はてなキーワード: はえとは
物心ついた時からオタクやってきたので一般の感覚というものがわからなかったんだが、
一時期環境がかなり変わったことで数年脱オタクをし、そしてまた戻ってきたら、俺が当時から感じてたオタクに対する同族嫌悪の理由が自分なりに明らかになってきたのでチラ裏に書き出す。脳内整理。
人間とはえてして自分の加害に鈍く被害には敏感なものだけれど、オタクはそれが顕著。なんにおいてもそう。男オタクも女オタクも萌え豚も腐女子もオタクの種類を問わずそう、また対一般人でも対身内でもオタク同士のコミュニティにおいてもそう。自分の加害の可能性を棚に上げて他者を糾弾するのに必死すぎる。誰かに非難されると、非難した側の属性を指して「お前がいうな」論に持ち込む(大概ただの詭弁)。議論解決において重要な”相互の主張を正しく理解して互いの妥協点を探る”という目的は誰も持っておらず、とにかく受けた被害の鬱憤を晴らさんと他者を殴ることしか考えてない。醜い。
何か世の中に対する不満でもなんでもTwitterで呟いていたとして、それに当てはまるフォロワーが「それ自分です、ごめんなさい」とリプしてきたとする、すると「あなたは○×だからいいんですよ!」と自分の主張を棚に上げて詭弁でしかないフォローをする。掌ドリルである。そうじゃないやつも多く見かけるようになってきたけど、コミュニティが狭いと未だに掌ドリルオタクはどこにでもいる。
自称S人間の痛さみたいなもんだろうか。それに加えて、オタク特有のコミュニティ内でのヨシヨシが発生するのが痛気持ち悪いのである。「お前まじ頭おかしいよな!w」「え、なに?!そんなんじゃないが?wちょっとキャラが痛めつけられてるの見るのが好きなだけでw」「それを頭おかしいというw」みたいなノリを大の大人がしている。面白さと紙一重なノリではあるんだが、大抵のオタクは別に面白さとかではなく自尊心を満たすためにやっていることなので、普通に怖いし気持ち悪い。
LGBTQ+の権利の拡大が叫ばれている。
そのうち、特にトランスジェンダーの権利の拡大が行われるたび、これはどこまで続くのだろうと、少しの恐怖もある。
なぜ怖いのか、書きながら正直な気持ちを整理してみた。
まず、そもそもこの分野の言説では、男女を区分けする意味が雑すぎて、混乱が生じてる部分が多そう。
私の意識では、性自認、アイデンティティの部分だと本人が言ってることが正。意識の領域だから、意識が出してる答えが正。
でも例えば、スポーツで男性部門に出るか女性部門に出るかとかの問題だと、このホルモン値だったらとか、体に影響する治療をしてるのかとか、社会としてガイドラインを整備した上で、医師が判断するなどがよいのではないか。
身体は完全に生物学的にXYなのに、アイデンティティにあわせてXXの競技に出たら、筋肉量が少なかったりなどXXの選手にとってすごく不利になってしまうので、なぜ分けているのかの理由を考えてそれにあわせて対応する必要がある。
それと同時に男性部門、女性部門っていう呼び方をやめるとか、トランス当事者に苦痛の少ない方法を模索していく必要がある。
他にも例えば地震が来て避難所でナプキンを配る数を知りたいから男女どちらですか?って確認してるのに性自認で答えてたら双方困るよね。
不要な人に渡すのは物資がもったいないし、逆に性自認が男性でも身体に生理が来るならその人はナプキン要るでしょ。
だからここでもそもそも男性女性という区別/質問の方法がふさわしくないという話なんだけど。
そう、男性ですか女性ですかという区分けは雑だし、伝統的だからステレオタイプ的でもある。
これまでの男女どちらかの区分けでは対応できないことが社会的に認知されだしていて、2区分だけでは絶対足りない。どっちに押し込んでも潰される人は出る。
私としては、トランス女性は女性だし、トランス男性は男性だと思う。
その考えに従うと、今後は「女性」や「男性」という言葉の中に、身体的な特徴がXXの人、XYの人、どちらも含まれる。女性にも男性にもバリエーションが存在する。
だから、雑に男女で分けてればOKだった時代はもう終わったから、より明確に何のためにここでの区別は存在しているのか、という目的を改めて考えて、明示する必要があると思う。
個人的に一番気になるのは、自分の生活に影響してくる部分である、トイレや浴場での区分けで、安全を重視して考えたときに今後も残る区分だろう。
歴史的に男性から女性への加害が多かったことを考えると、ここで一番多数の人の安全を守れる可能性が高い基準というと、身体の持っている特徴がXXかXYか、というところに依らざるを得ないのではないか。
私は女性だが、相手の性自認に関わらず、ペニスがある人と同じ場所で着替えたりしたくない。
ペニスがはえていなければ、相手の自認が「男」でも構わない(というか、気付きようがない)。相手がこちらを性的に見ているかどうかも関係ない。伝統的な女性(身体がXXの特徴だった人)の中にもレズビアンやバイセクシュアルの人はいたわけだし。
平均的にXXはXYより力が弱く、膣に強引に挿入される形での性被害を受けやすい。
誰かの身体がXXあるいはXYであるとき、本人がその事実に苦しんでいたとしても、それを反対のようにみなすことはできない。意識上の自認が違うということは理解はできる。けれども、現にここに存在している身体、ペニスあるいは膣のついた(もちろんどちらにもあてはまらないあるいは両方である人もいるが)身体の、現実の特徴を無視することはできない。
性自認のみで考えろというのであれば、その要求は安全を考えたときに行き過ぎだ。
安全を譲歩することは、できない。
ルール変更によって加害を受ける可能性が高くなることが受け入れがたいのだ。
ペニスのついた体の人も「女子更衣室」を使ってOKです、となったときに、性自認しか基準がないと、それがトランス当事者なのか、トランス当事者を装った性犯罪者なのか、他人が容易に判断できない。加害の可能性にさらされ、その上不安を訴えれば自分が「差別者」になるのではないかという葛藤まで負わされる。不当だ。
公共のスペースで判断基準を設けるなら、他人が判断できるもの、つまり自認以外のものであるべきだ。
だから、そもそもの男性女性という区分けをやめ、ペニスがはえてるかはえてないかとかの事実でしかない区分けに変更するとかはしてもいいと思うが、自認が女性だから、(これまでの意味での)「女性用スペース」に入っていいとかにはしないでほしい。
でも、トランス当事者を含め女性にも男性にもバリエーションがあって、そのすべてのバリエーションを同じには扱えない。
トランス当事者の権利は拡張されるべきだ。例えばトランスジェンダーであることを理由に就職で差別される、容姿
を揶揄されるなどはあってはならない。
でも、次に主張される権利は私の安全を脅かすものではないか?その恐怖が頭をよぎり、手放しで応援できない。
男女の2区分では対応しきれないことは明らかなのだから、これまでの区分で言う男性用/女性用スペースに入る権利を拡張していくのではなくて、そもそも男女の区分でなくてもよいのでは、という見直しも含めた形で、苦痛の少ない社会を目指していければいいのに。
僕の好きな食べものはえび(茹でてあるやつ)で、嫌いな食べものはカレー(カレー味含む)
まっとうに真面目なオカンは僕の好き嫌いをなくそうと、カレーを出すたびにえびをつっこんできた
犬や猫の餌に栄養分(その子が苦手な味?)を小さく刻んで混ぜて食べさせる話があるくらいだし、別にそれくらいって普通だとは思う
だがちょっと待ってほしい
好きなのがカレーで、嫌いなのがえびだったら別にいいと思うのだ。だって最悪えび避ければ食べられるんだし
でも僕が好きなのはえびで、嫌いなのがカレーだ。カレーに突っ込まれたえびは最早カレー味のえびでしかない。丸洗いしたところでカレー臭は消えない(何度か母の目を盗んでやったことがあるが食材への冒涜なので普通にやめましょう)
えびとカレー別々の状態で皿に出されて「カレーひとくち食べるごとにえびが一尾(小さいやつ)食べられます」みたいな約束された方がまだ素直にカレーを食えたと思う
それを、カレーにえびをつっこむという最悪の荒業のため大好きなえびの味も失われるしカレーは嫌いだしでいいことが何一つとしてない
そんなわけで嫌いなものに好物をつっこまれたところでカレーに対する憎しみが増すばかりなわけなのだが(この茶色野郎、俺のえびを汚しやがって)母にはそれが分からなかったらしい
僕はカレー以外に嫌いな食べものは無いが、えび以外に好きな食べものもないので、業務センターで買った冷凍ボイルえびを毎日ちまちま焼いて刻んだにんにくとしょうゆで頂いているのだ
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
問題視される様になった初期からずっと思ってて、その初期から思ってる事に変化がないので、そのお気持ちを書いておく。
現行
https://www.mhlw.go.jp/content/000802095.pdf
https://www.mhlw.go.jp/content/000834055.pdf
3日待機の国は省略
9/20より
https://www.mhlw.go.jp/content/000833913.pdf
https://www.mhlw.go.jp/content/000833907.pdf
3日待機の国は省略
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_00209.html
各国の状況
https://www.anzen.mofa.go.jp/covid19/country_count.html
https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/index.html
この最近でもいろいろあったけど、表現規制反対側というかオタクたちの言動みてると、疑問があるんだよな。
オタク、多分、いまだに自分たちの表現文化に自信ないだろ。なんかすごく、威張りと卑屈さが奇妙に入り混じってる。しかも頑なに「エロ」認定を拒む奴もいる。エロくて何が悪い?って言えないのか。
クラスに一人二人いたタイプが、そりゃ53万人だっけ?も集まってくと、あんなチグハグなブームになるよなと思うわ。場当たり式、泥縄式のことしかしないもん。自称軍師様々だわ。
そんで議員先生とかも本気で問題に取り組みたくないが票だけは欲しいから、問題が起きた時だけポーズとって「アニメ漫画は日本の宝!」で終わり。「俺たちのアソー」の時と変わってない。
別に「ズリネタ至上主義」が悪いとか言うんじゃないんだよ。むしろ俺がここで書きたいのは、どこまで表現やその規制に向き合ってるかってことなんだよ。だけど、見た感じ、53万パワーとか自民に陳情をーとかそういう奴しかいない。深みなんかない、ただ国に認めてもらって都合の悪いことは考えないで波風立たないようにしたいだけなんだろ?
海外の活動家ならままいる、そもそもの国家介入反対、ゾーニング反対論者がいないかTwitterで調べてみた。その立ち位置があってそこからまず議論が始まるはずだからな。
でも驚いた。ずっと訴えてそうなのはほんの数人だった。艦これのおしっこ同人作家、非国民を名乗るハーフ、ニッチジャンルっぽいvtuber、それくらい。この人たちは相対的にそれだけで立派だよ。
議論として踏まえておくべき漫画家とかのなかで、これを俎上にしとる人は一人もいなかった。もし知ってたら教えてほしい。
中国とかロシアのBL規制のニュースみて「はえー大変だねー、日本は自由があって良かったねー」じゃないんだよ。日本は不自由なの。それもフェミとかポリコレとか以前に、自分たちの運動が不自由なの。まずは文化の原点に立ち返れや。なんで表現文化の一員を気取ってる奴が合法のぬるま湯に浸かってんの。戦えや。自民だろうが共産だろうが関係ない、常にモザイクも倫理規制も気にしない、自分のフリーダムな表現をしろや。そこからだろ。
書きたいんやけど、書きたいことがないんや。
例えば、政治とか世間のニュースとか、見れば感想ぐらいはあるやろうけど、わざわざ文章にして主張したいことなんてないんや。みんなそうやん。偉そうに一言言えば気がすむ。それで満足や。
じゃあ、他に何を書けばええか。普通は自分のことやな。でも別に凡人がただ生きてるだけで、文章にして伝えなきゃいけないことなんてないやん。日々の愚痴とか聞いてもしょうもないやん。
他には、社会的な問題を提起してみるとかか。やーワイには無理やな。興味ないもん。
あとは、笑えるような面白いネタを書くって方向性もあるわな。面白いことはええことよ。でもな、面白いってめっちゃ難しいわな。簡単にできれば芸人も苦労せんやん。
本の感想とかゲームとかアニメとかマンガとか映画とかそんなもんの感想やレビューとかならかけそうか。そういうのなら、まあ需要はあるし、文章も書けるわな。モチベ湧くかわからんけど。
関係ないけど、岸本佐知子のエッセイってとんでもないやろ。こういうのがワイも書ければええんねんけどな、そんなのは無理やから、憧れるぐらいやな。