はてなキーワード: 合唱とは
叩いて全く埃の出ない人物なんていないと思う。次のエンブレムのデザイナーが選ばれた場合
・元電通博報堂の場合、利権ガーの大合唱、謎の仲良し互助会マップが作成される
・作品に埃が出なかった場合、SNSでの発言や中高卒業文集の洗い出しを開始
・親族の洗い出しを開始
・それでも埃が出ない場合は、埃の捏造を開始(昔からの友人だけどあいつは...的な)
といったことが確実に展開されるだろう。名誉ある人が憎いというゆがんだ暇人がネットには多いみたいだから。今回は佐野が折れて終わったけど、次同じことが繰り返されたら、それこそ自殺者が出かねないように思う。
そうならないためにも次のエンブレムのデザイナーは公表しない方がいい。公表しないならしないで「利権ガー」と言われるだろうが、これ以上ゴタゴタしないためにはしょうがないと思う。
そもそも北京もロンドンもアテネも、ロゴは個人デザイナーではなくデザイン事務所が手がけていた。ロンドンは激しい批判に晒されていたけど、対個人にならなければいくら炎上したって大した影響はないだろう。でも、日本にはそういう事務所がほとんどないんだよな。
東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。
もちろんこの「思う」は、関係者に取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。
でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。
何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。
そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。
(与論はたぶん世論の誤字なんだろうけど、何箇所も有るし俺の知らない用法なのか……?まあ良いや)
シロクマセンセイの「メシウマしたい個人が大挙して押し寄せて、それが世論になるの怖え」というのは、感覚として判る。
ただ、ネット→マスコミ→世論、という、ワイドショーロンダリングによるお茶の間意思形成に一役買ったのじゃないかとは、思う。
その意味で、ギリギリ一歩踏みとどまって、既存のメディアスクラムというか、メディアリンチまでで済んでいる。
勿論この社会的制裁ってやつだってどうかとは思うが、「捏造確定」のような報道は、少なくともしていない。
まあ老獪とか言うのかもしれないが、流石に法務があるようなところで、無茶はしなかろう。
例えば、シロクマセンセイへのブコメにこんなものがあって、スターを集めてる。
augsUK 盗用や捏造の指摘を「叩き」と言ったり「暗い情念」と表現するのは、単純にその人の倫理観がねじ曲がってんのかなとは思う。そもそも「ネット」が一つの人格で動いているような表現がとても気持ち悪いけど。
ブコメ中で「盗用や捏造」と言っているが、何のことだろうか。立証されただろうか。それasgsUKさん個人が、責任取れるだろうか?
捏造していないと裁判の末に証明されて、名誉棄損で訴えられて、30万くらい払う覚悟でブコメ、してないよね?(してたらゴメンネ)
法治国家における倫理観としては、「疑わしきは罰せず」で、容疑者を犯罪者として扱わないことなのかな、と思う。
で、たぶんこの流れを読んでギョッとしたんじゃないかな。
え、いきなり個別のブコメを取り上げてナンカ言うのかよ、みたいな。
そう思ったのであれば、それは「「ネット」が一つの人格で動いている」となんとなく思っているからだ。多分そうだと思う。
当然、それぞれのネット上の発言は、それぞれ別の人格で、それぞれ別々に各発言に意思と責任があるんだけど、そう思ってないんじゃないかな。
だから、言葉が「軽い」し、覚悟がない。まあそんなもんだとは思うけど。
例えば、ザハ・ハディドの個人攻撃あったよね、ちょっと後味悪かったよね、みたいな記事に、こんなブコメがあってスターを集めてる。
Matsuriame そうかなぁ。競技場に関しては「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし、「ザハのせい」にしたがって、建築家だけに責任を押し付けて降ろしたのはむしろ発注者の人達だったけど。
まあ、「そうかなぁ」って書いときゃ免責みたいな空気感、あるよね?
xevra ザハの物を本当に作ろうとするのはクレイジー。ザハは模型を見て楽しむ物であって実際に作ろうとしちゃダメだ。デザインは素晴らしいからコンペは通過しちゃうが実現性無視してるから到底作れない。
はてブで1000超えってワリと珍しいんだけど、xevraさんの他にも「金かかるのデザイナー(ザハ)のせいなのね」というブコメの大合唱ですね。
他にも記録はイッパイあるけど、Matsuriameさんは、ググったり、ブコメを振り返ったりしない人なのかもしれない。(スターつけてるヒトもね)
そういう自分の発言がホントかどうかの責任を意識しないし、取るつもりもないのは、まあ放言じゃないかなぁ。(無責任話法)
勿論ここでは、「そうかなぁ」って書いてて、強く「いや違う!」とはコメントしてない。
感想だし違ってたらゴメーンネってすれば、別に良いじゃんブコメだし、みたいな空気感、あるよね?
「「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし」って、嘘ついても、いや嘘じゃないよ感想だしそういう言い方はヒドイ、とか思うのではないかな。
見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブな情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?
「構わないものだろうか?」というか、法治国家ならシステム外のプロセスも経ていない圧力でひっくり返るのはマズイと思うよ。
とはいえ、感情や情緒は大切にしましょうというのは、日本のシステムにはプロセス中に組み込まれているし、拡大傾向にある。
amakanata 今回のシロクマさんの見方はちょっと違うんじゃないかなぁ。世界的な賞を許可を得ずに素材を使ったデザインでごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない、という庶民の感情の健全な発露でしょ。
「ごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない」という「ネガティブな情緒」で、「庶民の感情の健全な発露」として「“世論”に直結」。
シロクマセンセイの見立てとそう言ってること違うようには思わないけども、amakanataさんの感覚は、ざっと見ブコメの5割くらいの感覚には近いように思う。
(本人の属性で作品の価値が上下するのは日本では良くある話だし、事業に関わる人の身ぎれいさを要求するのは日本だけじゃないしね)
amakanataさんは「ごまかし続けた」という具体例とかそれが真実ごまかしたのかを立証する責任があるとは思ってないだろうし、まあ実質ないんじゃないかな。
ちょっとブコメするのと同じ気軽さで簡単クリックで1万人自動訴訟できる世の中になったら、またちょっと違うんだろうけど、その非対称性の話はまた別の機会に。
ただ、「ホントだったらヒドイ(=嘘でも責任は俺にはない)」みたいなデマ一直線の発言も、居酒屋談義や床屋政談ならアリだと思うし、そこを気にするのは健全ではない気もする。
監視社会じゃねえのにそんな発言まで責任持ってしなきゃいけねえの?みたいな。いやほんとは責任もってしなきゃいけないんだけど。
信頼出来ない上司の業務命令には疑いの目を向ける、ではないけれども、本質的なところに不信感があるのではないか。
つまり、知性主義というエリートのやることに、なんか違うのではないか、どうも信頼出来ない信用出来ないとの思いがあるのではないか。
それが、判りやすい形で出た今回のエンブレム炎上騒ぎで、「普通の市民の道徳的な感覚として、まっとうな結果」と思う人が多いのであれば、
それは「メシウマ」が(ホフスタッターの言う本来の意味での)「反知性主義」として機能し始めたということなんじゃないかな、と思う。
エリートの言うことは信頼出来ないから、市民団体が監視をします、では無く。
一人ひとりの小さな放言や、調査結果や、情緒からくる感覚や感想が、まとめサイトに束ねられてマスコミがすくい上げて拡大する。
そこには警察の捜査も、弁護士や検察官の立証も無く、過去の蓄積からの裁判所の判断もなく、法律もルールも無縁の所で、
そうだろう、そうに違いない、絶対そうだという、責任のない感情的な判断が積み重なることで、「事実」になる。
それはある人から見れば「暗い情念」だし、ある人にすれば「常識的な市民感覚」だろう。
動機が行為を正当化するとも免責するとも思わないけど、そういうものかもしれない。
クリックで参加できる人民裁判だし、結果死人も結構出てるけど、改まらないしね。
(この増田も、5人から訴えられる可能性あるしなあ。たぶんダイジョブだと思うけど。裁判面倒だよなあ)
「反知性主義」判り難いという指摘を直接受けてまあそうかなとおもったので追記。
「知性主義」は、「専門家主義」と置き換えてもらうのが、一番ホフスタッターのニュアンス近いと思う。
「反知性主義」は、「反専門家主義」となって、つまり「専門家の判断ではなく、むしろ専門家ではなく専門的な知識がないからこそ、正しい判断が下せる」という主義とか態度のことね。
模倣の判断や、建築実現性、刑事民事の責任まで、デザイナーや建築士や弁護士でない、知識を持たないヒトが正しい判断をくだせていると考える(またそれを支持する人がいる)というのは反専門家主義(反知性主義)が受け入れられる土壌が育ってきているのではないか、という話。
専門家でない人達の声で(途中に週刊誌や新聞の専門部署を経ずに)、専門的な判断が覆る怖さについての話なのかなと思っている。
まあ、医療や災害に関しては、ネットでもまだ反専門家主義者が批判されるのを見ると、専門家たちが丁寧に説明することが重要なのかな、と思う。
(とはいえ、教育関係のひっくり返らなさを観ていると、今回の炎上は個別事案であって、脇が甘かったからこそってことなのかも知れないけど。ぬ、訴えられる可能性が上がった気がする。熱狂的な個人は手打ちが面倒だからボカスぞ)
『シンフォギア』は歌いながら戦ってるシーンではアフレコの時に歌ってるそうな。
演出上そうするしかない(歌ってる途中に攻撃受けて歌ってるのが一瞬途切れるとか音が外れるとか悲鳴や叫び声入るとかを、既存の音源にアフレコして重ねるのは編集がメンドイ)からそうしてるのであって、こだわってるからではないそうだが。
あと、そういう事言うなら、アイドルアニメにかぎらず最近の曲は複数人数で歌ってるのは大概個別に歌って録音したのを編集で合唱してるように見せてるだけだし(なので大概は個別に歌ってるバージョンが人数分CD出る)、そういうこと言ってもしょうがないのでは。
中学生になって最初の音楽の授業で練習させられたのがマイバラードだった。
当時はパッとしない曲だと思ったし、合唱ってのを授業でそれまでに比べたら割と本格的に練習させられるってのが初めてで退屈だと思った。
でもそれから15年以上たった今でもたまにyoutubeで聞く。
他にも合唱コンクールで歌った曲、とくに時の旅人や、卒業式で歌った旅立ちの日にも聞く。
合唱曲って曲自体のよさと思い出が合わさってとんでもない郷愁を感じさせるんだよな。
んでだいたいyoutubeで合唱曲のコメントに、優勝するぞとか書いてあるんだよな最近は。
昔はyoutubeなんかなかったけど、合唱曲を通して感じる根っこのメンタリティーは何も変わんないだなと思って不思議な気分になる。
つか時の旅人の完成度やばくね?
なんかすげー完成されてる感じ。
「表参道高校合唱部!」第3話、“涙の数だけ強くなれる”「TOMORROW」を合唱 (music.jpニュース) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150730-00086880-lisn-musi
「表参道高校合唱部!」というのは放送中のTBSの連続ドラマで第3話はまだ未放送。
この記事は明らかに民放の商業ドラマの宣伝を目的とした記事なのである。
テレビ局が、出演俳優の所属事務所が、ドラマで使用される楽曲のレコード会社が、あらゆる手を使ってこういう宣伝記事を促している。
先日、ステマを根絶します、と高らかに宣言したばかりのYahoo!ニュース。
20代前半の男です。大学のとき就職活動をやる気が起きず内定を取らないまま卒業して派遣で働いています。
私は今までなにひとつ成し遂げることなくここまできました。とにかく意欲がないのです。小学校のとき野球やボーイスカウトなどをやっていましたが、自分からなにか進んでやろうとすることはなく覚えるべきことやるべきことなどせず怠けており周囲に溶け込めず嫌われがちでした。
面白そうな遊びの計画を聞きつけては誘われてもないのに駆けつけたり、トレーディングカードを盗んだりしていました。
言ってはいけないこと、言ってはいけないタイミングでなにかを言ってしまうことがあったようで、例えば担任の先生が学校の裏の遊具は老朽化していて危ないので、といったような話をしている最中に先回りして「だから使っちゃいけないってことですよね」なんて言ったりして、「そうだけど話は最後まで聞きなさい、それがあなたの悪い癖だ」と注意されたことがあります。
スポーツが苦手で歌を歌うのも苦手でした。合唱などが嫌いで小学校から高校までずっと口パクをしていました。明らかに気付かれていても、注意されても歌いませんでした。音痴だと思っていましたから。高校のクラス対抗の合唱コンクールでは、放課後に練習があったのですが全然歌わないのに参加だけはしていて、歌わないならそんなもん行かなきゃいいのにと自分で思いながらも、ただそこにいるだけみたいな感じでした。
中学、高校の部活や大学のサークルやゼミなど、とにかくなにか進んで頑張るということが一切なくただそこにいるだけという感じで周りにも溶け込めず、なんでそこにいるんだろうと自分で思っていたし他人からも言われたことがあります。
小学校高学年から中学1年ぐらいのときは、相手の気持ちを考えず、でも構って欲しいので大人しい人や人間ができている人に対してうざ絡みをしていました。そんな感じなので中学1年の夏からあからさまに周囲から嫌われるようになり、以来10年以上にわたって、自分から他人に話しかけることがほとんどできなくなりました。
なにもはなすことが思い浮かばず、話しかけなきゃいけない用事があってもどういっていいかわからない感じです。
なんとか大学には入学し一人暮らしを始めましたが、人に話しかけられず、なにか有意義な活動やアルバイトもせず、レンタルDVDをみたり小説を読んだり、電車で20分の都会の映画館に行って街をうろついたりするだけでした。洗濯や部屋の掃除などは一応できていました。
講義には一応出席しており、卒業のための単位はなんとか4年で取り終えましたが、就職活動はろくにできませんでした。なにをどうしていいのかわかりませんでした。志望動機や自己PRをまったく考えて書くことができませんでした。なにか頑張ったことややりたいこと、できることがまったくない、どうしようといった感じで面接もほとんど受けませんでした。大学に入る程度の勉強はできていたので、警察官など簡単な筆記試験を通れば面接までたどり着けるようなところはいくつか受けましたが、明らかに向いていないし、面接や面接の際に提出するカードの内容がボロボロだったので、採用にはなりませんでした。
日常会話程度の人付き合いもできず、業務的な連絡すらも億劫というか中々言い出せないような有様で、まともな人付き合いや就職など出来そうもなく、現在の派遣先の工場の単純作業の最中は「これからどうしよう」「俺になにができたっていうんだ」「恵まれた家庭に生まれだからまともな性格さえ備わっていれば人並みにはなれたはずなのに」といった考えてもしょうがないことが頭に浮かんできて辛いです。
周りの人の話し声の断片に「臭い」といったワードを聞きつけると自分のことを言っているのかと不安になります。まあそれは自分の気にしすぎだと思うのですが。
今までのことを振り返って、自分勝手に甘えてきただけのような気もするのですが、自分ではどうしようもなかったんだとも自己弁護してしまいます。
ところで希死念慮というのはどのくらいのレベルのものを言うのでしょうか。本気で死のうと思ったことはないのですが、こんな人生しょうもなさすぎるしどうにもならないんだから死んだほうがいいんじゃないか、でも痛いのとか汚いのは嫌だしな、なんて考えてしまいます。まとまりのない文章ですみません。
作業しながら頭をよぎっていった作業に関係ない言葉たちを10分間書きとめてみた
朝辛子 ソレミシ ソラシミレドシ 関東ローリング名刀 千手観音紹介 ミレドレ 連打ブレンディ
どんどん屯田 冷麺パワー 盛りのついたギャラリー 副交感神経膜 腹膜 フッくんあのね メッケー部
シュカ シュガー この町 あの町 Heart ゲイン コンバット小町 木炭 木刀 白蓮 シンデレラ饅頭 サム指姫
ちんすこう グアテマラ 国旗 ピーチ味の無精髭 白髪交じり 43% バンテリン バッテリー パルテノン信玄
湿度の高いポテチ ちりめんじゃこの艦隊 混成三部岩礁 ガッチョン カシューナッツ合唱 ドドミドレ ガンギャラド
瀕死のグルグルボッチ メティオーロ ビブラート肩こりガンダム ダンブルドア武運ダウンロード Send デデンデン ドレスデン
ペンさ PENさ ペン先さ ベンジャミンさ ペン捌きさ ペン先しまっとこう しまっていこー しまった伊藤 神速 Get It PENTAX
復讐 予讐 触媒宿題 吟醸 1965万個の銀賞 Head ラドミレ マグロディストピア 霊峰ナクナク 首輪ハンサム グラビティ緑茶
年表系エルダーエラー ナンボin天狗恋愛 ルワンダ 奇襲 紀州 新古今和歌集 チャウオック ハムエッグ ベンジャミン酢
3.9 三連休 産卵するワオキツネウオ 腕毛テヅルモヅル 三尺 芍薬 生薬ミルキー アルビノエンペルト ソース味
M字クリップ兄弟 肉汁ギャップ 胞子inほうじ茶 ガッデムヘルストローク 男爵ヒモ 死んでる ハミってる クマビスケット
ゼリービーンズ りんごとハチミツと歯茎 ババァモンテネグロ 入れ歯総選挙 10分
集中ってなんだろう。
もう見ていないかもしれないけれども、何十年も前に大学で合唱をやっていたおっさんとして書いておこうかと思う。
ぼくは元増田よりも遥かに音楽に疎いのに合唱を始めてしまった。高校での選択は美術だったし、合唱団に入った時点では音符の読み方すら怪しかった。
それでも4年間続けたのは、合唱団の技術志向が弱かったことに加えて、大学での人間関係の中心が合唱団になってしまったからだ。さすがに音符は読めるようにはなったものの、音感とリズム感が悪いままでも引退まで居座ってしまった。
とはいえ、さすがに居心地が悪くなった時期はあった。技術的にはお話にならないレベルなので、運営のほうに回ろうとしたのだが、人間関係をこじらせてしまい、結局は平団員として4年間を過ごした。技術もない、人間関係も良くないということになれば、さすがにこのまま合唱団に居続けてよいものか悩むことになる。後輩からすれば、存在価値のない先輩という位置づけになっていたかもしれない。
なので、元増田の
辞めたらサークルの人達には何と思われるのだろう。あいつらは口では「いなくなってさびしい」などと言うのだろうが、本心ではきっと「お前みたいなやる気のない奴はさっさと辞めてくれ」と思うに違いない。少なくとも俺の本心を知られたらそうなることには間違いない。友達を失うのは怖い。なんで上手くなる義務があるんだ。俺は歌うのが好きなだけなのに。
という心情はわからないでもない。ぼくも「自分なんてサークルからいなくなったほうが、みんなが喜ぶに違いない」「自分は合唱団にとっての癌だ」とかよく思っていた。
けれども、おっさんになって思うことは、それはそれで自意識過剰だったということだ。周囲の人は元増田がいようが、いなくなろうがたいして気にしない(と思う)。企業のような営利組織であれば話は別だが、大学のサークルで「いなくなってほしい」と思われるためには憎悪の対象にまで上り詰めなくてはならない。そこまで至っていないのなら「いても、いなくても構わない」だろうし、ステージのチケット負担などを考えれば「いてくれたほうが助かる」というのが本音に近いところだろう。
あと一つ言えば、元増田は合唱団をやめる必要はないが、どこか別のところに居場所をつくったほうがいい。合唱団にしか居場所がないから、なんとかしてそれにすがりつこうとする。だが、その必死さがかえって合唱団に居続けることを難しくしてしまう。ぼくの場合には大学のゼミだった。ゼミでも大して馴染めていたわけではないが、ゼミが駄目ならサークルが、サークルが駄目ならゼミがあると思えるだけで、ずいぶんと心理的に楽になる。そうなれば、合唱団の友人たちとも余裕をもって付き合えるようになるのではないかと思う。
もちろん、元増田の状況はぼくの状況とは違うかもしれないが、もうちょっと気楽に考えて良いと思う。良くも悪くも、周囲の人間は元増田のことをそこまで気にかけて生きているわけではない。
それはともかく、楽しく合唱することが目的ならサークル外に求めるなり、別サークル立ち上げるなりすればいいじゃん。
そこまでするなら辞めるってんなら所詮その程度だったってこと。
合唱を始めたのは大学生になってからだ。大学に入学した時、新しいことに挑戦してみようと思った。小さいころピアノを少しだけ習っていたので、耳だけはよいと思っていた。だから合唱サークルに入った。
だが、2年生、3年生になるにつれ、なんとなく違和感を感じるようになった。
サークルでは先輩が後輩の歌い方をチェックするのが日常風景だったが、俺はそんなこととは無縁だった。歌うのは楽しかったが、自分の発声技術を磨くということに興味がなかった。つまり「うまく歌う」ということに何の価値も見出していなかった。
そんな中で2年生になった。後輩が入ってきた。まずヤバいと思ったのが、曲を練習する前の発声練習だった。俺は良い発声と言うものがなんなのか全く分かっていなかったので、とても新入生に教えられるようなことはなかった。未経験者の場合はまあ何とかごまかせたが経験者相手には下手がばれるのではないかとビクビクしていた。
そんな中で、俺は次第にこう思うようになってきた。
「ひょっとしたら俺は、このサークルでは人権が無いんじゃないか?」
サークルに入っている他の人達は、皆自分や他の人達の技術向上に熱心で、暇さえあれば「この曲はこうするといい」などという話をしている。それに合唱曲にも詳しい。おそらく休日や暇な時間に調べているのだろう。
翻って見れば俺はどうだ。
俺はこんな話にはついていけない。誰それがうまいだのと言われても分からない。この曲が好きだと言われてもほとんどが知らない曲だ。俺には適当に相槌を打つことしかできない。俺はサークルで練習した曲しか知らないんだ。
加えて、最近つらい事があった。
サークルで与えられた仕事に失敗した。すべきことを後回しにして、結局最終的には二進も三進もいかなくなっていた。
このことで、俺の精神はほぼ完全に崩壊した。もう俺には何もできない。せいぜいこんなところで愚痴を吐くくらいが関の山だ。
辞めたらサークルの人達には何と思われるのだろう。あいつらは口では「いなくなってさびしい」などと言うのだろうが、本心ではきっと「お前みたいなやる気のない奴はさっさと辞めてくれ」と思うに違いない。少なくとも俺の本心を知られたらそうなることには間違いない。友達を失うのは怖い。なんで上手くなる義務があるんだ。俺は歌うのが好きなだけなのに。
書いていて惨めだとは自分でも思う。
合唱をやる以上うまくなるように努力するのは人として当たり前で、そんな気もないのに合唱を続けている俺が、人として失格なのも分かっている。歌うのが好きなだけで、合唱を続けては、いけない。
相談できる人がいれば良いのに。俺にはこんな時頼れる人などいないんだ。人の頼り方を勉強すればよかった。合唱を始めようとした俺が馬鹿なのは分かった。もう許してくれ。
女性を活用するという表現にフェミニスト的には違和感覚えるかもしれないけど、
そもそも男性社会があって、そこのボス猿が昨今当り前のように口走ってる台詞がこれなんだよな。
でもちょっと待って欲しい。
それなのにどうして今更女性を活用したいと言い出すようになったのか、
結局奴ら同様上から目線で女を管理職など重要ポストに宛がっとけば大丈夫だろな人間なので
ノルウェーで今持ち上がってる女性活用に関する諸問題で特に問題視されてる女性専用役員ポストを
日本でも宛がおうとする動きは見ていて滑稽だと見る人はそんなにいないんじゃないかと冷静に分析する。
何故なら女性活用先進国であるノルウェーですら女性活用の意義を見出せていないというのに
先進国やフェミニストが声高く女性を活用しろと大合唱して世論を味方につけて政治に口出ししてる現状をみれば
あくまで性別男としての見解だけど、女性を活用したいと上から目線で主張してしまうのは
要するにノルウェーで今深刻化してる諸問題をそのまま日本にトレースする可能性があって、
それによって女性活用はカタチだけになってしまうのではないかという危惧がある。
現に割と重要なポストに女性議員が宛がわれたところ、団扇問題とかゆうこりんドリル問題とか明らかにおかしな現象が
つまり性別男の求める女性活用というのも試行錯誤で問題化したノルウェーとどっこいどっこいで、
全然女性活用が出来てないのに結果だけを求めたら問題が起きてしまう所まで似通ってしまった、という所に落ち着いた。
性別男にとって女性活用なんてのは便宜上の言葉で、正直言って女性が活躍できる場所なんて受付とか電話対応とか一般事務とか保険営業とか
まあ、男の営業マンが女性を見てニヤニヤしたくなるような職業しかないわけだ。
だから、女性活躍なんて言っても女性が自ら活躍していくスタンスでやってる場所でないと当然男性社会の中に女性を入れるのだからズレが生じるよな。
そこを解消していくのが男性の仕事だってフェミニストは常に男性に責任の所在を持とうとするけど、
はい、そうですねと性別男がこれを認めた所で女性を活用できる職場づくりなんて到底不可能なんだ。
性別女はいつだって自分は不遇だと思ってる様だけど、それは違う。
実の娘とは言え、大塚家具とは関係のない会社を既に何件も成功させていて手腕はずば抜けていたし、
メガバンクが融資条件に彼女を社長に据えろと言った所を見ても、少なくともこの女社長は実力で社長になってる。
要するに、女性活用なんて甘っちょろい事を考えるヤツなんかよりずっと女性が活躍してる。誰の手も借りずにね。
結局、女性を活用したいなんて夢物語を語ってる性別男やフェミニストは、自分たちの置かれた状況なんて無かった事にしてるだけ。
努力が足りてない女性を活用してもどうしようもならん事は前例が物を言ってる。
突然の死によって、この世から去った騎手、後藤浩輝氏について、ファンだった方のみならず、競馬に親しくない方までも驚きと悲しみを持って自殺のニュースを受け止めた。
突然の自殺。
関係者はもとより直前まで会話を交わしていた人たちですら、予見しなかった死については、本人以外が死の理由について述べる事は全て的外れなのであろう。まさしく、死をもって口をつぐんだのであろうから。
でも。この死の理由自体は分からないながら、死に至った事については仮説を立てることが出来る。的外れでも何であろうと、仮説は仮説だ。
後藤浩輝氏は、たぶん、どこかのタイミングで自殺を決めたのだろうと思う。
それは実際に決行した日、ではなく、その遥か以前に決めたのだろうと思う。
そして、逆説的ではあるものの、満たされて幸福である時に死にたかったのだろうと思う。
有頂天になり、全能感にひたり、笑顔で述べる「死んでも良い」という言葉ではなく、深く自身とその周りを見つめ、そう思える時を息を潜めて待ったのではないかと思うのだ。
天啓を全うし、寿命を迎えるにあたり、太陽が輝き草木が繁り、今を生きる人々に見送られながら死ぬのが理想かもしれない。けれど、死を決意したものにとっては、寿命ではなく意志によって、自ら終わらせたかったのではないかと想像する。
死は死であり、自ら命を絶ったことによる非難、同情、憐れみが、死んだものにではなく、遺されたものに対して降りかかることを免じる気持ちはない。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
―ナンシー・ウッド
まー、なんか答え出てしまっているけど、なぜ、と問うた増田自身がもう自分で答えを出して納得しちゃってるので、今さら外野がなにか言うのもアレなんだが、その問いについては、ライトノベルというのは、「馬鹿にされることをみずから望んでいるジャンル」だから、という話にしかならない。
ここらへんが、「オレたちをブンガクとして認めろ!」という異議申し立てを行った、SFやミステリや大衆文学とは根本的に異なる。
なぜなら、ライトノベルというのは、マンガしか読んだことのない、マンガしか読めない小中学生に、「これならぼくでも読めそう!」と思わせなければならないジャンルだからである。
ラノベ側が「オレたちはブンガクだ!」と異議申し立てをした瞬間、「そんな難しいものぼくたちには読めません」と、このメインの読者を取り逃がすことになる。
ライトノベルとは言わば駄菓子であって、そのチープな雰囲気こそが最大の魅力であり、みんながよってたかって馬鹿にすることによってこそ、「そんな本ならぼくでも読めるかも……」と小説を読んだことのないガキを引き寄せるのである(その内容が本当に「駄」で「チープ」かはまた別の話だ)。
たとえ本人がそのつもりでも、あれはラノベのステマなのである。
だって今日から一年間、ありとあらゆる人間が、「ライトノベルは素晴らしいブンガクだ! みんな石川博品を読め!」と大合唱をはじめて見ろ。少数のブンガクオタクと引き替えに中学生が離れて速攻で滅ぶ。
そういうわけで、繰り返すが答えは、
「ライトノベルというジャンルが馬鹿にされることを望んでいるから」
ということになる。
以下余談:
「ラノベというのは、漫画でいえば少年漫画のようなものではないか。」という指摘は、半分正しく、半分間違っている。
実際「ライトノベルとはマンガしか読めない中学生が読めるマンガのような小説」であるのなら、「ジャンプに載ってるマンガみたいな小説」が、いっぱい読めるジャンルになっていてもおかしくはなかった。
……何かが奇跡的に上手くいって、ジャンプみたいな小説、サンデーみたいな小説、マガジンみたいな小説が並び、ちょっとコアな読者向けにアフタヌーンみたいな小説とかコンプエースみたいな小説も並び、そんな多様な「マンガみたいな小説」がいっぱいあって、「マンガみたい」だと馬鹿にされるから、小説より遙かに広い、マンガと同じだけの読者層を持つようになる。それが、私がかつて夢想した、ラノベの未来であった。
なぜそうならずに、
「コンプエースに載ってるマンガみたいな小説」しか読めないジャンル
になったかと言えば、これはもう単純で、シェア握ってるのが今も昔もKADOKAWAだから、という話にしかならない。
ジャンプもマガジンもサンデーも、みんなコンプエースの後追いしかしない少年マンガ界……というのが、残念ながら現在のライトノベルである。
が……それはそうと、もう少し別の形のライトノベルは、ありえたのではなかろうか、とは常々思っている。
冒頭の一文、確かにわかりにくかったので修正……。ごめんよ、ラノベ天狗、せっかく褒めて貰ったんだけど、そういう意味じゃなかったんだ……。