はてなキーワード: 性的志向とは
・人はおおかたが、内心はゲスいことを考えている。
・力を持つことでそのゲスさを外に出してもいいと勘違いする不届者も残念ながらいる。
世の中には、Aセクハラをするひと/Bセクハラをしそうになってもがまんできるひと/Cセクハラ発想がないひと、の三種類のひとがいて、Aセクハラをするひとは、力の行使範囲を勘違いしている人、と言っていいと思う。
多くの人間はBに所属し、聖人君子かと思うようなCは希少種である。
それはともかく、Aセクハラをする人は、なぜ行使範囲を勘違いするのか。幾多のセクハラを受けてきた当増田が観察した結果をまとめてみると、
1 力の行使範囲が広いほど自分が偉いと考えている(旧来型セクハラ人格、野良犬のマーキング)
2 プライベートとパブリックの区別をつけられない(空気読めない、もしくはおれら仲間だからつい的な境界症例的なアレ)
3 もともと「女(または男)は見下していい」と思っている(ネオ性差別、「分断」派)
あたりが、感情原型としてあるのかなと考えている。これは原型なので、多くのセクハラ事案はこれらがそれぞれ個別の比率でミックスされている。
少し前に話題になった、中西大介元Jリーグ常務理事のセクハラ事案などは、1と2の合体型というか、職場(や家庭内)で起こるセクハラの典型的なパターンだろうと推察できる。
偉いんだから何しても許されるという甘えた心と、自分たちは身内なのだから許されるだろうという甘えた心である。要するに甘えてんだあのタコ坊主一生戻ってくんなサッカー界隈に。増田はJリーグ好きなのでつい激昂してしまったが。
ちなみに、この数日話題になっている彼のケースだと、1に加え3の要素である性差別や性的対象へのコンプレックス感情などもありそうだと愚察している。
珍しい種類であるCは、大抵ちょっと非の打ちどころのないモテだったりして、世界の不公平さに思いを馳せたりもする。
彼らにはセクハラは不要なのだ。内心のエロ心を外に出す必要を感じていない。
権力範囲の確認をする必要がないほど対社会的承認欲求に満たされているし、自分と異なる人(性的志向対象含め)とは融和すべきで対立するメリットはゼロだと自然に考えることができる。
大抵の場合そのような聖人君子はプライベートにも満足感を得ているので公私を分けるのも比較的容易である。Cタイプの人は家族円満に加え子供まで優秀だったりするので、ほんとすごい。
話は逸れるようで逸れないが、増田は「モテ」をバランス力ととらえている。イケメンであるとかお金を持っているとか、それだけでは「モテ」は成立しにくい。
バランス力って、イケメン4、お金5、地位4みたいにモテ要素がバランスよく配合されてるヤツだろ?ケッ、と思う増田諸兄もひょっとしたらいるかもしれないが、当増田が主張したいのはそういう意味でのバランスではない。
人が持っている各戦闘能力(顔、金、能力、面白力、愛嬌、ギーク力、諸々さまざま)には、残念ながら個々人ごとにスコア差があるし、各戦闘能力間にも「社会における評価」差がある。
簡単に言えば「顔」は社会的に評価が高いが「ギーク」はそうでもない。でもタモリ倶楽部的世界観では「ギーク」のモテ力はかなり高まる、みたいなことだ。
当増田の言いたいバランス力とは、己が持ってる各能力とそのスコアに自分が納得しているか、ということである。自分と「自分の能力」に折り合いがついている状態を「バランス力がある」と表現したい。
増田諸兄は「おれと似たような顔面のあいつには可愛い彼女(彼氏)がいるのに…」と思ったことが一度ぐらいはあるだろうか。少なくとも当増田にはある。
そういう「あいつ」が、私からみても良いヤツならまだ納得できるが、それほど良いヤツではないむしろ悪いヤツなのに…ということも少なくない。
嫉妬含有率の高い感情に我ながらがっかりし、うっかり己の不運に絶望しそうになるところだが、一方で、この「むしろ悪いヤツで戦闘力もあるとは思えないのに良い思いをしているヤツ」は、己の戦闘能力を客観視し適切な戦略を実行しているからこそ、果実を得られている(当増田はそのやり方は必ずしも常に好ましいことだとは考えないが)と考えることができるのではと思うのだ。
戦闘能力を示すチャートグラフの数値や面積の広さが問題なのではない。いや問題ではある(初めから恵まれた果実を手に持って生まれる人間も世の中にはいる)が、それとは別に、「自分は今はその面積しか戦闘能力がない」「うむそれなら持っているもので戦おう」と己の能力を素直に受け入れ対社会への解釈を客観的に出来る者には、その後の成長力も含め、なんにせよ未来があるということだ。
例えば、ギーク力が突出して高いだけの人間だったとしても、場所とメンツを選べば合コンでいい塩梅の彼女をゲットすることだってできる。
ポイントは「いい塩梅の」である。社会的に100点満点の(自慢できる)彼女である必要性は、少なくとも内的にはないということに、気づけるかということ。
手に持っている武器では倒せない敵に向かっては(または向かいもせずに)ヘイトを貯め込んでいく、このような状況を、当増田は「バランス力のないヤツ」と定義したいのである。
全ての項目が10点満点のチャートグラフを書けなくても、あちこちでこぼこで尖っていびつなグラフの自分でも、持ってるもんでやりくりしてこう、と折り合いがついた、バランス力が取れた状態になると、不思議なことに(まぁ不思議ではない当然ではあるが)チャートグラフのへこんだ項目のスコアも伸びていく。そもそも足りない自分に折り合いをつけられること、それ自体が「戦闘力の開発」だったりもするし。
一方で、この折り合いがつかないと、どんどん生きにくい自分になって行くんだろう。無い能力や評価されにくい能力と相手を呪う前にやることがあるってことだ。
そうすりゃCの聖人君子にはなれなくても、B:ごく普通のセクハラ我慢できる小確幸的人生は、手にすることはできる。
セクハラする人生は、幸せな人生とは決していえないのだ。あれは統合できない自己が、己や周りを巻き込んで自爆していく作業でしかない。
中学生時代、実はその気があるのではないかと気がついてからはや数年がたった。幸いにも生来オツムの弱い俺は自身がマイノリティであることを深くは気にも留めず、それより目下のところの悩みは人間関係をうまく構築できないことにあった。
高校に上がるときに状況は変化した。うまく人間関係が行くよう、仮面をかぶることで自分自身を作ってしまえば良いと悟ったのである。高校生になるまでそんなことにも気がつかない程度には頭が悪かった。考えてみれば、あたりを見渡すと、みんな真っ白で、まるで自分には負い目がないかのように振る舞っていたのだった。美しい世界だった。互いが互いを牽制し合うことで、負の部分は徹底的に平らかにされ、狭い学園内に、その生態系特有の標準像が形作られていた。もちろん、個々に特徴はあった。しかしそれは決してマイノリティではなかった。それを知った途端、皆がよそよそしくなり、あるいは全力で忌避しだすような。
まんまと学園の標準像を手に入れ、学園内における人間関係に満足できるようになった俺は、初めてやっと自分がマイノリティであることそれ自体を直視し、その孤独に深く怯えた。暇ができれば「ゲイ 割合」でググった。ググったところで孤独がどう収まるわけでもないのにね。けれど、動揺は表に出さないようにして、ひたすらに勉学に打ち込み、孤独と不安がよぎりながらも結局はマイノリティであることを見ないようにする努力を重ねた。
大学に入った俺は、Twitterで界隈の情報を知るようになっていた。そもそも自分自身が性的志向を隠していたこともあり、いわゆる「お仲間」は一人も知らなかったから、出会う人達が本当にLGBTsであることが信じられなかった。
そこには様々な人が暮らしていたのであって、ウェイ系や趣味を謳歌する者、社会人や地味な者が渾然一体として存在していた。それはもう殆ど社会と変わらないのであって、一つ違うのは皆がマイノリティであることだった。彼らは一緒にコミュニティを形成し、つるむことで根底にある孤独を紛らわしているかのようだった。
そして同時に、ネット文化(淫夢など)やネットでの論調を目にするにつれて、俺にある疑問が浮かぶようになった。
「LGBTsであることはそんなにも悪なのか」
一部のLGBTsに対して進んだ国・都市ではPrideを大きなスローガンとして、市民権を得られるような活動が続けられてきた。日本にもPride文化は輸入されたのであって、実際にパレードも行われているし、わりと盛況しているようだ。だけど、違うんだ。そうじゃない。そもそもそれらの国・都市はアイデンティティや個性を重視する文化を長い間かけて育んできた。この文化が素地としてあってこそ、LGBTsにかぎらず、他の多くのマイノリティも声を上げることで市民権を得ようとしてきた歴史がある。だから、Prideなんて言葉を使うようになったのだろう。
でも日本はそうではない。少なくとも日本にはアイデンティティや個性を重視しようという文化はない。こんな文化は自然発生するものではないのであって、意図的に育んでいくものだ。日本は残念なことに育んでは来なかった。日本において個性を尊重しているようにみえるのは、実際には個性を見世物にして消費するか、あるいは黙認という形式を取り、なかったことにするかにすぎない。高校時代の美しい世界もまさにその通りで、別に性的マイノリティに限った話ではなく、ひたすら皆が標準像を追い求める一方、標準像として収束される先にも残り続ける、ただひとつの「日本人」という個性の姿や文化といった共有資産が賛美されることに満足を得る人間も出現し始めた。マイノリティに関して言えば、ゲイのアイコンとしての「オカマ」や「淫夢」は見世物として消費され、その他のゲイはなかったことにされている。そんな国でPrideなどと言ってみても滑稽なのだ。だからこそ輸入されたコンセプト・スローガンでは対処ができない。
ゲイが理解されないことの一つに、「自分にも危害が加わる可能性があるから」というのがある。でも、考えてほしい。人が自分に好意を持ってくれることは少しも危害ではないのではないのではないか。そもそも性的暴力で実力行使に出るような輩は、ゲイを理解云々の以前に一定確率で行使しようとする。でもそれは、ヘテロ男性の中に女性を強姦する人がいるのと変わらないので、ご指摘には当たらないような。
そして、ゲイのくせにヘテロ男性に告白してきたらキモいというのもよくわからない。そのような人たちの中で、告白相手の女性がレズビアンである可能性を少しでも考え、躊躇した人間がどれくらいいるのだろう。結局、物事はすべてマジョリティが当然のこととして行っていることは当然のことで、同様のことをマイノリティが行おうとして、マジョリティの行動との間に違いが生まれた途端声高に主張し始める。マジョリティは自らの行動を顧みず、棚に上げた上で我々の一挙動を観察する。人から愛を向けられることがそんなに嫌なのだろうか。俺だったら、自分に魅力があるのだと知れて誇らしいことだと思うのに。
どんな社会を望むのかといえば、答えは明白で、「LGBTsの存在が当然のこととされている」社会だが、まあ無理だろう。こんな世の中じゃ。何か新たなネタが見つかるたびに、徹底して皆が食いつき叩き上げ、消費し尽くす。そこには様々意見が入るものの、結局はネタを消費する手段にすぎないから、意見は平行線上をたどったまま、次のネタ、次のネタへと移っていく。誰もが同じ生け簀から出ようともせず、古い水を変えようともしない。食い散らかした餌の破片と糞尿で薄汚れた生け簀の中で、同じ境遇であることに何故か安心感を覚える。そして誰も自分の意見を変えようとしない。それぞれが意見を表明し、その意見はどこか遠くへ流されていくのみだ。寛容などとは程遠い。日本の体質自体が変わらないと始まらない。俺だってなにも好き好んでこう生まれてきたのではないのに。
それにしても、「生物学的におかしい」とか「自然の摂理に反する」とか、「異常」「変態」「公の場には出ないでほしい」みたいな言説は読み飽きてしまった。もう死んでしまいたい。
ロリコンへの非難は、相手の同意が確認しにくいから、差別というよりも社会的なタブーに近いのではと思っている。
獣姦がタブーなのと一緒というか。(獣側の同意が取りにくいという意味で)
“必ずなにかしらの選択をしなくてはならない”って前提条件がある時なんかはそういう「(相対的に見れば)好き」みたいな選択の仕方もあるし、そういう手法を取るのも至極まっとうだと思う
たとえば「選挙で希望に沿う候補者がいないけれど、他の有権者に選択を委ねる気もないとき」とか「とくに食べたいものは思い浮かばないけど、お腹が空いているのでなにかしらは食べなくてはいけないとき」とかね。承認欲求を満たしたいオタサーの姫なんかもそれに入ると思う
ただ、性的志向の問題でもなく、選択をしないという選択もあるような個人の嗜好でしかない話で他者(や他者の属性)を貶める必要は全くないよねってことだけが言いたかった
違うね
つか、実際事件が起こってる中で、かつ自分や自分の大切な人間(女性とか)を被害の対象にしたあまりにもリアルに手口までさらして残虐行為に及ばれてる創作物があるのって怖いと思わないの?読む人全部が理性的とは思えない。創作物読んだら、主人公に感情移入することが目的に書かれるもんじゃないの?
レイプ最高!てのに感情移入しちゃう人もいるんじゃないの?一切被害者に罪悪感情ないどころかさらに追い詰めてくんだよ。相手を思いやらないサディズムつか残虐行為。をふわっとした表紙で間違って読んじゃう人もいるんじゃない?
作者が描いたエロいという特定の記号を、一部の人間がこれはエロいものって刷り込まれるんだよ。スルーする人間もいる。
例えばロリ専門エロ雑誌を見てもすべての人間がエロいと思う訳でないし、逆にすべての人間がそれを嫌だという感情を持つ訳でもないでしょ?
ただ、それを読んで一部の人間はそういった表現をエロいことと認識してしまうんだよ。
男性向けAVだってただのパフォーマンスなのにそれがリアルと思い込んじゃう人がほとんどじゃん。
学習とかなしにそういう性的志向に目覚めちゃうことって恐ろしいよ。
他に殺人とか反社会的な表現なんて創作物においていくらでもある。わかる。
相手は力も知識もない子どもで、あまりにもリアルな犯行の手口をマンガ内に描くのってどうなの…。
たまたまそんなのを読んでしまわなければ目覚めなかっただろうと思うんだけど。
ゾーニングと自分で3次元欲求対象への欲望が抑えられなくなりそうな時の対処法や相談連絡先などの記載とか、対策をしてほしいんだよ…。
子を持つ親としては、不快とかじゃない、恐怖だよ。
発端は俺が思春期だった頃に遡る。
ちなみに俺のチンポジは右側だ、
これだけで察しの良い男諸君はチンコが右曲がりになってるのが何故かが分かるのだが、
人口の半数は女性の為、過半数の納得を得られる為にももう少し詳しく解説したい。
男性は、大抵トランクスを履いている、トランクスを履くと、チンコは右か左に寄る事になる、
覚えておいてほしい、男のチンコは大抵右か左に寄っている。
結果、チンコが右曲がりになった。
俺はチンコの形が右曲がりな事に悩んだ、
どうして俺のチンコは右曲がりなんだ、
そもそも勃起したら他人に丸わかりだし、チンコって邪魔じゃないのか?
女性ってずるい、チンコが無いからそんなそんな心配しなくて良いし、そもそもチンコ分ズボンを下げる必要もないじゃないか、
そんな考えをこじらせている時に、アニメかのこんの登場人物「犹守望」が言った、おっぱいは邪魔な脂肪の塊、私のような貧乳が無駄の無い身体、だと
元々女体化はそこまで嫌いじゃなかった。
女体化が苦手だと思ったのは今のジャンルに来てから。そこでハマったCPでは結構な頻度で受けの女体化作品を目にした。
それが持て囃される度になんとも言えないモヤモヤを胸に抱えていた。これが解釈違いかと、面倒くさい人間になった自分にショックも受けた。
しかし、何度かその女体化に遭遇すると、解釈違いとは別のところでもやもやしていることに気付いた。
女体化した受けちゃんは優しくておっぱいが大きくて攻めくんもそんな優しくておっぱいの大きい受けちゃんが大好き! みたいなのが多かったのだ。
その上女体化した際の受け攻めの葛藤もなく、簡単に受け入れて簡単に同衾してしまう。最初から女というのも少なくはなかった。
表面上はヒロインを受けちゃんに置き換えることで夢であることを否定しつつ、内容では受けの人格や体を魔改造してもはや受けではなくなった何かを攻めに充てがっている。
これは夢者に対してもCP者に対しても砂をかけているようなものだ。
正直に言うと私は夢は好きな方だ。原作にはいないオリジナルのヒロインを考えて好きなキャラに充てがう。
しかしオリジナルヒロインはオリジナルヒロインでしかなく、原作にオリジナルヒロインが同様の立ち位置で登場することはまずないという割り切りがある。
夢ヒロイン置き換え女体化の場合は、その割り切りもなく受けの原作における地位は維持しつつ中身は別の何かにすり替えているのだ。
夢の中には成り代わりというものもあるが、そっちは一応本人ではないという認識がある。夢ヒロイン置き換え女体化は受けだと自己認識している分それよりも質が悪い。
全ての女体化がそうだとは思わない。例えば原作の性格を崩さず、話のスパイスとして女体化を入れるのは夢ヒロイン置き換え女体化には当てはまらないだろう。
しかし葛藤もない上にそもそも原作とはかけ離れた人格設定をなされたそれは、もはや受けと言うよりは受けだと思い込んでいる別の何かだ。
先に「夢者に対してもCP者に対しても砂をかけている」と言ったが、そこに「原作キャラを踏襲した女体化を書く人・好む人」も追加したい。
この方々に砂をかけながら、当たり前のようにCP者として居座るその根性に私はもやもやしていたのだ。
こういう話になった時「そもそも性的志向を捻じ曲げといて人格改造もクソもねーわ」という反論が飛び出るが、そうじゃない。
原作を見た上で「原作のこの性格の攻めと受けがくっつくとクッソ萌える」というのが根底にあり、男同士がくっついたら中身はどうでも良いなら素直に商業BLを読む。
メスケモ派、オスケモ派にはじまり、マッチョ派、モフモフ派、デブ派、ショタ派(なぜかロリはほとんど見ない)、モンスター派(極左人外連)、トランスファー帝国、肥大化公国、融合辺境伯領、ロイヤル竜奇兵連(ドラゴナーズ)、爬虫人類委員会(レプタリアンズ)、キグルミ派、母性探求派、海生動物会議(「海の人々」)、四ツ足派だけどズーフィリアじゃないもん派(愛ケモ主義的極右)、丸呑みだけが人生だ派、卵胎生出産教会、インターレイシャル(人×ケモ)派、反インターレイシャル派……
「天はケモナーの上にケモナーを造らず、ただし、ケモナーの横には無限のケモナーを造った」
産業革命以降の通信技術の発達は、孤独だったケモナーたちに「同好の士」を発見する機会を与え、ファンダムの拡大に成功したものの、
同時に細かな嗜好の違いによる派閥間対立をも生じさせ、その軋轢がついに二度に渡る世界大戦の引き金となったことは今更説明するまでもないだろう。
そうした争いは近年まで衰えることなく続き、いつしかケモナーたちは「派閥が違えば殺し合って当然」という野蛮な虐殺言語を所与のものとして生きるようになっていた……。
私もそうだった。
私もある狭い派閥こそ唯一かつ至高と信じ、他者の排除や差別によって所属派閥への帰属意識を高めていった。
派閥の意志に叶うと思えば、喜んで我が手を血に染めてきたし、かつての友人たちをためらいなく2chに晒した。
なかでもいっそう劣悪とされ、他のありとあらゆる派閥から敵視されていたのが「ケモミミスト」である。
サイバー=コネクトツー・スペクトラムでいうところの「レベル2」。
「ニンゲンの身体に、ケモミミ(としっぽ)がついてさえいればよい」とする日和見主義的邪教徒たちだ。
彼らにはケモコミュニティ内において最初から人権など与えられてこなかった。
なので、ふだんは「一般人」に紛れて潜んでいたのだが、ときおり何かの間違いで何も知らない”レベル2”がケモコミュニティに迷い込んでくることがあった。
多くの場合、彼らは痕跡も残さずにコミュニティから「除去」された。
中道過激派の秘密ケモナー警察のあいだで流行ったジョークにこんなものがある。
「”レベル9"(いわゆる真性の獣姦嗜好)はケモナー以上に進化してしまったケモナーだ。だから畏敬をもって殺す。
”レベル2”はケモナーになれなかったケモナーだ。だから哀れみをもって殺す」
私も彼らを憎んだ。
でじ子の肖像を何枚も焼いたし、それ以上におぞましいこともやった。
現代のケモナー社会は、あらゆるケモナーには自分自身と同胞である他のケモナーの「性欲」を認め、尊重することができる能力、そして性的志向の善し悪しについて自ら判断する能力があるというフマニスト的前提をもって、各人に普遍的ケモナー権を付与しようとしてきた。
一見それは理性的で合理的、かつ人道的な判断基準なように思える。
だが、人は他者の良い面よりも悪い面を重視する傾向にあるようである。それが上記のような派閥争いとケモミミスト蔑視の引き金となったのである。
だが忘れもしない2017年の某日。
私は『けものフレンズ』を観た。
もちろん、観る前は”レベル2”だと貶していた。
しかし、一種の社会現象となるにつれ、そして「一般人」たちがけもフレを「ケモナー」と結びつける言説を多く弄するになるようにつれ、私は「世間の無理解を忠実バラなぬ」という一種の義憤から、けもフレを鑑賞したのである。
最初はなんと退屈でつまらなく、くだらないアニメだろうと思った。
だが、一話の終わりにさしかかったあたりから胸がざわめきはじめ、
画面にかじりつくようにして二話に没入し、三話を見終わるころにはすっかりフレンズたちに魅了されていた。
のみならず、こう思うようにさえなっていた。
「これは”われわれ”について語られた、”われわれ”のためのアニメである」と。
ケモナーは一般に受けいられる性的志向ではない。というか、世間的には性的志向ですらないと考えられがちだ。
同胞たちは自分たちの好きなものをカミングアウトできずに日々気持ちを圧し殺して生きている。
ファンダムとは、そうした「のけもの」たちを包摂するために存在するやさしいシェルターではなかったのか?
それがいつのまに、我々自身から「のけもの」を作り出し、排除し、殺し合い、差別するようになってしまったのか――
「姿かたちも十人十色だからこそ惹かれ合」い、「みんな自由に生きている」場所。
それこそが我々が最初に求めたファンダムのあるべき形ではなかったのか?
蒙が啓かれるとはまさにこのことだった。
私はいてもたってもいられなくなり、地下壕から出て地上へとあがった。
だが、つい先刻まで鳴り響いてはずの銃声や悲鳴はすっかり止んでいた。
地には戦車ではなく瓦礫の影で戯れる少年少女が、空には爆撃機ではなく大きな翼の鳥たちが遊んでいた。
まるで、あらゆる憎しみが「ぼくのフレンド」に包まれて溶けて消えてしまったのかように。
私はあてもなく、ただ何かにつきうごされるかのごとく歩いた。
そして、数分もしないうちに反対側の地下壕から出てきたであろう年老いた男と出くわした。
老人はあきらかに”レベル2”であった。
ふだんなら我々の姿を見て怯えて眼をそらすはずの彼らが、瞳に決意をたたえ、凛としてこちらを見据えている。
「きみも、観たのかね?」
そう老人は問うてきた。
私は無言で頷いた。
頭を傾げた途端に、一条の熱い何かが頬をつたい、顎からしずくとなって焼けた大地に滴った。
涙を流している、と自覚したのは、湿った点が地面に染み込んで数秒経ったころである。
「私は、私たちは」とうわずる声で私は言った。「許していただけるのでしょうか。あなたたちとフレンズになることは……できるのでしょうか?」
老人は痩せこけた顔に、穏やかな微笑を浮かべて応えた。
「笑おうじゃないか。ともに笑ってみよう。
そうとも、と老人は私の肩を叩いた。
ここが、われわれのジャパリパークなんだ。
われわれは『けものフレンズ』というサンドスターを通過して、今一度生まれ直したのだ。
本当の愛は、ここにあるのだよ。
私は悩んだことはありませんが。
小さな差異を言えば私はあんまり痛みや苦しみには興味ないです。実際の事件よりイラストや小説のような創作の方が詳細な妄想を反映するので好みです。
例えば性的に誇張された体型の魅力的な女性が体のラインがわかる服や下着や全裸で淡々と絞首刑にされていくイラストとかで自慰をするのが好みです。痛みや苦しみより、女性の人格も命も含めて物のように扱かったり辱めたりするのが自分の性的に興奮するポイントなのだと思います。
私があなたと違いこのことについて悩まないのは、変態性指向の根源や責任を自分と言う一個の人格に帰するつもりが全然なく、動物の機能の一つとして説明されるべきに違いないと確信しているからです。
なので私は悩むかわりに、これがなんなのかは考えます。
私は普通の女性の写真(死んでたり吊られてたり苦しんでたりしない)のポルノで自慰をすることも有ります。
けれども前述のような、人格を無視されモノのように扱われる女性の身体や死が描かれたポルノでする時のほうがずっと強い快感があります。
出すものもより腰の深いところから出てくる感じがして、液の質の違いがわかるほどべったりと粘度の濃いものが出ます。色も濃く真っ白になります。
私はあなたと同じで良心や他者への共感能力がありますし、犯罪も殺人もただただ恐ろしいとしか感じませんし、リスクを冒すほどこの欲望に執着は無いですが、もし法も善悪も神もなんにもない荒れ果てた中世みたいな現実に放り込まれて「欲望を実現してみろ」と言われたら、なんかの理由で処刑された直後の女性の死体を盗んできて性交するキモい村人になると思います。それが現実と理想の折衷のイメージです(全く現実離れしてますが)。
それでいつものべったりとした精液を女性の死体の中に注ぐと思うのですが、そのべったりして真っ白な、含有生殖細胞の多い液体は何の為に出てくるのでしょうか。生殖可能性ゼロの活動の時だけ出る生殖能力がすごく高くなっていそうな体液。全然悩んでないですが究明はしたいと思っています。
ところでネット見た印象ですが、我々のような趣味は白人に多いです。
絞首刑イラストも白人が、決して上手くない画力でパッションはじけさせながら大量に描いてアップしていました。(そんなサイトでプロフィールと顔写真載せる感覚はさっぱり分かりませんが。)
この趣味が連続殺人や破滅にいたるのも犯罪記録嬢は圧倒的に白人が多いですね。
人種がそうなのか、社会や宗教のプレッシャーなのか、そこもわかりません。
追記
ほら、こんな風に書かれるとなんか人格の問題みたいじゃないですか。
私オレTUEEEEE創作とか嫌いですよ。幼稚だし、やられる側が気の毒になるし。
私はそういうなんか人間関係や内面に不満や葛藤を抱えてる人ではなく、
アニメキャラの百合を好む人が「百合に男を混ぜるのはクソ」とか「同性愛者を異性愛者に矯正しようとするのはクソ」という発言をしてるのをよく見かける。
でもその一方で異性愛者を同性愛者に矯正しようとすることについては喜んで奨励するんだなあって
アイカツスターズの早乙女あこに対する反応をTwitterで見てて思った。
早乙女あこはいわゆるノンケで、男性アイドルであるところの結城すばるが大好きなキャラクターだってことがはっきりと描かれていた。
なのにその事実をことごとく歪めて無理やり同性愛者、レズビアンに仕立て上げようとする感想妄想が多数を占めていて正直引いた。
あこの恋路を応援しよう、あこの人となりを素直に肯定しようなんて感想はほぼ見かけなかった。
結局この人たちキャラクターなんてどうでもよくて百合っていう記号が好きなだけなんだなと思った。
まあ早乙女あこがバイセクシャルだって可能性もゼロではないし妄想するのはもちろん自由なんだけど。
あなたのその早乙女あこに対する発言って、あなたがいつも嫌ってる百合を男根で引き裂く行為とどこが違うの?と思った。
※追記・返信
・別に二次創作で性的志向を勝手に曲げるのが正道だとか言ってない。やることについては否定しないしやりたいなら謙虚な姿勢でいるべきだとは私も思っている。
・一緒なのがわかってて同時に自分にとって嫌な表現の存在も認められるなら良いと思う。
・断言してることで言及してる百合好き達と同列視されるのはちょっと、かなり不服だな。そもそも6話を見た時点でわかりやすく手に取れる事実を書いたに過ぎない。
すばるが好き→恋愛対象は男の子ってごく自然に考えられることだと思うんだけど、そんなに狭量な考え方だろうか?
そんな考え方をするやつは前時代的な性差別者だとか言われるようなら謝る。