はてなキーワード: 誰かのためにとは
『駆け出したかもしれない
@oAFj4d7zFGPvZpI
こんなに死ぬ気で働いて、「誰かのために」と思いながら泥だらけになりながら原稿を書いているが、
マスゴミマスゴミ言われると純粋に悲しいなあ。あなたたちのためになればと思って、私たち頑張ってるんだけどな。』
たったこれだけの文章でマスコミ関係者の腐敗っぷり、勘違いぶりを如実に表現していて笑ってしまった
マスメディアというのは、現実的にしばしば逸脱するにせよ、公平中立客観的が原則だ
人間の活動にはおおよそ肯定的な意見と否定的な意見があり、マスメディアも当然例外ではない
世の中には現代日本のマスコミの活動に対して否定的な人間が当然のようにいるわけで
この人は、そうした立場の人の意見に立って物を考えたことあるんだろうか?多分ないだろうね
自分たちマスコミの活動は社会的善行であり、身を削って社会に奉仕する自分たちの活動が不当に貶しめられているという意見しか内面化できていない
震災から10年ということで感傷的な文章をつらつら書こうと思う。
私は大のNHK好きで受信料もお布施のような気持ちで支払っているが、あの曲が真っ向から受け止められなかった。
「花は咲く」ってそんなふわっとしたきれいごとを、、、くらいに思っていた。
けれど最近この時期に合わせて放送しているのを聞いてみて、印象が変わった。
「誰かの」、「いつか生まれる君」の幸せや未来を歌っている、それに気づいたときに何故かこの曲を素直に受け止められるようになった。
震災当時大学生だった私は、住んでいた自治体が受け入れた被災者のための避難所でボランティアをしていた。
発災から数日は、自身も電気・水道等のインフラ停止の影響を受けたが、時間と体力が有り余る大学生こそなにかをしなければと、避難所にほぼ常駐で、炊き出しの調整、物資の差配、避難所の環境整備等をしていた。
無邪気に遊ぶ子供たちもいれば、情緒不安定で泣き出す子供もいる。
大人も避難の疲れとストレスがたまっており、被災の度合いによって避難のスタンスも違うので、被災者同士が喧嘩になることも多々あった。
自宅と息子夫婦、孫が津波で流されて行方不明の老人、自宅は全壊したがなんとか全員無事で避難してきた一家、放射能影響を考慮して自宅を離れた若い夫婦、、、状況は本当に様々だったので仕方ないのかもしれない。
避難所でボランティアしている際、自分の中で決めていたことがある、
私は感動映画を見ればすぐ泣く質で、もらい泣きすることがしょっちゅうある。
話を聞くと共感して辛い気持ちになるが、決して泣かないようと頑張った。
彼らからその話を聞いたとしても、その悲しみは私のものにはならない。
彼らの悲しみは、彼らだけのものだ、私が聞いて泣いたらそれは勝手に悲しんでいるだけだ、自分が可哀そうで泣いているだけだ、と。
そんな風に思わなくても良いのかな、と思ったのは最近だ。
震災のことを思い出すと、自分の関わった被災者のことが思い出されて辛い気持ちになる。
でもその悲しみは、私が自分が可哀そうだと思って感じる悲しみなのか?
確かに彼らの悲しみは彼らのもので、誰も「理解した」なんて言えないと思う、
けれど彼らの悲しみに寄り添って一緒に悲しむことは、必ずしも自分勝手なことではない。
過去の自分を擁護するなら、震災直後、壊滅した沿岸部の映像を見ながら被災者のことを思って本当に胸が苦しかったし、
だからこそ少しでも助けになりたいと思っていた。
そしてそれは私以外も一緒だと思う、悲しみに寄り添う人を認めていきたい。
当時大学生だった私が、なんとかかんとか働きながら、
私にとっての「誰かの」、「いつか生まれる君」は、
ベッドの隣で眠る息子や、これから生まれてくるかもしれないわが子だ。
自分のために何か努力したり、我慢するのは容易ではないと思う。
大人なので一通りのことはできるようになったが、自分のためにという思いは続かない。
だが家族や、わが子のためなら違う。
仕事をやめてまもなく1年が過ぎる
1年たつと、去年の感情も風化して、昔の私は真面目に働いていたんだなという風に自己評価をする
んで、ゆとりの時間を作って、もう一回就職のことを考えている夜中な訳です
キャリアプランとかってなりたい自分をイメージとかしたりするじゃんよ
オフィスカジュアルでパソコンに向かいながら、業務に追われてるけどなんかキラっとしてる感じとかあこがれの職種とか
最終的に人のためになっているだろう仕事とか
けど、イメージするだけで、今私がやりたいことって何か、という問いになるととたんに固まるのね
将来、家族が欲しい。子育てをしてみたい。そうすると、お金もそれなりに、でも育休や復帰しやすいところに。
あれ、キャリア断絶するだろうから、30代の経験はガタガタになるのかなとか。
仕事に追われて子どもとの時間がなくなるのも、それはそれで嫌だな、とか。
これからの人生が、未知すぎて固まってしまう。というかやってきた。まじで人生のライフステージ激動の時期ここに来たわ、ってなっている。
私だけで生きるんじゃない場合、私はどうやって生きるの、とか考え始めたんよ。
もし、つーかまだ結婚もしてない身だけど、今後結婚して、子ども出来てってなった時に、おそらく私は家族のために働くっていう目標にした方が生きやすいなって思っている。現時点で。
子育てが落ち着いたら、その目標がなくなって働く気力が失せたり、何をやってきたんだとか絶望するんだろうか。
自分がどうありたいかを大事にしてねって言われてるご時世だけど、近くにいる誰かのために働くって、今の私にとってはすごく原動力なんだよね
んでそういう目標を据えると、自然とこの仕事で頑張ってみようって決意ができるようになるの。
再び、家族のためという目標を除去した場合、あなたにとって仕事は何になるの?っていう声が聞こえてくるんだけど
私が選択した仕事は、自分の関心と家族をかけあわせた最大公約数みたいなところにあるから、まあまあな納得はできるんだと思う、と考えている
前の職場は、あまりにも向いてなかったと思う。また働いてみないと、向いてるか向いてないかなんて分からないかもしれないけど。アラサーだからね。厳密に分析しながら仕事先選ばないとかな。
なんていうか、仕事仲間も大事だし、友達も大事だし、支えになってくれる存在って感じるけど
なんかなぁ、暮らしを共にする人がいれば、もっと頑張れるって思うんだわな。
こういう年ごろなのかな。
学生時代は一人でも大丈夫って思ってたのに、最近は家族が欲しいって思う。細胞から語り掛けられてる感じ。
仕事の話を書いてたつもりなのに、なんか家族が欲しい話になっちゃった。
でもつらつら書いてみた結果、私は自分の気持ちが少しだけ明るみになったのであった
夜中に長文でごめんね、みなさんおやすみなさい。
ニュースで女の子が死んだ話が流れたら、世の中の人の大半はそれを知って悲しむ。悲しむって言うのはまあネガティブ方面の感動で、感動ってのはお金になるんですよね。
フィクションにおいての死も(300ページくらいで終わる文庫本でよくありますね)どれだけの人を感動させただろうか。
少女ではなくても若い女性、特に若いご夫人の死なんかも感動を与えてくれますねえ。遺影を持った遺族の姿がまた感動を世間に与えてくれます。
現実にしてもフィクションにしてもみんな女の子が死んだことによって感動したいんですよ。だからこれからフィクションを創造する人たちは、とにかく女の子をぶっ殺せばいいと思いますよ。
残虐なことをやって憤りを感じさせるのもよし、苦しみに苦しみ抜いて思いを伝えて情緒ある涙を誘うのもよし、あるいは誰かのために自己犠牲をする高貴なものを描くのもよし。
男? 少年とか有名人だったら少しは感動を与えてくれるけど、ま、お金に繋がる人は稀ですね。
誰にも迷惑にならずに死にたいのなら、未婚の有名ではない成人男性を三人ぶっ殺せば静かに死刑判決が出て人権団体も一切抗議せずに死刑執行されると思いますよ。なにせ感動も与えないしお金も儲けられないので。
殺人は迷惑なこと? いやいや未婚で冴えない成人男性なんて少なくとも日本では一番代替が効く存在なんだから関係ないでしょう。
が好きだ。
厳密に言うと、自殺願望(というよりは自己嫌悪か)が屈折して自己犠牲的に『ヒーロー』に“なりたいと思う”系主人公。なるかどうかは重要ではない。
映画漫画小説フィクションノンフィクションなんでもいい。主人公じゃなくてもいい。
って、このタイトルで注意書きに挙げた時点でネタバレは終わっているようなものなのだが。
わたしがこのテのキャラクターにはまった最初が、『コードギアス』の「枢木スザク」だ。
で、最近、タイトルに該当するようなキャラクターに出くわした。
彼の独白で「誰かのために命をかけてみたい」という台詞の裏に「かっこよく死にたい」とあった。
もう正直に言って、「いつ面白くなるのだろう……?」と思いながら、佐々木はいせになる前の数巻を読んでいたんだが、この台詞で「あ〜読み進めてみてよかった〜」と思ったり、枢木スザクのことを思い出したり、あ、わたしはこういうキャラクターが好きなんだなと思ったりした。
タイトルのようなキャラクターを見つけたくて、「自殺願望 自己犠牲」とかいろいろぐぐったりもしたんだが、これがなかなか見つからない。
堺雅人がトリガーのアニメの声優をしたときのインタビューがヒットして、『プロメア』は観てみようかと思った。
タイトルは釣り。俺はニワカなので彼のことを語れるほどには知らない。
でも彼の訃報がなぜか受け入れられないのでなんとなく吐き出してみる。語るのはチック・コリアのことではなく俺の心情である。
チック・コリアはアメリカ生まれのジャズピアニストだ。体重はたしか173ポンド。
2/12(金)、Facebookで公表された彼の死は世界中のジャズファンに衝撃を与えた。79歳、癌だった。
彼の経歴は華やかで、功績も語り尽くせないだろう。
若いころからスタン・ゲッツやハービー・マンなど有名なジャズマンと共演し、数々の名演を残した。
特にマイルス・デイヴィスとのバンドは音楽史に刻まれるべき出来事だろう。フュージョンの先駆けとなるサウンドを作り、フュージョンを開花させ、音楽の幅を広げた立役者の一人であり、新しい音楽が花開いた時代を牽引したバンドのひとつだと思う。
スペインやラ・フィエスタなど、ジャズや吹奏楽に興味を持ったら一度は聴いてみたくなる、一度聴いたら弾いてみたくなる楽しげな名曲もいくつも作った。
まあそんなのはどうでもいい。俺は歴史は苦手なんだ。ていうか今調べた。
俺はただ、去年の緊急事態宣言体制下でずっと彼の演奏を聴いていただけだ。
アドリブがつなぐランダムな演奏に見えて、実はしっかりした理論の上に成り立つ繊細で自由な音楽がジャズなんだな、とようやく分かってきたころ、緊急事態宣言が発令された。
色々なものがステイホームになった。ジャズの大きなライブイベント、東京ジャズもオンラインライブになった。
東京ジャズで一番心惹かれたのは、上原ひろみのカレイドスコープ。
きらめくような物悲しいような、何度も聴きたくなる演奏だった(誰か詳しい人がうまいこと解説してくれないかな)。
それから上原ひろみのライブ動画を見た。その中にはチック・コリアとの共演もあった。
(ようやくチック・コリアにたどり着いた!話が長い)
出会ってからはその動画を繰り返し見た。緊急事態宣言が解除されて家から出るまでずっと見た。
何がそんなに良かったかと言うと、楽しそうだったのだ。
他の共演者もみんな楽しそう。
まあぶっちゃけ楽しそうに演奏するジャズミュージシャンなんていくらでもいるのだが(そういうところが好き)、当時はその動画が妙に心に刺さったのだ。
一番最近見た上原ひろみが少し辛そうに見えていたので、そのギャップかもしれない。
正確に言えば、タモリのチック・コリア風ピアノを聴いたり、たまたま寄った店で見かけたリターン・トゥ・フォーエヴァーのアルバムを買ったり、全く触れなかったわけではないのだが、まあその程度だった。
モルカーのほうがヘビロテしてたくらいだ。
そして先週末、昼休みに覗いたTwitterのトレンドに並ぶ「Chick Corea」「スペイン」「Return to Forever」…
びっくりした。「あんなに楽しそうにピアノを弾く人が死ぬのか?」って思った。(我ながら意味がわからない)
ちょっと涙が出たけど悲しかったわけではないと思う。俺はニワカだし、悲しめるほど彼のことを知らないはず。
俺にとってのチック・コリアは「有名でピアノがうまくていつも楽しそうなおじさん」くらいのものだ。
久しぶりに例の動画を見た。やっぱり楽しそうにピアノを弾いていた。
こっちの動画も、あっちの動画も。全部楽しそうなチック・コリアが映っていた。
これはもう過去の出来事なんだろうか。なんだか受け入れたくないなあ。
「すばらしい音楽人生をありがとう。興味がある人たちは、自分のためにも誰かのためにも、これからも音楽活動を続けてください。世界はアーティストを求めているし、何より単純に楽しいのだから」
(追記)
上原ひろみのコメントを読んで、また動画の中の幸せそうな二人を思い出した。
寂しいなあ。
https://www.instagram.com/p/CLWq-q7pZry/?igshid=l7qd1wnit7oy
「自炊男子大生と限界年上OL」がTwitterで話題になっている。自分には関係ない話だと思っていたが、長い間トレンド入りしているものだから気になってtogetterhttps://togetter.com/li/1656253を拝読した。
これを読んで多くの一人暮らしの民が「自分の普段の食事は “限界飯” なのか?!」「何を基準に食生活が壊滅的・破滅的なのか否かを判断すればよいのかわからない!」と疑問や不安を抱いたのではないだろうか?私もその一人だ。不安になったから急いでサインアップをしてこのはてな匿名ダイアリーというものを利用してみている。……そんなこんなで増田の使い方を全然わかっていないし、投稿したら誰かに読んでもらえる可能性がどれくらいあるのかもわからない状態である。文章を書くのも元々得意ではないので悪しからず。
私が実家を出て、もうすぐ2年経つ。1年目は大学の寮(食事付きではない)で暮らし、今はアパートの一室でIHの一口コンロや電気ケトル、電子レンジ、炊飯器と共に暮らしている。寮でのフロアメイトたちとの共同生活を通して、自分は同年代の女子と比べると家事(特に料理)ができる方だと実感していた。幼い頃から「ひとりでも身の回りの事が何でもできるように」と、家事をよく手伝わされたり任されたりしていたためであろう。親に感謝である。私の家族は食にとことんこだわる人たちで、安全で美味しい食材を求めて肉も野菜も魚もお気に入りの農家や魚連から取り寄せていた。出汁のとり方など、調理法にもこだわる方だったと思う。実際、母の料理は贔屓目なしでも美味いと思っている。まあとにかく、私の料理スキルと持っている知識のレベルにさほど問題は無いはずだった。友人と一緒に食事をとる予定があれば、友人の好みに合わせて油淋鶏やらグラタンやらオムライスやら炊き込みご飯やらパスタやらタンドリーチキンやら、様々な料理を作ったものだ。
寮を出て本格的に一人暮らしを開始した頃、某感染症が世の中をめちゃくちゃにし始めた。大学の講義はすべてオンラインでの開講となり、私の(数少ない)友人たちの多くは暮らしていた部屋を引き払って長期の帰省を始めた。誰かのために料理をする機会がほぼ無くなってしまったせいなのか、私の食事はどんどん手抜きになっていって、作り置きという習慣も次第に失われていった。気が向いた時に料理をすることもたまにあったが、寮を出て初めて夏を迎える頃には野菜を買う習慣も無くなっていた。その頃食べていたものを挙げてみる。
朝: 無し
夜: 餃子の皮を揚げて塩胡椒や柚子胡椒や七味唐辛子で味をつけたものを乗せたご飯
毎日こんな感じだった。そして今もこんな感じである。彩りもクソも無い食生活に、最初の頃は「まあ今日くらいこれでいいか!」くらいの感覚を持っていたのだが、しばらく続けているうちに慣れてしまってヤバさを感じられなくなっていたらしく、件のOLお姉さんの食生活が破滅的だと言われている騒動を見てハッとした次第である。私の食生活、ヤバいのかもしれない……いや、ヤバいんだった。昔はこんな生活を続けちゃいけないと思っていたんだった。
料理スキルの有無と自炊習慣の定着度の間にどのような関係があるだろうか。自炊をしていない人は皆料理スキルを持たざる者なのか?私は別に、自分の世話をする時間的な余裕が得られないほど忙しい生活をしているわけではない。ただ、自分一人のために包丁とまな板を取り出し洗い物を増やしながら鍋やフライパンを使うのはなかなか結構億劫だなと思ってしまいがちである。
この文章を人間に読んでもらえたのかどうかわからないが、もし読んでくれた人間がいるのなら礼を言いたい。ありがとう。オチの無い話ですまない。私はがんばって健康になる。
学歴しょぼいし大した稼ぎじゃないけど収入的には多分地方在住としては同年代の平均よりちょっと上くらいの稼ぎ。
こんなレベルでも、住んでる家は駅近会社徒歩圏内で良い感じのところ発掘できたから独り身としては不満ないし、
自炊だから食費も割と好きなもの食べても大した金額にはならん。
サブスクで映画見たって金は減らないし、これが全部GEOでのレンタルに代わったって金額はたかがしれてるだろう。
ゲーム買ったところで積みゲーが増えるだけだし、PCのスペックは多分これ以上上げても仕方ないレベル。
服は何年か前に無印だかのテーラードジャケットの中古品をメルカリで何着か買ってずっと着回してるけど全く不満ない。
多分服を増やしても出かける前に悩む時間が増してむしろ邪魔に感じるかもしれない。
そんな日常を送っていて月末にクレカの明細を確認するとどうにも生命維持活動費用以外にほぼ費やされてないことに気づく。
多分、趣味であるデジタルコンテンツはほとんどお金がかからないものが中心だから生活保護受給者の方がよっぽど生活にお金を費やしてるレベルだと思う。
新卒時から比べると100万以上給料上がったはずなのに生活水準も心の余裕も何もかも代わってない。
住んでる家が会社から徒歩15分の1Kから徒歩5分の1DKに変わったくらい。
いやこれもしかして200万上がったって300万上がっても、住居が1DKから2LDKに変わるくらいでその他はほぼ変わらないんじゃって、まあ多分そうだろうな。
最近そんなに欲しくもなかった低温調理器とルンバのパチもんみたいなのを買ったがタンスの肥やしが増えただけだった。
働けば給料が振り込まれて、お金を使わなきゃ当然貯金は貯まっていく。
時間とエネルギーと金だけは有り余ってるけど、余った時間にエネルギーをぶつける先がないからただただ貴重で有限なエネルギーが時間経過で蒸発して雲散霧消していくのをただ見ていくことしかできないもどかしさを感じる。
日に日に無駄に年だけとっていく自分の姿に焦燥感だけが強くなる。
こういう余ったエネルギーとかお金って本当は愛する女性とか子供に費やすべきものなんだろうな。
子供の頃の俺は親に面倒をかけてたんじゃなくて、本当は俺が親に面倒をかけさせてあげてたんだなって、大人になってからなんとなくわかったよ。
本当は、一人で生きていけないか弱い女性を扶養するだけの都合のいい理解のあるATMでもいいから、誰かのために生きる人生歩みたかった。
自分は、何者にもなれなかった。
youtuberとして売れたいプペルが麻薬を燻製にしようとチャレンジして煙突から様々な気体を垂れ流しにしているせいか、ハロー効果は捕まっていないだけの詐欺師でも使えるほど強力だからか、コロナウイルスが遠慮するくらいに若者がプぺプぺ言って楽しそうなので、自民党は高齢者枠でワクチン接種する令和おじさんより10年間毎日2時間睡眠という高校生並み体力を誇る教祖様をあてにしたほうがよいと思う今日この頃だけど、この手の話は地方創生においても見受けられる。
マクロに言えば、政府は政府にとって都合のよい自治体が増えるよう、都合の良いことをする自治体に地方創生交付金を流す。(間違えた、取組を啓発し交付金によって実施を奨励する)
ミクロに言えば、政府にとって都合の良いことをする自治体は政府や地方にとって都合のよいことをする個人や法人が増えるよう、都合のよい住民をファシリテーターやスピーカーとする講演会を開催する。(交付金は出ないから承認欲求の満足で我慢してね)
ゆりかごから墓場まで貴族の与党が現実離れしたキラキラした方針を出せば、官僚レベルではチンケな娑婆と折り合いをつけるために法的に落とし込み、ギラギラした目で残業しながら財務省や予算委員会と掛け合う。自治体レベルでは、部長クラスが交付金と我が老後に目をキラキラさせて指示を出す。我が20年後に目をキラキラ・ギラギラさせる者や、煙突にこびりつくすすのように黒ずんだ眼を見せる者は、交付金獲得のための書類作成や実績を残すための事業運営に精を出す。起業家育成、女性支援、空き家・空き店舗の利活用。勝てる農林水産業、六次産業化、産官学の連携。都合のよい未来をもたらすためのキラキラした事業たち。
ここまでくると、誰かがキラキラしているのは一瞬だ。講演中の講師や、夢を思い描き事業に参加したくなる人、チラシに使われる笑顔くらいなもの。キラキラを追いたいがために、あるいは美しい素朴な心で誰かのために何かをしようと、しょっぱい補助金等各種支援()施策を頼りにして、現実と毎日格闘して疲れ切り、プぺプぺ信者からチケットを買う代わりに、異教の信徒からヒトモノカネを買わされているかもしれない。ちなみにこのレベルでも生まれながらの貴族に事業委託すると、素晴らしい実績の代わりに人生の自由を損なった信徒が量産されるぞ。そうすると生まれながらの貴族は実態経済と離れた資本市場でさらに貴族力を高めるぞ。
無理してもみんなキラキラとプぺりたい。しかしキラキラした光をよく観察すると、こちらに向かっているのではなく、中心にある無限の穴、つまり素晴らしく現実化するのが困難なアイデアに吸い込まれているのかもしれない。キラキラを追わねばキラキラできない、モテる教祖様と持たざる信者とその他何者にもなれなかった者による近代社会を令和になってもやめられない。
確かに会食やお出かけは減らしたほうがいいのは間違い無いが、
病状や回復までの経過が重要なのであって、その知見が広まれば今後コロナにかかるであろう多くの人が
その知見を活かして僅かでも改善したり、気持ち的にも備えることができるじゃないか。
「こんなに大変なんだな」とわかるし、結果外出自粛などにつながるわけよ。
それなのになんだお前らは。「外出してるじゃん」「自業自得」とか、コロナに感染したことを本人の責任にするコメントをして批判だ。バカか?
本人がちょっとでも外出してたら批判か?バカか?そんなことしてたら体験記書ける人が誰もいなくなり、病状の知見が共有されなくなるぞ。