はてなキーワード: ハッピーエンドとは
シャニマスことアイドルマスターシャイニーカラーズ*1のコミュ(ゲームのストーリー)のあらすじや見どころをなどを紹介したいと思います。
ネタバレの配慮は特にしていませんがあしからずご了承ください。
283プロの5人組アイドルユニット「放課後クライマックスガールズ」(通称「放クラ」)が出演しているラジオ番組で、数週間後に予定していたゲストが来れなくなり、その穴を埋めるため、プロデューサーは放クラの5人による古典落語「死神」の生朗読劇でその穴を埋めることを企画した。
個人の仕事も増え、同じ場所に集まるのも難しくなっていた放クラの5人は、オンエアの日までオンラインミーティング形式で練習することにした。
オンラインミーティングは忙しい5人を再び繋げてくれた。練習後にお菓子を持ち寄って雑談したり、メンバーが出演する番組を同時視聴したりと楽しい日々を過ごした。
生放送日、放クラが披露した「死神」はSNSでも大きな話題となり、好評を博した。
「死神」において死神役を演じた小宮果穂は、事務所に自分宛てのハガキが届いていることに気づいた。
それは果穂より年下の幼いファンからのハガキで、自分の憧れだった果穂が、死神という悪役を演じたことに対する失望の思いが書かれていた。
放クラのメンバーである園田智代子と有栖川夏葉の2人は、果穂が事務所の近くの公園にいるのに気づいた。
何をしているのかと聞かれ果穂は、猫が花壇でいたずらをしていたので注意しようとしたが、怯えて逃げてしまった。猫を怖がらせてしまった自分は悪者なのだろうか。
死神も、よくない主人公を注意する役だったのに、それが悪いことだと思う人もいて、どうしたらいいのかわからなくなってしまったと言った。
大事な話だと察した智代子と夏葉は、放クラメンバー全員を集めたオンラインミーティングを開催した。
果穂からハガキの内容を聞いた放クラのメンバーは、死神という演目をを演じたのは我々全員であり、果穂だけの問題ではないと伝えた。
凛世は、死神をただの悪役と決めつけることはできない、キラキラした美しい神様ではなく、意地悪で不気味な神様が罰を与えることで、主人公をただの悪者にしないという意味を担っていると語った。
主人公を演じた智代子は、主人公は最後の瞬間、生きよう生きようと考えていたのではないかと言った。
夏葉はハガキをくれた子くらいの年齢では、なかなか理解し難いかもしれないと言った。
果穂は、動画で落語家が演じる死神が魅力的で、演じてみたら皆がたくさん褒めてくれて嬉しかったが、自分を見てくれている人の気持ちまでは、考えることができていなかったと言った。
5人は、もう一度自分たちなりにアレンジした死神をやりたいと思い、プロデューサーの力を借りることにした。
5人が企画したのは、オンラインミーティング形式の視聴者参加型の死神だった。
前半はラジオ版の通りだが、主人公が燃えさしのろうそくに火を継げようとする時は、視聴者に応援してもらい。
最後は火を継ぐのに成功するというハッピーエンドにアレンジした。
それは、何も分からずに死神を演じてしまったことに対する謝罪と、自分たちなりの死神に再挑戦するので観て欲しいということ。
それでも悲しませてしまったら、もっと修行するという内容だった。
283プロのアイドルユニット「放課後クライマックスガールズ」のメンバー。
大人びた容姿と高い身長が特徴の女の子。何にでも興味津々で純粋な様子は、まるで子犬のよう。特撮モノが大好きでヒーローに憧れている。小学6年生。
283プロのアイドルユニット「放課後クライマックスガールズ」のメンバー。
クラスに一人はいるごく普通の女の子。明るく親しみやすい性格で、甘いものが大好き。名前にちなんで、チョコ好きアイドルを売りにしている。高校2年生。
283プロのアイドルユニット「放課後クライマックスガールズ」のメンバー。
ボーイッシュでクールな女の子。言葉遣いが乱暴なので人に怖がられることが多いが、根は純情で、素直になれないタイプ。高校2年生。
283プロのアイドルユニット「放課後クライマックスガールズ」のメンバー。
落ち着いた佇まいの大和撫子。常に礼儀正しく、一歩引いて相手を立てる性格。少女漫画好きという意外な趣味を持つ。高校1年生。
283プロのアイドルユニット「放課後クライマックスガールズ」のメンバー。
裕福な家庭に生まれた社長令嬢。家名に誇りを持ち、自らもその肩書に恥じぬよう日々鍛錬を積んでいる。スタイルがよく、引き締まっている。大学2年生。
・様子のおかしい果穂に気づき、真剣に話を聞く体勢に入る放クラがよかった
・落語に疎い自分は噺を勝手に改変して大丈夫なのかと心配したが、このようなアレンジは一般的に行われていものだと知って安心した
話数 | サブタイトル |
---|---|
オープニング | 入室者 |
第1話 | おしえてやろうか? |
第2話 | 長屋onスクリーン |
第3話 | many skies |
第4話 | 大入御礼 |
第5話 | 夕やけオフライン |
第6話 | わるい神様 |
エンディング | あげサゲ!!!!! |
ぬいぐるみだけど心を持っているキャラが出てくる漫画を教えてください。
心を持った理由としては(職人が)真心こめて丁寧に作ったから的な理由がいいです。
https://booklive.jp/product/index/title_id/20043379/vol_no/001
↑の作品に出てくるぬいぐるみのような、ゆるキャラっぽいゆるさがあって癒しを与える感じのがいいです。
ハッピーエンドがいいですが、途中に映画のテッドみたいに、壊れて動かなくなるみたいなシリアスな要素もあるとそこから助かるという結末も込みで、カタルシスというかなんというかぐっときます(なくてもよい)。そういう漫画あったら教えてください。
少年漫画なら「両想いになりました(エッチできるかはしりません)」
青年漫画なら「エッチや結婚できました(老後どうなるか、熟年離婚するかは知りません。少なくとも相続問題どうなるかは絶対知りません)」
みたいなのしかないだろ。
昔話だと「二人は結ばれて死ぬまで仲良く暮らしましたとさ」って雑でも死の寸前までどうあるかの情報があるのに、漫画にはそれがない。
だから、いくら漫画でハッピーエンドと読むべき文脈、「ほうらハッピーエンドですよ~」って言わんばかりの結末を描写されても「で、その後ちゃんとこいつらは幸せであり続けるの?」って気持ちになって、冷めてしまう。
最近観たドラマで一番面白かったのはDisney+のムービングという韓国ドラマ。
高校生、さわやか、恋愛、超常現象、陰謀と自分が好きな要素がたくさんあったのとハッピーエンドなのが最高だった。
他にもDisney+だと6話くらいで完結するマーベルのドラマ版も大体面白く観れている。
観た作品はワンダヴィジョン、ファルコン&ウィンター・ソルジャー、ロキ1,2、ホークアイ、ムーンナイト、ミズ・マーベル、シークレット・インベージョン、エコー。
他にもNetflixだとコブラ会やストレンジャー・シングスが面白かった。
逆に苦手で途中で諦めたのはゲーム・オブ・スローンズ、ブレイキングバッド、ガンニバルなどの陰湿な人間関係・理不尽な暴力、性暴力、いじめ・暗いストーリーの作品。
上記でマーベルドラマのことを書いたけど元はNetflixで展開していたマーベルは別で、デアデビルはギリ観れたのだけどジェシカジョーンズは途中でやめてしまった。
そんな自分におすすめのドラマが思いつく方がいたら教えてください。契約しているのはDisney+とU-Next。
Netflixは今解約しているけど観たくなったら再契約します。
普通の現代劇、たとえば恋愛ドラマのようなものよりも少年漫画みたいなちょっと世界観がトンデモなのが好きみたい。
「少年漫画ならアニメ見ればいいだろ」という意見が出そうだけど、アニメは前から結構観ていて今は食傷気味になってしまったのであくまでドラマでお願いします。
その後の展開は、ぼっちちゃんが死ぬまでに観ていた走馬灯なのだと思った
しかし、劇場版ではぼっちちゃん精神崩壊エンドは書き換えられ、
ハッピーエンドになるのだと思う
「眠れる惑星」は終盤哲学的な方向に行ってしまいわけがわからなくなったが、途中までは面白かった
放置して登校するも様子がおかしく、やがて自分以外の全ての人が眠りに落ちたまま目覚めないでいることに気づく
パニックになりながら起きてる人を探して街をうろついた末、24時間ファミレスでバイト中に眠りに落ちたJDを発見
すると、そのJDは目覚めた
眠り姫をキスで起こす童話のように、女性をセックスによって目覚めさせられるのだと判明する
JDの知人の研究者も紹介されて睡姦して目覚めさせ、その研究者が試しに理解ありそうな知人らの膣内に、採取した少年の精液を挿入
ハーレムしつつみんなが眠りに落ちた謎に迫るぞ!みたいな話なのだが謎パートは正直よくわからん内容でハッピーエンドとも言い難い微妙な終わり方をする
https://www.famitsu.com/news/202402/20334993.html
「BRIGADOONまりんとメラン」がもうすぐYoutubeで配信されるそうだ
1969年を舞台に、戦争で子を失った老夫婦に拾われ育てられた捨て子の13歳少女と、異世界ブリガドーンからやってきた生体兵器の精神年齢17歳の少年の恋物語である
少年の外見が人間離れしすぎていて(全身青い、手指がなく、右手が剣で左手が銃)、ロリと言える少女とは体格差も大きすぎて、絆は生まれても恋には発展しないだろと思ってたら愛の告白するしキスするしたまげたよ
大塚芳忠といえば声が渋くておっさんを演じることが多いのだが、少年役をしており、容姿は全然少年的ではないのだが、次第にちゃんと「おっさんではなく少年の声」に聞こえてくる
少年の両手の剣と銃は人間でいえば爪のようなものであり、戦闘で切断されても再度生えてくる
戦うために造られた存在でそのことを疑問視したことがなかったが、平和な暮らしの中で自分の肉体が人に畏怖をもたらすものだと少年は悩んだりする
https://img.lashinbang.com/330/202010057330_L.jpg
OP2のイメージ映像の中では、少年が人間のような手指を持つワンカットがある
少年が手を差し向ける向こう側にいる少女は天使をイメージしたように白い翼を生やしている
この二人死んじゃうのかな、死後の世界では少年は望む姿になれてもう戦わなくてもいいのかな、そういう形でしかハッピーエンドを迎えられないのかなと怯えながら見ていた
少女の裸のシーンがわりと多いのだが、Youtubeって児ポ厳しいからそこらへん大丈夫だろうか
ただのガキだった少女が次第に色気を帯びてはいくが、正直あの裸は劣情を誘うものではないからセーフかな
ぼかしたりするのかな
アキ・カウリスマキ監督が引退撤回したのは間違いなく戦争が原因でしょうね
相変わらず優しいほっこりする童話的なハッピーエンドだったけど、戦争だとあのまま二人は死で引き裂かれたりするんだろうな
明らかにアル中な場面を見たのに、距離を取ろうとしたり、上から目線でアドバイスしたり、裁かなかったのが良かった (優しい)
あと、好きだからぜんぶ許すよじゃなくて、『好きだ』と伝えた上で譲れないところは譲らないのと、
『無礼だったのに謝りの電話寄越さないの』って"そこ?!"ってところに怒っていて、気持ちが切れていないのが良かった (優しい)
雑種で名犬っぽくないけどただ寄り添ってパートナーになってくれるイッヌ🐕 (ほっこり。なお作中の犬は監督の愛犬らしい)
見守る人・寄り添うがいても、いろいろ噛み合わなくて結局変われず、想いに応えられなかったり、最悪は裏切る形になるけど、
アキ・カウリスマキ監督が描く男はタフで一途だもんな、君のために決意して変わったぜ !(優しい)
久しぶりの再会のためにもう俺は着ないからって服をくれるおっさん( 優しい) 『お前でもいいって言ってくれる人がいるんだな』 (ほっこり)
いい映画でしたわ
元増田には合わんかったっぽいが、現代社会に対するメッセージを常に投げかける作家なのよね
ひたすら辛い現実をただ見せつけられたり、説教だけされても、ちょっと疲れる
でも、ひたすら無表情でローテーションのコミカルさと『そこ?!』ってなるとぼけたユーモア、童話的でほっこりする優しい人間賛歌のストーリーで楽しませてくれるんだよね
『枯れ葉』と波長があった人は、『ル・アーヴルの靴みがき』も超オススメ。そうはならんじゃろっていう特大ハッピーエンド(でも扱っているテーマは重い)
ハッピーエンド過ぎるのでもう少しビターな方がいい人は『希望のかなた』。いつもの童話的でほっこりする優しい人間賛歌のストーリーだけど、
エンドだけ違う、重たいテーマに沿った結末。この作品を撮った後に疲れたとか絶望したとか言って監督引退しちゃったんだよね(でも復帰した)
ハードボイルドっぽさ(?)が気に入った人は『街のあかり』、孤独な男が女に利用されて刑務所に入り出所するが・・・という話、
いつもの優しい人間賛歌のストーリーだけど、特大ハッピーエンドではなくてほっこりエンド
いやーあの頃はホントまいったよねと冗談めいたフラットな視点で話すように自然となっている気がする。
感動話とか?昔は不幸だったとか?聞いている側を感情移入させたいかっていうと全然そうじゃないんだよね。
むしろ自分が嫌な思い出だったものは相手も嫌かもしれないし、それを追体験させるつもりなんてさらさらないし。
あったことはあったことで不幸でも、なんつーか過去は過去の出来事として現在とは切り離して言葉にしたい。
みたいな。
「はあ…俺、疲れちゃったよ…俺なんてダメダメなんだ…やっぱり昔がああだったから…元々ろくでなしだから…鬱だ…」
って語り始めるイケメン貴公子を見て可哀想なんてほとんど思わなくて(うっへえ)と思っちゃうんだね。
悲劇のヒロインを演じるなっていう厳しい言葉があるけどそれは演じているかどうかは本人にしか分からないのだからちげーなと思うんだけど。
でも感動モノって結構そういうやつを真っ向からやる傾向が強い気がするんだよ。泣きながら辛い話をする、それに寄り添う、いい感じになる、ハッピーエンドだね。
よくやれるな~って感心しちゃうよ。
あと怒りながら怒った時の話をする人もやだな。疲れちゃうから。
そんな私はコメディが好きなんだよ。
青年向け漫画の編集者をしていた。といっても若い頃の話だ。都内にある編集プロダクションを辞めて田舎に帰ったのが36の時だから、おじさんの入り口に立った頃か。今では完全なるおじさんである。
働いていた会社というのは、講談社とか小学館とか秋田書店とか、そういう大手出版社ではない。あくまで編集プロダクションである。出版社と編プロがどう違うのかって……ざっくり言うと元請けと下請けだ。出版社が出版事業(今回だと青少年向けの漫画作りや商業展開)の企画をして、漫画家が作品そのものを作って、編プロは雑誌本体を作って、その制作過程で印刷所やデザイン事務所といった専門集団と関係することになる。
イマイチな説明になってしまった。一般社会の例で説明する。民法でいうところの委託(準委任契約)に当たる。公共建築の分野でいうと、公共機関の建築技師が新しい建築物のマンガ絵を作り、建築事務所が基本設計~詳細(実施)設計をして、出てきた成果物を元に大手建設会社が施工監理し、地元にある中小事業者が実際の土木建築作業をする。
自分が勤めていたのは、この例でいうところの建築事務所だ。受益者(国民=漫画読者)の希望に応えたい組織があって、そこから依頼を受けて動いている関係会社のひとつ。そういうアナロジーだ。
出版社との役割分担は、そこまで分離しているわけでもない。漫画編集者といえば、昔の手塚治虫ほかの自伝みたいに、漫画家とアツいやり取りをしているイメージがある。ああいう、企画経営と制作現場の間にあるような仕事は、出版社の社員が直接することもあれば、編プロが出版社(編集部)のオフィスを間借りして行うこともある。
前者の例だと、マガジン、サンデー、チャンピオンなどだ。コンビニや書店にほぼ必ず置いてあるレベルの漫画誌。大手出版社に総合職コースで入社した人が、(編集、取材、制作、資材、宣伝、マーケティング、総務経理人事その他事務)といった多くの部門のひとつである漫画編集部に割り振られて其処に居る。
後者の例だと、大手出版社が出している漫画誌でも、あなたが聞いたことのないやつもけっこうあると思う。そういうのは、編プロが出版社(編集部)の仕事を丸ごと請けて実施していることが多い。自分は、そういう会社で働いていた。職場自体は大手出版社の中にあるが、いわゆる委託先の社員だった。別の言い方をすると、親雑誌に対する子雑誌の関係。
ほかの長文増田の記事を見るに、あまりたくさん書けない仕様のようである。何文字までかは知らないが、文字数制限があると思う。本当は何万字でも書きたいのだが、あくまで自分が書きたいだけであって、あなたが読みたいとは限らない。一万字以内になるよう心掛ける。以下に、自分が関わった漫画家を2人だけ紹介しよう。最後に所感を述べて終わりにする。
その2人(A先生とB先生。どちらも若手)と私は、分水嶺のような関係(追記;わかりにくい表現ですいません。ブクマカのBuchicatさんのコメントのとおりです)だった。ある日、私が担当していた漫画家のA先生が新作の企画提案に来ていて、同じタイミングで別の編集者のところに持ち込みをしたのがB先生だった。その別の編集者が不得手なジャンルだったこともあり、A先生との話が終わった後で、私も一緒にB先生の作品を読んだ。
その後、編集部の責任者を交えた会議で、私が引き続きA先生の新作の担当者に決まった。新人であるB先生の担当になる可能性もあったが、そうならなかったのは、今の漫画界の一界隈にとって幸運なことだった。
A先生は、雰囲気が暗めだった。人間性まで暗いというわけではなく、心を開くと明け透けになるタイプだった。モードに入ると饒舌になる。
弊誌では、読み切りを何度か掲載したことがあった。アシスタント経験あり。小さい賞を取ったことがある。ヒット作はないが、若き漫画家としてはキャリアがあった。
画力が抜群だった。小学校や中学校で、学習ノートにフシギダネの絵とかをソラでゲームパッケージそのまんまに描く子がいただろう。とにかく天賦の才を持っていた。最小限の画量で、それでいて迫力と感情に溢れた1枚1枚を描く。そういう人だった。
難点は、マジメすぎるところか。少し前にやっていたアニメだと、チェンソーマンに登場するアキくんか(少し前……?)。とにかくマジメだった。いや、やはり『直向き』に訂正する。
A先生は、少年誌に見合わない重たいテーマに挑むことがあった。今でもそうだ。彼のマンガには『緩さ』がない。それもいいところなのだが。私は好きだった。はっきりいって。が、読者の傾向に合っているかは微妙だった。
子どもの頃から漫画が好きだったらしい。中学生の頃のイラストを見せてもらうと、俄然キャラクターへの愛に溢れる作画を見ることができた。中学生らしい、プロには程遠いクオリティなのだが、しかし見ていて違和感がないというか、自然にくっきり入ってくる。
私という人間は、具体例で物事を説明する癖がある。上の「中学生らしいイラスト」を別の事例で表現すると……「うるせ~!!知らね~!!FINALFANT ASY」(短縮URL:https://x.gd/L5cc4)だろうか。以前、いつぞやかのid=pptppc2さんのブックマークコメントがきっかけで元ネタを知ることになった。
あの時のA先生のイラストは、ベルセルクのセルピコだったと思うが、力強い表現だったのを覚えている。セルピコがファルネーゼを抱きかかえて、
「申し訳ありません 道案内を頼まれまして 少し席を外していましたもので」
と言うシーンの模写だった。
さて、そんなA先生だったが、ある時これまた重量級のテーマで描きたいものがあるという。先ほどの、編集部での新企画提案の話だ。
その際、A先生からプロットをもらい、私のデスクで拝見させてもらったところ……うちの雑誌では持て余しそうだった。作品の質が低ければ普通に打ち切りになりそうで、作品の質が高くても――弊誌の売上規模だと会社グループ全体の機会損失になりそうだった。私の前でパイプ椅子にかけているA先生は、不安げな面持ちだった。
内部の話で悪いが、例えば「甲」という雑誌の亜流の「乙」という雑誌があるとする。ビッグコミック(オリジナル、スピリッツ、スペリオール)みたいな感じだ。この時、甲と乙に明確な上下関係があった場合、乙誌に掲載された漫画が甲誌に引き抜かれることがある。その際、甲誌の編集部から言われるのが、
「なぜうちの編集部に見せなかった?」
という意見だ。これは、ストレートに言われる場合もあれば、暗に言われる場合もある。だが、事前に上流の雑誌に見せていたとして、多くの場合は玉虫色の返事があるだけだったりする。
話を戻そう。この時の自分は、編集部の自分のデスクのあたりでA先生の次回作を見せてもらっている。確か缶コーヒーを飲んでいた。
自分としては、A先生のマンガを弊誌に載せたいと思っていたが、先ほど述べたとおり、後ろ髪を引かれる思いもあった。社会派の少年漫画というのは扱いが難しい。その作品が「あしたのジョー」の影響を受けているのは明白だった。「A先生であれば、きっと面白い作品にしてくれるのだろうな」という期待はあった。
うーん、大いに悩むところだ。どうしよう。思いあぐねていたところで、別の編集者から声がかかった。要約するとこんなところか。
「持ち込みに来た人がいる。私の専門じゃないので判断が難しい。門前払いにするレベルではないので、あなたの判断を仰ぎたい。上の人間は今出かけている」
要するに、自分の専門外なので判断できないよ、と言っている。ここも会社なので、編集者の上には当然上司がいる。その人達がいなければ同輩に相談するのが基本だ(余談だが私は後輩だった)。こういう原則は一般の会社と変わらない。
その『別の編集者』というのは、儚い感じの純文系が得意なタイプだった。一番わかりやすい喩えは……『はちみつとクローバー』みたいなやつだ。ああいうのが得意な人だった。
その時は、A先生との話が終わったら行くと告げた。それで、しばらくそのまま話を続けた。
「この作品はいい意味で重たいね。ちょっと考える時間がほしい」
と言って、その日は解散した。A先生は、「お願いします!」と言ってパイプ椅子を立ち、そのまま帰っていった。いつもだったら喫茶店でご飯をおごっている。
A先生は、『いい子』だった。あまり感情は出さないけれど、人間に対する愛を持っている。そういう子だった。私が当時、A先生にご飯を奢って、彼がおいしそうな表情で食べている時、私は幸せだった。A先生が幸福だと、自分も幸福だと思えた。A先生が漫画という手段で自らを表現している時、まるで自分もそれに劣らぬような喜びを得ていた。
ヘンな表現かもしれないが、例えば読者がA先生を褒めている時、自分とA先生との区別がなくなっているというか。彼のことが、自分のことみたいに嬉しかった。これは愛なのだろうか。
持ち込み部屋に行くと、別の編集者と、持ち込みに来た子が対面で座っていた(ちょこんと挨拶をしてくれた)。自分が座る席には作品が置いてあった。綴じられていない原稿用紙がある。ページ数にして30枚ほどだった。もっと多かったかもしれない。記憶があやしい。
実際、B先生の作品は面白かった。コテコテの学園ものかと思いきや、登場人物それぞれに適度な制約があって、キャラクターも立っていた。これまでのキャリアを聞き取ったところ、作品が雑誌に掲載されたことがあるようだ。アシスタント経験もある。
絵の方は、自分がこういうのも大変失礼だが、上手な方ではなかった。どちらかというと、脚本や設定、キャラ作りが得手のように映った。当人が情熱を注いでいる箇所はすぐにわかる。キャラ絵が有名漫画家の影響を受けているとか、キャラクターの台詞回しがハリウッド映画風とか、背景や小物を手を抜くことなく全部描いているとか、そんな具合に。
光るものがある作家だった。これを見抜けないようなのはモグリ――そんなレベルで輝いていた。
私は作品を読み終えた後で、「ちょっと待ってね」と自席に戻り、少し残っていた缶コーヒーを飲み干して、思案を重ねつつ持ち込み部屋に戻った(どうするのが最良かわからないケースだった……)。
それで、テーブルではこういうやりとりをした。
私「イイ作品だと思います。特に、セリフ回しにセンスを感じます。掲載ができるとかここでは言えないけど、話は通してみますね」
B「ありがとうございます」
私「それで、担当はね……縁なので。あなたがするのがいいのでは?」
編「私よりもほかの人がいいと思います。もっと才能を引き出せる人が……」※小さい声で
私「いや、でも恋愛描いてるよ。エンタメだけどいいんじゃない」(こいつ、作家の前でアホなこと抜かしよって)
編「難しいです」
私「でもこれ、縁だよ」(意識が低すぎる……)
編「ほかの作家さんも抱えてるので。いっぱいいっぱいです」
私「わかりました」(トラブル回避のため後で編集長に説明しとこう)
B「すいません。僕の作品はどうなるんですか?」
私「後日連絡しますね。必ずしますから、それまでは他誌への持ち込みは待っていただけますか」
B「あの、はい。できればですが、早めでお願いします。一週間くらいでなんとかなりますか」
私「なんとかしてみます」
作品そのものと、作家プロフィールと、付属資料のコピーを取らせてもらって、彼には外で缶コーヒーを奢った。ビルの入り口まで送ったところまではいい気分だったが、正直、身に余る事態だった。
持ち込み作家の才能がありすぎるのも考えものだ。嬉しい悲鳴というやつ。誰が担当に付くかで今後の雑誌の売り上げに影響がある。重大な意思決定ということになる。
最悪、『進撃の巨人』の時みたいに優れた作家を逃してしまう可能性がある。あれも、実際は諌山先生は門前払いではなく、週刊少年ジャンプの担当が付くか付かないかの微妙なラインだったらしい。それで、誰が担当になるかを押し付けあっている間に諌山先生が他雑誌に持ち込んでしまった、という話が業界団体の公的な飲み会で囁かれていた。
B先生についてだが、一週間後に担当編集が決まった。「別の編集者」でもなく私でもない。当時、若手のひとりだった20代の子が任されることになった。編集部のトップを交えてB先生の原稿のコピーを読んだのだが、「若い感性が光る。年齢が同じくらいの人と組ませる方がいいのでは?」という結論になった。
その20代の子は、上の組織からこっちに出向してきている子で、いわば武者修行の身だった。一流大学出で、本社のプロパー社員。いわゆる総合職である。
最初は、私に選択権があった。B先生の担当になる道もあった。だが当時の私は多忙であり、月に何度も会社に寝泊まりするレベルだった。新人は抱えるべきではない。しかし、才能のある子だから迷いがある。
A先生のこともあった。彼のあの作品を世に出してやりたい。もっと有名にしてあげたい。そんな想いがあった。
私が悩んでいるうちに、例の20代の子が手を挙げたのだ。私としても、彼のやる気と知性と直向きさは買っている。諸手を上げて賛成した。
今思えば、正しい選択だった。もし私がB先生の担当になっていたら、面白い恋愛エンタメを楽しめる読者の数は減っていただろう。これでよかったのだ。
以後のB先生は、例の持込漫画のブラッシュアップを続けた。翌年には、晴れて弊誌に第一話が掲載されることになった。さらに以後は、担当編集とともに二人三脚で躍進を続け、イケイケドンドンの勢いを保ったまま、一度も息切れすることなくスターダムに上り詰めた。今では漫画家として世に知られている。
上で挙げたA先生の意欲作は、読者層に合っていなかった。それでも、高い画力とシナリオ構成の上手さがあったのだろう。その意欲作は、連載期間を積み重ねる度にファンの数が増えていった(業界的には、Amazonの第一巻のレビュー数が人気の代替変数になることが知られている)。
今では、A先生は親雑誌で連載を勝ち取るまでになった。去年だったか。彼の作品をコンビニで立ち読みする機会があったのだが、やはり突き抜けた画力だった。週刊連載であそこまでの画力というのはまずない。
2024年現在、私は東京を離れて田舎で暮らしている。地元の町役場にUターン就職して、実家の農業を手伝いながらスローライフに近い生活を送っている。
実は、編集者だった当時、働きすぎて病気になった。ある日、下腹部の辺りに違和感を覚えて、血の塊のようなものが血管を這っている感覚があった。病院に行くと、「遅くても明日中に入院しなさい」という医者からの指導があった。
それなりに重い病気にかかってしまった。一応は死亡リスクもある。数か月ほど入院した後、どうしようかと考えて、考えて、考えて……編集部に復帰後は、労働を最小限にしつつ転職活動をスタートした。
A先生については、幸いだった。彼の意欲作とは最終回まで付き合うことができた。私が退院した後、無事完結を迎えることができた。あしたのジョーに比べればハッピーエンドだった。
入院中に、A先生とB先生がお見舞いに来てくれたのを覚えている。ほかの編集仲間も来てくれた。A先生は、テンションが低めで、何を考えているのかわからないこともあるのだが、人間への基本的な愛というか、思いやりがある人だった。
もう40才を過ぎている。はてなユーザーの中では平均的な年齢か。思えば齢を重ねたものだが、当時の日々は今でも夢の中に出てくる。
若い頃から編集者をやってきた。身体を壊さなければ続けていたのかというと、多分そうだろう。でも、今の生活も悪くないと感じている。自分語りはここまでにして、締めにしよう。
もしあなたが、Webでも紙媒体でもいい。気になる漫画作品を見つけたとする。面白いものを見つけたと感じたら、ひとまず買ってみるのがいい。Webだと1話単位で売っている。
ひとかどの漫画家というのは、自らが産み出すモノを本気で高めにいっている。あなたのフィーリングが合ったのなら、ひとまず1巻だけでも読んでみる方がQOLが高まると思う。ハズレを引くことはあるだろうが、アタリだってちゃんとある。人生は運試しである。
こういう事を言う時、自分がやられた側だったという設定を持ち出すと有利なことを俺は知っている。
だが俺は今回その裏技を使わない。
それをやってしまうと「本当にコイツが被害者だったのか確かめようぜ!」という方向に躍起になる奴らで溢れてしまうのも知っているから。
最初に言っておくが、俺が語れるのは俺のうろ覚えの光景だけだ。
当時のことなんて俺はもう正確に覚えてないし、グーグルもまともに引っかからない。
ジオシティーズやニフティのブログは消えていき、2chの過去ログも闇の彼方だ。
俺が物心つく頃には粗悪な中国製品を笑う文化が日本には根付いていた。
中国製=安物というイメージがあり、その一種として偽ブランド商品(SONY→SOMYとか)から発展した中国パクリ文化というイメージがあった。
日本と中韓の関係がどこらへんから悪化したのかはよく覚えてないが慰安婦問題とかでいよいよヒートアップしたように思う。
嫌韓流というどストレートな名前の漫画が発売された時期が2005年だったので、この少し前が嫌韓の加速下敷きであり、ここから5年ぐらいして下火になったはずだ。
当時の嫌韓がどんなものかといえば、主に「日本経済の深部に潜んだ日系韓国人が特権階級として利権を享受しているので倒そう」「韓国人は生活保護を不正受給している寄生虫だ」「韓国が日本のパクリで金儲けしていてズルい」「韓国人はキムチ臭い。あとウンコを食う」「韓国国内では日本を叩くのがブームだ」辺りが盛んに言われていたと思う。
2ch発祥のニダー<ヽ`∀´>というモナーのエラを張らせて目を尖らせたキャラクターが韓国人ステレオタイプの擬人化として作られ、このキャラクターに韓国にとって不名誉な発言をさせることがネットで大ブームとなっていたことを記憶している。
最初のうち嫌韓ブームは単なる外国人いじりだったが、それが段々と日本の国益を脅かす隣国との聖戦へと変化していった。
氷河期の影響で日本中が冷え込んでいたこともあり、不安に駆られたネット住民の何割かは「真実の悪」を求めて聖戦士としてネトウヨへ傾いていくのだった。
その当時のネットにおける韓国人へのヘイト行為は尋常ではなく、とにかく韓国人が日本人を嫌っているという扱いをされていて、そしてそのブームはテレビへも波及していった。
普通のおっさんがテレビで日本VS韓国のサッカーや野球の試合を見て、韓国人選手が卑怯な反則をしてくるんじゃないかと目を光らせ、怪しい動きがある度に韓国人の卑劣さを悪し様にあげつらうのだ。
そして韓国が負けた瞬間に、強豪国に勝ったかのような歓声がスポーツバーを包むのだ。
宿命のライバルではなく、倒すべき仇敵として韓国を扱う動きは日本中に広がり、政治家の中にも韓国へのヘイト感情を利用するものが出てきていた。
広がりまくった嫌韓のブームだったが、段々とその活性度は落ちていく。
韓国と日本の国交が正常化されたとか、日本人がまともになったとかではなく、他の興味対象が出てきただけだ。
2chで種火が産まれニコニコ動画で爆発した淫夢ブームと、なんJにおける超巨大ネットリンチ派閥 恒心教が、嫌韓ブームの中で暴れ回っていた暴徒たちを分散させた。
アメリカ発祥のポリコレブームにより人種を批判することは難しくなったことで嫌韓の勢いは衰えていったが、同性愛者を笑っているのではなく演技の下手さを楽しんでいるだけだという理論で淫夢は伸びていった。
同性愛者のアナルセックスをクソまみれと指さして笑うだけでは我慢できなかった者達は、より激しいリンチを求めて恒心教に入り、特定個人に脅迫状を送り付けたり、大声でウンチを漏らしているというキャラクターをつけて動画を作成したりしていた。
より安全で、よりホットで、より刺激的なコンテンツを求めているだけだ。
登場人物が小中学生なら「イジメよりも普通にサッカーしたりゲームするほうが楽しいぜ!」はハッピーエンドなんだろう。
でもいい年こいた大人なら「自分が楽しいかどうかばかりを軸にして考えるのは社会の構成員としての態度として正しくない」に辿り着けなきゃバッドエンドだ。
元嫌韓の者達の多くは、単にもっと楽しいものが見つかったから嫌韓を下りただけだ。
今でも反ワクで暴れている人、パルワールドを楽しく遊んでいる人、誰かのトレパクを見つけて笑っている人、AI絵師と崇められるのに夢中の人、色んな道に進んだが、多くの元嫌韓が「今自分が楽しめるか」ばかり考えて「その結果として他人が迷惑を被るか」なんて全然頭にないままだよ。
せめて「まだ時効と決めつけるには早いし、変なこと口走らないで黙っておこうかな」ぐらいの頭は働かせられるならいいけど、それさえ出来ないなら、もうネットに書き込むべきじゃないと思う。
過去の罪が突然飛んできて「貴方はこのときこんなことをしてましたよね?じゃあ弁護士に相談します」って言われないとも限らないんだぞ?
想像力を働かせてくれ。
他人の痛みを理解するだけの想像力をいきなり働かせるが難しいなら、せめて自分が訴えられないで暮らし続けるにはどうすればいいのかぐらいは考えて動いてくれ。
少しずつ頭使っていけば段々マシになるはずだから。
なんかのマンガで、原作の舞台化についての難しさ、みたいなのを絡めた話があった
マチネとソワレだったかな、推しの子だったかな、ちょっとこのマンガで読んだってのははっきり思い出せないけど
原作に忠実だと舞台で映えないからアレンジする、原作者としてはまるで別物に変えられて納得できない、脚本家は最大限に作家の意図を組もうと手を入れる、原作者はそれでも納得いかず自分でシナリオを書くと言い出す、と
最終的には原作者と脚本家がタッグを組む形で、良い作品を作りたい!と最高の舞台が出来上がる…というストーリーでハッピーエンドだった
今回の件でこのマンガを思い出した
マンガはどちらかというと舞台に関わる側つまり脚本家含め舞台興行側を主観点で、原作を舞台化するための苦労みたいな観点がより描かれている、と思う
今回の原作者の件を聞いた時にはああ…となった
宮崎駿は原作からかけ離れたアニメを作ることで有名だが、高畑勲はもっと恐ろしい。
高畑勲は原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメの解釈で原作を読んでしまう。
『火垂るの墓』の原作は野坂昭如という作家の自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造の原作になっている。
清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後に小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビのレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。
野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。
高畑勲のアニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。
高畑勲は原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。
アニメでは子供時代と大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代が存在しない。
アニメ版の子供時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想の世界の可愛らしい少女漫画のキャラクターを残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロで田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。
ジブリの経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。
それは『かぐや姫の物語』というタイトル。教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。
竹取の翁の物語はタイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点で物語が語られる。
一方かぐや姫の物語はストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象が かぐや姫になるように作られている。
『ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」から「かぐや姫が社会に翻弄される話」にすり替えている。
あまりに見事なテーマのすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画の評価はイマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。
しかし水木しげるが妖怪のイメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーがヨーロッパの民話をアニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫の解釈は高畑解釈で上書きされるだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Piece_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)
『砂時計』のドラマ化・映画化は完結してからだけど、『Piece』はドラマ化時も連載中でまだ8巻までしか出ていなかった。この点『セクシー田中さん』のケースとかぶる。この時はどう決着がつけられていたのか。
漫画の最終巻の感想はハッピーエンドではない分、賛否がうずまいている。
https://bookpass.auone.jp/titles/LT000012539000316246/reviews
■『砂時計』の部数推移