はてなキーワード: 保存料とは
外出するときは季節関係なく子供用の日焼け止め塗って、肌の手入れはグリセリンを水道水で薄めたものをその都度作って塗っとくのが良さそう。
https://togetter.com/li/2258314 デザフェス58に出展して被害多数の「糸を引くマフィン」は罪に問われる?
https://togetter.com/li/2258264 デザフェス58に出店していた菓子屋で購入したマフィンの内容物が糸を引く状態だったとの報告が相次ぐ
https://togetter.com/li/2258634 デザフェスなどのイベントにおいて飲食店は出店料が高いので利益を出そうとすると歪みが生じるという話
https://togetter.com/li/2258690 例の腐った糸引きマフィン屋、マフィン以外も色々ヤバい
ttps://togetter.com/li/2258635 デザフェス「納豆の匂いがするマフィン」に食品製造に詳しいおじさんが可能性を考察していく話…悪意はなかったと思うが無知は罪
ttps://togetter.com/li/2258507 砂糖は立派な保存料なので、ヘルシーだからと勝手に減らすのは危険
ttps://togetter.com/li/2258649 過去に食品業界の一部を騒然とさせた山崎製パンが出したリリースから食品表示と食品添加物について考えてみた話
ttps://togetter.com/li/2258954 デザフェスのマフィン屋さん「マフィン購入者のみ返金対応」とのことだけど、体調不良になった人は「生産物賠償責任保険」で通院費等がカバーされる可能性がある
ttps://togetter.com/li/2258938 マフィンの件のおかげで爆速で衛生管理の大切さや添加物の役割など様々な知識が周知されている。この短時間ですごい。
盛り上がったのは個人でやれそうでやれないちょっとやれるマフィン屋の思考実験としてかなりイイ材料だからじゃね。
やってはいけなかったことが盛り盛りで半可通でもつっこみたくなるマフィン屋としてとても優秀。
そりゃ学級会で「みんなで一つずつ考えていこう」ってなるわ。学級会によって主催側もいろいろと未整備のところを整備したりするし。
ハンバーグ屋は素人じゃやれないことは明確。高速道路に無免許がベンツ乗って入って逆走したようなものでさすがに誰もそこまでのバカをやらんから学べない。おまわりさんこっちですでおわり
人工甘味料の危険性をいち早く察知した私は、はてな匿名ダイアリーを用いて皆さんに警鐘を鳴らしてきました。
私の助言を聞いて人工甘味料を避けるようになった人がいるとしたら、人生冥利に尽きるというもの。
心身を壊され、もがき苦しんで死にたくないなら、人工甘味料を拒絶しよう!悪徳メーカーには徹底抗議しよう!!
※甘草について認識を改めました。甘草は摂取しても問題ありません。
人工甘味料を避けている俺がドーナツの怪しさに気づいた。
今までミスドやコンビニドーナツを利用していたが今日からやめる。
ちな俺的甘味料のアリとナシ。ドーナツの場合、スクラロースが怪しい。
回避:アセスルファムK アスパルテーム スクラロース L-フェルニアラニン化合物 甘草
スイーツの人工甘味料汚染を許すな
http://cind-three.hatenablog.com/entry/7premium-tiramisu-flappe
念のために成分表示を確認すると、はい出ましたアセスルファムK。
おまけにスクラロースまで入って完全に人を壊しに来てる。
アスパルテームやL-フェニルアラニン化合物等を目にするようになり、
赤城乳業とカルピスは業界の中でもいち早く殺人スイーツに舵を切った印象があり、
めいろまの味覚
https://twitter.com/May_Roma/status/1253100173380644864
都市封鎖中のおやつは糖質低めの健康なものが必須だが低糖工房の低糖質シュークリームは普通のものより美味しいほどで、
どんなもんかと思って見てみたら……
原材料名: 乳等を主要原料とする食品、鶏卵、イヌリン、牛乳、植物油脂、マーガリン、大豆粉、小麦たん白、
難消化性デキストリン、ココアバター、小麦でんぷん、グラニュー糖、全粉乳、乾燥卵黄、脱脂粉乳、ゼラチン、
乳たん白、寒天、小麦粉、バニラシード、糊料(加工でん粉、カラギナン)、乳化剤、
保存料(グリシン、しらこたん白)、安定剤(増粘多糖類)、乳清ミネラル、香料、pH調整剤、
甘味料(アスパルテーム・L-フェニルアラニン化合物、アセスルファムK、スクラロース、ネオテーム)、
着色料(カロテノイド)
アスパルテーム・L-フェニルアラニン化合物、アセスルファムK、スクラロース、ネオテームが揃い踏み。
こんなの食べなくても味は想像がつく。めいろまの味覚は一体どうなってんだ。
スーパーで売ってるシュークリームについては、今まで通りモンテールやオランジェ、アンデイコ等でOKだろう。
パスコの人工甘味料汚染
どうするよ。
マスカットとヨーグルトのタルトが出て、美味しそうだと思って手に取ったら、
原材料表記に「アスパルテーム・L-フェニルアラニン化合物」って……。
レモンのタルトにもアスパルテームが入ってるし、クランベリーのタルトにはスクラロース……。
HIKAKINはYouTubeの大物で、そのエネルギッシュな人柄とユーモラスなコンテンツで有名ですが、彼のスタイルは全ての人にとって受け入れられるものではありません。彼の過剰なパフォーマンスは一部の視聴者にとっては騒々しいと感じられるかもしれません。また、彼の影響力を懸念する人もいます。HIKAKINは子供たちに影響を与え、商品紹介を通じて消費文化を推進しているという意見もあるのです。
ラーメンはその味や多様性で有名ですが、健康的な食事を推奨する人々からは、ラーメンは高カロリーで高塩分の食事と見なされ、その消費を避けるべきだと言われます。また、化学物質や保存料が含まれているインスタントラーメンに対する反対の声もあります。
チョコレートは甘くておいしいと思う人が多いですが、一部の人々はそれが高カロリーであり、過度な摂取は肥満や糖尿病を引き起こす可能性があると主張します。また、環境や労働者の権利を擁護する人々は、カカオ生産における公正な労働権の問題や森林破壊を指摘することもあります。
おにぎりはシンプルで便利な食事の選択肢ですが、その保存料や添加物の多さに関して疑問を持つ人々もいます。また、一部の人々は、おにぎりが白米を主成分としているために、栄養バランスに欠けると指摘します。
水: 水は生命の源であり、当然ながら嫌う人はほとんどいません。しかし、一部の人々は特定のブランドのボトルウォーターに対して疑問を持っています。プラスチック製品の使用と環境への影響、または価格が高いことを理由に不満を持つことがあります。
地球: 地球自体を嫌う人はまずいませんが、人間が地球に与えている影響については多くの意見があります。環境破壊、資源の乱用、気候変動など、地球への人間の影響に対する懸念がある人々は多いです。
月について反対の意見を持つ人はあまりいませんが、月探査や宇宙旅行には多くの賛否があります。一部の人々はこれらのプロジェクトが費用がかかりすぎると主張し、それらの資金は地球上の問題解決に使うべきだと主張します。
"ちいかわ"は日本の流行語で、小さくてかわいいものを指します。しかし、この流行に反対する人々は、ちいかわのブームが物質主義を奨励し、一時的な魅力に価値を見出す浅はかさを示していると考えています。
猫は愛らしく、多くの人々に愛されていますが、一部の人々は猫アレルギーや野良猫の問題により、猫に否定的な意見を持っていることがあります。
100均店は安価で便利な商品を提供しますが、一部の人々はそれが廉価労働や低品質商品を奨励し、過度の消費を助長していると主張します。
麦茶は日本の夏の定番ですが、一部の人々はその特有の風味が好きではないと感じています。また、カフェインを含まないため、眠気を覚まさないという理由で飲まない人もいます。
塩は料理の風味を引き立てますが、一部の人々はその摂取が高血圧や心臓病のリスクを高めると考えています。
空気そのものを嫌う人はいませんが、空気質については多くの意見があります。一部の人々は大気汚染や二酸化炭素排出量の増加による気候変動に懸念を表明しています。
食品添加物に過敏な人がいる。
たぶん、そういう人向けに食品添加物の例として、保存料や着色料、発色剤、防かび剤といったものが挙げられやすい。
ただ、乳化剤や凝固剤といったものも食品添加物として登録されている。
肥料として使われる消石灰を、食品に入れて食べている、と言えば、正しい知識のない人は驚いてくれるだろうか。
学校のグランドでラインを引くときに使用されていたこともあるものの、目に入ると失明の恐れがあるということで最近は使われることが少ない。
食べ物を固めて食べやすくするための、いわゆる凝固剤として使われているが、そんなものを口にして、大丈夫なのか?
用法用量を守って正しく使いましょうという話。
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41