はてなキーワード: シンボルとは
・そしてことあるごとに絡もうとする。
・○○会社の××(職種)と仲良くなりたいなどと呟く。
・ドラ娘などをやりたがる。
・ブログなどで「私優秀なエンジニアなんです」アピールをするが、技術系のエントリーの更新がほとんどない。
・女子だけど男ばっかのエンジニアの世界で頑張ってるアピールをする。
・TwitterやFacebookなど、不特定多数が見るところで「美人でモテるエピソード」を披露。
・TwitterやFacebookなど、不特定多数が見るところでモテない、寂しいなどつぶやき、「遊びにいこうよ!」「彼氏に立候補!」乞い。
・自分が負けそうな(容姿、仕事など諸々において)女性のTwitterやFacebookなどをすかさずフォローし「かわいい〜^^」。
もしくは、遠回しに批判。
・自分の誕生日が近くなるとAmazonのウィッシュリストを晒す。
・誕生日に貰ったものをアップし、いろんな人に可愛がられるあたしをアピール。
・ネイルをレッドブルやファイヤーフォックスなどのシンボルにし、「女子力高いけど、他のことはちょっと違うあたし」アピール。
「オチが救われない話」というまとめサイトを読んでいたら、こんな救われない話を知った。
『フランダースの犬』は、アニメとして日本人によく知られている。
もとは1872年発表のイギリスの童話だが、原作者の女性がベルギーの風俗をイギリス人の目で偏見的に描いている。
イギリス人の心の奥底には、ヨーロッパに対するかすかな敵意が潜んでいる。
「この地方は荒れ果て、人々は不親切で、しかも愛すべき犬を何代にもわたって、激しい労働に不当にこき使っている」
こんなことをずらずらと書いているのだ。
その上、本家イギリスでは、運命に抗わずに教会で死ぬという内容がアングロ・サクソン的に受け付けられなかったようだ。
結局欧米では、誰も見向きもしなくなったというわけだ。
ところが日本では、1975年に感動的なアニメが作られたために爆発的な人気を獲得する。
80年代からの海外旅行ブームでは、ベルギーのフランドル地方観光が定番コースの一つとなったほど。
もっとも、ルーベンスの絵を観ることはできても、『フランダースの犬』にまつわるものがそこには何一つない。
日本人がガッカリして帰国するのが、当時のツアーのお決まりのパターンだったとか。
ところが、1982年、大きな転機がやってくる。
ベルギー・アントワープの観光局で働いていたヤン・コルテールという男性が、運命を変えた。
日本人観光客から『フランダースの犬』という物語の存在を聞いたことが発端である。
生真面目な性格で、面白みのない変わり者と思われていた彼には浮いた噂もなく、恋人はおらず、友達も少なかった。
そんなオタク青年の彼は、地元に関係する噂話を聞き逃さなかった。
「アニメをやってたんだけど、もしかしたら原作があったのかもなぁ」
というだけで『フランダースの犬』について、はっきりとしたことが分からない。
街の誰に尋ねても、何もわからなかった。
しかし彼はあきらめない。
「この地方を舞台にしているのなら、図書館にヒントがあるかもしれない」
図書館であらゆる資料をあさり、……そしてとうとう、60年の間、二、三度しか借りられていなかった原作を見つけたのだ。
欣喜雀躍たる、彼の喜びが想像できるだろう。
……だが、読み終えた彼はがっかりした。
実は原作には、最後にネロが天使に救われて天国へと召される……というシーンはない。
ただただ暗いだけの作品なのだ。
原作者は夫に捨てられた後、犬の保護に尽力していたが周囲に相手にされなくなり、晩年は30匹の犬に見守られて亡くなっていた。
(この原作と日本人の感動との間の乖離は、いったいなんなのだろう?)
もしかしたら、それがヒントになるのかも?
彼は、日本語を学び、日本人観光客の友だちを作り、帰国した彼らからアニメビデオや童話集を取り寄せてみた。
その結果……感動したのだった。
情熱は、いよいよ膨らむ。
一年半かけて調査を行ない、原作の舞台が近くのホボケン村だと突き止めた。
当時の日本なんて、極東の島国で、ドイツに加担して負けた挙句に少々景気を持ち直しただけの国、というイメージだったから、仕方ないだろう。
だが、彼の熱意は次第に周囲を突き動かしはじめた。
ルーベンス以外にこれといって観光資源のないこの街に、もう一つの観光シンボルが生まれるかも知れない。
そういった周囲の思惑も重なり、ついには1985年、ネロとパトラッシュの小さな像が、ホボケン情報センターの前に立てられた。
除幕式にはアントワープ州知事、市長、在ベルギー日本大使らも参席、盛大なパーティーが開かれたという。
ネロとパトラッシュが共に埋められた(ことになっている)街の教会は、観光コースとなった。
ルーベンスの作品を観るためにアントワープを訪れていた日本人観光客がホボケン村にも立ち寄るようになった。
その地域は観光収入でおおいにうるおい、観光局勤めの彼の名声も次第に上がった。
フランダースの犬はベルギーで放送され、80%近い視聴率をとったという。
ヤン・コルテールは『フランダースの犬』研究家として知られるようになる。
その地域では日本通として知られ、日本との橋渡し役としても活躍するようになった。
研究のために日本へ何十回となく訪れるようになり、大の親日家となった彼は、日本人女性の石井ヨシエと結婚した。
彼は妻と共に、今でも地元でつつましやかに幸せに暮らしている。
……はずだった。
なぜなのか?
コルテールが日本人の妻をもらい、日本とベルギーの架け橋として活躍していることまでは、いろいろなサイトで詳しく取り上げられていた。
ところが、彼が犯した殺人についての続報をいくら調べても、日本語のサイトでは何一つその理由が分からないのだ。
英語のサイトで調べても、アメリカ人などが『フランダースの犬』に関心がないためか、まったくヒットしない。
仕方ないのでグーグル先生の力を借りて、オランダ語のサイトを日本語に訳したり英語に訳したりしながら調べた。
その結果、驚くべきことがわかった。
コルテールとヨシエが結婚して数年は、大変幸せそうだったそうだ。
だが、次第にヨシエは旦那の拘束がうとましくなってきたらしい。
もっと自由にさせて欲しい、自由にいろいろな場所に行きたい、というのがヨシエの欲求だったそうだが、コルテールはそれを許さない。
異国の地にやってきて、海外でしか味わえない自由を満喫したい日本人女性。
彼女を大切にするあまりに、彼女の全てを管理したいと願うベルギー人男性。
だんだんと、二人の間には溝が生まれるようになった。
二人の間はギクシャクし始める。
その時に彼女の前に現れたのが、口が堅いという噂のピエールだった。
「夫とは長いこと話してないの。夫は頑固でさ」
秘密を守れるピエールへの心安さからか、ヨシエは彼へ愚痴をこぼすようになった。
「彼は変わり者だからね。我慢さ」
愚痴を聞いてもらううちに、ヨシエがピエールに親しみを感じ、やがて二人が愛しあうようになるまでに時間はかからなかった。
ピエールの口は固かったが、ヨシエの下の口はゆるかった。
二人がバスルームで愛し合っているところを、コルテールが発見してしまったのだ。
口がゆるい上に、脇も甘かったというわけだ。
だが、そのときヨシエは豹変した。
日本女性のおしとやかさはどこへやら、情事を発見したコルテールを怒鳴りつけたという。
「あんたさぁ、男としての魅力がないんだよ!!」
彼女の口は、悪かった。
その時に、コルテールは、彼女のことを深く深く愛していたことに改めて気づく。
何があろうと、彼女の気持ちが戻ってくればそれでいい、というのがコルテールの偽らざる気持ちだった。
彼は、離婚を迫るヨシエに対して、仲を修復したいと取りすがった。
しかし、彼と別れてピエールと一緒になりたい、というヨシエの気持ちは変わらない。
それは、最後のお願いとして、彼女と日本を一緒に旅行することだった。
二人が出会った日本で過ごせば、彼女の気持ちも戻ると思ったからだ。
……これ、男にありがち。
男の浮気は「名前をつけて保存」だが、女の浮気は「上書きして保存」
他の男に気持ちが移った以上、振り向くわけなんてないのだ。
日本でヨシエは、両親にコルテールを引きあわせたという(この辺りは女性特有の図太さといえよう)。
それでいながら、彼女の気持ちが変わることはついぞなかった。
それを拒むコルテールを、ヨシエは罵った。
そして、決して犯してはならないラインを越えてしまった。
彼女は、職場のベルギー人の同僚達と彼とを一人ひとり比較して、いかにコルテールが劣ったオタク野郎なのか、痛罵したのだ。
……こと、ここにいたっては、どうしようもない。
その時の衝撃は、彼の行動が示している。
コルテールは逆上し、ヨシエをナイフで22ヶ所切りつけて、殺害したのだ。
先日「Flashエンジニアが今後10年食べていくには?」というテーマを元に
Flash に精通した Web 技術者達のディスカッションが行われる催し物があった。
http://www.publickey1.jp/blog/11/flash10.html
この記事だけでは内容が省略しすぎているため
時間があれば是非録画の模様もみていただきたい。前半初頭は音量が小さいので注意。
こういった催し物は面白いなと、私はとても楽しく見させていただいた。
http://www.ustream.tv/recorded/19073524
http://www.ustream.tv/recorded/19074357
ディスカッションでは Flash だけではなく HTML5 についても触れている。
ディスカッションの感想をディレクションや営業を行なっている知人に聞いたり、
ネット上の反応を見てみたところ以下のような意見がいくつかあった。
「『Flash が好きな人』だけではなく HTML5 派の人との対談もあればよかった」
「Flash 派の人の話だから HTML5 が使えないという話はいまいち参考にならない」
『Flash 派』『HTML5 派』という くくりで考えてしまう人は
まだまだ多いと実感する。
パネリスト達は
過去から現在までに様々なプログラミング言語を利用し、あらゆる技術に精通している。
Flash という表示媒体/環境開発がベター(時にはベスト)だと考え、
Flash をよく扱っている、という旨を話している。
最後の締めとして
Flash よりも優れたものが登場するのであればそちらに移行するでしょう、
とも言っている。
これだけの説明があったのに
ディスカッション内で触れた HTML5 に対する否定的な話は、
『Flash 派』とやらのポジショントークだと目に写ってしまったのだ。
Java やら C やら objective-c やら perl やら php やら
サーバサイドからスマホ用ネイティブ言語を用いてのアプリ制作まで
色んな事やってます、と言っても
現在世の中には HTML5 を推し、合わせて Flash を否定する記事が結構出回っている。
技術者が話す専門的な用語の飛び交う話よりも
HTML5 vs Flash 的な読みやすい記事に耳を傾けてしまう人はいる。
Apple 製品を好む人は「ジョブズがそう選択したのだから」と
なおさらこういった記事に目を向けてしまう。
「Flash vs HTML5 の話にのせられてしまうのは、よくわかっていない人だ。」
ディスカッション内では、
ネット上の煽り記事を読み不安に思ったクライアントから連絡を受け
きちんと状況をゼロから説明するハメになってしまった、という内容があった。
似たような状況になっている人もいるのではないだろうか。
当方周辺では、
「Flash は駄目だ」「Flash でなくても HTML5 ならできるはずだ」
「HTML5 は Flash の代わりになるものだと言われている」と
クライアント、あるいは仕事先の関係会社から耳にする機会が増えてきた。
技術者の及ばないところで
ベターではない技術が選択、あるいは勧められてしまう やっかい性。
その記事は世間の目には届かない。
TV CM でバンバン流れている iPhone や iPad では Flash を見ることができない
という状況に乗じた
勘違いを正すためには、今までよりもより一層
あるいはメッセージを発信するよう心がけていかねばならないと感じる。
パネリスト達のような
Flash を扱う事が可能な技術力を持ち合わせている人にとって
Flash が終わろうが、代わりの技術が HTML5 やらその他何になろうが
大した影響はない。
『プログラミング』についての話をしてみる事にする。
「世にあらゆるプログラミング言語があるが
「何か一つ言語を習得し
『Flash の事は全く知らないがプログラミングプロフェッショナルの人』
が近くにいるならば是非上記について伺ってみてほしい。
その通りだと答えてくれるはずだ。
他の言語で作ったものを Flash のプログラミング言語に移植することも容易いのだ。
ここで上記三行の「他の言語」を「JavaScript」に置き換えてみてほしい。
HTML の DOM 操作に必要な言語は JavaScript である。
言語は、Flash ならば ActionScript、HTML5 ならば JavaScript を用いる。
画面描画は
あるいは用意されている描画用 API を ActionScript で呼び出し、
あるいは用意されている描画用 API を JavaScript で呼び出す。
Flash と似たような技術として Java Applet や Shockwave があるが、
これらも一緒で
言語を変え、その技術に合わせた描画を行う処理を記述するだけだ。
Web 技術者が何かに属していて、何かには属していないかのような区別の仕方は
的がはずれている事を なんとなく感じていただけただろうか。
仕事に対し、あるいは表現したい事に対し、ベターな選択を行うだけの事なのである。
環境や表示内容に合わせ両方を採る選択もあるだろう。
パネリストの中に ActionScript が好きだ、という人がいた。
これは別に
Flash が好き(製品のファン)だから ActionScript が好き、と言っているのではない。
ActionScript が優れたプログラミング言語だと判断しての発言なのだ。
HTML5 を選択するだけの事であり、
その別の技術を選択し、
Flash より優れた技術が登場しなければ Flash を使い続ける、
ただそれだけの事なのである。
もう少し突っ込んだ話をすると
Flash のプログラミング言語である ActionScript(ActionScript 1.0)と
HTML 表示制御を行う言語 JavaScript は 実は同じ言語仕様である。
『ECMAScript』という単語で調べてみてほしい。
「Flash と HTML5 は対立するもの」と考えていた人、
あるいは ActionScript や JavaScript を触れたことがない人にとって
「え?そうなの?」と思う人もいる事だろう。
JavaScript は大規模開発に向いていない、という話は聞いたことがないだろうか。
同様の言語仕様である ActionScript 1.0 はこの問題を解決するため
ActionScript 2.0 から ActionScript 3.0 へと進化していった。
Flash は開発がし易い、という話がよく挙げられるが
その理由の一つがこれである。
現行の JavaScript と ActionScript 1.0 は ECMAScript 3 準拠に対し、
ActionScript 3.0 は ECMAScript 4 準拠である。
言語として進化しているものを Flash は採用しているので
開発は抜群にし易い。
ECMAScript 4 準拠の JavaScript も登場する日もあったかもしれなかったのだが、
ECMAScript 4 標準化が白紙、
ECMAScript 4 は無かったことになってしまったのだ。
ActionScript 3.0 で作成したプログラムが
ちなみに JavaScript は大規模開発に向いていない、という事に対し、
最近では Google が新言語 Dart というものを開発している。
位置づけとしては ActionScript 2.0 に近いと比喩した人もいる。
ActionScript 2.0 はコンパイル時 ActionScript 1.0 に変換されて出力される。
Dart も同じく JavaScript 変換機能を持つ。
先の事は誰にもわからない。
HTML5 が成長するとは必ずしも言えない。
技術者は身を持って知っている。
表示と動作の差異、技術者はずっと苦しめられてきている。
めんどくさい。コストがかかる。
HTML5 も同じ道を辿るのでは、と言われてしまうのも仕方がない。
実際に HTML5 の各ブラウザの実装具合はバラバラである。
Flash はといえば、
今でも 10年以上前のスクリプト言語 (ActionScript 1.0 よりも前の言語)で
Flash が動作するブラウザがいつまで携帯に搭載され続けるのか、
まだ誰にもわからない。
今後も当面携帯向け Flash を作り続ける事になるのかもしれない。
携帯向け Flash は一つの容量が小さいというのが救いである。
IE6 対応 HTML サイト制作にせよ、携帯向け Flash 制作にせよ
状況に応じて何を選択するかを判断できるほどの技術力を身につける事
選択する技術に何ができて何ができないのか、
どの技術を組み合わせるとよいのか、
自ら判断できるようになった時、一人前の Web 技術者になったと言えるだろう。
一つ何かをモノにしてしまえば前述の通り移行は容易い。
それを極めるくらいまでとことん勉強してほしい。
続けていくと見えてくるはずだ。自信という名の悟りの道が。
気になった点をいくつか。
現状の HTML5 の実装具合のバラバラさに対し、
「(HTML5の)表示の差分を埋めてくれる何かが登場するかもしれない」
と言う発言があった。
言った当人も会場にいる人達も、きっとこう思っただろう。
「それってなんて Flash Player?」と。
「あれはやめたほうがいい」という発言があった。
勝手に注釈するのであればこの発言は
「Flash で作られた重たい Web を HTML5 でまた再現するつもりなの?」
という皮肉であろう。
"ハッカー集団"アノニマスが、メキシコの麻薬組織につかまっていた仲間を無事奪還した、というニュースを読んだ。
"ハッカー集団"という称号から、アウトロー的な、コンピューターのハッキングを行う犯罪者の集団をイメージするけれども、アノニマスはそんなにかっこいい存在じゃないらしい。
日本の「ふたば☆ちゃんねる」と「2ちゃんねる」をモデルに作られた「4chan」に集まる暇人が自然発生的に集まってできた集団で、要は日本のVIPPERらと同じようなものだ。
しかし、今回の彼らの実行力には、脱帽した。
それにしても、日本のVIPPERや鬼女さんやはてなーと比べると、彼らには機動力・戦闘力があり、目的実現のための能力が高く、行動に一貫性があるのが羨ましい。
くらべて日本のVIPPERなどには、なぜそういう凄みがないのか……いや、凄みがないのが悪いわけじゃないけれども、彼らと同じくらいの実力がVIPPERらにはあるはずなのに、いささかアノニマスに見劣りするのが、日本人として悔しい。
余計なお世話かもしれないが、日本のネット集団が、アノニマスに負けないくらい力を発揮するための方法を考えてみた。
彼らには「アノニマス」という共通の名前で、サイエントロジーやソニーと戦ってきた歴史がある。
それに比べて日本では、VIPPERとか鬼女とかに細分化されていて、それらをくくる名前がない。
4chanの「Anonymous(アノニマス)」に当たるのは「名無しさん」だけど、これは、名前として微妙だ。
VIPPER、鬼女、はてなーの機動隊をまとめる、もっとかっこいい名前はないか?
ちなみに「匿名旅団」という名前を考えてみたんだけど、どうだろう?
2chanではお馴染みの人気作家の富樫作品の中の「幻影旅団」をイメージしている。
生存の優先順位が、原則、団員ではなく旅団そのもので、メンバー全員が戦闘狂、なんて幻影旅団の特性が匿名旅団にあってもいい。
VIPPERや鬼女さんのような、ネットでゆるく結び合った人間集団の名称としては、悪くないんじゃないか。
VIPPERや鬼女は、これまで、犯罪行為をネットで自慢したバカの会社に電凸を行ったり、個人情報を晒したりして、一定の成果を上げてきた。
しかし、花王やフジテレビ、電通のような巨大企業を相手では、力不足じゃないのか?
具体的な成果が挙げられないまま、ネットの話題はTPPへと移ろうとしている。
たぶん、これからもフジテレビや電通は、韓国から金をもらい、韓国に偏った、事実と異なる報道を続けるのだろう。
せいぜい潰せるのは個人程度で、企業が相手ではなんの痛痒も与えられないなんて、なんて無力なんだろう。
「敗北の味が知りたい」
なんてうそぶいていたって、結局それが実力だ。
ソニーに何百億という損害を与えたり、中近東の革命の際に政府機関のコンピュータに侵入したりと、アノニマスに機動力があるのは、「表現の自由」という共通の理想があるから。
人間ってのは、衣食のためだけでは実力以上の力を出せないもの。
現実以上の“理想”を実現しようとした時に、異常な実力を発揮できるもので、そのための「錦の御旗」が必要だ。
昔、堀田善衛という作家が「長い未来についての理想をもたぬものは、それをもつものの未来像のなかに編入されて行く」と書いていた。
理想という共通の目標がなければ、実行力を発揮しようにも、矛先はあちらに向いたりこちらに向いたり、散漫となり、結局何も成し遂げられないままに終わってしまう。
かといって、アノニマスと同じように「表現の自由」を理想として掲げるのも芸がないし、たぶん、誰も賛同しない。
理想は外から与えられるものではなく、自然発生的な、VIPPERや鬼女やはてなーたちの行動に共通して見いだせるものでなくては、たぶん共感は得られない。
あると思うのだ。
たとえば嫌韓。
韓国人だから嫌い、という人種差別的思想を持った人々は、2ちゃんねるには案外少ないと思う。
そうじゃなくて、韓国人の「歴史の捏造」や「自己中心的な態度」、「道徳や法律に反していても、反省せずに開き直る行動」に嫌悪感を感じる人々が多いのではないか。
そして、嫌韓に限らず、これまで炎上の対象となったものには、日本の匿名旅団の中の人々が抱える、共通の価値観に反するものへの嫌悪感があると思うのだ。
そういう価値観を、絞り込んで、改めて理想・信条とできれば、たぶん匿名旅団の戦闘力は上がる。
(内容は別の人に任せた!」)
アノニマスは「ガイ・フォークス」の仮面をかぶって、団結力を高めている。
やる夫の仮面をかぶるのもいいけど、他にあったらいいなと、ここも他人任せ。
……と、以上、思いつくままにダラダラと列挙してみた。
友人が会社を辞めた。
理由を聞いて震撼した。
友人は、帰宅した夜、そして休日はパンツ一枚でネットサーフィンをするのが日課だったそうだ。
彼はその時、右手でマウスを操作しながら左手で男性のシンボルをいじるのが癖だったという。
汚いが、私も彼の気持ちはわかる。
とはいえ、彼がそんな癖を持っているとは、これまで知らなかった。
その彼はここ数週間、残業続きで少々つかれていたという。
なかなか眠気がとれないものの、なんとか仕事をしているふりをしようと、ぼんやりとしたまま彼はマウスをいじっていた。
そして、ようやく眠気がとれて、愕然としたそうだ。
なぜなら、ぼんやりしていたため、いつの間にか普段の癖が出てしまい……
チャックから男のシンボルを取り出して、いじっていたことにきづいたから。
慌てて周りを見る。
すると、周りの同僚が全員、硬直した姿勢で、こちらを見ていたという。
友人は、
「寝ぼけてて……すみません」
と謝る。
同僚たちは何も言わずに目を背けたそうだ。
辞めるつもりはなかったが、それから一週間の社内の居心地は最低。
結局、辞めざるをえなかったという。
はてなに集うみなさんの中には、こういう癖をもった人がたくさんいると思うのだ。
だから、気をつけて欲しい。
関東各県の浄水場から放射線物質が検出されている。「水道水に毒が混じる」という、とんでもない事態だ。
わが国ニッポンは、水と安全が無料で買える国として世界中で名高い先進国である。その、世界のリーダーたる国がいまや放射能を撒き散らし、野菜や牛乳のみならず水までもが汚染しはじめている。
「ただちに人体に影響の出るレベルではない」政府はそう繰り返す。それはもしかしたら、科学的には、精確な情報なのかもしれない。だが、そういう問題ではなく、この国は今後、形を変えてゆくことになるに違いない。
極端なたとえ話をしよう。
仙台出身で気仙沼で被災し、今後、復興のシンボルキャラクターになっていくであろうサンドウィッチマンというタレントがいる。向こう10年、東北地方の営業だけで莫大な収入を得るであろう、前途有望な芸能人だ。その片方、たとえば伊達ちゃんが(こんな例に出して本当に申し訳ないが)、来月、放射能とはまったく関係なく急性白血病に倒れたとする。可能性としてはゼロではない話だ。
もし震災がなければ、まったく気の毒だ。悲運のM-1王者だ。と国民の同情を集めるだけだったが、いまの状況でそんなことになれば国民はパニックを引き起こすだろう。震災直後の買占め、東京脱出で、民衆というものは情報を理解して処理するより先に、自分の身の安全を図る性質があることは証明されている。
伊達ちゃんがそういうことになれば、きっと誰かが「放射能の影響だ」と言い出す。今回の事態はそうした説に、一定以上の説得力を与えてしまうことになる。民衆はすぐに「震災」と「放射能汚染」と「白血病」をイメージとして結び付けて、「やっぱり関東は危ない」と叫びだすだろう。海外メディアも敏感に反応するだろう。
社会の秩序は、そこに住む人々の常識によって支えられている。法律や規制は、それを補完しているに過ぎない。
その常識が、今回の件で綻んでしまった。政府や医師や相方の富澤がいくら「伊達ちゃんの白血病は放射能とは関係ない」と言っても、「そうだよね」と納得するより「あいつらは隠している」と訝しがる声の方が大きくなるだろう。「水俣病だって薬害エイズだってアスベストだって、政府は『人体にさほど影響はない』と言ったじゃないか」と。そうなれば、正確な知識や情報は何の役にも立たなくなる。
そこまで極端ではなくとも、きっと誰かが今後、東北や関東で白血病の人を探し出しては「やっぱり放射能の影響じゃないか!」と言い出すに違いない。今までもそういう人はいたのだ。敦賀や柏崎や福島の原発の周辺住民に病人が出るたびに「漏れてるじゃないか今すぐ原発を閉鎖しろ」と言い出す人はいたのだ。それでも国民は「そんなに危なくないでしょ、原発って基本的には安全でしょ」と、そうした人たちの言説をトンデモやカルトとして無視してきたのだ。
呆れてきたので原因を考えてみようと思った。
日本における、一票の格差は恒常的に最大5倍に達したままである。先の参院選で高知の広田一氏は13万7千票で当選したが、神奈川の千葉景子法相(民主)は69万7千票を集めて落選している。全体にとって不利益な政策がとれられたとしてもフェアな競争がなされていないのであればいたしかたないというものだ。
政治への新規参入はほとんど成功しない。政治家家業の大抵は世継ぎかのれん分けだ。
有権者は投票すべき政治家がいかな人物であるのかという品定めを行う機会というものをほぼ得ることができない。政見放送は粗さえ出さなければ話題にもならないし、見られもしない。文書図画は決められた枚数しか配ってはならないし、選挙カーは名前の連呼しか許されてない。選挙期間中はWEBの更新はダメだとか本当に意味がわからないが、そうした現状を是とするのは既存の政治家だ。新規参入を防ぐための策はきちんと機能しているといっていい。
選挙前に配られる官報?には学歴と略歴とがんばりますぐらいのことしか書いていない。しかもみんな自由形式で書きたいことしか書かないから比較もできない。地獄の業火に焼かれろ的な「とんでも」は発見できても、普通の候補者だと違いがわからない。ネットショップで価格もスペックも比較できず写真だけで選べという店であたり商品が引けるわけがない。この場合消費者がとりうる選択肢は限られる。どこかの既知のブランド品から無難な商品を買うか、さもなくば買わないかだ。
結果、約半数が投票に行かないし、地方の首長選挙は現職が9割の勝率となる。保守的なのではなく、新規が得体が知れなすぎるのだ。誰に投票していいかもわかっていない有権者など、確率的な数でしかない。だから当選するために確実に投票してくれる組織を囲い込むことに政治家は腐心する。そのために地盤やお金が必要となり、結果、特定の組織に利益誘導的にならざるを得ない。たとえその組織の利益が大多数の利益を損ねるものだとしてもだ。バラバラに動く有権者は特定の利益のために組織だって行動する人たちのまえに為す術などあろうはずがない。
もっといえば罪刑法定主義なのかも怪しいところだ。判例主義といったところで検察と裁判の判検交流に代表されるように三権分立など建前になってしまっている。厳密にしてしまえば、物事なににつけても対立がうまれ滞ってしまうので、そのような体制のほうがいいこともあるだろう。だがバランスは重要だ。現状は人治が法や道理を押しのけるまでになっているのではないかと思う。
例えば先日可決された東京都の青少年保護育成条例の改正に代表されるように、法は立てるが、運用するのは、お目こぼしをするのは我々だという暗黙の権力行使を許していてはそもそも政治家は必要ではない。議会も必要ではない。
政治家自身、何を議論して、何を決めて、それがどんな結果を及ぼしているのかにまで想像力が働いていないのだろう。やはり局所利益誘導的なのだ。決定には関与しても、立ち上げにも、運用にも、またそれが為されているのかの確認にも公正に関与できていない。政治家がただの多数決要員なら無差別に選出された陪審員でやったほうがよほどいい。
以上の原因と仮定から、スキャンダルや醜聞にまみれ、日本の政治の質が低かったとしても致し方ない。
自浄効果も期待できず新規参入も無理なら当然の帰結だ。絶望した!
ほにゃららでふがふがな社会に絶望した!と、いうところで思考を停止して右派左派同様ギャーギャー騒ぎたてるのも無理からぬこと。実際、じゃあ他に何か手立てあんの?と聞かれてもお手上げだ。誰か政治家の代わりをやれよといわれても、多分同じことをやらざるを得ないだろう。日本の政治はもはやこれで完成品なのだ。アラブでは、民主化民主化と騒いでいるが、日本には閉塞感はあっても打ち倒すべきシンボルもテーマもない。やはり行き止まりだ。
基本に立ち返る。
最大数の幸福を追求したいと考えるならば、人ではなく仕組みに裁量を持たせたほうがよい。そのためには公正な競争がなされなければならない。公正な競争がなされるためには、新規参入や撤退に自由度をもたせればいい。
既存の仕組みでも運用する人さえ違えば充分なのかもしれない。既存の政治市場と、並行稼動で仮想市場をつくっておいて、実際の議員の投票はこうだったけど、その地域の有権者の実際の意見はこうでした!的な仕組みがあるだけで、何がおかしいのか評価はできるようになる。というわけでYouつくって。
『ソラノートの番組はフランチェス子さんをどう扱ったのか? - 情報の海の漂流者』
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20110305/1299333484
コレを見てキミはどう思うかい?「こんなの絶対おかしいよ!」うん、そうだね。ぼくもそう思うよ。
ちなみに上記の「そらの的あさのニュース」(http://www.ustream.tv/user/ksorano)で配信された内容はさ、
Ustream利用規約(http://www.ustream.tv/terms)の9.a.7に反している可能性があるんだ。
違法、わいせつ、有害、脅迫的、嫌がらせ、名誉毀損、もしくは不快感を与えるユーザー投稿もしくは不快感を与える対象もしくはシンボルを含むユーザー投稿、第三者のプライバシーを侵害するユーザー投稿、ヌード(ポルノ、性愛作品、児童ポルノまたは児童性愛作品を含みますが、これらに限定されません。)を含むユーザー投稿、虚偽的、脅迫的、もしくは虐待的なユーザー投稿、違法行為を誘発するユーザー投稿、名誉を毀損するユーザー投稿、中傷的、低俗、もしくは暴力的なユーザー投稿、差別発言となるユーザー投稿、または、その他当社が不適当とみなすユーザー投稿を、本サイトまたは本サービスを通じて、アップロード、配信、電子メール送信その他の方法により送信すること。
もしキミがこれらの内容をひどいと思い、もしくはこれらの行為がUstream利用規約に違反していると思うなら、
一個人を標的とした侮辱行為、名誉毀損行為、ネットリンチに対して、はっきりと拒絶を突きつけることができる。
もちろん、最終的に判断するのは運営なんだけど。
キミにはそのチカラがあるのだから。
だから、
ぼくと契約してUstreamに対してソラノートのアカウント停止を要望してよ!
やり方はカンタンだよ!
Ustream運営にメールして、ソラノートのアカウントが利用規約に違反している可能性がある事を知らせればいいのさ。
えっ?
そんなやり方は酷いって?
そんなのただの虐めだって?
違う。全然違うよ。
表現の自由、言論の自由、報道の自由というのは万民に認められている。
それはメディアであろうと一個人であろうと同じなんだ。
そして表現の自由というのは
ということなんだけど、
「何を表現しようとその結果起こる自分に関する不利益から保護される」
ということではないんだ。
メディアであろうと個人であろうと、自分の行為によって生じる結果には責任を持たなくちゃいけないんだ。
だから、ソラノートが放送した内容が、利用規約に違反していると運営が判断した場合、
えっ?
それでもやっぱり酷いと思う?
自由が大事、表現の自由はすばらしい、表現の自由を守れと言いながら自由が持つもうひとつの側面に目を向けようとしない。
↓これを書いた者です。
「当たり前」を下げれば自由になる
http://anond.hatelabo.jp/20110213012058
私が書いたものにしては、ブクマやトラバも多かったので、返信の意も込めて加筆します。
高い車に乗る、流行の服を着る、いい家に住む、人に舐められないようにする、彼女を作る、等々。私はこういうプライドをどんどん捨てるようにしている。というのも、社会に出て私は圧倒的に力がないことがわかった。それを認めたくないが故に頑張ったが、人間、無理をし過ぎると病んでしまうみたいだ。
幸いなことに本を読むことは好きだ。だから、金銭的なプライドを捨てる言説を集めまくった。いや、いろいろ読む過程で自然と集めてしまった。その知識に基づいた価値観が私をこの世界から守ってくれる。いくら貧乏人と思われようが、安い服を着ようが、後輩に奢られようが、バカにされようが、ニコニコしながら「いやー、ダメ人間ですいませんw」と流せる。
「自己顕示的に高い車や服をまとっている者は、自分に自信がない。それらは弱い自分を守るための鎧。自分が弱くないことを確認するためにシンボル。彼らは私と同じような弱い人間だ」
と思うとスルーできる。実際の彼らの内実がどうなのかは知らないがw
この手のプライドを捨てればそれだけ生活のレベルを落とせる。貧乏生活は身体的にツライというよりも、こんなにツライ仕様の生活をしている惨めな気持ちがツライ、という部分が多いように思う。金銭的、見栄的なプライドを落とせば、多くが必要でなくなる。それだけ自由になれる。はず。
ただ、この考えの人間が多くなると国は滅ぶ。
先日うれしいことがあった。人づてに聞いたのだが後輩の一人がこう言っていたらしい。
「たとえホームレスになっていても、あの人にだったら昔と変わらず会える」
「ほう」
「みんな『首筋フェチ~』とか『うなじフェチやね』とか言ってて、僕の方にも順番が回ってきたので」
「はい」
「『あ、僕はヒエロフィリア(Hierophilia.宗教的なシンボルなど、聖なるものに性的興奮を感じる性的嗜好)ですぅ~』って言って『何? ヒエロフィリアって』って言われたので説明したらガチ引きされまして」
「当たり前だ」
「いや、でもそういう話じゃなかったんですか! みんなフェティシズムについて話していたのではないですか! それなのに、ひどい! あんまりだ…」
「まぁ以後気をつけることやね」
「気をつけるって、何を?」
何を。
その答えを、僕は今でも聞けずにいる。
■参考文献~まだまだあるぞ! フェティシズム一覧
エキシビジョニズム(露出狂)
アルトカルシフィリア:ハイヒールなどの靴で踏まれることに性的興奮を感じる性的嗜好
オートアサシノフィリア:自分が殺されることに性的興奮を覚える性的嗜好、自殺願望や自傷行為とは別物
クリスマフィリア:浣腸行為を見ることで性的興奮を感じる性的嗜好。
タナトフィリア:死を連想させるものに性的興奮を感じる、ネクロフィリアとは別もの
私の知る範囲での事なので、全てには当てはまらないことを前もって言っておきたい。
というか愚痴だ。
理系、特に理学においては、「研究者になる」ということに、憧れを持つ人は少なくないと思う。
そして、一度はノーベル賞を取ってみたいと願い、
(行動はともかく)燃える時期があるのではないだろうか。
しかし、そんな気持ちはゆっくり熱せられ、急激に冷める。
おそらくピークは学士3・4年。研究と勉強の大きな違いにショックを受けるからだ。
そして、卒業研究が、彼らの望む研究とは遠くかけ離れたものになることも毎年のようにある。
彼らに全くやる気が無いわけではない。
1年で(正確には半年強だが)やれることなど、たかが知れている。
時間が不足しているのだ。
だから、担当教員は悩みながら、1年でできる程度の課題を彼らに与える。
不幸なのは、それに気づかず、
「大学ではたいしたことなど出来ない」と見切りをつけていく学生たちだ。
あるいは、エントリーシートの数百文字程度の内容には、なっただろうか?
(ここでの定義は、「最終学歴を大学院として、卒業大学より上位の大学に大学院生として所属すること。
その行為によって学歴はよくなるはずなのだが、己の学歴に対するコンプレックスを逆説的に強めてしまうこと。)
ただ、ネット上や、彼らの中でもコンプレックスの強い人物の心のなかには、はびこっていることだろう。
しかしながら、有名大学の大学院に進学することは悪いことではない。
現実的に、いわゆる上の大学になるほど、科研費その他もろもろにおいて、
資金は潤沢な研究室が多い。
良い研究をするには、良い環境の中でという考えもあるのだから。
問題はその一歩先にある。
大学院に進学したということは、「閉鎖性」に身を置くと同義である。
例えば、
・研究自体が一人=独りで行う
・取り組んでいること自体に特許や機密性を持ちうる
もちろん、例外は沢山ある。持ちつ持たれつで、他の研究室と交流する研究室もある。
これは私の強い主観だが、大学院生が学部生より無気力に感じる時がある。
彼らがモラトリアムを満喫しているのではなく、「閉鎖性」に慣らされてしまったのではないかと、
心配してしまう。
(本来は学部3年で考えておくべき事だが)
博士になるべきか否か?
ここで就職を選んだ人は幸せ者…と言われる(私はこの考えに賛同できない)
理由は明白である。
・学費をさらに3年以上も払いながら研究する金銭的問題。
・視野が狭くなる
あなたは他にも理由を挙げることができる。
いろいろな問題点があるが、ひとまず「閉鎖性」に焦点を絞りたい。
多く言われるのは、「論理的に物事を話せる(ロジカル・シンキング)」だ。
企業にとっては、その研究内容よりも、学部で学んだ専攻が重要だろう。
すると、「どのような閉鎖性を含んだ環境に身をおいたか」が重要になってくる。
・一つの物事に没頭できる環境がある
・日常生活の自由度という点においては、修士が最も高い。学部生には単位の問題、博士には博士号の問題がある。
・時間は研究に削られるかもしれないが、タイムマネージメントをすることにより、効率的に行動を起こせるようになってくる。
・学会発表等の機会が増え、「自分の考えを分かりやすく説明する(コミュ二ケーション能力)」
(社会人には負けるだろうが)
人間関係は学会・バイト・趣味・留学・お隣りの研究室で補うこともできるんだよ。
私はやる気のない受動的な人間ほど、閉鎖性のデメリットをもろに受けてしまうと考えている。
私の立場は、有機化学系の研究に携わり、仕事上ある研究室をちょくちょく訪問する研究員としておこう。
彼らの多くは就職先が決まっているあるいは、博士へ進むことが決まっている。
けれども、以下の状況からは、その能力を疑わざるを得ない。
・彼らは集団で、気に入らない博士後期の学生をいじめ、うつ病に追い込んだ。いじめられた学生は、病気を患ったまま研究室を去った。
彼の将来の生活は本当に闇。
ボディタッチはさすがにないが、下ネタを一日10回以上、同じ研究室の女性へ敢えて聞こえる言う。
担当教員は、セクハラに関して「男が多い世界だから仕方がない」とのこと。
・彼らは集団故に、上記の罪悪感は無い。
・研究に積極的に取り組んでいるのは少数。あとは担当教員の言いなり。
まぁ、言われたことはやれるんです。
だから、発表できる程度の結果は残し、大学院生としての最低限はクリアしている。
・気に入らない人間を探し、悪口とその人の不幸をいうのが日常の楽しみ
人間関係が研究室で完結すると、周りが気にならなくなるからね。
残念ながら、彼らはロジカル・シンキングのできる幼児に「成長」してしまったのではないかなぁ。
彼らは大学院生にならない方が良かったのでは?
学部生の時の方が実はピュアだったりして。
研究室が悪いのか?その担当教員の管理能力が悪いのか?彼らが悪いのか?
私はそういう原因を探る問いが有効な手段ではないと考えている。
出来れば、研究室の自然消滅かなぁ…。そうすると、私の食いぶちがなくなるので困るが。
彼らの人生はこれからも長い。他人を平気で潰していくのかな?
そして大事なモノを閉鎖性のブラックホールに吸い込まれてしまったのだろう。
僕には、日本の歴史や文化、伝統や国柄といった文脈で「日の丸」というシンボルを見たとき、自然と思い浮かんでくる事がある。
ひょっとすると、別に当たり前のことで、誰かがどこかで同じようなことを書いているかもしれないが、とりあえず今まで見たことがないので、
日の丸は、白地に赤の丸を真ん中に描くと出来上がる。
この真中の赤丸は何かというと、小学生に聞いても簡単に返事がかえってくると思うが、「太陽」「お日様」。
昔ながらの言い方で言うならば、「お天道様」とも言う。
ヒノモト、日本の国旗だからお日様が真ん中というのはシンプルでわかりやすい。
「清明心」という言葉がある。聞いたことがある人は少ないかもしれないが、神道や武士道で聞く言葉であると思う。
これをやまとことばで言えば、「きよきあかきこころ」と読めると思う。これも昔からある言葉らしい。
「あかきこころ」は、明か(あか)、あきらかで偽りのないこころもち。正直など?
つまり、日の丸の白地は「きよきこころ」、赤は「あかきこころ」と解釈できるのではないだろうか。
日本では、純真無垢な、子供のような心はとてもよいものだという価値観があるが、これは神道からくるものだと思う。
西洋では、子供は未発達な、未熟なもので、理性的や秩序的でないのであまり良いとされないものだと思うが、日本ではそういう考え方は
あまり馴染みがないように思う。
善でもなく、悪でもなく、清らかさや無垢さがいいという価値観は神道的だが、しかし僕にはかえってしっくりくるものがあるのは、日本人だからだろう。
それから、日の丸の真ん中に描いてある「お天道様」はどういう意味だろうか。
お天道様の天道とは天の道。「誠は天の道なり。之れを誠にするは、人の道なり。」という中国のことわざがあるそうだ。
これを勝手に訳すると・・・
誠(まごころ?)は、天(宇宙?)の道(道理)である。これを実際に行うのが、人の道である。
といった感じだろうか?
でも天の道ってなんだろうか。
たぶんそれは単純な話、昔から言われているように、「お天道様に恥ずかしくない生き方」じゃないかとおもう。
普段の生活の中で、事あるごとに、じぶんの心に問いかける。これはお天道様に恥ずかしくない生き方か?きよきあかきこころで問いかけると、
天の道が指針となって、すべきことがわかる。そうやって行ったことがまごころなのなのではないかと。
つまり、きよいあきらかなこころでお天道様にはずかしくない生き方、天の道を行うというのが日本人の自然なまごころの道ではないかと思う。
日の丸の、白地はきよいこころ、赤丸はあきらかなこころ、お天道様は天の道。
何が言いたかったかというと、ようするに日の丸というのは、日本人のありようをあらわしているんじゃないかと思ったのです。
日の丸がいつからあったのか、ヒノモトという名前がいつからあるのかしらないけど、日の丸は日本の神様のメッセージじゃないかと思う。
世の中の仕事や学校や家庭、人間関係やその他でいろんな試練があると思うが、その時々に、きよきあかきこころで天の道を行ったらどうなるだろうか。
天の道を行って悔やむことはあるのだろうか。
僕は、神社に行って、もしくはお天道様の前で自分を誇れるようになれたら素晴らしいだろうなと思う。
だから、神社に行って神様の前にちゃんと立てるか、定期的にお参りしたらどうだろうかと思っている。そしてご神体の鏡にうつるのは自分。
あなたは神です。ちゃんと神できてますか?あなたの神の道と差があるようだったら、その差をとってください。さとってください(笑)
神道っていうのはこういうことなのかな?そう思いました。そのうちきよきあかきこころで行う天の道、実践編を書けたら面白いだろうか。
・技術者は専門分野によって細分化され、スペシャリストを産み出すことになったけれど、逆に、オールラウンドに通用するような技術はもはや存在しない。
・根底にあるのは、楽しさなのである。これを感じない人は技術者にはなれない。どんなに腕が良くても、である。それは、この得体の知れない楽しさだけが、技術というものへ向かう姿勢を長時間維持させる力だからだ。
・工業はあくまでも作品に価値がある。芸術は、作る過程で作者が得た感覚がすべてであって、出来上がった作品は単なる残骸、あるいは思い出のシンボルでしかない。したがって、前者は、まったく同じものを複製しても同じ価値を持つが、後者は、複製したものは贋作と呼ばれ、価値が生じない。
・何度も何度も周囲の大人たちから「どうだった?」ときかれるのが、今どきの平均的な子供である。「楽しかった」と微笑めば大人が喜ぶことくらい、経験的に学んでいる。
・好奇心は、覚えるものではなく、目覚めるものだ。与えられるものではなく、自分の内から発するものである。
・自分が本当に作りたいもの、好みの形や色、欲しい機能を自分に問いかけることは非常に重要なことで、多くの現代人はそういった習慣さえ持っていない。つまり、自分の好みを知らない人が多い。
ここで言う「バカ」とは具体的な意味ではなくシンボル的なものとして欲しい。
最近バカの集団についてよく考える。最新鋭のバカばかり集めた集団は、
どのような行動をとるだろうか。
バカでも集団となれば上下関係はできると思う。部下が失敗してもバカは叱らない→自滅
バカは上司に失敗を報告しない(隠蔽)→自滅
バカは行動に対して効果測定しない→徒労→自滅
バカは人の話を聞かない→徒労→自滅
バカは人の振り見て我が振り直さない→徒労→自滅
バカは仲間の足を引っ張る→自滅
バカは自分より頭のいい奴を仲間にしない→自滅
バカは利益より面子にこだわる→自滅
バカはときに目的を失っても走り続ける→自滅
バカは効果がなくても繰り返せば効果が出てくると信じてる→自滅
バカはやれと言われたことはやらないが、自分の好き勝手なことはする→自滅
バカは相手に敬意を払わない→?
バカは沈む船から逃げ出さない→自滅
バカは自分で考えない→自滅
バカは相手を説得するとき相手の論理ではなく自分の論理を話す→バカ
バカは例えば法を犯したとき、自首が最善策だとわかりきっていても家で悩んでいる。
バカはやるなと行ったことを敢えてやる。→ゲスの勘ぐり
バカは自らうんちに近寄り、臭い!と騒ぐ。→自業自得
バカは他人に(自分の気持ちを察しろ)と念じている→無理
バカは自分の都合良い情報だけを信じる→マスコミの情報でマスゴミ批判
バカは意見は述べるが根拠は示せない→俺の根拠はお前が探せ
バカは形勢が逆転されると急に被害者になり、謝るから許してとか言い始める→なんでもあり
というような集団を半年くらい観察してるのだけど、
こっちの胸が痛む。
今回のホメオパシー問題は、ある種の「自然信仰原理主義」と言えそうだ。
で、ここのところ、「自然信仰原理主義」の綻びが垣間見れる気がする。
「高齢者がエアコンを嫌って熱中症になる」というのも「自然信仰原理主義」の綻びの一つ。
自分に言わせれば遺伝子組換え排斥運動も「自然信仰原理主義」だと思うので、
早晩綻ぶと期待しているのだが。
「保存料は有用です、人体への影響は軽微です」という点を科学的に解説したところ、
生協といえば「自然信仰主義者」の巣窟、というイメージもあるが、
と同時に生協は「女性解放、ジェンダーフリーの拠点」でもある。
ジェンダーフリーの観点からすれば、「家事の軽減化」というのは重要なテーマであり、
一定の段階で自然信仰原理主義から決別する必要に迫られた、ということだろう。
原発PR施設に宮崎アニメキャラが使われていることが問題視され、
彼らにすれば、宮崎アニメは「自然信仰原理主義のシンボル」なんだろう。
その理由は「自然信仰=アンチ大資本」というイメージがあったから。
先日の日経を見てびっくらこいた。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100708k0000m040030000c.html
http://www.pref.toyama.jp/cms_cat/404030/kj00000275.html
日ソ間も「冷戦」だったのだが、そのころに見たTBS系「報道特集」で、
ソ連太平洋艦隊が「逆さ極東地図」を掲出していた画像が印象的だった。
「いかにソ連太平洋艦隊が、日本列島に進路を阻まれているか、を
ビジュアル的に実感できる」からである。
言われてみれば、そのころ「三海峡封鎖論」なんてのもあった。
「有事」に太平洋艦隊進撃を三海峡で「阻止」できるか、が軍事的議論になっていた。
「冷戦時代の遺物」のような気がしてならない。
というより、富山県側は「環日本海友好のシンボル」として販売していても、
逆さ地図を「ウラジオストクの上に覆いかぶさる邪魔な日本列島、を印象付けるためのシンボル装置」
として利用している危険性はないか?
(つまり、未だにロシア海軍は日本を仮想敵として、三海峡を軍事的に攻略したい、と
考えてはいないか?)
『外国人への憎悪を煽る者たち』それはこのエントリに、デマやリテラシーなどとタグやコメントをつけてキリッとしている、はてサやリテラシ厨や民主信者、お前らの事だ!
あ?なに訳わからない寝事抜かしてんだってか?
特別に知能は低い癖にプライドだけは高いバカなお前らにも分かるように噛み砕いて説明してやるわ。
先ず、この590人という荒唐無稽な数字の"デマ"の拡がる背景を考察する。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100404/trd1004040702001-n1.htm
ここにあるように、既に税金対策のために戸籍を偽って扶養者を増やす手口は常套手段となっている。
ここでは節税と表現しているが、これは実態を捕捉出来ない点をついての脱税に他ならない。
悪質外国人が働きに来たところで日本の貨幣が外国に流れるだけで、日本の行政サービスはフリーライドされ税金は入ってこないのである。
このように税金を納めない外国人が、同じ手法でブローカーを通じたり組織だって子どもや養子縁組をしたならば、それをチェックする方法はない。
とってつけたように、
などと施行前日に通達を行っているが、そんな事実際にどうやって調査するんだ。現地国とネットワークをもって組織だって書類を仕上げてくるプロに対し、窓口の公務員がそれをチェックできるとかどんだけお花畑なんだよ。
こんな稚拙なザルなシステムを強行した事に民の怒りが蓄積されている事をまず理解しろ。
この590人登録事件は、その真偽が問題なのではなく、このような不正な請求が実際に組織的に可能である事そのものに起因して発生した現象である。
可能であるならば、やってくるに違いないという思い込みは、たとえそれがバイアスがかっていても消去する事は出来ない。
いいか?ここでそのバイアスを責める前に、システムに不備がある点が問題だという事実、それをその物覚え悪い頭に叩き入れておけよ。
で、そのような条件下で、蓄積した怒りの発散先として、この"デマ"が590人登録騒ぎという形を為し、市井の民の怒りのシンボルと化した。
そしてそのシンボル化がさらに、怒りの表明の焦点を一箇所に集中させる事が、薄ぼんやり暮らしているバカどもに有効に認知を拡めるツールとして機能する事に気づかせ、さらなるスパイラルを描いたのは至極当然である。
高津区役所が電話攻撃でサービス不能になる程度の事で、政府の愚策の問題点を浮き彫りにできるのならば実に合理的な抵抗であろう。
市井の民が、お上の決めた暴挙に対抗するならば、このような手段で対抗するのは当然でありレトリック的に言えば防衛本能の発露でしかない。
だから、これをデマだよキリッとか言ってるだけのうすらバカのみなさま方におかれましては、その指摘になんの意味もない程度の事は理解していただけませんかね?
この"デマ"に寄り添って声を上げる人間の事を、リテラシー強者(笑)なるデマの真偽の判断を否定ツイート一つ如きで判断しておきながら、『デマに乗せられる情弱』という構図で見下して、空っぽな脳を自尊心だけで満たしているだけの単なる思考弱者どもは、妖怪どっちもどっちどころではなく救いようがないうすらバカなんだよ!
まぁバカに言っても無駄かww
もっとも、はてサ脳に侵されてない人間の中でも、"デマ"を使ってこのような煽りを蔓延させる事に眉をひそめる良識的な立場のまっとな人もいるだろう。
だが、その認識は甘いと謂わざるを得ない。
この"デマ"騒ぎさえ、民主教に帰依したバカのやり口に比べるととてもまともな穏当な反対意思の表明にしか過ぎないんだよ。
たとえば、この頭を叩くと空っぽでぽむぽむするから名前が id:pompom20 のブコメ
http://b.hatena.ne.jp/entry/hamusoku.com/archives/2987779.html
id:pompom20 ネトウヨ 子ども手当で民主党叩きしている、この手のレイシストウヨは全員逮捕すべき。ネトウヨの存在は日本の民度を下げる害悪のガン細胞、よって切除手術が必要。
まぁ充分これでもすごいが、これを省略せずに説明すると、つまりはこのような思想である。
これほどまでにガチでやばい本物のキチガイ思想になんの留保の情も抱かないロボット達に今の政権政党が支えられている。
これを敷衍していけば、本当の言論弾圧・ニーメラーが待ち構えているのに、非実在青少年なんていう言論の自由(笑)ごっことかやってる場合じゃねーってのwww
さて、まとめておくか。この"デマ"に乗じて声を上げる者たちを、ネトウヨだの排外主義だの情弱だのと呼びあらわす者たちに告ぐ。
この現象を生み出した最大の責任は、票とりのために拙速な法案を施行した民主政権にある。
致命的な欠陥に対し、とりあえず緊急的な方法で指摘をしているだけに過ぎない者たちに、その手段の稚拙さを謗る事を良識などと考えているうすらバカどもが、いくらヘイトスピーチ、レイシストとレッテルを貼っても、それは外国人を差別する意志(意味もなく外国人にお金を渡すのを阻止するのは差別じゃないよw念のためww)もないのだから事実とは異なる誹謗中傷でしかない。
こうして普通の日本人を悪魔にでっち上げるのは、思考回路の作り方の失敗が産み出した幻影であり、それこそ日本人へのヘイトスピーチ以外の何物でもない。
そのような不当な中傷により、本当にレイシズムが発生する事態が起きる事があったら、お前達こそ本物のレイシスト生成装置であり、非難されるべきはお前らだ。
民主教徒の諸君。自民時代の児童福祉手当と同じとかレイシズムだとか言っても世の中何も解決しないんだよ。
根本的な原因に向き合い、民主政権を支持した自分がバカでしたごめんなさい。
まずそこからはじめるんだ。わかったかな。まぁわかんないだろうがなww
ただ、自らの罪の償いを他罰に求めてもなんの解決も得られないぞとだけ言っておくわ
私はちょっと前までブログやってたんだけどさあ、なんていうの? VNIってまだ通じる言葉だよね? とにかくキャラ萌えでごまかしつつちょびっと毒吐くみたいな感じのブログやってたわけっしゅ。
そいで諸般の事情ってやつでハッピーエンドを迎えてページ削除しちゃったんだけども…
なんというかブログってどれほど弱小であってもそれなりに影響みたいなものは残すんだなあって最近思ったわけです。
もしかしたら自意識過剰なのかもしれないんだけど、たぶん、おそらく、十中八九で私のコピー?というか私がやってたことと同じようなことをやるブログがでてきてビックリなんすよ。
その人が私に似せてるつもりなのかどうかは知らないんだけど、「あー、この感じというか視点は私に似てるー」みたいな。
もちろん内容的にかぶったからと言っても、それはよくあることじゃんね?
ニュースサイトなんて星の数ほどありそうだし、何かに関するニュースに特化したところでまた同業者ってのは存在しうる。
だけどもサイトのシンボルまで私と同じようなものを使い始めたらちょっと「あれー?」ってなる。
シンボルっていうとピンとこないかもしれないけど、ほら、「変態キャラ」とか「AAの多用」とかさ、なんかそういうキャラ付けってあるじゃない?
私もけっこうキャラ付けをしていたんだけど、その一環として「聖騎士」っぽさを出してたんすよ。
まあ2ちゃんにあるパラディンネタのパロディみたいなもんなんですけどね。
別にその聖騎士ネタがウケてたわけでもなく、一人でやって一人で面白がってただけっすけど。
私が違和感を感じた某さんのブログに、きっちりと聖騎士を彷彿させるものがあったんだよね。
で、さらに私的には恐ろしかったんだけど、実は私って新たにブログ開設したんだよ。
それこそ誰も絶対に見つけられないだろうって感じの弱小ブログを。
やっぱある程度ブログ続けてきた人間が急に更新しなくなると手が暇な感じになるじゃん?
だから見せるブログじゃなくて、自分で遊ぶブログをちょっとだけやろうと思ってさ。
素材って分かるよね? なんかブログタイトルの背景画像とかアイコンとかさ、そういうの。
けっこう印象的な素材を使ったんだけど、、
なんと私が違和感を感じた某さんのブログで、私が使ったのと同じ素材が使われていたんだよっ(なんだってー!?)
同じ素材というか、同じサイトから引っ張ってきたというべきか。
いや分かります分かります。
「素材サイトなんてどこもアクセスが多いし、ブログを開設する人間なら誰だって同じような素材を使うだろ」みたいな。
うん、だからこれは私の被害妄想に過ぎないのだよ。
そもそも私は万が一、過去の私の名を騙る人間が現れたとしても気にしない。
前に私がやっていたブログ名で誰かが新たにブログを開設したって全然いい。そもそも人のネタをパロッただけのブログ名だったしー
ましてや私が見つけたのは「芸風がかぶってる」「シンボルが似てる」ってそれだけのことだ。
ただなーんかネットってこえーなーって。
なりすましじゃないけどさぁ…某さんがこれからやることは、過去の私のやってきたことの延長として見られうるんだなあって思うとね。
いや、そんなことにはならないかなあ? 自分で言うのもあれだけど、私は本当にマイナーというか「誰それ?」レベルの人だったし。
しかし、某さんは私の過去のブログを見ていて、さらに新たにひっそり開設した私の遊び場ブログも見つけたのだろうか?
そこで使ってる素材を見て、検索かけてその素材サイトを見つけだして…
いや、私の自意識過剰なんだろう。
っていうか、そうであってほしいw
ちなみに某さんのブログではなかなかにキレた内容を掲載しておられて、やっぱネットって…というか人間の集団って複雑だなあって思ったよ。
なんていうのかなあ。
ネット全否定は明らかにおかしいけど、やっぱネットに変な人いるよね。
そういう変な人と長く関わると、やっぱり変になるというか…
うーん、なんて言ったらいいんだろう。
誤解を招くのを覚悟で言うとカルトだよね。
もしかしたら私もカルトで、某さんのことを変なテンションにしちゃったのかもしれない。
それで私自身はさっさと引退しちゃったから、柱を失った某さんは自らカルトに走った…?
いやごめん今すっごいテキトーに言ったw
ま、あれだよね。
心が大事ってことかなw
今回はたまたまブログ閉鎖後の様子見で某さんを見つけたけど…見つけたけどどうにもならんw
っていうか何もする必要ないよね? 別に私の名を騙ってるわけでもないし。
知らない知らなぁい~ 私、かんけーないもーん♪