真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
子供の頃、親だとか周りの大人が推奨する玩具に対して抵抗感がなかったかい?
なので推奨されているものでも、ちょっとアウトローな遊び方をしたくなったり、親や大人が禁止するものほど夢中になった経験はあるんじゃないかな。
それと同じさ。
だから親(公式)は黙って、かつ離れた場所から見ないフリをしていて欲しいのさ。
その場合は、「もう少し大人になろうぜ」ってのが回答になるかな。
愚問ではあるが、それでも答えるならNOだ。
例えば一万円を誰かのせいで失ったとしよう。
賠償させることができるなら、一万円か一万円相当の石どちらか?
まあ、いずれにしろ、可能な限り代替品ではなく同じモノで補償するのが理想じゃないかな。
というか「一万円相当の石」ってのも奇妙な例えだがな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
あれはポケットモンスターが日々暴れまわっていたほど私が若かった頃の話だ。
まあ、他の奴らも似たようなものだが。
それぞれ多少の個性はあれど、素晴らしいものはいなかったように思える。
なにせ単純な強さにこだわったり、本質が見えていない年齢だ。
いざというきのポテンシャルなんて分からないし、なぜこんなにも分かりやすい弱点がむき出しになっているのかだとかも分からなかったんだ。
私はというと毛深いわけでもないのに妙なところには毛が生えている輩だったが、まじまじと比べたことがないから気づいたのは20になりたての頃だ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
「内容で判断すべき」、これは嘘でもないし、間違いでもない。
かといって正当な言論に正当な言動が付きまといやすいように、そーいうバイアスを重んじることもまた側面的には間違っていないことだ。
つまり、その人の中で「内容で判断すべき時」と、「誰が発するかで判断してもいい時」の明確な線引きがあるんじゃないかな。
「そんな線引きしてもいいの?」といわれても、そんなこと私は知らんよ。
まあ、単にその人に一貫性がないって可能性も勿論あるが、個々がその場その場で語る正しさなんて所詮はそんなものさ。
いや、まあ“内容による”だろうけれど、そんな便利な言葉で片付けるのは思考停止と一緒だからな。
ダブスタは皆の悪友。明日は我が身と思いながら今日を生きていこうじゃないか。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
君はタバコを吸っている人に向かって、「体に悪いですよ」とか「タバコに使う金を他に回しては?」とか言うのか?
逆に君がタバコを吸っているとして、そんなことを言われたいか?
もう少し噛み砕こう。
ラーメンのスープを飲んでいたとして、「塩分濃度が高いから飲まないほうがいいよ」って言われたいか。
そういうのって、要は「余計なお世話」なんだ。
帰ったら手洗いうがいをしよう、寝る前に歯を磨こう、体にいいものをたくさん食べよう。
そんなことは今さら言われるまでもないことで、単にその場では実行していないかどうか、個人の裁量の範疇だ。
個人の選択が尊重される世の中で何よりも優先されるべき事柄じゃないことを、そして「余計なお世話」であることを聡明な人間は理解しているのだ。
もちろん、そーいうアドバイスがありがたい場面もあるだろう。
だが、誰に言われても、どんな状況で言われてもありがたいわけではない。
本当に相手を想ってアドバイスをするならば、まずは個人それぞれを理解するために歩み寄ることから始めたまえ。
分かったら、こんなところで油売っていないで持ち場に戻るといい。
ネットは心に悪いぞ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
3割YESかな。
そりゃあ、好きかと聞かれれば好きだと答えるかもしれないが、それは体裁を気にした結果の応えだからな。
他人の好き嫌いが千差万別であるのに、わざわざそれを発露するということは別の目的があるからだ。
つまり、そーいう対象を好きだと言える人間は遠まわしに自分が好きだと言いたいということさ。
対象が実存している必要もないから、何なら漫画やアニメのキャラクターでもいいかもしれないな。
個人にとって何でもいいわけではないし、理由や目的は多義に渡るだろうけれども本質はソコさ。
仮に嫌いだと言っても、自分のことが嫌いだと言える自分が好きなのだ。
是非がどうとかではなくて、自己愛とそのために発露をする手段を工夫して生きていくことは人間の本質で、それとどう付き合っていくかという話さ。
不特定多数の人間がいる場所で、不特定多数の人間が正しく理解できるわけがないことを、何の実益もない条件で書く。
それだけでは孤独感と作業性が増すのだから、潜在的な自己愛を糧にすることは重要なことさ。
承認欲求よりも、発露する行為そのものに主な目的が付加されているパターンだな。
言い方を変えれば「呟き」で、そこに特化するなら今はツイッターもあるが、また別の機会に踏み込もう。
いずれにしろ本質の前には、その他の目的や理由は食玩のオマケさ。
まあ、お菓子か玩具、どちらがオマケかで自己との対話の余地はあるかもしれないがな。
その点で、私は極めて緩やかな意味合いで匿名ダイアリーにYESと答えたわけだ。
もしここが無くなったら、有名人の死に対してファンが言いそうなセリフや文章を書くだろう。
有料サービスになったら、無料信者のそれっぽい文言を吐き捨てて、別の媒体で手を変え品を変えて活動するさ。
ブクマが貯まっていたので、二度と読まないものは星の皆無に関わらず削除したかな。
いや、他にも役割や目的も勿論あるだろうけれども、私にとっての本質は「栞」だよ。
読まない本に栞を挟んでいたって仕方ないだろ?
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
つまり答えはNOだ。
つまり、どこまでそーいう目線を個人レベルで気にするかという話さ。
「違和感を感じる病」か。
文法的にだったり歴史的に見て厳密ではない表現が気になって、文脈を読み取れば全体を理解できるレベルでも、それが真っ先に気になってしまって本文どころではなくなってしまう病気だな。
潜在的な患者数は日本でも億を超えているとされ、似たようなものに「ご苦労様病」、「役不足病」、「誤字脱字病」など多くあり、その規模は社会問題に発展しているほど深刻らしいな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
様々な芸術分野が受け手にあたえる疑似体験によって学びを与えるように、ゲームもまた芸術の域に達しているからだ。
例えばQTE。
いつ来てもおかしくないと考えていれば、そのときにどう行動すればいいかも素早く判断できるのだ。
これもいくらリアルに近づいたところで、ゲームのキャラはゲームのキャラでしかないことの遠まわしな皮肉である。
つまり人は学びとれるから学ぶのではない、学ぼうとすれば学ぶのだ。
実際のところ詳しい誕生日は分かっていないので、厳密には「誕生を祝う日」といったほうがいいかもしれないが、まあどっちでもいいか。
本気で語るなら東方の三賢者の話とかしないといけないが、こんなところで質問しているような人間にする話じゃあないしな。
そもそも私はユダヤ教徒だし。
ちなみに、ここで私が使っている「ユダヤ教徒」とは、「クリスマスにこれといった予定がないときの決まり文句」なので誤解しないように。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
まずNOに関して語るならば、これは普通に考えて、物理的にありえないからだ。
そしてYESについて。
これは匿名性の時点で“個の認識”なんて、さして重要ではないからだ。
中には名乗り出る人間もいるが、実は違う人だったとしても元の記事を書いた人間が何のアクションも起こさなければ、それは同一人物として扱われる。
同じだろうが実は違う人でも、そんな不確かな状態でそれでも成立させたいなら、普通なら踏まえておくべき“個の認識”を「どっちでもいいもの」として扱うしかないのさ。
「成立するか?」と思うかもしれないが、「成立させる」んだ。
その「個の認識に拘らない」という点をヒネて解釈するならばYESということさ。
そんな状態で繰り広げられるものは茶番に近いけれども、茶番を楽しむにはそれを茶番と思わないようにしないといけないのさ。
なりすましたことはないし、他の「よくある質問。」と同一人物だ。
もし判別できないなら「どっちでもいいもの」として、「同一人物であること前提」にするしかないってことさ。
仮に違う人が書いていたとしても、指摘したり事実関係を明瞭にしなければ、永遠に同じ人が書いたものとして残り続けることになる。
他のシリーズものを投稿している人や、特徴的な文体をしている人だってそうだ。
真似する理由も意志もないからしないだけで、客観的に見て判別が難しいレベルのものだったら誰でも書けると思うし、実際に既に書かれている可能性もあるだろうな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
では、なぜ親父はそんな出来の悪いギャグを屈託なく言うかというと、これは一説には老化による知能低下が要因とされている。
そのため、親父たちはそれを面白いと思っている知能になってしまっているか、或いは面白いかどうか思考する前に発言してしまうのだ。
だが、じゃがいもとライスの組み合わせは相性がいいとはいえないのは確かだ。
つまり、ジャガイモにとってカレーはいいものだが、カレーライスにとってジャガイモはそこまでじゃない。
つぎ足し製法の静岡おでんでは、つゆの味に支障を与えるとして大根は敬遠されやすいことと似ているかもしれないな。
すりおろして、だが。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
言いたいことは何となく分かるぞ。要は作られたアニメの作風に、ある種の一貫性があるってことだろ。とりあえずテキトーに検索して調べた範囲のことを咀嚼したのでお答えしよう。
基本的に現在の日本のアニメの多くは、出来を語る際にスタジオ体系で語ることに、さして意味はない状態だ。アニメを構成する様々なものは、フリーランスの人たちを一時的に雇ったり依頼したり、他の所から外注しているのが主で、制作に関わる人たちはガラリと変わりやすい。
独自の作風で知られているシャフトも、近年の代表作品の背景美術は「竜美堂」という美術・背景専門スタジオと手を組んで制作していることが多い。竜美堂が潰れてもシャフトはなくならないが、“シャフトっぽさ”はかなり減るか、ぎこちないものになるかもしれないな。
だが、京アニは体系がちょっと特別なためスタジオ規模で語られやすい。他のスタジオが外注でやっている多くの工程を、自社のスタッフでほとんどやっているからだ。元請制作でほぼ出来ているので、作風にも一貫性が色濃く出やすいのだろう。
例えば特定の人にやって欲しいとき、その人がフリーランスだと他にも仕事があったり逐一の連携もとりにくい。スケジュールの遅れが余儀なくされたり、方針の変更を強いられるといった状況になることもある。そのダメージをもろに受けやすいのは特に作画方面だろう。
だが、スタッフの確保が自社内で十分に可能ならばスケジュール管理が楽であるということで、作画の安定にも繋がる。1話を放送する前から、スケジュール調整の賜物か全話のほとんどは出来ているケースもあるらしく、手直しする余裕もあることでより完成度は一定を保っている点も、スタイルの一貫性に一役かっているのだろう。
また、例えば担当の美術スタッフなどが表現に苦戦していたとき、社内の別の美術スタッフに相談するなんて連携もしやすいだろうから、より作風は統一感が生まれやすい。
あと、京アニはアニメーターのための学校もあり人材育成もしているので、このあたりも関係しているだろう。「境界の彼方」の作画とかは卒業生が多く参加しているらしく、その成果が出ているようだ。
ここ数年だと、原作すら自社出版なんてケースもある。元請けの作品がなくて上から企画を貰えないせいで、何も始まらない(アニメを作れない)ということは往々にしてあるので、それを自社で賄うってのは何気に重要だ。そうしてコンスタントに提供できるというのは、京アニのスタイルなどのイメージを受け手に根強くする要因にもなる。
あと、給料が歩合制ではなくて固定給らしい。これは、どんなに頑張って早く仕上げても給料が同じということで一概にいいことではないが、逆に考えれば時間をかけて一枚ずつ描いてもよいということで、これも間接的にクオリティの安定に繋がっているかもしれない。
つまり質問の答えは、京アニは制作においてスタジオ内での“自己完結度”が非常に高いので、そのスタイルが作品にも色濃く出やすいということだ。もちろん100%自己完結というわけではないが、ほとんどの制作は社内のスタッフでやり、人材育成もやっているので一貫性が生まれやすく、京アニのアニメは多くが「京アニっぽく」なるんだな。
もちろんそんなことが出来るのは、とどのつまりはお金と時間をかけたからなのだが、まあそれをコンスタントに可能にすることが並大抵のことではないのは、私みたいな素人でも分かることだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
さすがに前者だろう。
「終盤に仲間になる、強くも弱くもない奴」だ。
今まで育ててきた仲間たちより特別強いわけでもないし、育てるほどの情も湧かない。
かといってネタになるほど弱くもない。
ストーリー面でも活躍してなければ、いよいよ「何で仲間になった」というところだな。
いい質問だ。
実はため息をしても幸せは逃げない。
試しに肺の中のを全部出すつもりで息を吐いてみろ。
そして吐いた場所から急いで去った後、安全な場所で思いっきり吸え。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
結論は論理的な思考のすえに導き出さないと破綻しやすいからだ。
人間は論理的な思考のできる生き物だが、個の価値観が付加しやすい生き物でもある。
これが厄介で、そんな人間が主張をするとき、「理だけ」にはまずならない。
そんな結論から先に作れば、そのために帳尻を合わせなくてはいけなくなってしまう。
普通は、そうやって論を作ればどこかで破綻するか不自然になる。
せいぜい、それで納得できるのは同じ結論ありきの者だけだろう。
だが諦めの悪い人間は、そこに嘘や虚構を織り交ぜて無理やり成立させようとする。
それで騙された人間がいて、その騙された人間が意図せずに他の人を騙して……考えるだけで恐ろしいな。
今回、学ぶべき教訓はこうだ。
「1+1から2を導き出せても、2から1+1を導き出すのは難しい」
順序は大事、という話だ。
……順序だてて、かつ論理として破綻していなければ、他者が納得できるかって?
そんなこと私は知らんよ。
例えば、悪印象を持ったエピソードがある。
これを知っただけで、君は当事者でなくてもイライラ度が多少なりとも加算されるはずだ。
これに登場する人物Aに対するイライラを数値にすると例えば100とする。
答えはNOだ。
これで50減るのだが、残りは50になるか?
君はこのエピソードを話すことで思いが再燃し、愚痴ってもプラマイゼロ。
もちろん、個人によっては減るかもしれないし、逆にもっと増える可能性もある。
つまり、イライラを解消するならば、もっと効果的な方法を模索するか、そもそも忘れ去るのがベターということさ。
個という存在において何らかのエピソードが知られる限り、どこかで誰かが人を好きになったり嫌いになったり、それが増長する。
悲観することはない、これは誰にでもありうる話だ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
厳密には違うことは分かっていても明確に区別することが難しくて、判断に困るときがあるからだ。
ビデオゲームに例えよう。
共通点としては、「オリジナルのコンテンツが存在していること」だ。
バーチャルコンソールや、ゲームアーカイブスもそれに近い。
移植作品など、媒体こそ違っても、ほぼオリジナルそのままのゲームだからだ。
新たに作り直すが、オリジナルを構成していた要素を必ずしも重視しない。
『ロックマン』というオリジナルが基盤にはあるものの、様々な要素を変えたり追加したりして意図的に差別化を図っており、新たなプレイヤー層を開拓する試みがあることが多い。
「リメイク」は「リブート」と区別することが難しいんだが、“オリジナルを如何に踏襲するか”という点を意識して作り直しているかだと思う。
『ロックマンロックマン』みたいにグラフィックを媒体ごとに新たに作り直したり、細かな仕様や追加要素もありつつもオリジナルに近い性質ならば「リメイク」といって差し支えない。
まあ正直なことを言うと、現状これらは明確に定義されているわけでも共通認識ができているわけでもないので、無理に使い分けようとすると十中八九ややこしいことになると思うぞ(特に「リブート」と「リメイク」は非常にややこしい)。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ああ、そういえば、そんなことあったね。
それまでゴーストバスターズは続編製作でゴタゴタしていたから、満を持して出たのがリブートともリメイクとも言いづらい、しかも思っていたのと違っていた出来で多くのファンが困惑したというやつか。
その雰囲気を感じ取りたいなら、とりあえずYoutubeで新作ゴーストバスターズのPVと、それについたコメントでも見れば何となく分かる(経緯を本気で追いたいなら、もっと色んな動画や記事を見る必要があるが、精神衛生上オススメはしない)。
理由は様々だが、最も分かりやすい相違点は新作のゴーストバスターズが全員女性になっていることだろうな。
だが、ここに言及して是非を問うってことは、まあ……つまり“アレ”なのだ(大統領になる前の某政治家も、このゴーストバスターズについて言及していたのは印象的だな)。
私からすればゴーストバスターズが全員女性になっていることなんて、『かまいたちの夜』がリブートされてイラストになる程度の問題でしかないんだが、まあ旧作ファンにとってはそうもいかないよな。
それは、日本人がリブートやリメイクにそこまで拘りがなく、ポリコレとフィクションを結びつけたりだとかもしない社会だからだ。
……というわけでは全然なくて、大きな要因は同時期に「シン・ゴジラ」や「君の名は。」が尋常じゃなく注目され、ゴーストバスターズはほとんど話題にならなかったからだ。
今回はリバイバル……リブート…リメイク……まあ、他の人も明確に区別しているわけではないから、何でもいいか。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
明確な元ネタは分からないが、はてなではとあるユーザーのブコメによって大きく注目されたワードだな。
最初はそこまで注目された言葉ではなかったが、とあるユーザー間でのトラブルが、ここ匿名ダイアリーに書かれてホッテントリにまでなったことがあってな。
そのトラブルの発端となったブコメに「ポリコレの棍棒」というワードがあり、これが印象に残った人が多かったらしく、はてなではイメージが徐々に形成され、認知されていった模様。
使われるようになってから間もないこともあって、用法は明確に定義されているわけではない。
主な使われ方としては、政治的な正しさ(ポリコレ)による主張が過剰だったり、或いはズレているように見えた際、それを揶揄する意味合いで使われることが多いようだ。
そして、その主張がより過激に、攻撃的になった場合に「―で殴る」といったように表現するらしい。
武器の中から「棍棒」が選ばれたのは、原始的な武器で野蛮なイメージがあるためとされている。
「主張は理知的に見えても本質は粗野である」みたいな皮肉が含まれているのかもしれない。
……いや、実際のところどうなのか私は知らんよ。
その言葉を使っている人たちに聞いてくれ。
それにしても、はてな村の手斧といい、妙なものを武器にしたがるものだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
私は大阪生まれ大阪育ちだから、これについては一時期調べたことがあるんだ。
君は「ちゃんこ」を知っているよね。
あれは鍋のイメージが強いが、実際は力士の食事全般を指すんだ。
つまり大事なのは誰が作るか、どこで作られているかということだ。
なので、大阪または大阪の人が作れば大阪のお好み焼きだし、広島または広島の人が作れば広島のお好み焼きになる。
例えばAとBがいるとする。
Aは普通の労働力で、日給はまあ6000円くらいに設定しよう。
そして、BはAの2倍の労働力だ。
素人ならここでBの日給を12000円にするが、それは難しい。
そこで、Aの日給を3000円にするのさ。
これでBの日給は6000円のままだが、Aからみて2倍となる。
ちなみに、BがAの3倍の労働力なら、Aの日給6000円のうち3000円を、Bの日給に回すというのも一つの手だ。
こうすることでAは日給3000円、Bは日給9000円となる。
ちなみに私はCだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
私がイレギュラーの反論材料としての有用性についてナンセンスだと判断するときというのは、テーマの趣旨を基本的には「蓋然性」で考えている事柄のときだ。
「可能性」との違いを厳密に説明することは難しい概念なのだが、噛み砕いていうならばある程度は確実性があると思える事柄について使われる。
例えば、「競争率の高い、1名のみの抽選に自分が当選すること」は“可能性としてはある”が、“かなり低い確率”ということは分かるだろう?
つまり、「可能性」で考えられることはあっても、「蓋然性」では考えられないということだ。
その時の質問のお題はよく覚えていないが、蓋然性で考えているときに可能性レベルのものを考慮しても仕方がない、本筋からズレると考えているので「イレギュラーは反論材料として弱い」と回答したんじゃないかな。
統計学とかでも、かなりの低確率で起こりうるものに関しては、ないものとして扱われる場合があるしな。
……いや、その回答を書いてからそれなりの時が経っているので、本当はどういうつもりかだったのかは、その時の私にしか分からんよ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
そりゃあ、今いる世界とは別の世界に飛んで、その世界を舞台に話が展開されるのが異世界転移。
現世で死んでから、新しい体で異世界に飛んで話が展開されるのが異世界転生じゃないのか。
いや、そのあたりの事情にはあまり詳しくないから確信はないが、字面とかイメージからして恐らく合っているだろう。
7割YES、3割NOかな。
皮肉でもなんでもなく、そういう風潮を作っていくというのは大事なことだろうね。
だけど、それが生き馬の目を抜くものだと、それでも育休をとらない、とれない仕事というものは現実問題としてあるわけだ。
なぜか?
答えは簡単。
「そんなことしていたら稼げないから」だ。
その事実をもって私は「7割YES、3割NO」といったわけだ。
観念的なことや綺麗事を並べて是非を語れというのならば、いくらでも語ってやれるが、そればっかりは私では覆えせない。
いっそ潰れてしまえばいいと言い切れるなら、それはそれで結構だとは思うが。
みんな現実は知りつつも、取り繕わなければいけない側面はあるだろうね。
逆にいえば、育休をとれるということは、それで人がいなくなろうと歯車を回し続けられるということだ。
君や、君の同僚が長い間いなくても大丈夫だし、そして帰ってきたときにそこに席が用意されているということ。
それは昨今の風潮を加味しても、簡単なことではないかもしれないな。
もし、君の所属する所が、そうじゃないのに育休を取れるならば……いや、君の会社がどういう状況かは全く知らないから下手なことは言わないことにしよう。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
なぜかというと、とある国では干し柿を恐れる虎の話があってな。
おっと、「饅頭怖い」とかのとは趣が異なるぞ。
泣いている子供を、母は「外に虎がいてお前を食べるぞ」と脅して泣き止ませようとするが、子供は泣き止まない。
この時の会話を聞いていた虎は、「虎と聞いても泣き止まなかった子供が泣き止むのか」と、干し柿に恐怖する。
そしてその後、誤って背中に乗ってしまった牛泥棒を、虎は干し柿だと勘違いして慌てふためき、牛泥棒も食われまいと虎にしがみつく喜劇が展開される。
ここから読み取れるのは、子供が泣き止んだのは干し柿が美味しいのを知っているから。
そして、牛泥棒が虎の背中にしがみつくのは、虎が何を考えているか分からなかったからだ。
つまり、恐怖とは無知と無理解によって生じるものだということだ。
こうして、私の仮装である「干し柿虎」のコンセプトが決まっていったわけだ。
お菓子が欲しければ、自分の体の一部である干し柿でそのまま補給可能な代物だ。
こういう話がある。
とあるレンタカー会社には借りた車に対して保険があって、これは借りた人間が小銭と簡単なサインをするだけで入れるものだった。
なぜか?
答えは簡単だ。
人間は自身がさして必要がないと思ったものに対して、酷く手間を嫌う。
それが例え大したことのないものでも、だ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
この「飴をくれる危険な大人」というイメージは、割と昔からあるようだ。
1968年製作の映画「チキ・チキ・バン・バン」では、とある悪役が子供をさらうために、餌としてアメを用いているシーンがある。
まあ、もっと探れば歴史がありそうだが、少なくとも「飴をくれる危険な大人」というイメージは、1968年あたりから既に確立されていたというのは確か、だというのが私の見解だ。
正しさというものは多側面から見ればいくらでもあるので、側面的に見なければ齟齬をきたすからさ。
恋愛工学とかで考えた方がいいことに数学を持ち出して、その数学的な正しさが破綻していなくても適切とはいえないだろう?
まあ、一つは「大義名分」だな。
だから、税を徴収したいとき、そういうものは増税の対象として都合がいいのさ。
まあもう一つの理由は、身も蓋もない言い方をすれば「それでも買う人がいる」からだな。
過去にも何度か増税があったが、今なお多くの人が愛用している。
つまり、たくさん税を手に入れられて国は喜ぶ、喫煙者や酒飲みの肩身が狭くなったとして善良な市民も喜ぶ。
Win-Winというわけさ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
片足で跳んでみろと言えばいい。
買い手を尊重したモノの売り方ともいえるし、売り手としての権利の放棄ともいえるな。
私なら一円だけ渡して、少しでも不服そうな顔をしたら「気に入らないなら値段はそちらで決めればいい」と吐き捨てるか、そもそもそういうことをやる店は利用しないが、まあベターな対応は相場を調べることだな。
心得ておくのは、「美味しさ」での加算は低く見積もることだ。
一万円のステーキは、千円のステーキの十倍美味いから、その値段だというわけではないだろう?
だが、逆に不味かった場合は減らして構わない。
値段を買い手に決めさせるというモノの売り方をしているのは、よほど自信があるか、よほど自信がないかのどちらかだ。
だったら、きっちり応えるのが互いのためだ。
答えはNOだ。
だが、同じだと思っている人も間違いという程ではない。
そういう人たちにとって、ツイッターは奇妙に見えるかもしれないがな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
思いつかないから、という説を推す人もいるが、残念ながらそれは違う。
あれは、もととも味付け調味料としてではなく、豆腐も含めたインスタント食品として作られる予定だった。
そこで、「豆腐は家庭で入れてもらおう」と開き直って世に出したんだ。
これは家庭に一手間を強いるものであったが、その「一手間」こそが好意的に受け入れられたんだ。
楽はしたいけれど、完全に手抜きだと思われたくない、そんな家庭の調理人のプライドと合致したわけだ。
その「三大○○」だとかも同じ心理が働いているといえる。
「楽をしたい」という真理は、いわば「ちょっと位は労力を割きたい」の裏返しでもあるということさ。
その点、私は自分で最初から最後まで調理をし、しかもそれを平らげる人間だから過保護すぎるよなあ。
ポルノだ。
君みたいに他のポルノが馴染みになってしまってド忘れする人間もたまにいるが、本来はそういう表現などを指すものだからな。
感動ポルノの質問がきた際にも触れたが、ああいうので使われる「ポルノ」は「まるでポルノのように何らかの欲求を誘発させる要素がある」といった意味合いだ。
もしかしたら、誰かにとって性的興奮を誘発させている代物かもしれないが、感動ポルノの「ポルノ」は基本的には揶揄的な意味合いで本来の意味では使われていない。
というわけで、君が指しているそういう代物はそのままポルノと呼称して構わないと思うぞ。
気になるなら、ポルノグラフィでもいいが、ティがついてややこしくなる可能性もあるから気をつけたまえ。
ああ、だがそういうポルノ的な表現の是非を語りたがる人間が多い場合は、その場を「ポルノ・ポルノ」とかって言ってもいいかもしれないな。
この調子なら、「増田ポルノ」とかいう言葉や概念が浸透する日も、そう遠くないんじゃないかな。
その皆無と是非の判断は君たちでやればいい。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
日本には便利な諺があってな、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というんだ。
英語とかだと、「私が好きなら、私の犬も好きになろう」とかがあるな。
獣姦の趣味はないし、まあ意味は逆にも感じるが本質は同じだな。
つまり、大事なのは相関関係ではなく、その対象のどの部分が好きであるかさ。
何かを好きであるために、その対象が完璧である必要はないだろう?
真夏の夜の淫夢とかも過去のトラブルから嫌いな人も多いが、今でもネタや語録は親しまれているし、ここ匿名ダイアリーでも淫夢ネタであるクソ雑魚ナメクジはよく使われていて有名だな。
「辛い」には「ツラい」と「カラい」の読みがあり意味も異なる。
だが、これをどちらの意味で使っているかは、前後を読めば分かるわけだ。
まあ、一番いいのはややこしい表現を避けることなのは間違いないがな。
現にバカリズムは数年前からこの「辛い」を失敗作と評し、新しい「ツラい」と「カラい」の漢字を提案している。
日本語だと、「百聞は一見にしかず」とか、「論より証拠」あたりが近い意味か。
英語だと「プリンの味は食べてみなければ分からない」とかもあるな。
だが、味は分からなくてもそれをプリンだと言うことは間違っていないわけだ。
美味そうな見た目なら美味そうだといってもいいし、不味そうな見た目なら不味そうと表現することは大事だ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ボツネタの詰め合わせ。
答えはYESだ。
個人差はあるが、まあ多少は。
直に泣かなくなるさ。
性差には、大まかに分けて「身体」と「心理」がある。で、オリンピックで男女別なのは、身体的性差を考慮しているからだ。
君は世間が提唱している「平等」をちょっと誤解している。男女の差別問題解消において、女性にスポットライトが当たることが多いのは、女性のほうが社会で不当に扱われてきた歴史がある、とされているからだ。
学ぶべき教訓は、「偏った天秤に同じ重りをそれぞれ乗せても偏ったまま」ということだ。現状を踏まえない平等論は平等ではない。これは身体的性差においてもいえる。私たちは同じ人間だが、どうしても性差による身体の違いや個人差はあるわけだ。これを一切考慮しないで作られたルールは、ある意味では平等かもしれないけれど、人間の作り出した“平等”という概念とは違うわけだ。
別に皮肉ではない。人間は多様で、かつそれらが社会で混在することが基本的に“認められている”(妥当な表現がパッと思いつかない)。その時点で、真の意味での平等は物理的に不可能なのさ。だから、彼ら人間の作り出す平等には「機会の平等」などといったように、社会に伴った限定条件がつけられる。広義的には「ジェンダー」といわれているやつで、平等にすべきはそこだとされているようだな。そんな平等でいいのかだとか、現在そういう理想的な平等に近づいていっているのかなんてこと私は知らんよ。
英語には“The balance distinguishes not between gold and lead”という諺がある。日本語で「天びんは金も鉛も区別しない」といったところかな。つまり「人間は天秤ではないので、物事を公平に判断することはできない」という意味さ。
……真に受けるなよ。本当は「人間は平等である」という意味の諺だ。人間は天秤ではないが、天秤を作ったのは人間だからな。
答えは「成立しない」だ。
前提が甘い状態で作られた論は、私からいわせればナンセンスだ。
せめて「不自然にトラブった場合に、出るとこ出れば勝てるのか、過剰防衛にはなってしまわないか」くらいのレベルにしてくれないと、答えようがない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
まあ、ザックリでよければ説明しよう。
いくつか説があるが、水の電気分解が有力だろう。
教育とかでも定番の化学実験だし、「水が電気を通す」というイメージだけは理解しやすいからな。
だが、これを知っているなら察しの通り、水が電気を通すのは混ざっているイオンなどの不純物が原因だ。
不純物のほとんどない水のことを「純水」といい、この場合は電気をほぼ通さない。
近年では、この「純水」も認知されてきたのか取り入れられることも多くなり、電気属性が負けるということもあるようだ。
つまり、フィクションで扱われる魔法だとかで生み出される水は、純水ではなく不純物の混ざったものが主流だということになるな。
このあたりは作品ごとの設定次第だが、あーいうので生み出されるのが不純物の混じった水ということは、あれは水に似た性質を持ったエネルギーの集合体で、水そのものではないというのが私の解釈だ。
いい質問だ。
答えはYESでもあり、NOでもある。