はてなキーワード: 誰かのためにとは
もしも、主人公と同じ高校生の頃の自分が天気の子を見てたらそういう感想になったのは、多分間違いない。
その頃の自分は、皆が協力すれば皆が幸せになるし、そうして協力によって生み出された利益は自分にも返ってくるから自分も幸せになると思っていた。
ゲーム理論の一番簡単な部分を、上っ面だけで理解してそういう風な事をホンキで考えてた。
でも実社会でそれなりの時間を過ごして、功利主義を通用させられる状況の限界を知った。
自分が誰かのために犠牲になったとして、それが一時の不利益でしかなく最終的にはプラスに転じると言えるのは不利益の規模によるということだ。
友人のためにコーヒー代を貸す(おごる)ぐらいなら、すぐにそれは返ってくる。
でもそれがある程度の現金だとか、身分だとか、ハンコだとか、そういった物になっていくにつれて、巡り巡っても返ってこなくなる可能性が高くなる。
そして、そういった行為に対して返ってくる感謝ですらも、ある程度の上限はあるのだと。
特に、犠牲によって成された善行が人の記憶から消える速度は早いのだ。
自分が犠牲になって他人のために何かを為しても、捧げた自分自身に対して戻ってくるものは少なく、そして他人が同じように犠牲になってくれる保証もない。
そもそも、どこかで大きな犠牲を誰かが払うことになるロシアンルーレットじみた社会は、結果としてその構成員全員に強い不快感情を及ぼすことになる。
犠牲になるのなんて、ある程度まででいい。
全世界の人間と一人の人間の命が交換になるような状況であったとしても、本人や知人がその選択を選ぶ必要なんて無い。
世界規模のロシアンルーレットを回すしか生き延びる手段がなくなった世界なんて、滅ぶほうが正解なんだ。
今ならそう考える。
あの結末は「子供の理論」として作中では描かれている節もあるが、同時にすべてを自分たちで背負いこもうとするのも「子供の理論」であるという自己矛盾が意図的に仕込まれている。
じゃあ大人はどういった答えを選ぶべきなのかと言えば、それはラストシーンで語られているのだから私がわざわざ口にするわけもないわけで。
最終巻読んだ人の中には既に気づいている人も多いはずだけど、アニメ版OP紅蓮華には実は凄い秘密がある。
最終巻まだ読んでない人はここで引き返したほうが良い。
アニメで見るつもりならそこで明かされるはず。
強くなれる理由を知った 僕を連れて進め
⇨そう、まさにここだよね「強くなれる理由を知った」のは誰だったのか?僕とは?連れて進め?そういった謎が最終巻で全部明かされる
泥だらけの走馬灯に酔う こわばる心
⇨この漫画でもトップクラスに回想パートが多いキャラは?もちろん1位は炭治郎だけど時点は誰だろう?
震える手は掴みたいものがある それだけさ
夜の匂いに空睨んでも
⇨夜こそを住処とするのは?鬼殺隊?それとも?
変わっていけるのは自分自身だけ それだけさ
⇨この漫画全体を通して一番変わったのは誰だろう?ヒント炭治郎は最初から強い子だった。
強くなれる理由を知った 僕を連れて進め
⇨もうネタバレ配慮いらんよな?そう。これは鬼舞辻無惨の歌だ。
どうしたって!消せない夢も 止まれない今も
⇨死の無念さ、失われる夢
誰かのために強くなれるなら
⇨そして出会う、門炭治郎の持つ輝き
ありがとう 悲しみよ
⇨敗北し、鬼舞辻無惨は死ぬが、炭治郎の強さを知ることが出来た
紅蓮の華よ咲き誇れ! 運命を照らして
⇨行け。炭治郎。散りゆく無惨の思いを託され
イナビカリの雑音が耳を刺す 戸惑う心
優しいだけじゃ守れないものがある? わかってるけど
⇨部下に厳しく当たる鬼舞辻無惨
逸材の花より 挑み続け咲いた一輪が美しい
⇨才能任せの日の呼吸、挑み続けた火の呼吸
乱暴に敷き詰められた トゲだらけの道も
⇨異常者に追われ続ける無惨の人生
本気の僕だけに現れるから 乗り越えてみせるよ
⇨それでも諦めない頑張れ無惨
簡単に片付けられた 守れなかった夢も
⇨永遠に生きたいと夢を完全に打ち破られ
紅蓮の心臓に根を生やし この血に宿ってる
⇨それでも託した思いが炭治郎の中を生きる
⇨無惨に悲しい過去。死による結末
無情に破れた 悲鳴の風吹く
⇨死に直面した悲しみ
誰かの笑う影 誰かの泣き声
⇨歓声を上げる異常者の集まり
誰もが幸せを願ってる
どうしたって!
消せない夢も 止まれない今も
誰かのために強くなれるなら
ありがとう 悲しみよ
紅蓮の華よ咲き誇れ! 運命を照らして
中学生の頃、私は学校内で、いや、おそらく市内・県内でもトップクラスに頭が良かった。
中2からクラスに馴染めずにいたけど、受験前から、休み時間に勉強を教えてくれとせがまれることが増えた。
高校受験に大成功し、国内トップの国立高校に合格したものの、金銭面と体力面を理由に、県内トップの公立進学校(自称ではない)に進学した。
高校に上がる頃、私は、頭が良く、勉強ができることが全てだと思っていた。
そんなときに出会ったのが、ライトノベル「バカとテストと召喚獣」だった。
詳細は割愛するが、あのライトノベルを読んで以来、私は、「本当に頭が良い人」とはどういう人なのか、
「教育」とは、「子供を、人を教え育てること」とは、いったいどういうことなのか、ずっと悩み続けている。
大学入学後には塾講師、現在は教材メーカーで仕事をしているが、
自分が本当の意味で「教育」に貢献できている、という実感はない。
どういう人間を理想としているのか。何を伝えたいと思っているのか。
(小説は手元になく、買おうと思ったがどうにも手に入れにくい状況になっているようだった)
自分のために、誰かのために、本気で考えて行動できるだけの頭があれば、それでいい。
生きる上で必要最低限の知識があれば、他は興味のあることや、それを学ぶのに必要なことを学べばいい。
私はそうやって生きていきたいし、子どもにはそうやって生きてほしい。
これが、私の見つけた答えだ。
けど、教育は変わってきている。
何かを届ける方法は、日々増えてきている。
テストの点数を上げて、勉強ができるお利口さんを量産することが教育じゃない。
勉強の楽しさを知ってほしい。
もう少し詳しく説明してほしい。
また、「構成員がその社会の社会支援の基準を検討することは社会支援への同意と何も矛盾しない」は賛成or反対?
お金と時間が有限な以上、誰かのためにそれらを費やすと決めることは別の誰かには費やさないと決めることとイコールだよね。
なので税金の話で書いたけど、別に税金にだけ限定するつもりはないよ。
とはいえ、自発的な募金や助け合いで強制でないなら、他人がとやかく言う筋合いもないしお好きなようにどうぞって思うけど。
運用はまぁそうだろうけど、要件を決定するのは有権者の主観的な考えの集合だよ。
例えば、破産法252条1項4号の「浪費または賭博その他の射幸行為」の元になっているのは公正さに対する有権者の思いだろう。
もし要件決定に客観性や絶対性があるなら、毎年たくさんの法律の要件が変更になったり、死刑や同性婚など喧々諤々の議論になったりしないわな。
で、元増田の基準が主観的相対的な条件であるのは確かだけれど、元増田がその思いを胸に直接/間接的に法律の制定に力を尽くしたとして、その法律が無制限に拡大していくとはならないよね?という話。
まぁこれは余談だけど、
一人一票の民主制社会において社会福祉システムなんて基準緩和の方向に進む力のほうが強いのは明らかで、
(基本的に基準緩和で負担が減る人≒貧困層の数>負担が増える人≒富裕層の数)
基準強化の訴えはアンチテーゼとしても非常に重要だし、それによって基準強化が無制限に進むということは国家の意思決定システムからも考えにくい。
おそらく対応マニュアルとか共有して、民主主義者を論破したり、民主主義者のまっとうな主張に対してその他大勢がドン引きするという空気感の演出に最大限の知力と労力を振り絞っているだろう。
彼らにも背負っているものがいろいろあるのだろうから必死になるのもわかるような気もするが、私達市民一人ひとりが自身や家族の将来を考えた時に、まず国からとか世間からとしての基準よりも、まず自分たちがどうありたいかを最優先に考える必要がある。国のために市民があるのではなく、市民のために国があるのだ。誰かのために自身や家族が明らかに善意や親切心や共感の範疇を超えるような多大なお金や労力を犠牲にしたり、誰かを崇拝したり、命を差し出さなければならない筋合いはない。
端的に言うと、連中は相手にしないほうがいい。
ワイは誰かのためになら120の力を出せるで
ある者はオナニーを仕事に出来ることが至福であるように語るがそれは違う。
どんなに地位や名誉を手に入れても集団の中で生活の糧を得るという仕様からは逃れられない。
ガス抜きとか、息抜きとか、色々な言い方をするがそれらすべてはオナニーに他ならない。
世の中で信頼を得ている大人達は、みなこの妄想力において絶大なパワーを持っている。
妄想力が乏しい人間が下手に権力を持つと薬物犯罪や性犯罪を起こしやすくなる。
自分の脳内ではなく、人や薬や金に頼って快楽を得ようとする時点で雑魚なのだ。
原作をもっとエッチに妄想したいという願望を抑えきれなかった人がエッチな同人誌を書く。
卑猥な同人誌も、アイコラも、外に向けて公開した時点で罪ある行為だ。
真の自慰とは、内なる瞑想として徹底的に自分一人で妄想するのだ。
誰にも迷惑をかけず、誰にも教えず、金もかけず、自分だけの世界で最高のオナニーに達観しろ。
そしてそれを心の引き出しからいつでも取り出せるようにしておけ。
いいか。
若いうちに異性に興味を持たれたいが故に妄想を怠るなんてのは愚の骨頂なのだ。
本当にパートナーを大切にしたかったら自分の中で圧倒的な妄想力を身に着けろ。
自らの願望は妄想の中で叶えて、パートナーには対等な人間として常に思いやりを持って接しろ。
俺からは以上だ。
詳しい説明は省くが、主人公がやむを得ぬ事情で落ちもの系ヒロインを介錯し、そのヒロインの最後の言葉が「これからも、誰かのために頑張れるヒロトでいてね」だったんですよ。
けど主人公は、別の落ちもの系ヒロインを助けようとする男の子に対して嫉妬から衝動的に引き金を引いてしまい、落ちもの系ヒロインの言葉を守れなかったことから長い後ろ向き期間に入ってしまうんですね。
色々あって主人公がようやく前向きに戦えるようになり、覚悟を決めて重要な戦いを迎える前に幼なじみヒロインと話し合う、という場面で、幼なじみヒロインが主人公の背中を押すために言った言葉が「ヒロトは、誰かのために頑張れる人だから」だったんですよ。
落ちもの系ヒロインが言った言葉を上書きする形での全肯定、幼なじみでしか絶対に言うことの出来ない積み重ねた「歴史」を感じさせるその一言に、幼なじみのイデアがそこにあると確かに感じられた。
幼なじみヒロインは元々「回帰すべき日常」の象徴なのだが、物語が展開される非日常ではなく、物語を駆動する日常にこそ主人公の本質があると示す素晴らしいセリフだった。
料理は時折かんたんなものを作る程度なので、とりあえず冷蔵庫にあったニラと豚肉を焼肉のタレを和えて焼いた。
タレを入れすぎてしまったので、フライパンの底が隠れる程度に肉汁やニラの風味が溶けこんだ焼肉のタレが残っていた。流石にこの量を捨てるのはもったいないと思った。
父が醤油で餅をたまに焼くので、その要領で、少しタレとみりんを足して角餅を三つ焼くことにした。
焼けた餅に海苔を巻いて、三枚の皿にひとつずつのせ、父の席、母の席、自分の席にその皿を置いた。
餅を焼いているあいだに母が作った、卵と野菜の炒めものもテーブルの中央に鎮座していた。
早く餅を食べた方がいいぞと父が言うので、席について餅を食べた。餅自体が美味しいのでタレで焼いた餅も美味しかった。
席についた母が、餅ののった皿をこちらによこそうとした。お腹が空いていないのかな、と思った。
けれど自分は餅をひとつ食べていたし、なかなかの弾力とボリュームがある餅をもうひとつ食べられるほどに夏バテ気味の腹に余裕はなかった。お腹がいっぱいだからと、断った。
すると母は父の前に餅の乗った皿を押しやっていた。
「食べないの? せっかく作ったのに…」
純粋に疑問だったのもあったので尋ねた。母も夏バテ気味なのかもしれない(にしても恩着せがましい嫌な言い方をしてしまったと、あとになって反省した)
「焼いた肉の出汁が入ってる!」
母が語気を荒げて言った。父が小さく母に苦言を呈す。
「責めないでよ!」
母の叫び声が響いた。
母が肉嫌いなのは家族全員が了解していることだった(ちなみに父は魚が嫌いで、自分は辛いものが苦手だ)
焼肉もステーキもローストビーフも手羽先も角煮も焼き鳥も食べない。
しかしソーセージやハンバーグ、餃子などの加工品は比較的好んで食べる。大好物の焼きそばは肉をよけて食べていた。
それなりに長い付き合いをしているけれど、母のことを実はあまり知らないのかもなあと思いながら、自分の皿の上にあったニラと肉を口に詰め込んだ。
いつもはそれなりに和やかな食卓の雰囲気が、気まずいものになったのは誰がとりわけ悪いというわけでもなかったように思う。
それでも一番悪いのは、付き合いの長さのうえに胡座をかいて、普通に焼いても美味しい餅を肉を焼いたあとのタレで焼けば美味しいのかな、と浮かれて食べるかどうかを確認をしなかった自分だろう。結果的に責めるような言い方をしたのも。そもそも母があのように語気を荒げたのは、父や自分がいままで母に対して似たような反応をしたことがあるからなのかもしれない。