2022-08-03

ある暴力事件テロだろうがテロじゃなかろうが個人的にはどうでもいいのだが、やけにこだわっている人を見かけるので不思議に思っている

こだわる理由があるとすれば何なのだろうかと考えたところ、ひょっとしたらと思う仮説が組みあがったので自身の考えをメモとして残すためにここに記すことにする

ある反社会的勢力暴力行使した人がいる

暴力行使された結果として、反社会的勢力への反感が強まった

反社会的勢力への反感が強まったことをよしとしている第三者がいるとする

仮にこの暴力事件テロとする

すると反社会的勢力への反感が強まったことをよしとするのは、暴力行使者=テロリストの思惑通りになったとも解釈できる

それは「テロリストの思惑通りになるのは良くないことだ」というスタンスと衝突する

このとき、この衝突を解消するためには大きく分けてふたつの方法がある

①「ときにはテロリストの思惑通りになってもよい」とする

②「この暴力事件テロではない」とみなす

①は自身主義信条の変更を迫られるため人によっては大きな負荷になるだろう

その一方で②はただ言葉遊びとして事件認識をずらすだけなので大きなストレスにはならない

よって、「この暴力事件テロではない」と主張する人の一部にはこのように自身の心の負荷を減らすことが目的の人がいる……のかもしれない

当たり前の話だが、テロだろうがテロじゃなかろうが暴力意見を通すのはよくないこと

この事実に目を瞑って仮説を組み上げたので疵のある論理なんだよなあ

しか認知的不協和の解消って観点は捨てたものじゃない予感があるので後日また考えよう

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