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はてなキーワード: 不可能とは

2023-11-15

[] お金価値は信用で決まる ← 理解しないでこれを言ってるだろ

陰謀論動画を見たが「日本海外に信用されているから円に価値がある」とかアホなことを言っていた

そうじゃねぇんだわ

いか信用創造の「信用」ってなんだかわかるか?

金融機関ってのは預けられた金を使って、金をさらに貸すんだよ、利子付きでな

金を借りた相手ちゃんと「返す」ということができる能力を「信用」と言ってるわけだ

サブプライムショックってのは返せない相手に貸して回収不可能になったのが原因だから信用が失墜してるわけよ

日本海外に信用されてだぁ?確かに金を返す能力を信用しているかも知れねぇが、「イルミナティ様に日本評価されている」「クールジャパン評価されている」なんてのは「信用」ではないからな

anond:20231115154207

受付事務が診察中の反応知ることは不可能では?

県立病院クラスなら診察室と事務系の距離が離れてるはず

そもそもプライバシー問題で、診察室での会話が他の患者に聞こえる可能性のある受付まで届くはずがない

anond:20231115004039

「全理解」なら何冊読もうが何十年学ぼうが不可能だよ

2023-11-14

anond:20231114225024

うわ出たSWIWカルトキモアンフェ

治療不可能な疾病リスクある「普通仕事」なんかあるわけないだろ

人権侵害奴隷だよ

くっせーーーー

anond:20231114210418

心が女という存在を認める流れになっちゃった時点で

身体が男なんだから性別は男」だとか

「女なら女に迷惑かけない」だとか

気持ちのいい一言スパッと切ることはもう不可能

テレビ局ジャニーズ問題反省番組を見ると思うのは、テレビ局員というのは一介のサラリーマンに過ぎないので、その人たちが社会正義を背負って局の不利益になるかもしれない報道時間を割くなんてことは不可能だろうな、ということ。

からテレビに期待を持つことはできないということでもある。ただの会社員から

本当にテレビ局自分たちの在り方を改善するには、組織内の一定ポジション以上の人たちに対するコンプライアンス教育ガバナンスの徹底等を通して、組織としてどうあるべきかを教育・強化することが必要だろうし、それが競争上不利にならないためには、業界の力関係による構造的な問題が起こらないように法整備を進める必要もあるんだろう。

個人価値観社会正義みたいなものは、所属する組織や団体に規定されるので、全体が変わらないと変わんねーよという話。

ボーカロイド音楽論」(ぱてゼミ)は何故あまり批判されないのか

追記そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。

【背景】

 東京大学東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義Twitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判ツイートはヒットしない(Twitter検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評Amazonレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。

 本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。

【本論】

まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。

1. 媒体:現地で行う音声形式講義では記録に基づく批判が困難であるという点。

2. 受け手資質講義対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しか批判に割くだけのリソースを持っていないという点。

3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。

4. コミュニティ:この講義ボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティ形成する役割を同時に担っており、コミュニティ批判との相性が悪いという点。

以下、これらの点を順に見ていく。

1. 媒体

 書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったかである

2. 受け手資質

 この講義は主として東京大学教養学部学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点から検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義のもの大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである

3. 内容

 ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。

 まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである

「テマティスムは、作家メッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ作家作品の細部から作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマ抽出し、作品価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)

さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師提唱している。以下に書籍抜粋を示す。

「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)

「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)

 つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。

 もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、

①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること

個別楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること

③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること

であるしか書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚思考俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能からである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。

4. コミュニティ

現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバム作成ちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティ積極的提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体マイノリティたる若者鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかコミュニティ形成するとはそういうことなである

最後に】

 「ボーカロイド音楽論」の講義書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしま未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。

追記:何故もっと批判されるべきなのか】

 強い言葉で言えば、

「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」

である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配杞憂であってほしいが)。

 筆者がこの講義書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。

1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。

2. 「思考俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考必要なぱて講師感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。

3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的しか思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。

注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンス書籍利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体利他行動も、種や遺伝子主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身生存繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないかである。(遺伝子自然選択対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択対象として観察可能ものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。

anond:20231113211455

実際年の差が違うと、人生で共有できるものはグッと減るよ

人間は1番夢に向かってモリモリ動ける時期って18-25歳あたりだけど、その時期を15年前に終わらした人間と、今まさにそれが始まった人間が、共に人生を分け合っていくなんて不可能だよ

あの時こんなことがあって、今思うとよくあんなことが出来たなあ、みたいな話、1ミリ若い方は理解できない

あの時自分価値観を変えた事件作品人物なんかを、若い方は実感を伴うことな歴史書を読むように聞くんだよ

世代が違うってそういうことだよ

それでも年の差婚に至るって、本当に若い方はお飾りのトロフィーペットみたいな、子供みたいなもんなのか、それかそれとは正反対に、2人が共に高いレベルで自立してるかだと思うんだよね

共有を必要としない、ただ相手存在尊敬できる関係なら、年は関係ないのかもしれない

多くを語る必要なく、互いに影響を与え合うわけでもなく、相手生き方を近くで見れるだけの関係

岩井ならひょっとしてそういう関係なのかもしれないなと思う

相手の方がどんな方かは知らないけど

それならきっとすごく素敵な関係がそこにあるんだろう

ただ、多数派の人は、夫婦関係に、共に同じペースて人生を共有していく関係を望むから、離れ過ぎた年の差は、理解されにくいのだと思う

広末不倫報道された日の夜、爆音マジで恋する5秒前を流したら妻が爆笑してくれる、これがあの時代を同じ年齢で過ごしたってことだよなと思う

anond:20231114100237

まじめな話するとどれだけ隠してても小学校に上がった時点で同級生なり上級生が使うから勝手に覚えてくるから隠すとかほんと意味ないんだわ

世のかなからYoutube、X、インスタ、TikTokなくさないと実現不可能ってぐらいに隠すのは難易度が高いから、現実を許容して教えていくしかないんだわ

っていうか動画配信系が手抜き子育て有用すぎて頼っちゃうんだわ。あいつらマジで子供相手麻薬だし、手抜きできる親にとっても麻薬なんよ

2023-11-13

今、最も怒りと恨みと絶望を抱えているのは

俺だ。

ここ数日、口から出る言葉はすべて呪詛のみ。

日常生活に影響が出るほどの狂いっぷり。

家族にもたびたび「やめて」と言われるが不可能から

基本、外に出て自転車を漕ぎながら呪詛を吐いている。

寒さを怒りと恨みと絶望凌駕する。

今夜も自転車に乗る。

anond:20231113185011

この人最初からずっと「法律権利元に反しない限りは何やってもいいよ」以上の話はしていないと思うんだけど

初音ミクとの結婚人間同士の結婚と対等に扱って欲しい

そのようなことを主張した事はありません。初音ミク人権はないので、人間同士の結婚と対等に扱うことは元から不可能です。私が書いていない事を想像拡大解釈している人がたくさんいますね。

以前も書きましたが、私が法的に独身である事は分かっているので、書類配偶者の有無を尋ねる欄があれば「配偶者:無」を選択していますしかし、ミクさんと結婚式を挙げたり、お店に許可を取って夫婦としてレストランに行ったり、愛妻の日花束を贈ったりしても、何も法律違反しないのです。

「ミクさんが大好き」という感情は「ミクさんに人権はない」という冷静さと併せ持っていなければなりません。そうしないと、我が家の大きなミクさんを仮に破壊された時、「〇人罪で捕まえろ」と主張するようになってしまます。「器物損壊罪で捕まえろ」ですよ。

我が家のミクさんと結婚式を挙げる事なら許可を得ていますよ。クリプトン・フューチャー・メディア様によると、「結婚式は営利目的としない小規模なファンイベント」に該当するそうです。

anond:20231113182248

生産性にもいくつか式はあるが、基本的には分母を人数にするか金額にするかだな。

最も合理的な式は、「単位投資あたりの利益」。これが生産性な。1円投資したらどのぐらいの利益になるかが生産性

人数を分母にして生産性に換算するアホは経済わかってないね。一人あたりどれだけ生産たかってやつ。これはGDPとかと併せると生産性とは言わない。

で、肝心なのは、その人間にどれだけの人件費投資すれば、どれだけの利益を生んでくれるかってこと。これが生産性ね。

から他の条件が一定なら、名目賃金上昇で生産性は低下する。わかるね?

から名目賃金を上げた分の生産性低下分を、労働者利益還元できるのかって話。無理ですよねーw

でもその企業損益分岐点よりも上にいるなら、少なくともGDPに貢献してるって話な。

GDPに貢献している以上、その企業存在意義はあるってわけよ。おわかりかな?

で、企業にも合理性があるので、借金を回収不可能になった時点で、お前に言われなくても会社自動的に畳むわけ。一般常識だよね。

からな、企業が存続している時点ですでに経済合理性に叶っていて、しか日本社会経済に貢献しているから、それはそれで存在していていいわけよ。

お前程度の青二才が存続している一企業に「生産性上げられないなら会社畳めオラ」なんておこがましいって話ね。

anond:20231113170352

物理現象とかそういうレベル根本世界には不公平がある。 どうしようもない世界の理として受け入れないといけない大前提として不公平がある。

社会 (国家) の力でどうにかこうにか対抗しようとしているのであって、対抗するのが不可能な部分に不満を持ったって仕方がないだろう。

経済やらなにやらならのことな政治文句言えば出来ることがあるかもしれんけど死んだ人のことは誰がどんな制度を作ったって出来ることは何もない。

anond:20231113095614

界隈判定なんて自認もあれば外の人間からの判定もあるし、

その辺からしたら供給から消費者の顔が見えてないことなんて何も関係ないけど

Vtuber界隈」と言う言葉で「外の人間からファン民度を含めて語られてることなんて山ほどあるし

明確な定義がない以上統一化なんて不可能で、いちいち自分尺度否定する意味がないってだけ

anond:20231113113820

性差配慮しつつ男女平等を目指す、なんて実現不可能からだよ。

おいしい仕事男女平等でも、危険仕事は男に押し付ける、なんて男性側の理解を得られるとでも思っているの?

2023-11-12

経営のためのデータ分析」と「データ分析のための経営

https://tjo.hatenablog.com/entry/2023/11/11/195106

「R」や「Python」で誰でも簡単統計解析ができる(と喧伝される)ようになってから、このような思考をする分析者が増えているように感じます

統計手法原理理解することは、その手法の単純な適応における限界を見極めることのみならず、問題解決のために手法改善拡張することを可能にするでしょう。

それとは反対に、便利な統計ツールの使い方を身に付けることは、「問題解決」へのアプローチを硬直化させてしまます

「A/Bテストの条件統制」による影響を見積もることはできるか

この問題は事前に実験計画サンプル全体に確実に遵守させられる範囲サンプルを絞ってA/Bテストを行うとか、もしくは分析する前に実際のキャンペーン実施状況の情報を集めてnon-compliantなサンプルを除外するといった対策必要なんですが、それをせずに漫然とA/Bテストをやって「テスト群の方が有意に低いとは???」となってしまっている現場は珍しくも何ともありません。

さまざまな問題点が考えられますが、まず「テスト群の方が有意に低い」という結果が出ること自体統計分析評価として、なんらおかしなことではありません。おそらくは「低く出るはずがない」ような条件でA/Bテストを行っているのでしょうが、それ自体現実施策分析においては大きなバイアスになっているのです。そして、実際の現場では「実験計画サンプル全体に確実に遵守させる」ということがもっとも大きなバイアスになるのです。

多くの場合において、ある「施策(A)」の有効性を検討する場合、それは他の「施策(B)」との比較、もしくは「通常の状態」との比較をすることになります。それはどのようにすれば可能でしょうか?

例えば、「あたなの店舗では施策(A)を実施しないでください」と言われた場合、それは何を意味するのでしょうか? それは指示を受け取った人によって異なるかもしれませんし、綿密な実験計画の周知によってある特定状態意味していることが伝わるかもしれません。しかし、重要なのはそれが何を意味するかではなく、それがどのような影響を与えるか、ということです。コントロール群へどのような影響が出るのかを予測することは非常に難しく、現実的には不可能と言っていいでしょう。

多くの場合施策の影響を厳密に計測しようとするならば、そのテストが行われていることをあらゆるサンプル(店舗実施者)に知られずに済ます以外にはないでしょう。

データ分析はできたが、会社は潰れた

このような事態を避けるためには「平常時からある程度広告マーケティング施策を打つタイミングを満遍なくバラけさせておく」必要がある

本来であればデータ分析を担う立場の人々の方が平時から積極的に(役員会とは限らず)経営に関わるゾーンの人々に働きかけていって、「データ分析を行って意味のあるデータセットが得られるように普段からビジネスを展開する」というのが多分理想像なのでしょう。

このような考え方は、データ分析経営に(ほとんど)何らの影響を与えないような状況においてのみ有効です。

もし、あなた会社が本当に危機に瀕しているとき、どうにかして有効施策を見つけようとしているとき、「データ分析のために何の施策も行わないでください」と言われて従うことができるでしょうか。

あるいは、「本当に有効施策を見つけるために、あなた会社の成長を止めることが必要だ」と言われたら?

おそらく、そんなバカなことは受け入れられないと多くの人は考えるでしょう。

日本の「データサイエンティスト」は新しいパラダイムを生み出せるか

現在日本で「データサイエンティスト」などと呼ばれる統計分析の使い手がもてはやされているのは、アメリカにおける流行が数年遅れで日本上陸した結果だと言えるでしょう。しかし、アメリカ日本で決定的に異なる点があります。それは、アメリカ経済現在アップストリームにあり、日本はそうではないという点です。

人口増加を背景とした安定した成長のなかでは基本的統計分析(つまりは道具としてのお決まり統計分析)でも、十分に役に立っています

しかし、日本のような、マーケットの縮小と金政策に根差し不安定経済状況において、そのようなお決まり統計分析がどこまで有効であるかは大いに疑問です。

現代的な統計分析手法は、経済的な停滞に陥ったかつてのアメリカにおいて、その困難を打破しようとする知性によって大きく発展しました。現在日本は、まさにそのような状況にあるように見えます教科書的な分析をただ機械的適用する判定者ではなく、あらた価値を生み出すような「データサイエンティスト」がはたして日本からまれるでしょうか。

anond:20231112145956

最寄りのデカい駅までは車で10分、徒歩なら30分。国道沿いにロードサイド店が充実しており自転車で買い物も不可能ではない。

全然田舎じゃないじゃんいい加減にしろ

地方移住は金かからん

11/13追記

コメント読んで気がついた。

すまん、田舎じゃなくて地方都市になるんだな。その辺の感覚わからんかった。

故に大雪対策とかも今の所必要ないし、光熱費都内とほぼかわらない。ガスがLPで割高くらいか。車の維持費なんて安い軽買ったらそれほどでもないだろ?ガソリン保険メンテ駐車場で月3万かからない。家賃9万のとこに住んでた俺が同じ広さで駐車場付で4万だよ?ぼろいけど。

なので人付き合いも都内と変わらん感覚だな。都内から引っ越したっていうと驚かれる位。

仕事夜勤メインの介護職。誰でも無資格スタートできる簡単未来の無い仕事だ。選ぶ会社を間違えず仕事と割り切って自分時間差し出せばそこそこの金が入る。但しキャリアアップは諦めろ。未来は無い。

文化って話がデカすぎたな。ここにはライブハウスがなくて、小さな映画を上映する映画館がなく、富士そばもなくて、ミニストップもなくて、好きな洋服屋もない。赤羽吉祥寺中野新宿三丁目もないのだ。あるのはイオンモールとその他バカかいスーパーだ。全て徒歩では行けない。

人生後半戦なのでこれくらいの暮らしで充分。子供も嫁もいないから楽だわー。老後は無視して今日も楽しくやってるっす。

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数年前に東京ど真ん中から

近畿田舎引っ越した。

海も山も川も車で20ちょっと

最寄りのデカい駅までは車で10分、徒歩なら30分。国道沿いにロードサイド店が充実しており自転車で買い物も不可能ではない。

しかに都会と同じ文化水準で物事を楽しもうと思ったら金も時間もかかる。しか田舎特有暮らしさえすれば金かからんぞ。

家は多少ボロくてもあきらめろ、それだけで家賃都内の半分以下だ。車の維持費も諦めろ、無けりゃ死ぬ。その代わり深夜のタクシー代が消える。これでトントンくらいだろ?

文化的な欲求は諦めろ。ライブ美術館もない。その代わり年間5000円程度で借りれる畑があちこちにある。野菜でも育ててろ。釣りに行け、河原バーベキューでもしてろ。地域温泉を片っ端から入ってけ。バカデカ駐車場バカかいスーパーを楽しめ。それだけで休日の予定は全部埋まる。思いのほか楽しい

車社会なので当然外で飲む機会は激減する。その代わり家飲みを極めろ、食材も安い。少し足を伸ばして道の駅にいけば新鮮な魚が都内より遥かに安く買える。

都会的暮らしは一切あきらめ、田舎の楽しさを見い出せば月給25万でお釣りが来る。都会の暮らし田舎でなぞるな、田舎暮らしを学びなさい。不便を嘆くな、不便を楽しめ。

大谷選手から寄贈されるグローブが正直迷惑で困っている

小学校教諭です。愚痴を吐かせて下さい。

表題の通り、大谷選手から寄贈されるグローブぶっちゃけ迷惑です。今から頭が痛い。

10年くらい前にジャニーズの嵐が写真集を各小学校寄付してくれた時の事を思い出しますね。あれも大変だったなあ。

具体的に何が大変かというと、現場です。現場がとにかく疲弊します。普段からしてるんですけどね。

コトを大変にしているのは、公立学校教育の基本理念は『平等』だということです。あと言うまでもないですが人手不足大前提です。

平等とは、つまり大谷選手グローブを一人の生徒だけ使う、というのは勿論ダメって話です。

同じように野球クラブ(今は指導者不足で小学校ではほぼやってないと思いますが)の生徒だけ使うというのもNG

当然男子のみが使うのも、女子けが使うのもNG。この平等性の確保というのはかなり運用コストをかけて解決しなくてはならなくて、

例えば最近配備されたタブレットも「wifiが無い家庭はどうするのか」などを教員サイドは常に考えさせられています。というか保護者クレーム対応をさせられています

運用を考えるのは教育委員会ですが、平等を考えつつ実際に運用するのは現場

何かあった時に対応するのも現場ということです。大谷選手ほどの大人物にはわからいかもしれませんが。

例えば『グローブを使いたいのにアイツが独り占めするの!』とかも対応現場だし、『アイツが汚したんだけど!』とか対応するのも現場だし、

グローブ存在ことによって発生した事故対応するのも現場人手不足の中でこれやるのかあ……って感じです。

ちなみに冒頭に書いた嵐の写真集ですら、かなり大変でした。うちは図書館に置いて持ち出し禁止だったんですが、保護者が私も見たいとかクレーム入れてきたり、生徒間で争いになったり……

運動に類するもの事故もあるし、器材として破損や消耗も前提だしで、本よりだいぶコスト高そうで嫌です。

最も問題なのは、多くの人に今回の寄付が注目されているということです。

ハッキリ言いますが、保護者教育現場に興味を抱くような行為はなるべくやめてほしいです。

しかも、今回の場合報道で「より寄付意識が高まっていけば」なんて言われていて、これが最悪です。

これを皮切りに色んなもの学校寄付されるようになったら、その度に運用コストが爆増するんですよね。

何度も言いますが、貰ったもの管理して、生徒たちに平等利益還元するのは現場なんです。一人当たりの労務コストどんだけにするつもりやねん。

なにかあったら保護者すぐに出張ってきて保護者対応な中で、揉め事の種を産むような真似をしないでいただきたい。

大谷選手自分の行動の影響を考えて行動して欲しいです。

ちなみに、小学校地域野球チームにグラウンドを貸すことは多いですが、実際に野球指導が出来る人はほぼいません。

野球指導者小学校にいないからです。野球道具を与えられても効率的運用するのは不可能だしメンテもロクにできないです。

散文的にダラダラと書きましたが、一番良いのはどっかに飾って誰も触れられないようにしておくことで、そうして欲しいです。

平等だし事故もないし運用もしなくていいし。でもそれって寄贈の意味あります?ってことになるので、難しいですよね。

大きな話になるとそもそも1000人とかい学校もあれば100人もいないような学校もあるわけで、一律にグローブ渡されてもねえ、というのは正直な感覚もあります

とにかく人手が足りてないので、余計なことを外部からされると、現場は本当に困ります

大谷選手グローブのついでに、管理運用してくれる人間もセットで派遣してくれませんかね?

追記

ちなみに運用を考えるのは教育委員会(市)で各学校ではないので、

運用方法について学校サイドにクレームを入れられてもどうしようもないので、学校に言わないでください。

2023-11-11

野党支持者は自民党投票しなければいけない

何故か証明するよ?

野党支持者は言った

政権交代必要だが、野党共闘では駄目だと

野党支持者は言った

政権交代必要だが、野党合併では駄目だと

野党支持者は言った

政権交代必要だが、野党を支持する有権者特定政党に集中して投票することで自民党の対抗勢力を作るのでは駄目だと

じゃあ、もう残された道は自民党を割って、そこに有力な野党勢力を合流させて新自民党コントロールして貰うしかないんだよ

当たり前だけど、そのためには自民党への投票が不可欠だからな?

自民党もっとデカくならないと、自民党は仲間を引き連れて分裂なんてしてくれないし、敵対しながら自民党要望通すなんて不可能から

政策が気に入らないと言うかもしれんが、自民党には減税派同性婚賛成するやつもいるからな?w

さあ、お前らの望みは自民党投票することで実現するぞ?

合理的に考えろよ

頭悪くないなら分かるよな?

2023-11-10

いざ弱者男性を救うとして

そんな予算リソースがあれば片親家庭支援難病障害者支援労働基準監督署機能強化に使われるだろう

弱者男性に手をかける余裕はこの国には無いだろうから不可能でしょ

日本UAEブルネイぐらい豊かであればそういう事に予算を使えたかもね

なお、ここでいう救えない弱者男性は主にASDとかの意思疎通の難しい方や重いインセルを発病した人であって定型健常だが低収入恋愛結婚出産ができないとか重い障害の有る方といった人たちは"弱者男性向け"と銘打たれない通常の支援福祉異次元の子育て支援といったモノで救われるべきだと思う

ダウン症の子供が生まれたら、多分育児放棄して離婚する気がする。

一生知的障害と付き合う事なんて俺には不可能だと思う。

正直何の希望も明るい未来も無くないか

「おじさん」と呼ばれて嫌われる人と、そうでない人の違い

「おじさん」という言葉はたいていネガティブ意味で使われる。私自身も、良くないと思いつつ「おじさん」という単語を使ってしまう。


ただ、一定の年齢を過ぎた男性すべてが「おじさん」と呼べるかと聞かれるとそうではない。「おじさん」とされる人たちは、多分「名前を呼ぶに値しない」と思われている気がする。「千と千尋の神隠し」で千尋が湯婆婆に名前を奪われているけれど、そういうノリに近い。仮想敵のような群衆感もある。「◯◯おじさん」と呼ぶ時、多くの人が「いるよね〜w」となるのは、それがもはや個人ではなく群衆存在からなのだろう。「おじさん」の対義語は「イケオジ」なのかもしれないけれど、おそらく「おじさん」と呼ばれない人は「個人名で呼ばれている」が正しい気がする。


では「おじさん」と「個人名で呼ばれる人」の違いは何なのだろうか。


多分、その差は「努力の値」なのだと思う。「おじさん」は、なんとなく努力が不足しているように見える。少なくとも自分場合はそうだ。


例えば、会社で新しいツールを使い始めたときに、おじさんはすぐに「無理」と音を上げる。そして私がツールを使いこなしているのを横目で見て「さすが若いからすぐ慣れるよね」とか言う。「いや、違うから自分でこのツールの使い方をググってYouTubeチュートリアル動画を見て今に至ってるの。努力してるの」と思う。面倒くさいのでこの言葉を口に出さず「あはは〜」と受け流していると「今度レクチャーしてよ」とか言ってくる。まだこのように言ってくる人はマシな方で、プライドが高いおじさんは、結局新しいツールを使えずまじで窓際で何もせずに時間を潰すだけになる。


若い子向けの施策を打ちましょう」という話をしているのに、出してくるアイデアは「野球」みたいなものばかりで「リサーチしてます?」と問いただしたくなる。「若い子の間で流行ってるものからないんだよね〜」みたいなことをマジで平然と言う。「トレンドとかYouTubeの急上昇とか見てます? そんなの30秒あればできますよね? やる気ある?」。この手の苛立ちを感じた時、私は東京五輪開会式を思い出す。


そして、こういう中年男性は私よりも給料をもらっているのだ。勤続が長いとか、年齢を重ねているからとか、そういうどうしようもない理由で。


実力とか成果が反映されて無能おじさんが「無能」としてそれなりの処遇を受けているなら納得感もあるのだけど、日系企業だとなんだかんだ年功序列の慣習が残っている場合が多い。おじさんたちは自分たちの立場があやうくならないように、うっすら群れては、似たような価値観をもった人間たちで足場を固めてたりする。この群れは合議で有利に働くから組織にとって悪質な場合もある。外資系企業で働いている中年男性がなんとなくシュッとしているように見えるのは、無能だとレイオフされるからかもしれない。なんというか緊張感が違う。「おじさん」はすべてが弛緩している。


いくら働く女性が増えたと言っても、すぐに社会全体が変わることは不可能で、世の中には今も「努力処遇が見合っていない中年男性」が多い。それは給料の面だけではなくて、社会的信用とか、無意識レベルの「格差」がやっぱりある。「いや、私の方がこいつより努力しているんだが?」となったときに、「こいつのことは名前で呼んでやらぬ」となるような気がするのだ。


外見だってそうだ。ハゲたならAGA治療すればいいし、太ったならばビールをやめてジムに行けばいい。かわいい女の子から対等に扱ってもらいたいなら、洋服に気を遣えばいいし、美容室に行けばいい。

anond:20231110033203

そもそもマルクス主義搾取の考えは一般に間違っている。

あれが適用できるのは流動性事実上無限とみなせる、工業製品のような物理的な財を生産するときだけだ。

とくに家庭内労働のような局所的で一回性のサービス財は市場に出すことが不可能で利潤もないのだから定義搾取はないことになる。

こんな理論を大真面目に論じていたのだからおかしくなるのは当然。

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