はてなキーワード: ベースとは
文部科学省で開かれた或る会にて、慶応義塾大学の伊藤公平学長(または塾長)が、国公立大学の学費を年150万円程度に引き上げることを提案し、そのことがXなどで物議をかもしている件。
伊藤学長の「大学全体の教育の質を上げるために、公平な競争環境を整えたい。」という理屈は確かに一理あるのだが、その方法として「国公立大学の授業料を150万円程度に値上げする」というのは、すこし変だなと思う。
だったらまず素直に国や地方公共団体から国公立大学に配られる運営費交付金をなくすのが先だろう。授業料を同程度にそろえても、国公立大学だけに運営費交付金があるなら公平にはならない。運営費交付金を無くすことで収入のベースをフェアにして、そのあとで国公立大学が各自で授業料を調整すればいい。
公平な競争環境にしたいというのは、自由市場で競争したいということだ。つまり「国公立大学を廃止して、全ての大学を私立大学にしたい。」と言っているのとほとんど同じだ。伊藤学長は、変にごまかさず、「日本の大学を全て私立大学にしろ。」とはっきり言えばいいのだ。
あと「国公立の授業料を150万円程度に上げることで、一部の私立大学は国公立より低水準の学納金設定で公平な競争に参加できる。」と言っているが、なぜ国公立大学が一部の私立大学より高水準で競争しなければなければならないのか?公平な競争環境なのであれば、低水準で参加しなければならないような私立大学はさっさと淘汰されるべきではないのか?
増田の言ってる事はごもっともで、分解して箇条書きに展開すると
と言う所で、これに反対する人はいないんだよな。
これが難しい。
基本的には施策はここをターゲットにするべきで、国立人口問題研究機構などが行っているアンケートでも、実は育てたい人、育てる気概のある人の率は、昭和の時代から大きく低下していない。
では何故ここが問題かと言うと「育てたい人、育てる気概がある人」をターゲットにしていると言っているのに、ターゲットにしてない人から
と言うよくわからない反応が起きること。総論の状態で目標を掲げているうちはそうなのだけど、実際の事業や施策を動かしていくと問題になる。
特に、効果が大きい施策、結婚支援や税制改正、制度改正などで噴き出してくる問題だ。
ただ、こんなことを実際リアルな人間関係の中では言う人は少ないよね。だけど、政治活動の世界では多く発生していると言う不思議がある。
典型的なノイジーマイノリティだと思うんだけど、どうして声が大きく出てしまうのだろうか。
さっきのターゲットの話はノイジーマイノリティ問題だったけど、今度は逆。
子どもをもっと産める状況にするには、増田が言うように経済的な問題が第一だ。金がないのだ。
それに対して、現在行われている「もっと子供を産める状況にする」という方面の対策は、それを助長するような対策ばかりになっている。
これらの施策は子育て支援という名前になってるけど、これは子を産める状況にする、と言う対策では無くて、子育てを行っている層や、その祖父母層に向けた票集めのための施策になっていて、「もっと子供を産める状況にする」の裏返し「子どもを産める状況になっていない」人たちに対する支援になってないんだよね。
例えば、高校の授業料無償化や、小児の医療費の無償化といった施策は行われているが、そう言った施策が広まっていっても子育てにかかる金額ははどめがかかっていない。
これは当然で、子育ては競争という性質が強く、また金があったらいくらでも金をかけてしまうと言う性質を持っているから。
例えば支援無しで100の資金が合った人に、30を援助すると、130の資金にして全部投入されてしまう。
するとどうなるかというと、子育てにかかる金額がどんどん増大して新規参入障壁、つまり新しく子どもをつくりたい、増やしたいという人が増えにくくなっていく。ハードルが上がってしまうのである。
この傾向が最も分かりやすいのが、出産費用と私塾の料金。支援金が増えるとそれと同じだけ価格が上昇してる。
標準的な子育てをシステム化してみなこれをやっておけばよい、と言うメソッドを構築すること。
その代わり。その費用は公的な仕組みで全部出すこと。ちょうど健康保険や介護保険の様な仕組みにする。
例えば、大学学部卒までの学費、食料費など全部含んで自己負担金を、住民税基準のようにゼロからMAX20万円ぐらいまで設定する。
学校はその金額の中で運営し、それ以上は利用者からとってはならないとする。対価がある寄附行為も全部禁止。
また、医療介護の標準のように、標準的に守るべき部分を入れて定期的に監査する仕組みにする。
こうすると、養育費の上限が固定されて、大規模な改変がない限り、大学学部卒業までに、月額いくら払っていけばいいのかが確定する。更にここには保健機能を付加しておいて、何か重大な事故があった場合も保護される。
まぁそうだ。
というか、教育に関しては当時の為政者が住民を都合良く洗脳すると言う過去の経緯があって、政治が絡みすぎている。
例えば大物政治家が不祥事で落選した時、自分と懇意にしている私立の学校法人の教授や理事に収まって政治活動を継続する、と言ったことが凄く多い。
治外法権で聖域化しているし、ここまでの巨大な改革は相当難しいと思うが、そこまでやらないと色々と解決は難しいと思う。
政治に興味を持って投票行動を取る人、と言うのは、結婚したり子どもができたりして意識するようになる人が多いようだ。
一方で独身者の投票率はかなり低い。今となっては、子どもよりも政治的影響力が無い。
そして独身者で投票する・政治活動をする層と言うのは、ノイジーマイノリティ化した層だ。
彼らが意見を代表しているかのように政治に影響を与えてしまう。(統計ベースでは、彼らがノイジーマイノリティであることは明白なのにもかかわらず、だ)
この増区政の人々に味方しても票が増えるわけでは無いのだ。なので、受けない。
地方議会などは、切実にわかっているのでやるのだけれど、より劇場型政治の性質が大きくなっていく国会などではどうやっても優先度が上がらない。
と、思わず読んでいて思いついたので頭を整理する意味でダラダラ書いたんだけど。
どうしたらいいんだろうね。
少なくとも夢小説が廃れるより男性向けの顔なし主人公が廃れるほうが遥かに早かったよね。
気に入らないヒロインをボッコボコに叩くのも女性オタクのほうが多いし。
やっぱり「主人公と自分を同一視してる」「推しを独占したがってる」「それらは嫉妬ベースの行動である」としか説明つかないよね。
崩壊学園や崩壊3rdくらいまでは、萌え萌え的な平成の日本の萌えカルチャーを強く意識した作風でありつつ、崩壊現象に侵食される世界で抗う少女というシリアス混じりのアツい少年漫画的な展開をベースにしてる。SF的な背景は作り込まれてはいるけどカラーとして強く出てるわけじゃなく、アクセントとかテイストの域に収まってる。ただ、収まってるがゆえに詳細な背景が何年も伏せられていて「そういうことか!」となるまで時間がかかりすぎるから、これも運営型ゲームとして興味を持続させるためのやり方ではあるんだけどもどかしくはあるな。
原神はファンタジーで、スターレイルはスペースオペラで、どちらもSFというかオーバーテクノロジー的な要素はあるけれどもスパイスにすぎず、前2作の少年漫画的ノリよりは洗練された、穏やかでじんわり・しんみり来るヒューマンドラマを主体としてる感じになってるな。萌え萌え感も特に全面には押し出してなくて、デザインをよく見るとフェチを感じるけれども、露骨さはなくて令和のオタクカルチャーらしくこれも洗練されてる。萌え的なものも摂取できるけれど、それを主眼として飛びつくもんではないのよ。グラブルみたいな感じと言えば近いかもしれない。
で、ゲームという媒体で得られるナラティブというのは、例えどんなすぐれたSF小説と比べたとしても、やっぱり別モンなのよ。
ホヨバースのゲームはそれを特に理解していて、ゲーム内だけでなく動画や音楽や催しとあらゆる表現を使って多角的に作品観を彫り上げていく技法に長けているし、作品間の特に明示するわけではない些細なシンクロニシティみたいなものが大から小まで散りばめられてる。そういうところを汲み取れるくらいになると、小説やら萌えゲーやらが比較対象にならないことが理解できると思う。
後方互換とかそこまでいかなくても、新しい紙幣が未だに植物紙ベースだったのと、ICチップ内蔵にならなかったのはガッカリだった。
ICチップは全部に入れろとは言わない。100万円札とか超高額紙幣を作ってそれらに入れてほしかった。
本格的な同人ゲームは、シナリオ、音楽、グラフィック、システムと必要とされる分野が広く、1人で作るのが難しく長時間拘束される割にあまり売れないから。シナリオはナーロッパか現代ベースのお約束テンプレかフレーバー程度、音楽とUI系のグラフィクは無料素材、システムはツクール使って、キャラグラとエロシチュだけに絞って独自要素を盛り込み、その2点さえ良ければそれなりに売れるお手軽同人エロゲ界隈は結構元気。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4752198473835976704/comment/Knoa
偽札防止の新技術に対応できないのは甘受するとして、新札には読み取り機の後方互換性くらい義務付けてもいいんじゃないか?毎回読み取り機側の特需を経済効果に加算して推進するの悪辣過ぎでしょ。
説明しよう!
まずここで述べている後方互換性というのは、たとえば
こういう仕様にしておいて、スーパーセキュリティチップVer.1にしか対応していない古い券売機でも、スーパーセキュリティチップVer.1だけしかチェックできないものの、新しい1万円札Ver.2もいちおう扱えるという意味だ。一般的な「後方互換性」は「新型機械が古いメディアにも対応する」という意味だが、それとは概念が真逆で、ここでは「新しいメディアが旧型機械にも対応する」という意味だ。この点が誤解を招いたとしたら申し訳ない。
追記: よく考えたら、「ホログラム無しの福沢諭吉から、ホログラムありの福沢諭吉へ(2004年)」って、実質的にここで言う後方互換性を維持した更新だったのでは。あの時は、1000円や5000円は肖像ごと変更になったんで券売機の問題は結局存在していたと思うけど、1000円や5000円もホログラム追加だけに留めておけば、多くの券売機は2004年の刷新を生きのびていたのではないかな。
もちろん、スーパーセキュリティチップなんて仕組みに頼らずとも、もっと簡単な工夫があるかもしれない。あくまで一例だ。それと、旧機械による新札の読み取りを妨げない限り、人間が見分けるための新しい工夫は、いくら追加してくれていてもかまわない。
また、背景にある大きな考えは「新札のたびに機械を入れ替えるなんて、経済資源の無駄遣いだ」と、「それを経済効果としてプラス面だけアピールするのは悪辣だ」という2点である。そういう意味では、たとえば安価なモジュール交換だけで新札対応が済む世の中になるなら、それも好ましい。(既にそうなってるとするブコメもあるのでそれはそうなんだろう。かといって、記事のように高く付く理由もそれなりにあるんだろう(善意の解釈主義)。また、何年も前から予告されていたことだろううんぬんの話も、結局のところ経済資源の無駄遣いの話が前提になる。「いまさら慌てふためく」のがけしからんという話は理解できるが、そもそも機械の入れ替えに無駄な部分があり、もっと効率化できないかという話は、モジュール交換の効率性に置き換えてもらえればわかりやすいが、恒久的に訴え続けてもよいだろう)
ところで、「偽札防止」の観点から後方互換性に懐疑的な意見のブコメもあるが、現状はどうなっているか、もう一度考えてみてほしい。
スーパーセキュリティチップでも、ホログラムでも、透かしでも、なんでもよいのだが、新技術による偽札防止が効果を発揮するのは、あくまで「この券売機は旧紙幣には対応しません」が許されるようになった後の話。当面は、旧札もほとんどの場面で使える。券売機メーカーも、新札発行後にすぐ「旧札に対応した券売機はもう売りません」なんてことにはならない。
もちろん、新札への対応準備は完璧で、券売機も刷新しているだろう。しかし、みすみす旧札のお客さんを切り捨てたくはないので、当面は、旧札にも新札にも対応していくはずだ。じゃあ旧札への対応をやめるのはいつか?それは多くの場合、新規に導入する券売機の最新機種が旧札に非対応になったころだろう。それ以外に旧札を切り捨てる動機と言えば、偽札が横行して、その企業自身が経済合理性に基づいて「旧札対応より偽札被害のほうが大きい」と感じたときだ。(そんな事態が既に起きていて、実はラーメン店も既に相応の被害を出している、という話は聞いたことがない)
スーパーセキュリティチップVer.1しかチェックしない旧券売機さえ騙せればよいので、新しい1万円札Ver.2が流通するようになってからも、「スーパーセキュリティチップVer.1を埋め込んだ、1万円札Ver.1そっくりな偽札」を製造しまくることだろう。
しかし先も述べたように、その偽札は、結局のところ、世の中の券売機が旧札への対応を続ける限り、後方互換性が実現しようがしていまいが、使えてしまうのである。
後方互換性なんて実現してない、現実のこの世の中でも、いまあなたが持っている福沢諭吉の1万円札は、来年も再来年も、新札と旧札の両方に対応した最新型を含む多くの券売機で、使い続けることができるだろう。いまあなたが持っている福沢諭吉の1万円札が、精巧に作られた偽札だったとしても、だ!
ちなみに、ラーメン店に限れば、1000円札にしか対応しない券売機も多く、偽造側の効率面から言っても、現実的な偽札リスクはもともと小さいと言えるだろう。その上で仮に将来500円玉のように偽物が横行すれば(500円玉は韓国ウォンとサイズが一致しただけで、偽造効率の話ではないが)、その時は各企業の判断で「旧札対応より偽札被害のほうが大きい」と感じたときに、しぶしぶ券売機を刷新すればよいのだ。
しかしまあ、こんな心配をするのも、現金がたくさん流通している今だからこそで、次の新札や、そのまた次あたりには、どうでもいい話になっているのかもしれない。
後方互換は世の中の様々な券売機が紙幣のどこを見て判断しているかを把握して網羅的に対応することが求められると思うが、突き詰めると今と同じ紙幣が完成しそうな予感がする。
そう。なので、現実的には「次回の新札から、後方互換性を想定した仕様にします(読み取り機のチェック項目の仕様策定)」という区切りが必要だと思う。その点でもますます、近い将来には「どうでもいい話」になりがちではある。「もっと早くから取り組んでいれば…?」という話でもある。
または、今が過渡期だという前提なら、「今後は現行の福沢諭吉をベースに、追加要素を入れていくだけ」でよかったかもしれない。渋沢栄一を起点にしてもいいけど。んで、お札の人物画像を読み取ってるような古めかしい券売機がほぼ全滅してしまえば、また人物の入れ替えも再開できるだろう。
デジタル化したせいで余計な作業が増えているという記事を読んだ。
https://blog.tinect.jp/?p=86085
自分は80年代生まれのオッサンで記事の著者よりも年配なのだが、これっぽっちも共感できなかった。と言うのも社会のデジタル化が進んだ時代でなければ、まともな生活を送れていなかったであろうと断言出来るくらいデジタル技術に助けられているからだ。
子供の頃より発達障害の気があったのか、とにかく紙を使った事務作業的なことができなかった。手書きの文字が汚すぎて第三者が読めない、学校で配布されるプリント類はまともに整理できないわ、授業の板書はただの走り書きになって見返しても意味不明になるわと、とにかく書類が扱えなかった。手帳を買ってもまともに記録できなくて予定管理もダメダメだった。
そんなわけで、高校までの授業態度を加味した学校の成績は壊滅的だったが、勉強自体はそこそこできたので大学進学はできた。大学生になると授業のレポート作成にPCを使えるようになって生活が一変した。壊滅的だと思っていた事務能力が、PCのおかげで飛躍的に向上したのだ。
まず、まともに資料が作れるようになった。手書きのノートと違って、誰でも美しい文字がかけて何度でも修正が効く。メモ帳でテキスト形式の文章を作っておけば、後から内容を検索して見返すことができる。PCのおかげで高校生まで苦手意識のあった資料作成が得意分野に変わったのだ。
次にデータ管理。PCの検索機能やソート機能には本当に助けられた。ファイル整理を一切しなくても、全文検索や拡張子別に並べて日付ソートすれば目当ての資料が見つかるというのは最高すぎた。紙だとそうはいかないので大変だった。
↓
数ヶ月後に別の書類が必要になった時、前回の捜索でひっくり返したせいで資料がぐちゃぐちゃになって見つからずさらにひっくり返して探しまくる
↓
その次、別の書類が必要となった時にはさらに棚が混沌としておりもはや発見困難…
というような悪循環を繰り返していたので、デジタル化によってようやくまともに資料管理ができるようになったのだ。
就職活動のときもデジタル化に助けられた。そもそも手帳が使えない人だったので、PCからでも携帯からでも入力できるGoogleカレンダーがなければスケジュール管理が不可能だった。履歴書だって、手書きで作ると字が汚すぎて門前払い喰らっていたかもしれない。
学生の時点でこうなので、就職してからはなおさらである。紙ベースで仕事する職場だったら、入社直後に社会不適合者のレッテルを貼られてしまい、干されてパワハラ受けて鬱で退職していたかもしれない。今の職場で15年以上働き続けて、いつしか管理職になり、今では部下を持ってそこそこ仕事が出来ているのはデジタル化のおかげとしか言いようがない。
仮に自分が昭和や平成初期に社外人になっていたかと思うとゾッとするので、デジタル化が進んだ時代に生きることができて本当に良かったと思っている。そんなわけで、この手の社会のデジタル化の議論をする時は、効率の面だけでなくて発達障害の気のある人の救済になっているという側面についても、もう少し注目されても良いのではないかと思う。
何年も前から推進する立場を取っていたのであれば、それをベースにしてよりよい制度にする為に議論を重ねる時間もあっただろうに、何でいきなり絶対反対になってるんだよって話じゃないの?
どちらかというとローラーベース(前後のローラーの距離)の方が重要になって来てるね。
ローラーベースが狭いとコーナーのキレが良いけど踏ん張りが効かない&直線が不安定になる。
ローラーベースが広いとコーナーではもたつくけど直線は安定する。
ギア比、モーター、電池、ローラーの種類をコースレイアウトに合わせて現場でセッティングし直すのがミニ四駆の醍醐味。
ちなみにローラーの大きさについては使用するコースに応じて考える事が多い
⇒コースつなぎ目が小さいから9mm~13mmが使いやすい。もちろん19mmも可
いやあのね
フェミさんって「こんなブツが出てきたらお前らどう思うんだああああ!!!」って脅しにかかるの大大大大大好きだけどさぁ
こっそり教えてやるけどね、男としては全然そういうの"効いてない"の
そりゃもちろん「男にとって面白いコンテンツでも女にとっては必ずしもそうではない、むしろ不愉快である」っていうのは、アンチフェミの連中だってフツーに理解できると思うのよ
逆に「女の大好きなモノが男にとっては不愉快かもしれない」って、そういう例を出してくればいい
それでようやく50:50、お互い様ということで議論が進んでいくはずだ
ところがそうじゃないの
毎度毎度「嫌いな奴に対する嫌がらせ」だけが目的で、そういうのをSNSのフェミ共がマジで実際欲しくて欲しくてしょうがないのかといえばそういうわけでもなく
「これは広告やコンテンツである」という当然の前提すら、平気ですっ飛ばす
そんなん俺らが怖がると思ってんの?
んなヘイト創作100%みたいなやつ、全然ミラーリングになってないじゃん
「弱者男性虐め」みたいな絵面で、そもそもいったい何をPRして何を売るつもりなのか、そこが全然見えてこないんだからさ
なんなら言ってる当人ですら、金出して買い支える気なんかまるでなさそうだし
例えばそういうのが商業ベースに乗って、こっちを秋葉原のショーウィンドウ越しにしきりに威嚇してくるとかならまだしも、そんなことはなくて
せいぜいがSNSで同類のエコーチェンバーの間をグルグルグルグルしてるだけ
男がそんなもんにビビるわけねえじゃんwww
たしかに抜くときには使えない、抜くにはやはり女体を蹂躙する本物の竿がないと緊迫感に欠けるし興奮につながらない
だが百合は股間にビンッ伝わる愉悦ベースの楽しみではなく、ハートが震える感じの、女の子空間に酔いしれるものだ
なので見方を変えると、賢者モードのときですら楽しむことができる
しらんけど
この世の中って本当に「死ね!」としか思えない人ばかりで構成されてる。
たまに「分断を煽る」みたいな言葉見るけど、誰も分断なんか煽っていないよ。はじめから分断されてるんだよ。それが明るみにされてるだけ。
その点ではてなは本音ベースの発言が多いから、社会がもともと分断されてることがすごく良くわかる。
はてなを見ていたら他人に「死ね!」としか思えないことがとても正しい感情に思える。
本当に死ねよ。死んでしまえよ、お前ら。一人残らず死んでしまえばいいんだよ。
これからは間違っても他人を助けようとか守ろうとか思わないようにしたい。
困ってる人がいても確実に見殺したいし、なんなら積極的に殺していきたい。
妻とか知人があんまり興味ない俺にも意見を求めてくるからちょびっと調べた俺の今の理解を書くけど、浅いと思うので間違ってたり考慮してないケースがあったりしたら教えて。ソースとかないです。拾い食いです。
なお、性別に引っ張られないようにヤバい方の親を「甲」、まともな方の親を「乙」と表現します。
●(精神的/経済的/肉体的)DVをしてきた甲から、まともな乙が子どもと一緒に逃げたケース
①家庭裁判所がちゃんとDVがあったことを認定し、共同親権は認められず、乙と子どもだけで手術や進学を決められる。子どもと甲との関わりはなくなる。
②DVがあったとは言えないと家庭裁判所が判断し、共同親権を認め、甲が子どもの人生に口出しをしたり定期的に子どもと面会したりする権利を得る。
●カルト宗教や精神的な病が原因で正常な判断ができなくなった(もしくはもともとできない)甲が、『乙はパートナーや自分の子にひどいことをする親失格の人間だ』みたいな嘘を子どもに吹き込み、一緒に逃げたケース
③家庭裁判所が乙による存在しないDVを見出し、共同親権が認められず、子どもの人生は甲に一任される
④家庭裁判所が甲の嘘を見抜き、共同親権を認め、輸血を禁止させたり進学を阻止したりしようとしている甲に乙が口出しできる
⑤家庭裁判所が共同親権を認め、子どもの人生の重要なステージにおいては話し合って方針を決める
●エイリアンvsプレデター!放置して新しい恋人と乳繰り合ってる親↔あいつと違って飯を食わせてやってるから文句禁止DV親が離婚するケース
⑥家庭裁判所が……どうするんだ?施設に送るの?ここまで終わってないけどこんな風なドイツ在住のブロガーが共同親権(子どもの生活のベースはまだマシな方の親と同居)になってた気がするからそうなるのかな?
肯定派の人たちは現在③の乙扱いされている人に「子どもをヤバ親に連れ去られた被害者なのに子どもに一生会えなくて可哀想!この法が成立すればきっと③みたいなことはなくなるから安心して」と思っていて、否定派の人たちは施行後生まれるであろう②の乙に「DVからなんとか逃げられたのに、加害者と一生関わり続けるなんて可哀想!」と思っている。
①④⑤しかないのが理想だけど家庭裁判所も間違えるだろうし、どれがどの割合になるかは分からない。海外を見れば分かるかもしれないし、日本では今まで単独親権でしかも母親が有利だったから参考にならないかもしれない。
備考
●国際離婚に際しての日本人による子どもの連れ去りは世界的にも問題視されている。話し合おうとする外国人パートナーから子どもと一緒に国外に逃げるのがハーグ条約の違反らしい。福原愛がこれをやった
●G20で共同親権がないのは日本・インド・サウジアラビア・トルコのみ(ジェンダーギャップが大きい一部の国で残っている古い制度的な扱い)
●2021年度の時点で、母子家庭119.5万世帯。父子家庭14.9万世帯。そこから死別や未婚の親を除くと離婚が原因なのは母子家庭の80%くらいで父子家庭の70%くらい
●母子世帯は平均年収373万円、父子世帯は平均年収606万円
●養育費未払いが母子家庭の3/4と父子家庭の9/10に起こっている(養育費払ってないくせに口出しはするわけ!?と否定派はまだ見ぬ②の甲に怒っている)
●協議離婚に関するアンケート(回答者1000人)での「別居の相手と話し合わなかった理由は何?」の回答:話をしたくなかった=37.9%、突然出ていった・突然追い出された=33.8%、相手が応じなかった=13.1%、DVや虐待で余裕がなかった&話し合いをすることが危険だった&別居時取り決めることに関する知識がなかった=それぞれ4.1%ずつ
俺の考え
国際的な問題になっている連れ去りを国内でも違法にするために共同親権にしたいのはわかる。「外圧に負けるな!日本では未来永劫単独親権のみであれ!」とは思わない。我が子と引き離されて親権取られて養育費もちゃんと払ってそれでも面会させてもらえない親とかいるだろうし、遅かれ早かれ共同親権になっただろう。そのことに異論はない。行ったり来たりで子どもが忙しいとか学校どうするとか両方新しい恋人作って子どもの居場所がないとかの問題もあるみたいだけど……銀の弾丸なんて無いからそこはしょうがないのかなと思う。夫婦別姓も然りだけど、制度として選択肢が多いほうが良いように思うし。
ただいくつか疑問もある。養育費を払わない奴に強制的に支払わせる仕組みを先に作るか同時に整備するかして、養育費を払わず口出しをする甲が生まれる可能性を潰してるの?【追記:ありました】あと家庭裁判所の負担はかなり増えるだろうけど親権の認定は数カ月〜数年待ちでミス多いですとかにならないの?いろいろなシステムにおいて「事前に整えておく」か「大きな転換になるから現場の人は大変だけど、一気に同時に変える」の方式を取るべきじゃないの?変更足りてなくない?そもそも父親と母親の単独親権の割合を半々に近づけてからの方がみんなの抵抗少ないんじゃない?あと新聞とかテレビとかネットニュースの人たちはもっと報じてくれない?俺スポーツ興味ないんだよ。
追伸
話し合いをしなかった理由:話し合いたくなかったからとか養育費未払いがいっぱいとかさ、もっとみんなちゃんと生きてよ。いい大人にお気持ちで動かれちゃ子どもも裁判所もアンハッピーですよ。「あ、こいつ話通じねーわ何話しても無駄じゃん」になる直前とかなった直後の、まだ話し合いするだけの理性が残ってるうちに離婚切り出しなよ。対話の拒否が一番子供っぽいよ。
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https://www.yomiuri.co.jp/politics/20240308-OYT1T50047/
今までの法律は「別居してるけど親なんだから……扶養してあげたら?いや義務ではないけど……」といった感じだったけど、新しい法では「お前にも親権あるんだからお前も親のままだよ。当然養育費も出すよね?」という理論で養育費の支払いを義務付けられるっぽい。