http://anond.hatelabo.jp/20150520224717の追記として
それでも、自己犠牲に先はないよ
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。
するとある日いたちに見附みつかって食べられそうになったんですって。
さそりは一生けん命遁にげて遁げたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、
もうどうしてもあがられないでさそりは溺おぼれはじめたのよ。
そのときさそりは斯う云ってお祈いのりしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。
それでもとうとうこんなになってしまった。
ああなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉くれてやらなかったろう。
そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。
それは彼の宗教観は仏教(特に法華経)やキリスト教に影響されている
私は、彼の作品を非常に好ましく思う
その一方で、酷く嫌悪もしている
どうして蠍が自分の身を食わしてやらねばならなかったと思い、食わせられなかった事に後悔しなければならなかったのか
蠍の存在価値も存在意義も存在理由も、いたちによって担保されるべき事柄ではないはずだ
蠍は蠍個人の理由によって生きればよいだろうし、それを他人がとやかく言うべきことではない
それなのに、どうしてさも、いたちに食べられなかった蠍には存在意義がないなどと言い放つのか
そうした極端な利他主義の辺縁に、本当の幸いや人生の意義はあるのか
そして何より、自分の存在意義を売り渡しているのが気に食わない
境界パーソナリティ障害ではないのだから、自他の境界くらいはっきりしたまえよ
誰が自分を許し、罰し、救い、貶めるのか
自分自身以外にあり得はしない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。夫婦の間では猥セツでないと思つてゐるだけのことですよ。誰がそれを許したのですか。神様ですか。法律ですか。阿呆らしい。許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」より
そこに、対象はない 優しさに「その人だから」という動機はない 「俺に優しい人は、きっと他の人にも優しい」というのは一片の真実である そこに、どんな動機があるというのか 自...
http://anond.hatelabo.jp/20150520224717の追記として それでも、自己犠牲に先はないよ むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。 す...