はてなキーワード: 根付とは
長崎のカトリックの神父やシスターが多い家系で生まれ育って、関東にやってきた。
ある時、近所のカトリック教会へ行ってみることにした。
システムはほぼ変わらない(献金の仕方が教会で違うくらい)ので、普通に馴染めていたのだが、
長崎の教会で聞く説教は、聖書の言葉を引用しつつ、「教えを見習って生きていきましょう」というものがほとんどで、
関東の説教は、政治が何だ経済がなんだ、とにかく政治に関する言及が多い。
「思っていた教会と違う」感じだった。
あと「キリストを信じている自分」にアイデンティティを求めているような人もおおかった。
よくネットで「キリスト教は〜」と批判的なことをいう人を見るが、
そんなことを言う気持ちもわからなくはないくらいの違和感だった。
「そんな所行かなくていいと」と言われたので、今は行っていない。
ホスチアをいただかないと、キリスト者だということを意識しなくなるけど、(根付いているともいう?)、
変なものに関わらないに越したことはないし、今日も家で、いつもどおり祈ろう。
>他の教会へ行けば?
一応沿線にある教会にはいくつか行きましたが、全部微妙だったので。。。
ミサも朝早いor夜遅いなので、あまり遠くへ行くのも困りものという感じ。
ここは長崎でも名前を聞く教会だったので、一度行ってみますね。
>聞き流したほうがいい
そうですね。別の教会に通ってみてあまりよいところに巡り会えなかったら、
長崎ほど教会が多くないから、気軽に別の所へ行ってみようとしても、
そこそこ距離が離れているんだよね。
どこも駅から遠かったりするし。。。。
生保のことで煽りあっちまったからこの際言いたいことをぶちまけることにする。
まず、収入が途絶えて家賃滞納してるクズども。おまえらさっさと管理会社か大家に相談しろ。
おまえの現状が全くわからない以上、大家も強硬に出るしかなくなる。
逆に「ガチで収入途絶えてどうにもならない」なら、大家だって対策打ってやれるんだよ。
大家や管理会社や保証会社は大抵弁護士とつながりがある。家賃とりっぱぐれるくらいなら役所にくらい同行してやるって話だ。
ついでに、生保を取るほどじゃないなら一緒になって返済スケジュールを組んでやる。
結局のところ大家だって人生にままならない事態が起こりえることくらいわかってる。
ついでに言えば、対策も知ってる。更に言えば、裁判やって強制執行まで持ってくにはコストがかかる。
大家だって管理会社だって保証会社の人間だって裁判も強制執行もやりたくねーんだよカネかかるから。
1Kの部屋から一人追い出すだけで150万近くかかっちまうんだ。
いいから、滞納カスどもおまえらはさっさと電話に出ろ。話をしろ。何とかしてやる。
最悪きちんと生保に放り込んでやる。だから、出てこい。大家も管理会社も基本的にはおまえの味方だ。
おまえが逆さに振ってもカネが出ない状態なら、おまえを追い込んでも何一つ得がねーんだよ。
さっさと電話に出ろ。俺はおまえが電話に出るまで、おまえがドアを開けるまでおまえの家に通うぞ。
そして、「死のうかな」と思ってるクズども。頼むから部屋の中で死んでくれるな。
俺は最近ついにブチギレて、自殺者に関しては遺族に裁判を起こす方向にシフトチェンジした。
俺はおまえの遺族を徹底的に追い込む。「部屋の中では死なない」がマナーとして根付くまで
俺はおまえの遺族を絶対に逃がさない。職場に怒鳴り込んででも回収する。
おまえの銀行にヒットするまで差し押さえる。おまえがノイローゼになるまで督促状を送る。
おまえの年金暮らしの両親から俺は金を差し押さえる。それがイヤなら親に相続放棄の手続きをするように言っておけ。
せめて俺に諦める理由を寄越せ。
おまえは知らないと思うがな、おまえが死んだ後おまえの身体は液状化する。そして床にしみこんでいく。
下の階の奴の頭の上にとろけたおまえがポタポタ落ちるんだ。相手の身になって考えてみろ。
そして、信じられない量の蝿が沸く。その中にバケツを持って分け入って、おまえを回収する俺の気分を考えたことがあるか?
警察に「持ってけるだけはもってきますけど…」って言われた時の絶望感がおまえにわかるか?
それを清掃するのに幾らかかると思う?そしてもちろん清掃が終わってもすぐにはマトモな値段では貸せない。
老衰は仕方ない、しかし貧困に起因する自殺。それだけはやめろ。
いいか、カネの問題は所詮カネの問題だ。なんとかする手段はあるし、大家はおまえのカネの問題を
なんとかしてやるインセンティブがあるってことを忘れんな。滞納してても俺はおまえの敵じゃねえ、相談しろ。なんとかしてやる。
逃げるな、死ぬな、諦めるな。いいか、おまえに出来ないことを何とかするために俺たち管理屋さんや保証屋さんがいるんだ。
頼れ、それが俺にとってもおまえにとっても一番マシだ。
★先日、前から気になってた東池袋「メゾン青樹・RoyalAnnex」の外観見た。
そこの2階に「都電テーブル」という「いかにもイシキタカイ系のオーガニックな定食屋」があった。
男性一人だけだと気恥ずかしくて入れない雰囲気だが、たまたま女性同僚もいたので入った。
2階の店内に入ると、予想通りの店内レイアウト。配管は「わざと」剥き出しで、テーブルも椅子も木製。
BGMはジャズで、あちこちに店のコンセプトの案内とか、街づくりの書籍とか、「クラウドファンディング募集中!」とかの案内が。
★なんか「こだわりの食材の無農薬な定食」を1000円で食べたが、味音痴な自分は、それが1000円の価値があるだけの美味しさなのかどうか、わからなかった。
因みにヘルシーなボリュームなので、早くも3時頃にはお腹が空いた(笑)
★因みに1階に「なか卯」があり、ガテン系男性が連れだってなか卯に入って行って盛況だった。
「都電テーブル」の方は空いていた。1階と 2階の立地の差、値段の違い、ボリュームの差、でもそれだけじゃないと思う。
★一番の「差」は、都電テーブルの
「私たち、オーガニックでイシキタカイです、フェイスブックで応援お願いします」な雰囲気が、ガテンワールドと「対極」だからなんだと思う。
値下げしても、ボリューム増やしても、あのガテンな人達は、あの雰囲気の店は「入りづらい」。
港区とか渋谷区とかなら、この手の「イシキタカイお店」は「地域に馴染んでいる」が、
豊島区という立地だと、「イシキタカイお店」は「地域から浮いている」んだよね。
メゾン青樹のコンセプトは「街づくり」で、都電テーブルはメゾン青樹オーナー肝いり案件。
★突き詰めれば、フェイスブック的文化が似合うのは渋谷区とか目黒区であり、豊島区には似合わないということ。
豊島区でも、ラーメン店は単価1000円でも客はワンサカ来る。だから、「値段の問題ではない」
これ、サンシャインに新コンセプト店「リンガール」を出店して、見事にズッコケタ、リンガーハットと同じ失敗だよね
★「私たち、フェイスブックしてま~す」な店って、(遠くに住んでる)フェイスブックの友人100人を来店させる動機にはなるが、
フェイスブックをしない周辺地域住民10000人にとっては、「なんか、お高くとまっていて、入りづらい」と思われてしまうだけ。
日本におけるフェイスブックの普及状況って、丁度「イシキタカイ系」と「イシキタカくない系」の境目あたりだからなあ。
フェイスブックが「イシキの高さのアイコン」の役割を果してる現状では、フェイスブック普及率の低いエリアで、「フェイスブックしてま~す」な店を開店しても、地元民の反感買う
フェイスブック系のお店を、フェイスブック文化が根付いてないエリアで開店しても、最初のうちは「御祝儀」で遠くのフェイスブック友人が来店してくれるから、
「ああ、順調な滑り出しだ」と錯覚する。
でも、遠くのフェイスブック友人は、次第に来店しなくなり、閑古鳥が鳴くようになる
★だから、飲食店を「継続」させるには、フェイスブックに頼らずに、地道に地元に根付いた、泥臭い営業をするのが、急がば回れで近道だと思う。
「都電テーブル」は、そのような地元どさ回り営業を、キチンとやったのか?
★これって、単に飲食店だけの話じゃない。
いわゆる「街おこし、地域おこし」も、電通崩れなエセコンサルタントの作文に乗っかって、フェイスブックで完結するようなエセプランに終わってるようでは、早晩行き詰まる
★辛口なエントリ書いているのは、逆に言えば、メゾン青樹の青木氏や都電テーブルに「期待」してるからなんです。
期待してるからこそ、安易にフェイスブックワールドの殻に閉じ籠るのではなく、ガテンな人も含めた地元民を「巻き込んで」欲しい。
もともと都電テーブルは、子連れママの行き場所確保を目的としている、と聞いている。
その志は良いのだから、「子連れママと、ガテンなオジサンとの交流」という高い目標にチャレンジして欲しい。
今のままだと、自分みたいなオジサンは、気後れして、入店したくても入店できない
「これを機に、イシキタカイ系の人達が、目黒区辺りから豊島区、あわよくば自分のマンションに引っ越して来てくれたらもうけもの」ということなんだろうな
★この辺のフェイスブックなお店って、マスター側もお客側も、トシでも40歳台、まあ普通は30歳台が殆ど。
世の中の負け組フェミババアがやたらと持ち上げる非人間的かつ非論理的行為の1つが高齢出産である。
高齢出産とは腐りきった羊水から各種の障害を抱えた呪われた子供を産み落とし、彼ら彼女らに地獄と形容するにふさわしい人生を歩ませるあの高齢出産だ。
メディアの手により勝ち組と負け組を真っ二つに分ける白黒思考の根付いた現代社会において子供を産まない女は負け組であり子供を産みさえすれば人生の勝者であると洗脳された負け組フェミババァはこの行為をやたらと持ち上げたがる。
自分たちはまだ負け組ではないと信じたい気持ちと、生まれついてのブサイクゆえにいい年こいて未だ満たされぬ性欲とを一度に満足させてくれる素晴らしい信仰それが高齢出産である。
だがそんな物はまやかしだ。
子供を産んだから素晴らしい人生だと誰も保証をしていないし、他人に子供がいないからと言ってメディアに合わせて見下す必要もない。
ただ、自分の価値観を形成することに失敗して借り物の物差しをブラウン管から受信しているだけの腐れ脳みそに過ぎないということになぜ気づかないのか本当にフェミババアは馬鹿だ。
リスクがつきまとうというよりも、99%大なり小なり障害を持った子供が生まれると言っていい。
君たちは障害を重度のダウン症だけだと思っているのかも知れないがそうではない。
軽い自閉傾向、生まれつきの運動能力の低さ、不細工、あらゆるものが遺伝子の劣化によってもたらされる障害である。
個性という言葉でこれを封じ込めようとする者もいるが騙されてはいけない。
さて、これらの業を何も知らされずに背負わされた子供はどのような人生を歩むだろうか。
そう、世界を憎みながら生きていくことになる。
つまり、高齢出産をするということは未来の犯罪者を産み落としていることにほかならないのだ。
満足するのはババアのまんこと自尊心だけで、子供も、犯罪に巻き込まれる一般人も、障害児の面倒を見る夫すらも不幸になるのだ。
こんな人道に背いた行為が許されていいのだろうか。
防ごう、高齢出産。
求人に応募しようかと思っている会社の写真に神棚があって社長が毎日水かえているとか、またオフィス内は土足禁止とかの情報が読み取れて、ためらってしまう。私の気にし過ぎだろうか。
この街にはニセ科学の浄水器売っている会社や朝礼で宗教っぽい倫理の本を読みあげさせる会社など怪しい会社があることをすでに知っているのでどうしても疑ってしまう。
細かいことには目を瞑ってとりあえず面接にこぎつけてそこからまた考えるという方向もあるし、そもそも書類通るかどうかもわからないけど、一度心に根付いた警戒心というものを取り除くことや脇に置いておくことは難しく、フィルターを通して見てしまいそうだ。
私は怖がっている。
2014年の暮れにおこなわれた沖縄知事選で基地反対派の翁長氏が勝利したのを境に、沖縄という地域は決定的に変わってしまったように思われます。
基地反対派は「オール沖縄」という標語を掲げていますが、実際は全然そんなこと無いわけです。
反対派の翁長雄志 51.7%
賛成派の仲井眞弘多 37.3%
このように確かに差はついていますが、とてもじゃないけど「オール沖縄」とは呼べない得票率です。
選挙で勝ったからといってこの4割近い民意を完全に無視してオール沖縄と連呼する反対派の態度は、まさに最近リベラル系メディアが政府・自民党に対して頻繁に使う「民主主義の暴走」とは言えないでしょうか。国政では「少数派にもっと配慮しろ!」と与党を批判し、同じ口で沖縄基地問題では反対派を完全に無視して「オール沖縄!」と叫ぶ。このダブルスタンダードはいったい何なんでしょう。
以前のタイムス・新報(沖縄二大新聞)はもう少し基地賛成派にも配慮してました。基地が無くなる事で生計が成り立たなくなる人もいるし、また必ずしも基地は悪い面だけでなく国家の安全保障面で重要な存在であるという論陣を(たまーーに)社説等で張る事でそれなりにバランスを取ろうとする姿勢が垣間見えていました。それが去年の12月の知事選を境にガラッと変わってしまった。紙面には感情的な檄文が跋扈し、それを読んだ県民も高揚し、一種のお祭りムードが沖縄に漂っています。
まあそんなことは正直どうでもいいって言っちゃえるぐらい、こちらの言論弾圧問題の闇が深いように思われます。
「オール沖縄」という言葉に惑わされて沖縄県民が一丸となって基地に反対しているという印象をお持ちの方もいるでしょうが、それは大間違いです。知事選では35%近くは基地賛成派の候補に投票しており、また中国に近い離島では議会・島民共に圧倒的に賛成派が多数を占めています。2014知事選以前は、賛成派と反対派は反対派が優位ながらもそれなりに拮抗した存在であり、お互いにお互いの立場をある程度尊重し合う間柄でした。
知事選後に何が起きたのかというと、大まかに分類すれば以下の2つです。
1.ネットで基地に許容的な態度を示した人への反対派からの徹底的な攻撃
草の根レベルではありますが、選挙で勝利した側が負けた側の言論を封じようとする動きが加熱しました。
twitterで米軍基地に好意的なことを書こうものならイナゴのごとく罵倒tweetが大量に飛んできます。
飲食店の店主が基地賛成派だからといって食べログで批判的なレビューを書く人まで現れる醜悪極まりない事案も。
中国本土に近い側の島では安全保障上の観点から米軍基地への賛成ならびに自衛隊基地を誘致しようと議会レベルで推進しているのですが、それに対して沖縄メディアがよってたかって攻撃しています。「オール沖縄の理念を踏みにじるものだ」という文面を見た時はさすがにクラクラしました。
確かに民意は大切で、そして基地への県民投票となった2014知事選で反対派が勝利したのも事実です。しかし、だからといって基地賛成派の存在そのものを消し去ろうとする今の沖縄メディア・県民の言動は異常と言わざるをえません。もはやこの県に言論・思想の自由は存在しなくなってしまいました。日本で最も民主主義への理解が遅れた後進的な県に成り下がってしまいました。
そういう風潮を作っているのはタイムスと新報という二大新聞に依るところが大きいです。県外では朝日・毎日・ネットのハフィントンポストなどがその役割を担っています。繰り返しになりますが、このメディアは政権与党に対しては「少数意見を無視するな」「民主主義の暴走だ」と言い、翻って沖縄では先頭にたって民主主義の暴走と言論弾圧を押し進めています。クラクラする。
どこぞの作家が沖縄の新聞は潰した方がいいとか言ったらしいですが、まあどちらか一つは潰れてもう少し中道よりの新聞が根付かない限り、沖縄県民の知性レベルはいつまで経っても中世止まりなのかなと暗澹たる気持ちになります。
2014年の暮れにおこなわれた沖縄知事選で基地反対派の翁長氏が勝利したのを境に、沖縄という地域は決定的に変わってしまったように思われます。
基地反対派は「オール沖縄」という標語を掲げていますが、実際は全然そんなこと無いわけです。
反対派の翁長雄志 51.7%
賛成派の仲井眞弘多 37.3%
このように確かに差はついていますが、とてもじゃないけど「オール沖縄」とは呼べない得票率です。
選挙で勝ったからといってこの4割近い民意を完全に無視してオール沖縄と連呼する反対派の態度は、まさに最近リベラル系メディアが政府・自民党に対して頻繁に使う「民主主義の暴走」とは言えないでしょうか。国政では「少数派にもっと配慮しろ!」と与党を批判し、同じ口で沖縄基地問題では反対派を完全に無視して「オール沖縄!」と叫ぶ。このダブルスタンダードはいったい何なんでしょう。
以前のタイムス・新報(沖縄二大新聞)はもう少し基地賛成派にも配慮してました。基地が無くなる事で生計が成り立たなくなる人もいるし、また必ずしも基地は悪い面だけでなく国家の安全保障面で重要な存在であるという論陣を(たまーーに)社説等で張る事でそれなりにバランスを取ろうとする姿勢が垣間見えていました。それが去年の12月の知事選を境にガラッと変わってしまった。紙面には感情的な檄文が跋扈し、それを読んだ県民も高揚し、一種のお祭りムードが沖縄に漂っています。
まあそんなことは正直どうでもいいって言っちゃえるぐらい、こちらの言論弾圧問題の闇が深いように思われます。
「オール沖縄」という言葉に惑わされて沖縄県民が一丸となって基地に反対しているという印象をお持ちの方もいるでしょうが、それは大間違いです。知事選では35%近くは基地賛成派の候補に投票しており、また中国に近い離島では議会・島民共に圧倒的に賛成派が多数を占めています。2014知事選以前は、賛成派と反対派は反対派が優位ながらもそれなりに拮抗した存在であり、お互いにお互いの立場をある程度尊重し合う間柄でした。
知事選後に何が起きたのかというと、大まかに分類すれば以下の2つです。
1.ネットで基地に許容的な態度を示した人への反対派からの徹底的な攻撃
草の根レベルではありますが、選挙で勝利した側が負けた側の言論を封じようとする動きが加熱しました。
twitterで米軍基地に好意的なことを書こうものならイナゴのごとく罵倒tweetが大量に飛んできます。
飲食店の店主が基地賛成派だからといって食べログで批判的なレビューを書く人まで現れる醜悪極まりない事案も。
中国本土に近い側の島では安全保障上の観点から米軍基地への賛成ならびに自衛隊基地を誘致しようと議会レベルで推進しているのですが、それに対して沖縄メディアがよってたかって攻撃しています。「オール沖縄の理念を踏みにじるものだ」という文面を見た時はさすがにクラクラしました。
確かに民意は大切で、そして基地への県民投票となった2014知事選で反対派が勝利したのも事実です。しかし、だからといって基地賛成派の存在そのものを消し去ろうとする今の沖縄メディア・県民の言動は異常と言わざるをえません。もはやこの県に言論・思想の自由は存在しなくなってしまいました。日本で最も民主主義への理解が遅れた後進的な県に成り下がってしまいました。
そういう風潮を作っているのはタイムスと新報という二大新聞に依るところが大きいです。県外では朝日・毎日・ネットのハフィントンポストなどがその役割を担っています。繰り返しになりますが、このメディアは政権与党に対しては「少数意見を無視するな」「民主主義の暴走だ」と言い、翻って沖縄では先頭にたって民主主義の暴走と言論弾圧を押し進めています。クラクラする。
どこぞの作家が沖縄の新聞は潰した方がいいとか言ったらしいですが、まあどちらか一つは潰れてもう少し中道よりの新聞が根付かない限り、沖縄県民の知性レベルはいつまで経っても中世止まりなのかなと暗澹たる気持ちになります。
夏になると腋臭がすごいから試しに腋毛剃ってみることにしたが思いの外効果があって全然におわなくなった。
いつしか誰かが腋毛に吸収されている汗が衣服に付くからより臭くなる、なんて言ってたがあれは大嘘。
むしろ腋毛があるせいで水分が蒸発しないで臭いの元になる菌が増えて臭くなる。
衣服についた外気に触れやすいために水分はすぐに蒸発するから蒸れない。
少し最初はチクチクしたのが気になったが今までにない夏の快適さに驚いている。
男でも腋毛を処理したほうが断然いいなと思った。
抜け毛はなくなって部屋の床に醜い縮れ毛は落ちなくなるし、
股間が暑くても蒸れないし、清潔感があって良い。
しかしやはり銭湯にいくときや次の彼女ができたときは困るなと思って生やし始めてる。
海外では陰毛の処理は男も女も常識だと聞いたが、日本男性はどのくらいの割合で処理しているのだろうか?
あるアンケートサイトによると男が毛の処理しているのはキモイという女性意見がよく見られた。
やはり女から見て毛の処理してる男性のほうが無処理の男性よりキモイ対象に見られるのだろうか?
男が男のパイパンを見たらどんな感想を抱くのだろうかと考えだしたらやはり陰毛の処理はやめといた方がいいのだろうか、
しかしパイパンがこんなに快適だとは、という思いが振り子のように揺れている。
というわけで何とかして日本で男の毛の処理を一般化させたいのだが何かいい案はないだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20150602094633
「スプラトゥーンは日本人にとってiPhoneなんだな。FPS/TPSに馴染みのない日本人にその概念をわかりやすく浸透させた。」とか
日本ではFPS/TPSが流行ってない・受け入れられてない・知られていない、スプラトゥーンでこれが変わる、と言ってる人って
1 数がまだ足りない。流行っている、というならばトップタイトルはミリオンはいかないといけない。スプラトゥーンはミリオンに到達すると思っている。
2 比率の問題。CoDの驚異的な世界全体の売り上げに比べれば日本の比率はかなり小さい。スプラトゥーンは海外でCoDほど売れないだろうから日本人にこそ受け入れられたといえる。
3 タイトルのカラーの違い。CoDは日本人的ではないが、スプラトゥーンは日本人的。CoDが50万本売れても日本で流行っているとはいえないが、スプラトゥーンが50万本売れるなら流行っているといえる。
4 ハードの問題。任天堂ハードで遊ぶのが典型的日本人。PSのユーザー層でFPS/TPSが売れても日本で受け入れられているとはいえないが、WiiUで売れれば日本人が受け入れたといえる。
5 反響が重要。私は典型的日本人。私の周りにはCoDで楽しんでいる人は見当たらない。でもスプラトゥーンを楽しんでいる人はたくさんいる。だから日本人ははじめてスプラトゥーンでFPS/TPSを受け入れた。
どれなの?
追記
id:ko_kanagawa CODMW2で完成されきったシステム、インターフェイスからコンパチタイトル量産して5年近くで50万…って、固定ファンが毎作買ってて達成してるだけじゃねえの?根付くとかいう話とは違うだろ
5年、というのがどういう意図で区切った年数なのかわからないのですが、それはそれとしてどうも50万本というのがCoDシリーズ全ての累計を合算した数字と思っているように見えます。
本当に生きづらいし、息が詰まる。
頼まれてもいないのに「おれやっときますよ!」みたいなかんじ。
まじめというか頑固で融通がきかない。視野が狭い。
これは、こうあるべき、と認識したら曲げられない。
昔、「社長やってる人はみんなしっかりしてて奇麗な格好をしている」という話をしたら、
友達と議論になり、「全員が全員そうじゃないでしょwいろんな人がいるよwお前ほんと頑固だなw」と笑われた。
今思えば友達がもっともだ。根拠のない理想の正義で、これはこうあるべき。と自分に言い聞かせていた。
こんなんじゃだめだ、もっと頑張らなきゃ、と常に思っている。
だから周囲にも過度な期待をしてしまい、勝手に裏切られたと思ってストレスを感じる。
自分から手をあげて引き受けた仕事ですら、「なんでおれだけ…」とか思ってやってる。
ここから母の話。
こないだ職場でこんな会話が聞こえて来た。
「周りにも押し付けようとするようなねー」
ここでは俺のことではなく、ある人のことを言ってたのだけど、
あー俺そうゆうとこあるなーと思って聞いてた。
すると。
「そうゆう奴に限って、自分の権利に関しては興味なかったりするんだよねー」
「そうそう、周りばっかきにしてねー」
ん?
「でもなんでそうおもうんですかー?」
「だって、これはこうあるべきって正義感で生きてるやつは、社会とか会社の言いなりで、誰々はこういってるし、とかって意見に左右されてるってことじゃん。だからどこにいても都合良く使われる搾取される側なんだよ」
ん?
「子供の頃に親からガミガミ言われすぎるとそうなっちゃうんだよねー」
ん?
当てはまるところがありすぎる、というかまるで自分のことを言われているようで胸が痛くなった。
それと同時に、そうゆうことだったのか!と自分の性格の謎がとけた。
調べてみると、確かにそんなことがあるらしい。
うちの親が確かにうるさかった。
かなりヒステリックで、泣き叫びながら怒ったりするような人だった。
ひどい更年期障害だったんだと思う。
めちゃくちゃに殴られて育って、強い正義感と慈悲の心を植え付けられた。
誰も見てなくても、良い子でいないといけないんだと思ってた。
きっと誰かが見てくれていて、いつか評価されるんだと思ってた。
でも実際の職場ではそんなことはない。
でも長くはもたない。
どんな職場も長くもたない。
別に親のことは嫌いじゃなかったし、むしろちゃんと躾けてくれたと思ってたのだけど、
冷静に考えると色々とおかしい。
自分の心とは別に、自分の意志とは別に、根付いてしまった価値観に支配されている。
別に僕はこんな風になりたくなかったし、
こんなことしたくない、と思ってもやってしまう。
なんでこんな人生になってしまったのかと冷静に考えたりしてる。
正義とはなんぞや。
もし自分に子供が出来たら、何がなんでも自我を通せるようなめちゃくちゃわがままな子供に育てたい。
空気なんて読むな!と言いたい。
これについては兄がいたことも大きい。
人様には譲るもの、それが当たり前だと思ってた。
最高にうらやましい。自分もそうなりたい。
僕の意思とはなんなのか。
村中顔見知りな田舎育ちで就職を機にそこそこの規模の地方都市に出てきたけど、
知らない人≒警戒対象というイメージが根付いてしまっていて、5年以上経つけどまだ抜けない。
当然都会ではすれ違う人はほぼ知らない人だから、前から歩いてくる人はほぼすべての人の顔と手元とかをサッと確認してしまう。
カバンやポケット中とかに手を突っ込んでガサゴソしながら歩いてくる人がいたら、
取り出したものがナイフだったらどうしようと思って凝視したりビビりすぎて逃げ腰になったりしてしまうし、
掴まったが最後逃げられなさそうなガタイのいいお兄さんとすれ違うときは露骨に距離を取ってしまう。
ガラケーを取り出してパカっとしたお兄さんにビビッて逃げようとしてスっ転んだこともある。
自分では意識してなかったけど、同僚から小動物のようだと言われるぐらい、
かなりの頻度で歩きながら振り返ったりキョロキョロしたりし続けているらしい。
そういった挙動が都会では逆に不審なのは頭ではわかっているけど、
無理に目線を固定すると背後から刺されるんじゃないか、みたいな不安が立ち上ってきて落ち着かない。
それだけ視線を巡らせながら歩いているので、すれ違うのはもちろん、
道路の反対側や橋の向こう側を歩いていたり、車や電車に乗ってる知り合いを見つける頻度もそこそこ高いのだけれど、
やっぱり相手は全然こっちに気付いてないことの方が多い。
「歩いてるとき人の顔とか見ないし」とよく言われるけど、そんなものなのかなー、と思いつつもその感覚がどうにも理解できないでいる。
ただ、この環境に5年もいるのに慣れない時点で俺の方が異常なのは確かなようで、
それだけが原因ではないかもしれないけれど、色々こじらせた結果めでたくパニック障害になってしまった。
田舎者で小心者にとって都会の人の多さはそれだけで狂う理由になるのだと思うと、ちょっとショックだ。
折角頑張って勉強してあこがれていた業種に就けたのに、こんなことで躓いてしまうとなると、色々諦めるしかないのかなと思って暗い気持ちになってしまう。
http://anond.hatelabo.jp/20150520224717の追記として
それでも、自己犠牲に先はないよ
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。
するとある日いたちに見附みつかって食べられそうになったんですって。
さそりは一生けん命遁にげて遁げたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、
もうどうしてもあがられないでさそりは溺おぼれはじめたのよ。
そのときさそりは斯う云ってお祈いのりしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉くれてやらなかったろう。
そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。
それは彼の宗教観は仏教(特に法華経)やキリスト教に影響されている
私は、彼の作品を非常に好ましく思う
その一方で、酷く嫌悪もしている
どうして蠍が自分の身を食わしてやらねばならなかったと思い、食わせられなかった事に後悔しなければならなかったのか
蠍の存在価値も存在意義も存在理由も、いたちによって担保されるべき事柄ではないはずだ
蠍は蠍個人の理由によって生きればよいだろうし、それを他人がとやかく言うべきことではない
それなのに、どうしてさも、いたちに食べられなかった蠍には存在意義がないなどと言い放つのか
そうした極端な利他主義の辺縁に、本当の幸いや人生の意義はあるのか
そして何より、自分の存在意義を売り渡しているのが気に食わない
境界パーソナリティ障害ではないのだから、自他の境界くらいはっきりしたまえよ
誰が自分を許し、罰し、救い、貶めるのか
自分自身以外にあり得はしない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。夫婦の間では猥セツでないと思つてゐるだけのことですよ。誰がそれを許したのですか。神様ですか。法律ですか。阿呆らしい。許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」より
本人も書いている通り、これはクレジットカードのことを書いた記事ではなくてブロガー批判の記事だけど、それはともかく。
海外生活の経験として、日本でカード決済が根付くのは難しいと感じたが、その理由を書く。
という感じなわけで、こういう文化もないのにクレカが十分普及しているという韓国のほうがちょっと異常だと思う。日本の通常の生活を考えると、
例えば「日本のどこそこで震災があった時、在日朝鮮人が事態に便乗して女性をレイプした!」ていうネット上の噂があったとするじゃん。
「そんな事件、嫌だな」
「そんなことがあったなんて信じたくない」
「そんなことがなければいいのに」
そしてその上で、噂が事実として認定されたとき「許せない」と思う。普通こうでしょ?
ところが「ネトウヨ」達にとっては真逆なんだよ。彼らはそんな噂を見た時、こう思う。
「なんて嬉しい事件なんだ」
「こんな楽しいことがあるなんて」
「できれば本当であってほしい」
……なぜなら「ネトウヨ」はリアルに根付いた人たちの痛みなり哀しみなりに寄り添うわけではなく、ネットで「敵」として認定された相手をみなで叩くゲームを楽しんでるに過ぎないんだから。そんなゲームの格好の材料となる「在日がレイプした!」て美味しい話、嬉しくて楽しくて本当であってほしくないわけがない。
そう、彼らが「敵」の失点となる情報を得たとき感じるのは、いちおう表面上は見せる怒りや憤りや失望じゃない、紛れもない快楽なんだ。
やったーまた在日どもが不快な行動をしてくれたぞ、と(噂や未確定の段階で)喜んでるんだよ、彼らは。
そしてこの「嬉しくて楽しい情報が本当であって欲しい!」から、「いや本当じゃなくてもとにかく本当にしたい!」まで発展するのは必然と言ってもいい。だってさ、それら「敵」の失点となる情報=噂はあればあるだけ、「敵」を叩く格好の武器となるんだから。ゲームを楽しむなら、そっちにそっちにって感じになるじゃん。
こうやって単純な快楽原則にのっとったシステムとして、デマは信じられるし広まるんだ。
また「ネトウヨ」諸氏に聞いてみたい。あなたは相手がとにかく悪魔的であること、巨悪であることを、むしろ望んでいませんか?と。あなたが例えばTwitterで「朝鮮人がまたこんな行為を!」という未確定な情報をリツイートするとき、何がその動機のベースになっているのですか、と。
念のため補足すると、これが「ネトウヨ」に限らないという意見には同意するッス。自分の観測範囲の話をしたので他のサヨクなりなんなりもまたこの手の何かになってる可能性もあると思う、てーか「ネトウヨ」だけが突出してバカって世界観のほうがむしろありえん。