真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
このサイトで、とあるユーザーが書いている日記のカテゴリーだ。
「ゲーム日記」としているものの、必ずしもゲームの話をメインにするとは限らず、取り扱うジャンルは多岐に渡る。
水曜日の人などと比べると書き方にこれといった決まりはなく自由で、調子が悪いときや筆が乗らないときは恐ろしく簡素な内容のときもあるようだ。
では特徴がないのかというとそうでもなく、よく使うワードとしては「むきゅー」というものがあり、微妙にその日の心体を表現している模様。
「むきゅー」については明確な元ネタは分からないが、「東方萃夢想」というゲームに出てくるキャラクターのセリフが有名なようだ。
この界隈でも最大手のカテゴリなので有名ではあるが、内容的には他人から見てお世辞にも実のある、エンターテイメント性に優れているものはほぼない。
日記というものは本来、読み手を想定しない、寄り添わないものなので「日記らしい日記」ともいえよう。
……「読み手を想定した日記」というのも、改めて考えると奇妙なものだが。
まあ、そもそも自分しか読まない日記と、不特定多数が読む可能性のある場所で書く日記が例え同じ内容だとして、それが全く同じ性質であるかというとそんなわけはないのだが。
ああ、あと、ここで使っている「最大手」は、「カテゴリーのある日記の中では最も多い」という意味だ。
人気があるのだとか、そんなこと私は知らんよ。
そういうことは君が考えればいい。
上の話と多少関係しているが、要はそのカテゴリーの日記がどれだけあるかという認識で大体合っている。
このカテゴリー一覧を強く意識している人の話は、私の観測範囲内ではレアかな。
なので、あまり意味のない仕様というのが、現状の認識で差し支えない。
君みたいに、初めて見た人が面食らう位だね。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ザックリいえば、自分の作った物語に人格を当てはめるよう調整することだな。
その物語が破綻していないこと前提だが、それによって作られる登場人物は物語に忠実な言動になるからな。
例えば、子供置き去りのニュースがあったとして、「子供は親によって既に殺されていた」と考えるとかね。
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という言葉は有名だな。
だが、これをマリー・アントワネットが実際に言ったかというのは信憑性が低いというのが現代の通説だ。
では、なぜこれがマリー・アントワネットの言葉として浸透したかというと、「言いそう」だというバイアスがかかっているからだ。
つまり、バイアスがかかるとは、「言ったか」ではなく、「言いそう」であるか、ということだ。
例えば私が「世界一長い芝生を刈る仕事をしている」という噂を聞いたら、君は「やってそう」と思うだろう。
年上好きが年下好きに変わると解釈すれば、自ずと真理は見えてくるだろう。
つまり、「好みの対象」も大切だが、それよりも着目すべきなのは「自分がいま何歳か」ということだ。
……新生児が年下好きだったらどうなるんだろうか。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
今すぐに思いついたのだと、二つあるかな。
一つは、義務でも何でもない、「誰でも出来る簡単なことを『継続する』」こと。
「継続は力なり」なんていう一見すると何てことない言葉が格言足りえるのは、それが一般的に大変なことだからだ。
例えば、君がこの匿名ダイアリーで内容は何でもいいから日記を投稿する。
これを気が向いた時々でいいのならばともかく、ほぼ毎日となると大分ツライだろう。
そういうものは仮に最初は楽しめても、やり続ければ飽きやすい。
義務でもない、自分がやろうと思えばいつでもやれるということは、自分次第でいつでもやめられることだしな。
誰でも出来ることが、誰でもやり続けられるものとは限らないということだ。
私だって一年以上このカテゴリを継続させていて、それなりに楽しんではいるものの、それと同時にいつやめてもおかしくないと思っているからな。
えー、そうだなあ……。
もう一つは義務でも何でもない、「誰でもできる簡単なことを『我慢する』」ことだ。
特に、「外部からの影響によってもたらされる衝動」を我慢する。
まあ、「我慢する」とまではいかなくても、「関心を向けないようにする」だとか、「エネルギーを割かないにようにする」だとかでも構わないが。
例えば私だと、「シン・ゴジラ」だとか流行真っ只中の時期に、そのテーマで一切語らなかったことかな。
センセーショナルなテーマというものは、「何かを語りたくなる衝動に駆られる」ものだろう?
知識や教養がなくても、千差万別の人々が衝動に駆られて色々と語るから、自分もその熱に煽られる。
他には、間抜けな内容が書かれたエントリや、挑発的な文章にブコメも何もせずリアクションをしないようにするだとか。
現に、観に行ってすらいないのに、「シン・ゴジラ」を語る人が多く出没することからも、影響力の高さが窺えるね。
周りを見渡しても「シン・ゴジラ」のテーマを扱ったエントリが目に付いていた。
そんな環境下で茶々の一つも入れない、ふざけてネタにすらしないって、とても困難なことだろう。
仮にそういう状態で語っても、まあそれなりの内容は書けるだろうけれど、衝動的なものだからね。
頭は回っていて、理路整然とした文章だとしても、それは普段の状態で書いたものとは性質が違うわけだ。
それはそれで、或いはそちらの方が面白い内容になる可能性もあるかもしれないが。
だが、そうやって動機に自覚がないまま書くということは、それは自分が好きで書いた文章ではなくなる可能性を持つということだ。
自由意志のもと書いた筈のものが、自分が書きたい文章ではなくなるってのは私からすれば不本意なのでね(もちろん、これは私の言動に後から付け足した理由だが)。
おっと、客観的にみた是非だとか、そういうことは君が考えればいい。
いずれにしろ、「誰でも出来る簡単なことを『継続する』」、「誰でもできる簡単なことを『我慢する』」、これらは間違いなく「言うは易く行うは難し」だろう。
もし両立できる人間がいるとすれば、すさまじい精神力といえよう。
もちろん出来たからいって、その事柄自体が誇れることかどうかなんてこと私は知らんよ。
……そういえば、これもテーマを取り扱ったうちに入るんだろうか。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
一般的には感動するだろうとされる要素を前面に押し出していたり、コンテンツとして消費させようとしているように感じる作品などを指す様だな。
本来コンテンツとして消費することが目的ではないのに、「感動」という要素を演出として使ってコンテンツとして消費させようとする、作り手の意図が鼻につく場合とか。
あと、“そういうの”を求める層が、ポルノを求める層と紙一重に感じることもあるから、その人たちを揶揄する形でも使われるかな。
ほら、ポルノって“用途”が明確だからそれ以外は重視されないというか、“目的”のためならばその他の要素は蔑ろにしていることもままあるだろ?
これを他のコンテンツ、ましてや実話とかでも使ったら、眉をひそめる人はもっと増えるだろう。
そういえば、他にも「感動」の部分を変えて、「○○○ポルノ」と表現することがあるな。
「ホステル」とか「SAW」シリーズとかを、他国とかでは「拷問ポルノ」と表現する所もあるらしい。
もちろん、性的興奮を感じたり、発情していたりするわけではないから、「ポルノ」という表現は適切ではないのだが。
……いや、もしかしたら私が知らないだけで発情している人がいるかもしれないが。
まあ是非はともかく、そのまま見たい人は多くないだろうし、私だって大層なことを言えるほど善良な人間でもないからね。
ただ、「感動ポルノ」といったように揶揄されているようならば、演出としては微妙ということになるかもしれないが。
このサイトで、センセーショナルなテーマであったりとか、内容や文体に思わずブコメやトラックバックしたくなるエントリの傾向がもし存在するのならば、そういうものをまるでポルノのようだと表現してもいいかもしれないな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ああ、有名だな。
「二種類に分けたがる人間」と「二種類以上に分けたがる人間」という奴だろ?
いくつになっても変わらないって、そういうことなんじゃないかな。
好きであること、嫌いであることが言動に直結するということさ。
たまに私も余ったのを分けて貰うんだが、白いのと黒いのしか中に入ってなかったんだ。
些細なことを気にしなくなることさ。
私はな、甘い卵子焼きが許せなかったんだ。
別に食べられないわけではなかったけれども、塩がきいていたほうがいいと思っていてね。
砂糖を入れたら綺麗に焼けるだとかいう理屈が、なおさら甘えに感じたというのもあって、必要以上に憎悪を募らせていた時期が私にもあったのだよ。
今では、甘かったとしても気にしなくなって、ご飯と一緒に頬張っても構わない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
内容の是非に関わらず、時と場所を選ばず声高に叫べば人は耳をふさぐ。
どんな内容かはもちろん大事だが、誰がいうか、どういうアプローチかというのも大事だ。
正当な言論はそれだけで力を持つが、それを担保させるならば言動も正当であったほうが効果的だからな。
ザックリいうならば「説得力」ということさ。
前向きに考えるなら、担保されないが故に好き勝手書ける、という場合もあるだろうがな。
そういえば、友達と焼肉屋で夕食をとっていたとき、近くで街頭演説をしている人がいてね。
内容は正確には覚えていないが、食用の牛一頭にどれだけの費用がかかるか、それをもっと他の場所に回せないか、みたいなことを演説していた。
まあ、当てつけというか営業妨害というか。
大義名分は結構だと思うが、それを免罪符か何かと誤解してズレたアプローチをしてもよいとまで考える人間がいるのはツライところだ。
ただ、友人はいつもどおりのペースで食べ進め、いつもどおり注文しすぎて残していた。
なんというか、大物になると思ったよ。
言論などにおいて、他者を納得させるために付加される力だといっていい。
それには論理的であることや主張の正当性……も必要だが、最も大きい要素は別にある。
全く同じ内容を、太っている人と痩せている人が話す。
もちろん、本質的には同じだ。
でもそれらを聞いた人はバイアスがかかる。
ネットでも「○○の時点でそっ閉じ」とか、みたいな文言があるよな。
現実問題、論理そのもので評価するだとか、綺麗ごとはとてもじゃないが言えない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
割合の話であって、必ずしも残り半分の人生が、その半分を占めている○○と同価値とは限らないぞ。
仮にそういう意味合いで使われていたとしても、それだけ人生を捧げているってことで、必ずしも悪いことではないしな。
それに細分化させているという説もある。
つまり人生が、個人の中で「食生活」や「娯楽」などにカテゴライズされているという説だ。
例えば「ネギが嫌いなんて、人生の半分損している」というのを、あくまで人生の中の「『食生活』の『嗜好』というカテゴリ内の話」だと考えればいい。
ということを踏まえて、なお私はあの言い回しが大仰だと思うが。
まあ、YESかな。
それが正しい数え方だからと考えられる。
答えはNOだ。
だが、掛け算の順序程度の差異ではある。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
明確な起源は不明だが、数年前に社会人が「会社でうんこを漏らした」という実体験がここで投稿され、それがホッテントリ入りして注目されたことが大きなきっかけだと考えられる。
漏らすまでの、そして健闘むなしく漏らした後の葛藤、そして後始末に苦心する姿を徒然と書いたその内容は大いにウケた。
「大人がクソを漏らす」というギャップ、そして身近にも感じられるテーマであり、またその体験を書くことはエンターテイメントになりやすいということを認知させたわけだ。
注目エントリやホッテントリになりやすく、このサイトで取り扱われるメジャーなテーマとなった。
ただ、あまりにも定期的に取り扱われるテーマなものだから形骸化も起こる。
現在は、「うんこを漏らす」ということ自体が概念的に扱われたり、このテーマで何の捻りもなく書くことがナンセンスだとすら認識されている向きもある。
「うんこを漏らす」よりも、照れ隠しの意図もあったであろう「ネタにすること」自体の方が恥ずかしいことだというのも奇妙な感じだが、そもそも本当に恥ずかしいと思っていることならば他人に話すことではないからな。
この手のテーマ自体、古今東西使われた手垢まみれのネタなわけだから、形骸化すること自体が時代錯誤も甚だしいともいえるが。
このサイトのブランドというわけでも手柄というわけでもないし、仮にそうだとしてそもそも誇れることでもないが、まあ下ネタもそれに纏わるものも、何歳になっても好きな人が多いということさ。
普通ならば、ここであてられて自分の漏らした話なども語りたくなるのかもしれないが、そこをグっとこらえるのが本当の大人の在り方だと私は考える。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
東方Projectのアレンジ曲に「ねこ巫女れいむ」というものがあり、歌詞にそういったワードがあるようだ。
匿名ダイアリーでそのワードを含んだエントリがBOTの如く投稿されるので、この界隈では元ネタよりも認知されているかもしれないな。
エントリの内容は、基本的に「ねこみこれいむあいしてる」とだけと書かれていて、他に書かれていても簡素であることがほとんど。
……いや、エントリ自体にエンターテイメント性がなく、クリエイティブでもないから、本当にそれぐらいしか説明することがない。
つまり、「ただ単に、そこにあるから認知された」というパターンだな。
君が通学や通勤をするとき、その途中に店があったりするだろう?
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
それの印象が強かったのか、このサイトのエントリで内容に何らかの共通点があった場合、テーマが大学でなくても「京都のゴミ大学」というタグがはてブでつけられるようになった。
語られるテーマは様々だが、現代社会に対する絶望感を抱いていたり、筆者の鬱屈としたコンプレックスがあるのが特徴だ(挙げられるコンプレックスは容姿が多い模様)。
文体は常体が主のようだな。
現在は形骸化が著しく、「どんなテーマでも、無理やりコンプレックスの話をねじ込むネタ」という扱いが成されていることが多い。
最近は「ネタという前提でもクドい」と認識されている向きもあるようだが。
「京都のゴミ大学」というタグを誰がつけたかまで調べようと思ったが、どうもキナ臭かったので、回答はここまでで勘弁してくれ。
主に「様々なものは考えて作られている一例」として、ネタ的な意味合いで「角度」が挙げられているようだ。
このサイトとかでは、「物事を多角的に見てみよう」という意味合いで使われることもあるな。
主に何らかのエントリに対してトラバで、初めに「(元増田)は○○って知ってる?」と書き、その後○○について薀蓄を傾ける。
そして、その元エントリの内容と結びつけて独自の解釈をし、説教っぽい語りをした後に「角度とか」で締めくくられる(尤もらしい解釈や説教もあるが、あくまでネタとしての範疇で、だ)。
文体は特に決まっておらず、筆者や気分によっても変わるようだ。
まあ、このサイトですら「角度とか」で検索すればいくらでもサンプルは出てくるから、私とかに質問するよりも遥かに参考になると思うぞ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
このサイトでとあるユーザーが書いている日記のワードとして認知されているな。
カテゴリ化されていないが投稿間隔が短いので、このサイトを利用し続ければ、いずれ目にする機会もあるだろう。
まあWikipediaによると、回文とは「始めから(通常通り)読んだ場合と終わりから(通常と逆に)読んだ場合とで文字ないし音節の出現する順番が変わらず、なおかつ、言語としてある程度意味が通る文字列」のことらしいので、それに則った場合、微妙な出来のものが多々あったりもする。
内容は、前半は雑感、後半はその日摂った食事や、飲んだデトックスウォーターなどが、女性語で書かれたものとなっている。
最後に「すいすいすいようび」、「今日も頑張りましょう」で締めくくられる(日記によって、表現に微妙に違いがある)。
多少の差異こそあれ、ある程度のお決まりに沿った内容から、この界隈では「水曜日」とか「回文」とか「デトックスウォーター」といえば、その日記や筆者を指すこともあり、ややも概念化している。
なぜ水曜日か、明確な元ネタなども分からないが、モチーフだと思われるCMが一昔前あったらしい。
CMは「日本防火協会(現在は「日本防火・防災協会」という法人名らしい)」という一般財団法人の名義で製作され、1970年代 - 1980年代頃に放映されたようだ。
CMは曜日ごとに種類があり、水曜日編で「すいすい すいすい 水曜日」というフレーズがある。
CMの内容も「水を大事にしよう」、「一日一善」といったメッセージから、恐らくこれがモチーフと考えてよいだろう。
余談だが、少し前にツイッターとかで「すいすいすいようび~」と書いた後に泳いでいるっぽいAAを乗せたネタがトレンドになっていたな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
個の判別として、自身のネームを「しげたか」と称したことからきている。
ネット初心者、老人、陳腐な政治や世間に対する価値観、どこか間の抜けた文体。
お礼の手段がなぜか高級肉を振舞うという設定だ(いくつかの要素は元ネタというか、モチーフらしきものがある模様)。
それら要素が他のユーザーにウケて、一時期ネタとしてこのサイトで流行した。
実在の人物にしてはあまりにも香ばしかったので、そういう設定のキャラクターという扱いが周囲の主な認識だ(まあ、真に受けること前提の方が面白いという人もいるだろうけれども)。
流行とはいっても、それから当人と思わしきユーザーからのネタ提供がほとんどなく、「しげたか」ネタを取り扱ったエントリで話題になるほどのものも出なかったから、すぐに廃れてしまったな。
元のエントリからしてブクマも大した規模でもなく、一過性のものだったので知らない人も多い。
知る人ぞ知るってネタで、私も静観していた身なので実のところあまり知らないんだ。
芸人とかが一発ネタで、単語を大声で言ったりするのがあるだろう?
あれに近いと考えてくれていい。
真面目な話を書きつつ、脈絡なく唐突に使われたり、エントリの〆として使われることも多いようだ。
前文から、余白を大きく空けて(いわば貯めや間を作って)用いられるケースも少なくないね。
ナンセンスギャグを挟むことで「自分の書いたエントリは取るに足らないものですよ」という意図を含ませるらしい。
稀に、そのままネタやテーマとして使う人もいるようだ(本気というわけではなく、あくまでクダラナイものという範疇でのネタだが)。
語感のよさ、低俗さから、このサイトではポピュラーなナンセンスギャグだな。
ナンセンスギャグだから白けやすいので、もし君がこのネタを使うなら本当に自分にとっても取るに足らない内容のエントリのときをオススメする。
もちろん、使いたくないなら使う必要もないが。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
今回は、まとめ版。以前書いたものを簡易にした内容なので、文脈が不自然になっている部分があるが気にするな。
「Anonymous Diary」、つまり「アノニ『マスダ』イアリー」から取られている。
場違いな内容のエントリが匿名ダイアリーで出たときに、ここよりも適したコンテンツを頭に書いて「○○でやれクソ雑魚ナメクジ」と返すテンプレだ。
明確な発祥元は不明だが、最もポピュラーなのは「真夏の夜の淫夢」に登場し、ファンから「淫夢くん」と呼ばれている動物の別称だ。
淫夢の界隈では全部カタカナなので「クソザコナメクジ」だが、ここで用いる場合は「ザコ」の部分は「雑魚」と漢字で使われることが多いので気をつけよう。
創作とかでよくある取ってつけたようなお嬢様口調で、魚などをテーマにして、日記風に書いているエントリだな。
「お嬢様部」の「様」と「鯖」をかけている。
「お嬢様部」の元ネタは、「なんでも実況(ジュピター)板」(通称、なんJ)の、「ここだけお嬢様しかいない実況スレ」だとされる。
「鯖」はサーバーの通称……でもあるが、ここでの用途や使われるようになった経緯はやや特殊だ。
このサイトのエントリをよくブクマする一人に、名前に「鯖」が含まれるユーザーがいてな。
そのため目に付きやすく、特徴的なネームなこともありサイト常連に認知されやすい。
そこから増田において「鯖」という言葉は遊ばれやすくなり、一人歩きして概念的な使われ方がされることもある。
「お嬢鯖部」はその一環というわけだな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
そして、自分が好きであるに足りうる要素は、合理的な理由なんて必要ない。
何かを好きになるとき、その対象が完璧である必要なんてないだろう?
あるいは、客観的にみた欠点がかえって好ましい要素となりうることもあるはずだ。
「自分のことが嫌い」といったとしても、そう言っている自分のことが好き、だという可能性だってあるだろう。
程度の問題であったり、それを自分がどう認識するかという違いはあるが。
もちろん、他人がどう思うかはまた別の話だ。
とはいえ他人がどう思うかで形作られた要素と、自身がどう思うかで形作られた要素に優劣なんてないし、別にどちらかだけの必要もないだろう?
ナルシズムを恥ずかしいという人もいるが、好きになる対象が自分であるか、その他であるかの違いなだけだ。
いずれにしろ、人々が語る好き嫌いなんてものは、その対象が何であれ他人にとっては犬の餌にしかならないさ。
その犬の餌で腹を満たすかなんてこと、私は知らんよ。
いや、実生活は代り映えしない。
そっちに時間をとられている。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
それの機能次第では、各記事ごとのトラバを非表示にすることも可能だ。
このサイト専用対策なら、「コンパクトな増田」とかの拡張機能があるな。
他には、とにかく軽くしたい、ブクマとかを気にしたくないというのなら、ブラウザの設定を変えてJava無効や画像表示をしないようにする方法もあるが。
この場合、編集のマークも消えるが見えないだけで、見出しの隣あたりをクリックすれば編集は可能だ。
上記の機能をいくつか組み合わせれば、大分クリーンになると思うぞ。
そこまでしてここを利用する必要性があるのかとか、そんなこと私は知らんよ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
これを効率よく、安定して、かつ高いクオリティで作り上げるならば2人は欲しい。
もしそれで作り上げた商品で儲けたい場合、かけたコストを考慮してかなり高く売らないと駄目だ。
だが、その値段ではほとんど売れない。
ではどうするか。
方法はいくつかあるが、その商品が安くなれば売れるという確信があるならば、コストを減らすことが一つの解決法だろう。
短絡的だが、2人で作っていたものを1人で作ればコストは大幅に減るわけだ。
……「効率よく、安定して、かつ高いクオリティで作り上げるならば2人は欲しい」んじゃないかって?
当然、今まで2人でやってきたことをそれ1人でやるのだから、かかる負担は大きくなる。
もし負担を減らすならば、効率、安定、品質などを下げる必要があるわけだが、それはしない。
人件費の圧縮が目的だから、2人でやっていたことを1人にやらせたとして、賃金を2倍にしたりだとかもしない。
それでも働こうとする人がいるのかって?
もし、そういう人間がいないなら、企業で育成すればいいじゃないか。
即戦力を求めたい気持ちもあるが、理想の人材を求めるなら企業が率先しないとな。
それで経営が上手くいくかといえば、まあ上手くいっているように見せることはできる。
大抵の場合どこかで綻びが生じてくるだろうけれど。
「それでも働く人がいる」なんて、雇用する側にとってこれほど都合のいいことはないだろう。
もし正当な労働条件で、それに見合った報酬を支払っている企業と、人件費を圧縮している企業が同条件で競合すれば、有利なのは後者だからな。
まあ、労基とかの労働法が邪魔に感じるかもしれないが、あんなもの有名無実だから。
労働力の買い叩きなんて古今東西、国を越えてやってきたことだ。
商品だって労働力が関係しているのだし、それら成果物を買い叩いてよいのなら、労働力だって直接買い叩こうじゃないか。
ただ、最近は労基が思い出したかのように機能し始めているから、目立たないようにしないと厳しいかもしれないな。
長い目で見ればそっちの方が安上がりだ。
機械には労基がないし……ないよな?
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
まあ一定数の情弱がいるで結論つけてもよいが、ちょっと遊んでみるか。
少なくとも一般人にとって、本質的な部分さえ真実であれば体系はそこまで重要視されていない。
仮に君が体調が優れていないとして、それを改善するために薬を提供するとしよう。
その体系が科学であろうがニセ科学であろうが宗教であろうが、成果が変わらない限りは同じようなものだ。
説明が違うだけで、実際に効いていることもあるだろうし、プラシーボ効果という場合もあるだろう。
話は変わるが、君は地球が丸いことを信じているだろうか。
写真や映像で地球が丸いことは知っていても、実際に見た人は少ない。
私は子供の頃、何かの授業で高い場所から景色を見せられ「ほら、地球は丸いだろ?」と先生に言われたことがある。
もちろん私は「平面ではないことは分かりましたが、丸いかどうか確信するには不十分な情報です」と返した。
嫌な子供だな。
まあ、話を戻そう。
つまり、ほとんどの人にとって、本質が「科学」であるか「ニセ」であるか、或いは「宗教」であるかは区別しにくいさ。
科学を「科学だから」で信じるのは、ニセ科学や宗教を妄信するのと同じなのだよ。
もし、それら情報の真偽を判断し、最終的に信じることができるとするならば、その他さまざまな情報と比較しているからだろう。
逆にそのプロセスをすっ飛ばして情報を信じることは、体系や真偽が何であれ妄信しているのと変わりないのさ。
つまり、君が真に“科学的に”物事の是非を判断するならば、科学だけではなく様々な側面から思考しなければならない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
前口上がコレだからNOと答えてもよいが、それなりには正しいかと(内容はともかく)。
書きながら間違いだと思ったら、普通はそのまま書いたりしないだろう。
或いは、低俗だがあえて間違ったことを意図的に書く理由なんていくらでもある。
釣り記事、提灯記事、心にもない、特定の人に絞った屁理屈や罵倒、自身の思想信条から外れたものを書いても同じだ。
そうした間違いが意図的ならば、自分の考え自体が間違っているわけではないからな。
それに、後に読み返して「間違いだ」と思っても、いま「間違いだ」と思っている自分は正しいと思っている。
つまり刹那的には、私は私のことを正しいと思っていることになるのさ。
これは私に限らず、君や大多数の人にとっても同じことだ。
もちろん、私や君が正しいからといって、他人にとっても正しいかは別の話だが。
みんな正しいということさ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
まず、なぜ「労働する必要があるか」ってことを考えれば自ずと答えは見えてくるだろう。
なぜ金がないと生きていけないかというと、生きていくために必要なものや、生活を豊かにするためのものを手に入れるのに金を使うからだよな。
生きていくために必要なものや、生活を豊かにするためのものをどう生み出すかというと労働だよな。
要は労働、成果物、金だとかを循環させつつ発展してきたという話だ。
簡単なことをややこしく語るのが私の趣味だが、「働けば給料を貰える」という前提でとりあえず大丈夫だ。
で、給料を貰うのは機械ではないけれど、かといってそれで割を食った人間というわけでもないよな。
つまり、個人が金を得る手段を単に減らしているだけという構図になるわけだ。
労働の問題を改善したところで、「金が必要な世の中」という問題が改善するかは別の話だからな。
私の頭では人間にしかできない仕事を増やすか、金をバラまくしか思いつかないが、それは無理やり帳尻合わせしただけで本当にいいのかは分からない。
個人的には、もし対価だけ貰えるなら楽で助かるが。
「対価だけ貰える」って間抜けな言葉をサラっといってたのに、一瞬気づかなかったぞ。
そういえば、ベーシックインカム自体は悪くないと思うんだが、「労働が必要な世の中」は否定するのに「金が必要な世の中」は否定しないのは現代では食べあわせが悪くて、立ち位置的に不遇だよな。
……前口上で分かっていると思うが、真に受けるんじゃないぞ。
「人々の生活を豊かにするために機械を作ったのに、結果としてそれで生活が脅かされたら意味なくね?」とかを、ガワだけ真似たに過ぎない。
「人間の労働力はアテにされず機械ばかり使われるから、働きたい人間はロボットになるしかない」みたいな話を思いついたが、既に書かれてそうだな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
「この物語はフィクションです」とか、「この後スタッフがおいしく頂きました」と同じだよ。
コンプライアンス的な(?)都合でね。
虚実の分からない人間にネットは向いていないが、現実として皆が見分けることはできていないからな。
送り手がどうとか、受け手がどうとか、是非の話はまあ置いといて、だ。
実際問題としてそういう可能性が「ある」のなら、それ前提で臨むのがベターという話さ。
心にもないことを書いているか、本心で書いているかということも分からないだろう。
万が一、真に受けたところでどうしようもないし、その気もない。
だから、こういうところで書いているわけだしな。
まあ、普通は他人の言動なんて無条件で信じるものじゃあないんだが。
ましてやここみたいに、匿名でidすらなくて個の判別すら困難な場所で書かれたものを、マジに受け取る甲斐なんてない。
事実かどうかはもちろん、どういう気持ちで書かれたかすら分からないのに。
常識的に考えたらありえないが、世の中には変なところで純真な人もいるからな。
或いは、(心から信じるかどうかはともかく)書かれたものが全面的に本当で、かつ本心で書かれたものだという前提で臨まないと話にならないというのもあるが。
これも、他のFAQと同じ人間が書いているという確信なんてないが、同じということで読むだろう?
学ぶべき教訓は「増田を利用するときは、気持ちを明るくして、現実から離れて利用してね」といったところか。
本気になるからこそ楽しいこともあるだろうけれど、ネットに人生を切り貼りしすぎると十中八九ロクなことにならないだろうから、ほどほどにすることだな。
答えは「いずれにしろ一緒」だ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ふりかけだな。
カルシウム不足を補うため、魚を骨ごと粉末状にして飯にかけることをコンセプトにして作られた。
大正時代に出たふりかけはいくつかあるが、これはその元祖とされているようだな。
ふりかけだな。
例えば、便座に座って小便をする人は少なくない。
立ったままだと、眼に見えないレベルの小便が飛び散っているということを“知っている”からな。
じゃあ、そうやって座ってする人は、便座の蓋をしてから流すようにしているか。
これが意外と少ない。
「立ったまますると飛び散る」ということを知っているなら、「流す際にも飛び散る」ということは考えれば分かることなんだ。
つまり知識を自分のものにしていないから、そういう応用ができない。
この状態を私は噛み砕いて「知っているだけ」と言っている。
こういう人は「1+1=2」はできても、「2+2=4」は分からないんだ。
こう例えると間抜けに見えるかもしれないが、本当にいるからな。
つまり、知識を自分のものにするというのは、ザックリいえば「1+1=2」を知っているから分かるのではなく、足し算を理解していることで解ける状態ということだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
あれは工作用だ。
諸説あるが、「ボリューム感の演出」、「隙間産業」、「おかずの滑り止め」、「滲み出る油を吸収させるため」とからしい。
「おかずの下に敷かれたパスタにすら役割があるのに、お前らときたら……」とかいうコピペを作ってみたらどうだ。
自分が思っている心地よい距離感を越えて、他人が過剰に詰めてきたときの俗っぽい言い回しだな。
物理的に距離感をつめてきたとき以外にも、精神的に距離感をつめてきたときにも使えると思う。
「ぐいぐい来る」とかが近い意味だろうか。
利点としてジャンプの飛距離が伸びること、着地位置の調整がしやすいなどがある。
一回しかできないアクションゲームの場合は、マリオなどのように空中で動きが制御ができるようにしたりもする。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
メディアを考慮しない、場違いなエントリが匿名ダイアリーで出たときに、ここよりも適したコンテンツを頭に書いて「○○でやれクソ雑魚ナメクジ」と返すテンプレだな。
明確な発祥元は不明だが、最もポピュラーなのは「真夏の夜の淫夢」に登場し、ファンから「淫夢くん」と呼ばれている動物の別称だ。
ここ匿名ダイアリーでは「雑魚」と漢字で使われることが多いが、淫夢の界隈では全部カタカナなので元ネタに倣うなら「クソザコナメクジ」だな。
なぜ漢字の部分が出てきたのかは諸説あるが、「発祥元とは微妙に違う意図で使うから説」、「匿名ダイアリーで初めてこれを用いた文言が『クソ雑魚ナメクジ』だった説」、「匿名ダイアリーの『クソ雑魚ナメクジ』こそ最初で淫夢はむしろパクり説」とか色々あるようだ。
いずれにしろ、明確な決まりはないようで「糞ザコナメクジ」でもいいし、「クソザコ蛞蝓」でも恐らくは問題ないんじゃないかな。
全部漢字にして「糞雑魚蛞蝓」とか、全部ひらがなにして「くそざこなめくじ」でもいいだろう。
「クソ」、「ザコ」、「ナメクジ」という、それぞれで蔑称として使われているものを3つも組み合わせるという強欲さと、語感の良さを兼ね備えていることから特定の界隈で人気の蔑称のようだ。
それにしても、「お嬢様部」とかの質問がきたときも思ったが、こういう元ネタとかって意外とあまり関心のない人が多いのだろうか。
「お嬢様部」にいたっては、はてなキーワードとかでも説明されているのだが、なんJ発祥なのを知らない人が意外に多くて驚いたなあ。
主に知能が通常よりも低いことや、そのさまを表す言葉だな。
「低脳」と書かれることもあるが、正しくは「低能」だ。
有名なのは、ジョジョ第5部のフーゴが放った「ド低能」だろうか。
後に差別的だとして修正され、現代だと「クサレ脳ミソ」というセリフになっている。
それを言われたナランチャのセリフも微妙に変わっていて、「何だと……低能って言ったな…~~~~殺す」から、「何だと……クサレ脳ミソって言ったな~~~~人を見下す言い方は良くない!」らしい。
そんなわけで、現代社会ではまず耳にするようなものではないが、もし言われたら「何だと……低能って言ったな…~~~~殺す」と返してみるのもいいかもしれないな。
クサレ脳ミソの場合は「人を見下す言い方は良くない!」と返そう。
ちなみに、対義語として一見ありそうな「高能」という言葉は、中国語とかではあるようだが日本語ではない模様。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
その界隈で精通している人たちですら、ライトノベルの定義にブレがあるしね。
ただ、それでも言えることがあるならば、表面的な表現や手法について批判することに意味はないということくらいだ。
昔の長編小説をそのままの文章と構成で、スマホ(フォ)のような別の媒体で読むとしたら、内容の良さに関わらず大分きついだろう。
だから、「小説」と「ライトノベル」は同じ読み物だけれども、厳密には違うのさ。
ライトノベルの「ライト」が何を指しているかにもよるが、売り手が狙っている主な層は、様々な文学に慣れ親しんだ層ではないのだろう。
であるなら、そこで紡がれるのは活字への抵抗感を考慮した「ライト」なものになるのは自然の流れではないだろうか。
表現や手法の最適化とは、媒体やマーケティングによっても変わる。
もちろん例外はあるのだろうけれど、イレギュラーは反論材料としては弱いしな。
読者層が様々なのは分かるが、子供向け番組を観る「大きなお友達」みたいなもので。
彼らがウケることをやることもある、けれどそれは副次的なものであって、メインターゲットは別なわけだな。
賞をとったものの中にはきつい出来のものが多々あり、理解に苦しんだ時期もあったが今はそう思い込むことにしている。
媒体を考慮した表面的な手法、文体などはそもそも評価の対象ではないので、批判の対象にならないというのが私の答えだ。
私が書いた、「死んだ日本で生きる私」だ。
ゾンビが蔓延って社会が全く機能しなくなった日本で一人暮らしをしている青年が、毎日をよりよく生きようとする日常モノとなっている。
似ている設定で「地球最後の男」があるが、あちらと比較してブラック・コメディ寄りな作風と、ブログみたいなノリで書かれる主人公の心情と独白がウリだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
まず大前提として、ほとんどの人間は赤の他人になんてあまり興味がない。
興味の度合いなんてものは不確かで個人差の大きいものだから、不特定多数に対して適用するのは難しいだろう。
仮に関心の度合いを数値化できるとする。
そして、とある人に対しての関心度が1として、その人が自殺宣言をしたとしよう。、
さて、関心度が1だったとき、あらゆる人間のとる対応は同じだろうか。
答えはNOだ。
興味がないからこそ「じゃあ死ねよ」と言うかもしれないし、「死ぬな」というかもしれない。
その日の献立を考えるのと同じくらい、或いはそれ以下のエネルギーで。
つまり、対応に個人差はあるけれど、それと興味の度合いとは必ずしも比例しないということさ。
でも中には、対応の度合いから、それを興味の度合いと結びつけて誤解する人もいるわけだ。
でも、自覚のあるなしに関わらず、そういうあってないような、か細い繋がりが必要なんだろうな。
他人に興味があっても、なくても対応するなんて、素晴らしいじゃないか。
そういうものが、多様な人間が一つの社会を形成し、共生できている理由だ。
まあ、その社会によって死ぬ人も出てくるのだろうけれど、他人にあまり興味がない前提は変わらないんだから、どうでもいいことだな。
さて、私はこの回答をどれくらいの関心度で、どれだけのエネルギーを割いて書いただろうか。