はてなキーワード: ケンカとは
「…ばかだなあ。死にたきゃ死んでいいけどさ、じゃあおれの話を聞いてからにしろ。そのくらいはしてくれてもいいだろ」
「…」
「あのなあ、お前おれにうんこぶつけてきてんだよ」
「うんこ?」
「うんこ」
「なにそれ」
「うん」
「どのくらいガマンできる?」
「うーん」
「3歩あるいたらアウトくらいのときとかさ」
「そんなの無理じゃん、ガマン無理」
「だよな?」
「うん」
「ちなみに、そういうときってどうすんの?」
「そういうときって?」
「トイレ行く」
「まあそうだよな」
「うん」
「うん」
「知ってた?」
「うん、まあ」
「生きてるとな、自然とうんこしたくなるの、なんにもなくても」
「うん」
「うん」
「どうやってうんこが作られるか知ってる?」
「うん」
「食べないと死ぬじゃん」
「うん」
「食べるとうんこ出るじゃん」
「うん」
「生きるためには食べるのとうんこするのセットなんだよ」
「うん」
「お前、ひとりでずっといられる?」
「ん?いや、さびしくなる、無理」
「だよな」
「うん」
「うん」
「すると、いやなことあるじゃん」
「うん、ある」
「いらいらしたり、怖くなったり、自分を嫌いになったりするじゃん」
「うん、いつもそう」
「でも、会わないとさびしいじゃん」
「うん」
「生きるために人に会うといやな思いをするわけだよ」
「うん」
「いらいらしたり、怖くなったり、自分を嫌いになったりするのはお前のうんこなんだよ」
「ああ」
「心もうんこするわけだよ」
「…」
「だからお前以外の人も、みんな心のうんこするわけ、わかる?」
「うん」
「お前がおれにうんこぶつけてるって言ったじゃん」
「うん」
「意味わかった?」
「うん、ごめん」
「うん、でもそれはいいの」
「いいの?」
「うん、いいの。うんこしたくて、おれにぶつけるしかないなら、別にそれでいいよ」
「なんで?」
「うんこ出ないとつらいじゃん、だろ?」
「うん」
「うん」
「おれが今してるのは心のうんこの話な?」
「ん?うん」
「うんwww」
「うん、さっき聞いた」
「…うん」
「うん」
「お前の親とか、きれいにラッピングしたうんこをお前のためって投げてくるわけ」
「うん…」
「いや」
「ふつう、よけるよな」
「うん」
「…」
「どうすればいいの?」
「お前、親の愚痴に気を遣って『たいへんだね』とか言ってんだろ?」
「うん」
「わざわざうんこ拾ってんだよ」
「ああ」
「拾うな、流せ、相手すんな」
「なるほど」
「人間がうんこするのはしょうがないんだ。親がうんこするのもしょうがないの」
「うん」
「ただ、それを子どもがだまって受けなきゃいけない決まりはない」
「うん」
「ああこの人、自分の子どもに向かってうんこしてんだなあって思ってろ」
「うん」
「言えるかな…」
「心の中で言うだけでいいよ、ホントに言うとケンカになるからwww」
「そっか」
「うん」
「でも、うんこぶつけられ続けるのは無理がある。おれだってそうだ」
「うん、だよね」
「そうなの!?」
「疑えってwww」
「www」
「うん」
「じゃ、しょうがねえじゃん」
「うん」
「さっきも言ったけど、お前のうんこはおれが受け止めてやるから」
「うん、でもなんで?」
「うん…」
「でも、それでもどうしても死にたかったら、死んでいい」
「いいの?」
「うん、しょうがねえじゃん。うんこしたのにつらかったら、そりゃ相当なうんこだよ」
「うん」
「なんかやだ」
「まだ死にたいか?」
「いや、なんか大丈夫になってきた」
「うん」
「変わった趣味してんな」
「違」
泣きながら~やぶった~写真に~
JUJUさんがよくライブで歌ってくれる曲というかもうすでにJUJUさんってだけで、
なんで出囃子がJUJUなんだよ!でケンカする鬼越トマホークさんを思い出します。
お友だちが夜暇だからって急に誘われたんだけど、
しかも夜に夜によ。
私もうねる瞬間だったのに。
そしてしかも
私を足がわりに使おうという作戦だったらしいけど
というか色々確認してからチケット買いなさいよと思っちゃうわ。
まあよしとしましょう。
みかんの花咲く丘公園前駅のスポーツパブがニッポンチャチャチャ、ウォー!と賑やかだったので
何?何?何かなと思ったらラグビーやってたのね。
その勝つ瞬間だったのかしら?
めちゃくちゃ盛り上がってたわよ。
こんなに盛り上がってるなんて知らなかったわよ。
というか
いつもと全然違う夜乗る時間帯の車内の雰囲気や車窓の風景がなにか深夜特急か夜行列車を思い出すようで、
夜な夜な電車で街に出るのも趣があるわねって思ったし、
街は街で眠らない夜なのねと。
といってもこの街の店は夜も24時になってしまうとほとんどが閉まってしまうので、
なんかカルチャーショックというか朝4時から飲めるのかよ!って思っちゃうわ。
パンツは見えませんでしたが、
なんでママが急に5年の間で強くなったのとか、
はしょってるところが多くて細かいところ伏線が多くてしかも全然回収してないから、
次のストーリーが色々と浮かんで次ぎあったらまた観たいわねって。
でさ、
ぜんぜん都合の良いカットをつなぎ合わせて予告だけの勝手なストーリーで見せちゃう編作ってるから、
いろいろと爆破シーンがある映画は予告大爆発みたいな感じよ。
それはそれで
予告編の楽しみでもあるわね。
とりあえず
残りの休日を楽しみましょう。
うふふ。
久しぶりに行った喫茶店のモーニングBセットピッザトーストです。
もちろんピッザトーストも美味しいわよ。
味がしっかりしてて豆からしっかり抽出したずっしりとした感じの、
ぜんぜん美味しそうな書き方じゃ無いけど、
それを幾つか輪切りにして
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
知らんけどケンカ腰で急にキレ散らかしてくるやつ多い印象
夏休みの宿題で「お母さんと弟と市民プールに行ったけど休みでガッカリしたことが1番の思い出です」って作文に書いたら、お母さんに「なんで?」と怒られた。
そりゃそうだ。車の免許がないから行くところは限られていたけど、夏休み中、お母さんは電動でもなんでもない自転車の後ろに弟を乗せて、まだ自転車の運転に慣れない私に「車!」「赤!」と声をかけながら、サマーランドやら母方のおばあちゃん家やら、いろんな場所に連れてってくれた。それなのに、1番近場での1番楽しくなかった思い出を書かれたら怒るに決まってる。
私としたら「楽しかった」だけじゃつまんないかな〜と、おませなつもりで書いた作文だったけど、他の子たちの「帰省」や「初めての海外旅行」の思い出と一緒に、「仕方がないからモスバーガーを食べて帰った」思い出が夏休みの文集に綴じられているのはたしかにおかしくて反省した。
思えば、お父さん、お母さん、私の3人で借家に暮らしていた頃から、お母さんの自転車の後ろに乗って、保育園、大きなダイエー、よくしゃべるオウムがいる近所の家、いろんな場所に行った。しばらくすると弟が生まれて、父方のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らす新しい家に引っ越した。
保育園に通い始めるようになった弟と補助輪付きの自転車さえ乗れないどんくさい私を乗せたお母さんの自転車は、買い物や保育園の送り迎えの道中よくすっ転んでいた。最初のうちは弟と一緒に「ウワーーーン!」と泣きわめいて「ごめんね」とお母さんに謝られていたけど、そのうち「あっ、倒れるよー」と予告されるようになり、「はーい」と上手に受け身をとって、助けてくれる通りすがりの人に「だいじょぶでーすありがとございまーす」と返せるほどになった。
弟がぽっちゃりしてきた頃、私は後ろの席を卒業し、坂道で自転車押したり、良きタイミングで弟に「降りて歩け」と指示したりする裏方に回った。そのうち自転車に乗れるようになり、お母さんの良きパートナーとして行動の範囲を広げていった。
私がピチレモンを買うようになった頃、アウトレットモールがある南大沢へ電車でよく行くようになった。と言ってもアウトレットモールは素通りで、目的は南大沢駅から30分くらい歩いた場所にある激安洋品店「タカハシ」。貧乏ってわけじゃなかったけど、コールセンターのパートを始めたお母さんのお給料が出ると、私と弟の服を買いに3人で駅からてこてこ歩いて行っていた。
服に興味のない弟の機嫌をとるために、駅とタカハシのちょうど半分の場所にあるモスバーガーでよくお昼ご飯を食べた。市民プールが休みだったあの日もたしかタカハシに行くことになって、モスバーガーに寄ったんだった。
私が小学校の卒業を控えた頃は、母方のおばあちゃん家ばかりに行くようになった。そんなある日、お母さんに「家を出ようと思ってる」と伝えられた。その頃、お母さんは私の部屋でご飯を食べたり寝たりしていて、いわゆる家庭内別居状態だったからあまり驚かなかった。お母さんの元気がなかったし、その方が良いと思っていたから、聞いて安心した。
「お母さんとお父さん、どっちと一緒にいたい?」と聞かれて「もちろんお母さん」と答えた。「弟はお父さんと仲が良いし、お母さんのお給料じゃたくさん食べさせることができないから、一緒には暮らせないと思う」と言われて「そうなんだ」と返した。その日の夕方、2人でスーパーに買い出しに行ったとき、お母さんに「中学生になったら髪染めていい?」と聞いたら「髪を染めたいならお父さんと暮らしなさい」と返されて、どっちもやだなと思った。
それから私が中学校に入学するまでの間、お母さんはこっそり家を出る作戦を練っていた。お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、弟にバレないように荷物をまとめたり、アルバムから私と弟の写真を何枚か抜いたりと忙しそうにしていた。
準備が整って、ついに出て行くことになった。最後まで「本当にお母さんと一緒でいいの?」と聞かれて、大事なことをたくさん伝えられて、「大丈夫」「わかった」とたくさん返事した。さみしい気持ちより、緊張でいっぱいいっぱいだった。
夕方、タカハシで買った洋服とか、夏休み中に撮った写真とか、いろんなものをお母さんの自転車に積んで、よろよろと倒れそうになりながら、母方のおばあちゃん家に向かって押して歩いた。お母さんの自転車でいろんなところに行った思い出はこれが最後だった。
それからいろいろあって、私はお父さんに引き取られた。中学生の間は弟と一緒にワンルームのお母さん家に週末泊まりに行ってた。うれしい気持ちが裏目に出て、お母さんの前で弟とよくケンカをしていたら「お母さん悲しいな…」と言われてしまって2人でシュンとしたこともあった。
だんだんペースがあいて、外でしか会えなくなって、病気がちであまり会えないって聞いて、ひさびさに会ったら「お母さん、対人恐怖症になっちゃったんだ」って手を震わせながら私たちと話してくれて、その姿を見るのがキツくて、会うのが辛くなって、今は連絡も取らなくなってしまった。何やってんだろう、私は。
最近よく「母親になったとき子どもに同じことをしてあげられるかな」って考える。お母さんがお母さんとしてしてくれたたくさんのことを思い出して、幸せな気持ちになる。今なら1番楽しかったことだけを書いた良い作文が作れそうなのに。何やってんだろう、お母さんは。
何が一番ヤバいかって、この論法を適用したら、例えば芸能人や政治家の結婚報道も「ヘテロ家族幻想を広める」ということでまとめて同じ理屈でブン殴れてしまうことなんだよな
むしろ見方によっては普通に旧来の結婚像を思い切り賞賛しちゃってるし、小手先の対策でどうにかなるひよこよりかなりヤバい
「世の中の偏見にモノ申す」と言えば聞こえはいいが、それを徹底するのであれば、つまりは世界の大半にいちいちケンカを売っていかないといけなくなる
例えば、BMWやAudiは、自社の自動車がより優れていることを示すために、他社を挑発するようなメッセージを使用することがしばしばあります。そのあからさまなケンカ腰の広告については、日本では考えられない過激さにネット上でも話題となっています。ではなぜ、日本ではこのような過激な広告が滅多に見られないのでしょうか?その理由は、日本人が和の心を重んじる心優しい国民性を持っているから、ではありません。実は、日本ではそういった過激な広告は禁止されているのです。「不当景品類及び不当表示防止法」によれば、他社の商品よりも優良・有利であると訴えかけるような比較広告は禁止されています。また、他社や他の商品を誹謗中傷するような攻撃的な内容は消費者にも好ましくない印象を与えるため、あまり過激な表現は自粛されています。とのこと。https://www.gentosha-mc.com/column/detail90/
窓の外に猫がいた。
窓の前にブロックがあって、そこに座っている。
あんまり好みじゃなかったので放っておいたら、いつの間にか帰っていた。
すると次の日も来た。毎日来るようになった。
エサをあげたわけもないし、特に構ったわけでもないのに。
夕方に来て、私たちがご飯を食べたりテレビを見たりするのをじっと見て、8時半ぐらいになったら帰っていく。
この猫、とにかくこちらをずーっと見ている。
全くよそ見をせず、まんじりともしない。大雨の日も、雪の日も来る。
どこかでたらふくエサを食べているようで、エサが欲しいわけでもないらしい。
ブロックは監視のベストポジションのようだけど、そこからは部屋全体が見えないらしい。
猫から誰も見えなくなると、窓の桟に前足をかけて必死に中の様子を見ようとすることが度々あって面白かった。
突然、猫が来なくなった。
前の日の夜中に大雨が降ったから死んでしまったかもしれないし、ケンカで負けて縄張りを追い出されたのかもしれない。
ただ単に監視が終わっただけなのかもしれない。
ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。
静かな入り江から小さな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。
最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去やホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。
ただの個人の経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。
確かに「東京の人間が想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会が再生産されているということ。
名古屋まで電車で1時間半以上、文化的な施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。
2軒の本屋は万引きの被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。
1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らしの年寄りが趣味でやっている畳屋と宝くじ屋しか無かった。
街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。
高卒で一度も町から出たことのない母親は、漁師を相手にする場末のスナックで働いて自分を育てた。
同じ町で漁師をしていた父親はフィリピンパブで出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親と離婚した。
それより前には「キミの父親は不倫をしているんだ」と小学校の同級生の母親から聞かされた。
相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんなデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。
最後に父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。
その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。
こんな家庭環境は、東京の自分が属するコミュニティでは聞かない。
なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。
親が大卒の同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元の中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。
自分は博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。
あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体を忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面で通底していた。
さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親・父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。
親世代の職業は漁業か水産加工、町工場、自動車修理で、小中学校教諭や公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。
スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風で茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。
町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。
クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件で家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。
そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックかフィリピンパブ、ギャンブル、セックスくらいしか聞いた限り思いつかない。
確かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間で同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。
ギャンブルはパチンコか電話で投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元の暴力団が元締めをする高校野球賭博も流行っていた。
暴力団は偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車にスウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである。
まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分の身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力、ギャンブルだった。
そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会をフラクタル図形のように構成していた。
小学校の頃には駄菓子屋やコンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。
暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。
そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在を排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。
小学6年生のとき、教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。
メガネは弱いものの象徴で、勉強や議論をするような人間は排除の対象だった。
文革かって感じ。
反対に、野球が上手いか、足が早いか、ケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。
動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思の合意は感情とその時の雰囲気で決まっていた。
そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除の対象となる。
真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。
授業中には廊下を自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族や野良犬があらわれる。
トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。
教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。
一方で登校している生徒にとっては、校則はフーコーのパノプティコンも真っ青な規律を自動化させるもので、髪型は男子は坊主、女子は肩まで。
他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。
校則を破らなくても、目立てば排除の対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。
そして積極的に学んだり考えることが嘲笑の対象であったので、そこでもやはりセックスをしたことがあるかとか、バイクの知識があるかとか、そういう分かりやすい尺度でヒエラルキーが構成されていた。
授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語を発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分の地元も同じだった。
テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベルの勉強に対する姿勢で、将来は男子は工業高校、女子は商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。
ここまでは自分がライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。
はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。
さて、経緯は知らないが、自分は幼稚園の頃にIQテストを受けた。
そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親はコメントをもらったらしい。
大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分を都内か海外の全寮制の学校に小学生のうちから預けようとした。
だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。
当時のことはよく覚えていて、理由は友達と離れたくなかったから。
その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。
小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫や島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。
早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員の時間、図書室でひたすら本を読んだ。
そのうちに、自分が生活する社会と根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会が存在することを知った。
哲学や思想系の本はもちろんのこと、西洋美術の画集や建築の写真集に心を揺さぶられたし、マーラーのCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。
めちゃイケを好むふりをして、自分は加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。
そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方の公立トップ校だった。
他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由でものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。
入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会、社会階層に自分は組み込まれたと自覚した。
同級生の親の職業は、医者、弁護士、会計士、大企業の社員ばかりだった。
誕生日には名古屋のデパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。
彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォードに留学中とかそんな話も当たり前にあった。
幼い頃からピアノやバイオリン、書道、バレエ、スイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。
彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアルの人間とできたことだった。
そして何より彼らは、自身の解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。
もちろん性やギャンブル、暴力、ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体を享受するだけでなく、思考の対象としても話題を取り上げることががあった。
高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。
今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。
なぜなら、受動的に与えられたその社会が自分のすべてだったから。
母親が母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。
自分はたまたま、自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。
なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから。
自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。
パチンコの新台や、友達の奥さんが不倫をして旦那が相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。
もちろん、そういった社会(自分が経験したような)を否定する理由はどこにもない。
ただ、自分が故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会に適応しきった人々である。
有り体にいえば、将来の選択肢の存在すら意識できないのが自分の体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのものが封建的に否定される強い構造を伴っている。
だからこそ、自分の田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。
もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会が存在することを予期している人も稀にはいることだろう。
幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身を好転させるにはあまりにも遅い場合が大半であると自分は思う。
そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。
母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。
一方で、開成や筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的に自分が望んだ社会を享受してその上に今も生活を営んでいる。
それは誰でもそうであるように、最後の最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである。
自分は依拠すべき地域(地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである。