2015-03-01

突然の死によって、この世から去った騎手後藤浩輝氏について、ファンだった方のみならず、競馬に親しくない方までも驚きと悲しみを持って自殺ニュースを受け止めた。

突然の自殺

関係者はもとより直前まで会話を交わしていた人たちですら、予見しなかった死については、本人以外が死の理由について述べる事は全て的外れなのであろう。まさしく、死をもって口をつぐんだのであろうから

でも。この死の理由自体は分からないながら、死に至った事については仮説を立てることが出来る。的外れでも何であろうと、仮説は仮説だ。

後藤浩輝氏は、たぶん、どこかのタイミング自殺を決めたのだろうと思う。

それは実際に決行した日、ではなく、その遥か以前に決めたのだろうと思う。

そして、逆説的ではあるものの、満たされて幸福である時に死にたかったのだろうと思う。

有頂天になり、全能感にひたり、笑顔で述べる「死んでも良い」という言葉ではなく、深く自身とその周りを見つめ、そう思える時を息を潜めて待ったのではないかと思うのだ。

天啓を全うし、寿命を迎えるにあたり、太陽が輝き草木が繁り、今を生きる人々に見送られながら死ぬのが理想かもしれない。けれど、死を決意したものにとっては、寿命ではなく意志によって、自ら終わらせたかったのではないかと想像する。

死は死であり、自ら命を絶ったことによる非難、同情、憐れみが、死んだものにではなく、遺されたものに対して降りかかることを免じる気持ちはない。

今日死ぬのにもってこいの日だ。

生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。

すべての声が、わたしの中で合唱している。

すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。

あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。

今日死ぬのにもってこいの日だ。

わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。

わたしの畑は、もう耕されることはない。

わたしの家は、笑い声に満ちている。

子どもたちは、うちに帰ってきた。

そう、今日死ぬのにもってこいの日だ。

ナンシー・ウッド

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