真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
そりゃあ、そこに待ち伏せするようになるんじゃないか。
そして、敵はそこで待ち伏せする選手にボールが行かないようにする。
味方は何とかしてそこにボールが行くようにする。
こういった一つの戦術が横行することをオフサイドゲームと云われているのは有名だな。
あ、柔道とかにも反則がいくつか設けられた歴史があるが誤解しないでくれ。
決して「強い、ウザい、ズルい」とか、そんな理由ではないから……。
一歩進んで二歩下がる方が面倒くさいな。
実際にやってみれば分かる。
なので答えは「同じではない」。
使い分けとしては、一歩下がりたいときは一歩下がり、一歩進んで二歩下がりたいときは一歩進んで二歩下がりたまえ。
いい質問だ。
妖怪の多くは、人間が正しく認識することが難しい事柄や現象を納得させるためのスケープゴートだとされている。
現代でも、ビデオゲームなどで90%で当たる攻撃をやたらと外したりするのはそのためだ。
まあ、実は妖怪の仕業ではなくて人間の仕業だったというパターンもあるが、妖怪の仕業という言い伝えも人間の仕業なんだから当然といえば当然の話ではある。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
答えはYESだ。
ちゃんとした事実に基づいた理屈が提示されてはいるものの、それを把握して享受している人間は少ない。
疑似科学が蔓延したり、宗教を「宗教だから信じない」のもそのあたりが関係している。
だが、その程度の認識でも実生活に支障がないなら大した問題ではない。
もし支障が出たのなら、それはその体系が間違っているか、それを信仰している人間が間違っているか、まあ適当に考えておいてくれ。
それはフクの差し金だ。
他人の家で悠々自適に暮らしたいがため、オニを門前払いしたいのだよ。
いつまでもフクに居座り続けられても迷惑だから、早く追い出さないと。
いい質問だ。
後にこの雪女の子供が主人公となった妖怪バトルものは有名だが、あれはやや誇張表現が過ぎるな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
バルブ……開発業者が3以上の数字を数えることが出来れば或いは。
いい質問だ。
答えはYESでもありNOでもある。
楽だから尚更だな。
つまり優れた作品は追従や迎合をするのではなく、追従や迎合へ導くものだ。
要は「非公式ネタで楽しまれていたものを公式がやると白けるの法則」という奴だ。
勝手に弄んでおきながら随分と身勝手な法則だと思うが、感受性とは自分本位なものさ。
森へお帰り。
もしいるのなら、その仲間と君を比べてみるといい。
ストーリーでの活躍、強さ、見た目、君がその仲間に優れている部分がどれだけある?
早期に加入したからといって、そこに胡坐をかいていては……はあ? 君は物語終盤に仲間になったのか?
育てる見返りすら少ないじゃないか。
なぜ仲間になった。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
逆も然りである。
スティーヴン・セガールがスティーヴン・セガールによって定義されるように。
チャック・ノリスがチャック・ノリスによって定義されるように。
アーノルド・シュワルツェネッガーがアーノルド・シュワルツェネッガーによって定義されるように。
NOだ。
友達とよろしくやってろ。
任天堂には64というゲームハードがあるのを知っているだろうか。
私の友達は、そのゲームソフトのタイトル末尾に全て「64」をつける非道を行っていた。
「マリオ64」、「ゼルダ64」、想像するだけでも恐ろしいと思わないか。
当時AKB48がいなくて本当によかった。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
コミニケーションとは伝える意志と、理解する意志の両立であり、それを各々が持つことが基本である。
もし赤ん坊の声に耳を傾けて泣いている理由が分からないのなら、それは赤ん坊にそれを伝える意志がないからだ。
当然、こちら側の伝える意志を理解する意志もないのだから、コミニケーションは破綻している。
故に泣き止ませるのは「言葉」だとか「意志」ではなく、「結果」である。
それでも泣き止まないのなら、気にしなくてもいい。
私の友達に子沢山の家族がいたが、赤ん坊が泣いても親はすぐには行かず、目の前のタスクを黙々と処理してから赤ん坊のもとへゆっくりと向かっていくのが印象的だった。
赤ん坊に限らず、他人の感情や言動に必要以上に振り回されなくていいのである。
他人を自分と同じ人間だと期待するから、思い通りに行かなかったときに心を痛めるのだ。
当然、赤ん坊の泣き声に逆なでされて怒り狂う大人も同じ人間ではない。
いい質問だ。
埃ってのは空気中に舞う衣類などの繊維が主だといわれている。
つまり、もう少し模様替えをしたまえ。
病気になるぞ。
つけ上がるな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
それは手の甲か、平かで変わってくるな。
手の甲なら、それは君が自分の鼻くその処理に困ったときの数だ。
だからといって食べるんじゃないぞ。
それは君が家に貼ったシールの数だ。
厳密に言えばなかったことになる。
これは今まで隠れていた鼻毛の長さに驚いた数だ。
指の間に数字が浮かび上がった場合は、陰毛を引っ張った時に一度に抜けた数の最大値だ。
爪に数字が浮かび上がった場合はレシートを使えば綺麗に落とせるぞ。
構わない。
もちろん、私が不真面目だとか薄情だからということではなくて、他の人に尋ねても本質的には同じだ。
今日の夕飯の献立を考えるのと、どこの馬の骨とも分からない者の身の上話について考えるのと、どっちが大切かなんて考えるまでもない。
君だって、誰もが書けて誰もが見れる場所にいる人間かも分からない者たちに、人生を委ねようとは思わないだろ?
ああ、だが誤解しないでくれ、人の話を聞いていないときにやる指のささくれを気にする行為よりは遥かに有意義だとは思っているから。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
田舎にいると猪が猟師に鍋にされるので、都会に行くようなものだと思えばいい。
私の知り合いの家畜はそうした(誤解しないで欲しいのだが、ここでいう家畜とは苗字つきのことである)。
含まれない。
クローゼットだ。
ならない。
だが、なっているようには見える。
天秤が実は壊れていたとしても、答えは同じである。
我々が目指すべき社会だ。
いま、私たちがこうしている間にも人が死んでいるとして、それに涙を流したりはしないだろう。
有名人の死と、大して面識もない親族、どちらの死が悲しいと感じるか。
死は平等ではあるが、それはそれとして個体の選別はされるのである。
もちろん、我々はどこにも行けない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
重要なのは、空を飛ぶことに思考リソースをどこまで割けるかだ。
また、他の人がどうかは知らないが、そこまで自由自在に飛ぶことも難しい。
これを説明するためには、まず君が私をフラグの発明者であることを認めなければならない。
あれは私が勇者の血を受け継ぎし兵士Bと傭兵稼業でならしていたころの話だ。
傭兵を始めて3年経った頃、兵士Bがとある核心に気づいてしまった。
しかも戦場もゲームのFPSみたいな環境すら整っておらず、敵がどこにいるかもどこから撃ってきているかも、距離すら分からないので「よく分からないけれどとりあえず撃っとけ」みたいな混戦ばかり。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
そんな疑問を持っている内は、君はソープへ行くべきではない。
これはソープに限った話ではないが、金を払って一日とかからず済むような事柄に何か特別な知見を得ようとするなら、漠然とした気持ちで行ったところで変わりはしない。
もし、脱童貞などといった程度の目的で行くようなら、そこには本質的には童貞のままの、いわゆる「素人童貞」という非生産みたいな生産が成されるだけだ。
そもそも、「童貞」などというものが概念的でしかないのだから。
2m半はありそうな女性にまるでモノのように犯されたことは以前話したが、あれで私は童貞を卒業したのではなく、“喪失”したのである。
私の友人は酔っ払っている内に人間と寝たらしいが、痕跡がない上に記憶が曖昧なため真偽は不明だ。
だが友人は「あの時オレは男になったのだ」と頑なで、事実がどうあれ彼は“童貞ではなくなった”のである。
学ぶべき教訓は、「事実のみ追い求めると、かえって本質から遠ざかる」ということだ。
まあ、『ソープへ行け』は童貞を卒業するためのものではないのだが。
答えはNOだ。
つまり、そもそも完璧な作品を作れる人間がいるか疑わしいし、作れたとしてそれを正しく知覚できるかも怪しいのだ。
「承認、是非、回す」だ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
それは君の家ではないからだ。
ホテルを運営する者たちは、客にホテルを家だと思って欲しくはないのである。
君が自分の家をどのようにしている人間かなんて分からないからな。
恵方巻だ。
いい質問だ。
そもそも分かろうともしないのだから、当たり前ではあるのだが。
君だって、GPSの気持ちなんて分からないし、分かろうともしないだろう?
もし私の回答に頷くところがないのなら、それは君の周りの人間がGPSだからだ。
本質的には変わらない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例えるなら、『スーサイドスクワッド』のカタナっていうキャラクターかな。
何ヶ月前の映画の話をしているんだ。
いい加減、次のステップに進みたまえ。
理由は聞くな、私はこれ以上のことは答えない。
当たりつきとか、何か報酬を設けたらどうだ?
あと、さすがに絵面が地味だから、編集して派手なエフェクトをつけたほうがいい。
また、『君の名は。』の話か。
次、質問してきたら社会通念上よろしくないが、ギリギリ罰されないことをするからな。
じゃあ答えるが、『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』というアニメを知っているか?
アイルランドの作品で、日本だと2016年に公開されていたから知っている人も多いだろう。
もしも君が知らないというのなら、つまりは“そういうこと”だ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例えば、君が大人になったとき、自主的に行う習い事は役に立つものだろうか。これは半分YESである。なぜなら学校で習う勉学とは違い、その習い事は君が役に立つと思って勉強しているものだからだ。だが、なぜ半分はNOかというと、例えばパソコン検定1級だとしても、それで培われたスキルを使えるような機会がなければ、君が役に立つと思っていてもそれは事実上「役に立っていない」のである。仮に活かせる機会があっても、それがなくなった時点で「役に立たなくなる」。つまり「役に立つもの」とは、それ自体は役に立つかどうかは決まっていないのである。
そして人格が成熟するにつれて、「役に立つ」というものが恣意的かつ限定的な意味合いを多分に含んでいることに気づくのだ。環境、自身の置かれる立場、自分のやりたいこと、という前提のもと「役に立つもの」を決めているのである。側面が変われば役に立つものが変わるのならば、様々な事柄を習う学業がほぼ役に立たない、或いは役に立たなくなるのは必然である。
だが、それを踏まえると、学歴社会というものはある意味で実に分かりやすい。勉強の内容が(活用できるという意味合いで)役立つかどうかはともかく、それに対してどれだけ頑張ったかという大雑把な実績で測られるのだ。本来、限定的かつ恣意的な「役に立つもの」を、より汎用的なものに仕立て上げている。その観点から見れば、学業は役に立っていないにも関わらず、事実上はとても役に立つものなのである。何が役立つか、何を役立てるべきか、何を役立てたいか分からない、意志薄弱で未成熟な人間にとってこれは案外悪いことではない。
というわけで、質問の答えとしては「学校で習う勉強が役に立つかどうかはともかく、悪いようにはしない」といったところだ。もちろん、より限定的かつ恣意的な“役立つもの”の前では霞むが。なので何かを見据えて、自分にとってよりやるべきことがあると信じているのならば、それを最適化するための「役立つもの」を手に入れようとすればいい。もし、そんなものは特に思いつかず、ただ目の前から逃避したいだけでそんなことを言うのなら、ぶつくさ言いながらも勉強したまえ。
なあに、仮にそれらが無駄になってしまっても安心するがいい。側面によって「役立つもの」が変わるのならば、いずれにしろ大多数の人間は培ってきた「役に立つもの」を、実質わずかしか役立てていないことになる。勉学問わずほとんどのものは「役に立たないもの」なのである。
イエス・キリストを殺した罰として、イスラエルの部族の肌を赤くしたのが由来だ。
キリストがアメリカに爆誕したのは有名だが、なぜアメリカにいたかというのもそれが関係している。
当然、信心深い人間は啓示を受けているので、これを知っている人は多いと思うが。
私はクリスマスの予定を体よく誤魔化すためにユダヤ教ではあるが、やはり神というものは地元密着型の方が親近感が沸くのだろうな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
答えはNOだ。
NOだ。
故に5次元に突入し、時をさかのぼって因果律を超越するしかない。
例えば、「好きじゃない。嫌いでもないが」と、「嫌いじゃない。好きでもないが」という文。
ほぼ同じに見えるが、どちらも同じ意味合いを持つとは限らない。
この微妙な匙加減によっても解釈が変わる以上、表面的な意味がほぼ同じであっても変えることは危険が伴うのだ。
個人が勝手に解釈する分には勝手にすればいいが、それが文脈や当事者の主張をミスリードさせた結果そうなるなら悪手といえる。
かといって、悪いのは「要約」そのものじゃない。
「要約」に本質を見出す人間たちと、それを悪用する人間たちさ。
NOだ。
教えに従うことである。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
誤解している。
つまり、性器だから猥褻物というわけではないということである。
髭剃りで陰毛を剃るのは気をつけろ。
いい質問だ。
美味いか不味いかという判断は難しいが、恵方巻が食べ物としてそこまで洗練されていないのは明白だ。
具材が7種と多すぎて、十中八九ごちゃごちゃした味にしかならないからだ。
胡瓜とかだけなら多少の量でも一本食いも可能だろう。
いや、一本食いもやめて、輪切りでいこう。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
答えとしては「好き嫌いの表明は自由だが、尊重されるのはそこまで」といったところだ。
評価されるものというのは、総体的に見て賞賛と批判が表裏一体の存在である。
でなければ、それはそもそも評価に値しない(賞賛も批判もするような代物ではない)。
故にそれが評価に値するという前提が共有されているなら、「賞賛することそのもの」や「批判することそのもの」に是非を問うべきではない。
ここを混同して、意思の表明そのものまで脅かしたり、脅かされたと認識する人も少なからずいるが。
主張の是非について語る上で重要なのは大まかに三つの段階がある。
一つ目は前の回答の「行使」だな。
先ほどもいったが、意志の表明そのものは自由なので是非は問えないが、それをどういった筋道で表明しているかには是非が問える。
ザックリいえば、法的に、道徳的に問題のない、正当な範囲内での手段で意志を表明することだ。
三つ目は「内容」。
例えば正しい筋道で行使された主張であっても、内容の是非は別の話だっていうケースもあるし、主張の内容に妥当性があっても筋道が成っていないというケースもあるということだ。
だが、これら段階を常に一纏めにして解釈する人もいるのだ。
筋道のせいで否定されようが、内容のせいで否定されようが、結果的にはその主張を否定していることに変わりないこともあって、意思表明そのものを脅かされたと混同する人が出てくるわけだな。
当然、前の回答で語ったように意思の表明そのものを脅かすというのは、行使する権利そのものを否定したときであって、その筋道や内容の是非について語ることは可能なのである。
ああ、そうだ。わざわざ言うことでもないかもしれないが、私の答えはあくまで教養を必要としない人向きの答えだから、ちゃんとした答えを手に入れたければ君自身が勉強することだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
そうだなあ、できるかは知らんが、統計学で何とかなるだろう。
統計学的には数%以下の仮説は、ないものとして扱われるからな。
とはいっても、それで棄却された仮説はあくまで統計学的にみてないものとして扱うだけで、認知心理学や社会心理学的な観点から見ればまた変わってくるかもしれないだろうな。
つまりジャンケンで勝つ確率は3分の1ではなくて、2分の1だということだ。
私がヒントだけあげてノリ気じゃないのは調べるのが面倒くさいというのが9割だが、残り1割の理由はズバリだしたとしても、それをちゃんと受け止められる人間がほとんどいなくて割に合わないからだ。
多くの人間にとって、可能性があるものは確率に関わらず必然的に起こるものと同義なのだ。
前にも似たようなことを答えたが、“最悪の事態は肯定された時点で、その人間たちにとって不慮の事故ではなくなる”ということだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
広義的にはYESだし、狭義的には大抵のケースにおいてNOである。
例えば歴史上の人物をモチーフに、現代の価値観に沿ったデザインで表現するとしよう。
これは広義的には歴史上の人物を性愛の対象と見ていることになるが、モチーフにこそなっていてもほぼ別の存在なのだ。
要はラーメンとカップラーメンを同列に扱うかどうかという話だ。
自分の知り合いと、相手の知り合いに同じ名前の人がいることだ。
とある話をしよう。
私の友達は他人の無理解に翻弄され、それを吐き出すかのように暴走した。
しかし、それを死に物狂いで止めようとする私もまた冷静ではなかったのだ。
いずれ、どちらかが身を滅ぼすことは明らかであった。
それでも、暴走した我々が和解するきっかけはそれで十分だった。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
伝わる人にはこれだけで伝わるが、いわゆる“終わりなき日常”だよ。
広義的な意味でのオタクコンテンツは、豊かなライフスタイル(日常)を基盤としているし、その点で日常の肯定がフィクションにも求められたというわけだ。
なぜならそこから離れれば離れるほど憂鬱な現実か、未来への根拠なき夢想に近づくからだ。
つまり表面的に調和しているだけで、それら側面的に見えてくる構造が露呈していないだけだ。
『ど根性ガエルの娘』15話の影響で、色んな人たちの毒親の話が出てきているが、これは当然ながらいきなり出没したわけではなく、元から既存の構造にあったものが露呈したのであって、件の作品はきっかけに過ぎない。
だが、“終わりなき日常”にある優しさや安定といった停滞感の肯定に慣れ親しんだ一部の層はその側面が見えたときに、元から既存の構造にあったにも関わらず大きなショックを受けてしまうのである。
おっと、断っておくが別にこれは日常系の是非を問う話ではなくて、なぜそれらが求められているかという話の一環だからな。
当然、現代でも非日常的エンターテイメントは基本であり花形だし、日常や空気を破壊したり、そういったものを皮肉った側面を持つ作品も多く出ているしな。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
だが、ゴールではない。
何が言いたいかというと、“どういうプログラムか”という認識の話さ。
例えば「婚活」というプラグラムならば、結婚をゴールと定めることは何ら不自然ではない。
だが、「人生」だとか「結婚生活」というプログラムならば、結婚はゴールではないだろう。
「結婚はゴールじゃない」というのは、トラックレースで「まだ周回残っているぞ」みたいな話なのさ。
でもトラックレースなわけではないから、そのあたりで認識の差が生まれるわけだね。
そりゃあ、最終的に走者が決めるべきさ。
でも観客だっているから、望もうが望むまいが多少の声援なり冷やかしはあるだろうね。
とはいっても主役は走者だし、ガヤをいちいち気にしたって仕方がないだろう?
実は私も知らない。
もしかしたら、言っている本人すら知らないのかもしれない。
そもそも存在するのかも怪しいが。
だが、少なくとも“そこ”にはないんだろう。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
なぜなら、「騙す人間」という問題と、「騙されないように注意する」という問題は、因果こそあれ別の問題として捉えたほうがいいからだ。
昔、痴漢とかの話で「露出の多い服を着るのも悪い」とかいう主張があったが、では扇情的ではない姿ならば痴漢をされる可能性がゼロになるかといえばNOだろう?
様々な要因が絡み合う問題に一つだけの原因や是非を求めようとするからおかしなことになるのさ。
つまり「騙すほうが悪い」というのは、「騙されないよう注意する」という側面から見た場合には悪いねという話と解釈すればいい。
騙すほうを擁護しているってわけでも、総体的に見て騙されるほうが悪いってわけでもないさ。
まあ、中には本気でそこに大きな原因を求めたがっている人もいることは否定しないが。
そりゃあ、この世からなくすよう努めてはいるものの、完全にはなくならないであろう事柄はいくらでもあるからな。
そーいうものを「ある」という前提で臨むことは社会で生きていく上で基本の処世術といえる。
例えば人は嘘をつく生き物だし、嘘をつかれる生き物であることも周知だ。
例えば匿名ダイアリーに書かれた話をマジになる人間を迂闊だと評することは、決して不当ではないだろう。
私の質疑応答には嘘と本当を自ずと見分けられるノウハウがつまっているので、ぜひとも参考にしてくれたまえ。
子供たちがサンタクロースからリスクヘッジの重要性を学ぶように、私たちも常に研磨しなければな。
そんなこと私は知らんよ。
最寄のサンタに聞け。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
死後に関しても、祝って構わないんじゃないかな。
なので宴の準備をし、キリストがアメリカに現れた際に盛大に祝った。
なぜアメリカに現れたかは諸説あるが、イスラエルの部族に殺されたというのが有力だろう。
ちなみに、その部族は罰として肌を赤くされ、いわゆるネイティブアメリカンの系譜となった。
なにはともあれ、誕生が特別な意味を持つように、死後も特別な意味を持つ、ということだ。
だから、趣は変えなければならないだろうが、祝いたければ祝って構わないと思うぞ。
あと念のためいっておくが、この回答の内容は私の思いつきではない。