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はてなキーワード: バブルとは

2022-08-30

死んだ市場でチャンスを手にするには市場以外に投資しておく必要がある

そう

ゴールドだね

バブル崩壊した直後にためておいたゴールド全部ぶっぱが正しい

今は時期が悪い

ゴールドを溜めておけ

錬金術が突然誕生したとき錬金術師と戦え

錬丹術とか言うのを使えばいいぞ

anond:20220830162214

成人式結婚式での晴れ着バブルに現を抜かしているうちに普段着としての着物需要が壊滅しきって、まともな意識業界人ものっすごくヤバいと思っている、という話はあったな。

実際やっすい着物なんて5000円以下で売れやと思う。

anond:20220830160101

バブル時代の人は五万の洋服着て気軽に外出してた

ずっとその頃の感覚でやってるんだろうなあ

anond:20220829223127

正解や

来年頃になんとかショックとか起こってコロナバブルリセットが入るわ

ソシャゲWeb漫画需要が増えて一種バブルだったんだろう

次にバブルが弾けるのはWebエンジニアかな。

anond:20220830105423

そいつらが踊り狂うからいろんなバブルが膨らんだり弾けたりしとるんや。

そんで今は猫も杓子もインデックス投資言うとるやろ?これってもう終わりが近いんと違うか。

2022-08-28

バブルの頃は景気よかったかもしれないけどそのちょっと前は不便だったろうからトータルで考えると今の方が豊かな生活してると思う

もちろんネットスマホはおろか携帯パソコンもなくて

学生アパートには風呂なんてついてないし

町にコンビニもないし

エアコンなんてなくて、テレビも高級品で

夜も本読むかラジオ聴くしかやることないんだぜ。

2022-08-22

anond:20220822124211

バブル脳の人? 「金があると車・時計・酒に使う」という考えが既に時代錯誤なんよ。

anond:20220822101427

え、普通にあるよ。

ただ、取締役とか部長級とかの決済がないとそんな金を使えなくなったってだけ。

バブルの頃は平社員でもそーゆー経費の使い方ができていて、決済もクッソ緩かったて話。

2022-08-19

子供を産んだ方が得をする社会」は「選択と集中」そのものなのに、何故リベラルはこれを支持するのか

https://anond.hatelabo.jp/20220818053625

成功しそうな研究にだけ科研費を投入する」

「売れた漫画だけ税制面で優遇する」

……これらと全く同じ発想なんだよ、「子供を産んだ方が得をする社会」って。

既に成功した人や成功する確率の高い人にだけ投資すれば効率的効果が高いだろうっていう、偏差値けが高いお理工さんが考えた机上の空論

現実は勿論、希望や活力を失わせて逆の結果になるのは我が国国際競争力出生率の低下を見てきた通り。

選択と集中」の愚かしさを糾弾し、学問研究しろ娯楽にしろ裾野を広げる事が大切だと解く理屈はよーーく分かる。

だけどそんな倫理観の高いリベラル人達が、どうして「子供を産んだ方が得をする社会になれば少子化は解消する」なる似非経済学を信じて主張してしまうのか。

既に成功したところや成功しそうなところにだけ集中して投資するって点で、「子供を産んだ方が得をする社会」のはまさに「選択と集中」そのものです。その結果社会多様性を失い、自然結婚できた勝ち組とそうではない人達との貧富の差ますます開いていく事でしょう。

本当に効果的で建設的な少子化対策は、独身者に高い賃金と十分な社会保障を与えた上で、結婚するもしないも子供を産むも産まないも個人自発的意思に委ねる事だ。

子供を産んだ人にお金を出すんじゃないよ、子供を産んでないしその予定もない人にこそお金を出すべきなの。

そもそも出生率の低下には当事者達にとって自発的もの不本意ものがあり、前者が原因の少子化本来全く問題でも何でもない。当事者自分意思子供を持たない自発的選択は何ら悪い事ではなく、問題子供を持ちたいけれど外部的な要因で持てない事にしかない。よくバブルの頃から少子化が進んでたって言われるのは前者の話でしょ?それは別に何も悪い事じゃないよ。


保守派が「子供を産んだ方が得をする社会」を支持するのはまだ分かるんだよ

まさに既得権益者を富ませ弱者を更に貧しくさせる政策なので…

まあ日本社会全体にとっては明らかにマイナスなので、長期的な視野で見るなら保守派もやっぱりバカだと思う

2022-08-18

anond:20220817070106

その頃は日本経済が一番強かった頃だから当たり前だけど最低賃金バイト募集しても人なんて集まらなかったんじゃないかな(地方は知らないけれど)。

都市部派遣会社なんかだと、昼間の大手家電工場内軽作業とかで時給1300円が当たり前、ボチボチ1400円にしないと人が集まらなくなってきてるな…とか言ってるうちにバブルが弾けた。

2022-08-17

シャツアイロンをかける

この作業やめたい。でもクリーニングに出すと服が傷む&汚れが落ちないので仕方なくやっている。

穴開きトルソに着せたら溶剤マイクロバブル超音波噴射されてきれいになって仕上げまで全自動でやってくれる機械作りたい。

溶剤蒸留回収する)

しかサンコーで風船に着せてアイロンかけする機械あったと思うが耐久性がしんどそうなので手を出していない。

脳は暇なのでBGMとかBGVが重要

工学的にはいかに短い時間できれいアイロンをかけるか、については意外に学びが多い

どの辺の品質妥協するか、スチーム・霧吹き・シリコンスムーザを使うか否か、馬はどんなものが良いか乾燥時の注意点、材質などなど

トーマスメイソンの生地は大体アイロンかけやすい。さすが高級品。

2022-08-16

youtubeとかtwitterフィルターバブルって怖いね

もう全世界の何億人もがこのフィルターバブルに閉じ込められてるんだろうね

陰謀論者を増やし続けるgoogle、一体何考えてんだ。

2022-08-15

anond:20220815111827

それは表層経済バブルマネーから何かあったら一夜で吹き飛ぶ価値だよね。

やっぱり生きている人が楽しく生産的に過ごす人たちが拡大しないと国力は上がらない。

たとえば、周りのみんなが貧しいと近所のスーパーマーケットの品ぞろえが悪くなって自分たちの舌を満たすもの調達するコストが上がるし、

近所の公立学校の子供たちの教養が貧弱になって、子供友達を近所で調達できなくなる。それは豊かな暮らしとは言えない。

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-13

anond:20220813213610

マジョリティになる過程日本人口が5000万人くらいに縮小するシナリオはまああると思うけどな。

高度成長期バブルの頃に調子に乗って不自然人口増やし過ぎたツケが来てるのが今なんだと思うわ。

2022-08-12

今は異世界モノが叩かれてるが、はっきり言って学園能力バトルの方が遥かに糞だった

あれ以上の害悪ジャンルは二度と現れないだろう

毎年毎年毎クールクール学園能力バトルと日常系の組み合わせ、脳が溶けるわ

製作委員会方式テレビ局側が力を持ち始めると局プロアニメ嫌い)が出張ってきて量産型アニメが増えた

配信収入が増えると相対的テレビ局勢力が弱体化してアニメが良質化していった

コロナアニメ需要が伸びてまた乱造が始まりいつまで経ってもアニメ業界慢性的な金不足が解消されない

所謂アニメ黄金期が何故起きたか、答えはバブルで金が余ってたか

何故00年代に入るとアニメ劣化したのか、答えは金が無くなったか

金金金金、金金、金金金金、金が全てだ

2022-08-10

anond:20220810235020

IT界隈は頑張ったら行けるんだよ

コロナリモートワーク増えて転職バブル化してるし

歴史ある地域に戻って住むかいなか

迷っていることがある。

とある史跡の多い地域で育ったが、今はそこから車で1時間弱ぐらいの距離の田園地帯の中にある会社(工場)でSEやってる。(現在自然豊かな場所にある賃貸で職住近接と言えなくはない生活を送っている。)

そこの社員は大半がいったん工場の近くから通う生活をするが、子供の進学を考えてどこかのタイミング東西南北どっちかの方向の地方都市移住する選択をする。

自分出身地付近もその選択肢の一つとして割と選ばれているような(というか自分もそうするつもりで働き始めた)のだが、

いざ移住先を検討し始めると、気持ちが他の候補地の方に傾いてしまいがちであることを発見してしまい戸惑いを隠せない。

昔は、「この町は史跡が多くてなかなか面白い風情だな」と思っていて

いちばん長く過ごした場所ではあるが生まれ場所ではないし、物心ついた時は別の地方都市暮らしていた)

将来またその場所生活することを割と望んでいた。・・・が、勤務先との通勤距離のこともあって別な方角の地方都市を片っ端から比較のために調べてみていると、

出身地積極的に選ぶ理由が意外と乏しいことが浮き彫りになってきた。

考えてみれば当然のことで、史跡まみれの町ということは大胆な都市計画ができなくて、さら観光業っぽい地元商店既得権のせいで

郊外かごく限られた地域しか新しめの商業施設営業できない状態になっているし、鉄道道路といったインフラ地元住民以外に観光客のためのものとして整備されていて

普通生活が(そういうシガラミがない地域と比べると)なにげに不便なのだ。比べる対象を持っていなかった時には気にならなかったが具体的な比較をするとその弱点が際立ってしまう。

もちろん歴史上のエピソードに関連した場所が沢山あること自体マイナスではないのだが、

その価値(すなわち日本の歴史勉強する価値)は相対的に下がってきているのではないか・・・?という気持ちが沸くようになってきている。

端的に言うと、そんな優雅なことを守り伝えていく余裕は今後の日本にあるのか?という事への疑念が強くなってきてしまっていて、ただの不便な場所に見えてきているという話である

科学的な発見がされた場所とかならまだ良かったのだけど・・・

いちおう土地勘があるとか友達も若干数いると言う利点はなくはないのだけど、

きれいな水と空気に囲まれ生活に慣れた後では、不便なくせに空気が汚い出身地に戻って住むことが大して魅力のない選択肢に映って仕方がない。

ただいずれ帰るという暗黙の了解のもと両親にはいろいろ支援してもらってしまっているし、今より実家が遠くなるのは良くないという認識はあるし、

地縁もないのに子供会社周辺で育て続けることはとてもする気にならないので、どこかへの移住はすべきなのだと思っているが、

どうせなら合理的街づくりができている所に住みたい気持ちがある。

通勤時間さえ長くて良いなら条件を満たす場所はなくはないが、通勤時間がかなり長くなるので即決できない。候補バリエーションは以下のような感じで、一長一短である

 A:実家の割と近くで駅とショッピングモール中間(古い住宅地道路が狭く空気はよどみがち。通勤40分)

 B:実家と同じ市町村の辺縁部でバブル後も開発が継続していた地域商業施設が充実しており斜面が多いが道路は広くて空気も奇麗。通勤60分)

 C:実家の隣の市町村最近開発された大型分譲地(空気は奇麗で道路も広いが、切り開いた斜面であり地盤不安。また将来ゴーストタウン化の懸念あり。通勤50分)

 D:会社のあるところの隣の市町村会社のある市町村よりはメジャーチェーン店が多く来ていて道路も広い。人口は同等で実家からは30分ぐらい遠くなる。通勤30分)

 E:実家とは別の方向の現在人口増加中の地方都市大都市に近い場所であり利便性は格段に高いが、実家から距離はやはり遠くなる。通勤40分)

 F:実家とは反対方向の地方都市県内最大都市なので、利便性最重視の場所からゆったりとした郊外まで幅広い選択肢がある。実家からは当然遠い。通勤45分)

気持ちを整理するために書き出してみたが、やはり決心を付けづらい・・・。なお通勤はいずれも自家用車。体調的な理由で長時間運転は苦手なので40分以上かかるところはしんどいと思っている。

2022-08-08

バブルの頃に中卒で工場勤務だった親から話を聞くと、給料がそんなに良いわけではないが、銀行普通に預けてるだけの状態で利率がヤバい

https://mon-ja.net/181203-08_deposit-rate/

過去日本では、銀行お金を預けるだけで、お金10年で2倍近くに増えるという夢のような時代がありました。

聞いた話もこんな感じ

これなら、田舎から上京した中卒でも、寮住まい給料の多くを貯金してればいつかは車も家も買えるわけだ

anond:20220808122458

ぶっちゃけ冷房のない満員電車とか、コピー機の無い会議とか、表計算の無い経理とか経験した層は、年金貰っても良いと思ってはいるんだが

その下の団塊の世代

てめぇはダメ

勝手バブルで踊り狂って何もかも台無しにしやがって

anond:20220808120050

日本結構まれた国なんだが、そう思ってない人が多すぎるよな

終身雇用年功序列も、日本人の気質うまいこと噛み合ってたのにな

それを止めたいと言い出すのが、労働者側なんだから笑えて来る

そんなんで総給与が上がるの、一部の選ばれた人間だけなのに

バブルの悪影響か、なんでかオレハヤレル、今の待遇はオカシイと思ったやつが多かったんだよな

んで、老人老人と言う相手はさ、誰かの祖父祖母なんだよね

それへの手当てが無くなるってのは、それを支える家庭に跳ね返ってくるんだが

なーんにも考えずに、「損だ損だ」とがなり立てる

そうして、資本主義の皮を被った社会主義的だった国が、ルールを変えていってるのに

それを認知できない人間

「ボクが非正規なのは社会所為」「非正規賃金が上がらないのは社会所為」「社会が何もかも悪い」と言い出してて

そういう意味では

反応記事の「日本人は賃上げ勘違いしてる」って主張は正しいんだよ

いや、それが「賃上げ」ってものなんだが・・・を読んで

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/08/post-ebadd2.html

これは

https://toyokeizai.net/articles/-/607835

異常な日本はいつまで経っても賃上げできない

―「恐怖の5段活用」で浮き彫りになる日米の違い―

を受けて書かれた

https://toyokeizai.net/articles/-/609671

日本人の「賃上げ」という考え方自体大間違いだ

給料を決めるのは、政府でも企業でもない―

という反応記事を受けて書かれた反応記事である



大雑把に書くと

アメリカコロナ失業者に大盤振る舞いした

②結果、スパッと人が辞めて人々が消費に走った

③人が辞めるから人手が足りない

④人を雇うには賃金を上げるしかない

 (これが日本に出来ない成功理由、ドヤァ)

みたいな記事に対して、180度間違っていると書いたうえで、日本人は「辞める力が弱い」と

ほぼほぼ反応元と同じ結論に達している

労働組合を使って交渉だというのは、「給料を決めるのは企業だ」と言ってるようなもの

論理的に全く理解できない」と反応したくなるのも分かる



そもそも昭和の日本式の「賃上げ」は、年功序列もあり勝手に周りが上げるものだった

労使交渉労働組合などがやる集団交渉で、デモもストもそれ絡みで行われ、メーデーお祭りの様になり

マスコミが「ベアベア」と奇妙な鳴き声を上げる

それが5月の風物詩


しかし、バブルが弾けてこっち

いまの40未満の人間は、こういうの馴染まんだろ?

労働組合とか嫌いだろ?

50でだって馴染まないのに

そもそもバブル崩壊を機に労働組合が強い企業は、軒並み死んだというのもある



令和の今、賃上げってのは、個々人のもので、春闘とかしてベースアップおこぼれを貰う物じゃなくなったんだよ


から、上がらん奴はずっと上がらんし

上げたい奴は転職を悩まない

中途採用面接では、はっきりと「キャリアプラン」と口にする

いずれ転職するけど、今の私に価値を見出すなら雇ってくれという物だ

70くらいの奴が社長だと、フザケルナとなる

ベンチャーでもない中小募集に応募しておいて、ドヤ顔で「きゃりあぷらん」とかアホか?という気持ちわからんでもない

分からんでもないんだが、そういう時代になったのだ



日本人」の意識大分変ってるが、その認識がずれるとしたら、それは観測範囲の違いだ

日本人」と主語かにして、的外れなこと言ってるなぁと感じたら、それは交流層の違いが出ているのである


大蔵省から大学教授の経歴では、多分、普通の「日本人」なんか見えてねぇよ

2022-08-07

最近のパヨさん

なんか自分に逆らう者みんなに壺とかカルトとか言い始めてるな

統一教会バブルもそろそろ弾けるかな

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