はてなキーワード: 星新一とは
よくある話の言い換えだけど、持論。
100.1にしようと思ってる。
複利計算で、1年やり続けると、えらいことになってる。
単純計算は誰かがやってくれるとして、ま、いうても
でも0.1を得ようとして頑張ったら突然確変で1とか10とか
得られちゃう時もある。
そんな風にやって5年はたったかな。
たぶん、5年前時点での100から考えれば
軽く1000はいってる気がする。
ーーーーーーーーーーーーーーー
私から見ると、私が直接関わってる人たち、テレビでみる人たちは現状維持が大好きだ。
既得権益の確保だの、今で満足だの考えでそうしているんだろう。
みんな、変化は好きじゃないんだろうか?
改革は好きじゃないんだろうか?
「結局、数年経ってふりかえると郵政は何も変わっていない」と。
「すごい幸運を手に入れる何かを行ったのに、なにも起きなかった。
本来だったらものすごい不幸が起きてることが起きてないことが
改革して、変化してなかったら現状にない悪化をしていた未来があったかもしれない。
変化したからこその現状維持かもしれない。って考えたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
現状維持の人たちは、変化を受け入れた結果の最悪の状況、
招くこともあるだろう。
批判し否定し、本件とは関係ない過去の失敗などを持ちだしたり、
重箱の隅をつついてご破算を狙う。
現状維持派は、よく言って今日0.0になるように頑張っている。
それは宝くじに期待するという0.00001がんばっているといえるが。
そんなにがんばらなくていい。
昨日より安定して0.1だけ頑張る。
言い換えると現状維持を認めない気持ち。
ってやってたら、数年後振り返ってみたら
あれれれれ。って思える。
今思ってるから。
前から、ここに書きこみたいって思ってた。
初めて日記書いた。それで+0.1。
bygones kaztc
終わりがいつかわからない時点で、いつが折り返しなのか不明なんだけど、何度か火葬場で骨を拾ってみた経験から思ったことを書いてみます。
朱印帳とか愛用のカバンとか棺にいれてあげたけども、最後は手ぶら。
車があろうと、本が山のようにあろうと、ゲームが積んであろうと、服がたくさんあろうとも、持っていけないよ。
お金があったら安心かもしれないけど、死んだ人のお金を残った人で分けているってことは、今持っているお金はこの世のものなんだろう。
これまではいろいろと買ったり貯めたりする人生だったけど、これからはいつか死ぬ日に向かってものを手放していく人生だ。
大好きな服は、体型がスマートなときに着たいし、素敵なガジェットも旬のうちに使い切りたい。
読みたい本は、読みたいときに読む。
一番大好きなものに気持ちを注いで、だんだんと身軽になっていければ、いいんだろうな。
自分がこの世に生まれてきたのは何のためか。
星新一的なストーリーだとこの世界を生きることは全然別の世界からのバーチャル観光旅行だったりするのかもしれない。
そんなぶっ飛んだことを考えても空想しても仕方がないので、やなせたかしさんが作詞したアンパンマンのマーチの歌詞を噛み締めながら、「自分がこの世に生まれてきたのは何のためか。」を考えていこうと思う。
秀逸なプロットだったので星新一・筒井康隆っぽくショートショートにしてみた。元スレ見てからでも後から見てもおっけー。(一部設定変更)
「笑顔が素敵ね」
子どもの頃からよく言われていた。私がとびきり明るい性格だったわけではない。両親ががよく笑う人だった。両親の笑顔を見ると、私も幸せな気分だった。その幸せな気分に釣られて、私もよく笑っていたのかもしれない。
小学校から大学まで、学生時代は友人関係で悩むことはなかった。特別モテたわけでもないが、一応彼女と呼べる人もいた。就職活動も、社会情勢的には厳しい時期だったが、そこそこの企業に就職できた。
就職して、大学時代から付き合っていた智子と結婚した。就職して5年が経った頃、母親が亡くなった。乳がんだった。その半年後、父親も後を追うように旅立った。普段は亭主関白だったくせに、寂しがり屋だったのだろうか。私は悲しんだ。とても悲しんだ。そんな時も、いつもそばにいて優しく微笑みかけてくれたのは、智子だった。
しかし悪いことは重なるもので、ちょうど両親を亡くした頃、会社の業績が悪くなっていた。喪に服す暇もなく、仕事に忙殺される毎日。楽しいとか哀しいとか、そんな感情すら忘れてしまった。
もう日付も変わろうかという時間に晩ご飯を共に食べていた智子が心配そうに私に言う。
「最近忙しいみたいだけど、ちょっと休んだら?ここのところずっと、厳しい顔してるわよ。」
営業先に出向く前に、自分の財布が空っぽなのに気付いた。適当に車を走らせ、最初に見つけた銀行に入った。ATMを操作して出金しようとするも、全く動作しない。自分の口座が対応してない銀行なのかと思い銀行名を確認した。「笑顔銀行」と書いてあった。
とにかくATMが使えないでは話にならないので、行員を呼びつけた。
「お客様、当行のご利用は初めてでしょうか?当行はお金ではなく、笑顔の貯蓄を承っております。」
そういうと行員は、私に通帳とカードを渡してきた。中を開くと幾許かの残額があった。仕事のしすぎでついに狂ってしまったかと思ったが、毒を食らわば皿まで、とりあえずその口座から少しだけ下ろしてみた。
「ただいまー。」
「お帰りなさい、あなた。…あら、どうしたの?何か良いことでもあった?」
「え?別にそんなことないけど…。」
「ほんとに?ならどうしてそんなに嬉しそうな顔してるの?」
俺は智子に笑顔を向けることができた。
どうやら笑顔銀行は本物らしい。今までどう頑張っても笑えなかったのに、笑顔銀行で笑顔をおろしたら智子に笑顔を向けられた。
私は智子を愛していた。智子は私がどんなに硬い表情であっても、常に優しい笑顔だった。私は心苦しかった。そんな智子に微笑み返すことができない自分が、情けなくて悔しかった。
だから、笑顔銀行を見つけた日から毎日、少額ずつ笑顔銀行から笑顔をおろした。相変わらず仕事は楽になりそうもなかったが、帰宅が遅くなっても必ず待っている智子のために、せめて笑顔くらいはお土産にしたかった。
しかし、ついに笑顔銀行の残高が0になる日がきた。もう、笑顔を浮かべることはできなくなってしまった。
「智子…。本当にすまない…。いつまでもこんな生活で…。でもお前は、これまでずっと俺のために遅くまで起きて、飯作って、家事もしてくれて…。本当に感謝してる。ありがとう。」
私は泣いていた。本当は笑顔で伝えたかった。けど、今の自分に笑顔の残高はない。微笑むことができない。だからこれが、自分の精一杯だった。
「そんなこと気にしないで!あなたが頑張ってるの、私よーく知ってるわ。」
笑顔で返す智子も、ほんのりと涙を流していた。
長い間の努力も実ってか、会社もようやく持ち直してきた。ほとんど休みなく働いていた私は、有給を取って智子とデートをした。
「あ、プリクラだー。ねえねえ、久々に撮りましょうよー。」
「えー、嫌だよ学生じゃあるまいし…。」
私の言葉が耳に入らなかったのか、いつの間にか撮影ボックスの中にいた。もう何年ぶりかにプリクラを撮り終え、印刷された写真を見て気付いた。
「俺、笑ってる…。」
智子を待たせて、走って銀行へ向かった。残高が0になって以来、笑顔銀行には来ていなかった。久しぶりに記帳して驚いた。残高がかなりの高額になっていたのだ。
「す、すいません。なんでこんなにたくさん入ってるんですか?確かに前は0だったのに…。」
行員はにっこりと微笑み、
と問いかけてくる。智子の顔が浮かんだ。
「当行では、お客様が笑顔を向けた分だけ残高は減り、笑顔を向けられた分だけ増額いたします。きっと、奥様が貯蓄なさったのですね。」
僕が雪村に出会ったのは、大学の研究室の新入生歓迎会のときのことで、そのとき歓迎する側にいたのが僕で、歓迎される側にいたのがいっこ下の雪村だった。
彼女は、長くきれいな黒髪の落ち着いた女の子で、お嬢様という感じではないが、どこか品のある立ち居をしていた。
僕は彼女とは別のテーブルにつくことになり、でも彼女のことが気になったのでたまにそちらの方へ目をやったりしていたのだけれど、ちゃんと正面に座って話す機会は、ひとつ上の先輩がくれた。
「真田くん、ちょっとこっち来てよ」と先輩が僕を手招いて呼んだ。「この子エーティーフィールド張ってて、俺ひとりじゃキビシイよ」
それで僕は、彼女の向かいに座って話をした。雪村は聡明で、控えめで、微笑みながら人の話にうなずき続けることができるタイプの女性だった。
でも僕は自分のことが話したいわけではなくて、彼女のことが聞きたかった。僕はゆっくりと、何か自分と合うような話題がないかと探した。彼女の趣味は読書で、好きな作家は恩田陸(←「ああ、あのガチホモミステリの……」)。よく読むのは講談社ノベルス(←今にして思えば恩田陸は講談社ノベルスとあんまり関係ない気がする)。映画も好きで、好きな監督はスタンリー・キューブリック(←『バリー・リンドン』)とピーター・ジャクソン(←『乙女の祈り』)。ピクサーとジブリも好き。好きな漫画は『夢幻紳士』『百鬼夜行抄』『うしおととら』『タブロウ・ゲート』……。まともにやったゲームは『ファイナルファンタジーX』くらいで、時間のカウンタが止まるまでやって(←大学受験が終わってから暇だったようだ)、「全てを越えし者」を倒すところまではいったとか。あと何かのレースゲームは前に進めなくて諦めたという。
僕はといえば、好きな作家は星新一で、好きな映画は『ショーシャンクの空に』で、好きな漫画はジャンプとチャンピオンとヤングジャンプとヤングマガジンとスピリッツとモーニングだった。僕はその程度の文化パワーの人間だった。
雪村は本当に本が好きで、暇なときには一日一冊くらいのペースで読んでいた。「『雑食なのでなんでも読みます』とか言うやつは信用できねえよ。そういうやつは絶対に大して本を読んでない」と吐き捨てる友人が僕にはいたが、雪村は本当に雑食で、ノンフィクションを除けばなんでも読む女の子だった。小説も漫画も。
その新入生歓迎会の日は、友達が帰るというので、彼女もそれについて早めに帰っていってしまった。僕はもっと残っていってよと頼んだけれど、穏やかに断られてしまった。
次に僕が彼女と話をしたのは、それからしばらく後の教養の授業のときのことで、雪村は教室の最前列に座って、社会学だったか文化人類学だったかの講義を無視してペーパーバックを読んでいた。
勇気を出して隣りに座って(←勇気を出したのだ)、何読んでるの、と彼女に訊ねた。雪村は手に持った本の表紙を見せてくれた。G.R.R.マーティンの『玉座をめぐるゲーム』だった。もちろん僕にはまったくわからなかった。
それからも僕は、折にふれては勇気を出して彼女に話しかけていった。レポートがあるので……と断られてひどく落ち込んだりもしたけれど、ついに僕は彼女を連れて名古屋城にデートにいくことに成功した。名古屋城はつまらなかったけれど、彼女といるのは楽しかった。
これはおもしろかった。本当に。
それからも授業で隣りに座ったり、食事に誘ったりして、僕らは付き合うことになった。僕は実家に住んでいて、彼女は下宿をしていたので、よく彼女の家に泊まって二人で本を読んだり、映画を見たりした。本山にゲオがあったので、近所でレンタルができて助かった。
でも不思議なことに、幸せなことはそんなに長く続かないもので、僕と雪村が二人で東尋坊を見に旅行に行ったとき、泊まった旅館でカニを食べて一緒の布団で寝たあと、彼女は僕の知らない何かに引っ張られて、僕が寝ているうちに布団を出て服を着替えて旅館から脱げ出して、東尋坊の先から海に飛び降りてしまう。
東尋坊では死ねないという話があるけれど、やっぱりそれは嘘で、飛び降りればちゃんと死ぬ。雪村がそれで死んだのだから間違いない。
彼女を失った僕は悲しくなって、雪村が死んだというそのこと自体よりもむしろ雪村が僕に一言も告げずに死んでいったことに鬱々と悩んで、こりゃだめだ、このままじゃ何も解決しない、と思ってそのまま十五の夜ばりにバイクで走り出す。でもそのバイクは別に盗んだものじゃないし行き先もきちんとわかっていて、僕は一直線に福井まで行って、雪村と同じように海にダイブする。そして生きて浮かんでくる。本当に死にたいのなら、そのための飛び降り方をしなければならない。
病院のベッドでしばらく暮らすことになった僕は、とりあえずアマゾンで小説と漫画と学芸書とDVDを注文しまくって、それを片っ端から消費する。雪村が生きていたときにはこの女はまたなんか読んでんなあとしか思っていなかった僕が、いまさらになって雪村の触れていたものたちに目を向け始める。村上春樹を、伊坂幸太郎を、恩田陸を道尾秀介を舞城王太郎を僕は読む読む。雪村のようにペーパーバックをぺらぺらとはいかないが、翻訳者に感謝しながら、ヴォネガットをカポーティをフィッツジェラルドを読む読む。福満しげゆきを藤田和日郎を増田こうすけを読む読む。カントを、デリダを、ヴィトゲンシュタインをホフスタッターをドーキンスを読む読む。そんでDVDはよく考えたら病室じゃ見られねえなと思ってそのままジャケットだけを眺める。いいじゃんアマデウス。時計じかけのオレンジ。タクシードライバー。
そして読みたい本をあらかた読み終えてしまったので、そろそろ家に帰ってDVDでも見るかと思って僕は退院する。退院するために荷物を片付けてきれいな服に着替えて、もう忘れ物はないよな、と思って振り返った病室に雪村がいるのを見て僕はびっくりする。
「いまさら化けて出てんじゃねーよ」と僕は言う。
でも雪村は生きていた頃と同じ顔で、僕がさっきまで寝そべっていた病室のベッドに腰掛けている。いつもと同じように黒い服ばっかりを着ていて、別に幽霊だからって白いベッドが透けて見えたりはしない。
「いやーいいじゃん。嬉しいでしょ」と雪村は言う。
そんな口調じゃねーよ。
職業適性テストみたいなのをやると、大抵は顕著にそんな結果が出ますw
問題は性格上商才もなさそうで、隙間を見つけ出す発想力・想像力といった才もないことか…。
勉強系以外のそういった才能の方が、人生を切り開いていく上では有効だよね。
なので、社会人になってからは他人を尊敬することがすごく増えたよ。
ちょっと話が飛ぶけど、勉強ができることだけが才能じゃない。
場を和ませる、1度見た人の顔を忘れない、気遣いが上手い、人を許せる。
ささやかかもしれないけど、出来ない人にはすごい才能なんだよね。
そんな当たり前の事に歳を重ねるまで気付けなかった自分にびっくりだよ。
キャリアに活かせるかは別にして、みんなそれぞれに様々な才能を持ってる。
小さいことだし、本人には当たり前すぎて気づいてないことも多いけど。
だけど尺度を変えればみんなある意味「できる」人間なんだよね。
人の能力を鑑定して上手くのばして、適材適所で振り分けてくれるシステムがあったらなー。
星新一の設定でありそうな感じで…ってたまに夢見るんだけど。
それに自己プロデュースなんて本来自分でやるべきことなんだろうしね…。
映画の台詞で「人生のある時点で無駄な才能が全て役にたつ」ってのがあったけど。
本当にそんな日が来たらいいのにな。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
今回の倒産は二度目になる
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法の適用に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の両親が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十数年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。実質代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に売られた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が名目上の役員として給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
初めての会社設立
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収700万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
一方の家庭事情
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、まだ妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。色んな事があった。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
* 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?
* いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?
* 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?
* 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?
* 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?
* 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時半に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。そのくせ、感情の整理の為に、一つ一つを思い返して書いていくからそれなりの長文になると思う。しかも、たぶん結論なんてない。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法認可後の後処理に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の父である祖父が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。名目代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に掛けられた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が会社Aの出資者として役員をやっていたため給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。やや、と書いたのは、不可能ではなかったからだ。しかし、社長令嬢でもあり金の少ない暮らしには耐えられない母親が、10万円での暮らしに耐えられたかどうかは、正直厳しいところだったと思う。思えば、これが最大の問題点だったのかも知れない。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収600万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。ここには書けないようなことも。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
ぐぐって概要だけ見るんじゃなくて、実際読んでみて。実際読まないとニュアンスが伝わらないからさ。
今日も会社で上司(40歳ぐらい)が「うちの子どもは漫画ばっかり読んでて想像力が足りない」と言ってたのでふと書いてみる。
同じ物語を綴る物なのに、なんで小説とかは良くて漫画はダメなんだろう。
絵が付いてるから想像力が、という理屈はなら 小説>漫画 だろうけど、その基準で言うと 「小説>絵付き小説>>漫画・絵本>ゲーム>アニメ>>写真・ドラマ・映画>>演劇>>>>現実」 だよね。現実を捨てて空想の世界で生きる? 星新一の話でそんなのがあった気がする。
馴染みがないメディアを叩きたくなる老害的思想は理解できなくはない。私も、携帯世代ではないので携帯小説などは遠ざけてしまう(だからって蔑むつもりはないけど)。でも40歳ぐらいだったら本人も漫画を読んだことある世代だよね? また「昔は良かったが今はダメ」とかも老害的思想のひとつだろうけど、こういうのに単に理由付けしてるだけなのかな。だとしたら馴染みが無くなってきた他のメディアにも言及すると思うんだけど。
漫画(アニメを含めても良いかも。ある程度以上の年齢の人はごっちゃにするし)がやたらと叩かれる理由を知りたい。
思った以上に色々な意見を頂けました。本当に有り難うございます。あまり内容が無くて申し訳ありませんがレスを返してみました。→ http://anond.hatelabo.jp/20090212212624
じゃあこういうのはどう?
星新一のショートショートであったんだけど、宇宙飛行士を目指す2人の少年がいて、一人は運動も勉強も得意、もう一人は勉強だけ得意。両方得意な子はさらに努力に努力を重ねて、大学卒業時には宇宙飛行士候補として事業団へ就職が決まった。卒業式で自分の血のにじむような努力を思い出しながら、勉強しかできなかったあいつを思い出す。あいつも宇宙への情熱はおれに負けてなかったんだけど、運動がダメだったのが残念だったよな、、。あいつは今何をしてるんだろう? おや、今壇上で卒業生代表として卒論を読み上げてるのはあいつじゃないか! どれどれ、最後の部分だけでも聞いてみるか。