はてなキーワード: 行使とは
まず、「カルト」という言葉は「反社会宗教団体」を意味します。良い暴力団が存在しないのと同じように、良いカルトは存在せず、カルトを排除する際に理由は不要です。
もちろん暴対法による元構成員の社会復帰困難性のような、運用面の問題に対する批判はありえます。しかし、「暴力団を排除するのは不当」という議論は成立しません。
反社会性を前提としない場合、カルトではなく「新興宗教」と呼びます。これも「うさん臭い連中」といったニュアンスで使われがちの言葉ですが、字義的には批難を含まない、ニュートラルな呼称です。
では新興宗教に帰依していることを理由に採用を拒否することは可能か? あるいは、従業員の信仰する宗教を調査することは許されるか?
これは一律に回答できるようなものではなく、究極的には裁判で最高裁まで戦うようなお題になりますが、
雇用契約自由の原則に従って採用を拒否することは理由の如何を問わず可能、と主張することもできるし、
実務能力ではなく宗教団体への所属を理由に採用を拒否するのは不当かつ違法、と主張することもできそうです。
現実的には、不採用あるいは解雇の際に理由の開示が不要であるから、信教を理由とした採用拒否/解雇とそれ以外を弁別することが困難なので、それを防止することもまた困難であるとは思います。
では雇用契約ではなく、カルトに所属する代議士を罷免できるか? というと、これは無理です。政教分離というのはそういうことではありません。これについては安倍晋三氏が答弁を出していますので引用します。
現在自民党と連立政権を組み、政府と一体となっている公明党と、その支持母体である創価学会との関係は、政教分離の原則に照らして適切なものであるか。公明党と創価学会は「政教一致」の関係にあるか。
(略)一般論として申し上げれば、憲法の定める政教分離の原則は、(略)宗教団体等が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではなく、また、憲法第二十条第一項後段の規定は、宗教団体が国又は地方公共団体から統治的能力の一部を授けられてこれを行使することを禁止している趣旨であって、特定の宗教団体が支援する政党に所属する者が公職に就任して国政を担当するに至ったとしても、当該宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的に別個の存在であり、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないから、同項後段違反の問題は生じないと解しているところである。
(衆議院議員鈴木貴子君提出我が国における政教分離の原則に係る内閣官房参与の発言に関する質問に対する答弁書 2014年6月24日 内閣総理大臣安倍晋三)
要は代議士が統一教会の指示に従って動いていたとしても、それは統一教会が統一教会として権力を行使しているわけではないので、政教一致にはあたらない、ということです。カルト代議士を排除するには、贈収賄などの犯罪行為として立件するか、あるいは自民党自身が統一教会との決別を決意し関係者を排除(除名)する必要があります。後者の場合、党から除名されても議員資格は失わないので、統一教会新党ができることになりますね。
貯金下ろして、ウィークリーマンションなりに逃げ込んで退職代行使っちゃえば?逃げ場になってくれない親とは一旦距離を置いた方が良い。下手すると会社の手先になって説得してくるから。
web上でよく見かける、「この順番で処理すれば国から貰える金が最大になる」とかはチェックしておいた方が良いね。逃げることを頑張って。
ストレスで過食がやめられない
仕事やめないと過食がやめられないのはわかってる
親からはせっかくやりたかった仕事なんだから頑張れっていつも言われてしまう
尻から血が出てる
仕事やめたい
近藤誠の言う事を信じたせいでがんの標準医療を拒否して亡くなった人が大勢いるからという理由で近藤誠及びその支持者を口汚く罵っている医師があまりにも多いが。
でもさ、近藤誠は何も悪くないでしょ?
だって制度上認められていたんだから。その範囲で独自の診療方針を行っていたにすぎない。
近藤誠を叩く医師達って学校の校則で髪染め自由となっていたから髪をピンクや水色に染めて登校した生徒に対して非常識だと叩くみたいな理屈だと思う。
制度上認められているならばその権利を行使する事は何も悪くはないと思います。髪を地味な色にしてほしければ、ちゃんとルールで決めましょう。
標準医療のルールを守るべきならば先に規格を統一し、全ての医師に対して規格を守るようきちんと義務を課すべき。少なくとも医療のように人の命が関わる分野では、個々の医師に独自の方針なんて許しちゃ駄目でしょ。悪いのは近藤誠じゃなくて日本の医療制度。
何も近藤誠のような有名人に限った話じゃなく、無名の町医者だって現代医療の常識に反した医療を行っている可能性はある訳だけどそれはどうでもいいの?
そりゃあ統一協会だのオウムだのといったカルト宗教や、医師免許を持たない怪しげな肩書きの自然派療法に頼るのは問題外だけど。
近藤誠はそういうのとは違うでしょ。
きちんと日本の法律の元で医師免許を取得しそれを持ち続けてきたんだから、患者がその近藤誠を信じるのは何らおかしくないし寧ろそうじゃなかったらおかしいです。その医師免許は飾りか?って事になるから。
大体、なんであくまで素人でしかない患者に対して、完璧な医療リテラシーを持つ事を求めるの?
そんなに簡単に完璧な医療知識が得られるならば、高いお金と長い時間をかけて医学部に行く意味なくない?
医学部に通い国家試験を通った医師を、素人である患者が信じる事の一体何が悪いのかさっぱり
何度でも言うけれど近藤誠の件で問題があるとしたら近藤誠個人でもそれを信じた患者でもなく、日本の医療制度とその制度を維持したままでネットで個人攻撃して解決になると思っている医療クラスタだよ
その論が正しいと仮定したら、言い換えれば「男がメタバースにふけるのは、女性の肉体を持って男に対して性的に行使するため」ってことになりそうだけど、それであってるの?
少し前にメタバースだめじゃね的な記事がバズったが、その中でメタバースに女性が来ない理由は空間認識能力の違いかもしれないという何とも濁した理由が記されていたがそれは全く違う。
記事を書いた当人や業界人も気づいていて口にしないだけかもしれないが、メタバースに女性が来ないのはマンコパワーを現実と同じように使えないからである。
自由な気質で人気を博すVRChatのようなメタバースでは多くの人がコミュニケーションにおいて圧倒的に優位性をもつ女性アバターをこぞって使うためいわばインフレのような状況がおき、
現実社会で身的価値に頼ったコミュニケーションが当たり前な女性は、VRChatではその身体価値による権力を思うように行使できずに居心地が悪くなりフェードアウトしてしまう。
実際にVRChatのユーザー比率は大きく男性に偏っており、アバターの種類も女性アバターがしめる割合が大きいという現状である。
加えて、数少ない女性プレイヤーも大半が女性アバターを使うことを好んでおり、中身も女であることを売りにしてそのマンコパワーをなんとか発揮しようとしている始末である。
※クリエイター気質の女性が男性アバターを使うという例があるが、奴ら普段はコミュニティに閉じこもっているくせに声だけでかいので注意。
Meta社といった大企業が現実世界とメタバースを必死に接続しようとするのは、身体価値による権力に頼って生活することが当たり前な女性でも”快適”に過ごせるメタバースに来て頂いて、ユーザーを増やし金を落とさせるためなのだ。
まず、最初に共有しておきたい認識として「ガバガバという言葉にグダグダという意味が生まれたのはここ10年のこと」「語源となったのは『真夏の夜の淫夢』」の2つがある。
細かい経緯は発生源とも言うべきニコニコ動画がさすがの詳しさで書かれているので気になる人は目を通してくれ。
同性愛者を笑うという行為のリスクについて日本はもっと真剣に考えた方がいい。
同性愛保護の動きはいまやポリコレ・SDGsの一部となり、その勢いはキリスト教の価値観さえも丸ごと変革を迫るほどのものだ。
日本のフェミニストのように力もなく戯言を繰り返すだけの集団ではなく、同性愛者保護は確かな権力と行動力、そして正当性を持って行われている。
現代においてはもうレイザーラモンはテレビで扱えないだろうし、猫ひろしのようなネーミングセンスの芸人は誕生と同時にバッシングを受け干されるだろう。
今や淫夢語録はSNSやYoutubeを経由して日本中に広がってしまった。
誰もが当たり前のように使っている。
そのせいで淫夢語録を使うことがリスクであることを認識していない人が多すぎる。
当たり前のように使っているという状態が皆で渡れば大丈夫だと思っていられるのはそれが外側で問題として扱われる前までだ。
たとえばここに世間から隔絶された人肉食とそのための殺人行為を繰り返す村があったとして、その内側で暮らす人はそれを問題としないだろうが、もしそれが世間に見つかれば彼らにとって問題がないとされていた行為も咎められることになるだろう。
その際には「そこにいる多くがそれを異常と思っていないこと」こそが大きな問題とされより激しい「矯正」が待ち受けることになる。
恐ろしいことに逆に淫夢語録を覚えることを目指している界隈もある。
界隈に既にある文化に馴染むためにリスクを冒して異常な言葉を使うか、そういった風習から距離を置くために今からリスクのない言葉遣いを意識するか。
情強を気取るはずのはてなーの中でも使用者が多いのが「ガバ」という淫夢語録であるわけだが、さて使っている連中はどこまでの解像度でその状況を客観視出来るているのだろうか。
リスクのある異常な言葉をあえて選んでいるという自覚があるのか、普通の言葉だと思いこんでいるのか、それとも異常な言葉ではあるがリスクはないと思いこんでいるのか。
そこを自覚した上であえてその最悪であることを楽しむ愚行権の行使者もいるのだろうな。
ネットは未だにアングラであり世間から外れた態度を気取ることこそがここでの作法だと思いこんでいる頭の硬い老人ぐらいここにはいくらでもいるのだろうな。
追記:
なんか伸びてるな。
伸びてる理由の半分ぐらいが「ガバガバという単語自体は昔からありますけど?」っていう文章読めてなさ凄すぎる人達によるものなのがちょっと不満ではあるが。
まあそういうアホはスルーするとして、「そもそもガバガバ・ユルユル・グダグダ辺りは意味が元々近いから、淫夢の影響なしでもこの表現へと派生していけるパスはあったろ」という指摘については素直に頷いておくか。
ただ個人的な体感としてこの使われ方、特に「ガバ」「ガバる」「ガバってる」という形で使われる頻度が増えていった時期を考えると淫夢やbiimの影響は感じるんだよね。
そうして偶然ついたマイナスイメージに対して配慮をしていくべきなのかって話をしたかったんだが……まあ最初に言ったように「ガバガバというオノマトペは大昔からあっただろ」という反論が多数でそこまで話してくれる人が少なくてせっかく伸びたのになあという気分だ。
淫夢語録がどこにでも出てくることに違和感を感じる人がいたり、逆にそうやって違和感を感じること自体を言葉狩りとして敵視している人がいたりするのは再確認できたが、じゃあどうすんのって話が聞きたかった。
いやまあここについては「使う」「使わない」の2択だって分かりきってるじゃんって話ではあるんだが、じゃあ他の人に「使わないことを推奨する」はどこまでやるべきなのかなと。
まあ「ガバ」については定着しすぎて気づかずに使っている人が多すぎるからもう気にしてもしょうがない感じではあるな。
「微粒子レベルで存在している…?」ほどは露骨じゃないから「昔からありましたけど?起源主張する人がおかしいんですけど?」で言い張った方が皆幸せな可能性はあるわなあ。
「微レ存」「(便乗)」みたいなネットミームであることが明らかであるものについてだけ気をつけりゃ良いのかなあ。
「それさえ気をつける必要ないぞツイフェミレベルのキチガイ言葉狩りガイジ」みたいなコトはてなーからは言われちゃいそうではあるが
内閣改造は通常、新内閣発足後1年ほど経過したときに、国務大臣の相当数を一度に入れ替えないしその担当を替える(横滑りさせる)ことが多い。
内閣改造が行われる背景としては次の3点が挙げられる。
内閣総理大臣が国務大臣任免権を行使することにより、そのリーダーシップを維持拡大し、政権基盤強化を図るためである。内閣総理大臣がより適当と考える人材を登用し、あるいは適所に配置換えし、後継者を重要ポストで処遇し、与党内のライバルを閣内に取り込んで反対行動を封じるなど、内閣の行政遂行能力を向上させるとともに、人事によって自らの政治力を高めることを目的とする。
閣僚が同じ人物のままではマスコミを通じて国民からマンネリ感を持たれて社会に閉塞感が漂っている場合は、内閣改造を表明することで、どの与党議員が閣僚入りをするかなどをマスコミに予想させるなどして内閣への国民的注目を高めることで内閣を刷新し、フレッシュな感覚を国民にアピールすることを目的とする。その結果、内閣改造すると、改造直後の内閣支持率が改造前より上昇する傾向がある。
自由民主党の長期政権下では内閣改造およびそれとあわせて行われる幹事長など党役員の交替は定期人事異動的な色彩が強く、慣習により漫然と行われてきた。ある程度当選回数を重ねた国会議員は、特に精通した政策分野などと関わりなく、とにかく大臣に任命されることを切望する、いわゆる大臣病にかかる。この大臣病患者たちの不満に応えるため、自民党の各派閥は、改任の必要がないにも関わらず、組閣から1年ほど経過したあたりで大臣の顔触れを変えることを要求しはじめ、内閣総理大臣も派閥の支持を得るためにこれを受け容れ、時機をみて改造を行うことが慣習となった。もともと替える必要性が低いため、適材を適所に配置するという気概は薄れ、派閥が当選回数順に推薦した人物を漫然とはめ込む派閥順送り人事が横行した。このことはまた、大臣・内閣の官僚に対する指揮・管理機能が形骸化し(「重要なことですので政府委員から答弁します」と国会で発言した閣僚すらいた)、官僚機構の政治に対する自立性が強いという状態をもたらしたともいえる。このような順送り人事に対する批判は強かった。
「ご許可いただけたので、あとは通常の退職の手続きに入ります」
とのこと。
そーゆーとこなんだよなー。
退職も有休行使も従業員側の権利であって会社が咎めるようなもんじゃない。
そりゃ、自分のやるべきことをほっぽり出して休むとか強行的に辞めるってのは社会人のマナー的にどうなんだって問題はあるし、
退職を検討してますって相談段階なら色々話もあるかもだけど、辞めますって宣言した従業員を引き留める手段なんか無いわけで。
退職に社長の許可なんかいらねーっていう、今時ごく当たり前のコンプライアンス感覚を社長が持ってないのが全てのような気がする。
転職することにしてやっぱり良かったなという思い。
頑張ります。
民主的に定められたデュープロセスに従わず、市民の抗議文書に端を発する署名活動を経ることなどもない、アンパンチの力による一方的な現状変更は決して許されるべきではない、はずだった。抑圧された誰かの憎しみを、責任も罪も、救済業務の一切を引き受けたアンパンチは、しかし、放たれてしまった。市民への相談も事前予告もなしに、怒りの拳は振り下ろされた。
ならば、バイバイキーンを見送った後での、アンパンチの鉄拳制裁を許さない、とは何を意味するのか。何もしないままではバイキンマンが再び戻ってきたときに、同じ事態が繰り返されるだろう。
パン工場と手を切るのは決定的な解決にはならない。アンパンチ成功の後には、アンパンマンに憧れて正義を標榜する市民が続出する怖れがあるから。理不尽な鉄拳制裁の効能に屈した市民たちが、その機会に乗っかって決起し、大きなうねりとなったなら。そのとき初めて本当の意味で、アンパンチは成功したと言えるだろう。第2第3のアンパンチがランダムに、同時多発的に発生しうる。とても制御できるものではない。
「アンパンチは到底許されるべきではない」とプロパガンダのように定型文を連呼することも、意味がないどころか、暴力への感受性をマヒさせる逆効果があるかもしれない。
許されるべきではない、という言説は新顔のアンパンマンにとってはむしろ、覚悟を決めろ、という啓示に聞こえるだろう。自分自身を正義と信じる誰かの心で、勇気の鈴が鳴る。アンパンマンの気力を削ぐように、「アンパンチなんて意味ない」と思わせるように町の人たちが動かなければ、いつかはカバオパンチが生まれると思う。
市民が積極的に暴力行使の依頼をしてなかったとしても、正義の鉄槌が必ず振るわれるだろうと事前に分かっていて見て見ぬ振りをするならば、町の人たちとアンパンマンはもはや共生関係にあると言える。アンパンチは事実上、町の秩序を護るためにビルトインされた治安維持システムの一部だ。自然発生するのだから「仕方ない」は思考停止だ。
追記・
このタイプの考えについても言及しておく。町の人たちはバイキンマンの魂胆をすぐに見抜くはずだ。アンパンチをしてしまった時点で動機は洗いざらいされるのだから、隠し通して欺かれる可能性を考慮する必要はないと思う。
【結果の平等】を変な意味ではき違え、無関係なところまで【結果の平等】扱いしてNOという変な議論を見かける。
(1)国家試験である基本情報技術者試験を取得しIT企業であるA社へ面接を申し込んだ。
(2)A社人事部では「女性は理系やコンピュータに弱い傾向がある」と考え性別を考慮し、求職者の評価を少し落として選考した。後日、同じような人材だが男性の別の求職者の採用が決まった。
これは【不平等】である例である(言葉的に【機会の不平等】というのかは分からないが)。(2)で性別を理由に評価を落としているのだから当然である。【結果の平等】が実現しない事を理由に正当化は出来ない。
しかし何故か(1)の段階で【平等】が達成されたと見做し、(2)は目指す【平等】とは無関係であるというおかしな誤解をする人が度々見られる。
つまり「結果の平等までは求められていないので、女性であることを理由に評価を落としても【平等】は損なわれていない」という無茶な解釈である。
しかし間で差別的な扱いをしている時点で【結果の平等】は求められないとか関係ない。その前の問題だ。
男女雇用機会均等法に関する国の解説資料では(2)は当然違法扱いである。公正な選考ではないという事である。
(出典:男女均等な採用選考ルール https://www.mhlw.go.jp/general/seido/koyou/danjokintou/dl/rule.pdf)
【結果の平等】が求められていないから問題ない、というのは性別で差別しない公正な選考の結果たまたま「男性社員ばかりに偏った」というレベルの事であろう。
それとも【結果の平等】が求められていないから差別し放題って思ったのだろうか。
というか(2)は無関係のような論が通用するなら(1)の時点で見せかけだけ整えたらあとは何しても全部OKになる。
社員に残業代の申請はさせないが残業代の申請制度自体はあるのでブラック会社ではないとか、
社員に年休・育休の行使はさせないが制度自体はあるのでブラック会社ではないとかそういうレベルの話になってしまうだろう。
スポーツの試合や将棋だって【結果の平等】ではない。【結果の平等】ではない事を理由に、反則やイカサマが通用するわけがない。
ある暴力事件がテロだろうがテロじゃなかろうが個人的にはどうでもいいのだが、やけにこだわっている人を見かけるので不思議に思っている
こだわる理由があるとすれば何なのだろうかと考えたところ、ひょっとしたらと思う仮説が組みあがったので自身の考えをメモとして残すためにここに記すことにする
反社会的勢力への反感が強まったことをよしとしている第三者がいるとする
すると反社会的勢力への反感が強まったことをよしとするのは、暴力行使者=テロリストの思惑通りになったとも解釈できる
それは「テロリストの思惑通りになるのは良くないことだ」というスタンスと衝突する
このとき、この衝突を解消するためには大きく分けてふたつの方法がある
①は自身の主義信条の変更を迫られるため人によっては大きな負荷になるだろう
その一方で②はただ言葉遊びとして事件の認識をずらすだけなので大きなストレスにはならない
よって、「この暴力事件はテロではない」と主張する人の一部にはこのように自身の心の負荷を減らすことが目的の人がいる……のかもしれない
当たり前の話だが、テロだろうがテロじゃなかろうが暴力で意見を通すのはよくないこと
忙しい人のために要約「信教の自由は人権の構成要素のひとつでとてもとても重いこと」
そして追記
ブコメ見てもトラバ見ても、本気で信仰のしの字も知らないまま書いてる人だらけなんだなというのがよくわかった
もちろん4、5人くらいはちゃんとわかってそうな人はいましたけども
少な過ぎだよね
そりゃはてなのカルトに対する雰囲気が不穏になるわ、と理解した
専門書が難しいならせめて新書の一冊でもいいから、キリスト教でも仏教でもいいので、何か宗教や信仰について学んでから議論に参加して欲しいかな
知らないということは恥ずかしいことではないけど、知らないことに目をつぶりながら自分の正義は世界の正義、みたいな雰囲気で語られても、こっちは恥ずかしい気持ちになるだけだったよ
以下本文
もちろん、反社会的行為や犯罪行為に対しては、法の範囲で粛々と対処する必要はある
国の在り方としては、教義がどうであろうと、犯罪行為が免責されるわけではないのだからそれは当たり前のこと
ただ、宗教とは科学ではないのだから非合理的な部分も多分にはらんでいるのが普通だよね
でも、だからといって現代社会で理解されにくいことをやっているから否定していい、というわけではない
そりゃあ、今の時代そんなことまだ信じてるの?あり得ないじゃん、みたいな話は多く含まれているよ
日本人は自身の宗教性に無自覚である人も多く、何なら宗教嫌いを自認している人も多いからピンとこないかもしれないけども、
宗教とは文化を作り、道徳を作り、習慣を作っている土台なわけよ
何百年生きている神社の大木に神秘性を感じるのも、おまもりを踏みつけたら何となく罰が当たりそうな気がするのも、日本人の宗教性だし、
お盆になったらじいちゃんのお墓行ってやるかー、というのも日本人の宗教性だよね
アホらしいわと言いながらも葬式なら坊さんに高い金を払うし、初詣に行けばお賽銭を払う
もっと宗教意識ないところでいうと、節分に豆をまくのも、桃の節句にひな人形を飾るのも魔除けだし宗教行事だ
もちろん信仰があるからやっている人は少ないだろうけど、ひな人形を飾る時は誰しも愛しい娘のためを思って飾っているはずだし、
もはや信仰を意識せずとも習慣レベルで宗教行事をやってしまう日本人って、世界一深い信仰を持った民族だと俺は思っているよ
まだまだあるぞ
女が土俵に上がれない、女は高野山に入れない、女は宗像大社の島に渡れない
不合理感増してきた?
女は教育を受ける必要がない、女は肌をさらしてはいけない、これはイスラムだけど、ここまでは許される文化でここからは許されない差別、だなんて線引きは可能?
線引きが可能だとするなら、その人は「自分の普通が人類の普通」と妄信している人だけだ
イスラムの男尊女卑は、かつて環境が過酷だったため、強い男性ができる限り多くの女子供の生存に責任を持つシステムが、集団として有利に働いた、という説もある
いま、多くの人が死を意識せず豊かに生きられる世界になっているため異質に見えるけど、選択圧が強い環境だとイスラム方式のほうが集団は遺伝的に強くなるでしょう
競走馬も同じだと思う
今でこそ女性解放は「正しいこと」だし女性への教育がノーベル賞になる時代で、俺自身もそれで正しいと思うけど、それと同時に、決して女性を抑圧する文化圏を否定していいものとも思えない
そういうわけで、どの国の人も、どの民族も、どの宗教の人も、それぞれがそれぞれ正しいと思う信仰を持っていて、それに基づいた習慣と価値観を持っているんだ
それを理解することは難しい
納得して、理解してあげよう、というのは大概の場合無理で、わからんなと思いつつ、ただその存在を認める、というのが多文化共生の基本と言われている
国際結婚もそう
結婚するほどお互い好きでひかれていたとしても、結局のところ結婚生活の秘訣って、「相手を理解しようとしないこと」って言われたりする
ただ認める、それだけでいいわけで、理解しようとすると破綻しやすくなる
そして、そのような価値観の多様性を認める上で、多くの先進国では「信教の自由」がある
第1項
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項
なので、どれだけ奇異にうつる内容でも、その人の信仰がそうならそれを認めるのが人として正しいこと、というのが現代国際社会の正しい振る舞いなのは間違いない
輸血を拒否して死ぬとしても、輸血が許されないことと信じているならそこに無理やり輸血してはいけない
現生で恵まれて生きるほど、あの世で魂がけがれる、と信じるなら、現生で信じられないほど貧しかったとしても助けてはいけない
我々だって、海外留学する時に家族が持たせてくれたお守りを、外人が馬鹿にして投げ捨てたりしたら嫌でしょう、何も意味はないんだけどさ
そしてこれは、海外文化だけではなくて、日本国内の新興宗教にも同様の態度でなきゃいけない
だからさ
犯罪を起こす人がちょいちょい出るから、危ない集団だ、というのはわかったとしても、その教義や信仰そのものを否定していいわけでもない
自分の意思で自分の財産を寄付したならそれを悪とすることはできない
その金額に上限をつけることも勿論できない
家族のお金や会社のお金を不当に寄付したなら当然そこは法の範囲で横領などで追及できる
でも、どんな人であれ、「その教義は間違っている」なんていうことはなできないんだよ
教義を実行したら犯罪になる場合だけ、それを犯罪行為として対処できるし、それが多発するなら公安の監視対象になるのが現状
そしてそれでいいと思っている
あまりに問題が多い場合に関してのみ、最小限の指導を入れる程度が限界だし、それ以上してはならないと思っている
信教の自由って重いよ
かつてクリスチャンの弾圧がヨーロッパでも日本でもあったの知っているでしょう?
信教の自由は最も重要な、「人権」を構成する要素のひとつなのは知っているでしょう?
知らない?
漫画表現とかでは「表現の自由戦士」とか言われるけど、俺はどっちかというと、「信教の自由戦士」というか、「人権戦士」なんだと思うわ
カルトだから、問題多いから、という理由だけで、ある人々にとってはおそらく純粋な信仰であるものを否定するのって、やっぱり間違っていると思う