はてなキーワード: 携帯とは
洗濯カゴに洗濯物がたくさん入っていても、洗濯しなきゃなぁーと言わなきゃやってくれない。
シンクに洗い物が溜まっていても、洗い物しなきゃなぁーと言わなきゃやってくれない。
我が家は1週間に一回くらいの頻度でまとめて買い物をするのだけれど(つまり荷物がとても多いし重いのだけれど)、一緒に行ってほしいと言っても、うん…うん…と言って30分ほど経たないと一緒に行ってはくれない。ちなみに内訳はテレビや携帯を眺めるのに25分ほど、用意に5分ほど。
掃除も特段してくれない。実家暮らしの時は綺麗に掃除してたしホコリも溜まってなかったって言ってたけど、我が家に居候してからは一切しない。母親が綺麗に掃除してくれてたんじゃないかなと邪推。
風呂掃除やゴミ捨てだってしません。トイレ掃除?キッチンの排水溝の掃除?ナニソレ。
料理?買えばいいじゃん。(勿論平日はスーパーが空いている時間に帰ってこない)
…
…
…
いやね、私が全部すればいい話なのかもしれないんですけど、実は私のお腹の中には赤ちゃんがいまして。秋には生まれるんですけど。
そろそろ家事を一緒にしてくれないと、自主的に率先してしてくれないと困るんですよね。
引っ越しも近々する予定なのですが、なーーんにもしてない。引っ越し業者に見積もり取った?してないからするね。わかった。そして音沙汰なし。
いやいや、やらなきゃいけないこと全部私に言われないと出来ないのか!?わからないのか!?
windows3.1、パソコン通信のころにネットは全員が使えたとは言わないが、95の頃にはもうみんな使えてたと言っておかしくないだろ。26年前。その時にまだ頭が動いてて新しいものが覚えられるギリギリの年齢をたとえば50歳とする。
その時にPCの基本的な使い方をマスターして、日常的に暇潰しでも触ってたとして、いま76歳。
76歳以下で、ネットもスマホもわかりませんってはっきり言って知恵遅れだろ。26年間何してたんだよ。テレビだけ見てボーゼンと座り込んでたのか?
残念なことに書き忘れとして追記したような状況。
本人が持ち歩きもしない携帯になんの意味があるんだとは言ってるのと、確実に面等なサポートが発生するので、こちらとしては3Gサービス終了を待たずに解約したいくらいなのが本音です。
親父はauのガラケー、当然LTEにも対応せず純粋な第三世代と呼ばれる機種を使っているが、来年3月にサービス終了という。
しかし、携帯なのに持ち歩きもせず、かかってくる電話もある訳じゃないし、無駄金だし。サポートは確実に必要だけど人の話聞かなくてサポートの難易度も高い。
なのに持ち歩かず、ほぼ使わずなら、もう要らねぇだろと思ってる。
使わないから金の無駄といってサービス切れる前に解約させるか…
今更プリペイドってのもないだろうし。
書き忘れ。
家族はみんな「普段から持ち歩きもしないんだから要らねぇだろ」と言ってるのに本人だけ乗り換えかとかいってる状態でごさいます。
どれからやればいいとかおススメが知りたい
・最後にやった据え置きは第3次α、携帯機ならBXくらいまでやった。
・簡単なほど良い
・インターミッションは短ければ良い
昨年まで、いわゆるパワハラに遭っていた。
期間は単純計算で1年ちょい。
コロナで休業、在宅勤務になった期間を除いてもまあ10ヶ月くらいにはなるかなってくらい。
最初のうちはわたしが仕事に慣れてないから仕方ないなって思ってたけど、その人はとにかく自分の思い通りにならなければ気が済まない人だった。自分が気に入ってる人は甘やかして贔屓して、そうでない人のことは一挙手一投足に文句をつける。
わけあって上には相談できず、その後まあ色々あって今はもうそいつとは一応離れたんだけど(この経緯は改めてちゃんと書いておこうと思ってる)、最近になってパワハラ受けてた時の弊害がモロに出るようになった。
過去に怒られた時のことがフラッシュバックして何もできなくなったり、いないってわかってても見られてる気になって怖くなったり。
最近1番酷いなって思ったのは、テレビで苗字や地名が同じの見るだけでフラッシュバックするというか、心臓バクバクしたり携帯持つ手が震えたり。
もちろん本人は芸能活動とかしてないからアナウンサーとかインタビューに答えた専門家の人とか、そういうたまたまのやつなんだけど。
きっと今後会社の目の前に住めるとしてもその地名なら住まないし、仕事でたまたまその苗字の人と会ったら身構えるだろうし、好きになった人がたまたまその苗字だったらどんなに好きでも秒で振るかもしれない。結婚して夫婦同姓とか問題外。
…パワハラこわ。というかその後処理がこわいわ。
携帯するとしても有線
29 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/06/05(金) 06:40:12.33 ID:dXlctnkU0
俺がカズヤ ◆1Np/JJBAYQ(HNMLS専門リーダー)に実際に言われた事
寝てる時以外は定期的に俺に連絡しろ
飲み会とか縁を切れ、こっちに支障が出る
もう30手前の社会人なんだが、会社に出社してくるときは寝ぐせをつけたまま出社してくる。おそらくギリギリまで寝てるか、朝の時間配分が出来ないのだろう。
偉い人と出張に行った時 「朝9時にホテルを出発ね」 と言われて、9時少し過ぎにロビーにやってきて 『おはようございまーす、いまから駐車場に停めた車を出してきまーす』 といった具合。
デスクワークしている時に、なぜかハンズフリーイヤホンを着けていた。理由を聞くと 『こっちの方が電話がし易いんでー』 と。で、ある日仕事をしていると、静まり返った事務所内でゲームの音が。
どうやら、ハンズフリーのBluetoothの調子が悪かったせいか、スマホのスピーカーから音が出てしまったようだ。 「あなたの携帯から変な音が出てるヨ」 と指摘すると、顔を真っ赤にして 『私じゃないです、私じゃないです!』 と言ってたが、明らかにお前だろ。
報告書を出してねと言われて出てきた報告書は、全くの見直しをしなかったかの如く、単純なミスのオンパレード。上司から 「まず提出する前に書類を印刷して、全ての箇所を一度自分で確認し、レ点を付けて確認シナサイ!」 と小学生を諭すような指摘をうけながらも、しばらくすると ノーチェックの報告書を提出して会議室に呼び出され詰められていた。
上司と同行してお客さんの所へ訪問したとき、お客さんと上司が和やかに話をしている所へ、話の間隙をはからずに自分の話をまくしたてたらしい。上司からその場で 「私が話をしている時に割り込まない!」 と叱責されたそうな、お客さんは苦笑いだったようだが。
緊急事態宣言が出され、社員想いの会社はテレワークの実施を通達してきて、うちの部署もテレワークに突入したのだけど、各担当者の勤務状況がPC上で把握出来る機能があって、オンラインかオフラインかが分かるようになっていた。 同僚のPCはというと朝の10時過ぎてもオフライン。 客先からの問い合わせがあって、同僚の携帯に連絡し 「PCに詳細のメールを送ったから開いてみて」 と電話すると 『いまパソコンの調子が悪くて再起動してました、少し待ってください』 と言い訳しながらPCを起動しているようだった。PCすら起動せずに一体何やってたんだ?
同僚がテレワークをしている日に担当のお客さんから事務所に電話が有った 「同僚さんが電話に出ないのでこちらに掛けました」 と、事務所のスタッフが同僚の携帯に電話をすると 「お掛けになった電話は電波の届かないところにあるか電源が入っていないため掛かりません」 の虚しいアナウンスが。 30分毎に電話をするも、全く繋がらず3時間後位にようやく電話が繋がり、電源が切れていた事を問いただすと 『電話の調子が悪くて、電源が落ちてしまう事が最近頻発していて、困っちゃいます』 との返答。それなら、電話機を修理するから代替機の手配をすると言うと 『もう直ったのでその必要はありません!』 との弁。全く要領を得ない。
電話に出ない事件からしばらくして、またお客さんから事務所に電話が。 「同僚さん、今日も電話が繋がらないんだけどー」 との連絡に平謝りで対応し、同僚に電話すると電源が切れてる。 上司に状況を説明すると 「わかった、同僚さんの家に様子を見に行ってみよう」 との話に。どうやら上司も同僚のテレワーク中の行動に疑問を持っていたようだ。
上司が同僚の家に行って部屋をノックすると人気が無く、不在だったようだ。家に居ない事を逆に心配した上司は、その場で同僚に連絡が付くまで待機。数時間後、ようやく同僚の携帯に連絡がついて 「いまどこに居るの?」 と聞くと 『家に居ます』 との返答だったので、すかさず上司が 「心配して家の前に来てるんだが、出てきてくれないか?」 と言うと、相当焦った声で 『すいません、いま家に居ません』 と白状。
結局、その日は金曜日で午前中から別の都市で開催しているイベントに個人的に参加するため出掛けていたようだった。
結局、テレワーク中のサボタージュが問題になって 同僚はしばらくして別部署に異動になってしまった。移動先の部署はテレワークとは無縁の現場職なので、会社も本人の素行を問題視しての人事だったようだ。
幸い、迷っていた所を保護され、首輪につけていた鑑札によって連絡が行き、自分が回収に向かい今では餌を食べてグースカ寝ている。
・昔は野良犬が多かったが今では飼い犬が迷ったケースか捨て犬のケースが多い
・どう見ても飼犬なのに、鑑札や迷子札がないのでそのまま保護団体に引き取られたり、運が悪ければそのまま安楽死になる
・手製の迷子札も携帯番号が変わっていたり、住所が変わるとどうしようもない(よくあるらしい)
・最強なのが鑑札。行政を通じて登録されている飼い主に連絡がいく
とのこと。
確かに鑑札札が見栄え良くないのは分かるけど、つけていると付けてないとでは迷った時に助かることが多い。
漠然と子供に興味のない人生だったが、いつからか「恐怖」になったので気持ちを書き留めておく。
長いので暇な人だけ読んで欲しい。
思い出せる限り、私には(運の悪さによる事故以外で)死にかけたと思っている経験が二つある。
自転車を停めていると、近くに若めの成人男性が立っており、隣の駐車場の方に手招きされた。
陰鬱な雰囲気で声が小さい人で、なんと言って呼ばれているのかわからなかった。
何か用があるのかと途中までついて行ったが、変だと思ったか、予約を思い出したかで歯科医院に戻った。
あの時車までついて行ったら、良くてその場での性犯罪被害、悪くて殺されていたと思う。
実家はマンションの中層だったが、ある日鍵を忘れて、学校からの帰宅後、親が帰るまで待つしかなかった。
そういうことはたまにあり、慣れていたが、その日はどうしても家に入りたかった。
実家は角部屋だったので、玄関脇に非常階段があり、その塀がそのまま連続して、実家のベランダに続いていた。
(その間に、両腕を広げたより大きい幅の、薄い衝立が塀の上に沿って設置してある)
当時の私は、塀に立って衝立を辿りベランダに侵入できないだろうかと考えた。
実行直前まで行ったが、ベランダに入っても窓の鍵が開いてなかったら意味ないじゃんと気づき、やめた。
実行していれば、階数的に甘く見ても7割くらいの確率で死んでいた。2割は大怪我。
衝立はどう考えても脆弱だったし、太め中学生の体重の大半を支えられるつくりのはずがなかったからだ。
前置きが長くなったが、この二つは大人になった今でも怖い。
だが、本当に恐ろしいのは、この裏にもたくさん死にかけた経験があるだろうと容易に確信できることだ。
一体どのくらいの確率をすり抜けてここまで成長できたのか。
そしてきっと私が特別というわけではない。
私は頭のいい子供だった。
勉強は飛び抜けてできたし、同級生の軽率な行動も「そんなことしたらどうなるかわかるのに」と比較的大人の目線を持っていた。
そんな子が、中学受験を総なめにし希望の中学に入った子がその先で大真面目に考えることが、「5階の塀をつたってベランダに入れないだろうか?」である。
1件の重大事故には、重大事故に至らなかった29件の軽微な事故が隠れており、さらにその背後には事故寸前だった300件の異常があるというハインリッヒの法則は、子供の日常にもある。
判断力に欠け、好奇心が強いことを考えると、もっと異常の裾野は大きいだろう。
私も特別怖いのがあの二件というだけで、ボールを追って車道に飛び出したこともあるし、携帯を持っていなかった小学生の頃、塾帰りに迎えの親との連絡がうまく取れず、21時過ぎに暗い神社裏で1人ずっと待っていたこともある。
覚えていない危険もきっと無数にあったと思う。
子を持ってしまうと、親としてこれらの危険を18年回避し続けなければならない。
その責任の重さが、命が傷付けられ失われる可能性の高さが恐ろしい。
確かに良くない結果を招くと私も思う。
でも子供の遭遇しうるものを考えると、気持ちはわかってしまう。
ある程度自由にさせつつ、これらを予測して全回避なんて絶対不可能だよ、って思っちゃう。
再婚は考えていないけど、もし機会があっても、この恐怖がある限り、子供は持てないかもしれない。
子供が引きこもりになるかもだの発達障害かもだのの怖さ以前にこれがある。
みなさんは怖くないのですか?
アメリカに渡米してウインチェスターファームって牧場を立ち上げた、社台の遠戚だけど、わりと遠い吉田さんのTwitterを発見して図らずもずーっと読んでた。
叔父にあたる吉田牧場の経営者は火事で繁殖牝馬を失ってアブクマポーロとともに余生を見つめながら実質牧場も畳んでしまったけど、
仲違いしてアメリカに新地を求めて旅立ったこちらは数年おきにケンタッキーダービーに生産馬を出すなど成功している模様。
Twitterを読むとすごく良さそうな人柄が偲ばれるし、写真が面白いし、獣医と牧場の生産者と経営者って目線が交互に伺えるので競馬の話でも全然飽きない。
コロナ禍で先が見えない中、ゴールドシップのクリアファイルを携帯すればお守りになるよと奥様に助言をもらってその通りにしているのが草。
この写真とか素敵
https://twitter.com/NaoyaYoshidaUSA/status/1334992522393825282
牧場広いなー
高校に入ったあたりからようやく露見した私の頭の悪さとか、ただのうっかりでは済まされないくらいのだらしなさとか、そういうのから目を逸らしたくて鬱のふりをしてたら成績がガタ落ちして地元の私立大学に進学した。高校入学を機に“親ローン”で買ったロードバイクはたまに使うくらいで、普段は居間に繋がった和室で埃をかぶっている。それなりに勉強はしているつもりだけど、気を抜いたら課題をすっぽかして留年するんじゃないかみたいな不安で心がいっぱいになって、それで課題も手がつかない。馬鹿じゃないのって感じだけどマジでストレスを感じている。
最近ほんとうに生きるのが辛い。不自由なく暮らして学校では周りのバカさ加減に辟易して、家に帰れば疲れ切った母を眺めながらTwitterしたりご飯を食べたりしてて、公然と不幸を嘆いたりできないことに息苦しさを感じてふと死にたくなったりする。疲れたからタクシーで帰ろうみたいな感じかもしれない。親を愛しているはずだし向こうもそのつもりだと思うけれど、自己愛が足りないとかうまく認識できてないとかで全部が台無しになっている。
あと孤独を感じる。友達はいない。一人もいない。小学から10年くらいの付き合いになる(中学でありがたくも学習塾に通わせていただいてたら再開した)おにゃのことLINEしたりするけど、常に向こうから話しかけてきて向こうからおやすみの挨拶がくる。おれは相手との距離を測りかねてて自分から話しかけられないし、彼女に抱いている好意も「唯一付き合いがある同年代の人間」とか「10年来の知人」とか、そういうタグに対する執着なのかもしれないし重すぎてキモがられそうだから恋愛の成就など夢のまた夢に過ぎないのだと思う。
とにかく、家族団欒の中だろうと携帯に照らされた布団の中だろうとこの孤独感が全てを台無しにする。それだって日々の生活からようやくほじくり返して見つけ出したちょろい悩みみたいで人に吐露できるものでもない。ちっぽけなTwitterでさえ真面目なトーンでは話せないくらい。
異常独身男性ってこういう人間をちょっと煮詰めた感じなの? 親が死んだらとうとうダメになって風呂桶で煮こごりになったりするのかもしれない
こんな夢をみた.友人と車でお祭りへ向かう途中,交通事故にあい幽体離脱.「あー死んじゃったかー」とか思ってグチャグチャになった車を俯瞰していると,僕の体は車から這いでて警察を呼び,友人と一緒に立ち去ってしまった.僕は取り残された.
こんな夢をみた。僕は中学校にいて、何人ものクラスメートと顔をあわせた。それも男女問わず、卒業から会わなくなった人達ばかり。最後に、初恋の人と食堂でてんぷら定食を食べた。そこで僕は、彼女は玉子が嫌いだったことを思い出した。あの中学校に食堂なんてなかったことも。目は覚めた。
こんな夢を見た.携帯が鳴り,研究室のソファから起き上がる.時刻は3時過ぎ.伸び上がって靴を履き,立ち上がる.と同時にソファで「目が覚める夢」から 目が覚めた.時刻は4時過ぎ.立ち上がる.と同時にまたソファで目覚める.時刻は5時過ぎ.6時,7時,8時.昼には諦めた.目は覚めていた.
こんな夢を見た。温泉から上がり部屋で一息つくと、脱衣所での忘れ物に気がついた。取りにかえるも、その温泉に戻れない。あるのはロビーと地下への階段。 迷わず下る。1/3ほど照明の点いたバーで、3人が飲んでいた。女性は言う。「私が代わりに探してあげる」。忘れ物はついに思い出せなかった。
こんな夢を見た。私は知らない農家の宴席で、その男の話を聞いていた。男は次第に興奮し、暴れ、自らの腹をナイフで抉った。私は取り押さえられた男の腹から一筋の血が流れる様子を眺めていた。「俺はあの牛なんだ」そう言い残した男は車で連れていかれた。
私は外へ出た。庭には一匹の黒毛牛がいて、気が違っていた。腰のベルトを外して叩きつけると、牛は逃げていった。それを横目で追いながら、川を越え、古いバス停に腰掛けたところで、読んでいた小説を閉じた。タイトルは「牛の首」だった。私は街へ下りることにした。
大きな駅の向こう側へ行きたくなって、地下連絡通路を目指した。下って歩いて上った先で、一人のセールスマンが待っていた。私は家を探していたことを思い出した。マンションの一室へ向かう。「紹介するのはここと同じ造りのお部屋です
お客さんは運が良い。ここのご主人は昨日自殺したので、誰もいません。見るなら今日です」フローリングは酷く黒ずんでいた。部屋を検分していると、喪服の女が階段の上に現れた。木製で高さのある螺旋階段は、このマンションには不釣り合いに思えた。
女は言う。「見よ、あの牛を。涎を垂らし、目を泳がせる、あの醜い黒毛の牛を」それは「牛の首」の一節だった。「ご主人はどちらですか。あの男ですか。あの牛ですか」「牛よ」そう答えた喪服の女は声を上げて笑った。私は部屋を出た。目は覚めた。
こんな夢を見た。高速道路のトンネルに入ると何十もの真赤なランプが光っていて、渋滞のようだった。車が完全に停止するまでブレーキを踏み込み、サイドを引くと同時に、警官に声をかけられた。「車を降りてください。指示に従ってください。」私は他の運転手と同様に非常口へ向かった。
先には窓のない畳部屋があって、黒い長机と弁当が並んでいた。奥から二番目の空席に腰を下ろす。右隣の男性の貧乏揺すりが続く。弁当はやけにコントラストが低い。向かいの女性は口を開けて呆けている。どこかでパキという音。戻ろう、戻ろう、私はつぶやきながら独り部屋を出た。
トンネルに警官の姿は無く、ナトリウム灯がまばゆいばかり。私は車を捨てて歩いた。出口に辿り着いたが、無機質な車列は途切ず、青空の下とても静かだった。脇にはトンネル名が刻まれた石碑があって、それをなぞる。五文字目で指先に鋭い痛みが走った。目は覚めた。
こんな夢を見た。夜祭の喧騒を抜けると、人のまばらな屋外ステージの中央で、男が何やら呟いていた。それらは全て、この地の死者が今際の際に発した言葉だという。石段に腰を下ろし聴き入る。殆どが呻き声でよく聞き取れないが、どれもこれも懐かしい。それらは確か、私の最期だった。
こんな夢を見た。私は窓の無い病院に何年も入院していて、その日は定期検診だった。入院患者の列に混ざって待っていると、前の一人が脇の通路を指差した。「そこから外に出られるかもしれない」
患者達は一斉に走り出した。初めは様子を伺っていた私も、後に続くことにした。無機質な通路を抜け、いくつもの自動扉をくぐると、急に冷たい空気が鼻に触れた。外は夜だった。私は、電灯に照らされた公園と人工の川に患者達が散る様子を眺めていた。
胸許の携帯が鳴った。「早く戻りなさい。外は身体に悪い」それは心の底から私を案じる声だった。「しかし、みんな喜んでいます。こんなにも空気が美味しいのです。こんなにも自由なのです。」話し終えると同時に、別の電話が入った。「ボートを見つけた」
それは汚いスワンボートだったが、迷わず乗り込んだ。ボートは勢いを増す。川底の石を蹴り、橋を越え、カモメを追い抜いた。ついには岩に乗り上げてしまったが、川岸からボートを押していると、その人数は少しずつ増え、豪快な波しぶきとともにボートは川に戻った。歓声が上がった。
ボートに再び乗り込んだそのとき、朝の光が目に飛び込んできた。「もう戻らなければならない」そう思った瞬間、電話で使った『自由』という言葉に重さを感じた。その言葉の意味に初めて気が付いた。目は覚めた。
こんな夢を見た。私は講座「反境学」のガイダンスを受けるため、大教室の扉を開けた。百名以上が座っていたが、私だけ後ろ向きの席に案内された。私の背中で女性講師が言う。「反境学について質問はありますか。」前を向いた学生の一人が手を挙げた。
「環境学とは違うのですか」「環境学も反境学に含まれます」「社会科学ですか」「あらゆる概念が当然含まれます」境界を無くす学問なのか、そう考えた途端、周囲の学生は消え、私は前を向いていた。講師と目が合った。「違います。」目は覚めた。
こんな夢を見た。私は想い出の場所に向かうため、登山をしていた。久々の単独行。ペースは上がり、森林限界を抜け、雪渓に差し掛かった。酷く咳が出る。雪渓は雪と砂が細かく混ざっていて、古い雪崩跡だと思った。視界の端に何かが映る。黒ずんで、痩せた人間の手が転がっていた。
足を止めた。酷く咳が出る。後ろから声がかかる。「ありがとう。○○さんは手伝ってくれるんだね。」初老の女性だった。「なぜ、私の名前を知っているのですか」「あなたに会ったことがあるからです」やはり酷く咳が出る。足元の誰かを、背後の誰かと掘り起こすことにした。
女性は言う。「ごめんなさい。もう、そのシャツの臭いはとれないね」しかし腐臭は感じない。いよいよ咳は酷い。掘り起こした誰かは、結局腕しかなかった。それもぐずぐずに崩れてしまった。私は手を合わせ、先に進むことにした。咳は血を吐かんばかり。痰が喉でゴロゴロと騒がしい。
すれ違った何人かの怪訝な目に、染み付いた腐臭を初めて認識した。視界が狭まり、白黒する。歩く。歩く。そうして日が沈む直前に、山小屋に辿り着いた。咳をすることでしか呼吸ができない。硬い床に雑魚寝する。眠れない。だからきっと白昼夢だったのだろう。こんな夢を見た。
私はベッドに横たわっていた。寝返りをうつと、そのきしむ音と合わせて時計が目に入った。時刻は午前二時五十分。外に錆びた自転車が見える。跳ね起きて質素な窓枠に足をかけると、不意に声がかかった。「子供はどうする」ようやっと、家族3人で寝ていたことを想い出した。目は覚めた。
元嫁の元で暮らしてる息子。
うち(増田)の実家とも縁が切れておらず、スマホもLINEもあるしで、別居はしてるが、そこそこの頻度で連絡してる。(主に向こうから)
突然、電話かかってきて、舞台の配信見るのだがクレカでしか支払えないから、アドレス送るからそっち(増田)のクレカで払って、手続き進めてくれ。(言い方はもう少し丁寧)
という。あとから調べたらあと20分ぐらいで始まる、誰が見るのかわからないzoomでやる演劇みたいなやつだった。1500円。
クレカ機能のあるVプリカとかあるから、そっちを考えろというと、ごにゃごにゃお願いお願い言うだけになったから、そっちで頑張れって方向に話をもってくと、「クソ親父!」と罵倒して電話を切られた。
その時は値段はわからなかったが、どうせ5000円ぐらいだろうし、払ってもよかったんだけど、
元嫁がそういう舞台関係で、2000万ぐらい使って(把握してるだけで貯金全額と増田の両親への借金等。1割も返って来てない)、他にも色々返済焦げついてて携帯も契約できない、クレカ作れない状況になってること、
息子にも、舞台関係で中学生の時に演劇の勉強のために遠征するからっていわれて8万ぐらい貸してて、まだ半分も帰ってきてないこと。
その時の電話では言うつもりも機会もなかったけど、そういう経緯があったし面倒だったから、断ったんだけど。
これって、クソ親父って罵られるほど私が悪いのだろうか。
そろそろ息子にも目覚めて…というか、そこの舞台関係のところからちょっと距離を置いて欲しいんだけど、当分無理そうだなと思った。下手したら一生かもしれない。うちの家系終わったね。
とりあえず、向こうが謝ってくるまでは、『一方的に急な依頼をして、Vプリカとか代案を出しているにも関わらず、聞く耳もたず感情に任せて罵倒して一方的に通話を切った』ので、拗ねて相手をしないつもりなんだけど大人気ないかな?
しかしうちではそのぐらいの価格帯の商品を買ってもらえるのは誕生日とクリスマスだけだった
子供には長すぎる数ヶ月を過ごし、ようやくそのタイミングを迎えたとき
ポケモン赤はプレゼントしてもらえたがゲームボーイは与えられなかった
代わりに与えられたのはスーパーファミコンに挿して遊ぶスーパーゲームボーイだった
素直にゲームボーイではなかったのは、携帯機であるため親の監視外で遊ばせたくないという思惑があったらしい
それに加えて
・小さな液晶を覗き込むよりTV画面の方が視力低下の影響も多少はマシだろう
という考えもあったようだ
友達と遊ぶときにはプレイ環境一式を外に持ち出すわけにはいかず
ソフトしかないのでそれぞれがゲームボーイを持ち寄って遊ぶ空間では自分はプレイすることはできない
公園ではもちろん無理だし
友達のゲームボーイを借りるにしてもみんなまず自分が遊びたいのは当然だ、貸してもらえることなど少ない
友達の家で遊ぶときでも、わざわざそこのスーパーファミコンを借りるというのも不自然でハードルが高く実現することは少なかった
そもそもその時に発売していた初代スーパーゲームボーイには通信端子が無いのだ
(通信端子のあるスーパーゲームボーイ2が発売したのはそれより後のことで、スーパーゲームボーイを既に持っている子供が買い換えるにもメリットが少なかった)
混ざれるはずなのに混ざれない
一番下が自分だった
悪意を持って明確に仲間外れにされることはなかったが
その場でポケモンを一緒に遊べる仲間の方が親交が深くなるのは当たり前で
それがすごく惨めだった
20年以上たった今、その時のヒエラルキーが流石にそこまで尾を引いているはずもなく
ふとあの時の疎外感を思い出す時がある
他と同等に揃えてもらえない子は
かつての自分と同じように寂しい思いをしているのだろうかと
ぼんやりと思いを馳せるのだ
はてブを見る限り、結構な共感があったようで、書いた甲斐があった。
寄せられたコメントの中からいくつか取り上げたいものがあったので、追記しておきます。
自分の回りにもいました。
貧乏だから買ってあげられない、というケースは見なかったけど、親の方針でゲームを買ってもらえない子。
90年代当時の親世代にとって、まだゲームへの偏見や未知なるものという認識は多かったと思います。
やはり、禁止されている子供は逆に執着してしまう傾向にありました。
大人になって反動でゲーム三昧の人もそれなりにいるでしょうね。
かく言う自分も、完全禁止でないにせよ少しずつ不便や不満を重ねていたので、
これは、当時は仕方のない話かと思っています。
特に恨んだとか、間違っていたとは考えていません。
子供のコミュニケーションツールとして重要なポジションにあったことは理解できていなかったのですから。
ゲーム世代が親になり、かつての苦労と大人目線での懸念から葛藤しているのもわかる話です。
ゲームに理解があっても程よい距離感で向き合わせるには難しいでしょうね。
ネット接続やSNSの広がりもあり、フォローアップしてあげることの難易度も上がってしまいました。
自分の家に呼べば友達がゲームボーイを持ってきて、自分は自分のスーファミで遊べますよね。
ここは地理的な問題なのですが、小学校から自分の家が一番遠くにあり、坂の上にありました。
いわゆる新興住宅地(○○台と名前のつくような所)です。集まるには不向きでした。
たまり場になる友達の家がありましたが、ゲームが多かったり集まりやすい立地にあったのが大きな理由ですね。
対戦というより、自分のポケモンを進めつつ、お互いの進行状況をその場で共有して楽しむ、という場でした。
ポケモンスタジアムは持っている子もいましたが、起動率はそこまで高くなかったですね。
ゲームボーイで何をしていたかと言うと、赤緑の出現ポケモンが違うので、
赤でしか出現しないマンキーを持ってない緑の子のためにその場でマンキーを捕まえて交換してあげる、なんて光景も有りました。
うちの地域でポケモンスタジアムが脚光を浴びたのは、ポケスタ金銀が発売されてからでした。
しかし、そこまで来るとポケモン一色ってほどのブームでは無くなっていました。
あくまで、ポケモン赤緑の一時期だけがそれ以外がほぼ無いぐらいに占めるコンテンツだったんですよね。
やりましたよ!スーパーマリオワールドや星のカービィスーパーデラックスなど。
ドラゴンクエストなど1人用RPGをプレイしている様子を眺めつつ、自分は置いてある漫画を読みふけるなんてこともしましたね。
その話を盛り込むと要旨がボヤけてしまうので、今回はポケモン赤緑の話に絞っていました。
みんな揃ってポケモンに傾倒した時期があって、そこで疎外感を覚えたのは大袈裟に受け取ったことでもなく事実です。
バトエンやカード、すごろくなんかも出ていたので、ポケモンブランドを冠した交流ツールはゲームに限った話でもないですけどね。
あ、やってます。
図鑑は剣盾時点までコンプしてます。アンノーンもビビヨンも今の所全種揃ってますよ。
対戦はあまり興味ないですが。
ええ、それを狙いました。
あの時代を生きていた人が「ポケモン」「スーパーゲームボーイ」と聞いたら
ピンと来るだろうな、という期待を込めてタイトルに入れておきました。