はてなキーワード: ヒーローとは
世界のピンチに立ち上がるアメリカ・イギリスのヒーロー!→ ・・・悪い犯罪者は許さない・・ → 個人で実家のはす向かいの事件に立ち向かえ
007、ミッションインポッシブル、ワイルドスピード後期 → ボーダーライン →ワイルドスピード無印
などと並べていくと事件のスケール感においてイコライザーは小さい方だ。
世界中の核兵器を自由に操れるキカイも恐ろしい性癖をもつ生物兵器も出てこない。奪い合うのはカネで、悪者は地元の犯罪者集団(ヤクザ)で戦うのは極めてパーソナルな理由からだ。そこんところはリアルに寄せられている。
思ったよりおもろかった
黒い悪い甲原作の翻案、オマージュってところが下地にあったけど、
性的マイノリティとかの現代ならではのオリジナリティを交えて、しっかりと独自性を出した出来になっていた
たった9巻だけど、後半は本当に目が離せない展開だった
前半の地味さに比べるといきなり昔ながらのナントカ活劇!!!っていう落差はあるけど
なんとなく小難しそうってのと医龍だとただの作画担当だったのにひとりでこんなマンガかくとか期待できねーだろと思ってたから、
想定外だったわ
メインヒーロー?ヒロイン?と主人公の造形が医龍とほぼ同じで書き分け苦手なんだなってのはあったけど
連載で追うのはだるいけど、完結して一気読みするぶんにはいい暇つぶしになった
ぶっちゃけ犯人とかのミステリ部分は甘いとは思うし、もっと短くまとまってたらもっとよかったんじゃないかと思う部分もあるけどね
逆になんで最近ああいう、どぎつい裏社会にスポットを当てました系ないのかなって思ったけど、インターネットの普及ってやつで個人が発信することが可能になって、視聴者の知らない裏社会で筆舌しがたい悲惨な目に遭っている悲劇のヒロイン(あるいはヒーロー)というのが可視化されちゃったせいなのかな。
視聴者としてはこんなのフィクションじゃん、本当は〜っていうのが簡単に調べられるようになっちゃったし、そうすると現実は小説より奇なりだったりするし、その上で悲劇の主人公もその後しっかり立ち直ってたりして物語性が損なわれたりしちゃうし。
こうして現実世界からファンタジーな部分がどんどんなくなって、現実と地続きのファンタジーは転生ものしかない!みたいな今に続いてるんだろうか。
見なくていいもの多すぎだろ
影実→設定がキモすぎて1期1話切り
鴨乃橋ロンの禁断推理→リボーンを更に腐女子向けにしたような原作がマジでキツかった
帰還者の魔法は特別です→なろうで見る価値あるのチー付与だけ。以下なろうはスルー
オトナプリキュア→いやマジでキツかったわ。ニコニコ大百科で妖怪枕返しみたいに言われているけどマジコレ。
君のことが大大大大大好きな100人の彼女→100とか言いつつ26しかいないうちの更に8って久々にワロタも出来ないレベル
キャプテン翼シーズン2 ジュニアユース編→まだ見てるやつがいるのに驚き
薬屋のひとりごと→どこがひとりごとだよ。毎度毎度きっちりホウレンソウしてやがるくせによ。
経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。→名前がキモイ
シャングリラ・フロンティア→冒頭10分マジでキツかった……んでまあ思ったんだけど漫画版はやっぱ上手いね。漫画でいいよ。
16bitセンセーション ANOTHER LAYER→キモオタしかみねーだろ
進撃の巨人 The Final Season 完結編 後編→エレンくんの気持ち悪い告白しか見なくて良い。もうオワコン。
SPY×FAMILY Season2→ロリコンしか見ね―だろ
葬送のフリーレン→失速臭が凄い。つうか1期って天秤の辺りまででしょ?俺は黄金郷編が見たいんだけど3期とかでしょ?なげーわ。
デッドマウント・デスプレイ 第2クール→こういう痛いのを20超えて見れる人凄いね
東京リベンジャーズ 天竺編→もう終わった作品。なにあの終わりかた?
Dr.STONE NEW WORLD→原作終わってから時間経ちすぎ。もう熱は冷めてる。
はめつのおうこく→マグコミの厨ニ漫画楽しめるのマジで中学高校までなんだよなあ……
範馬刃牙 2期→もう皆飽きてる。異世界烈海王やガイシコの方がまだ受けるよ。
ヒプノシスマイク -Division Rap Battle- Rhyme Anima +→1期の失速具合見てまだ見る気がある人に驚きだね。俺はもういいや。
ブルバスター→監督が青木弘安。代表作ヒーロー・マスク。はいもう結論出たね。見たい人は見たら?
僕らの雨いろプロトコル→でんでん現象が起きる未来が既に見える。ダークホースだワッショショイされても皆騙されるなよ
ミギとダリ→こういうのってアニメ化するとテンポが駄目になるんよ。
め組の大吾 救国のオレンジ→令和に見るには古めかしいよねえ。
ダークホースに期待かな。
https://anond.hatelabo.jp/20231005063225
の続きといえば続き。
「NGリスト」のおかげで、また妙な方向へ話がドライブしている。
そりゃあんだけ大暴れしてたら後回しにされない方が変だろう。
一方でそんな内々の処理をダダ漏らす無能ぶりに震える。バカくらべか。
望月だって説明責任全く果たしてないとか弟が云々というのは無理筋というか「それはそれ、これはこれ」である。
「ジャニーズと望月記者のどっちの肩を持つんだ!?」というような問題ではもとよりないのだ。でもそういう対立構図でしかものごとを捉えられないレベルの人々が蝟集している。
(さらに言うなら人だかりにはそれ自体に人を呼ぶ力がある。「対立構造でしか考えられない」どころではなく、ほぼ何も考えられないが火事場の雰囲気にあてられて興奮して走り回る種類の人間が集まってくる)
「児童に対する性犯罪とその組織的隠蔽」事件までウヨサヨ対立ネタになってしまう、奇妙な社会を我々は生きている。
と、ここまでは前置き。知ってるか?正義のヒーローがいると社会は悪くなるんだよ。
ポスト核戦争の無法の荒野ではケンシロウは力無き民の唯一の希望だが、
警察とかがそれなりにある社会で、ヒーローが自由に徘徊して悪人をこらしめてまわってたら社会は悪くなるよ。偏頗な正義は分断と憎悪の母だから。常識だろ?えっ知らないの?なんかもっとマンガとか読んで勉強するといいよ。
それぞれの人間がそれぞれの利益・思惑でめいめい勝手に動き回る社会で可能なのは手続き的な正しさだけだ。要は法秩序。民主主義。
別に望月衣塑子だけを念頭に言ってるわけではない。「文春砲」だってそうだ。
スキャンダリズムは「正義を売らない」という旗印を掲げる。朝日新聞的に自分たちが大衆を導いてやるというのではなく、大衆の動物的関心に応えているだけだと。
5chだかまとめだか古のネット文化を引きずる陰湿なキモオタどもを見ていると、昔みたマンガにでてくる三流半グレを思い出してイライラする
俺は逆にこういう奴を狙ってイチャモンをつける
真っ当な人間は口汚い他人に積極的に関わろうとしない。だからこそネット弁慶は放置されて、更に調子に乗り口汚さに磨きをかけていく
人格否定、レッテル張り、誇張表現、拡大解釈しながら女のフリで色々がんばる
レスが止まればこちらの勝ち!女や社会に対して更に苛立ちやトラウマを抱えるようになっていればいいなあと思いながら次のバカを探す。
そういうバカの中から低脳先生みたいなマジもんが生まれてもぶっちゃけどうでもいい
これでも俺は真っ当に仕事をしているサラリーマンだが、だからこそストレスが地味に溜まる。
こういうジメジメしたストレスを差別主義のオッサンは正当な理由を自分で作ってストレス発散対象になってくれる。
罪のない他人に当たるより余程スッキリしながらネットを楽しめる。
決して褒められたことではないけど、自分なりの小さな社会貢献でもあると思っている
これってさあ、人口が多い中国人とかインド人とかだったら平気で言い返せたような気がする。「なんでアメリカはもっと◯◯人がヒーローの映画やドラマを作らないんだ? だって人類の総人口に占める◯◯人の割合は(以下略
細かいところに読みにくさは感じるけど確実に読ませる面白さはあるので5巻まで一気に読めた。ただ本筋が「主人公の成長」な以上ヒーローvsヴィランに話を絞るわけにもいかないのは分かるが、学園生活といずれ再来する強敵への懸念の両立で心が忙しなかったのが残念。これは私が群像劇でない限りは大きな話だけを進めて欲しいと思ってるだけで、気にならない人はまったく気にならない、むしろそこが良いってなる箇所ではある。
主人公・緑谷出久は使命感や焦りのあまり無茶な闘い方をし続けてしまう未熟な少年。がむしゃらに頑張る姿は話を引っ張るけれど、その場を乗り切ることだけを考えて全力を出して治療される流れにフラストレーションが溜まる。ただこれは作中でも否定的に見られている部分、いわゆる主人公が乗り越えるべき壁であり、オールマイトも不的確な指導を注意されている。デクの戦い方はこの先もっと変化して面白くなっていくんだろう。師匠ポジのオールマイトも完全無欠ではないのが泥臭さを出していて良い。
早くも登場した手強いヴィラン・死柄木弔は、明らかにデクと対比されて描かれていたのが面白かった。ヒーロー(もしくは強い者?)に憧れ、ややオタク的で、そして後継者を探す大人に「(ある意味で)利用されている子供」という点で共通しているのかと予想している。思想が浅すぎると思ったら楽しみたいだけ、というのも単純明快で良い。本当の気持ちや真の目的はまだ隠れていそうだけど。
戦闘描写について、アクション漫画はあまり読まないのでその方面の感想は書きづらい。読みにくいということはなかったが、心熱くなる動きがあったわけでもない。麗日お茶子vs爆豪勝己はとっても燃えたのでベストバウトに挙げたい。
「アメコミ」リスペクトの面はどうだったかと言うと、良いところもあれば好みじゃないなーとなるところもあった。
個性=固有の能力は、かっこいいものもチープなものも何でもあり!なところはワクワクするし、有象無象がてんやわんやする雰囲気は楽しい。みんなのヒーロースーツも個性に合わせたギミック・特色たくさんで読み応えがある。酔い止め防止とか出力コントロールとか、そういう細かい技巧と設定は燃える。
扉絵がかっこいい。
一方、擬音が中途半端に英語表記だったり、「画風」や「シルバーエイジ」などの用語は(少なくとも5巻まででは)何を指しているのか分かりづらく、アメコミっぽい用語を使ってみただけになってるのが没頭の邪魔をした。
特に気になったのは重要な「ヒーロー」の扱い。舞台の現代日本における「ヒーロー」の定義や立ち位置が少し汲み取りにくかったので、多くのキャラクターが掲げる「ヒーローになりたい!」にあまり乗れなかった。商売っ気が絡み、育成や資格の壁があり、(当然ではあるが)アメコミヒーローとは違う。ヒーローなのに学歴・経歴関係あるの夢がないなあ。仲間同士ギスギスしているのはアメコミも割とそうだけど皆そんなに喧嘩腰じゃなくても……と思ってしまう。ただこれは私がアメコミのイメージに引っ張られすぎていることが原因だろう。いっそアメコミのことを頭から取り出して読めばすんなり理解できるのかもしれない。あと喧嘩腰なのは学生だからというのもありそうだ。プロヒーローはそういった様子があまり見られなかったから。
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源 私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
AIの遺伝子という漫画に「VRゲームをやっていても、ベッドで寝ているもう一人の自分がいる感覚はなくならないんだ」という話が出てくる。
この話を読んでしばらくしたある日、俺は夢の中でふとその感覚が自分にもあることに気づいた。
それまでの自分は夢の中で感じる平衡感覚の違和感に苦しんでいた。
でも夢の中で仰向けになっていることは滅多にない。
夢の中で空を飛んでいる時、腹を地面に向けて空を飛んでいるはずなのに重力を逆方向から感じていた。
立って歩いてるはずなのに重力は垂直に来るものだから地面がドンドンせり上がっていく。
上手く歩けない。
上手く走れない。
この「肉体が感じる重力が夢の中の自分の状態と一致しない」という状態が原因で脚がほつれたり空に吸い込まれたりして飛び起きたことが何度もある。
だが、俺は気づいてしまったのだ。
夢を見ていても本体がベッドの上にあるということを受け入れれば、むしろ重力の違和感こそが明晰夢のトリガーとして使えると。
明晰夢における自己認識は幽体離脱だと思えという伝統的な作法においては、なぜ幽体に意識が飛び出しているのに肉体の感覚が残っているのかという疑問が発生する。
幽体離脱とはそういうものであると考えらればいいのだが、自分はそこに違和感を持ってしまって躓いた。
他にも異世界に意識がワープしているという理論もあるのだが、この場合は重力の来る方向がおかしいのはそういう異世界だと割り切るにしてもかなり無理が来る。
そこで、「俺は今VRゲームを遊んでいるので、ベッドの上に自分の感覚が残っている」という新しい認識を導入してみたのだ。
現実の肉体の感覚が残っているのは当たり前で、その上で夢の中にある肉体の感覚も存在するのが当たり前という認識でいれば、2つの肉体感覚があるのは何もおかしくないことになる。
このルールに気づいたことで俺の明晰夢発生率は大きく向上した。
更にこれには副次効果で「自分が今どこで寝ているのかを夢の中で確認できる」という利点があった。
職場で机に突っ伏している時は淫夢を見るどころかヒーローごっこさえやるわけにはいかないが(独り言を聞かれたら恥ずかしいので)、家でベッドに寝ているならそういうのもアリになってくる。
夢の中でふと現実の体を意識してみて、今自分がどこから重力を受けているのかを確認してみる。
家で寝ているならベッドに身体が沈んでいる感覚や、身体に垂直にやってくる重力を感じ取れる。
更にベッドの横に置く消臭剤をアロマの香りにすることにより、アロマの香りがするから家の中にいるはずであるという確証も得られるようにした。
二重の肉体感覚を利用することで明晰夢への移行だけでなく、寝ている場所の確認もできるようになったのである。
電車や職場で寝ている可能性を感じたら耳の感覚を強めて周囲を経過しつつ、その状態でも夢の中に居続けられるように二重感覚トレーニングの時間に使う。