ある暴力事件がテロだろうがテロじゃなかろうが個人的にはどうでもいいのだが、やけにこだわっている人を見かけるので不思議に思っている
こだわる理由があるとすれば何なのだろうかと考えたところ、ひょっとしたらと思う仮説が組みあがったので自身の考えをメモとして残すためにここに記すことにする
反社会的勢力への反感が強まったことをよしとしている第三者がいるとする
すると反社会的勢力への反感が強まったことをよしとするのは、暴力行使者=テロリストの思惑通りになったとも解釈できる
それは「テロリストの思惑通りになるのは良くないことだ」というスタンスと衝突する
このとき、この衝突を解消するためには大きく分けてふたつの方法がある
①は自身の主義信条の変更を迫られるため人によっては大きな負荷になるだろう
その一方で②はただ言葉遊びとして事件の認識をずらすだけなので大きなストレスにはならない
よって、「この暴力事件はテロではない」と主張する人の一部にはこのように自身の心の負荷を減らすことが目的の人がいる……のかもしれない
当たり前の話だが、テロだろうがテロじゃなかろうが暴力で意見を通すのはよくないこと