はてなキーワード: 日本映画とは
日本映画の土台を余すところなく使い切った作品。お約束を守って、その中で暴れてる。日本とは、美しい自然、田舎ののどかさ、四季の移ろい、子供は純粋にたくましく、大人は屈折しつつも前を向いていく。季節が巡るように、人間もまた変わってゆく。安心安全な、あたたかい故郷にいだかれて。
これ北海道で撮ったら北の国からになるし、沖縄で撮ればハイサイになる。要するに日本の歳時記と共に織り成す成長の一記録。
ひとりだけ、とんでもなく身体のキレが良い人がいる。我修院達也さんだ。たしかにあの人をここに出そうと思ったらお爺さん役しかない、でないと主役になってしまうカッコよさ。あとこの映画射手座の男が多い。武田信治浅野忠信そして我修院さん。射手座=日本映画のはみ出し者だから、日本の風土に対する違和感としてとても機能していた。
正月はだらだらやってるバラエティーや映画を見ながらまったりするに限る。
いつもと変わらないじゃないかと言われればその通りなのだが、放送内容がお祭りモードなので、いつもより数段楽しい。
しかしだ、そのスペシャルなムードで楽しむはずの正月映画の吹き替えがクソだった。
いや知ってたよ、前にアマプラかネトフリで見たから、あータレント起用の聞くの辛いやつだったよなーとうっすら覚えてた。
もうね、何度この悲劇を繰り返すの?
誰が悪いの?
作品と関わった人に対する冒涜ってレベルじゃねえぞ、物売るってレベルじゃねえぞっていういうか売り物ってレベルじゃねえんだよ……
そのタレントの事務所がスポンサーとして入らないと興行が成り立たないとかそういう何か揺るがし難い事情でもあるのか?
それにしたってさあ……声の仕事ってやつは努力でどうにかなるものなのか分からないが、なんとなく、その起用された芸能人自身を責め立てるのは違うんだろうな……ということさえ読み取れるくらいあり得ないキャスティングだ。
漫画のキャラの口だけ素人が描いた様な、小説の「」内だけ素人が書いたような違和感が作中ずっと続く。バカなのか?実は見せる気がないのか?
他人の仕事を台無しにするのが生き甲斐みたいなやつが映画業界人に多すぎるのか?
この種のクレームがいつからあると思っておるの?改善する気がまるでないのは明らか。幸運な例も多数あるし、ジブリに違和感は感じない。CV庵野でさえも良かった。俳優ですらないのに!?
なんなんだこれは……
どんなに好きな芸能人でもクソ吹き替えに手を染めた奴は毎分ツイッターで晒し続けるか?
所属事務所もそこに所属する他の芸能人も芸能の敵と腐し続けるか?
偽計業務妨害なのか?
炎上になったら死人が出るのか?
だがもう監督脚本家あたりが自殺しててもおかしくないくらいの所業を日本映画業界は日々行っているのではなくて?
それにもう、この底知れぬ巨悪に立ち向かうには、己も悪に手を染めるしか……
常々、ネットに溢れるどうしてもサンドバッグが必要な人らの有効な活用法は無いものかと考えていたが、『有用な悪口』という可能性が見いだせたのは良かった。
自分には人を操れるような、ましてやマスで動かせるような才能も熱意もないので、もしそういうのが得意な奴がいればどうか頼むと思って記しておく。ここに綺麗めな正義があるぞ。
社長になることは 車にワックスをかける仕事よりも 優れた未来ですか?
わっくす 右
わっくす 左
プログラマーは グランジマットをつかえ もうちょっといいなら オーシャントリコのクレイ
わっくす 右
わっくす 左
そんなことしても プログラムはうまくならないって 言う自由は君にある ネタとしてはおもしろかっただろ?
わっくす右 わっくす左 有名なハリウッド映画で かつ 日本映画で ジャッキーチェンにも つながっているんだぜ
日本人は これ みたいな 黒澤映画と 同じくらい 有名 わっくす右 ワックス左 200円くれよ ワックスやるから コンビニで グランジマット たっぷりつけろ あさつけて 放置 おとすなよ
しっかり 乾かせ
技術的には例えばCG技術、これはもう欧米と日本では現代と昭和ぐらいのレベルの差がある
映画ファイナルファンタジーとかやってた頃はまだマシだったが、
その後、ハリウッドなどは毎年毎年凄まじい数の映画用CGを作り続けた一方、
日本は美男美女をアップにしとけば良いわという安易な映画しか撮らなかった
結果、今更日本の技術でCGバリバリ使ったSFだのファンタジーなどやっても、もはやギャグレベルのショボいものしか作れない
また日本は国家として20年間デフレで緊縮の衰退国家になってしまったので、
結果としてエンタメ産業にも金が落ちなくなった。
金が落ちてこないので映画制作にも予算を割けず、またチャレンジングな企画も通らなくなった
その結果、日本では、美男美女の俳優をアップにして背景セットのしょぼさを誤魔化すという
50年代、60年代のクロサワをはじめとした日本映画と見比べてみればわかる
彼らには巨額の予算と世界最先端のセットを作っているという自信があった
それが映画に現れている
以前TVアニメが放送されていたのが2019年の4月から9月の事らしいので、丁度1年以上遅れて好きになった訳だ。
放送当時も一応見ていたけれど、「ああ、空の境界やFateのufotableが好きそうな作風だな」と思ったくらいでその頃はそこまで興味が無かった。
鼓の屋敷から伊之助登場あたりで顕著になったと思うけど、話の進みがそこまで早くないのだ。
OPでは初めから鬼殺隊の主要メンバーが登場しているのに、1クールが終わってようやく伊之助が仲間になるかならないか…くらいのペースに、やきもきさせられた。
2クール目の終盤など、鬼殺隊本部に連行された炭治郎と禰豆子が傷を癒し新たな任務に向かうまでの話に4話以上使うのだから堪らない。
古き良きジャンプアニメといえばそうだけど、例えばufotableが以前製作したTVアニメ版のFate/ZeroやFate/stay nightなら2クールもあれば話は終わっている。
アニメ鬼滅の刃の続編が劇場で公開される事は放送が終わってすぐに公表されていたと思うけど、この「続きは劇場で!」というやり方も正直嫌ではあった。
ジャンプ作品の長編アニメーション映画は本編と時系列上は関係ない番外編をやるもの、という意識が僕にはあったからだ。例外は殆ど無いと思う。
その結果はご存知の通り、現在公開中の「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」は日本映画史の記録に残る歴代興行収入2位という凄まじい成果を叩き出した。間違っていたのは僕の方だった。
鬼滅の刃はアニメの放送終了後、女性ファンを中心に人気が爆発し流行した事が話題になった。
去年の終わりかそれとも今年の初めの方だったか、30~40代の女性に高い人気を得た作品としてTVでも取り上げられる事が多くなった。
2019年の年末に紅白でLiSAが主題歌の「紅蓮華」を熱唱した事でアニメや漫画には興味の無かった人達にも曲は有名になったんじゃないだろうか。
この作品が、ニュースで取り上げられた時のように女性層だけでなく、老若男女関係なく幅広い層に支持されるようになったのはいつからだろうか?
特にアニメをプッシュしている訳でも無いスーパーマーケットやドラッグストアー・コンビニエンスストアに、鬼滅の刃とコラボした各社の商品が並ぶようになった。
「ああ、この作品は本当に人気があるんだなぁ」と自分の身で実感出来た時、僕は鬼滅の刃の事が好きになっていた。
土曜プレミアムで放送された総集編の「兄妹の絆」と「那田蜘蛛山編」を見たのが決定的だったかもしれない。約1年振りに見る鬼滅の刃だった。
本放送時は話の進みがゆったりしていた事に不満があったけど、総集編で一気に見るとそこが解消されて良い部分しか残らないのだ。
放送終了後に人気が爆発したというのも、動画配信サイトで全25話を一気に見れる事と関係があったのだろうか?とにかく、まとめて見ると鬼滅の刃の面白さがとても理解しやすかった。
僕は鬼滅の刃のキャラクターの中でも主人公・竈門炭治郎とヒロイン・竈門禰豆子の二人が特に好きだ。
人食い鬼に家を襲撃され一人の妹を除いて母親と他の兄弟を皆殺しにされた長男と、鬼に襲われた際に自らも人食い鬼へと変えられてしまった長女。この二人が鬼滅の刃という作品の主役である。
炭治郎はこのたった一人の妹を守るために戦う。これまで争いとは無縁だっただろう少年が、鬼になった妹を守るために鬼狩りを生業としている凄腕の剣士に一本の斧で立ち向かった。
禰豆子は人食い鬼に変えられても、兄を食らいたくないと涙を流した。鬼になったばかりで重度の飢餓状態でありながら兄を食らう事より兄を鬼狩りの剣士から守るために戦う事を選んだ。
鬼狩りの剣士は、この二人は今まで見てきた鬼とその被害者とは何かが違うと感じ、この兄妹に行く道を示した。鬼になった人間を元に戻す方法を探すため、炭治郎と禰豆子は二人で孤独な旅に出る。
鬼滅の刃1話の大まかな流れはこんな感じだろうか。人を食らう怪物となった妹をそれでも守ろうとする兄と、人を食らう怪物になってもそれでも兄を守ろうとする妹。実に心に響く関係性だと思う。
この兄妹が仲睦まじく一緒に居る所を見るだけで、何だか嬉しくなってくる。現在発売されている鬼滅の刃のコラボ商品も大体この二人がセットになっているので、そこも嬉しい。
原作者の吾峠呼世晴先生やufotableのアニメーターさんが描き下ろしたこの二人の公式絵も、非常に華があると感じる。兄妹として二人一組として生み出されたキャラなので、並ぶと絵になるのも自然なのかもしれない。
タイトルには「カップリングが好きだ」と書いたが、僕は本当に炭治郎と禰豆子にカップルになってほしいとまでは思わない。元増田が言及しているように、直接的な描写が無いが禰豆子は公式には善逸と結ばれたと言われている。
もっとも、直接的な描写が無いので、善逸は禰豆子に振られてその子孫同士がくっついたのではないか?と言っている人も居る。禰豆子は鬼殺隊の風柱・不死川実弥と結ばれたのではないか?と考察している人も居る。
僕としては、禰豆子が鬼と知りながらも人間の女の子と変わらぬように接し続けた善逸の好意が禰豆子に通じてこの二人が結ばれたなら喜ばしい事だ、と思う。
一人で鬼になった妹を背負って戦い続けてきた炭治郎の優しさと頑張りに真っ先に気付いて、炭治郎の大切な物が鬼だと知りながらも命懸けで守った善逸だから、炭治郎からの評価が初期から極めて高いのも納得行く。
それはともかく僕は炭治郎と禰豆子がカップルのようになっている二次創作も好きである。前言と矛盾するようではあるけど、要はこの二人が仲睦まじければそれが良いと思っている。
禰豆子が作品のヒロインでありながら妹であるのは、主人公である兄・炭治郎と絶対恋仲にならない関係だから、という考察を聞いた事がある。
確かに禰豆子には少年漫画のファンによく居る熱狂的なヒロインアンチはどちらかといえば少なく、むしろマスコット的なキャラクターとして女性ファンからも高い人気がある。
そんな炭治郎と禰豆子がカップルになるなど原作無視も良い所ではないか!と思わなくもない。別にカップルでなくてもこの二人が兄弟として家族として仲睦まじいだけでも僕としてはある程度満足出来る。
ところで、鬼滅の刃の二次創作において最も勢いがあるキャラクターのカップリングは、鬼殺隊の水柱・冨岡義勇と蟲柱・胡蝶しのぶの二人組だと僕は感じている。BL界隈の事については詳しくないので失礼する。
しのぶさんが原作に初登場した時からこの二人は一緒に行動していた。意見の対立から二人で刃を交えたり、体を絡ませるような事もあった。アニメではしのぶさんが冨岡さんに「月が綺麗ですね」と語りかける場面もあった。
口下手であり人付き合いの上手くない冨岡さんを、何かと世話焼きなしのぶさんが構ってあげている…という関係性であり、しのぶさんはよく冨岡さんを指で突いたり二人きりになると彼を下の名前で呼ぶなど意外な一面もあった。
こうやって見ると、なるほど、確かにこの二人は親密な間柄で実は恋人同士なのではないか?と思う人が少なからず居る事も分からなくはない。冨岡さんがしのぶさん以外の同僚と壁があるのも理由の一つだと思う。
美男美女であるこの二人は、並んで立つととにかく絵になる。鬼滅の刃が何かの商品がコラボした時もいつも二人で一セットという扱いである。容姿を見ると確かにお似合いだと思う。
しかしこの水柱・冨岡義勇と蟲柱・胡蝶しのぶのカップリング、所謂「ぎゆしの」は公式設定という訳ではない。初登場時二人一緒に行動していた事以外、それ以降この二人が本編で絡む事は殆ど無かったのだ。
鬼滅の刃の作者、吾峠呼世晴先生はキャラクター同士の好意や恋愛関係を描くのは好きな漫画家さんだと思う。その吾峠先生がこの二人の恋愛関係を描かなかったという事は…原作でこの二人は脈が無かったのでないだろうか。
勿論公式であろうとなかろうと、二次創作を楽しむのはファンの自由である。今日も鬼滅の刃のファンはぎゆしののイラストや漫画を描き小説を書く事だろう。それだけ「ぎゆしの」に心を惹かれたファンは多い。
炭治郎と禰豆子のカップリング、所謂「炭ねず」も非公式である。こちらは鬼滅の刃の二次創作のカップリングとしてはマイナーではあるけど、見たところ熱心に愛好するファンはぽつぽつ居るように感じられる。
こちらは原作ではお互いが違う相手と結ばれたので公式になる可能性は100%無い。まあ兄妹でくっつくのはインモラルだし仕方ない事だと思う。二人とも誰とも結婚せず山奥で静かに暮らす、という展開なら無くもないだろうけど。
そういう僕からすると、禰豆子が善逸と一緒になり炭治郎から離れていくという公式の展開は少し寂しくはある。勿論禰豆子と善逸が幸せならそれに越した事は無いと思う。
炭治郎は鬼になった禰豆子を人間に戻すために、禰豆子が人間としての幸せを掴めるようにと命を懸けて戦い抜いた。その禰豆子が一人の人間としてこれから逞しく生きていくなら、炭治郎は誰よりも喜ぶだろう。
「鬼滅の刃」は炭治郎と禰豆子の兄妹の話から始まり、炭治郎と禰豆子の兄妹の話として終わった。誰にも引き裂けない強い絆を持つ二人が、「結婚」というゴールを機に自然と離れていく事に、少し物悲しさを感じた。
生田斗真、瑛太、夏帆など豪華な出演者たち。見る前から何となく、友達が過去に罪を犯していたと知った時にどう向き合うのか?みたいなストーリーなんだろうなとイメージしていました。いざ始まってみると佐藤浩一演じる身内が事件を起こした人のストーリーも並列して進み、どう絡むのか?と思っていたら、全然関係なく終わりました。映画としては事件を起こした人たちの周りの人たちがどう罪と向き合うかという事を描きたいんだろうなと分かりますが、それは映画を全部見たから。犯罪者の身の回りの人たちを描きたいなら友罪ってタイトルはミスマッチな気がしました。佐藤浩一のエピソードは友達でなく身内なので。何であんなタイトル何だろう。
近年の日本映画で主人公が内に秘めた悲しみ、怒り、葛藤を堪えきれずに雄叫びをあげるという表現をよく見る気がします。「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー」みたいなやつ。上記のモヤモヤを抱きつつも最後まで割と楽しく見ていたのですが、最後の最後に生田斗真が「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー」という雄叫びをあげるシーンを見て爆笑してしまった。ここでも叫ぶかと思った。進撃の巨人でも三浦春馬が叫んでたよね。生田斗真の慟哭のあと、瑛太のシーンになり、まさか二回も繰り返すの?と思ったけどそこは違ったので安心しました。瑛太のシーンだけだったら良かったのになと思った。あの悲しいのか嬉しいのか分からない不気味な感じは新鮮だった。
今朝、通勤中に思いついた。
女性の人権を軽くすれば、可能であればゼロに近づけることで少子化問題は解決に向かう。
厚労省の統計によると、50年前の出生率は今の3倍はあったようだ。その理由のひとつとして、女性の権利が今よりも制限されていたのが大きい。
ある昭和のⅤシネマで、ケツモチがソープランドにみかじめ料をもらいに行っていた。店内に接客スタッフはおらず、嬢が1人だけいた。ケツモチが店に誰もいないことを嬢に確かめると、それから実時間で十秒もしない間に強姦が始まった。
行為が終わった後に嬢は泣いているのだが、男が慰めるとまんざらでもない表情をする。そして、劇中時間で1~2週間後には2人の清い交際がスタートする。
今の時代に、こういう演出はできるのだろうか? 日本映画では難しいように思うし、作れたとしてもテレビ放送は無理だろう。クレームが殺到して、ツイッターやはてなブログのフェミニストに袋叩きにされそうな気がする。
でも、女性の権利レベルを低くすると、できればそこらへんを歩いてる犬猫くらいにすると、恋愛的・結婚的な意味で日本社会のためになるのではないか。理由は以下のふたつだ。
理由①
男が女を強引に誘えるようになる。今の時代は、嫌がる女性をしつこく食人に誘ったり、嫌がる女性を車の中に押し込んで、河川敷の駐車場(または住宅団地のできるだけ高いところ)に連れていって無理やり性交するとセクハラが成立する。
でも、嫌がっているからといって、恋愛不成立ということで本当にいいんだろうか? 女って、いい感じの男から誘われても嫌がることがあるんじゃないか? 本当は好きでも。そういう、いわゆる『好き避けの壁』を突破できた男だけが自分の遺伝子を残せる。
今ではそれがやりにくくなっている。上記のセクハラ問題だ。今の男は、昔の男に比べて女を強引に誘うことができない。無理して食事なんかに誘うことはできても、結果が悪ければハラスメントで訴えられて社会的な立場が危うくなる。
理由②
エロ漫画では強姦の扱いが軽い。あっちの世界でも強姦は重犯罪なんだろうが、登場人物はお構いなく無理やりなセックスに走る。
これが、もし現実化したら……例えば、学校でも職場でも、好きな時に女の手を握れて、好きな時にキスができて、好きな時に胸を触れて、好きな時にセックスできて、好きな時に子どもを産ませることができたら――それで、産婦人科での堕胎手術を禁止にしたら……それらが当たり前になったら、日本の出生率が上がる確率は100%だ。
え? 望まぬ子ができたらどうする? 国が面倒を見るんだよ。赤ちゃんポストの拡充を行って、親がいらないと判断した子どもは公共的な組織で育てるようにする。
大昔は、親から愛情を注がれなかった子どもは間引きされていた。それは人間の世界でも、動物の世界でも一緒だ。今だって、多くの親が子どもを殺してるじゃないか。間引きされるくらいだったら、自由に子どもを捨てられるようにすれば、あの子らだって生き延びることができたのに。
100年前に比べて、人間一人当りの価値は確実に上がっている。
昔だったら、いらない子どもは生まれた時に産婆に殺してもらったり、何年か育てた後に人買いに売ったり、誰にも知られずに始末すればよかったかもしれないが、今ではそれらの行為は犯罪として処される。
人間も、ペットも、エビみたいな食物でさえも、あらゆる命の価値が上がり過ぎている。ペットを傷つけるのはすでに犯罪だし、こないだようつべでエビかカニを生きたままミキサー機にかけて殺す動画をアップした人が糾弾を受けたというニュースを目にした気がする。
昔の女は、例えば、大学の掲示板に貼ってある求職カードの雇用条件のところに、「新卒の場合、女子は満24歳まで」「女性社員は30歳が定年です」「女性が応募できる職種は事務のみです」みたいなことが平気で書いてあったんだろう? 大学の先生が言っていた。
今でもそういう文化はある。例えば、総合商社の受付に行ってみろよ。大抵は美人がいる。あれって、男性社員へのサービスの一環として可愛い子を雇ってるんだろ? それで、女も高年収の男に出会うことができる。WinWinWinだ。
女性の社会進出や、男性との雇用条件の均等化が叫ばれて久しい。俺が生まれた時点ですでにそういう文化だった。でも、それじゃだめだ。女が貧乏じゃないと男と結婚しないだろうが! 女は結婚できない限り、社会的弱者でいてもらわないと世界が困るんだよ…泣
少子化に勝てる文明なんてあるものか。このままでは世界は滅びる。
だってそうだろ。科学や政治や経済が進歩して、豊かになればなるほど、結婚せずに1人でいることの幸せ感が高まっていくんだぞ? 異性と出会わなくても、アニメや漫画やゲームの世界で満足できてしまうんだぞ? ヒプノシスマイクてめーだよ。アニメ面白いじゃねーか。
女を誘っても、自分が本当に嫌われてるかを知る頃にはセクハラ事犯だ。誰が恋愛に挑むんだよ。誰が子どもなんて作ろうとするかよ。
俺はまだ学生だ。でも、これから新卒社会人になって、中堅社員の仲間入りをして、もしかしたら管理職になって、そんなこんなでおじさんになって、還暦になって、会社を定年退職して、おじいさんになる過程のどこかで、男も女も楽しめるセックスができるロボットか、セックスを脳内体験できるゲームが発明される確率はとても高い。9%だ。
そんなことになったら、人間としての男の価値も女の価値もゼロになってしまうじゃないか。
年老いた後の未来が怖い。どんなに恐ろしい世界が待っているんだろうか。公民館や集会所に行っても、プールに行っても、ゲームセンターに行っても、カピバラ園に行っても、月にできた観光施設に行っても、ジジイやババアだらけなんだぞ。
俺が50年後に生きていたとすると、そういう世界になっているだろう。
削除されたamazonレビューの供養として140字制限のあるSNSで以下を画像で投稿したら、思わぬ反響とともにテキストにしてほしいとの要望も一部頂いたので、増田の使い方として正しいのかよく分からないが、とりあえず貼り付ける。
投稿した画像の文章(=amazonに投稿した内容)からタイポ1か所とamazonの規約に引っかかったのではないかと思われる1か所の2点のみ修正してある。
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本文:
まだ半分ほどしか読んでいないので追ってこのレビューは修正する必要があるが,小池百合子の虚飾を良く暴いたという絶賛レビューしかないことに違和感を感じる。この本の記述をそのまま受け取っていいものだろうか。
この本の記述が確かなら,小池百合子は芦屋とは名ばかり(とまではいかないかもしれないが)の中流より少し上の家に生まれ,周囲のお嬢様との格差や才色兼備のいとこと何かと比較されることにコンプレックスを抱え,ほら吹きで政治に散財する控えめにいってもクズな父親の趣味で1970年代のカイロに19歳の少女の身空で体一つで放り込まれたことになる。
そこから(著者によれば)アラビア語も全くできない中で,自分の外見と若さだけで周囲の駐在日本人を誑し込んで人脈を作り,カイロ大学首席卒業という大法螺ひとつで日本社会に自分を売り込み,首脳夫人の通訳,番組アシスタント,ワールドビジネスサテライトキャスター,政治家への転身を決め,閣僚,都知事まで上り詰めた。小池には何ら専門知識がなく,頼みの学歴すら嘘であるというなら,むしろ恵まれているとは言えないスタート地点から自分の強烈な上昇志向だけでここまで上り詰める才覚は凄まじすぎる。よって立つものがないから法螺で戦ったのであれば,そのクソ度胸は同じ人類とは思えない。
小沢一郎から「ゲッベルスになれる」と称賛?された小池のPR能力について著者は所詮お飾りといったような評価で冷淡だが,クールビズは実際定着したし,最近では「密」など,天然ボケ的なセンスかと思われたPRが,〇〇〇〇〇である彼女の冷静な計算に基づいていたものだったのであれば驚嘆するしかない。著者はこれをテレビ的センスと片付けるが,テレビ界で数年アシスタント,キャスターを務めただけの小池一人で電通,博報堂と肩を並べる力がある。
田島陽子などの声を取り上げて,小池は他の女性政治家と違う名誉男性であるかのような言い振りをするのもフェアではない。そういう同調圧力が女性の進出を阻む最たるものなんではないだろうか。この本では,(少なくとも自分が読み進めた半分くらいのところまでは)小池がチャンスをつかむたびに,その理由は周囲の男性を誑し込んだから,ということで片づけているし,それ本当かなーという気がしてくる。
また,震災被災者の陳情をマニキュアを塗りながら聞き,塗り終わったらから帰れ,自分はもう選挙区変えたと言い放つ場面は,その是非はともかく,事実なら小池が並みの政治家とは一線を画す存在であることを浮き彫りにする。こんなの表に出た瞬間政治生命が終了する話であって,そういった態度を政治家が本当にとれるものなんだろうか。地盤のない小池にとっては評判が命だと思うのだが。
正直,著者の描写する小池が凄すぎて,著者の描写も一面だけを捉えた虚像なのではないかという気がしてくる。こうした悪評をすべて小池が権力で抑え込んでいるというなら,小池の権力は総理大臣をはるかに超えているんではないだろうか。証言者もナミレイの朝堂院とか,小池に劣らず胡散臭かったりする点も気になる(これはそもそも小池家が胡散臭いことをやっていたことにも起因するんだろうが)。
また,もしこれが小池の実像であれば,むしろ僕は小池が凄すぎてその評価を上方向に改めなければならないし,その立身出世物語は痛快な小説を読んでいるかのよう。小池が豊洲で無駄にした120億円を使ってこれを本人主演の映画にすれば,日本映画史に残る名作になると思うので,ぜひ小池にはスクリーンで注目を浴びてもらって,政治の世界からは永遠に離れて頂きたい。
6月9日追記-----------------------------------------------------------
最後まで読了したが,途中まで読んだ違和感は強まるばかりだった。著者は小池のなすことすべてにケチをつけずにはいられないようで,例えば著者は核兵器の使用の違法性についての小池の答えを自分の意見がないと批判的に述べつつ,テロ特措法の延長を努力すると述べたことについては「国内で審議も経ていないのに防衛大臣が早々に自分の考えを明かしてしまう」などと批判する。結局自分の考えを言えばいいのか言っちゃだめなのか。当然ながら防衛大臣が核兵器の合法性について突飛な持論を展開したら大問題だし,逆に担当閣僚が法案の成立に努力することを述べるのは普通のこと。もはや小池憎けりゃ何とやらの世界。おかしいのここだけではなく,後半に入るにつれてこうした強引な記述が各所に目立つようになる。多すぎてここには書けないが,終盤は一事が万事この調子。また,丸川珠代の主張はともかく,「日本人で良かった」というキャッチコピーだけで「人種差別的」と断じてしまう著者の姿勢は客観的とは言えないだろう。
本書を書くことで著者は身の危険すら感じているようだが,小池と裏社会のつながりが明かされるわけでもなく,小池の秘書の怪しげな不動産取引を指摘するだけ(その内容は新潮が報じたものの枠をでるわけでもない)。日本のODAが入っているからエジプトは小池の言いなりのような主張もエジプト舐めすぎ。日本より多くのODAをエジプトに出してるドイツ,フランスはもっとやりたい放題なんだろうか。
こう考えていくと,著者のインタビュー相手が一様に口が重いのも,小池が理由なのかも怪しくなってくる。いずれにせよ,小池という一級の面白材料を調理するのには著者の力量が足りてないのは間違いない。