はてなキーワード: 文学青年とは
パソコンの性能が限定されすぎていたがゆえに、無限の可能性を持っているように喧伝されていた時代だから――まあ大昔と言ってかまわないだろう。
俺はまるでチョコレート・バーを待ちわびるガキんちょのようにワクワクしていた。つまり、チョコレート・バーを齧る以外の道楽を知らなかったんだな。
「本名だけは伏せておけ。頭にwwwのつくキチガイ世界では住所と名前と性別と所属とクレカ番号は命と同等の価値を持つ。というか、それらはほとんどイコールで結ばれているといってもいい。だから、ガキども、何があっても自分を殺せ。生き延びたくば、な。ガチョウども」
教官が教練所で俺らを横一列に並べて、まず浴びせたセリフがこれだった。
正直なところ、そん時はまだ匿名でいることの重要性を俺たちはこれっぽっちも了解していなかったのだと思う。むしろ、教練所が『フルメタル・ジャケット』よりよっぽどお上品な事実のほうが驚くに値したし、記憶に残った。
匿名であることの重要性を心から理解しようがしまいが、俺たちはとにかく教官の命令に従った。第一に死にたくなかったし、第二に多少の危険をおかしてでもも俺たちはウェブの世界に居座りたがったからだ。初めてネットにつないで三日後には、もうチョコ・バーは俺にとって必須栄養素ではなくなっていた
ミッチェルが死んだのは、訓練も半ばに差し掛かったころだった。死因は炎上死。イナゴ共に本名を暴かれ住所を暴かれ姉を犯され両親を殺され家を焼かれ、ミッチェルはその中で灰になった。彼は自分から本名をイナゴどもに教えたりなどはしなかった。ただ、うっかり漏らした周辺情報からあらゆるプライバシーを同定されてしまったのだ。
教官はミッチェルの通夜で追悼の辞を述べた。ただ一言、「彼は運が悪かったんだ」と。そのとおりだ、とその場にいた俺たち全員は思った。ミッチェルは彼の「運」を己の力量で上げ下げする術を知らなかっただけだ。
訓練の終盤になると、もう一人残らず真理に到達していた。
「匿名であることが大事なのじゃない。俺たちが本名で活動するにはあまりに未熟だから、バカやってしまうからその自衛策が必要なだけだ」と。日本は未成年のありがちな若気の至りを笑って許してくれるほど、器の大きい社会じゃない。
それはそれでいい。社会ごと変革しようとしなくてもいい。まあ、たしかにいつか頭のイカれた改革者が出てくるかもしれない。だからソレは俺たちの役目じゃない。俺たちにとって重要なのは、そんな美しくも狭量な世界でどのように生き延びていくか、ということだ。
本当は、実名で活動してもいいのだ。住所や銀行口座を晒してもいいのだ。自分が守れるならば。失敗しないなら。仮に何かをやらかして攻撃をうけても、誰の助けも借りずになんとかできるなら。あるいは頼れる誰かがいるならば。逃げ切れるならば。
だが実際問題、俺たちの誰しもがそんな逃げ足がはやいわけでもないし、そもそもミスをおかさないわけでもない。一片のミスをおかさなかったとして、それでも食ってかかってくるキチガイはやはり一定数存在する。
ガキの未熟さの本質はミスの犯しやすさにあるのではない。打たれ弱いところにある。精神的に、あるいは社会における地位的に。そして、イナゴ共が大好物なのはまさにそういう、「やわらかい部分」なのだ。
教官についてある噂を耳にしたことがある。彼の息子はある有名私立大学に通う前途有望な文学青年だったらしいのだが、ふとした気の緩みでテストでカンニングまがいの行為をしたことをウェブで漏らしてしまい、運の悪いことにそれが当人の教授に捕捉されてしまった。
教官の息子はそれでその学期の単位を全部取り消され、自身は恥ずかしさとショックのあまり、大学を中退してしまったらしい。ひきこもりとなった彼が自室で首をくくったのは、それから半年後のことだ。息子の死がきっかけで、教官は若者たちにネットサバイバル術を教え込もうと決意したという。
今でもtwitterのTLを眺めるたびに、教練所を卒業した日のことを思い出す。
「貴様らはこの肥溜めを今日で卒業する! これからも匿名でいくか、それとも本名で生きるか、それは貴様らの自由だ! だが忘れるな! どちらの道を歩むにせよ……不運にあったときのためのリスクヘッジだけはやっておけ。死ぬな。生き延びろ。どんなことがあっても、だ」
興味のあることはいくつかあるけど、熱中できない。極めるということができない。
「趣味は何?」と聞かれるとすごく困る。
例えば、本を読むことは好きだけど、作家の名前もあまり知らないし、深く語れる作品も無い。
文学青年達が熱く語っている内容が全く理解できない。
「趣味は読書」なんて、熱い文学青年から熱い議論をふっかけられそうで、怖くてとても言えない。
そのジャンルについて極めましたよ、何でも僕/私に聞いて下さいよ、と宣言しているようなものだから。
自分にはそんなことを言える知識も覚悟も無い。
だから、オタクをもっと肯定的な意味でとらえるべきだと思うし、
オタクを自称する方々はもっともっと胸を張って欲しいと思う。
ところで、オタクを自称する方々はどのような気持ちでそうしているのでしょうか?
いや、なんだ、その
増田の言うことはわかるんだ
広義に文学を捉えたら、そりゃ、俺にも面白さはわかる。
現代の「文学」観と言うのには興味が持てる
しかし、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」と言うのが文学で学べるかというと、それはないんじゃないかなと思う。
学べたつもりにはなれるので娯楽としては成立するがね。
「異質な他者・異文化との出会い」に触れる経験なら実際に異文化に触れた方が早い。旅行に行ってもいいし、自分と違う階層の友達を作っても良い。
「自分を遥かに超える思想体系」がどう言ったものを指すのかは微妙だが、知りたいなら数学を勉強すればよい。数学以外でも技術や物理でも良い。
「芸術」と言う観点から見れば、音楽、絵画、スポーツほどのインパクトを精神に与えることも難しい。
学べたつもりでいる文学屋は何人も見たことがあるが、一様に狭量で知識にひどい偏りがある。
現実経験の足り無さを言葉を装飾することでごまかすタイプばかりで、重傷のアニメオタクとの違いはせいぜい女性経験の有無くらいだ。
空想が空想だとわかっているだけにアニメオタクの方がマシとも言える。
それと話しが分散するが
「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ
「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える
残念ながら、その全てが出来ていないのが現在の国語という科目だ
知は基礎となる「論理的思考力」とそれを他人に広げる「情報伝達」に支えられているが
「論理的思考力」は数学の領分で国語科に係わる人々はそれが病的なまでに欠けている。
その為に国語科で教えられる内容はその基礎を欠き、うわっつらの印象だけが空回りし、詭弁が跋扈し、授業は思考停止の場に成り下がっている。
一方、「情報伝達」に関してはまさに国語科が担うべき内容であると考えられるが、現実的にはほとんど教えられていない。
論説文を読んで理解するという所で止まっている。
だから国語の授業はもっぱら「他者に正確に情報伝達」を行う技術の習得に集中した方がよいのではないのかと思う。
これですら、多くの文学屋は他分野の専門家に大きく劣るのが現実ではある。
文学屋の論説文は論説文の体裁を為していない
論説の最中で情緒に流され余情な装飾が混じり、語彙力をひけらかしたいのか用語も統一されていない。
概要、前提、議論及び証拠、結論の順で書かないといけないのに
論説文まで起承「転」結で書かれていたりもする。
また、図表記号を用いればよいのにことばのみで表現しようと迂遠な表現になっている。
結果、曖昧で冗長な文章ができあがる。
その上で増田がことばが好きなのだから
(すでに習得済みかも知れないし、これらも文学に含めてみても良いかもしれない)
なんか色々同情するな。
SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人”ブラッドベリや、”哲学者”フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。
…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。
「歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義は正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育の本質的な価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。
再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学の文学部文学科の適当な研究室に電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去の歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観を押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。
その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディアと情報・文化論・芸術論・経済・教育・日本論・近代主義・心理学・倫理学・宗教・歴史学・国民国家・テロ・文明の衝突・ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーなテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄・差別・風景論・都市論・スポーツ・時間論・労働・高齢化社会…etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校の教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説のテーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語(現代文)」の仕事なのだな。
それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語や文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌の編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ。その意味での「文学」教育というのは、メディアリテラシーの教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要な資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。
まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。
どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。
女ががんばって数学勉強して努力すればいいとこに就職できるのは当たり前だよ。
今だってそうやって必死で努力してる女はたくさんいるじゃない。
たくさんいるが男と比べると圧倒的に少ない
もっと理工法経に来いよ
兄がさっさと就職して妹が大学へ、なんてごく一部の例を取り上げて「だから男女の進学に関してもう世間の偏見は一切なくなった」なんて本気で思っているの?
むしろ兄妹間で就学の機会が著しく異なるというパターン自体がごく一部だと思っている。
そう言う地方もまだあるとは思うがね。
差が全く無いって事はないと思うが
同じ会社に入っても露骨に昇進に差がつくのは、女が無能だからだと本気で思っているの?
露骨に女が働かない局面はいくらでも見たことがあるが、それは男にも言える
そもそも自分の会社は極端に女が少ないので何とも言えない
数少ないちゃんと働く女は昇進する。私よりも
公務員になった女はみんな働き者で有能だからだと本気で思っているの?
公務員は働きと給料が一致しないから公務員になった女はみんな働き者で有能だとは思わない。
男も同じ
中央官僚はほとんど男だから何とも言えない。
なぜ勉強しないで
男女差別のせいにするのだ
理解できない
古風な文学青年、というかそろそろ40超えてるのだが、とある明治の文豪をひたすら崇拝し、自らをその後継者と信じ、陳腐としかいいようのない文学論を書き続け、現代の小説を憎むこと甚だしく、というか実のところ戦後の小説はおそらく彼にはほとんど理解不能のようなのだが、ともかく現代社会と文化の堕落を嘆きつつ、でもテレビは大好きで、倉庫のバイトで日々の生活費を稼ぎ、たまに風邪をひくと嗚呼自分も啄木のように肺病で死ぬかもしれん、と布団の中で一人悲愴感をつのらせ、たまに女性から優しい言葉をかけられると彼女は自分と結婚したがっているのだと思い込み、とまあこう書くとかわいらしいのだけど、彼が掲示板やblogに書き続ける妙に意気軒高な文章を読んでいるとまず苦笑が、次いで嫌悪感と恐怖がじんわりとこみあげてきて、というのも彼はおそらく思春期の頃に設定した小さな輪の上をもう数十年ぐるぐると廻り続けていて、その徹底した他者の欠如と無知は動かしがたく、今後よほどの事がない限りその輪の中で彼は老いていくのだろうと考えざるをえないが、それをずっと観察し続けている自分の後ろにも、おそらく同じような陥穽がぽっかりと口を開けているに違いないと思うと、悲鳴をあげたくなるほど、恐ろしい。