はてなキーワード: 識字率とは
アメリカこそ悪の枢軸。人類の歴史の中で、イラク戦争ほど無意味な戦争はあったでしょうか。フセイン大統領は暴君と思われている方が多いかもしれませんが、独裁者の中では比較的善政を敷いていました。サウジアラビアには言論統制もとんでもなく、反対者は処刑されるというのに、アメリカは何も言いません。アメリカは最初からイラクが兵器を持っていないことも分かっていたようです。
アメリカが潰したカダフィー政権下のリビアもそう。アメリカが『悪』とした、カダフィーは国の富を国民に分配し、国民を思い、国民の幸福のために頑張っていた。
医療費、水道代、電気代はタダ、ガソリンも1リットル10円という格安価格。ローンに利子はなし。全国民に家を持たせ、失業者には家等の生活に欠かせないものを無料で支給。農業を始める人には農地を無料で支給、政府の売り上げの一部を国民に現金で支給、識字率を90%まで上げた。スウェーデン顔負けの高福祉の社会主義国家でした。
アメリカが挙げてる悪態は『カダフィーは独裁者である』以外すべて嘘。反政府勢力もアメリカの犬。カダフィー信者と言われるかもしれませんが、そう言う人たちも大体はアメリカ信者です。今のリビアになって国民幸福度も下がってるし、識字率も下がってる。貧富の差は拡大し、失業率も増えた。アメリカとアメリカの犬になった連中や、リビア人の少数派が多数のリビア国民の生活を破壊したのです。
NATOが攻撃したとき、リビア国民の約1/3に当たる170万人が、反対デモを行っていたといいます。西側諸国のマスゴミはそのデモを報道しませんでした。マスゴミは都合の悪いことはすぐに隠したがります。中立的な立場で、事実を報道しなければならないはずのマスゴミが、事実を報道しないのです。
『民意を踏みにじるな!悪者め!』と叫んでいる西側諸国が民意を踏みにじったのです。最低最悪です。西側諸国が殺した数万人をカダフィが殺したことにし、悪者に仕立て上げる。プーチン大統領も、各国の政治家もこのアメリカを初めとする西側諸国の悪事を批判しています。現地にいた外国人たちも、そのような事実はなかったと主張しています。私も当時リビアに行ったとき、良い国ではないかと思った。国民の1割にも満たない人たちによる反政府デモをいいことに、反アメリカ主義の国を潰そうとしたアメリカ。『民主主義』を口実にいろんな国を潰していくアメリカ。世界で一番悪なのは北朝鮮でも安倍政権でもなく、アメリカです。独裁が必ずしも多くの国民を不幸にするわけではないのです。
しかし、人が変われば政治が変わる。1代目がどんなに良い人でも2代目が恐ろしかったりする。ユーゴスラビアもチトーが死んだら内戦が始まったし、北朝鮮も金日成は庶民の気持ちを良く分かってたが、2代目の金正日は国民を不幸にし始めました。
ソ連は例外的で、レーニンが指導者になっていたが、レーニン本人はスターリンを後継者にする気など全くなく、彼の遺書には『スターリンは決して権力者にしてはならない。私の後継者は民を思い、忍耐強く、思いやりがあり、指導力もある者を指導者に…』と指示があり、後継者を決める選挙もされようとしましたが、この遺書はスターリンの命で封印され、政敵と思われるものを排除し、権力の座に就き、独裁を開始しました。
アメリカは自分の利益になる独裁国家は放置するどころか関係強化!
アメリカはフルシチョフ以来のソ連にもいちいち細かいところまで非難しました。そして、何かしらの行動をしました。
しかし、ソ連と対立していた中国に対しては激甘。毛沢東はスターリンの倍の人数を殺しました。それを認知している人間はどのくらいいるでしょうか。
また、チベット人の虐殺も見て見ぬふり。騒がれると口だけで非難をして、一切制裁無し。残虐な独裁者を許さないのなら、チベット人やウイグル人の支援をすればいいのに...
第二次世界大戦後の戦争は間接的なのも含めて7割アメリカからおこしたものです。戦争をすれば、アメリカ経済が潤うのだからアメリカは戦争を繰り返すのです。人の命より金が大事というアメリカの腐った思考は本当に考えられません。スターリンみたいなものです。
原爆を落としたことをアメリカの大統領は謝罪するべきなのに、一度も日本に謝罪しに来ていません。保守派の方々が言う『日本の誇り』を奪ったのもすべてアメリカ。日本人を沢山殺し、戦後の日本に不平等条約を押し付けたのもアメリカ。
それなのに、日本人がアメリカを恨まないのは、アメリカに洗脳されている証拠。北方領土の領有を主張するくせに、アメリカが武力で日本から奪ったグアム島の領有を主張しないのは、アメリカを贔屓しているってことではないのでしょうか。
ソ連軍が北方の島々に侵攻しようとしたときも、事前に出ていくように警告し、日系住民の命をできるだけ助けようとしました。それに引きかえ、アメリカは事前通告も無しに、罪もない市民を何人も殺害したではないですか。
アメリカはソ連への見せしめの目的(口実:戦争を早く終わらせるため)だけに核爆弾で数万人もの日本人の命を奪った『犯罪国家』です。
サッダームはイラク全国に学校を作り、学校教育を強化した。教育振興により児童就学率は倍増した。
イラクの低識字率の改善のため、1977年から大規模なキャンペーンを展開し、全国規模で読み書き教室を開講し、
参加を拒否すれば投獄という脅迫手段を用いたものの、イラクの識字率は向上し、
1980年代に大統領となったサッダームにユネスコ賞が授与された。
また、女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、
家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められた。
女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、
イラクでは女性の公務員が増え、予備役であるが軍務に付くこともあった。
金さえ有れば良い教育が受けられて、良い人生が過ごせると思っている皆さん、間違いです。
金持ちの子は良い教育を受けて、良い学校に入り、良い仕事につくというのは一面の事実では有る。
本当の所は「まともな親は、比較的金持ちに多い」のだ。まともな親に育てられるからまともに育つのであって、金持ちだからまともに育つのでは無い。
子供が家に帰ると親が寝転がってポテチ食いながらワイドショーやお笑い番組を見ている。
喫煙者、安酒飲み。
趣味はパチンコorスマホゲーor改造車、宝くじを常習的に購入。
仕事は単純作業or非正規、数年かけてスキルやキャリアを積む仕事についた事が無い。
例えば、上記のような暮らしをする人間に、いくら金をやってもまともな子供は育たない。
貧乏人の子供は貧乏になる確率が高いのだが、それは最も長い時間を過ごす家庭がそのように運営されているからだ。
多くの金持ちの家庭はそうでは無い。
家に帰ると宿題を見てくれて、親は休日に美術館に行ったり読書をしている。子供は自然に学び、本を読み、豊かな文化的素養を養う。
整理整頓は自分の人生を効率的に生きる手段である事を身をもって教えられる。
海外に友人が居る。子供の頃から多様な文化に触れ、その中でアイデンティティを確立する機会が有る。
積み重ねた努力で、ある程度の地位や仕事についている人に囲まれた生活をしている。努力すれば、具体的にどうなれるかを日常的に見ている。
両親共に大学を出ている。子供の頃から大学に行くのが「当たり前」になっている。海外へのホームステイや留学も視野に入り、経験者の話をいつでも聞ける。
高い能力を持つ人に囲まれ、日々の生活の様々な場面で礼儀を学び、見聞を広げられる。
このような日々の暮らしこそが「文化資本」なのである。カネを持っている事など、瑣末な事でしかないのだ。(もちろん文化資本の無い金持ちも居る)
例えば貧乏人にカネだけ与えても、こんな暮らしは出来ない。せいぜい半額惣菜が外食になり、しまむらの服がブランド物に変わるくらいだ。(文化資本を持った貧乏人という存在は極めて少ない。)
東大に入る学生の親は約半分が年収1000万以上だと言う。日本の年収比率から考えれば明らかに偏っている。
もちろん、小学校からSAPIXをはじめとする有名塾に通える環境も一助にはなっている。まぁ塾代だけで、本気で通わせると小学1年から高校3年までで1000万以上かかるし。
しかし、家庭環境が壊れている子供をSAPIXに通わせたとして、有名私立に入れるか?と言われれば無理なんだよね。最も重要な家庭での学習が出来ないから。
良い教育とは、まず最初に家庭で行われる。家庭で教育を受けられない子供は、最初から大きなビハインドを食らって社会に出る。そこにいくらカネをつぎ込んでも無駄。
稀にトンビが鷹を産むが、そんな子供は現在の制度でも返済不要の奨学金がいくらでも有る。
格差とは経済力では無い。本当の格差とは、誰もが選べない幼少期の環境の事なのだ。
教育に過剰な期待をしているブコメが多いけど、家庭でするべき教育を学校が肩代わりしろと言っても無理ですよ。
何事も本人のやる気が無ければ始まらないのだが、その「やる気」をステロタイプな貧乏親は削りとる。
まともな親の子供は親&周囲のまともな大人からやる気をもらい続ける(ついでに良質な知識、コミュ力、広い見聞も)
要するに、日々の生活が追い風になるか逆風になるかの差がデカイのだ。これに比べれば、スタートラインの差など無いに等しい。
教育費を無料にした所で、大学に遊びに行くバカと、目標持った優秀な学生に二分されるだけ。
優秀な学生は大体親が金持ちだし、そうでなければ奨学金を取れる。
教育費無料なんて教育関係者のポジショントークでしか無いよ。乗せられている貧困層は利用されているだけ。
解決策は無いのか?という話だが、これ以上のバカの底上げは無意味なのでしない方が良いという立場だ。
そもそも日本は、ホームレスですら字が読める国だから、初等教育は行き渡っていると言って良い。
教育費でよく話に出てくるOECD各国だが、字を読めない人が普通に居る国だらけだからな。
日本の識字率は99%以上だから、初等教育(バカの底上げ)に成功している国とも言えるのだ。
巷で叫ばれている大学無償化、奨学金返済不要については、費用対効果が悪すぎるのでやめた方が良い。
20年ほどクズ親に育てられれ、何の文化資本も持っていないFラン大学生なぞ、支援しても無駄だから。
一定数、世間知に長けたワンチャンを掴める層は居るが、そいつらは放置してても勝手に伸びる。学校教育の範疇ではないからな。
やるなら一定以上の偏差値を持つ世帯年収が低い家庭の小中高生に集中して支援するくらいか。
しかし、いずれの場合もバカの感染を防ぐために寄宿舎で預かる必要が有るが、日本でやる事は不可能だろう。
日本国が行う学校教育に幻想を持っている人が多すぎだが、そもそも東大すら世界的には有象無象の一大学でしか無い訳で、本物のエリートは欧米やアジアのエリート養成大学に行ってる。
ただし、日本でエリート養成をする事は無駄に平等を重んじる文化から無理だろうなと思う。
みんな平等に格差をなくそうという思想はご立派だけど、現実的に考えると家庭に介入出来ない限りは不可能だという事。
国(あるいは他人)に出来るのは自力で一定ラインを超えてきた人を支援するくらいだ。
やる気のない(あるいはやる気を奪われた)人は、自助努力が出来ないので救いようがない。
共産党の機関誌である「前衛」を読んでいるコミュニストが、この記事をネタに書いているので見てみた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20160605/1465138757
まぁ一言で言えば「そう出来たらいいですね、ところでどこから金が出てくるの?」である。
松本は、さらにそこから夫が主な稼ぎ手で、妻が専業もしくは補助的な労働でそれを支えて、子どものケア労働を担当する「標準家族モデル」がいかに危機やトラブルに脆弱かを述べる。
そして、もし子どもに関わる費用をすべて社会が負担するようになれば、親は自分の食い扶持さえ稼げばよくなり、シングルでもダブルでも不利や不公平は解消すると述べる。これこそが「強い家族」なのだと。
さらにこう続ける。
もし小学校や中学校のように、高校や大学に誰でも行けることはおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も、子どもが無料でアクセスできるようになれば、その時初めて子どもの貧困は親の責任から切り離される。そこまで社会を進めることの覚悟とセットでなければ、容易に元増田のような非難に遭遇するハメになる、と松本は警鐘を鳴らしているのである。
ユートピアを追求するコミュニストらしい意見だ。で、そんな国どこにあるの?日本人は1億人以上居るので、中東の産油国でもこんな暮らし出来んぞ。
ちなみにその理想を実現しようとした国知ってる、ソ連とかいう強制収容所国家だ。
まぁ共産主義者に財源を追求しても仕方ない。彼らは責任をもって行動した事が無いのだから。
仕方がないので、テキトーだが俺が考える。
日本の0~14歳までの年少人口は1613万人。彼らに衣食住+文化的な生活+学習を無償化したとする。
かなり安めに見積もって1人1ヶ月10万円の経費がかかるとして、1年で120万×1613万=19兆3560億円
更に高校生、大学生まで含めると900万人ほど増える、1人月10万で年間10兆円ほどかかる(年齢が高くなるほど消費が増えるが、面倒を見る職員の数は減らせるので同じ経費とする)
合計して約30兆円、数字を見ただけで非現実的だとわかるだろう。
まぁ所得税を3倍にすれば実現可能だ。もしかしたら、共産主義者として望む所なのかもしれない。
現在の日本において、財源を示さずに甘い夢だけを語るのは誠実な態度だろうか?
耳障りの良い話、目の前の人を気分良く救える話は正しいのだろうか?
共産主義者は家族の解体を是とする。旧ソ連では集団主義教育が行われていた事は周知の通りだ。
全ての子供を「学習はおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も」親の責任から切り離す覚悟が問われるそうだ。
まさしくコミュニストに相応しい思想ですねとしか言いようが無い。
ちなみに私が提唱する解決策?はこんな感じ。ブコメにも有ったが、教育は数世代で解決するしか無いので、まず1代目はお金を稼ごう。
1代だと所詮成金なのだけど、2代続けばその子供は教育が行き届くようになるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160225194038
久しぶりに2chでスレ立てしてみた。
あわよくば、まとめとかに取り上げられたら良い自己満足になると思ったからだ。
で、レスがだいぶついて来て、ちょっと疲れてきた。理由は、とにかく、自分の主張を喚きたいだけな奴、自分が持っているイメージ(実際は存在しない)だけで批判したい奴が現れたから。個人的に、オカルトは娯楽としてすごく楽しい。旧帝の文系修士を持つ程度の浅学な身ではあるが、人々の間で、どのように事実が理解され、どんな相互作用で新解釈が生成されていくのか、興味深いと思っている。しかし、言葉は悪いが、あまりの頭の悪さに辟易としてしまった。
オカルト好きということが、端的に、情報リテラシーの低さ、もっと言えば識字率の問題であると思った。イメージとしては、単語と文法を最低限だけ理解できるサルが、画面の向こうにいて、とにかく衝動のままに喚いている。字を読み、打てるだけ。それでも良いのかも知れないが、LINEのりんなでさえ、もう少しまともな受け答えをするんではないかと思った。端的に事実誤認も多い。典拠として査読付き論文を挙げたら、wikipediaに書いてあると反論されると、ちょっと白目剥きそうになった。基礎文献を指示しても読みやしないし、知りもしない。たぶん、ドイツ語やラテン語、ギリシア語はおろか、英語でさえ出来ないのだろう。
そう思うと、道端で乾いている枯れた雑草の欠片に真剣に向き合っているような気分になり、我に返った。まだ猫をなでながら、犬をモフりながら、ひとりごとを言う方がよい。オカルトや陰謀論にハマり、一日画面の前に張り付いている人というのは、または彼らの思考回路なり論法というのが、まさにオカルト的だなと思った。
なんというか哀れだ。
ということで、休憩おわり。仕事にいってくる。
そもそも初期学習時点からWEDNESDAYを「読んでみよう」「書いてみよう」ってのが間違いなんだけどな。
日本人は日本語の識字率がほぼ100%だから、「話せること=読めること=書けること」と考えがちだが、そんな日本人だって、読めない書けない漢字があっても、その漢字を「話せない」わけではないだろう?
ずっと日常会話で使ってきて、大人になってある日初めて漢字を見て「この言葉って、漢字ではこう書くのかー」なんてのはザラ。
初めは「話す」「真似して話す」「後について話す」「誰かが話しているのを聞いて覚える」が全てなんだよ。
「まかはんにゃ はらみた ・・・」って書けなくても読めなくても、発音できんだろ。
「書ける」「読める」が一般的になってきたのなんて、せいぜいこの百年くらいだ。でもずっと前から英語だって日本語だって、外国人が学んで覚えられた。話せればいいし、「話す」が出来てからの「読む」「書く」だ。
お前さ、実際に漢字書いた機会ってどのくらいある?お前の会社が未だに書類を手書きしてる会社でもなければ、PC使って書くわな。
掃 壁 飾
こんな所。
で、これが書けなければ中学生これらに正解してる人間の知識以下、と言うのは何も間違ったことじゃないんだが。
よし。じゃ、大学まで10年間英語習ってるわけだから、もちろん外国人と日常会話する程度の英語力はあり、英字新聞読めるぐらいの識字率はあると見ていいんだな?大学出の日本人、60~70%は間違いなくそこまで英語を使いこなせると。そうじゃない奴は全員アホだと。
いや、普通に論文読んで書いて海外で仕事するくらいの英語力は普通にあるけど。
でもそれ飛躍してない?
ただ、「大学出」と言ってて「new」だのなんだのをドヤ顔で「知ってないと恥ずかしい単語」とか言っちゃうのはアホだ、って話なんだけど。
お前さ、実際に漢字書いた機会ってどのくらいある?お前の会社が未だに書類を手書きしてる会社でもなければ、PC使って書くわな。
で、「漢字は読めても書けません(忘れました)」って人が増えてるってニュースやってたけど、そいつら全員小学生以下だな。
英語に至っては大学まで常に使い続けてさらに仕事でも使うんだろ?
どこで忘れる事がある?
よし。じゃ、大学まで10年間英語習ってるわけだから、もちろん外国人と日常会話する程度の英語力はあり、英字新聞読めるぐらいの識字率はあると見ていいんだな?大学出の日本人、60~70%は間違いなくそこまで英語を使いこなせると。そうじゃない奴は全員アホだと。
これだけ識字率もあがり教育も充実しインターネットが広がってなんでも調べられるし理解できる時代になったのに真田信繁のことを未だに何の臆面もなく真田幸村ってしちゃうのはどうしてなのか。
軍記物などの昔のものは仕方ないとして、現今のゲームなどでも幸村にしているのは何故か。何故信繁ではいけないのか。というか、信繁が正しいのにどうしていつまでも幸村に固執するのか。誤字や誤用を細かく指摘することが結構あって、この信繁幸村問題もそれに類するのかもしれないのだけど、どうしても幸村という表記を見るとおかしいのではないか? と思ってしまう。名前間違ってるわけだ。たとえば、有名な神護寺蔵「伝源頼朝像」って全然頼朝じゃなかったわけだ。それと同じで幸村は幸村と生前名乗った形跡がなく信繁が正しいのだ。
こういう事実があるにもかかわらず幸村表記ばっかり。もちろん理由があったり、ねらいがあったり、考えがあるのなら良い。でも何も考えもなく幸村なんて、この科学(人文科学であってもだ)が発達した21世紀において幸村にしちゃうのは本当にダサい。
http://anond.hatelabo.jp/20150622224232
そんなことないだろ。日本で底辺の生活をしてる人の生活レベルって地球レベルで見たら上位20%に入ってると思うぞ。格差格差って連日騒いでるからみんな頭に血がのぼっていると思うが、日本は経済的格差がマシな国だ。格差がないという意味じゃなく、底辺でも生きていけるという意味で。
日本の格差の問題は自意識の、いわば劣等感の問題であって、それはそれでやる気を社会単位で腐らせるから等閑に伏せる問題ではないとはいえ、平均寿命が40年くらいとか、餓死者が毎日すごい数出るとか、金がないので子どもは半分くらい売るとか、識字率が半分より上がらないとか、そういう問題ではない。生活保護者が輸入牛肉買える程度の貧困だ。
つまり改造AKもって内戦起こすほどのものではないと思うし、この日本に住んでいて「希望は戦争しかない」っていうのは、非常に近視眼的な精神バランスだと思うぞ。
どうだろう。
西洋の場合、(演劇に限らず、たとえば絵画でも音楽でも小説でも)テーマに序列があった。
歴史、宗教、古典(ギリシャローマ)をテーマにしたものは上流、社会風俗をテーマにしたものは下流、という具合に。
人気度という意味だと娯楽の王様だったけど、格式でいうと相撲や落語、神社のお祭りとかと同列。
テーマも、その当時ホットな話題だったり、コメディだったり、異国(インドや中国の話)だったり、お堅くなかった。
西洋では、小説というものの登場が遅くて、文学というと詩から派生した修辞学、それから演劇や、演説などから派生した弁論学がメインでだった。
そういう意味だと、基本教養の根幹に演劇があるのかもしれない。
自ら演じることはないまでも、基礎知識として。
テーマも宗教や歴史で、演劇でも小説でも、社会風俗を描くことってあんまりなかった。
近世になっても、啓蒙目的で書くことはあっても、本当に庶民の目から庶民のありふれた話を描くってほとんどなかった。
下層の人間は字を読めなかったしね。オペラハウスに来たりはしないし。
日本だと、江戸時代にもなると、冒険活劇、ドタバタコメディ、ドロドロ恋愛、かなりフリーダム。
アフリカのどっかの貧しい村で子供への教育が足りてないから支援をとかの話題のネットのコメで
「金がなくたって勉強は出来るだろ」とか「親が教えればいいのに」的なのがあるのを見て
リアル高校生どころか中学生くらいだとしても物知らなすぎじゃないかと思った事はある。
教育と聞いて「中学受験しよう」「良い大学に行こう」レベルしか想像つかないんだろうなあと。
記事内には識字率が低く云々とかそういう事も書いているのに、だ。識字率って何?レベルなのかもしれない。
親も字を知らないから子供に字を教えようがないとか、食うだけで精一杯で学校(勿論小学校だ)に行けないとか、
小学校に教科書も鉛筆もノートも足りないなんて世界があるとは想像もつかないんだろうな。
富裕層の子はそういうのは教養として知ってそうなので、恐らく貧困まで行かなくとも割と下の方の子なんだろうけど。
昔はテレビでそういう知識を得たもんだけど、今の子はテレビ見ないからなあ。
なかなかに読ませる文章だが、これくらいのインパクトで叩きつけてもやはり読まない人は読まないんだよな。
興味ないから読まないのではない。ちょっとやそっと興味あるくらいでは駄目。死ぬほど興味あって、共感できて、「おっいいこと書いてそうじゃーん」と思えるくらいでないとなかなかね。
例外もいる。いいオッサンでも多忙な人でも、サクッと速読で長文を読んで、ちゃんとした反応が返せる人だっているんだよ?
だけど、そんなのはごく一部。不特定多数に文章を公開すれば、必ず読めない人が混ざってくる。それも1人や2人じゃなく沢山混じってくる。いやあ、イマドキの「長文識字率」の低さはすごい。
彼らは文章の表面だけなぞり勝手に解釈しステレオタイプで分類したのち「まーた二番煎じか」「中身ゼロ」などと非難して悦に入るのが常だ。
まあネットの遊びと割り切ってわざとテキトーな読解をしてる分にはいいが、常日頃からそんな調子でやってるなら人生の行く末が思いやられる。
自分の意見がない人、知識や経験がぐちゃぐちゃで整理されてない人、スピーディーな生活についていくのが精一杯な人、感動・驚きが少ない人などは、その可能性が高い。
歳とった、疲れてる、忙しいなどと言い訳せずに、ちゃんと日常接する情報を咀嚼してきっちり綺麗に整理する思考習慣をつけたほうがいいと思う。
「現象」が何を指しているか分かりかねるが。
人間が、受け取った作品によりいとも簡単に一線を越える操り人形であるなら、間違いの責任を個人に帰すことさえ難しい。
あらゆる作品は、受け手による自主的解釈がなければ影響を与えられないのだから、作品に責任を求めるのは受け手側の独立性を軽んじ、時には責任所在をぼかそうとするものではないのか?
作品は普遍的に存在しうるが、実際の争いには局所的な理由(個人的な人間関係、政経・歴史における認識や感情など)が必要ではないか?
また、もし何らかの思想(宗教、愛国主義、平等重視など)の元に争いが行われたなら、思想自体を社会的に抑圧することは妥当性があると言えるか?