真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ボツネタの詰め合わせ。
答えはYESだ。
個人差はあるが、まあ多少は。
直に泣かなくなるさ。
性差には、大まかに分けて「身体」と「心理」がある。で、オリンピックで男女別なのは、身体的性差を考慮しているからだ。
君は世間が提唱している「平等」をちょっと誤解している。男女の差別問題解消において、女性にスポットライトが当たることが多いのは、女性のほうが社会で不当に扱われてきた歴史がある、とされているからだ。
学ぶべき教訓は、「偏った天秤に同じ重りをそれぞれ乗せても偏ったまま」ということだ。現状を踏まえない平等論は平等ではない。これは身体的性差においてもいえる。私たちは同じ人間だが、どうしても性差による身体の違いや個人差はあるわけだ。これを一切考慮しないで作られたルールは、ある意味では平等かもしれないけれど、人間の作り出した“平等”という概念とは違うわけだ。
別に皮肉ではない。人間は多様で、かつそれらが社会で混在することが基本的に“認められている”(妥当な表現がパッと思いつかない)。その時点で、真の意味での平等は物理的に不可能なのさ。だから、彼ら人間の作り出す平等には「機会の平等」などといったように、社会に伴った限定条件がつけられる。広義的には「ジェンダー」といわれているやつで、平等にすべきはそこだとされているようだな。そんな平等でいいのかだとか、現在そういう理想的な平等に近づいていっているのかなんてこと私は知らんよ。
英語には“The balance distinguishes not between gold and lead”という諺がある。日本語で「天びんは金も鉛も区別しない」といったところかな。つまり「人間は天秤ではないので、物事を公平に判断することはできない」という意味さ。
……真に受けるなよ。本当は「人間は平等である」という意味の諺だ。人間は天秤ではないが、天秤を作ったのは人間だからな。
答えは「成立しない」だ。
前提が甘い状態で作られた論は、私からいわせればナンセンスだ。
せめて「不自然にトラブった場合に、出るとこ出れば勝てるのか、過剰防衛にはなってしまわないか」くらいのレベルにしてくれないと、答えようがない。