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はてなキーワード: 1955年とは

2015-07-13

日本政治的には先進国じゃないかも

日本に住んでいると、治安もいいし、インフラも整っているし、物資にも困らないから、「ああ、先進国なんだな」と思う。

だけど、1955年から2015年の60年間のうち、57年という長い期間自由民主党が第一党であるということを省みると、政治的には先進国はいいがたい気もする。

南米とかでこういうのがあったら「あー発展途上国だな」って思ってしまいそう。

2014-09-12

007原題邦題がかっこよすぎて鼻血出そう

なんとなーくゴールドフィンガーとかロシアより愛をこめてとか一部だけ聞きかじってた程度だったけど、Wikipedia見て鼻血出そうになった。

全部かっこ良すぎる。

中二病スピリットキュンキュン刺激される。

イっちゃいそう。マジで

wikipediaより転載

イアン・フレミング作品[編集]

日本では全て井上一夫によって翻訳された。

長編[編集]

カジノ・ロワイヤル Casino Royale (1953年

死ぬのは奴らだ Live and Let Die (1954年

ムーンレイカー Moonraker (1955年

ダイヤモンドは永遠に Diamonds Are Forever (1956年

ロシアから愛をこめて From Russia, With Love1957年映画版邦題は「ロシアより」であるが、小説は「ロシアからである

ドクター・ノオ Doctor No (1958年

ゴールドフィンガー Goldfinger (1959年

サンダーボール作戦 Thunderball (1961年

わたしを愛したスパイ The Spy Who Loved Me (1962年

女王陛下の007 On Her Majesty's Secret Service (1963年

007は二度死ぬ You Only Live Twice (1964年

黄金の銃を持つ男 The Man With the Golden Gun1965年映画版邦題は「黄金銃」であるが、小説は「黄金の銃」である

短編集[編集]

バラと拳銃 For Your Eyes Only (1960年) 旧邦題007号の冒険

バラと拳銃 From a View To A Kill

読後焼却すべし For Your Eyes Only

ナッソーの夜 Quantum of Solace

危険 Risico

珍魚ヒルデブラント The Hildebrand Rarity

オクトパシー Octopussy and the Living Daylights (1966年) 旧邦題007/ベルリン脱出

オクトパシー Octopussy

ベルリン脱出 The Living Daylights

所有者はある女性 The Property of a Lady

2014-05-21

刑事弁護倫理

刑事弁護人被告人に対して誠実義務を負い、秘密保持義務を負います

これらの義務に背いてまで真実発見に協力することは、弁護士倫理に反するものです。

誠実義務を負いますから被告人意思利益に反する行為はすることができません。

自分がやったが無罪を主張して欲しい」と言われた場合、これに反する主張をすることは被告人意思利益に反します。

秘密保持義務を負いますから被告人弁護人にだけ打ち明けてくれた事実を、他人に教えることはできません。

自分がやったが無罪を主張して欲しい」と言われた場合弁護人被告人に無断でこの事実を他人に教えてはいけません。

当然ですが法廷裁判官に教えることもできません。

刑事弁護人は常に被告人の味方である必要があります

被告人にとって起訴された事件に関する最後の唯一の相談相手は弁護人です。

弁護人被告人を裏切ってはいけません。秘密保持義務に反することはスパイ行為であり許されません。

これは刑事弁護人の職務です。

自分がやったが無罪を主張して欲しい」の他にも、身代わり出頭で「自分はやっていないが有罪を主張して欲しい」というのもあります

これを聞かされた弁護人がやるべきことは、

・まずは被告人に対して「自分認識と異なる主張をすることはやめるべきだ」と諭すこと、

・これを聞き入れず、あくまで認識と反対の主張をするのであれば、それに従うこと、

・このような被告人の主張に従うことが自分弁護士としての良心に反するのであれば辞任すること、

です。

ただ、被告人には弁護人による弁護を受けることができる権利憲法保障されていますから最後は誰かが被告人を弁護しなければなりません。

そのため、辞任をするというのは、よほどの事情がない限り原則として避けなければなりません。

そもそも、刑事裁判犯罪があったことを主張・立証するのは検察官の役目です。

立証責任は全て検察官にあります刑事裁判における被告人弁護人は、検察官の主張を潰すことが役割です。

また、弁護人には積極的真実を追求する義務はありません。

被告人に不利な証拠、例えば有罪である証拠弁護人が掴んでも、それを主張・立証する義務はありません。

一方で、被告人に有利な証拠を掴んだのなら、それを主張・立証するのは義務になります

この意味で、弁護人は片面的な義務を負っていると言えます

こうした刑事弁護倫理は現行の刑事訴訟法が制定されて以降、長きにわたって学者・実務者を含めて広く議論され続けています

特に1950年から1970年ごろまでは、戦前の旧刑事訴訟法からの脱却を目指して議論が活発でした。

現在ではある程度の見解の一致をみており、最近では2004年弁護士職務基本規程が制定されました。

ここでは旧々弁護士倫理1955年)や旧弁護士倫理1990年)以上に、被告人に対する誠実義務秘密保持義務が強調されるようになっています

興味があれば法曹倫理弁護士倫理に関する本が多く出版されていますので読んでみるといいと思います

日弁連が出している「解説『弁護士職務基本規程』」あたりが定番ですが、これは文字通弁護士職務基本規程の解説なので、多少広がりには欠けます

プロブレムブック法曹倫理責任」という本が、参考論文判例懲戒例などを載せてあり、最近学生の間でよく参照されているようです。

他にも色々な本がありますが、刑事弁護のみを扱う本は実践的な刑事弁護の話が多く、倫理に関するものさわり程度しか書かれていないかもしれません。

http://anond.hatelabo.jp/20140521011126

2014-04-28

ダークホースについて調べてみたよ

http://anond.hatelabo.jp/20140428044654

id:BIFF

昔の国語辞典の語釈には、よくこういうのがあった。



とあったので辞書8本ぶっ込んでるオレ氏早速検索

【dark horse

(1)競馬で、実力は未知だが活躍しそうな馬。穴馬。

(2)人物・手腕ははっきりしないが、有力とみなされる競争者・候補者

広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店

まずは大正義広辞苑から。あれ、誉めてる?

少なくとも「評価が低いのに」というような意味合いは書いてない。

〔dark horse

競馬で〕

穴馬。

〔実力を持つ不気味な相手の意にも用いられる。⇒ 惑星

新明解国語辞典 第七版 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2013

何かと個性的なことで知られる新解さんはあっさり手抜き風味。いいのかこんなんで。

さらに「惑星」引いてもPlanetの説明しか書いてなくてこんな意味載ってない。どうなってんの!

〖dark horse

(1)その能力がよくわからない競走馬伏兵。穴馬。

(2)競技や選挙などで,番狂わせを演じそうな選手候補者

[類語]ダークホース伏兵

→ ダーク

スーパー大辞林3.0 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2010

個人的に評価の低い大辞林。じゃあなんで入れてるんだと突っ込まれそうだが察しろ

これは「番狂わせ」とか「よくわからない」という書き方で半分けなしてる感じ。

元増田みたいに怒りたくなる気持ちも分かる。

rkrse

(1) (競馬の)ダークホース, 穴馬.

(2) (能力感情などを見せない)実力者;[米](選挙・競技などで予想外の)新人, 競争相手;対立候補.

ジーニアス英和辞典 第4版 (C) Taishukan, 2006-2011

広辞苑に近いか。「実力者」はむしろ高評価と言える。

のだが、わざわざ米語と断ってるのが気になるので、英英辞典も投入してみる。

dark ˈhorse n [C] BrE AmE

1 someone who is not well known, and who surprises people by winning a competition:

In the 1955 golf championship, dark horse Jack Fleck defeated Ben Hogan.

2 BrE someone who does not tell people much about themselves, but who has surprising qualities or abilities:

She's a dark horse. I didn't know she'd written a novel.

ロングマン現代英英辞典 4訂増補版 (C) 2003 株式会社ピアソン・エデュケーション 発売元桐原書店

さすがは大正義ロングマンダントツで詳しい。ジャックが穴馬ならこの本命のベンは誰だと思ったらすぐに出てきた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Ben_Hogan

大事故で死にかけてから復活して生涯成績メジャー9勝(歴代4位タイ)、ツアー64勝のスーパープレイヤー

特に1953年にはメジャー年間3冠達成してる。Wikipedia情報だと、当時、PGA選手権と全英は掛け持ち不能という糞実装だったらしいので、ある意味グランドスラム並の偉業。そりゃ本命だ。

本題のジャック・フレックはこちら

http://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Fleck

あ、先月亡くなってた模様。ご冥福をお祈りします

生涯成績はPGAツアー3勝。メジャー優勝は1955年のUSオープンのみ。このときは第一ラウンド終わってトップと9打差、というところから巻き返してプレーオフに持ち込み優勝。たしかにこの展開は熱い。

この人、地方ゴルフ場プロ(週給5ドル)としてキャリア始めて、ツアーにフル参戦決めて半年後ぐらいで優勝した模様。

アニメに置き換えると、下請け専門の無名地方プロダクションの自社作品がいきなり覇権取って円盤も1万枚オーバー売ったようなものだろう、たぶん。

2014-03-12

ウクライナの現状について

457 名無しさん@13周年 2014/03/04(火) 01:11:16.25 ID:mzRG3Mif0 BE:281994473-BRZ(11112)
東京大関連邦つくろうぜ。東京区・神奈川区埼玉区・千葉区・群馬区・栃木区・茨城区な」
↓
東京町田神奈川区に近いから神奈川区に編入な」
神奈川おk町田「いやいや、俺もともと東京なんだけど」
東京「同じ大関連邦なんだから、細かいことはいいだろ」
↓
東京「やっぱ連邦ダメだわ、解散」
神奈川町田もこっち来いよな」
町田「いや俺東京」
↓
東京町田返せよ」
神奈川「は?こっちにいるのが自然だろ」
町田「だから東京だって」
↓
東京軍隊送るわ」
町田「さすが東京様!頼りになる」
神奈川町田は誰にも渡さない」

東京ロシア 神奈川ウクライナ 町田:クリミア
574 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:15:26.18 ID:lm0AHMIl0
>>457
ああわかりやすいw
606 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:17:03.34 ID:p/acHK3s0
>>457
お前天才だな
754 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:22:47.42 ID:4gmisUGG0
>>457
いかん町田かわいい

 

http://mousouteki.blog53.fc2.com/blog-entry-21146.html
ウクライナ情勢を簡単に説明するとこうなる 続・妄想日常

0.まとめブログ以降の2ちゃんねるについて

 ウクライナの話をする前に、まず、まとめブログ以降の2ちゃんねるについてお話します。ご覧のとおりクソです。このレベル意味不明な喩え話(?)が持ち上げられる程度には知的程度が下がっています。いま2ちゃんねるを見ているのは、多分こういった判断能力リテラシーを著しく欠いているもののその自覚が皆無の人間ばかりです。まあ、いちいち突っ込みだすとキリがないので割愛しますが、敢えていうなら、上で述べられるような地理的な要因だけでは現状みたいなことにはなっていないということです。地政学的であったり、民族的であったり、あと経済的であったり、様々な要因が複雑に絡み合っていますが、どれも捨象していいものではありません。まあ、Wikipediaクリミア半島歴史とか読めば、上の喩え話が何も喩えられていないのはすぐにわかる話です((更なる余談ですが、喩え話は、うまくハマるとかなり効果的です。でも実際には上で引用したみたいなクソ喩え話は世の中には山ほどあり、それでわかった気になっている不自由な人々が沢山いるので憂うべき状況でもあります。僕が知っている2ちゃんねるっていうのは、もうちょい頭のマシな人々がある意味真摯に物事を考えている場でした。いまそういう人がどこにいったかというと、多分Twitterで異常な感じのアカウント運営しています。))。


1.ウクライナ・クリミア・ロシア近代史概観

 まずクリミア半島ですが、昔から色んな人たちがここを奪ったり奪われたり殺したり殺されたりしているホットスポットです。バルカン半島もそうですし、朝鮮半島もおそらくそうでしょう。半島というのは何かと地政学的に荒れるポイントです。で、そのクリミア半島ロシアのものになったのは、1774年に集結する露土戦争においてです。これでオスマントルコからロシアクリミア・ハン国渡りました。で、後にクリミアがウクライナに譲られるまでの間に、クリミアへのロシア人の流入が進んだと思われます

 で、じゃあそのクリミア半島ウクライナの物になったのはいつかっていうと、1955年ソ連ウクライナにあげるっつってあげてからです。これが世界史の謎とやらなんですが、ソ連黒海艦隊基地を擁するクリミア半島をなんで簡単にウクライナにあげちゃったのか、ちょっと調べたのですけどよくわかりません。一応、第二次世界大戦勝利10周年を記念してとか、西側世界と接するウクライナの機嫌をおもねるためとか、フルシチョフウクライナ出身ウクライナ大好きだったからとか、色々ありますけど、たったそれだけの理由で手放すにはあまり重要ポイントです。一説によると、フルシチョフ馬鹿だったそうです。

 それから1991年ソ連崩壊したときに、クリミア半島は「クリミア自治共和国」を名乗り独立宣言しますが、その際にクリミア半島を取り戻したいソ連ロシアとしてはこの独立を一旦は支持することにしたところからも、やっぱり簡単にウクライナクリミア半島を譲ったことを後悔しているようです(まあ、それは現状を見ても明らかなんですが)((というのも、クリミアには近代ロシア栄光歴史みたいなのが詰まっているのです。露土戦争で勝ち取ったクリミアには、ロシア随一の保養地とされるヤルタがあり(ヤルタ会談ヤルタです)、クリミア戦争ではイギリスフランスオスマン帝国を、第二次世界大戦ではドイツイタリアをやっつけたセバストポリもあります。))。ただ、ロシアは一方でクリミア自治共和国の独立を支持しておきながら、他方で同時に独立の機運が高まっていたチェチェン共和国については徹底的に弾圧したので、そのダブスタっぷりを非難されます。結局、ロシアチェチェン独立を抑えこむほうを取りました。で、梯子を外されたクリミア自治共和国は、じゃあしゃあねえかっつってウクライナに合流することになったわけです。

2.反露ウクライナ正義なのか

 ウクライナ近代史とはほぼロシアとの戦いです。親露派を除いて、ウクライナ人はかなりロシアを嫌っているようです。ウクライナは、二月革命の頃には独立戦争を仕掛けていますが失敗、ソ連崩壊と共にようやく独立を果たしました。なお、ソ連時代にはホロドモール((食べるものがあんまり無いので人間死体を食べていたとかいう話もあります))と呼ばれる農業政策失敗による人工的大飢饉チェルノブイリ原発事故なんかも起こっています。そうやってアンチロシアイデオロギーとでも言うべきものが温められていく間に、反露=親欧のウクライナ人の中に極右しか形容できない人々が大量に発生してきていたのでした。彼らはネオナチなんかともつるんでるぐらい容赦無い感じの人々で、ウクライナにいるロシア人は全員殺すぞみたいな勢いまであるわけです。で、今回の親露派ヤヌコーヴィチ追放なんかもこの右翼たちの働きが大きい((このヤヌコーヴィチ関連もまたややこしい。彼は元から親露派だったわけではなく、最初EUに寄って行きました。ただ、国内汚職不正をまずどうにかしろEUに突き放されて、親露派になったという経緯もあります))。そうなってくると、クリミアを含むウクライナ全土にいるロシア系ウクライナ人やロシア人としてはたいへん怖いんですね。こういった人々を保護する名目ロシアはいま軍を送りこんでいるわけですが、その出兵というのはあながち荒唐無稽な話でもないわけです。

3.すべてのクリミア住民がクリミアのロシア併合を望んでいるのか

 というとそういうわけでもありません。特にクリミア・ハン国時代から住んでいるクリミア・タタール人という人々は嫌がっています。彼らはクリミア自治共和国と呼ばれる域内に25万人いるとされています露土戦争でのクリミア併合以来、相対的少数民族に押しやられたクリミア・タタール人は、そのあとスターリンによって赤軍に駆り出されたり、他方では二次大戦中の対独協力の嫌疑中央アジアに追放されたり、またそれから逃れるために山の中に移り住んだりと、とにかくハチャメチャな感じの扱いを受けてきたので、ロシアに良い感情を持ちづらいのも当然だと思います

4.欧米はどんな感じか

 なんか欧米ウクライナを一旦見捨てたからこうなったんだみたいな話もちらほら聞きますけど、普通に考えてネオナチが閣僚にいる国となんかとはつるみたくない((一応いっとくと、欧米特にヨーロッパとしては、二次大戦までの反ユダヤ主義っていうのはドイツだけの問題じゃなくて、ヨーロッパ全体の問題として共有されています。))。しかヨーロッパにはロシアエネルギー依存してる国も多いこともありますし、敢えてウクライナを助けてやる理由をこうなってしまう以前には見つけられなかったのは、割と致し方ないと思いますアメリカではオバマロシアを非難してるけど、ユダヤ系の多いアメリカ本国ではネオナチの国を支持するつもりなのか、みたいなバッシングがあるという話も聞きます


5.まとめっぽいの & 僕はこう思ったッス

 「民族主義者 VS ロシア人」というとにかく黒海真紅に染まるほど血が流れまくりそうな対立軸があそこにはあるわけです。間違っても東京町田神奈川かいう喩えで捉えられるレベルの話じゃありません。みなさんは喩え話なんかなくても状況を自ら整理できるようになりましょう。

2013-10-02

1955年

21世紀人類無線電話につながった手のひらに置けるサイズの個人用電子計算機を持ち歩くようになるだろう」

「素晴らしい!資本主義が打倒されたら人間はそこまで豊かになるのか!」

2013-05-11

http://anond.hatelabo.jp/20130509232944

ソ連北方領土返還交渉をしていたのはサンフランシスコ講和条約締結(1951)後の1955年から

連合国占領下でも「統治権」は日本政府にあったというのが一般的な認識

アメリカから「国後択捉を放棄するな」と強く言われた話は「ダレス恫喝」として今でこそ知られるようになったが、公式には明らかにされていない。


…まあ、自民党の古い方々にとっては当然の前提なのだろうけれども、たとえば内田樹とかが「日本アメリカ植民地だ」と言うのと、元総理が「冷戦下の日本の統治権はアメリカにあったからね-」と言うのとでは、全然重みも意味合いも違うよね。

2013-02-19

http://anond.hatelabo.jp/20130219095324

1955年から続いた「55年体制」と呼ばれる事実上二大政党制を数十年続けて、自民党はともかくもう片方はどうなったか知ってる?

2012-12-25

サンタクロース 今そこにある驚異。その脅威から世界を守るには

今日クリスマスだ。増田の諸君。メリークリスマス。楽しんでるかい

ただそんな諸君に悲しいお知らせをしなければならない。それは標題の通り。サンタクロース世界平和と安定と秩序を脅かす重大なる脅威であると言うことだ。おそらく今、世界が滅びるとしたら、それはサンタクロースが原因になり得ると言う事実である

今日は年に一度のサンタクロースの活動が活発化する日である。こんな日に、サンタクロースの脅威から世界を守るにはどうしたらいいかを考えてみたいと思う。

サンタクロース世界でたった一人の脅威

サンタクロースは一晩で全世界を駆け巡る。

これには様々な意見がある。サンタクロースは1人ではなく多数だという意見がまず大多数を占める。一番多い説は、サンタクロースは我らの親であると言う説だがこれはナンセンスだ。なぜならば我らの親、あるいはそれに近しい人々がそんな禍々しい存在であるはずが無いかである

その証拠に、日本公共放送たる日本放送協会NHK)が以下の様な記事を出している。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121224/k10014390971000.html

以下に一部引用させてもらう。

大きな袋を抱えたサンタクロース北欧フィンランドを出発しました。
(中略)
世界中を駆け巡ることになっているということで、地元テレビ局は、サンタクロースクリスマスの朝までに移動する総距離は地球1万周余りに当たる4億6000万キロに達する

Webニュースでは静止画だが、テレビ放映では動画付きで伝えている。これが何よりも証拠だ。

なによりサンタクロースを擁する……いや、違うな。世界の脅威たるサンタクロースを抑える事を世界中から押しつけられているフィンランドでこのように報道していることが、一人のサンタクロースが、4万6千万キロもの距離を渡り世界中を巡るという事を示している。(実はそれでもまだサンタクロースは複数人いると言う可能性が否定はできない。しかし許して欲しい。私も人間なのだ。こんな脅威のバランスブレイカーが何人も存在するなどという事は考えたくはないため、本文ではそうさせてもらった)

4億6千万キロ…。単位が大きすぎて理解できない?

ではこう言い直そう。この数字は、約3天文単位。1天文単位は、地球太陽の距離である…。

サンタクロース、その脅威のポテンシャル

4億6千万キロメートル24時間…。単純に計算してみると、その平均速度は53,240,740.7m/secである。時速に直すと、191,666,667km/h。つまり1時間に191万kmを駆け抜ける速度である

人類が作り出した、あるいは、地球生命体が作り出した物体と比較してみよう。

物体速度備考
人類最速のウサイン・ボルト氏の瞬間最大44kmhttp://usainbolt.com/
地上最速の動物,チーターの瞬間最大100km/hhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
世界最速ジェット推進自動車(瞬間最大)1,229km/hhttp://www.thrustssc.com/
最強の戦闘機と言われるF-22 ラプター 最大速度2,450km/h
世界最速の航空機X-43A11,200km/hhttp://www.nasa.gov/missions/research/x43-main.html
人類が体験した最速,アポロ宇宙船瞬間最大速度38,000km/h
人類が生み出した最速の物体、ボイジャー1号61,416km/h
サンタクロース191,667km/h(他は全て最大速度だが、これだけ平均速度)

桁が違う事が分かるだろう。さらサンタクロースの速度は平均値であり一番最小で見積もった値に過ぎない。実際はもっと早い速度で移動していると思われている。人類が長い時間をかけ到達し、知り得る最も遠い場所を飛んでいるボイジャー1号の場所ですら、彼は一週間もあれば楽に往復することができるのだ。

さらに、彼は、隠密行動を常としている。

彼の活動が観測できる様になったのは、北アメリカ航空宇宙防衛司令部が総力を挙げて観測しはじめてからだ。しかしそれでも、その巨大な観測網で荒く観測することがやっとであり、未だに彼の姿を目撃したという確かな証言は少ない。

さら未確認情報であるが、彼は腰につけた鍵でどのような防衛システムすら無効化する能力を持っていると言う。これはサンタクロース煙突のない家にはどうやって入るのか、と言う子供の無邪気な……そして、真実を知らない残酷な……質問に対する答えとして語られる事だが、これは大変な脅威…いや…その速度と、今まで誰にも見つかってないと言う事実を勘案するに、この程度は驚くに値しないのかも知れない。

世界が想定するサンタクロース脅威論

そんなの妄想だって

いやいや、そんなことはない。これはアメリカ政府認識しているし、おそらく間接的にだが世界中の国々は多かれ少なかれその脅威を意識しているはずだ。

これは北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)が、この時期になると躍起になって、その世界的に張り巡らされた対空、対宇宙監視網、DSP衛星や、弾道ミサイル早期警戒システムさら宇宙軍とも言える空軍宇宙防衛軍団等を駆使し…もっと言えば、NATOや、日本韓国台湾などの同盟国とも接続している巨大な情報網を駆使してまで、間接、直接にせよその年間数千億ドルもの金をつぎ込んで維持しているシステムをフル稼働させてまで追跡していることが示している。

さらに言えば、彼らの観測網はどうしても旧東側諸国共産圏では弱い。しかし、この観測網ではそれらの国々ですら鮮明な情報がとれている。これ旧東側諸国の軍も全面的に協力しているという証拠では無いだろうか?

今の世界ならば、それほど驚くに値しないかも知れない。しかし、NORADが…いや、その前進で、東西冷戦最中、核が積まれた大陸間弾道弾の発射を察知し、即座に反撃することを目的としたCONAD、中央防衛航空軍基地が、1955年……この年はNATOに対抗し、ワルシャワ条約機構が締結された年だ……から続いている。一触即発であったその時代からすでに、NORADが行うサンタクロース追跡に対し、東側諸国も協力を惜しんでいなかったことになるのである!(いや、その開始時期を考えると、CONADの設立目的東西冷戦等と言う事は単な表向きの言い訳に過ぎず、実態は世界中が協力してサンタクロースの追跡技術確立するために作られた組織だったのでは無いかと言う疑いすらある。しかし、これはいくらなんでも陰謀論が過ぎるだろうとは思うのでここでは採用しない。)

もし万が一、サンタクロースが鞭の代わりに機関銃を手に取ったらどうなるか。
 もし万が一、サンタクロースプレゼントの詰まった袋の代わりに、BC兵器核弾頭水爆を積んだらどうなるか。
 いやそこまでいかなくとも、彼はその隠密能力から情報操作し自らと知られること無く歴史操作することも可能名のでは無いか、いや、知られていないだけで既にそれは行われているのでは無いか

故にこれは増田妄想では無い。世界が感じている、今そこにある驚異なのだ
 そして残念ながら、我々は、奴に対抗する手段を今だ持つ事ができない。

身近なサンタクロース対策

話が大きくなりすぎた。
 では身近な話をしよう。

キリスト教国ではない我が日本であっても、サンタクロースからプレゼントが枕元に届いたら、両親などから「早くあけて中身を確認するように」と促された経験はだれしもあるのではないか

これは実は世界中の国々がその諜報能力のすべて……日本だと国家よりも広告代理店の諜報能力の方が高いので主に広告代理店担当しているが……をつぎ込んで行っている防止策である

まりは、プレゼントの中身が無害なものであるかどうかの確認を急げと言うことだ。

万が中身が一見して無害なものであっても、一黒い粉…炭疽菌はこのような姿である……や、銀色の粉……パレスチナ解放機構ヤセル・アラファト氏の暗殺に用いられた可能性の高い放射性物質ポロニウムはこのような姿である……を発見したら、まずは近づいてはならない。

(ただ実際には子供向けのものにはこれらが含まれる可能性はありえないであろうというのが私の持論だ。理由は後記)

サンタクロースの脅威から世界を守るために 我々ができること

我々はこのような脅威、サンタクロースに対抗する手段が無いとは先に述べた。では、もはや我らに残された手段は無いのか?否、そんなことはない。一つ手段がある。

それは

子供達をしあわせにすること」

である。これは別にシャレで言っているわけではない。根拠もきちんとある

子供幸せにするとサンタクロースの脅威は去る。それはサンタクロース小児性愛者(ペドフィリア)だから

彼はすでに世界を生かすも、殺すも、滅ぼすも、そして世界をこの手の中にいれることも簡単に行えるだけの力を持っている。

しかしなぜかれはそれを行わないか。その脅威の力をプレゼントを配って回るなどと言う事に使っているのか。

ここで一つの仮説を立てたいと思う。それは、彼が小児性愛者(ペドフィリア)であるからではないか

先ほども引用したNHK報道にも以下の様にある。

子どもをかたどった雪像を見つけると、そりを止めてうれしそうに眺めていました。

これから世界中を回らねばならぬというのに、わざわざそりをとめて眺める…。これは明らかにそちらの趣味がある事をしめしている。また彼のストライクゾーンは、3歳から14歳程度であると考えられる。またその年齢に達して無くとも、早熟の子の所にはやってこなくなる。それより大きくなってくると彼はプレゼントを置いたりしなくなるからだ。そして、民間伝承には以下の様な事がまことしやかに言われている。

「良い子でいなければ、サンタさん来てくれないよ」

そう。サンタクロースは、自らの好みの子供がいるから、そこにやってくるのである

以上からサンタクロース小児性愛であることは明白である。そして、彼が世界を滅ぼさない事、それは世界中の子供が、良い子であるからではないか

自らの寵愛するものを滅ぼそうと思わないのは、非常に人間に近い思考をしていると考えられているサンタクロースでも同じである

まり子供達が、良い子であって常に笑顔を忘れなければ、そして大人が子供が常に子供達が笑顔でいられる、幸せでいられる環境を作り上げていさえいれば、彼は世界を滅ぼそうとは思わないのでは無いか

これは世界中政府が、これだけの脅威であるサンタクロースを、軍事的にすさまじい脅威であり、世界平和を脅かす存在であると言う事を公表しないまま、あくまでも善良なる存在として広報し、子供達に彼を慕うように仕向けていることからも感じ取ることができる。

結論

これらを守らなければ、その鮮血のような色の衣服を翻し、白いひげが血に染まることもいとわず、奴は我々の世界を滅ぼしにやってくるだろう。

人類は今こそ、一致団結してサンタクロース対策を行わなければならない。

2012-01-03

訳してみた。

http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded

1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。

1912年4月14日 タイタニック号沈没

1913年 フォード、流れ作業方式を導入

1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発

1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用

1916年2月16日1916年12月20日 ベルダンの戦い

1917年11月7日 ロシアで10月革命

1918年11月11日 第一次世界大戦終結

1918年11月9日 ヴァイマル共和制の樹立を宣言

1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点

1920年12月16日 寧夏、海原地震

1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞

1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニローマ進軍

1923年 ドイツでハイパーインフレ

1924年1月21日 レーニン死去

1925年1月~2月 ノーム犬ぞりバルト)疾走

1926年 アル・カポネが権力の頂点に

1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行

1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)

1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日

1930年3月12日 ガンジー、「塩の行進」

1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップウルグアイにて)

1931年5月1日 エンパイアーステートビル開業

1932年 ワイマール共和国崩壊

1933年1月30日 ヒトラー内閣発足

1934年10月27日 毛沢東の長征

1935年9月15日 ニュルンベルグ法制定

1936年6月~1936年4月 スペイン内戦

1937年5月6日 ヒンデンブルク号爆発事故

1938年3月12日 オーストリア併合

1939年9月1日 第二次世界大戦勃発

1940年6月14日 パリ占領

1940年 ヒトラー権力の頂点へ

1941年6月22日 ドイツ、ソ連へ侵攻

1941年12月7日 真珠湾攻撃

1942年9月13日1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い

1943年2月13日 「全面戦争するか?」演説

1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦オペレーションオーバーロード)決行

1945年5月8日 第二次大戦ヨーロッパでの戦い終結

1945年8月6日 広島に原爆投下 同9日 長崎に原爆投下

1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判

1947年8月15日 インド独立

1948年6月24日~1949年5月12日 ベルリン封鎖

1949年10月1日 毛沢東、中華人民共和国の樹立宣言

1950年6月25日1953年7月27日 朝鮮戦争

1951年 朝鮮の人口?

1952年10月31日 初めて水素爆弾が炸裂

1953年6月17日 東ベルリン暴動

1954年6月4日 西ドイツワールドカップ西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」

1955年5月14日 ワルシャワ条約制定

1956年10月29日1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争

1957年10月4日 スプートニク・ショック

1958年10月19日 中国で大飢饉の始まり

1959年1月1日 キューバ革命の勝利

1960年 モハメド・アリ ローマ金メダル

1961年8月13日 ベルリンの壁構築

1961年10月27日 チェックポイントチャーリーでの対峙(ベルリン危機)

1962年10月14日~28日 キューバ危機

1963年6月26日 「私はベルリン市民である」演説

1963年11月22日 J・F・ケネディ暗殺

1964年8月2~4日 ベトナムアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)

1965年 ベトナム戦争拡大 地上戦力投入

1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争

1968年1月30日9月23日 テト攻勢

1969年7月20日 初めて月に着陸

1970年4月 カンボジア侵攻

1970年4月29日 ワルシャワ礼拝?

1971年10月14日 グリーンピース設立

1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件

1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争

1974年8月8日 ウォーターゲート事件

1975年4月30日 ベトナム戦争終結

1975年4月17日 クメール・ルージュ プノンペン制圧

1976年6月16日 ソヴェト蜂起

1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故

1978年10月16日 法王パウロ二世 パウロ一世を嗣ぐ

1979年9月8日 「暗黒の金曜日」 イスラム革命頂点

1980年5月18日 セント・ヘレンズ山噴火

1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発

1982年4月2日6月20日 フォークランド紛争

1983年4月18日 アメリカ大使館爆破事件(ベイルート

1984年12月3日 ボパール化学工場事故(インド

1985年3月11日 ミハエルゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任

1986年1月28日 チャレンジャー事故

1986年4月26日 チェルノブイリ事故

1987年6月12日 「この壁を壊せ!」演説

1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)

1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

1990年10月3日 東西ドイツ統一

1990年8月2日1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争

1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

1993年10月3~4日 モガディシュの戦闘

1994年4月6日7月15日 ルワンダ虐殺

1995年4月19日 オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件

1996年1月21日 フランス、最後の核実験

1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸

1998年8月 モニカ・ルインスキー 不倫スキャンダル

1999年5月3日~6日 オクラホマ州で竜巻被害

2000年1月1日 ミレニアム

2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件

2002年1月1日 ヨーロッパユーロ発行

2003年3月20日 イラク戦争勃発

2004年12月26日 インド洋大地震と津波

2005年8月29日 ハリケーンカトリーナ ニューオリンズを破壊

2006年6月12日8月14日 レバノン侵攻

2007年6月 ヨーロッパ熱波

2008年10月 金融危機

2009年1月20日 バラク・オバマ大統領就任

2010年1月12日 ハイチ大地震

2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故

2011年 アラブの春

2011年3月11日 東日本大震災と津波

2011年3月 福島第一原発事故

2012 ?

10分どころか、6時間くらいかかったorz

それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。

(調べてみたら、どちらもM7クラス

2011-04-23

引退政治家に最適な場所

過激な発言とは思うけど、原爆病院で「病は気から」発言をされた中曽根首相には、住民が避難した先月12日以降、半径20キロ圏内でとり残された家畜の世話などをしつつ晴耕雨読の生活を送って頂きたかったな、とか思います。静かな環境いいんじゃない?尋ねてくる人は原発推進していた人達だろうし。

 

 

 

 

追記

http://anond.hatelabo.jp/20110423182246

原子力基本法の成立は1955年

中曽根康弘代議士が「原発が免責になるのは関東大震災の3倍規模の天災」と答えたのが60年。

東海村実験炉が出来たのが63年。

福島第一原発着工が67年。

オイルショックは74年。

太陽光発電における固定価格買い取り制度の開始は他の先進国よりかなり遅かった。

2010-04-30

老化するテレビ

どう見てもこの3人がテレビで若い恋愛を語るのは無理があります。

本当にありがとうございました

2010-01-31

朝鮮進駐軍

朝鮮進駐軍Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー

http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D

概要

一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人韓国人)、もしくは現在日本帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後日本ポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物不法占拠鉄道飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民朝鮮進駐軍犠牲となり殺害されたとされている。

朝鮮進駐軍による朝鮮人犯罪及びテロ行為について

服装・武器及び組織について

戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍パイロット軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日朝鮮人連盟。更にこれが在日大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在民団朝鮮総連となる。

時代背景

当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感犯罪者といったイメージ日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。

朝鮮人による犯罪

朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎大阪神戸都心等当時朝鮮人比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。

市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。

略奪・窃盗密売土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地建物の収奪も相次いだ。

1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。

第八軍司令官ロバートアイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。

主な事件一覧

朝鮮進駐軍及びその後の在日朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。

阿仁村事件(1945年10月22日

生田警察署襲撃事件(1945年12月24日1946年1月9日

直江津リンチ殺人事件(1945年12月29日

富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日

長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日

富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日

坂町事件(1946年9月22日

新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)

首相官邸デモ事件(1946年12月20日

尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日

阪神教育事件(1948年4月23日~25日)

評定河原事件(1948年10月11日~12日)

宇部事件(1948年12月9日

益田事件(1949年1月25日

枝川事件(1949年4月6~13日)

高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)

本郷村事件(1949年6月2日~11日)

下関事件(1949年8月20日

台東会館事件(1950年3月20日

連島町事件(1950年8月15日

第二神戸事件(1950年11月20~27日)

四日市事件(1951年1月23日

王子事件(1951年3月7日

神奈川事件(1951年6月13日

下里村役場事件(1951年10月22日

福岡事件(1951年11月21日

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日

半田一宮事件(1951年12月3日~11日)

軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日

日野事件(1951年12月18日

木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)

姫路事件(1952年2月28日

八坂神社事件(1952年3月1日

宇治事件(1952年3月13日

多奈川町事件(1952年3月26日~30日)

田川事件(1952年4月19日

岡山事件(1952年4月24日5月30日

血のメーデー事件(1952年5月1日

上郡事件(1952年5月8日

大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)

広島地裁事件(1952年5月13日

高田派出所襲撃事件(1952年5月26日

奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日

万来町事件(1952年5月31日6月5日

島津三条工場事件(1952年6月10日

醒ヶ井村事件(1952年6月13日

葺合*長田事件(1952年6月24日

吹田*枚方事件(1952年6月24日~25日)

新宿駅事件(1952年6月25日

大須事件(1952年7月7日

舞鶴事件(1952年7月8日

五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)

参考文献

法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年

横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田枚方事件について』1954年

篠崎平治『在日朝鮮人運動1955年

大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年

新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年

名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年

瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年

山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年

宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年

大阪府警察編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年

警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年

兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年

愛知県警察編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年

青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年

坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年

警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年

思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年

仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年

長崎県警察編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年

李瑜煥『日本の中の三十八度線民団・朝総連歴史現実―』1980年

福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年

山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1980年

警察文化協会編『戦後事件史』1982年

日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年

講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年

朴慶植解放在日朝鮮人運動史』1989年

百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年

金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年

荒敬『日本占領研究序説』1994年

百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年

竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年

秋田魁新報1945年

神奈川新聞1951年

西日本新聞1951年

『中部日本新聞1951年1952年

大阪新聞1952年

京都新聞1952年

神戸新聞1952年

山陽新聞1952年

中国新聞1952年

コピー終わり。

2010-01-15

またもν速大勝利、スネーク小沢マンション中国人女子留学生入れ替わり制を突き止める。朱朱季季

ttp://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1263475685/651

651 : 硯(西日本):2010/01/15(金) 05:59:20.52 ID:bUC2ikHi

295:名無しさん:2010/01/11(月) 08:54:02

何で王将マンセー番組が増えているのかと思ったら、

民主京セラ-稲盛ラインの親族が関係していたんだね。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%9B%9B%E5%92%8C%E5%A4%AB

稲盛和夫

来歴・人物 [編集]

鹿児島県生まれ鹿児島市鹿児島玉龍高等学校を経て、1955年鹿児島大学工学部卒業、がいしメーカー

松風(しょうふう)工業を経て、1959年社員8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、10年後、株式上場

ファインセラミックスの技術世界的な企業に成長させた。1984年には第二電電DDI、現・KDDI)を設立した。

グループ全体で売上高が1兆2000億円と成長を遂げた。1984年財団法人稲盛財団を設立し、京都賞

創設した。また、若手経営者向けの経営塾「盛和塾」を非営利にて主宰し、若手経営者の育成も行っている。

独特な経営管理手法「アメーバ経営」が有名である。1997年には臨済宗妙心寺派円福寺で得度を受けた。

また民主党幹事長小沢一郎と旧知の仲であり、大企業実業家ながらも熱心な民主党支持者として

知られている。とりわけ京都市地盤とする前原誠司の有力な後援者である。小沢一郎2008年9月21日

民主党代表として再選された際には来賓として挨拶も行っている。 2005年立命館小学校こども顧

問委員に就任。母校の鹿児島大学に寄附し、稲盛会館を寄贈した他、稲盛アカデミーへの援助を行なうなど、

鹿児島大学研究教育支援の為に積極的に貢献している。

親族 [編集]

朝子夫人は、「韓国農業の父」として知られる禹長春の四女である。 実弟の稲盛実氏は、鹿児島県

餃子の王将」の名で展開する鹿児島王将株式会社常務取締役である、1973年京都王将社長

掛け合って鹿児島に、王将店舗を運営することが出来た。

2009-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20090316222610

横だけど戦前のことは「岩波講座 世界歴史19 移動と移民 水野直樹・他 1999年 岩波書店」に

「1930 年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。」

戦後のことは

朝日新聞 1955年8月18日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)

65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという。

朝日新聞 1959年6月16日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)

密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ。

朝日新聞 天声人語 1959年12月15日

韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる。

コリアン世界の旅」 野村進 1996 講談社

「逃げ場は日本しかなかった。命がけの選択の結果が日本への密航だった。彼ら密航者たちは『潜水艦組』と称され、近年の中国からの不法入国船と同様の小舟や漁船で、着の身着のまま日本に辿りついている。『潜水艦組の1人』という50代のある男性は、日本人の『常識』とは逆のことを私に告げた。

済州島(出身者)だけじゃなく、在日の半分以上は、密航で来たんだと思うんですよ』」

在日韓国朝鮮人 -若者からみた意見と思いと考え-」 金容権・李宗良編 1985年 三一書房

日帝時代の生活苦という鬼神が解放後なお跋扈済州島人間をして「金儲け(トンボリ)」するべく日本にかりたてている。たいがいは大阪市(とりわけ生野区)を中心に偏在する縁故を頼っての密入国だ。」

↑この辺に書いてあるみたいよ。図書館へゴー。

2009-02-16

anond:20090216222026

高度成長期ってwikipedia見ると「1955年から1973年まで」って書いてる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7%E6%9C%9F

 

この時代を支えてた人ってどう考えても現在60歳以上の人たち。

当時って平気で兄弟5人以上いるじゃん。

長男が田畑屋敷を継いで、次男以下は外で働いて自分の家を作る時代。

そりゃー福祉なんて全く考えねーな。

 

福祉が重い負担になったのなんてつい最近じゃん。

産業の担い手の人数とインフレバブルに支えられてきたがもう現況で厳しい。

 

さっさと消費が活発になるようにしようぜ。

 

相続税70%で消費税無し。

延べ床200㎡以下の住宅相続税対象外。

これでいーじゃん。

田舎住宅建築ラッシュ始まるよ。

2009-02-10

ちょっとテレビ人の年齢を調べてみた

ちょっとテレビ人の年齢を調べてみた

こりゃつまらなくなるわけだ・・・

2008-11-28

もしかして「人を動かす」って著作権切れ?

前文の奥さんの文章に「1955年に亡くなってから…」って。

翻訳はよくわかんないけど原文は。

2008-09-02

公明党創価学会基礎知識2008

日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。

1ページ目 【創価学会の成立と発展】

創価学会の成立と迫害

創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。

しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在日蓮正宗創価学会関係はありません)。

そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。

戦時中宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神指導者として処刑されてしまうわけです。

いずれにせよ、政治実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。

このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。

創価学会の発展

戦後民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会ナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。

戸田は敗戦後学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。

折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世折伏」を実行するよう呼び掛けます。

とほうもないように見えた計画でしたが、戸田1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。

強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本人口構造の転換に求めることができます。

農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。

そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。

学会の国政進出はじまる

こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長戸田はまず1955年統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。

これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。

2ページ目 【公明党の結党と田中派への接近】

社会的地位向上を狙った国政進出?

1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。

折しも創価学会は特に左翼革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会学会員社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。

いろいろ言われているように、戸田国立戒壇、要するに僧侶日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。

公明党誕生池田会長の就任

しかし戸田学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。

この間、会長池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。

この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さ頭角を現わすことになったのです。池田会長就任は実に32歳の時です。

そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。

こうして創価学会公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。

言論弾圧事件」と自民への接近

公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。

しかし1969年公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。

このとき活躍したのが、当時自民党幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。

自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。

さて、田中角栄は地方への「利益誘導政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。

もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派公明党学会関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。

また1972年には、竹入義勝・公明党委員長首相となった田中の依頼を受けて訪中田中訪中日中国交正常化の地ならしを行っています。

学会公明党の「政教分離

さて、「事件」でバッシングされた公明党創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙議席を半数近くまで落とします。

もちろん公明党創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。

また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。

学会共産党支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中ファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家松本清張で、彼は池田宮本顕治共産党委員長を引き合わせ、この学会共産党の「同盟」を実現させたのでした。

もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党学会なしには存在し得なかったからかもしれません。

また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。

結局、これで公明党イメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。

結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党顧問弁護士宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。

3ページ目 【自公連立への道と創価学会

公明党与党

新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。

1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。

1992 年、公明党民社党社会党議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。

また1980年代から地方議会でも公明党都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。

公明党与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄逮捕される国会議員も出てしまったといえます。

もっともこの不祥事には創価学会学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党国会勢力は1989年参院選では前回比1議席減、1990年衆院選では11議席減となっています。

公明党の連立参加と「新進党参加」

1993 年、総選挙自民党過半数割れすると、公明党は非自民・非共産連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。

その後、公明党小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員参議院議員1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。

結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。

その後、旧公明党衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在公明党誕生することになります。

公明党誕生自公連立

新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。

こうして小渕内閣(小渕首相田中派を源流)のとき、公明党自民党と本格的に連携地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上自公連立政権スタートすることになります。

そんななかで小泉政権が発足。公明党小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。

しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。

また先のページで述べた「地方:自民都心公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。

これからの創価学会公明党

微妙になりはじめた自公連立公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。

この間、創価学会会長だった池田1979年日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在会長原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌新聞などをみても明らかです。

政教分離」をした今、創価学会公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員公明党公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。

ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会壮年部長読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。

公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会公明党なしでもやっていけるが、公明党創価学会なしにはやっていけないわけですから。

さて2008年池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。

いずれにせよ現在創価学会組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。

人名について一部敬称略とさせていただきました。

参考書籍サイト

SOKAnet:創価学会公式ホームページ http://www.sokanet.jp/sg/sn/index.html

2008-07-09

統計に見る日本結婚出産と、そして未来

最近は「統計局ホームページ/日本の統計」なんてのがありまして本当に便利な世の中になったものです。

タイトルの「日本統計」の通り、この中には日本のこれまでと現状、そして未来があります。

そんな中で、今増田でも話題の結婚出産について調べてみます。

といっても資料は「2-17 出生・死亡数と婚姻離婚件数」そのものなのですが。

この統計1955年から2006年までの52年間で、婚姻件数と出生数のピークは、それぞれ、72年の110万件と73年の209万人となる。これが第二次ベビーブームである。

この第二次ベビーブームを頂点に婚姻件数、出生数ともに急激に減少し、78年には婚姻件数79万件、83年には出生数151万人となる。

婚姻件数はその後、87年に70万件を僅かに切り、この50年で過去最低となるも、その後は持ち直し、01年の80万件など、過去30年間は70万件台で推移している。

これは、成長した第二次ベビーの影響であるが、ピークの頭はなく、後ろにならされた形となった。所謂、晩婚化である。

一方、出産数は87年の135万人の後も徐々に減り続け、92年に121万人まで減少する。所謂、DINKSの増加である。

その後、小康状態が続くが、出生数は第二次ベビーたちが30代となった00年頃から再び減少し始める。

ここで、世代別人口の推移について、「2-4 年齢各歳別人口」を基に考えてみる。本来は各年の年齢各歳別人口等を用いるべきだが、現在の年齢構成から、20代と30代の人口を推測する。

ここから見えてくるのが、この40年ほど、各歳あたり平均170万人前後で意外に安定していた事である。

しかし、これから先、20代30代は減少の一途であり、20年後には各歳あたり平均120万人まで落ち込む事が決定している。

「2-19 母の年齢階級別出生数と出生率」を見ても明らかな通り、出産のほとんどは20代から30代であり、子育ての主力である。

しかし、この数十年、婚姻件数は75万件前後、すなわち150万人程であり、年あたり約20万人前後が未婚のままである事がわかる。また、出生数と比べると、人口維持には年あたり50万人程足りない事がわかる。

そして、今後、出生率が大幅に増加しない限り、出生数の増加は見込めず、そして、それはさらに20年30年先の出世数の低下を意味する。

このように、少子化は20年前、バブルとともに増加したDINKSではじまり、失われた10年の晩婚化で確定した。これらの経済活動と少子化との関連は不明だが、もしかすると少子化バブル経済の申し子かもしれない。

もう、この子の成長を止める事はできないのだろうか。

2008-05-06

http://anond.hatelabo.jp/20080506132658

93年の政権交代は実質的には自民衛星政党だった日本新党やさきがけを首相椅子と引き替えに取り込んで無理矢理過半数にしたから、どっちかっつーと自民の内紛なんだよな。

自民共産以外はほぼすべて参加してる連立政権自民の内紛とみなすのは強引過ぎでしょ。

たった半年でコケたし、国民が選択したというものではないし、極めて例外的なケースだと思うよ。

自民過半数割れは明らかに国民の選択選挙の結果が国民洗濯じゃないならほかの国の世間交代だって国民の選択じゃなくなるでしょ。しかもその後はずっと連立政権が続いてるわけでこのときにすでに一党制的なのは終わったも同然。

公明党は創○の教義から「与党」の称号と引き替えに票を提供しているだけで、実質的には自民が全部仕切ってるわけだし。

自社さ政権でも自公政権でも自民単独ならやりそうもない政策してるわけで自民が仕切れてるとも思えないけど。それにもともとの自民党自体が政策的に幅のある政党55年体制のころから野党の主張も取り入れて政権維持してた。それをリーダーシップが足りないだの密室談合だと批判する独裁を待望してるかのようなへんな批判がされてたのが問題だったわけだけど。

独裁国でもガス抜き用に形式的な「野党」を作ったりするし、厳密な言葉として一党独裁ではないけど、そこはあまり本質的ではないかな。

欧米辺りから見たら細かいこと抜きで身も蓋もなく「自民が50年以上独裁している」って表現されて終わりだよ。

自民党ができたのが1955年だし、今より高い投票率選挙で勝ち続けてたわけで50年以上独裁とか言ってるのはただの無知。そういうのを相手にしても仕方がない。欧米は自分らに都合の悪い政権だと民主的でないとかけちつけるのはよくあること。

ただ、何だかんだで公共部門が大きく政権交代がほぼ無いために政府=自民政権であるこの国では、企業自民支持を打ち出さないと「死ぬ」ことになる。

日本の税負担率は先進国トップクラスの低さが続いてるし、人口当たり公務員数もトップクラスの少なさ。日本の公共部門が大きいというのは幻想。それに有力野党労働組合宗教ぐらいしかなかったわけで財界自民を支持し続けたのは自然なこととおもう。

公共部門の利権によって自民への投票事実上強制出来て、政権を握り続けることによって再生産的にその利権を安定化出来る、というのは基本的な図。

結局庶民もその体制で利益を得てきたからこそ政権を任せ続けたわけだ。

これはそうでもないよ。安定度で言えばずば抜けてるのは公明党だけど、民主は全然安定してない。自民が得票「不安定」なのは公明との選挙協力のせいだろう。

それは違う。公明との選挙協力がない比例区の票見ると自由党合併して以降の民主党は二千数百万でかなり安定してるし、逆に自民党は一千万票も増減してる。

地方の人は1票が重いから自民的にはつぎ込んでも元が取れちゃう。

地方は個別の財政的にも死んでるとこがほとんどだから、自民に反旗翻したら即夕張っちゃうので中々逆らえない。

その地方で民主が勝ったから今のねじれ国会があるわけだけど有張りみたいにされてるわけじゃない。

小泉が一旦全ておシャカにしないと後が続かないほど日本を酷い状態にしたのは、それまでの無責任自民への白紙委任であることも間違いない。

そもそも盤をひっくり返す必要すらなかったと思う。おそらく多くの国民55年体制が今でも続いてるほうが幸福だっただろう。失業率なり成長率見れば政界再編とか構造改革とかをやり始めた連立時代から日本はだめになっていったのは明らか。にもかかわらずなぜか自民単独政権続けたからだめになったというのが不思議。お釈迦にする必要もないのにそうしないと後が続かないと思い込んで酷い状況にしただけじゃないかと。

2007-12-25

成果主義によって救われるかと期待したのに…

「機能しない成果主義高卒技術者の失望」では、学歴主義の壁に苦しむ高卒技術者島田潔氏(仮名)の現状を紹介した。彼の職場は、学歴にかかわらず高卒大学院卒者も、実質的に同じ内容の仕事キャリアを始めるホワイトカラー職場だ。けれども昇進を決めるのは学歴主義に依った評価である。大学院卒の後輩が3年後には彼の上司となる現実がある。

「確かに大学院卒の人には、理論立てて物事を考える力はあるかな、と思う。けれどもそれが直接現場で役立つ場面は少ないし、社会人経験6年間の差に値するとは自分には思えないです」。インタビュー島田氏はこう話していた。

大学大学院で身につける「物の考え方」は業務遂行の上で役に立つ。それを業績の一つとして評価する考え方が学歴主義だ。多くの日本企業はこの考えに則って人材を採用している。

ただし問題は、人事評価においてつける差の大きさが「妥当」であるかどうか。元財閥メーカー勤務、K.K.氏が寄せた読者コメントでは、企業内部の非妥当性が生々しく明らかにされている。

「実力で部長職までいった製造部長が、大学を出ていないというただその一点で役員にはなれない。部下の査定の際も、よっぽどばかな大卒でないかぎり高卒と成績を逆転してはならない。製造現場にもかかわらず、高卒によい評価をつけないために、英語の検定試験結果やプレゼン能力査定に入れたり。管理職をやっている本人が自己嫌悪に陥るような暗黙の了解が多々ありました」。

厳然と残る賃金格差

学歴主義は古くて新しい問題だ。身分や世襲を基にした社会では、親の職業からいやでも離れられなかった。けれども学歴の取得は、制度上はだれにでもチャンスが開かれている。学歴主義が評価されるのは、その民主的な側面に目を向けた場合である。

いっぽう、マクロな視点で戦後の数十年を眺めれば、別の構図が浮上する。学歴の取得には父親の職業が影響するという調査結果(例えば農家の子息より企業管理職の子息の方が大卒である率が高い)からは、学歴取得は制度上平等でも、社会現実はそう動いていないと分かる。そして就職後は学歴による明らかな賃金格差が待っている。

社会学者1955年から10年ごとに調査している「社会階層と社会移動全国調査」のデータを見ると、1995年における50代大卒男性高卒男性の平均年収の格差は約1.5倍。中卒男性との差は2.1倍だ(「社会階層 豊かさの中の不平等」(原純輔・盛山和夫著、東京大学出版会1999年刊)。

就く仕事にも格差がある。大きく分ければ大卒男子企業総合職高卒男子は製造現場登場人物島田氏のような、高卒男子ホワイトカラー職への就職もなくはない。しかし、現実には極めて少ない。「学校基本調査報告書」(文科省)を見ると、1950年代には30%を超えていたホワイトカラー職(事務職、専門・技術職)における高卒男子の割合は、2004年には7%まで落ちた。

このように、就く仕事や賃金、昇進における学歴格差は、戦後数十年のあいだ存在してきた。しかし格差の問題が、「勝ち組」や「負け組」といった流行語を生むほど一般の関心を集め始めたのは、最近の現象だ。それはなぜなのか。

学歴マイノリティー」の成功モデルが崩れた

社会階層研究を専門とする盛山和夫東大教授によると、企業活動が拡大した1960年代??70年代高度成長期に、学歴による賃金格差や昇進の格差はそれ以前の時代より縮小した。高卒者や、場合によっては中卒者であっても大組織に入り、相対的に出世ができた。ホワイトカラーブルーカラー賃金格差も縮まった。

しかし1990年代の低成長期に入ると企業の人事政策は、より強く市場原理を取り入れたものとなった。「賃金格差は拡大する傾向にあり、今後もその流れは続くだろう」と盛山教授は見る。

さらに別の要因が、高卒者の就職状況を悪化させた。「団塊ジュニア」世代の大学入学に備えた大学・学部増設政策による、大学生の急増だ。かつての高卒職場大卒者に置き換えられた。そしてすでに就職していた高卒者は企業内で「学歴マイノリティー」と化し、働く意欲や動機を持ちにくくなるという問題が浮上した。

高卒者にとっての、成功のモデルケースがなくなった」と指摘するのは、豊田義博リクルートワークス研究所主任研究員だ。

かつての成功モデルはこうだった。正社員採用就職して製造現場で働き、安定した職業人生を歩む。あるいは企業の知名度が低くて大卒者が集まらないサービス業種(居酒屋チェーンなど)で、現場経験を積んだ後に店長になる。

ところが製造現場海外移転し、国内の工場労働者正社員よりパートアルバイト、有期雇用者の採用が増えた。店長コースの方は、大学生の増加で新興チェーンにも大卒者が就職するようになり、「店長大卒、店員はアルバイトという流れになっている」(豊田氏)。

議論すべき社会の仕組み

では学歴マイノリティーと化した高卒者はどうすればよいのか。島田氏の事例に対する読者のコメントには、学歴主義を気にするより努力で克服してはとのアドバイスが目立った。一つは、「闘う土俵を変えよ」というもの。「高卒で悩んでいる方々はぜひ旧態依然とした企業から、しがらみのない若い会社に移るべき」(前出の元財閥メーカー勤務、K.K.氏)。

もう一つは、「闘う以上は同じ土俵に乗れ」というもの。「夜間の大学に通い、学位を取得するのも、本当に実力で勝負しようと言うのであれば、一つの選択肢」(竹田雅信氏)。

さらに議論を進めれば、学歴格差の問題はもはや高卒者に限ったことではない。盛山教授は「かつては中卒・高卒大卒学歴格差が問題だった。今後はそれが高卒大卒大学院卒の学歴格差に移行するだろう」と言う。

大卒大学院卒者の増加による「学歴インフレーション」(高学歴取得者の職業的地位の下落)や、出身大学偏差値による大卒者内の格差の進行も、すでに調査で明らかになっている。

ただし、盛山教授は、最近流行である「勝ち組」や「負け組」といった単純な二極化論や、欧米並みの階層化が日本企業で進行し希望を失う若者が増えて社会問題になる、といった「格差恐怖論」のような見方を否定する。

盛山教授はこう話す。

「みんなが収入や地位を上昇させてきた今の50代以上とは違い、20代、30代の大半の人にとって学歴を問わず、収入や地位を向上させるのが難しい時代になったのは事実です。けれども高度成長期以前には、学歴格差は今よりもっと大きかったことを多くの人は忘れている。勝ち組負け組について実証的に示したデータなどないが…。若い人が高収入を得るにはどうすればいいか、それを可能にするのはどんな産業かといった具体的な議論が必要なのです」。

2007-04-20

lifehacks】Golden Rule・黄金律、処世訓、徳目【慧眼】

常識

常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう

アルベルトアインシュタイン

中庸

衆に優れた人物は、運に恵まれようと見離されようと、常に態度を変えないものである。

マキャヴェッリ マキャベリ

人生の大きな目標のため、日常のどうでもいいことは中庸を決め込むのは正しい

デカルト

言動

いかに多くの人のためになることでも、新たに大事業を提唱するのは、提唱者にとって大変な危険をともなわずにはすまない。

マキャヴェッリ マキャベリ

ある人物が、賢明で思慮に富む人物であることを実証する材料の一つは、

たとえ言葉だけであっても他者を脅迫したり侮辱したりしないことであると言ってよい。

なぜならこの二つの行為とも、相手に害を与えるのに何の役にも立たないからである。

脅迫は、相手の要心を目覚めさせるだけだし、 相手はそれまでは考えもしなかった強い執念をもって、

あなたを破滅させようと決意するにちがいない。

古代ローマ人は、このことを熟知していた。彼らは、

本心からであろうと単なる冗談であろうと、

この二つの誤りを犯すことほど

相手の胸中に憎悪の念をかき立てることはないとわかっていたのである。

タキトゥスも書いている。

「どぎつい冗談とは、それが真実からかけ離れている場合はなおさらのこと、

とげとげしい後味を残さないではすまないものである」と。

マキャヴェッリ マキャベリ

出会い偶然、別れは必然

私たちは「一日に平均二回」の嘘をつく(ヴァージニア大学調べ)

人付き合いは「性悪説」を軸にしたほうがうまくいく

分別よりも愚行の方がとかく仲間や追随者を呼び寄せるものだ。

―「ドン・キホーテ」―

君子の交わりは淡きこと水の如(ごと)し、

小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如(ごと)し。

君子は和して同ぜず小人は同じて和せず

光クラブ事件

人間の性は、本来、傲慢、卑劣邪悪矛盾であるが故に、私は人間根本的に信用しない」

山崎晃嗣(あきつぐ)のモットー

他人をあてにしてはならない。

それは期待するほうがまちがっている。

ゴーリキー

教養のない人は小理屈をこね、

あらさがしをして得意がる。

あらを見つけるのはたやすいが、

よい点とその内的必然性を知るのはむずかしいからである。

できはじめの教養はきまってあらさがしをはじめるが、

できあがった教養はどんなものの中にも積極的なものを見る。

ヘーゲル

ねたみ・批判にあったときの名言

あるときブッダは愚かな男から批判を浴びた。

ブッダは黙って耳を傾けていたが、

相手が話し終えると次のように尋ねた。

「人が自分に差し出された贈り物を受け取ろうとしない場合、

その贈り物はだれのものになるのか」

男は答えた。「贈り物を差し出した人のものに」

「そうか」ブッダは言った。

「では、私はあなたの批判を受け取らないことにしよう。

自分のためにとっておきなさい!」

我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。

他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのに、だ。

ラ・ブリュイエール

世間の誰をも、すべてを満足させようなんて、狂気の沙汰だ。

これからは、どんなに非難されようが、ほめられようが、人があれこれ言おうが言うまいが、俺は俺の考えに従う。

ラ・フォンテーヌ

我々は、他の人たちと同じようになろうとして、

自分自身の4分の3を喪失してしまう。

ショーペンハウアー

かけがえのない人間になるためには、

常に他人と違っていなければならない。

ココ・ シャネル

自分の心の中で正しいと信じていることをすればよろしい。

しても悪口をいわれ、

しなくても悪口を言われる。

どちらにしても批判を逃れることはできない。

エレノアルーズベルト

十人が十人とも悪く言う奴は善人であろうはずがない。だが、

十人が十人とも良く言う奴も、 善人とは違う。

真の善人とは、

十人のうち五人がけなし、五人がほめる人物である。

孔子

私は他人に何も期待しません。ですから人の行動が、私の願いに反することはありません。

スワミ・スリ・ユクテスワル

人の時間には限りがある。

だから他人の人生を生きて時間を無駄にするな。

アップルコンピュータスティーブ・ジョブズ最高経営責任者(CEO)

「僕は全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ。」

アルベルトアインシュタイン(Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日

全てを喜ばせようとすることは、結局誰も喜ばせないこと

粉屋と息子とロバ

人々が自分に調和してくれるように望むのは非常に愚かだ。

ゲーテ

人生に関する事柄は、多数の者に人気のあるほうが善いというふうにはならない。

最悪のものだという証拠は群集なのである。

セネカ

多数決をとってみたところで、

それが正しさの保証とはならない。

デカルト

民衆ほど軽薄で首尾一貫とはほど遠いものはないとは、ティトウス・リヴィウスの評価であるが、他の多くの歴史家も、これと同じことを書いている。

マキャヴェッリ マキャベリ

大衆がする尊敬侮辱とは、どのみち大同小異と見なされねばならぬ。

われわれはこちら〔侮辱〕に腹を立ててもいけないし、あちら〔尊敬〕を喜んでもいけない。

セネカ

世の中の人々の一〇人中七、八人は小人なのだ。

西郷隆盛

隣人の語ること、

行うこと、

考えることを

気にかけないものは、

どれだけ多くの利益を受けることだろうか。

マルクス・アウレリウス

2007-03-03

[]「僕は全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ。」


[人間関係]私は他人に何も期待しません。ですから人の行動が、私の願いに反することはありません。

「僕は全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ。」

アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein1879年3月14日 - 1955年4月18日

幸福にしてあげたいなら、 欲望を減らしてやるがよい

[ゲシュタルトの祈り][Gestalt Prayer]

ラインホールド・ニーバーの祈り The Serenity Prayer

[無功徳][むくどく]

当て事(アテコト)と畚褌(モッコフンドシ)は先から外れる

人々が自分に調和してくれるように望むのは非常に愚かだ。ゲーテ

他人が自分に関心を持っているとは期待するな。 ラッセル

他人をあてにしてはならない。それは期待するほうがまちがっている。

浴場での出来事、つまり湯をはねかける者、押す者、罵る者、盗む者

朝起きたら自分にこう言い聞かせる。おせっかい、恩知らず、威張りやさん、裏切り者、やきもち焼き、社会性のないやつ、こういう連中を避けて通ることはできない。

他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちている

「人間の性は、本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾であるが故に、私は人間を根本的に信用しない」

http://anond.hatelabo.jp/20140307175603

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