい価値観をユーザーになげかけます。人間の顔をした作品としてのネットサービスがわれわれが目指すものです。ネットという仮想世界において、すでに電気や上下水道や道路などのインフラは整いました。これからは仮想世界での文化であったりエンターテイメントが必要とされるのでしょう。ニコニコが提供したいのは人間が生存するためだけであれば、きっと必要のないものかもしれませんが、仮想世界においてユーザーが人間らしく生きるために大切にしたいと思うようなサービスです。
ピゴサが7/23に閉鎖するとのことだ
https://twitter.com/pgosearch/status/887442422904479744
日本に住むポケモンGO友達が憤慨していたが、すでに他のサーチツールに移行したようで今は落ち着いている
この友達の怒りのLINEをなだめている時に最近のポケモンGOについて思うことがふつふつと思い浮かんだので書きのこす
ポケモンGOは6月下旬に行われた大型アップデートによりゲーム性が変化した
詳しいことは割愛するが、簡単に説明すると以下の2点が大きな変化だ
この"やる気"はジムにポケモンを設置後自動で減少していき、0になると所有ユーザーの元へ戻る
また、高個体値(攻撃力、防御力、HPの値)のポケモンの方が、減少する速度が速い
この大型アップデート後、ハピナスやカビゴンだらけのジムは消滅したし、高個体値のポケモンも大幅に減少した
サーチツールで野生の高個体値ポケモンを探す利点は、ジム制圧やレイドバトル(後述)を有利に進めるために変わっている
なので、旧ジムシステムで勝ち残る高個体値ポケモンを探すユーザーは激減したであろう
ポケモンGOのレイドバトルとは、規定の場所、規定の時間内にユーザーが協力してボスポケモンを倒すイベントバトルだ
レイドバトル開催の通知は、標準機能の"Near by"で通知がくるが、500m以内の通知しかこない
一方、サーチツールはそのレイドバトル通知の範囲を広げており、ユーザーは広範囲にレイドバトルの通知を得るために使っているようだ
今回、ピゴサが運営によって閉鎖することになったのは、これが原因だと言われている
なぜなら、レイドバトル通知範囲拡大は、GPS情報の偽装により不正にレイドバトルへ参加するユーザーが増加するからだ
伝説のポケモンのレイドバトルが開始するタイミングで、ピゴサが閉鎖することになったのは、そのようなユーザー増加を阻止するためであろう
たまに、自分の周りにいる人よりも多い人数がレイドバトルへ参加していることがある
おそらくThe Pokemon Company internationalはピゴサに要請をしたのだろう
レイドバトルの特性上、強いボスポケモンを倒すためには多くのユーザーが必要だ
サーチツールはトレーナー同士のリアルなやりとり(LINEのようなインスタントメッセージ、電話)をすることなく、効率的に人を集めることができる
しかし、Ingressの時からそうだと思うが、ポケモンGOは仮想世界で起きているゲームを通じてリアルな交流を図ることを目的としていると思う
サーチツールを通じて、交流が図れると思う人もいるかもしれない
現に、サーチツールがない増田の地区では、レイドバトル開始前に"どの公園でどんなポケモンが取れるのか"や"金色のコイキング"の情報をやりとりしている
さらに最近では、あるユーザーがDiscordというチャットツール内に、地区内のサーバーを立ててくれたようで、そこで情報の交換が行われている
しかもその地区のリアルな経験を元に交換される情報なので、信憑性も高いし、自分もやってみようという気持ちになれる
増田の地区はかなり大きな都市なのだが、人が歩いておらず車しか走っていない道路や、人が集まらない郊外の公園で行われる強いボスポケモンのレイドバトルで勝利することは不可能に近い
地域格差の問題は、Ingressの時からずーーっっと問題になっている
この地域格差を埋めるためにサーチツールは機能するであろうが、位置偽装をする不正ユーザーも現れてしまう
最近2ちゃんねるでけものフレンズのスレ(アニメ板の本スレではない)を見たんだが、あまりに滑稽だった。
けものフレンズの内容や関連商品とか新作のゲームの話をしているのかと思ったら、けものフレンズを使って他作品を批判したり、あるいはけものフレンズは○○より売れてるみたいな不毛な煽り合いが最初から最後まで行われていた。冷静にこれを見たら、こいつら本当にけものフレンズのアニメを見たのか?と苦笑してしまったがここに男の本質がある。
この手の不毛な争いは男性ファンが多いアニメのヒット作が生まれると必ずといっていいほど行われるが、この根底にあるのは男の「優越感に浸りたい」という本質にあるんだと思う。
本来はスポーツや仕事やゲームで相手を打ち負かしたり、他者より成功して覚える優越感だが、現実でも仮想世界でもそういったことができない連中は「圧倒的な勝者」に擦り寄っていく。
自分が作ったわけでもないのに作品を自分の装備にして優越感に浸るというなんとも哀れなことをやってる。
先述したスレにいて煽り合ってた連中は、もし将来けものフレンズよりヒットしたアニメが出てきたら一気に手のひらを返すんだろう。
これらの事が良い悪いではなく、本質的にこうなるのは自然だと思うのだが、けものフレンズみたいな作品ですらこうなるというのはなんとも面白い。
さて、けものフレンズの2chスレで改めてそれを実感したわけだが、この本質を踏まえるとスマートフォンゲームは本当に上手く男の欲求に応えている。
かつてのネトゲはニートや学生でとにかく時間がある奴が優越感に浸れるというものだったが、最近のスマホゲーは金持ちが何十万何百万と課金しまくって下民達を蹂躙していくことができる。他人が持っていないレアなキャラを課金しまくることで手に入れて自慢することもできる。
優越感が金で買えるようになっている。
恋愛話をしているとき、「男はみんな浮気性」とか「誠実な男なんて (ほとんど) 居ない」という主語が大きな言葉が飛び交うことは珍しくない。
一方で、こういう会話を耳にすると、「俺の周りでは、浮気をする奴なんて珍しいけどなぁ……」と思う男性も少なくないだろう。
こういう不整合はどこから生じるのだろう。政治的に正しくない思考に汚染されて、認知が歪んでしまっているのか。恋愛で壊れた大脳を癒やすため、運動と瞑想と350グラムの野菜が必要なのだろうか。
実は、このような状況は「ヤリチン分裂現象」として合理的に説明できる。以下に、ヤリチン分裂現象の簡単な解説を述べる。
全ての男性が次の3種類に分類されるような、仮想的な世界を考えよう。
さて、このような仮想世界では、ヤリチン男性は人口の1割に過ぎない。一方、誠実な男性は人口の過半数存在する。
ここで問題となるのは、属性別で見ると、交際人数に偏りがあることである。
上記の状況を女性の立場で考えると、交際する男性のうち、各属性の比率は
ヤリチン男性:誠実な男性:恋愛外男性 = 0.1×100:0.5×4:0.4×0 = 5:1:0
となる。驚くべきことに、女性から見ると、交際相手のうち約83%がヤリチンとなる計算だ!
(人口比では、ヤリチンは男性の1割しか存在しなかったのに!)
ここまでの計算を見た読者には、この原因は明らかであろう。一人のヤリチンが多数の女性と関係を持つ結果、交際相手として何度も重複カウントされ、統計上は「ヤリチンが分裂」しているのだ。
これと同様の分裂現象は、恋愛だけに限らず、世間の至る所で見受けられる。
主語の大きな文章を見かけたとき、そこにはヤリチン分裂現象が潜んでいるかもしれない。たとえ自身の実感が伴わなくても、多数の被害者の存在を頭ごなしに否定しないのが、冷静で合理的な態度だ。
主語の大きな文章を読んで傷ついて、頭に血がのぼったとき。書き手の不見識を取り上げて、袋叩きにしたいと思ったとき。ふと立ち止まって、書き手の境遇に想像を巡らせてほしい。
数多のはてなーの手に握られた斧が、無垢な一般人に向けて次々と振り下ろされる光景を、ただただ悲しく思う。
11/1 追記:
ミスを修正しました。恋愛外男性について、0.5×0=0としていましたが、正しくは0.4×0=0です。ブコメでのご指摘ありがとうございます。
http://anond.hatelabo.jp/20161003130854
80年代から90年代にかけて、日本は経済的に豊かになった。生活が大雑把に言って誰にとってもよくなったし、多くの人が下層から中流へと引き上げられていったのだと思う。増田自身がそうだというのではなくて、この考え方がどこかにわだかまっているのを感じ取って書いているのだと思うけど、この「『景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい』ってのは非常に傲慢で気が狂った意見に思えるんだけど、どうだろう?」という発想は、そうやって引き上げられて適応できなかった人たちの言葉なんじゃないだろうか。
人類の歴史のうち、記録に残っているのは紀元前精々数千年だけれど、その間でテクノロジーの進歩が止まったことはなかったはずだ。ヒトは消費を拡大し、経済を拡張し、産業を発展させて、生存をより確かなものにし続けてきた。文明、経済や文化の発展とはエネルギー消費の拡大でもあるけれど、生存をより確かなものにするためのものでもあった。
「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」というのは、この認識に対する挑戦だと思う。つまり景気は「上昇しすぎた」ので、「おかしい」が、「おかしくなかった」水準があり、そこまで下降することが現状よりも良い、という意見だ。おそらく経済学を学んだ人なら教科書の最初の章で学びでもすることなんだろう ―― そこにはもっと簡潔で示唆に富んだ言い方で書いてあるのだろうけれど、景気は上昇しなければおかしいし、景気を支えるのは景気だ。経済は静的な系ではない。常に動的で、一時的な、その裏にある人間の日常生活を調停するメカニズムに過ぎない。
彼らの語る"適切な規模の経済"には、いつもどこかから富が湧き出てくることになっている。財やサービスが社会システムによって無から自動的に生み出され、それを絞ることで持続性を確保することになっている。そこに規模の経済などもちろんないし、需要と供給の関係もない。代わりにあるのは、供給と受け入れ可能量だ。大衆は受け入れ可能量をもち、与えられた賃金の中で供給を仕方なく消化するが、受け入れ可能量の伸びには限度がある。だから供給は低く押さえることが望ましい、というモデルだ。
景気の爆発によって、多くの人が経済や社会を自分の認識する世界と切り離して考えるようになってしまった。あるいはそういう人が新たにたくさん発言力を得た。株式市場というのは一部の人が遊ぶゲームで、経済政策は美麗字句を書いた文書に過ぎない。小さな好景気や不景気は《降って》くるもので、仕事場と帰りに寄るスーパーと自宅の外のことは、そういった仮想世界での事件とは何ら関係なく、「おかしくなかった」水準で永遠に続いていく。これらの人々は胡蝶の夢のごとくそう思い込んで、「仮想世界にのめり込むのはやめよう」と言っているようにも聞こえる。増田の意見、そしてそれに類する意見を見るたび、そういう違和感を覚える。"現実世界"から"仮想世界"のものを排除して、きれいで質素で、自分が必要だと思ったものは無から湧き出ることで変わらず存在していて、必要がないと思ったものはきちんと栓を閉めたのでどこを探しても残っていない、そういう過不足のない世界を作るんだという幻想がそこに見える。
でも、うまく言えないけど、そんな"仮想世界"はないんだ。全国で毎年数百人しか使っていない制度を廃止すると、増田の5親等先から悲鳴が聞こえてくる。平均株価が何ポイント落ちると、コンビニのジュースが何円上がる。コンビニは贅沢か。それなら上水道でもいいかもしれない。飲み水に上水道は贅沢だろうか。
経済は永遠に拡大していくという言い回し、永遠に消費は増え物価は下がっていくというモデルが今一つ心に響かないよ、という気持ちはわかる。しかしそれを理解してほしい。経済は褒めれば伸びる。ときどき発振する。抑えれば、フィードバックがかかってどんどんと落ち込んでいく。スタグフレーションは実在するんだ。支出を抑えて賃金を下げても、誰かの所得が増えるわけじゃない。金の額面は貯めこめても価値は貯め込めない。それは増田も貯金の価値が不変ではないと認めている通りだ。価値は、作らなければ、自然に風化して消えて行ってしまうんだ。
コントロールされた縮小をすれば一定量の幸福を長く保てるなんていうのは幻想なんだ。自分が理解できない経済のメカニズムをぶち壊しても、美徳や気持ちで金銭を置き換えても、その実態は通貨の名前を変えた貨幣経済だ。どうかそれに気付いてほしい。
アンサイクロペディアのネタバレテンプレートでも読んどけクソ雑魚ナメクジ
警告:以下の文章にはネタバレ、いわゆるスポイラーが含まれています。これにより記事はより空気力学的に洗練され、その結果としてより高速で疾走できるようになります。
もしあなたが、セブルス・スネイプは二重スパイであり裏切っていないことや、綾波レイは何人もいることや、流子の父を殺したのは皐月ではなく針目縫であることや、ブリーフがイケメンであることや、ウォーフがディープスペースナインに転属されることや、サーヴァント・セイバーの正体はアーサー王であることや、花菱薫には同じ名前の弟がいることや、大空寺あゆは大財閥のご令嬢であることや、キース・ブライアンはナイトレーベンに挟まっちまうことや、イリッチはマルコフの親友で敵側のスパイであることや、魔王アロウンは13番目の使徒であり自ら地上に堕ちたことや、黒の組織の正式名称を言うと「あの御方」が誰だか分かってしまうことや、バトルホッパーは破壊されることや、紅渡の母親はファンガイアのクイーンだったことや、ナカジマ姉妹は戦闘機人「タイプ・ゼロ」であることや、バロータ軍の兵士の正体が地球統合軍の兵士であることや、ダイスリーはバルトアンデルスというファルシで人間を道具としてしか見ていないことや、カシムは詐欺師であることや、ゼクス・シンジケートのアジトはドームの外に存在することや、シュウジとちせだけが生き残ることや、ヴァン・ホーエンハイムは人の形をした賢者の石であることや、テフェリーはプレインズウォーカーでは無くなることや、ファウードは暴走することや、旗立颯太は神竜として覚醒し自分がいた仮想世界の管理者権限を得ることや、ウォルター・オディムは深紅の王の部下であることや、マリア・カデンツァヴナ・イヴにはフィーネの魂が宿らないことや、アンサイクロペディアはウィキペディアのパロディであることを知らないのであれば、充分注意して、救急箱を手放さないようにしてください。
<12:26追記・変更>
若い頃のネガティブな自分に会ったら、思わずそう言ってしまうと思う。
大人になると、個人の力の限界や、他の人との差はそのなに大きなものではないと知る。
世間でいいとされているものは必ずしもそうではなく、感じ方もひとそれぞれで自分に合ったものを選択すればいい。
”今の記憶を持ったまま”若いころに戻れたら、どんなに素敵なことかと夢想する。
しかし、よく思い返したら、若いころはいっぱいいっぱいだった。
優劣の差が明確につけられるし、自己肯定感なんて無かった。
弱いと切り捨てられるから堪えるしか無かったし、外の世界も同じようなものだと思っていた。
自分が好きなものは好きだと思ってはいけないものだと思っていた。
感情を偽らなくちゃいけないから、道理で動かない人間に対して攻撃になってしまっていた。
今でこそ、外の世界に出たからこそ、子供時代が狭い世界であり、特殊な世界だと理解できている。
だが、狭い世界で生きている人間にそのことを理解させるのは難しい。
仮に、ある人物がいきなり現れ、
「この世界は実は仮想世界なんだ。今すぐ死ねば現実世界に戻れて、もっと生きやすいし楽しいよ」
そう言われて信じられるだろうか。
いじめに遭ったことどもに対して、「狭い世界だからもったいない」、「逃げればいい」、そうアドバイスする気持ちもわかる。
それも彼らにとっては信ぴょう性のない言説に過ぎないのだ。
自己肯定感の低い者に対して、可能性なんてものは自分をがっかりさせる得るギャンブルに過ぎないのだろう。
結局のところ、若いからなんでもできるかどうか、それを理解するには時間がかかってしまうのだ。
もちろん個人差はあるだろう。
しかし、落ち込んでいる若者に、「若いからなんでもできる」と言うのは戯言でしかなく、
彼らを励ますという目的を達成するのであれば、それは説得力はなんたるかを考える必要があるのだ。
たけを